たじまる 弥生3 弥生時代のくらし

[catlist id=20 orderby=title order=asc]

弥生時代のくらし

目 次

  1. 稲作と技術の伝播
  2. 日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡
  3. 道 具
  4. 「ハレとケ」

1.なぜ縄文人は稲作に興味を示さなかったか?

 弥生時代は、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に続き、古墳時代に先行し、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住したことによって始まったとされてきました。 しかし、近年になって縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていますことが判明し、また水稲です温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていましたことも判明しつつあり、稲作も弥生時代の始まりもはっきりと定義できない状態です。近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきています。

青森県三内丸山遺跡をはじめとする近年の発掘調査の結果により、縄文文化は想像以上に高度な文化をもっていたことが判明し、縄文観を根本から見直さなければならなくなった。世界四大文明と呼びますが、日本文明をそれらに並ぶ文明として位置づけなくてはならない可能性も出てきたのです。縄文人がすでにコメをつくっていたこともほぼ確実となり、弥生時代の始まりを単に「稲作の開始」と定義することができなくなりつつあります。

日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。

しかし、縄文晩期になると再び寒冷化が起こり、環境が変化して自然の生産力が低下しました。このような時期に大陸から水田稲作と金属器の高度な技術が入り、それを契機として、縄文人も重い腰を上げて稲作に着手することになりました。

では縄文晩期において縄文人の食糧事情が極度に悪化したかというと、そうではないようです。縄文晩期の貝塚に鳥獣の個体が増える形跡はないし、そのころの縄文人の骨や歯に、成長が止まるような生涯は観察されていません。寒冷化によって自然界の生産力が低下したとはいえ、縄文人の食糧事情が極度に悪化したことはないといえます。

すると、縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。それまでに蓄積した知恵と技術をもって、急速に水田を開拓しました。縄文時代から弥生時代への移行は数百年のうちに本州北端まで伝搬し、西日本と東日本でほぼ同時であったことが明らかにされています。

3.稲作と技術の伝播

 紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がりました。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されており弥生時代のはじまりです。弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。 また、稲の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていましたが、

  • 遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと
  • 朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点
  • 極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されない ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。

「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
 協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎(べんざぶろう)編「日本の酒の歴史」から引用する。 いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

  • (1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
  • (2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
  • (3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)
    第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。
 江南というのは、今の中国の揚子江以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。たまたま『魏略』逸文に見える倭人の記事の一節に「其ノ旧語ヲ聞クニ自ヲ太伯ノ後ト謂フ」とある。これは、倭人のなかには呉の太伯の後裔、言い換えれば江南の人を祖先に持つという伝承があるという意である。この伝承は、江南からの稲作文化渡来の有力な裏付けとされている。
しかし、ある日突然稲作文化を携えた多くの人々が、一時に日本へ渡ってきたわけではなくて、これら大陸の農耕文化の波のうち、最も大きなうねりの一つが江南地方からのそれであったと考えてよい。それ故、「日本酒」造りの原型は、この稲作文化を構成する要素のなかから見いだすことができる。水稲耕作は、農業のなかでも最も高度な栽培技術を要求されるばかりでなく、自然条件をうまく利用しなければならない。したがって、昨日まで山野を駆け回ってシカやイノシシを追っていた狩猟民に、いきなり播種、灌漑、施肥、耕作、除草、収穫など一連の稲作技術を必要とする水稲耕作民に変身しろといわれても、それは少し無理な話である。 では、江南ルートによって北九州に持ち込まれた水稲耕作を一体誰が受け止め、受け継いだのでしょうか。この解答は地中から出土した土器が用意してくれていた。というのは、縄文晩期の夜臼式土器文化圏内に、弥生前期の板付式土器が互いに絡み合って発掘された。このことから縄文晩期の狩猟・どう耕民族的生活のなかに、水稲耕作技術が伝播して次第に水稲農耕民へと移ってゆく過渡期の姿を読みとることができる。したがって、日本の弥生文化は大陸で組み立てられてから渡ってきたものでなくて、時を違えてルートを異にし、バラバラに入ってきた文化的諸要素が日本というるつぼの中で融け合い、複合体として形成されたものである。
 「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、 弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。

としています。

  • 黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
  • 渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。
  • 東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。
  • 朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。
  • 韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。

したがって、弥生文化は、朝鮮半島からの移民だけだと考えるのはどうもおかしいのではないだろうかと思います。日本に稲作文化をもたらしたのは、中国江南から移住した弥生人だと思われるからです。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

2.日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡

 福岡市博多区板付にある縄文時代晩期から弥生時代後期の遺跡である。国の史跡。
竪穴式住居や水田が復元された公園になっており、資料館もある。佐賀県唐津市にある菜畑遺跡と共に日本最古の水稲耕作跡である。 佐賀県唐津市の西南部にある菜畑遺跡(なばたけいせき)は、板付遺跡と共に日本で最初に水稲耕作が行われた遺跡である。縄文時代晩期後半から弥生時代中期までの水田遺構が検出された。縄文時代晩期後半に入ると谷底平野の斜面下部や低地の縁辺で、陸稲的な状況でイネの栽培が始まった。縄文時代晩期終末に入ると雑草の種子は大半が水田雑草で占められる。弥生時代前期の地層から、大規模な水田が営まれていたことを裏付ける水路、堰、取排水口、木の杭や矢板を用いた畦畔(けいはん)が発掘され、これは縄文時代後期、今から2500年から2600年前ぐらいに日本で初めて水田耕作による稲作農業が行われていたことを実証するものと考えられている。遺物の土器は、これまで最古とされていた板付遺跡の夜臼式土器よりも少し古い山ノ寺式土器であった。炭化米も250粒ほど出土し、そのうち100粒以上がジャポニカ種であることが分かっている。

2.道 具

 弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができます。 水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作りました。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削されました。道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使いましたが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになりました。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられました。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられました。

青銅器は大陸から北部九州を中心とする地域では銅矛(どうほこ)や銅剣(どうけん)・銅戈(どうか)などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸(どうたく)がよく知られています。

北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始されました。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられていますが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわかっていません。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高いです。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかります。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できます。

一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられますが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌(ぜつ)を内部につるして鳴らすものとして用いられましたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられています。また、鏡も弥生時代前期末に渡来し、中期末以降列島でも生産されるようになりましたが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられました。このように、大型の青銅器は出現当初を除いてほとんどが祭祀に用いられるものでした。このほかに鋤先(くわさき)などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられますが、大型の青銅器に比べて非常に少量です。

青銅器は、最初期のごく一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例がわずかに存在する)を除き、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産されました。青銅器の鋳型は、列島での初期にあたる弥生時代前期末~中期前半期のものは、主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られます。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになります。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられています。

一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられていますが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多いです。

コメの他にもう一つ、弥生時代と縄文時代を大きく分けるものとしてはがあります。鉄もコメと同じように大陸からやってきました。かつては水田耕作と鉄は同時に到来したと考えられてきました。水田を開発するためには鉄が必須とであると思われていたからです。豊になった富を狙って鉄は武器として使われ、弥生時代は縄文時代と異なり、最初から戦争の時代だったというのも半ば常識でした。ところが最近の研究では、鉄の方が数百年も遅れてやって来たことが判明しました。弥生時代前半には小競り合いはあったとしても、殺戮を伴う戦争はあまりなかったようです。

製鉄の技術を知らない弥生人は、少ない鉄器をリサイクルして大切に使う一方で、縄文以来の石器も当たり前の道具として利用し続けていました。鉄器がなかなか広がらなかった理由としては、少数のグループが技術と物流を抱え込んでいたことが大きいのです。鉄器の原材料は半島から持ち込まれていたのですが、それを運んだのは実は半島の人ではなく日本に住む弥生人でした。韓国釜山市で見つかった鍛冶炉のまわりから出る土器の94%が、なんと九州北部の人々が使っていたものと同じだったのです。九州北部の弥生人は、原材料の現地生産・輸入・日本での加工、そして流通まで担っていたことになります。

こうした特権を持つ人々は力を集約していきました。弥生時代の前期が終わるとされる紀元前4世紀ごろに、鉄や青銅器の武器などを使った戦闘が九州北部を中心に繰り広げられるようになりました。そして、紀元前50年頃までに日本で初めての王が、奴国(ナコク)と伊都国(イトコク)(いずれも福岡県)に登場したと考えられます。階級社会の誕生はコメではなく鉄によって生まれたといえます。

鉄はもともと武器として使われたわけではありません。最初は斧や鍬であり、狩猟に使う矢じりとして使われました。おそらくこの狩りに使う弓矢が、まず人を殺す武器に転用されていったのでしょう。戦国時代に伝来した鉄砲も、最初は合戦用ではなく、狩のための道具でした。計画的に稲作を行っていた弥生人は、隣りに豊かな人がいるからといって、本能としてすぐに襲いかかるような野蛮な性質とは思えません。特に日本では、縄文と弥生がゆっくりと統合していったように、「和」の価値観の強い世界でした。

3.「ハレとケ」

 「ハレとケ」とは、柳田國男によって見出された、時間論をともなう日本人の伝統的な世界観のひとつです。民俗学や文化人類学において「ハレとケ」という場合、ハレ(晴れ)は儀礼や祭、年中行事などの「非日常」、ケ(褻)はふだんの生活である「日常」を表しています。また、ケ(褻)の生活が順調に行かなくなることをケガレ(気枯れ)といいます。 ハレの場においては、衣食住や振る舞い、言葉遣いなどを、ケとは画然と区別しました。ところで、葬式をハレとするか、ケガレとするかということがあります。一般通念では葬式は不幸ごとであり、結婚式などのお祝いごとと区別したくなるところですが、桜井氏をはじめとする民俗学者の多くは、葬式に赤飯を炊いていたと思われる民俗事例や晴れ着を着て喪に服した民俗事例などを念頭に、「非日常」という点で葬式もハレだとしています。しかしながら、いずれの立場も理論が十分でなく、なぜ葬式がケガレであるのかについて説明しきれていません。

日本において葬祭として葬儀と祭事を分けてきましたが、元々の漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことによって明確な区別が無くなったとの説もあります。

日本神道では、塩が穢れを祓い清める力を持つとみなします。そのため祭壇に塩を供えたり、神道行事で使う風習があります。また、日本においては死を穢れの一種とみなす土着信仰(神道に根源があるという)があるため葬儀後、塩を使って身を清める風習があります。これは仏教式の葬儀でも広く行われますが、仏教での死は穢れではないとして葬儀後の清めの塩を使わない仏教宗派もあるそうです。

日本の酒についての記事が文献上に初めて登場するのは「魏志倭人伝」(弥生後期、三世紀前半)です。当時の倭国(日本)について、

「人が亡くなると十余日喪に服し、その間肉類は禁じ、喪主は号泣し、他人は歌舞飲酒ス。…その会は父子男女別なく同座し、人酒を嗜む」

と書いてありあります。これが米から造られた日本酒の最古の記録です。元々漢字の意味として「祭」は葬儀を表す文字であることから、日本古来の清めと穢(ケガ)れの価値観の上に中華文明の風俗習慣が入って来たことのもこの頃からではないでしょうか。紹興酒の故郷は中国江南です。

いずれにせよ、今も約二千年前の昔も日本のお葬式の風習は大差ないですね。それだけ延々脈々と受け継がれてきた日本人の文化は古くから確立していたようです

参考資料:「日本の酒の歴史」-加藤辨三郎(べんざぶろう) 研成社
「考古学と歴史」放送大学客員教授・奈良大学教授 白石太一郎
「東アジアのなかの日本文化」放送大学客員教授・東京大学院教授 村井 章介
「古代日本の歴史」「日本の古代」放送大学客員教授・東京大学院教授 佐藤 信
▲ページTOPへ

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください