歴史。その真実から何かを学び、成長していく。 |
伝説 | 先史 | 縄文 | 弥生 | 出雲 | 銅鐸 | 日槍 | 古墳 | 飛鳥 | 奈良 | 平安 | 鎌倉 | 室町 | 戦国 | 近世 | 近代 | 現代 | 地方 | 鉄道 | 写真 | SITEMAP |
近代 | 憲法色(けんぽういろ)#543f32 | 最初のページ|戻る|次へ |
斎藤隆夫
概 要 | ||
|
1.生い立ち |
斎藤隆夫の生地・兵庫県豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。 明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。 明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。 |
2.政治家としての軌道 |
1912年(明治45年・大正元年)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。 立憲国民党より総選挙に出馬。そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が、金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に斎藤を応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。 「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。▲ページTOPへ |
4.太平洋戦争突入 |
五・一五事件の後、後継首相に指名されたのは政友会総裁ではなく、海軍の穏健派とされていた斎藤実前朝鮮総督でした。斎藤内閣以降、総理となったのはほとんどが軍人・官僚の出身者で、政党から入閣する者はあってもその数は少なく重要ポストは与えられませんでした。軍部は事実上組閣を左右しました。 日中戦争の勃発は、国内における物資、人員の統制と動員を必要不可欠にしていきました。近衛内閣は総力戦体制確立のために、37(昭和12)年十月に企画院を創設した他、38(昭和13)年には国家総動員法と電力国家管理法を成立させました。こうした近衛の姿勢を最も強く支持していたのは社会大衆党でした。また近衛は1938(昭和13)年を通じて既成政党を排除し、無産政党や革新閣僚などこれまでは議会外であった勢力を糾合して新党を作ろうとしましたが、日中戦争解決の機を見いだし得ず、近衛内閣が解散したため、一時沈静化しました。 近衛の後任には、平沼騏一郎が首相になりました。アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、ソ連はノモンハン事件で決定的敗北を被りました。こうして日米、日ソの関係は行き詰まり、この内閣は一貫して日独伊防共協定の強化に活路を目指しました。しかし英米との関係を重視する海軍の一貫した反対のために膠着状態に陥っていました。 ところが39(昭和14)年8月、突如として独ソ不可侵条約が締結されたため、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という文句を残し、内閣は総辞職しました。 1940(しょうわ15)年春、ドイツの電撃的なヨーロッパ大陸での勝利(オランダ・フランスの敗北)のため、速やかな日独伊三国同盟締結と力の真空が生じた南方への進出をパッケージとした政策の変更を望む声が強まりました。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、言論の場としての議会はさらに機能が低下して、1940年2月に軍部批判の演説をした斎藤隆夫は同僚議員によって議会から除名されてしまいました。代わって各派の議員によって聖戦貫徹議員同盟が組織され、政党の解消を主張し始めました。彼らが期待した近衛文麿が新体制運動の乗り出すと、近衛の運動に合流すべく各政党は次々と解党していきました。 10月12日に近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足すると議員は翼賛会の議会局に属しました。 本土決戦を控えてさらに強固の国内体制を作る必要があるとして45年3月には翼賛政治会(翼政会)が解散して大日本政治会(日政)が結成されました。しかし日政に結集した議員は353名で、他に護国同志会、翼賛議員同志会、無所属などに分かれ完全な一元化はできませんでした。 第二次近衛内閣は、松岡洋右が外相となり、40(昭和15)年9月に三国同盟を締結させると、翌41(昭和16)年4月には日ソ中立条約を成立。ドイツ、ソ連との関係をもって初めて対米交渉が可能になると考えていました。 しかし40年の北部仏印進駐、次いで41年南部仏印進駐により、日米関係は決定的に悪化します。特に後者では、在米資産の凍結及び石油の輸出禁止処置がとられ、日本は逆に窮地に追い込まれてしまいました。 41(昭和16)年9月、戦争を主とし外交を従とする「帝国国策遂行要領」に異論を唱えたのは、他ならぬ昭和天皇でした。御前会議の前日、天皇は杉山元参謀総長らに厳しい質問をあびせ叱責しました。また9月6日の御前会議でも自ら質問の立とうとされました。しかし近衛首相と木戸幸一内大臣が、天皇と軍部との直接対立を懸念した結果、原嘉道枢密院議長が天皇の質問を代行しました。それでもなお昭和天皇は、明治天皇が日露戦争を前に平和を願って詠んだ歌を詠み上げ、自ら平和への意志を明確にされました。 にもかかわらず会議の結論は変わりませんでした。日米開戦をめぐる最終段階の十月、近衛内閣は総辞職します。開戦への自信はなく和平の見込みもなければ、例によって内閣を投げ出す以外の術はありませんでした。後任は東条英機陸相に決まりました。東条は陸軍官僚制をエリート軍人として上りつめ、政治性に富んだ人間ではありませんが、与えられた課題をきちんとこなすタイプでした。官僚としては誠に優秀だっったのです。東条にとっては一たび内閣と軍部との交渉により開戦への一致が見られれば、あとはひたすら開戦へむけて事務処理を勧めていくだけでした。そこに抜かりがない限り、「立憲君主」たる昭和天皇が異論を挟む余地はありませんでした。 東条は、優秀な官僚はかくもあらんとばかり、天皇にきめ細かく長い時間をかけて戦争と政治の情報を上奏したのです。さらに戦争事務の遂行上、東条は首相の他、陸相、内相、軍需相はおろか、挙げ句の果てに参謀総長まで兼務するに至りました。また議会も42(昭和17)年の翼賛選挙により一応押さえ込むのに成功します。 東条のリーダーシップは、戦局が有利な限り発揮され続けますが、敗北が重なり、43(昭和18)年夏からの戦況の悪化を受けて、皇族や重臣の間で東条内閣打倒工作が開始されます。44(昭和19)年になると議会にも東条批判が見られるようになり、サイパンにおける敗北を契機に東条内閣は総辞職します。 それでも三年余りの間、東条内閣はよく持ったといえるでしょう。続く小磯国昭は和戦の好機をつかめず、45(昭和20)年4月、鈴木貫太郎内閣と交替します。木戸内大臣は終戦へ向けて個別拝謁を始めます。有名なのは二月の近衛上奏文で、近衛は満州事変以来の戦争戦略はすべて革新的軍人と共産主義の共謀によるもので、革命とならぬよう注意すべしと述べています。一種の陰謀史観です。開戦直前まで革新派の計画に乗ぜられた自分は、今こそ革命を防止するために立ち上がるというのがその主張でした。これには吉田茂らが深く関与していました。 鈴木内閣が終戦を決定するまでには、なお四ヵ月を要しました。空襲ただならぬ状況の中で、重臣始め宮中グループ、帝国議会、そして内閣と軍部もまた、いかなる形での戦争終結をはかるか、決め手を欠いていたからでした。広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦という最終段階においてなお、8月10日のポツダム宣言の受諾をめぐって二分されました。国の存亡をかけた危機状況において、天皇の判断が求められた結果、終戦の決定がなされました。8月14日の御前会議において決定に変わりないことを確認します。ここに戦争は終わりました。 さて敗戦からの復興に当たって、実は日本は首相への人材を見事に育んでいたことがわかります。戦争中は東条の後に適格者なしと言われ、また二・二六事件以降、近衛以外はアドホックな人材の起用が続きました。これに対して、戦後は戦時中に避けられていた人々が次から次へと政権の座に就きました。幣原喜重郎、吉田茂、芦田均、鳩山一郎など、彼らがいたからこそ、間接占領が可能となったのです。彼らはいずれも十五年戦争期の大半を、権力から遠く離れて、抑圧されて生活を送っていました。もはや軍人の時代でも華族の時代でもありませんでした。▲ページTOPへ参考:『但馬の百科事典』フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
近代 | 憲法色(けんぽういろ)#543f32 | 最初のページ|戻る|次へ |
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reserved. |