【たじまる】 涼しい風景「滝」


八反の滝 豊岡市日高町名色
蒸し暑い時節ですので涼しい風景を。 地元近辺の2つの滝をご紹介します。 「八反の滝」 日高町名色 別荘地と但馬ドームがある。

 

 

 

 

「十戸(じゅうご)の滝」 豊岡市日高町十戸
国道482号 日 ニジマス釣りもできる。戸神社。

弥生6 奴国誕生

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

奴国誕生

2.九州北部「奴国誕生」

1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。 スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。

南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。

当時の天皇は、記紀に

中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。

「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

3.出雲神政国家連合

つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。

荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。

邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。

例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。

ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。

現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。

神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。

神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。

4.四隅突出型方墳


2号墳墓

大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。 山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。

墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。

このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。

造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。

  
西谷2号墳墓

姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。

また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。

出雲西部の荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。

さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。

朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。 楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。

5.統一奴国

初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。

スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。

そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。

この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。

スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。

『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。

また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。

6.スサノオは「砂鉄」を採る男だった

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。 このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。


[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 弥生4 集落(ムラ)の誕生

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

2.弥生文化のルーツは中国亡命人たち

亡命(あるいは新天地を求めて)のために渡来してきた中国の人たちは、大量に一度に日本に渡ってきたのではなく、その後も長い年月に渡って渡来したとされていますが、縄文人に稲作の水田技術と土器に変わる金属器の情報を提供して同化していきました。 もちろん、日本の古代文化は朝鮮半島からの影響や移住があったことは、地形的にも、鉄器の輸入、漢字(文字)の導入などで明らかです。しかし、まず、日本列島の弥生人の骨格が朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨と極めてよく似た形質を持っていることが確認されたこと、稲作の導入の点と日本酒の誕生について、どうしても朝鮮半島説は不自然に思う点があります。また、前出のDNA研究のように日本人の遺伝子はなんと16種類ものDNA研究のように2つパターンを持っていたことが分かってきました。少なくとも2つの民族同士の対立という単純な構図ではないので各地から渡ってきた人々によって日本人独自のDNAを持っていることが分かってきました。

そのような研究から、秦が国家統一を果たす以前には朝鮮半島も倭国(日本)もまだクニと言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が伝わった時代は大差がないと考えられますし、東アジアという朝鮮半島のみ日本人のルーツとこだわるのは生産的ではありません。

上記の弥生人の特徴は北部九州に高い比率で分布し、北部九州以東、中部、関東まで点々と発見されています。福岡県板付遺跡では、朝鮮半島系の煮炊き具が他の集落よりも多く使用しています。この頃板付式土器を使わない環濠集落は廃絶するものが多かったのですが、板付遺跡は一層栄えていきます。

板付遺跡は、従来なかった水田適地に、縄文系の人々と渡来系の人々が共同して営んだ進出型環濠集落です。長い時間をかけて混血して、新しい形質をもつ人々の人口とその影響力が増加していき、「渡来系弥生人」になった可能性が高いとされています。

このようなシナリオが実情に近いなら、弥生時代の始まり頃の渡来人は、当時の縄文総人口に比べてごく少数であったものが、その知識と遺伝子は再生産されて、弥生時代は東アジア交流に基づいて、文化の多くの分野において大きな変革がなされた大変革時代です。その契機は、おそらく中国からの少数の人々の渡来にあり、日本列島の歴史に大きな影響を与えることになりました。その変革は一気に達成されたのではなく、北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。

4.集落(ムラ)の誕生

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がみつかっています。 弥生時代中期前半には、北九州一帯の人口が急増し、「邑(ムラ)」単位から共同体になり、いくつかの共同体がさらに地域国家が形成されるようになります。「ムラ」は群れ(ムレ)から派生したといわれています。初めて王が生まれたのは、九州北部の奴国と伊都国の2カ所とみられています。最初の弥生人が列島に降りたってから約900年後の紀元前50年ごろのようです。最初の王になったのはその最初の弥生人の子孫かというと、どうもそうではないようです。弥生の王は、農具はもたらしましたが、自衛のために武装するという発送はあまりなかった。しかし、弥生の王は、青銅器の武器で身を飾っっていたことが墓の発掘調査から浮かび上がります。第一次弥生人が運んできたものは、ほとんどが朝鮮半島製なのに対して、王の手元には鏡など中国製の物品が目立ちます。

5.王の誕生

弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」

しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。

血筋など関係のない実力主義だから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。

リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。

首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。

6.政 治

弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。 しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。

また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。

「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信

たじまる 弥生3 弥生時代のくらし

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弥生時代のくらし

目 次

  1. 稲作と技術の伝播
  2. 日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡
  3. 道 具
  4. 「ハレとケ」

1.なぜ縄文人は稲作に興味を示さなかったか?

 弥生時代は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に続き、古墳時代に先行し、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住したことによって始まったとされてきました。 しかし、近年になって縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていますことが判明し、また水稲です温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていましたことも判明しつつあり、稲作も弥生時代の始まりもはっきりと定義できない状態です。近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきています。

青森県三内丸山遺跡をはじめとする近年の発掘調査の結果により、縄文文化は想像以上に高度な文化をもっていたことが判明し、縄文観を根本から見直さなければならなくなった。世界四大文明と呼びますが、日本文明をそれらに並ぶ文明として位置づけなくてはならない可能性も出てきたのです。縄文人がすでにコメをつくっていたこともほぼ確実となり、弥生時代の始まりを単に「稲作の開始」と定義することができなくなりつつあります。

日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。

しかし、縄文晩期になると再び寒冷化が起こり、環境が変化して自然の生産力が低下しました。このような時期に大陸から水田稲作と金属器の高度な技術が入り、それを契機として、縄文人も重い腰を上げて稲作に着手することになりました。

では縄文晩期において縄文人の食糧事情が極度に悪化したかというと、そうではないようです。縄文晩期の貝塚に鳥獣の個体が増える形跡はないし、そのころの縄文人の骨や歯に、成長が止まるような生涯は観察されていません。寒冷化によって自然界の生産力が低下したとはいえ、縄文人の食糧事情が極度に悪化したことはないといえます。

すると、縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。それまでに蓄積した知恵と技術をもって、急速に水田を開拓しました。縄文時代から弥生時代への移行は数百年のうちに本州北端まで伝搬し、西日本と東日本でほぼ同時であったことが明らかにされています。

3.稲作と技術の伝播

 紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がりました。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されており弥生時代のはじまりです。弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。 また、稲の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていましたが、

  • 遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
  • 朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点
  • 極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されない ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。

「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
 協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎(べんざぶろう)編「日本の酒の歴史」から引用する。 いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

  • (1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
  • (2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
  • (3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)
    第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。
 江南というのは、今の中国の揚子江以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。たまたま『魏略』逸文に見える倭人の記事の一節に「其ノ旧語ヲ聞クニ自ヲ太伯ノ後ト謂フ」とある。これは、倭人のなかには呉の太伯の後裔、言い換えれば江南の人を祖先に持つという伝承があるという意である。この伝承は、江南からの稲作文化渡来の有力な裏付けとされている。
しかし、ある日突然稲作文化を携えた多くの人々が、一時に日本へ渡ってきたわけではなくて、これら大陸の農耕文化の波のうち、最も大きなうねりの一つが江南地方からのそれであったと考えてよい。それ故、「日本酒」造りの原型は、この稲作文化を構成する要素のなかから見いだすことができる。水稲耕作は、農業のなかでも最も高度な栽培技術を要求されるばかりでなく、自然条件をうまく利用しなければならない。したがって、昨日まで山野を駆け回ってシカやイノシシを追っていた狩猟民に、いきなり播種、灌漑、施肥、耕作、除草、収穫など一連の稲作技術を必要とする水稲耕作民に変身しろといわれても、それは少し無理な話である。 では、江南ルートによって北九州に持ち込まれた水稲耕作を一体誰が受け止め、受け継いだのでしょうか。この解答は地中から出土した土器が用意してくれていた。というのは、縄文晩期の夜臼式土器文化圏内に、弥生前期の板付式土器が互いに絡み合って発掘された。このことから縄文晩期の狩猟・どう耕民族的生活のなかに、水稲耕作技術が伝播して次第に水稲農耕民へと移ってゆく過渡期の姿を読みとることができる。したがって、日本の弥生文化は大陸で組み立てられてから渡ってきたものでなくて、時を違えてルートを異にし、バラバラに入ってきた文化的諸要素が日本というるつぼの中で融け合い、複合体として形成されたものである。
 「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、 弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。

としています。

  • 黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
  • 渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。
  • 東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。
  • 朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。
  • 韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。

したがって、弥生文化は、朝鮮半島からの移民だけだと考えるのはどうもおかしいのではないだろうかと思います。日本に稲作文化をもたらしたのは、中国江南から移住した弥生人だと思われるからです。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

2.日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡

 福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡である。国の史跡。
竪穴式住居や水田が復元された公園になっており、資料館もある。佐賀県唐津市にある菜畑遺跡と共に日本最古の水稲耕作跡である。 佐賀県唐津市の西南部にある菜畑遺跡(なばたけいせき)は、板付遺跡と共に日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡である。縄文時代晩期後半から弥生時代中期までの水田遺構が検出された。縄文時代晩期後半に入ると谷底平野の斜面下部や低地の縁辺で、陸稲的な状況でイネの栽培が始まった。縄文時代晩期終末に入ると雑草の種子は大半が水田雑草で占められる。弥生時代前期の地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘され、これは縄文時代後期、今から2500年から2600年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。遺物の土器は、これまで最古とされていた板付遺跡の夜臼式土器よりも少し古い山ノ寺式土器であった。炭化米も250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが分かっている。

2.道 具

 弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができます。 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作りました。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削されました。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使いましたが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになりました。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられました。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられました。

青銅器は大陸から北部九州を中心とする地域では銅矛(どうほこ)や銅剣(どうけん)・銅戈(どうか)などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸(どうたく)がよく知られています。

北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始されました。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられていますが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわかっていません。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高いです。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかります。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できます。

一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられますが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌(ぜつ)を内部につるして鳴らすものとして用いられましたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられています。また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになりましたが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられました。このように、大型の青銅器は出現当初を除いてほとんどが祭祀に用いられるものでした。このほかに鋤先(くわさき)などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられますが、大型の青銅器に比べて非常に少量です。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)を除き、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産されました。青銅器の鋳型は、列島での初期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは、主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られます。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになります。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられています。

一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられていますが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多いです。

コメの他にもう一つ、弥生時代と縄文時代を大きく分けるものとしてはがあります。鉄もコメと同じように大陸からやってきました。かつては水田耕作と鉄は同時に到来したと考えられてきました。水田を開発するためには鉄が必須とであると思われていたからです。豊になった富を狙って鉄は武器として使われ、弥生時代は縄文時代と異なり、最初から戦争の時代だったというのも半ば常識でした。ところが最近の研究では、鉄の方が数百年も遅れてやって来たことが判明しました。弥生時代前半には小競り合いはあったとしても、殺戮を伴う戦争はあまりなかったようです。

製鉄の技術を知らない弥生人は、少ない鉄器をリサイクルして大切に使う一方で、縄文以来の石器も当たり前の道具として利用し続けていました。鉄器がなかなか広がらなかった理由としては、少数のグループが技術と物流を抱え込んでいたことが大きいのです。鉄器の原材料は半島から持ち込まれていたのですが、それを運んだのは実は半島の人ではなく日本に住む弥生人でした。韓国釜山市で見つかった鍛冶炉のまわりから出る土器の94%が、なんと九州北部の人々が使っていたものと同じだったのです。九州北部の弥生人は、原材料の現地生産・輸入・日本での加工、そして流通まで担っていたことになります。

こうした特権を持つ人々は力を集約していきました。弥生時代の前期が終わるとされる紀元前4世紀ごろに、鉄や青銅器の武器などを使った戦闘が九州北部を中心に繰り広げられるようになりました。そして、紀元前50年頃までに日本で初めての王が、奴国(ナコク)と伊都国(イトコク)(いずれも福岡県)に登場したと考えられます。階級社会の誕生はコメではなく鉄によって生まれたといえます。

鉄はもともと武器として使われたわけではありません。最初は斧や鍬であり、狩猟に使う矢じりとして使われました。おそらくこの狩りに使う弓矢が、まず人を殺す武器に転用されていったのでしょう。戦国時代に伝来した鉄砲も、最初は合戦用ではなく、狩のための道具でした。計画的に稲作を行っていた弥生人は、隣りに豊かな人がいるからといって、本能としてすぐに襲いかかるような野蛮な性質とは思えません。特に日本では、縄文と弥生がゆっくりと統合していったように、「和」の価値観の強い世界でした。

3.「ハレとケ」

 「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表しています。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)といいます。 ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別しました。ところで、葬式をハレとするか、ケガレとするかということがあります。一般通念では葬式は不幸ごとであり、結婚式などのお祝いごとと区別したくなるところですが、桜井氏をはじめとする民俗学者の多くは、葬式に赤飯を炊いていたと思われる民俗事例や晴れ着を着て喪に服した民俗事例などを念頭に、「非日常」という点で葬式もハレだとしています。しかしながら、いずれの立場も理論が十分でなく、なぜ葬式がケガレであるのかについて説明しきれていません。

日本において葬祭として葬儀と祭事を分けてきましたが、元々の漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことによって明確な区別が無くなったとの説もあります。

日本神道では、塩が穢れを祓い清める力を持つとみなします。そのため祭壇に塩を供えたり、神道行事で使う風習があります。また、日本においては死を穢れの一種とみなす土着信仰(神道に根源があるという)があるため葬儀後、塩を使って身を清める風習があります。これは仏教式の葬儀でも広く行われますが、仏教での死は穢れではないとして葬儀後の清めの塩を使わない仏教宗派もあるそうです。

日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは「魏志倭人伝」(弥生後期、三世紀前半)です。当時の倭国(日本)について、

「人が亡くなると十余日喪に服し、その間肉類は禁じ、喪主は号泣し、他人は歌舞飲酒ス。…その会は父子男女別なく同座し、人酒を嗜む」

と書いてありあります。これが米から造られた日本酒の最古の記録です。元々漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことのもこの頃からではないでしょうか。紹興酒の故郷は中国江南です。

いずれにせよ、今も約二千年前の昔も日本のお葬式の風習は大差ないですね。それだけ延々脈々と受け継がれてきた日本人の文化は古くから確立していたようです

参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信
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弥生2 弥生人はどこから来たのか

弥生人はどこから来たのか

1.弥生時代の新たな研究


画像:大中遺跡 兵庫県立考古博物館

具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代です。 小さな村落からなる国家出現としての日本と日本人というオリジナルな文化を形成するべき、実に重要な歴史区分の一つです。最近では縄文時代からすでに大陸とのつながりがあった形跡が見つかっています。縄文から続く大陸とのつながりは、この時代に加速度を増し、混沌と複雑味を増してくるのです。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれました。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされています。

このような争いを通じて集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれました。1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられました。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれました。

水田稲作の本格的な開始という形で定住化がすすみ、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国や朝鮮半島からの交流が活発化する中で充実していきました。中期になると、銅鐸(どうたく)という謎の多い青銅器が現れて消えていきます。

弥生変革が生じた背景には、海を渡って渡来した人々があり、在来人と混血したであろうと想定されてきました。しかし最近では、大陸や島伝いに人びとの流入はあったかもしれませんが、このような大量の民族移動は比定されています。縄文時代にも世界でも古い土器や稲作がおこなわれていた遺跡も発見されてきました。

早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となります。

  • 早期(紀元前1000年頃から紀元前800年頃 中国西周王朝の成立と東方進出)…環濠集落・水田稲作の本格開始
  • 前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃 中国戦国時代の開始)…朝鮮系青銅器の本格採用
  • 中期(紀元前400年頃から紀元50年頃 前漢王朝への偉使の開始)…朝鮮半島の権力争い。中国鏡の本格採用
  • 後期(紀元50年頃から三世紀中頃:初期ヤマト政権の成立)…前方後円墳の出現 と4つに分けられますが、弥生時代から古墳時代への移り変わりは、縄文時代や弥生時代が基本的にはそれぞれの時代に用いられた土器によって設定されたものであるのに対し、古墳時代は古墳という大きな墳丘の出現を基準に設定されています。古墳時代以前の弥生時代の終わり頃になると、もう古墳と呼んでも一向に差し支えないような大きな墳丘をもつ墳墓が各地に出現していきます。たとえば、中国地方から北陸地方にかけて、方形の墳丘墓の四隅を突出させた「四隅突出型墳丘墓」という特異な形態の墳丘墓が数多く営まれています。ヤマト政権があらわれ日本(やまと)という国が誕生するまでの古墳時代に入るこの時代に何が起こったのでしょうか。とても興味が尽きないばかりか、縄文時代から弥生時代へとスムーズな流れでとらえることが困難なことがわかってきました。そこで弥生時代を大陸渡来と謎の銅鐸をひとつの区分として加え、弥生早期、前期を出雲、中期を銅鐸、後期を但馬(たじま)の国の祖とされる「天日槍(アメノヒボコ)」の4つに分けて、素人なりに考えてみたいと思います。

1.弥生時代のはじまり

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった時代です。紀元前473年、中国が戦乱時代であったために、それから逃れた人々が順次日本列島にやってきたと考えられています。まず中国の春秋戦国時代に江南地方(長江以南)から、南西諸島を伝って南九州に上陸し、秦の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。 紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

それではなぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのでしょうか。

当時、縄文海進から水位が下がりはじめたとされていますが、外洋航海は、大変危険なもので、出航した人々の一部しか、日本列島にたどり着けなかったものと考えられます。したがって、平和時に、多くの人々が、このような危険なことをするということは考えられず、中国に、何か大事件が起こったためと考えられるのが自然です。

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。

北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

「呉の太伯の子孫」というのは日向地方に住んでいた人々のことではないかと考えられます。

弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられるますが、弥生時代前半の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられるのです。このような場合、縄文人との対立は考えにくく、むしろ融和的に稲作や土器、木製品などの新技術を教えて溶け込んでいったのではないでしょうか。

日本列島にわたってきた弥生人は、住めるところを探して移動していったために、船を使って海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになりました。

このような人々によって、多くの技術がもたらされ、大変革をもたらし弥生時代が始まったと考えるのです。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていません。これは、このような状態で逃げてきたわけですから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断されます。

縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、戦争による勢力拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな統合だったのです。

2.弥生人はどこから来たのか?!

それでは弥生人はいったいどこから来たのでしょうか?

いまだよく分かっていませんが、同じく倭人と呼ばれる人々が暮らしていた中国江南の紹興を中心とした地には、古くから「越人」と呼ばれる人たちが住んでいました。紀元前473年には越は呉を滅ぼした。

しかし、紀元前334年、楚(ソ)の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡しますが、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑されました。こうして越は楚に滅ぼされました。

一部の越王族が現在の福建省に逃れ弱小勢力になっていましたが秦に滅ぼされてしまいました。一説ではベトナム(越南)は南下した越部族の末裔と称しています。また、越人たちは航海術にすぐれていて、海岸づたいに朝鮮半島へ行き、半島南部に住み着く者、または海を渡って直接日本へ亡命する者(ボートピープル)が続出したようです。

かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。

山口県豊北町の響灘に土井が浜遺跡があります。この遺跡から出土する弥生人骨は保存状態が良く、発掘は九州大学の医学部解剖学教室の金関丈夫(形質人類学)教授と日本考古学協会の手で行われました。

縄文人

時期や地域による変異は顕著ではない。顔は上下がやや寸詰まりで幅が広く、骨太で、顔の幅が広く寸づまり、鼻や眉間が高くて彫りが深い、歯が小さいが顎は頑丈で、上下の前歯の端を毛抜き状に噛み合わせる。体毛が濃い。平均身長は成人男性で158cm前後、成人女子は150cm未満と小柄。南方系「古モンゴロイド」弥生人地域的な変異が顕著、顔はやや面長で、鼻が低いのっぺりとした顔立ち、歯は大きく、上の前歯が下の前歯の前に重なるはさみ状の噛み合わせ。体つきは手足が長く、成人男性の平均身長は163cm前後、成人女子で151cm前後とやや高身長。北方系「新モンゴロイド」 土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。

彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、戦乱を逃れて日本に亡命してきたボートピープルだったことが裏付けされたのです。
「土居ケ浜遺跡人類学ミュージアム」によりますと、

九州・沖縄と山口では弥生人の顔・かたちに地域差が認められ、人骨の特徴から1、北部九州・山口タイプ、2、西九州タイプ、3、南九州・南西諸島タイプの三つのタイプに分けることができます。
「北部九州・山口タイプ」の弥生人は、顔が長く、鼻が低く、鼻の付け根(鼻根部)が扁平で、身長は、男性の162cm~164cm、女性は150cm程度で、高身長です。「西九州タイプ」の弥生人は、顔が短く、横幅は広く、眉の部分が盛り上がり鼻骨が付け根から高く隆起し、顔を横からみると鼻根部が深く陥凹しており、ホリの深い容貌をしていました。

推定身長値は、男性が約158cm、女性は148cmで、男女とも低身長です。「南九州・南西諸島タイプ」の弥生人は、頭や顔が小さく、頭を上から見た形が、限りなく円に近い形をしています。
身長は著しく低く、男性で153cm~155cm、女性では143cm程度しかなく、きわめて小柄な弥生人でした。三タイプの弥生人のうち、「西九州タイプ」の特徴は、実は縄文人の特徴なので、「西九州タイプ」の弥生人は、縄文人直系の弥生人と考えられます。

一方、「北部九州・山口タイプ」の弥生人には縄文人的特徴がみられないことから、彼らは、日本列島に弥生文化をもたらした渡来人ではないかと考えられてきました。
しかし、この仮説は証明されたわけではありません。検証するためには大陸の古人骨、弥生時代の初め頃か、それよりもやや古い時期、日本でいえば、縄文時代の晩期から弥生時代前期のおよそ2,500年から2,300年前頃の古人骨、中国でいえば周代の末の戦国時代から、蓁・前漢時代の人骨の特徴を明らかにしておく必要があります。

これらの人骨群は、北部九州・山口の弥生人にそっくりでした。この事実から、「北部九州・山口タイプ」の弥生人のおおもと(ルーツ)が大陸にあるということはほぼ間違いないと思われます。
しかし、山東省の人骨が「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ていることがわかったからといって彼らは、山東省から来たのだ、ということにはなりません。
現時点では、あくまで、中国大陸のなかに「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ているものがあったから、彼らの起源は大陸にあるといってもいいだろうということが言えるに過ぎないのであって、どこから直接渡って来たのかという問題はまだ未解決です。

7.縄文+渡来=弥生?

日本列に人類が住み始めて何万年というゆったりとした流れのなかで、弥生時代は急速に文明化が進みます。カルチャーショックをもたらした原因は、自然発生的に国内から生まれ発展したと考えることは無理があります。

それは統一国家 秦(シン)の始皇帝による王朝のころには、倭(ワ・やまと)国も百済や新羅・加耶といった国もまだ生まれていないはるかに以前の時代です。朝鮮文化が伝わったと考えるのではなく、秦から朝鮮半島と日本列島にほぼ同時期に、あるいは朝鮮半島を経由して伝わった、「徐福」に例える先端文明をもった集団の渡来であったと考えるのです。

九州北部や出雲・吉備・丹後・越などクニが生まれていきます。徐福伝説が各地で同時に作られ伝わっている意味は、ルーツが同じ人々がそれぞれの新天地に共通の歴史を残し、またさらにその一族から別の土地に移住を繰り返していったことを示しています。

浦嶋太郎・桃太郎・鬼退治・土蜘蛛伝説、ククヒ(鳥取部)など、それらは徐福とされる呉や越人、朝鮮王族が縄文人を野蛮人として苦労しながら同化していったような話です。神話や民話として語り継がれ、日本書紀には天孫降臨や神武東征にすり替えられて記されているのではないかとも思えます。

日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。

縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。

しかし、縄文海進により、弥生時代にはすでに現在の日本列島の姿に近く、大陸から船で渡ってくることはそんなに簡単ではなかったと考えられます。早い時期に渡来人が移住したと考えられる北部九州・瀬戸内海・近畿地方ですら、弥生初期の遺跡から渡来系とされる人骨の出土は少ないので、水田稲作の先進地域でも縄文人が中心となっていたことが想定されます。また、少数を除くと、縄文人の戦傷例がないことからも、弥生人対縄文人の大規模な先島はなかったといえます。日本列島に住んでいた旧石器からの縄文人が、少数の渡来人がもたらした、より進化した道具や栽培方法などの文化的影響のもとで農耕社会へ移行したと考えるべきでしょう。

たじまる 弥生1 弥生時代の研究

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弥生時代の研究

 弥生時代とは、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称です。

弥生時代の暦年代は、近年、自然科学の年代測定の進歩によって新しい情報が増えています。

研究が進んでくると、時代の過渡期の様相は極めて複雑で、時代区分についても多くの見解の相違が出てきています。

弥生時代については、現在もどの段階を始まりと終わりと考えるかについて、いろいろ意見がありますが、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。

これによると、

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の三期に分けられていましたが、近年では上記の研究動向をふまえ、

  • 早期(紀元前1000年頃~紀元前800年頃)
  • 前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃
  • 中期(紀元前400年頃~紀元50年頃)
  • 後期(紀元50年頃~三世紀中頃)の四期区分論が主流になりつつあります。しかし、一口に弥生時代といっても、1200年間というと、時代区分の平安時代(794~)から現代までをひとまとめにするようなもので、狩猟時代から稲作がはじまり、クニが誕生するまでの、とても長く、未知な世界です。つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

    出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。こうした最近の研究成果や遺跡・遺物など文献資料にとどまらず、神社や神話・説話など、境界を越えたさまざまな交流の上に展開した日本列島諸地域の古代史を多元的に明らかにするというテーマで、探ってみたいと思います。環日本海の古代史…その大きな謎とロマン(そんなたいそうな(;^_^A
    近年、青森・三内丸山遺跡、島根加茂岩倉遺跡、荒神谷銅鐸、鳥取・大山町、淀江町にまたがる妻木晩田遺跡など、
    新しい発掘によって、古代の人々は、日本海沿岸はもちろんのこと、
    朝鮮半島や中国大陸と自由に航海し、交易していたことが実証されてきました。
    江戸時代まで続いていた北前船も、古代から続いてきた「いにしえの文化遺産」であったといえるでしょう。これからも新しい事実が調査によって解明されていくたびに日本史は、新たな事実に塗り代えられていきます。インターネットによる資料公開は、新しい感動を与えてくれます。だからこそ、歴史は興味が尽きないのでしょう。

  • 但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
  • 但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
  • 全国でも稀な粉々に破壊された銅鐸片
  • 社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。 そこで生まれ、ずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることも無駄ではないと思うのです。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、
    そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。

但馬の人物 斎藤隆夫

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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斎藤隆夫


概 要

目次

  1. 生い立ち
  2. 政治家としての軌道
  3. 粛軍演説
  4. 太平洋戦争突入

1.生い立ち

斎藤隆夫の生地・兵庫県豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。

明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。

明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚しました。

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2.政治家としての軌道

1912年(明治45年・大正元年)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。
立憲国民党より総選挙に出馬。そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が、金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に斎藤を応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。
「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。▲ページTOPへ

3.粛軍演説

斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。

  • その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説であり、
  • その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
  • また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
  • その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
    彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。
    1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、
    「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、
    「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。
    この事変の目的はどこにあるかわからない。」
    の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
    反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(にち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。■斎藤隆夫記念館「静思堂」斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。

    兵庫県豊岡市出石町中村 TEL.0796-52-5643

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4.太平洋戦争突入

 五・一五事件の後、後継首相に指名されたのは政友会総裁ではなく、海軍の穏健派とされていた斎藤実前朝鮮総督でした。斎藤内閣以降、総理となったのはほとんどが軍人・官僚の出身者で、政党から入閣する者はあってもその数は少なく重要ポストは与えられませんでした。軍部は事実上組閣を左右しました。
日中戦争の勃発は、国内における物資、人員の統制と動員を必要不可欠にしていきました。近衛内閣は総力戦体制確立のために、37(昭和12)年十月に企画院を創設した他、38(昭和13)年には国家総動員法と電力国家管理法を成立させました。こうした近衛の姿勢を最も強く支持していたのは社会大衆党でした。また近衛は1938(昭和13)年を通じて既成政党を排除し、無産政党や革新閣僚などこれまでは議会外であった勢力を糾合して新党を作ろうとしましたが、日中戦争解決の機を見いだし得ず、近衛内閣が解散したため、一時沈静化しました。
近衛の後任には、平沼騏一郎が首相になりました。アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、ソ連はノモンハン事件で決定的敗北を被りました。こうして日米、日ソの関係は行き詰まり、この内閣は一貫して日独伊防共協定の強化に活路を目指しました。しかし英米との関係を重視する海軍の一貫した反対のために膠着状態に陥っていました。
ところが39(昭和14)年8月、突如として独ソ不可侵条約が締結されたため、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という文句を残し、内閣は総辞職しました。
1940(しょうわ15)年春、ドイツの電撃的なヨーロッパ大陸での勝利(オランダ・フランスの敗北)のため、速やかな日独伊三国同盟締結と力の真空が生じた南方への進出をパッケージとした政策の変更を望む声が強まりました。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、言論の場としての議会はさらに機能が低下して、1940年2月に軍部批判の演説をした斎藤隆夫は同僚議員によって議会から除名されてしまいました。代わって各派の議員によって聖戦貫徹議員同盟が組織され、政党の解消を主張し始めました。彼らが期待した近衛文麿が新体制運動の乗り出すと、近衛の運動に合流すべく各政党は次々と解党していきました。
10月12日に近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足すると議員は翼賛会の議会局に属しました。
本土決戦を控えてさらに強固の国内体制を作る必要があるとして45年3月には翼賛政治会(翼政会)が解散して大日本政治会(日政)が結成されました。しかし日政に結集した議員は353名で、他に護国同志会、翼賛議員同志会、無所属などに分かれ完全な一元化はできませんでした。
第二次近衛内閣は、松岡洋右が外相となり、40(昭和15)年9月に三国同盟を締結させると、翌41(昭和16)年4月には日ソ中立条約を成立。ドイツ、ソ連との関係をもって初めて対米交渉が可能になると考えていました。
しかし40年の北部仏印進駐、次いで41年南部仏印進駐により、日米関係は決定的に悪化します。特に後者では、在米資産の凍結及び石油の輸出禁止処置がとられ、日本は逆に窮地に追い込まれてしまいました。
41(昭和16)年9月、戦争を主とし外交を従とする「帝国国策遂行要領」に異論を唱えたのは、他ならぬ昭和天皇でした。御前会議の前日、天皇は杉山元参謀総長らに厳しい質問をあびせ叱責しました。また9月6日の御前会議でも自ら質問の立とうとされました。しかし近衛首相と木戸幸一内大臣が、天皇と軍部との直接対立を懸念した結果、原嘉道枢密院議長が天皇の質問を代行しました。それでもなお昭和天皇は、明治天皇が日露戦争を前に平和を願って詠んだ歌を詠み上げ、自ら平和への意志を明確にされました。
にもかかわらず会議の結論は変わりませんでした。日米開戦をめぐる最終段階の十月、近衛内閣は総辞職します。開戦への自信はなく和平の見込みもなければ、例によって内閣を投げ出す以外の術はありませんでした。後任は東条英機陸相に決まりました。東条は陸軍官僚制をエリート軍人として上りつめ、政治性に富んだ人間ではありませんが、与えられた課題をきちんとこなすタイプでした。官僚としては誠に優秀だっったのです。東条にとっては一たび内閣と軍部との交渉により開戦への一致が見られれば、あとはひたすら開戦へむけて事務処理を勧めていくだけでした。そこに抜かりがない限り、「立憲君主」たる昭和天皇が異論を挟む余地はありませんでした。
東条は、優秀な官僚はかくもあらんとばかり、天皇にきめ細かく長い時間をかけて戦争と政治の情報を上奏したのです。さらに戦争事務の遂行上、東条は首相の他、陸相、内相、軍需相はおろか、挙げ句の果てに参謀総長まで兼務するに至りました。また議会も42(昭和17)年の翼賛選挙により一応押さえ込むのに成功します。
東条のリーダーシップは、戦局が有利な限り発揮され続けますが、敗北が重なり、43(昭和18)年夏からの戦況の悪化を受けて、皇族や重臣の間で東条内閣打倒工作が開始されます。44(昭和19)年になると議会にも東条批判が見られるようになり、サイパンにおける敗北を契機に東条内閣は総辞職します。
それでも三年余りの間、東条内閣はよく持ったといえるでしょう。続く小磯国昭は和戦の好機をつかめず、45(昭和20)年4月、鈴木貫太郎内閣と交替します。木戸内大臣は終戦へ向けて個別拝謁を始めます。有名なのは二月の近衛上奏文で、近衛は満州事変以来の戦争戦略はすべて革新的軍人と共産主義の共謀によるもので、革命とならぬよう注意すべしと述べています。一種の陰謀史観です。開戦直前まで革新派の計画に乗ぜられた自分は、今こそ革命を防止するために立ち上がるというのがその主張でした。これには吉田茂らが深く関与していました。
鈴木内閣が終戦を決定するまでには、なお四ヵ月を要しました。空襲ただならぬ状況の中で、重臣始め宮中グループ、帝国議会、そして内閣と軍部もまた、いかなる形での戦争終結をはかるか、決め手を欠いていたからでした。広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦という最終段階においてなお、8月10日のポツダム宣言の受諾をめぐって二分されました。国の存亡をかけた危機状況において、天皇の判断が求められた結果、終戦の決定がなされました。8月14日の御前会議において決定に変わりないことを確認します。ここに戦争は終わりました。
さて敗戦からの復興に当たって、実は日本は首相への人材を見事に育んでいたことがわかります。戦争中は東条の後に適格者なしと言われ、また二・二六事件以降、近衛以外はアドホックな人材の起用が続きました。これに対して、戦後は戦時中に避けられていた人々が次から次へと政権の座に就きました。幣原喜重郎、吉田茂、芦田均、鳩山一郎など、彼らがいたからこそ、間接占領が可能となったのです。彼らはいずれも十五年戦争期の大半を、権力から遠く離れて、抑圧されて生活を送っていました。もはや軍人の時代でも華族の時代でもありませんでした。▲ページTOPへ参考:『但馬の百科事典』フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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日露戦争

日露戦争

1.日露の対立

大韓帝国成立後、朝鮮における日本の勢力は後退し、ロシアの勢力が強まりました。日本はロシアと妥協しながら経済的優位を確保しつつ、韓国に対する支配の強化と中国東北の満州への経済的進出を試みました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。
ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、満州全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図り、さらに韓国への進出を試みました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

2.日露戦争

日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日 – 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争。

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。各国の思惑と戦費調達南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。

日本海海戦

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。旅順攻略、奉天会戦へ。戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

講和へ

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。

さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。

しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。

当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がりました。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もあります。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになりました。

3.東郷 平八郎と肉じゃが

弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

肉じゃが

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。

海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。

  • 1. 油入れ送気
  • 2. 3分後生牛肉入れ
  • 3. 7分後砂糖入れ
  • 4. 10分後醤油入れ
  • 5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
  • 6. 31分後玉葱入れ
  • 7. 34分後終了発祥の地論争京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
    根拠は、
  • 舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
  • 呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。としています。
    なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

たじまる 鎌倉-3

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

    7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

    その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。 聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

    この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

    地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

    ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

    8.安達親長

    安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

    源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

    9.源頼光と頼光寺

    3.頼光寺(らいこうじ)

    曹洞宗 但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

    頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
    気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

    10.太田氏の繁栄と滅亡

    むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

    ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

    その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

    昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

    前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

    このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

    昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

    以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

    武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

    11.大岡山と進美寺

    東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。 古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

    日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

    山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

    『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

    大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

    山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

    大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

    進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

    但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

    しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

    大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

    12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


    十二所神社 豊岡市日高町松岡

    承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

    雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

    「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」
    といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、
    「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

    と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

    この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

    今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

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