弥生2 弥生人はどこから来たのか

弥生人はどこから来たのか

1.弥生時代の新たな研究


画像:大中遺跡 兵庫県立考古博物館

具体的には、稲作技術導入によって日本での水稲耕作が開始された時代です。 小さな村落からなる国家出現としての日本と日本人というオリジナルな文化を形成するべき、実に重要な歴史区分の一つです。最近では縄文時代からすでに大陸とのつながりがあった形跡が見つかっています。縄文から続く大陸とのつながりは、この時代に加速度を増し、混沌と複雑味を増してくるのです。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用によって穀物の備蓄が可能になったことから、余剰作物の生産と蓄積がすすみ、これが富に転化することにより、持てるものと持たざるもの、ひいては貧富の差や上下関係が生まれました。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行しました。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされています。

このような争いを通じて集団の統合・上下関係の進展の結果、やがて各地に小さなクニが生まれました。1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀中葉には邪馬台国の女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭の王であることを意味する金印を授けられました。 なお、この頃以降の日本は、大陸からは倭と呼ばれました。

水田稲作の本格的な開始という形で定住化がすすみ、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国や朝鮮半島からの交流が活発化する中で充実していきました。中期になると、銅鐸(どうたく)という謎の多い青銅器が現れて消えていきます。

弥生変革が生じた背景には、海を渡って渡来した人々があり、在来人と混血したであろうと想定されてきました。しかし最近では、大陸や島伝いに人びとの流入はあったかもしれませんが、このような大量の民族移動は比定されています。縄文時代にも世界でも古い土器や稲作がおこなわれていた遺跡も発見されてきました。

早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となります。

  • 早期(紀元前1000年頃から紀元前800年頃 中国西周王朝の成立と東方進出)…環濠集落・水田稲作の本格開始
  • 前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃 中国戦国時代の開始)…朝鮮系青銅器の本格採用
  • 中期(紀元前400年頃から紀元50年頃 前漢王朝への偉使の開始)…朝鮮半島の権力争い。中国鏡の本格採用
  • 後期(紀元50年頃から三世紀中頃:初期ヤマト政権の成立)…前方後円墳の出現 と4つに分けられますが、弥生時代から古墳時代への移り変わりは、縄文時代や弥生時代が基本的にはそれぞれの時代に用いられた土器によって設定されたものであるのに対し、古墳時代は古墳という大きな墳丘の出現を基準に設定されています。古墳時代以前の弥生時代の終わり頃になると、もう古墳と呼んでも一向に差し支えないような大きな墳丘をもつ墳墓が各地に出現していきます。たとえば、中国地方から北陸地方にかけて、方形の墳丘墓の四隅を突出させた「四隅突出型墳丘墓」という特異な形態の墳丘墓が数多く営まれています。ヤマト政権があらわれ日本(やまと)という国が誕生するまでの古墳時代に入るこの時代に何が起こったのでしょうか。とても興味が尽きないばかりか、縄文時代から弥生時代へとスムーズな流れでとらえることが困難なことがわかってきました。そこで弥生時代を大陸渡来と謎の銅鐸をひとつの区分として加え、弥生早期、前期を出雲、中期を銅鐸、後期を但馬(たじま)の国の祖とされる「天日槍(アメノヒボコ)」の4つに分けて、素人なりに考えてみたいと思います。

1.弥生時代のはじまり

弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島外から北部九州に移住することによって始まった時代です。紀元前473年、中国が戦乱時代であったために、それから逃れた人々が順次日本列島にやってきたと考えられています。まず中国の春秋戦国時代に江南地方(長江以南)から、南西諸島を伝って南九州に上陸し、秦の時代に山東半島から、朝鮮半島南端部を経て北九州に上陸したのではないかというのが、「徐福伝説」です。始皇帝の命で薬を求めて日本列島に渡ったとされるが、実態は逃れた人々だってのではないかと推測できます。 紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まります。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れています。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示しているもので、かつて朝鮮半島からというのが考えられていましたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力です。

それではなぜ、この時期に大量の人々が、日本列島にやってきたのでしょうか。

当時、縄文海進から水位が下がりはじめたとされていますが、外洋航海は、大変危険なもので、出航した人々の一部しか、日本列島にたどり着けなかったものと考えられます。したがって、平和時に、多くの人々が、このような危険なことをするということは考えられず、中国に、何か大事件が起こったためと考えられるのが自然です。

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。

北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

「呉の太伯の子孫」というのは日向地方に住んでいた人々のことではないかと考えられます。

弥生人が緊急避難でなく、態勢を整えて日本列島にやってきたのであれば、先住民と対立し、奴隷としたり、追い出したりすることが考えられるますが、弥生時代前半の遺跡を見ても縄文人と対立したような様子は見られず、縄文式土器に継続して弥生式土器が出土しているところもあることから、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命辛々であったと推定され、死にそうなところを縄文人に救われたということも考えられるのです。このような場合、縄文人との対立は考えにくく、むしろ融和的に稲作や土器、木製品などの新技術を教えて溶け込んでいったのではないでしょうか。

日本列島にわたってきた弥生人は、住めるところを探して移動していったために、船を使って海岸近くを中心に弥生文化が速く伝わることになりました。

このような人々によって、多くの技術がもたらされ、大変革をもたらし弥生時代が始まったと考えるのです。しかし、これを証拠立てる遺物は見つかっていません。これは、このような状態で逃げてきたわけですから、ほとんど体一つで来たものと考えられ、物質的には影響を与えなかったと判断されます。

縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいます。弥生時代は700年かけて日本列島に広がっていきましたが、戦争による勢力拡大ではなく、コメという食文化を通じた緩やかな統合だったのです。

2.弥生人はどこから来たのか?!

それでは弥生人はいったいどこから来たのでしょうか?

いまだよく分かっていませんが、同じく倭人と呼ばれる人々が暮らしていた中国江南の紹興を中心とした地には、古くから「越人」と呼ばれる人たちが住んでいました。紀元前473年には越は呉を滅ぼした。

しかし、紀元前334年、楚(ソ)の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡しますが、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑されました。こうして越は楚に滅ぼされました。

一部の越王族が現在の福建省に逃れ弱小勢力になっていましたが秦に滅ぼされてしまいました。一説ではベトナム(越南)は南下した越部族の末裔と称しています。また、越人たちは航海術にすぐれていて、海岸づたいに朝鮮半島へ行き、半島南部に住み着く者、または海を渡って直接日本へ亡命する者(ボートピープル)が続出したようです。

かつては環日本海として海を通じて大陸・朝鮮との交流が盛んであった日本海側が表日本であったといわれるように、丹波・但馬は出雲・越地方と並ぶ古代からの文化地帯でした。

山口県豊北町の響灘に土井が浜遺跡があります。この遺跡から出土する弥生人骨は保存状態が良く、発掘は九州大学の医学部解剖学教室の金関丈夫(形質人類学)教授と日本考古学協会の手で行われました。

縄文人

時期や地域による変異は顕著ではない。顔は上下がやや寸詰まりで幅が広く、骨太で、顔の幅が広く寸づまり、鼻や眉間が高くて彫りが深い、歯が小さいが顎は頑丈で、上下の前歯の端を毛抜き状に噛み合わせる。体毛が濃い。平均身長は成人男性で158cm前後、成人女子は150cm未満と小柄。南方系「古モンゴロイド」弥生人地域的な変異が顕著、顔はやや面長で、鼻が低いのっぺりとした顔立ち、歯は大きく、上の前歯が下の前歯の前に重なるはさみ状の噛み合わせ。体つきは手足が長く、成人男性の平均身長は163cm前後、成人女子で151cm前後とやや高身長。北方系「新モンゴロイド」 土井が浜の弥生人骨は、160センチメートルを遙かに超えた長身、華奢な四肢骨、細面の顔に低い鼻、のっぺりとした、それでいて端正な顔立ちで、いわゆる北方系「新モンゴロイド」の特徴がありました。

彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、戦乱を逃れて日本に亡命してきたボートピープルだったことが裏付けされたのです。
「土居ケ浜遺跡人類学ミュージアム」によりますと、

九州・沖縄と山口では弥生人の顔・かたちに地域差が認められ、人骨の特徴から1、北部九州・山口タイプ、2、西九州タイプ、3、南九州・南西諸島タイプの三つのタイプに分けることができます。
「北部九州・山口タイプ」の弥生人は、顔が長く、鼻が低く、鼻の付け根(鼻根部)が扁平で、身長は、男性の162cm~164cm、女性は150cm程度で、高身長です。「西九州タイプ」の弥生人は、顔が短く、横幅は広く、眉の部分が盛り上がり鼻骨が付け根から高く隆起し、顔を横からみると鼻根部が深く陥凹しており、ホリの深い容貌をしていました。

推定身長値は、男性が約158cm、女性は148cmで、男女とも低身長です。「南九州・南西諸島タイプ」の弥生人は、頭や顔が小さく、頭を上から見た形が、限りなく円に近い形をしています。
身長は著しく低く、男性で153cm~155cm、女性では143cm程度しかなく、きわめて小柄な弥生人でした。三タイプの弥生人のうち、「西九州タイプ」の特徴は、実は縄文人の特徴なので、「西九州タイプ」の弥生人は、縄文人直系の弥生人と考えられます。

一方、「北部九州・山口タイプ」の弥生人には縄文人的特徴がみられないことから、彼らは、日本列島に弥生文化をもたらした渡来人ではないかと考えられてきました。
しかし、この仮説は証明されたわけではありません。検証するためには大陸の古人骨、弥生時代の初め頃か、それよりもやや古い時期、日本でいえば、縄文時代の晩期から弥生時代前期のおよそ2,500年から2,300年前頃の古人骨、中国でいえば周代の末の戦国時代から、蓁・前漢時代の人骨の特徴を明らかにしておく必要があります。

これらの人骨群は、北部九州・山口の弥生人にそっくりでした。この事実から、「北部九州・山口タイプ」の弥生人のおおもと(ルーツ)が大陸にあるということはほぼ間違いないと思われます。
しかし、山東省の人骨が「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ていることがわかったからといって彼らは、山東省から来たのだ、ということにはなりません。
現時点では、あくまで、中国大陸のなかに「北部九州・山口タイプ」の弥生人に似ているものがあったから、彼らの起源は大陸にあるといってもいいだろうということが言えるに過ぎないのであって、どこから直接渡って来たのかという問題はまだ未解決です。

7.縄文+渡来=弥生?

日本列に人類が住み始めて何万年というゆったりとした流れのなかで、弥生時代は急速に文明化が進みます。カルチャーショックをもたらした原因は、自然発生的に国内から生まれ発展したと考えることは無理があります。

それは統一国家 秦(シン)の始皇帝による王朝のころには、倭(ワ・やまと)国も百済や新羅・加耶といった国もまだ生まれていないはるかに以前の時代です。朝鮮文化が伝わったと考えるのではなく、秦から朝鮮半島と日本列島にほぼ同時期に、あるいは朝鮮半島を経由して伝わった、「徐福」に例える先端文明をもった集団の渡来であったと考えるのです。

九州北部や出雲・吉備・丹後・越などクニが生まれていきます。徐福伝説が各地で同時に作られ伝わっている意味は、ルーツが同じ人々がそれぞれの新天地に共通の歴史を残し、またさらにその一族から別の土地に移住を繰り返していったことを示しています。

浦嶋太郎・桃太郎・鬼退治・土蜘蛛伝説、ククヒ(鳥取部)など、それらは徐福とされる呉や越人、朝鮮王族が縄文人を野蛮人として苦労しながら同化していったような話です。神話や民話として語り継がれ、日本書紀には天孫降臨や神武東征にすり替えられて記されているのではないかとも思えます。

日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていました。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しませんでした。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ、山海の幸に恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況にありませんでした。採取を基礎とする社会でこれほど安定した社会は世界史上稀です。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われます。

縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。

しかし、縄文海進により、弥生時代にはすでに現在の日本列島の姿に近く、大陸から船で渡ってくることはそんなに簡単ではなかったと考えられます。早い時期に渡来人が移住したと考えられる北部九州・瀬戸内海・近畿地方ですら、弥生初期の遺跡から渡来系とされる人骨の出土は少ないので、水田稲作の先進地域でも縄文人が中心となっていたことが想定されます。また、少数を除くと、縄文人の戦傷例がないことからも、弥生人対縄文人の大規模な先島はなかったといえます。日本列島に住んでいた旧石器からの縄文人が、少数の渡来人がもたらした、より進化した道具や栽培方法などの文化的影響のもとで農耕社会へ移行したと考えるべきでしょう。

たじまる 弥生1 弥生時代の研究

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弥生時代の研究

 弥生時代とは、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称です。

弥生時代の暦年代は、近年、自然科学の年代測定の進歩によって新しい情報が増えています。

研究が進んでくると、時代の過渡期の様相は極めて複雑で、時代区分についても多くの見解の相違が出てきています。

弥生時代については、現在もどの段階を始まりと終わりと考えるかについて、いろいろ意見がありますが、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。

これによると、

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の三期に分けられていましたが、近年では上記の研究動向をふまえ、

  • 早期(紀元前1000年頃~紀元前800年頃)
  • 前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃
  • 中期(紀元前400年頃~紀元50年頃)
  • 後期(紀元50年頃~三世紀中頃)の四期区分論が主流になりつつあります。しかし、一口に弥生時代といっても、1200年間というと、時代区分の平安時代(794~)から現代までをひとまとめにするようなもので、狩猟時代から稲作がはじまり、クニが誕生するまでの、とても長く、未知な世界です。つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

    出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。こうした最近の研究成果や遺跡・遺物など文献資料にとどまらず、神社や神話・説話など、境界を越えたさまざまな交流の上に展開した日本列島諸地域の古代史を多元的に明らかにするというテーマで、探ってみたいと思います。環日本海の古代史…その大きな謎とロマン(そんなたいそうな(;^_^A
    近年、青森・三内丸山遺跡、島根加茂岩倉遺跡、荒神谷銅鐸、鳥取・大山町、淀江町にまたがる妻木晩田遺跡など、
    新しい発掘によって、古代の人々は、日本海沿岸はもちろんのこと、
    朝鮮半島や中国大陸と自由に航海し、交易していたことが実証されてきました。
    江戸時代まで続いていた北前船も、古代から続いてきた「いにしえの文化遺産」であったといえるでしょう。これからも新しい事実が調査によって解明されていくたびに日本史は、新たな事実に塗り代えられていきます。インターネットによる資料公開は、新しい感動を与えてくれます。だからこそ、歴史は興味が尽きないのでしょう。

  • 但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
  • 但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
  • 全国でも稀な粉々に破壊された銅鐸片
  • 社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。 そこで生まれ、ずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることも無駄ではないと思うのです。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、
    そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。

但馬の人物 斎藤隆夫

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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近代憲法色(けんぽういろ)#543f32最初のページ戻る次へ

斎藤隆夫


概 要

目次

  1. 生い立ち
  2. 政治家としての軌道
  3. 粛軍演説
  4. 太平洋戦争突入

1.生い立ち

斎藤隆夫の生地・兵庫県豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。

明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。

明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚しました。

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2.政治家としての軌道

1912年(明治45年・大正元年)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。
立憲国民党より総選挙に出馬。そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が、金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に斎藤を応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。
「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。▲ページTOPへ

3.粛軍演説

斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。

  • その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説であり、
  • その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
  • また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
  • その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
    彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。
    1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、
    「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、
    「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。
    この事変の目的はどこにあるかわからない。」
    の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
    反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(にち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。■斎藤隆夫記念館「静思堂」斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。

    兵庫県豊岡市出石町中村 TEL.0796-52-5643

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4.太平洋戦争突入

 五・一五事件の後、後継首相に指名されたのは政友会総裁ではなく、海軍の穏健派とされていた斎藤実前朝鮮総督でした。斎藤内閣以降、総理となったのはほとんどが軍人・官僚の出身者で、政党から入閣する者はあってもその数は少なく重要ポストは与えられませんでした。軍部は事実上組閣を左右しました。
日中戦争の勃発は、国内における物資、人員の統制と動員を必要不可欠にしていきました。近衛内閣は総力戦体制確立のために、37(昭和12)年十月に企画院を創設した他、38(昭和13)年には国家総動員法と電力国家管理法を成立させました。こうした近衛の姿勢を最も強く支持していたのは社会大衆党でした。また近衛は1938(昭和13)年を通じて既成政党を排除し、無産政党や革新閣僚などこれまでは議会外であった勢力を糾合して新党を作ろうとしましたが、日中戦争解決の機を見いだし得ず、近衛内閣が解散したため、一時沈静化しました。
近衛の後任には、平沼騏一郎が首相になりました。アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、ソ連はノモンハン事件で決定的敗北を被りました。こうして日米、日ソの関係は行き詰まり、この内閣は一貫して日独伊防共協定の強化に活路を目指しました。しかし英米との関係を重視する海軍の一貫した反対のために膠着状態に陥っていました。
ところが39(昭和14)年8月、突如として独ソ不可侵条約が締結されたため、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という文句を残し、内閣は総辞職しました。
1940(しょうわ15)年春、ドイツの電撃的なヨーロッパ大陸での勝利(オランダ・フランスの敗北)のため、速やかな日独伊三国同盟締結と力の真空が生じた南方への進出をパッケージとした政策の変更を望む声が強まりました。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、言論の場としての議会はさらに機能が低下して、1940年2月に軍部批判の演説をした斎藤隆夫は同僚議員によって議会から除名されてしまいました。代わって各派の議員によって聖戦貫徹議員同盟が組織され、政党の解消を主張し始めました。彼らが期待した近衛文麿が新体制運動の乗り出すと、近衛の運動に合流すべく各政党は次々と解党していきました。
10月12日に近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足すると議員は翼賛会の議会局に属しました。
本土決戦を控えてさらに強固の国内体制を作る必要があるとして45年3月には翼賛政治会(翼政会)が解散して大日本政治会(日政)が結成されました。しかし日政に結集した議員は353名で、他に護国同志会、翼賛議員同志会、無所属などに分かれ完全な一元化はできませんでした。
第二次近衛内閣は、松岡洋右が外相となり、40(昭和15)年9月に三国同盟を締結させると、翌41(昭和16)年4月には日ソ中立条約を成立。ドイツ、ソ連との関係をもって初めて対米交渉が可能になると考えていました。
しかし40年の北部仏印進駐、次いで41年南部仏印進駐により、日米関係は決定的に悪化します。特に後者では、在米資産の凍結及び石油の輸出禁止処置がとられ、日本は逆に窮地に追い込まれてしまいました。
41(昭和16)年9月、戦争を主とし外交を従とする「帝国国策遂行要領」に異論を唱えたのは、他ならぬ昭和天皇でした。御前会議の前日、天皇は杉山元参謀総長らに厳しい質問をあびせ叱責しました。また9月6日の御前会議でも自ら質問の立とうとされました。しかし近衛首相と木戸幸一内大臣が、天皇と軍部との直接対立を懸念した結果、原嘉道枢密院議長が天皇の質問を代行しました。それでもなお昭和天皇は、明治天皇が日露戦争を前に平和を願って詠んだ歌を詠み上げ、自ら平和への意志を明確にされました。
にもかかわらず会議の結論は変わりませんでした。日米開戦をめぐる最終段階の十月、近衛内閣は総辞職します。開戦への自信はなく和平の見込みもなければ、例によって内閣を投げ出す以外の術はありませんでした。後任は東条英機陸相に決まりました。東条は陸軍官僚制をエリート軍人として上りつめ、政治性に富んだ人間ではありませんが、与えられた課題をきちんとこなすタイプでした。官僚としては誠に優秀だっったのです。東条にとっては一たび内閣と軍部との交渉により開戦への一致が見られれば、あとはひたすら開戦へむけて事務処理を勧めていくだけでした。そこに抜かりがない限り、「立憲君主」たる昭和天皇が異論を挟む余地はありませんでした。
東条は、優秀な官僚はかくもあらんとばかり、天皇にきめ細かく長い時間をかけて戦争と政治の情報を上奏したのです。さらに戦争事務の遂行上、東条は首相の他、陸相、内相、軍需相はおろか、挙げ句の果てに参謀総長まで兼務するに至りました。また議会も42(昭和17)年の翼賛選挙により一応押さえ込むのに成功します。
東条のリーダーシップは、戦局が有利な限り発揮され続けますが、敗北が重なり、43(昭和18)年夏からの戦況の悪化を受けて、皇族や重臣の間で東条内閣打倒工作が開始されます。44(昭和19)年になると議会にも東条批判が見られるようになり、サイパンにおける敗北を契機に東条内閣は総辞職します。
それでも三年余りの間、東条内閣はよく持ったといえるでしょう。続く小磯国昭は和戦の好機をつかめず、45(昭和20)年4月、鈴木貫太郎内閣と交替します。木戸内大臣は終戦へ向けて個別拝謁を始めます。有名なのは二月の近衛上奏文で、近衛は満州事変以来の戦争戦略はすべて革新的軍人と共産主義の共謀によるもので、革命とならぬよう注意すべしと述べています。一種の陰謀史観です。開戦直前まで革新派の計画に乗ぜられた自分は、今こそ革命を防止するために立ち上がるというのがその主張でした。これには吉田茂らが深く関与していました。
鈴木内閣が終戦を決定するまでには、なお四ヵ月を要しました。空襲ただならぬ状況の中で、重臣始め宮中グループ、帝国議会、そして内閣と軍部もまた、いかなる形での戦争終結をはかるか、決め手を欠いていたからでした。広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦という最終段階においてなお、8月10日のポツダム宣言の受諾をめぐって二分されました。国の存亡をかけた危機状況において、天皇の判断が求められた結果、終戦の決定がなされました。8月14日の御前会議において決定に変わりないことを確認します。ここに戦争は終わりました。
さて敗戦からの復興に当たって、実は日本は首相への人材を見事に育んでいたことがわかります。戦争中は東条の後に適格者なしと言われ、また二・二六事件以降、近衛以外はアドホックな人材の起用が続きました。これに対して、戦後は戦時中に避けられていた人々が次から次へと政権の座に就きました。幣原喜重郎、吉田茂、芦田均、鳩山一郎など、彼らがいたからこそ、間接占領が可能となったのです。彼らはいずれも十五年戦争期の大半を、権力から遠く離れて、抑圧されて生活を送っていました。もはや軍人の時代でも華族の時代でもありませんでした。▲ページTOPへ参考:『但馬の百科事典』フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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日露戦争

日露戦争

1.日露の対立

大韓帝国成立後、朝鮮における日本の勢力は後退し、ロシアの勢力が強まりました。日本はロシアと妥協しながら経済的優位を確保しつつ、韓国に対する支配の強化と中国東北の満州への経済的進出を試みました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。
ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、満州全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図り、さらに韓国への進出を試みました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

2.日露戦争

日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日 – 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争。

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。各国の思惑と戦費調達南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。

日本海海戦

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。旅順攻略、奉天会戦へ。戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

講和へ

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。

さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。

しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。

当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がりました。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もあります。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになりました。

3.東郷 平八郎と肉じゃが

弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

肉じゃが

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。

海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。

  • 1. 油入れ送気
  • 2. 3分後生牛肉入れ
  • 3. 7分後砂糖入れ
  • 4. 10分後醤油入れ
  • 5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
  • 6. 31分後玉葱入れ
  • 7. 34分後終了発祥の地論争京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
    根拠は、
  • 舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
  • 呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。としています。
    なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

たじまる 鎌倉-3

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

    7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

    その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。 聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

    この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

    地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

    ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

    8.安達親長

    安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

    源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

    9.源頼光と頼光寺

    3.頼光寺(らいこうじ)

    曹洞宗 但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

    頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
    気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

    10.太田氏の繁栄と滅亡

    むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

    ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

    その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

    昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

    前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

    このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

    昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

    以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

    武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

    11.大岡山と進美寺

    東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。 古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

    日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

    山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

    『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

    大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

    山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

    大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

    進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

    但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

    しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

    大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

    12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


    十二所神社 豊岡市日高町松岡

    承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

    雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

    「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」
    といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、
    「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

    と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

    この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

    今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 鎌倉-2

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

5.国衙から守護へ

やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

6.但馬国司

■守護

  • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
  • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
  • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
  • 1285年~1321年 太田政頼
  • ?~1333年 – 太田氏
  • 1336年 今川頼貞
  • 1336年~1338年 桃井盛義
  • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
  • 1340年~1351年 今川頼貞
  • 1361年~1365年 仁木頼勝
  • 1366年~1372年 長氏
  • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
  • 960年頃 源経基
  • 1010年頃 源頼光
  • 1110年頃 平正盛
  • 平経正
  • 1130年頃 平忠盛
  • 1182年 平重衡(権守)
  • 矢沢頼康
    柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
    戸田氏西 美濃大垣藩主
    山口弘豊 常陸牛久藩主
    浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
    遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
  • ? 源満頼
  • 1224年 平有親
  • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
  • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
  • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

8.安達親長

安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

9.源頼光と頼光寺

頼光寺(らいこうじ)
曹洞宗

但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

10.太田氏の繁栄と滅亡

むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

11.大岡山と進美寺

東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


十二所神社 豊岡市日高町松岡

承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。

首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」

といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、

「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

たじまる 鎌倉-1

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

鎌倉時代

概 要

目 次

  1. 鎌倉時代設定のむずかしさ
  2. 武士政権の誕生
  3. 関東武士政権
  4. 二つの王権
 鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

1.鎌倉時代設定のむずかしさ

 日本の中世社会は600年という長きにわたる社会です。平安時代後期の平氏政権の成立(1160年代)から1568(永禄十一)年の織田信長の上洛(統一権力の成立)までを中世とするのが一般的です。院政時代、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代という時期区分が用いられてきました。これは権力の所在からの時期区分ですが、しかし、その長い年月は権力の分裂が著しく、たとえば、院政が終わって鎌倉幕府が成立したわけではないし、南北朝時代にはすでに室町幕府が成立していました。このように所在地による時期区分では捉えきれないのです。近世の始まりはいつとするのかが、成立期と末期とでは大きな違いも存在し、中世と一括りにできないですが、五味文彦氏は中世の時代的特徴を次の五つとしています。

  • 古代の中央集権に対し権力が統合されておらず、分権化の傾向が著しかった
  • 人々は自立による生存を求めていった
  • 神仏への信仰の広がりと文化活動の活発化
  • 日本列島各地の地域社会形成
  • 主従関係を基本とした多様な人間関係 始期については、従来源頼朝が将軍(征夷大将軍)に任じられた1192年とするのが一般的ですが、頼朝が平家打倒のために挙兵し御家人を統率する侍所を設置した1180年説、寿永二年十月宣旨で東国(東海道および東山道)の支配権を朝廷に公認された1183年説、対立する弟・源義経追討の名目で惣追捕使(後の守護)・地頭の設置権を獲得した1185年説、頼朝が上洛し権大納言・右近衛大将に任命された1190年説、また一部では1196年説など様々な考え方があります。この中で、壇ノ浦において平家を滅ぼし、さらに全国統治の基礎となる守護・地頭の設置権を獲得した1185年を画期とする考え方が現在では比較的有力です。

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2.武士政権の誕生

 1179(治承)年11月、福原(神戸市)に引退していた前太政大臣・平清盛は、突如として数千の兵を率いて入京。後白河上皇の院政を強引に停止し、政治の実権を掌握しました。日本史上初めて、武士の政権が誕生したのです。

関白以下、多くの貴族が解任され、平家と良好な関係を持ち者が代わってその座を占めました。日本全国(六六ヶ国)のほぼ半数にあたる三二ヶ国が、平家とその与党の知行国となりました(その前は十七ヶ国)。たがて清盛の外孫にあたる幼い安徳天皇が即位し、福原への遷都が強行されました。

まず清盛の祖父正盛と父忠盛は、西国の受領を歴任しながら勢力を蓄えました。平家との縁が薄い東国と西国の境界、現在の中部地方に強固な防衛ラインを築きます。それ以西、畿内と西国を直接の地盤とした政権でした。

正盛・忠盛は、瀬戸内海沿岸の海に生きる武士団を勢力下に組み込む努力を重ねてきました。そのため、清盛の代になると、瀬戸内海を一括して掌握することが可能となりました。福原の外港として大輪田の泊が修造されました。海運の要衝である厳島(宮島)には平家一門の祈りを捧げる厳島神社がありました。
九州の海の玄関である博多には太宰府を平家が実質支配しました。厳島・博多からさらに中国大陸に向かいました。

宋からは絹織物・陶磁器・香料、それに大量の銭が輸入され、日本の金・水銀・硫黄や蒔絵・日本刀などが輸出され、これらの交易が平家に膨大な富をもたらしました。

知行国重視を明確に打ち出し、当時のすでに国衙を核として、留守所を形成していた在地領主たちに従属と忠誠を要求しました。見返りとして、国衙領における彼らの本領を保護・安堵しました。

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3.関東武士政権

 「源平の戦い」といわれる一連の戦乱は、一体何だったのか。どちらが朝廷を守護するにふさわしい「武士の棟梁」であるかを決定する戦いだったと、また皇位をめぐる朝廷内の争いであるとか、いわれています。しかし、内乱の真の主役は、在地領主、すなわち武士たちであると考えられています。地方で生活する彼らは中央の朝廷の支配に不満を募らせていました。多くの税(米や特産物)を課せられ、大番役といって、しばしば膨大な費用で京都に上がり、朝廷の警備に当たらされる。隙を見せれば国衙に領地を奪われてしまいます。

誰も自分たちの利益を護ってくれる権力がないならば、自立するしかない。自立を勝ち取るための戦い、武士たちのいわば独立戦争、それが「源平の争乱」の実体なのです。

小さな各地の勢力は、その過程で武士の棟梁になるべき候補者が明らかになってきました。西国を中心とし、さらに宋との交易を重視した平家と、それに対し、東国武士の支持を得た関東の棟梁が源頼朝です。「一所懸命(一つの土地に命を懸ける)」という言葉があるように、御家人たちは土地に根ざして生活していた、動産よりも不動産が重視され、土地が主従関係をつないでいたのです。

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4.二つの王権

 王権とは、周囲に従属を要求し、かつ他者の助力を必要としない自立した存在です。つまり、王は自らの統治に属する地域を掌握し、そこに生きる人々を自らの働きかけを因果関係として能動的に認識することです。

王権を維持するには、官僚組織と、強制力を行使する軍事力の常備が有効となります。ただし、官僚組織も軍事力も、王権の必要不可欠な要件ではありません。むしろ、自らの統治力を過不足なく服する人々を率いて立つ強固な決意を持つことこそが、中世の王たる証しです。

東の王たる将軍は、官僚組織(鎌倉幕府)と、強力な軍隊を有していました。これに対し、西の王たる天皇は、官僚組織は育成したが、軍事力を持っていませんでした。1221(承久三)年の承久の乱の敗戦により、朝廷の軍事力は幕府の手によって解体されてしまったのです。

多くの庄園を集積した後鳥羽上皇は、庄園の下司職や官職を与えることによって忠誠を誓う武士を京都に集め、朝廷の軍事力を形成しました。京都周辺の治安維持に多大な威力を発揮し、自信を深めた上皇は鎌倉幕府の打倒を目指しました。しかし、朝廷軍は関東の武士たちに敗北し、京都は占拠されました。上皇は捕らえられ、隠岐の島に流されてしまいました。

幕府は京都に六波羅探題を設置して、天皇が軍事力を再建できないよう監視の目を光らせました。朝廷は王権を支える要素として、伝統と祭祀権を強調する他はなくなりました。こうして天皇は伝統を体現する歴史的権威として、また仏教の法会や神事を主催する祭祀王として振る舞ったのです。

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鎌倉藤紫(ふじむらさき)#a59aca最初のページ戻る次へ
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気多郡の地名

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

気多(ケタ)郡の地名

気多郡とは、但馬国(兵庫県北部(日本海側))にかつて存在した郡で、今の豊岡市日高町と中筋地区から、伏、八社宮、豊岡市竹野町床瀬、椒までのエリア。昭和30年(1955)に、美含郡とともに城崎郡に吸収し郡名は消滅。

気多郡…狭沼郷、太多郷、三方郷、楽前郷、

高田郷、高生郷、日置郷、賀陽郷

但馬国

旧郡名現行政名
朝来郡朝来市
養父郡養父町、朝来市(大蔵・糸井地区)、豊岡市(日高町赤崎・日高町浅倉地区)
出石郡豊岡市(出石地域、但東地域、神美地区)
気多郡豊岡市(日高地域、豊岡市中筋地区・佐野以南、竹野町三椒地区)
城埼郡豊岡市(城崎地域、豊岡・八条・三江・田鶴野・五荘・新田・奈佐・港地区)
美含郡美方郡香美町(香住区)、豊岡市(竹野町竹野・竹野町中地区)
七美郡美方郡香美町(村岡区、小代区)、養父町(熊次地区)
二方郡美方郡新温泉町(旧浜坂町、旧温泉町)

 

気多郡は、奈良時代に律令制が行われた後の時代に記された「和名抄」によると、八つの郷で構成されていました。西から太多(タダ)、三方(ミカタ)、楽前(ササクマ)、高田(タカダ)、日置(ヒオキ)、高生(タコウ)、狭沼(サヌマ)、賀陽(カヤ)ですが、これはずっと後になって律令制度が整備された郷なので、縄文時代は違ったかも知れませんが、これが邑(ムラ:今の区単位)を集合させた小国の単位であると思います。ちなみに山間部が多い太多(タダ・太田)と狭沼(サノ)、三方(ミカタ)の3郷は広大で、気多郡の平野部を除いた比較的山間部に位置し、約3/4を占めます。弥生時代までに、こうした国境(邑境)は、地理的条件で、ある程度自然に分けられたのでしょうが、これらが後に郡・郷として気多氏の支配下にある郷名であり首長名になったのでしょう。最も大きな太多郷は兵庫県でも鉢伏と並んで最も古くから人が住み着いた遺構が発見された土地であり、稲葉(いなんば)から久田谷(くただに)までの円山川の支流稲葉川水系であり、気多氏にとって重要な中心部でした。狭沼郷も円山川の支流八代川水系と現在の竹野町椒、三原から八代川下流の円山川に注ぐ地点です。

■沿革

気多郡…狭沼郷、太多郷、三方郷、楽前郷、高田郷、高生郷、浅間郷、日置郷、賀陽郷

    • 1889年(明治22年)4月1日 – 町村制施行(7村)

中筋村(賀陽郷)・日高村・国府村・八代村・三方村・西気村・三椒村

  • 1894年(明治27年)12月15日 – 清滝村が西気村より分立。
  • 1896年(明治29年)4月1日 – 美含郡とともに城崎郡へ編入され消滅。
  • 1925年(大正14年)11月1日 – 町制を施行し日高町となる。
  • 1955年(昭和30年)2月1日 – 養父郡宿南村の一部を編入。
  • 1955年(昭和30年)3月25日 – 日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足。
  • 2005年(平成17年)4月1日 – 豊岡市、出石町、但東町、城崎町、竹野町と合併して新たな豊岡市が発足し、日高町消滅。

■太多郷=旧西気村)

神鍋(かんなべ)

神鍋は、マオリ語の

「カネ・ナペ」、KANE-NAPE(kane=head;nape=ligament of a bihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifulhttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「(V字形に開いた山脈=口を開いた貝の間を連結している)貝柱の(中にある)頭(のような山)」 の転訛。
または、「人里近く、姿優美な山、神々が降臨され、鎮まる山を「神奈備(かむなび)」というが、神体山信仰のかんなび(神奈備)が訛っって「カンナベ」になったものではないかと思っていましたが、噴火口が大きなお鍋のように見えるから「神様の鍋」のだとか。「カンナビ」が、このマオリ語のカネ・ナペとしても意味が通じるのだ。

太田(ただ)==古:太多兵庫県下でも関宮町別宮遺跡 (海抜6~700m、縄文早期までの複合遺跡) とともに爪型文土器が発見された、神鍋遺跡(神鍋字笹尾・上野、標高330~360m-縄文早期までの複合遺跡)のある区

「タタ」、TATA(stalk,stem,fence)、または「タ・タ」、TA-TA(ta=the…of;ta=dash,beat,lay,sprinkle by means of a branch or bunch of leahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifes dipped in water)

「垣根のような(長く延びている。岬)」

神鍋山の形状の事ではないでしょうか。

または  「タタ」、TATA(bail water out of a canoe,bailer)、「舟の中に滲み出すあか水(湿地の水)を汲み出す(川。佐陀川を開削した神。その神が鎮座する場所)」

鶴岡字多田谷(タタノヤ)もある。楯谷が変化した?楯縫神社。

岩倉(いわくら)

神鍋の小字である岩倉は、

IWA-KURA(iwa=nine(numerous);kura=red feathers,precious,treasure)、「大量の宝物(を埋蔵した場所)」

実際に神鍋の岩倉は現在神鍋スキー場のゲレンデ名で知られていますが、火山活動による風穴があり、地元の人が現在でも冷蔵庫代わりに食糧を貯蔵したりしています。古代人が住み着いたり物資を貯蔵するにはもってこいです。
また、「イワ・クラエ」、IWA-KURAE(iwa=nine;kurae=headland)、「沢山の尾根が出ている(土地)」の転訛。

稲葉(いなんば)

後述の雷神社がある区。旧気多郡の中心的な円山川の支流、稲葉川の最上流部

この「いなは」は、マオリ語の
「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside;na=belonging to;pa=block up,prehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifent,screen,stockade)、「交通の障害となっているもの(蘇武岳と三川山)の付近の地域」
、または
「イ・ナ・パ」、I-NA-PA(i=beside,past tense;na=satisfied,belonging to;pa=stockade)、「ゆったりとした巨大な集落のそば(の地域)」の転訛と解します。 →太田

山田(やまた)

奥神鍋スキー場のある区

「イア・マタ」、IA-MATA(ia=indeed,current;mata=face,eye,flint,obsidiam)、「実に・眼がある(溜め池がある。地域)」または「実に・(火打ち石や石器に使える)堅い石(サヌカイトなど)がある(屋島がある。地域)」
の転訛と解します。

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万却(まんごう)

「まんぼう」は、マオリ語の「マナ・ポウ」、MANA-POU(mana=power,psychic force;pou=pau=consumed,exhausted)、「生命力を消耗した(ような鈍重な魚)」(「マナ」の語尾のA音が脱落して「マン」に、「ポウ」が「ボウ」に変化した)

の転訛と解します。 「まんぼう」が訛って「まんごう」になった?

栗栖野(くりすの)

この「くり」は、マオリ語の「クリ」、KURI(=kurikuri=fusty,ehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifil smelling)、「(花に)悪臭がある(木)」

または「ク・フリ」、KU-HURI(ku=silent(whakakuku=beach a canoe);huri=seed)、「静かな(貯蔵する)種子(=栗実。またはその実をつける木)」(「ク」と「フリ」の語頭のH音が脱落した「ウリ」が結合して「クリ」となった)

の転訛と解します。
「すのこ」は、「ツ・(ン)ガウ・コ」、TU-NGAU-KO(tu=fight with,energetic;ngau=bite,hurt,attack;ko=to gihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife emphasis)、「実に・たくさん・(食いちぎられて)隙間が空いているもの(簀の子)」(「ツ」が「ス」と、「(ン)ガウ」のNG音がN音に、AU音がO音に変化して「ノ」となつた)または「ツ・(ン)ゴコ」、TU-NGOKO(tu=fight with,energetic;ngoko=itch,tickle)、「盛んに・(足の裏を)刺激するもの(簀の子)」(「ツ」が「ス」と、「(ン)ゴコ」のNG音がN音に変化して「ノコ」となつた)

の転訛と解します。
それらの複合語で「クリ+スノコ」が訛って縮まった。

万場(まんば)

この「まんぼ」は、マオリ語の「マノ・ポウ」、MANO-POU(mano=interior,heart,ohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.giferflow;pou=pour out)、「水が流れ出す地中(のトンネル)」の転訛(「マノ」の語尾のO音が脱落して「マン」と、「ポウ」の語尾のU音が脱落して「ポ」から「ボ」となった)と解します。 →さらにまんばになったのでは?
東河内(ひがしこうち)

「コウ・チ」、KOU-TI(kou,koukou=anoint,sprinkle;ti=throw,cast)、「(笹竹で清めの)水を振りかけたような(僅かに湿っている)土地が・放り出されている(地域)」の転訛と解します。

名色(なしき)
「ナチ」、NATI(pinch or contract)、「(圧縮したように皮や果肉が)堅い(果実。梨)」
梨の木の転訛と解します。

■太多郷=旧西気村・清滝村)

清滝(きよたき)マオリ語の 「キオキオ・タキ」、KIOKIO-TAKI(kiokio=lines in tatooing;taki=track,lead)、「(顔の)入れ墨の線を辿る(ような川)」 の転訛(同音反復の語尾「キオ」を省略した)と解します。
栃本(とちもと)「ト・チ(ン)ゴ(ン)ゴ・キ」、TO-TINGONGO-KI(to=be pregnant,drag;tingongo=cause to shrink,shrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifel;ki=full,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifery)、「縮み上がる(肝を冷やすような険しい)ところが・たくさん・中にある(峠)」(「チ(ン)ゴ(ン)ゴ」のNG音がN音に変化して「チノノ」となり、反復語尾が脱落して「チノ」となった)
の転訛と解します。山宮(やまのみや)

「イア・マ」、ia-ma(ia=indeed;ma=white,clean)、「実に・清らかな場所(山)」
石井(いしい)

「イ・チ」、i-ti(i=past tense;ti=throw,cast)、「(大地から切り離されて地上に)放り出され・たもの(石)」の
井。または、
「イ・チヒ」、I-TIHI(i=beside;tihi=summit,top)、「(多布施川の最上流部)頂点の・近くの(樋)」(「チヒ」のH音が脱落して「チイ」から「シイ」となった)
の転訛と解します。
頃垣(ころがき)

「コロ」、KORO(old man)、「(老人の白髪のような)白い(粉を吹いた干し柿。枯露柿)」
十戸(じゅうご)

「トウ」、tou(posteriors,lower end of anything,tail of a bird)、「(尻尾の)最後の(数。十)」

戸は、音読みでは「ヘ」と読みます。

「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)

の転訛と解します。

「コ」、ko(descendant)、「子孫(となるもの。卵)」

「戸」は「べ」で部の意味であるなら十人の、十番目の部
延喜式神名帳の名神大の戸神社があり、へじんじゃ、このじんじゃとも呼びます。

庄境(しょうざかい)

「しょう」は、マオリ語の

「チホウ」、TIHOU(an implement used for cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifating)、「(耕作の道具である)鍬。または鍬で耕す耕地。または(ある人が支配する)耕地の広がり」(原ポリネシア語の「シホウ、 SIHOU」のH音が脱落して日本語では「シオウ」から「ショウ」と、マオリ語ではS音がT音に変化して「チホウ」となった)

の転訛と解します。

「さかい」は、マオリ語の「タ・カイ」、TA-KAI(ta=the,lay;kai=reach,arrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife at)、「(その果てのところまで)到達した(場所。境界の地)」の転訛と解します。
椒(はじかみ) 竹野町椒(旧気多郡)

「パチ・カミ」、PATI-KAMI(pati=ooze,spurt,splash;kami=eat)、「はじけた(実を)・食べる(野菜)」(「パチ」のP音がF音を経てH音に変化し「ハチ」から「ハジ」となった)または「パチチ・カミ」、PATITI- KAMI(patiti=warm oneself;kami=eat)、「食べると・(体が)熱くなる(野菜)」(「パチチ」のP音がF音を経てH音に変化し、反復語尾が脱落して「ハチ」から「ハジ」となった)
床瀬(とこせ) 竹野町床瀬(旧気多郡)

「トコ」、TOKO(pole,push or force to a distance,begin to mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「(さあ)始めは」

「(正面の)反対側(背)」(AI音がE音に変化して「テ」から「セ」となった)

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■三方地区(みかた:旧三方村、郷)

「ミヒ・カタ」、MIHI-KATA(mihi=greet,admire,show itself;kata=opening of shellfish)、「貝が口を開いたような地形(潟のある地形)を・見せつけている(誇示している。地域)」(「ミヒ」のH音が脱落して「ミ」となった)の転訛と解します。
実際に楓の葉のように五方に谷が広がっています。
金谷(かなや)「カナ・イア」、KANA-IA(kana=stare wildly,bewitch;ia=current,indeed)、「川の流れ(流れの早さ、水量・水深など)を・じっと目を凝らして見る。
昔、金山があった所で、金が採集されていました。
垣屋氏がそれを治めていました。河畑(かばた)

「カパ・タ」、KAPA-TA(kapa=row,rank,stand in a row or rank;ta=dash,dash water out of a canoe,lay)、「段になったところ(河岸段丘)を激しく流れる(川、または河岸段丘にある渓谷)」
の転訛と解します。

殿(との)

「トノ」、TONO(tono=bid,command,send,demand)、「灯を灯して・送った(送使)」
の転訛と解します。反対側に垣屋氏の鶴ヶ峰城があったので垣屋殿の居館があったのではないでしょうか。

室(むろ)

マオリ語の 「ム・ロ・フ」、MU-RO-HU(mu=silent;ro=roto=inside;hu=swamp,hollow,hill)、「静かな内側(山奥)の丘(または穴のように開けた場所)」 または  「ムフ・ロ」、MUHU-RO(muhu=grope,push one’s way through bushes;ro=roto=inside)、「(暗いので)手探りで中の方へ進む(場所。室)」
の転訛(「ムフ」の語尾の「フ」が脱落した)と解します。
田ノ口(たのくち)

奥深くに田園がありその入口に集落があります。

広井(ひろい)

「ヒロウ」、HIROU(rake,net for dredging shellfish)、「熊手で均したような(平野)」
猪子垣(いのこがき)

「いのしし」は、マオリ語の

「イ・ナウ・チチ」、I-NAU-TITI(i=ferment,be stirred;nau=come go;titi=go astray)、「(山中を)徘徊していて突然遭遇する(動物)」(「ナウ」のAU音がO音に変化して「ノ」となった)
猪の子の
の転訛と解します。

猪が多く垣根をしたことから地名になったのではないかと思います。

芝(しば)

「チパ」、TIPA(dried up)、「(もと湿地が)乾燥した(場所)」

野(の)

「ノア」、NOA(free from tapu or any other restriction.ordinary,indifinite)、「(墓場のような禁忌がない)野(原)」または「なにも束縛がない(野人など)」(語尾のA音が脱落して「ノ」となった)

荒川(あらかわ)

稲葉川が流れ、氾濫した。

栗山(くりやま)

この「くり」は、マオリ語の「クリ」、KURI(=kurikuri=fusty,ehttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifil smelling)、「(花に)悪臭がある(木)」

または「ク・フリ」、KU-HURI(ku=silent(whakakuku=beach a canoe);huri=seed)、「静かな(貯蔵する)種子(=栗実。またはその実をつける木)」(「ク」と「フリ」の語頭のH音が脱落した「ウリ」が結合して「クリ」となった)

の転訛と解します。
観音寺(かんのんじ)

「カネ・オ(ン)ゲ」、KANE-ONGE(kane=head;onge=scarce,rare)、「珍しい頭(のような峰)」
の転訛と解します。
「カネ」が「カン」に、「オノ」が「オン」となった)
篠垣(しのがき)

「チ(ン)ゴ(ン)ゴ」、TINGONGO(cause to shrink,shrihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifel)、「(全体が)縮んだように小さい(竹)」(NG音がN音に変化し、反復語尾が脱落して「チノ」から「シノ」となった)または「チノヒ」、TINOHI(put heated stones upon food laid to cook in a earth-ohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifen)、「(地面に掘った蒸し焼き穴で)食物の上にかぶせてその上に焼けた石を載せるための植物(篠竹)」(H音が脱落して「チノ」から「シノ」となった)
「(ン)ガウ・リウ」、NGAU-RIU(ngau=bite,hurt,attack;riu=bilge of a canoe,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifallay,belly,chest)、「(東側は鹿島川の源流のシラタケ沢、西側は黒部川の支流の餓鬼谷と東谷の)谷が・浸食されている(谷が深く・岩壁がそそり立っている。山)」または「(ン)ガキ・ヒ(ン)ガ」、NGAKI-HINGA(ngaki=clear off,cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifate,ahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifenge;hinga=fall from an errect position,be killed,lean)、「削られて・(頂上から谷底まで一気に)落ち込んでいる(岩壁がある。山)」(「(ン)ガキ」のNG音がG音に変化して「ガキ」と、「ヒ(ン)ガ」のH音が脱落し、NG音がG音に変化して「イガ」となり、「ガキ」と連結して「ガキガ」とった)
「篠の垣」。
森山(もりやま)

「マウリ」、mauri(a http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifariety of totara timber http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifalued for making canoes)、「(カヌーを造るのに適した)大木(その大木の集まり。森)」(AU音がO音に変化して「モリ」となった)

知見(ちみ)

小さくまとまっている、こじんまりとしているさま。

チヒ・マ→チ・マ(「ヒ」が脱落)、TIHI-MA(tihi=top,point,topknot of hair;ma=white,clean)、きれいに結い上げた頭上のまげ→小さくまとまっている

佐田(さた)

「タタ」、TATA(dash down,strike repeatedly,stem,fence)、「垣根のような(岬)」

の転訛と解します。

伊府(いぶ)

「イ・ノペ」、I-NOPE(i=past tense,beside;nope=constricted)、「(山と山に挟まれて)押し潰されて・いる(地域)」
の転訛と解します。
とありますが、日高町伊府は、まさに低い丘と佐田の山々に挟まれた細長い地域です。

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■日高地区(ひだか:旧日高村、日置郷)

■日高地区(ひだか) 日置郷(村)と高田郷(村)が明治に合併し、日高村→日高町となる。「日置」の日と「高田」の高を合わせて新しい日高村とした。久田谷(くただに)

太多郷の最東端で銅鐸が発見されたところ。クタはケタが訛った?!のかもしれないとすれば、気多へ向かう谷、または気多氏の住む谷ではないか。
辺坂(へんざか)

「ノ・ヘア」、NO-HEA(no=from,belonging to,of;hea=what place?,any place,elsewhere)、「(一から九までの)いずれかの・場所(地域)」(「ヘア」の語尾のA音が脱落して「ヘ」となった)の転訛と解します。
-の坂
夏栗(なつくり)

「ナハ・ツ」、NAHA-TU(naha,nahanaha=well arranged,in good order;tu=fight with,energetic)、「(動植物が)生き生きと・活動する(季節。夏)」(「ナハ」のH音が脱落して「ナ」となった) 、夏の栗
道場(どうじょう)

「トウ・チオ」、TOU-TIO(tou=dip into a liquid,wet;tio=cry,call)、「潮騒が聞こえる(海水に浸かって泣いているような海岸)」
気多氏の兵の道場があった?

久斗(くと)=久刀

マオリ語の

「ク・ツ」、KU-TU(ku=silent;tu=stand,settle)、「静かに暮らしている(人々。その住む土地)」

の転訛か 「クタオ」、KUTAO(cold)、「寒い(場所)」

の転訛と解します。
また久刀兵主神社が置かれているが、気多氏とヤマト政権側が戦ったと戦地を伝えるではないか。
高田(たかた)郷

和妙抄では「多加多」と訓じている。但馬考…夏栗、久斗、祢布、石立、国分寺、水上

「タカ(高)・タ(処)」で「台地、丘陵」など「高地」野医とする説があります。
「タカ・タ」、TAKA-TA(taka=heap,lie in a heap;ta=dash,beat,lay)、「浸食されている・高台(の地域)」
の転訛と解します。
水上(みのかみ)

「ミナカ・ミ」、MINAKA-MI(minaka=desire;mi(Hawaii)=urine,stream)、「(何かを)求めるように(噴流する川。噴流する温泉)」
山本(やまもと)

「イア・ママオ・ト」、IA-MAMAO-TO(ia=indeed,current;mao,mamao=distant,far away;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・遠くまで・(雄物川を)遡った(場所にある。地域)」(「ママオ」のAO音がO音に変化して「マモ」となった)

または「イア・ママウ・ト」、IA-MAMAU-TO(ia=indeed,current; mau,mamau=grasp,wrestle with;to=drag,open or shut a door or a window)、「実に・(悪戦苦闘して)やっと・辿り着いた(地域)」(「ママウ」のAU音がO音に変化して「マモ」となった)

の転訛と解します。

祢布(にょう、にお)
当店があるところで、旧役場など日高町の中心機関が集まる。かなり広い地名で、祢布ヶ森遺跡など但馬国府と関係があったのではないかという事が分かってきた。祢布城があった城山の裾に楯石神社。

但馬国分寺に近く売布神社も近い。
舞鶴市赤野は同じ祢布村だった。高野女布の祢布神社。

舞鶴市女布の金峰神社(上路神社)に祢布神社(奥の院)
祭神 天之御中主命
女布(にょう)は、古くは「祢布」と記し、アイヌ語の村の意。

「ニオ」、NIO((Hawaii)highest point,pinnacle,to reach the summit)、「最高の(精選した。麻の繊維)」(この「熟麻(にお)」の語源は、刈稲を円錐形に高く積み上げた「堆(にお)」の語源と同じと解します。

「ニアオ」、NIAO(gunwale of a canoe,rim of any open http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifessel)、「(三崎(荘内)半島をカヌーに見立ててその)船縁(にある。土地)」(AO音がO音に変化して「ニオ」となった)

または、
「ニウ」、NIU(dress timber with an axe,mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife along,glide)、「滑るように流れる(川。その河口の港)」 または、「ヌイ・フ」、NUI-HU(nui=large,many;hu=promontory,hill)、「(岬のような)細長くて低い山が・たくさんある(地域)」(「ヌイ」が「ニ」となった)
「ニウ」、NIU(dress timber smooth with an axe,mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife along;(Hawaii)niu=spinning)、「(粒となつてころころと流れる)水銀(朱を産する。地域)」または「(斧で表面を削ったような)小さい起伏がある(地域)」
石立(いしだち)

現在はほぼ国分寺区。賣布神社[ヒメフ][めふ]

大賣布命 配 毘沙門天、稻荷大明神

兵庫県豊岡市日高町国保字山ノ脇797
祢布区に隣接し、丹(水銀)と関係するのか?
京丹後市網野町木津女布谷にある賣布神社(ひめふじんじゃ)神名小 豐宇賀能咩命、素盞嗚命(とようかのめのみこと)由緒
『竹野郡誌』に次の様に記載されている。
垂仁天皇九十年春、田道間守勅を奉じて常世国に渡航し、不老不死の香菓たる橘を得、景行天皇元年無事帰国し、田神山(屋船山)に神籬を設けて礼典を挙げられしより、此の地に奉祀せしを以て創始とする。

賣布神社は京丹後市久美浜町女布初岡にある賣布神社 祭神豐受姫命、大屋媛命、抓津媛命。しかも神社の読みは島根県松江市に鎮座する式内社と同名。深い谷。似た地名に丹生舞鶴市女布(ニョウ)があり、日本の水銀鉱床は中央構造線沿い、当地に関係深いところなら特に紀ノ川・吉野川流域にあるのだが、そのずっと北側にも、当地の女布あたりを中心に大きな楕円を描いて但馬から近江・越前を含む範囲、若狭湾岸地域とも呼ばれているが、そこにも集中分布しているのが以前から知られている。

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国分寺(こくぶんじ)

但馬国分寺があったところ。国分寺城。
伊福(いう)村

鶴岡区のかつての村名。
製鉄の部、伊福部に由来している。
鶴岡(つるおか)

古くは伊福村。

「ツル」、TURU(post,pole,upright)、「(頸と足が長くて)直立している(鳥。鶴)」(なお、植物の「つる(蔓)」は、「ツ・フル」、TU-HURU(tu=stand,settle,fight with,energetic;huru=contract,draw in,gird on as a belt)、「しっかりと・巻き付くもの(蔓)」(「フル」のH音が脱落して「ル」となった)の転訛と解します。さらに、弓の「つる(弦)」も同じ語源で、「しっかりと・(弓の両端を)引っ張るもの(弦)」と解します。)
「オカ」、OKA(prick,stab)、「(突き刺したように海が)細長く入り込んでいる(場所。湾がある地域)」

多田谷(たたのや)

円山川右岸で谷が深い。伊福とたたら製鉄と関係があるのか?川沿いに楯縫古墳がある。現在鶴岡区

楯縫神社[タテヌイ]

彦狹知命、譽田別命、息長足姫命

兵庫県豊岡市日高町鶴岡字保木177

御由緒

白鳳時代、今から千三百年の往昔出雲国から、丹波国を経て当国で栄えた楯縫連(た てぬいのむらじ)が、遠祖(とおつおや)彦狭知命を楯屋丘(たてやのおか)多田谷 にまつる。西暦千九百四十七年此地に遷座奉祀す。

「タタ(ン)ガ・ツク」、TATANGA-TUKU(tanga,tatanga=be assembled,row,tier,company of persons,proximity,nearness;tuku=let go,lrahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife,allow,send,settle down,side,shore,ridge of a hill)、(1)「列をなして並んでいる・山の峰々(記歌謡)」または(2)「いたって近いところに・寄り添う(2-194)」(「タタ(ン)ガ」のNG音がN音に変化して「タタナ」となった) 。-の谷。

日置(ひおき)、郷(ヘキ)

日置郷…和妙抄は「比於岐」。日置、多田谷、伊福、上郷、中郷

マオリ語の
「ヒオ・キ」、HIO-KI((Hawaii)hio=a sweep or gust of wind,lean,incline;ki=full,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifery)、「強い風が・しばしば吹く(地域)」の転訛と解します。
「ヒキ」、HIKI(lift up,raise,carry in the arms,remohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife)、「高くなつた丘陵(岩殿丘陵のある地域)」 の転訛と解します。
式内日置神社がある。日置は戸置で、税金の徴収台帳である戸数を調べるものとか、日を置くことで、暦に関係したものとか、火置と考えて、浄火を常置して神事に関係したとか、楯部らとともに、太刀を作っていたから、武器製作にも関係していたとか言われている。しかし、律令時代に日常業務にあたって殿部(とのもり)の中に名を見せる日置氏は、火を灯す役を受け持っているから、代々朝廷に仕えていたのではないか。
江原(えばら)=荏原

マオリ語の

「エパ・ラ」、EPA-RA(epa=pelt,throw,hindrance;ra=wed)、「(円山川の氾濫で)痛めつけられた場所が連なる(地域)」

の転訛と解します。
宵田(よいだ)

「イオ・イ」、io-i(io=stand firm;i=past tense,be stirred of the feelings(whakai=self-conceited))、「しっかりと・自惚れた(満足した。良い)」

岩中(いわなか)

「イ・ワ」、i-wha(i=past tense;wha=be disclosed)、「(大地からその先端を)現わし・たもの(岩)」と対比した表現と解します。)

岩がある土地の真ん中か?
地下(じげ)

消滅。所在地不明。岩中と祢布の一部で日高小辺りか?

淺倉(あさくら)

旧養父郡宿南村

「アタ・クラ」、ATA-KURA(ata=gently,clearly,openly;kura=red,ornamented with feathers,precious)、「羽根で飾ったような(美しい)・清らかな(土地。地域)」

の転訛と解します。
赤崎(あささき)

旧養父郡宿南村

「アカ・タキ」、AKA-TAKI(aka=clean off,scrape away,http://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifine of any climbing plants;taki=take out of the way,track with a line from the shore)、「(岸から)はみ出した表面が拭い去られたような(場所)」

■八代地区:旧八代村=狭沼郷(さぬま)

「トウ・マ」、TOU-MA(tou=posteriors,lower end of anything,dip into a liquid,dip frequently into liquid;ma=white,clean)、「しばしば水に漬かる(洪水に見舞われる)清らかな(地域)」
藤井(ふじい)この「ふじい」は、マオリ語の
「フチ」、HUTI(hoist,pull out of the ground,fish with a line)、「(持ち上げた)垂れた(花を付ける植物。藤)」
奈佐路(なさじ)奈佐に向かう道。
奈佐は豊岡市奈佐。「なせ」は、マオリ語の「ナ・テ」、NA-TE(na=by,indicate parentage or descent,belonging to,by reason of;te=emphasis,crack)、「(主人公と)離れている(疎遠になっている人間)」

の転訛と解します。
谷(たに)

中(なか)

「ナカ」、NAKA(mohttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife in a certain direction:(Hawaii)to quihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifer,shake,to crack open)、「震動しながら(または割れ目をつくって)流れる(川。その流域の土地)」

かつて国府平野(高生平野から豊岡盆地までは円山川の入り江で国府駅付近は海抜0メートルと日高町で最も低地)から円山川に注ぐ八代川は大雨のときには氾濫していたのでしょうし、洪水のときには円山川から逆流したりで被害が大きかった地域が、狭沼郷東部です。
谷(たに)

猪ノ爪(いのつめ)

天日槍の子多遅摩比那良岐を祭る古社・多麻良岐(たまたき)神社がある。
八代

「実に・(フォークのような)二股に分かれている(土地)」
河江(かわえ)

小河江(こがわえ)

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■国府地区(旧国府村、高生郷、気多郷)

高生(たこう)消滅。所在地不明。国府平野を高生平野と言っている。

高生郷…和妙抄は「多加布」。地下、岩中、宵田、江原

山本、松岡、土居、手辺、国府市場、堀、野々庄、池上、芝、上石の十区が所属不明。国府の所在地には、行政上の特別処置として郷を設置しなかったものか、あえて国があるから郷名が忘れられてしまったものか。

上石の国府駅以西は海抜0メートル地帯。

「タ・カウイ」、「編んだレースのような(川の流れが縦横に入り組んでいる九頭竜川の河口付近一帯の)土地を・(九頭竜川の洪水が)襲う(地域)」

竹貫(たかぬき)

「タクヌイ」、TAKUNUI(wide)、「広い(浦)」

鷹貫神社[タカヌキ] 鷹野姫命

兵庫県豊岡市日高町竹貫字梅谷429

御由緒

創立年月不詳なるも祭神鷹野姫命は神功皇后の御生母にましませり延喜式の制鷹貫神 社と記して小社に列し明治六年十月村社に列せらる。

「タケケ」、TAKEKE(denoting exhaustihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife character of the action indicated.consumed,completely acquired,etc.)、「消耗した(中が空(から)になった植物。竹)」(反復語尾が脱落して「タケ」となった)
水生(みずのお)
上石区の小字名。水生城があった山、水生寺
中世頃はすぐ下は沼地だったといわれる。

「ミ・ツ」、mi-tu(mi=stream;tu=stand)、「(流れる)水が・静止している(水)」

「アウ」、AU(string,cord)、「糸(繊維。その繊維を採る植物)」(AU音がO音に変化して「オ」となった)
上石(あげし)

「ア(ン)ガイ」、ANGAI(north-north-west wind,on the west coast)、「西に河岸がある(土地)」(NG音がG音に、AI音がEI音に変化して「アゲイ」となった)

「ア・(ン)ゲル」、a-ngeru(a=the…of,belonging to;ngeru,ngerungeru=smooth,soft)、「関係を円滑にする・もの(贈り物をする。(物を)上げる)」(「(ン)ゲル」のNG音がG音に変化して「ゲル」となった)

石を上にした。?

西芝(にししば)

上記参照。
池上(いけがみ)

「イケ」、IKE(strike with a hammer or other heahttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gify instrument)、「(金槌で叩いた跡のような)穴(その穴に水が溜まった。池)」

または「イケ・(ン)ガミ」、IKE-NGAMI(ike=high,strike with a hammer;ngami,wahkangami=swallow up)、「高く隆起した(丘)」
野々庄(ののしょう)

古くは大将野庄という荘園だった。

「ノア」、NOA(free from tapu or any other restriction.ordinary,indifinite)、「(墓場のような禁忌がない)野(原)」または「なにも束縛がない(野人など)」(語尾のA音が脱落して「ノ」となった)
「しょう」は、マオリ語の「チホウ」、TIHOU(an implement used for cultihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gifating)、「(耕作の道具である)鍬。または鍬で耕す耕地。または(ある人が支配する)耕地の広がり」

掘(ほり)

「ホウ・ル」、hou-ru(hou,houhou=dig up;ru=shake,agitate)、「掘り・上げる(掘る)」(「ホウ」のOU音がO音に変化して「ホ」となつた)
国府の掘割りに由来しているという。

府中新(ふちゅうしん)

府中は律令制の下で但馬国の国府所在地であったことによります。

古くは地名がなく、現在は存在しない手辺という地域ではないか。

府市場(ふいちば)

国府のそばに市場が開かれていたという。古くは下郷だと思う。

土居(どい)

国府の土居があったと伝えられている。古くは下郷だと思う。
御井神社[ミヰ]

御井神 配 菅原道眞

兵庫県豊岡市日高町土居字天神228

御由緒

創立年月不詳にして延喜式の制小社に列し近世天満宮と崇めしも明治三年御井神社と 改称す同六年十月村社に列せらる。

松岡(まつおか)

円山川西岸の土手に松の木があったのでは。古くは下郷だと思う。

上郷(かみのごう)

日置村上郷。気多神社があり、幻の気多郷か?
気多神社[けた]

大己貴命

兵庫県豊岡市日高町上郷字大門227 天日槍命と気多氏

御由緒

創立年月不詳なるも大己貴命(葦原志許男命)と(天日槍命と)国占の争ありし時、命の黒葛此地に落 ちたる神縁によりて早くより創立せられしものならむ。延喜式の制小社に列し中世以 降総社気多大明神と仰ぎ鎌倉時代社領として大般若田、三十講田其他の神領田を有し たりき明治三年社名を現在の通りに改め同六年十月郷社に列せらる。

■賀陽(かや)郷 (豊岡市)

旧気多郡賀陽や丹後に加悦町がありますが、この「かや」は、
朝鮮伽耶か?「カイ・ア」、KAI-A(kai=eat,quantity,fulfil its proper function;a=drihttp://kojiyama.net/history/wp-content/uploads/2014/12/turuhikou1.gife,collect,well)、「浸食された土地が・集まっている(地域)」 、または「カ・イア」、「集落(群)」 の転訛と解します。
土渕(ひじうち)「ピヒ・チヒ」、PIHI-TINI(pihi=begin to grow,sprout;tini=summit,top)、「(峰の)頂上まで・木が生える」(P音がF音を経てH音に変化して「ヒヒ」となり、「チヒ」とともにH音が脱落して「ヒチ」から「ヒジ」となった)
「フチ・ノペ」、HUTI-NOPE(huti=pull up;nope=constricted)、「引き上げられて圧縮された(土地)」

の転訛と解します。
引野(ひきの)

「ヒ・ク」、hi-ku(hi=raise,draw up;ku=silent)、「静かに・引き上げる(引く)」

佐野(さの)
清冷寺(せいれいじ)
木内(きなし)

「キヒ」、KIHI((Hawaii)edge,tip,sharp point of a leaf)、「(葉の)先が鋭く尖っている(野菜。ねぎ)」

井上夢間さんの「夢間草廬(むけんのこや)-ポリネシア語で解く日本の地名・日本の古典・日本語の語源」

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縄文土器色(かわらけいろ)#c37854最初のページ戻る次へ
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たじまる 縄文3 神 (神道)

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
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神 (神道)

概 要

目 次

  1. 神 (神道)
  2. 分類
  3. 神名(しんめい
  4. 神道の研究
 神道は、太古の日本から信仰されてきた固有の文化に起源を持つ宗教。日本列島に住む民族の間に自然発生的に生まれ育った伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤とし、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立していきました。 なお、神道には明確な教義や教典がなく、『古事記』『日本書紀』『古語拾遺』『宣命』などといった「神典」と称される古典を規範とします。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊を祀り、祭祀を重視します。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目と、他宗教と比べて、現世主義的であり、性善説的であり、祀られるもの(神)と祀るもの(信奉者)との間の連体意識が強い、などといった特徴が見られます。

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1.神 (神道)

 日本では気象、地理地形に始まり、あらゆる事象に「神」の存在を認める八百万(やおよろず)の神といい、万物に精霊が宿るというアミニズムから発展した多神教で、そこいら中に神がいて、どの神が正しいというはっきりとした基準がありません。 多神教の神には二つの顔があります。人々に恵みをもたらすありがたい福の神「豊饒(ほうじょう)の神」、そして、祟りのような災難をもたらす神です。これは、良い神と悪い神の二種類いるというわけではなく、一柱の神に、「神」と「鬼」の二面性があるのです。

つまり、神と鬼は表裏一体であり、神は祟るからこそ祀られ、そして、祟る神=鬼は祀られることで、恵みをもたらす豊饒の神へと変身します。このような複雑で原始的な図式が多神教の特色であり、一神教世界は、この混沌から抜け出し発展したと自負しています。また、先進国で多神教を信奉しているのは日本だけです。おそらくこの辺にも、「日本は異質だ」、といわれる原因があるのでしょうか。

これに対し、キリスト教世界では、神は一人であって、だからこそ絶対的存在とみな信じているのです。「唯一絶対の神がこの世を想像し、その教えが絶対的に正しい…」、これがいわゆる一神教というものです。

神道と仏教の違いについては、神道は神話に登場する神々のように地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村etc)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教は主に個人の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく異なります。

日本の神道は、多神教で神道の神々は、別の宗教の神を排斥するより、神々の一人として受け入れ、他の民族や宗教を自らの中にある程度取り込んできたとして、その寛容性が主張されることがあります。しかし、世界各地に仏教が広まった際、土着の信仰との間に起こった現象です。日本に552年(538年説あり)に仏教が公伝した当初には、仏は、蕃神(となりのくにのかみ)として日本の神と同質の存在として認識されていました。

神道は多神教だが、祖霊崇拝性が強いため、古いものほど尊ばれる。1881年の神道事務局祭神論争における明治天皇の裁決によって伊勢派が勝利し、天照大神が最高の神格を得たが、敗北した出雲派的なものが未だに強く残っていたり、氏神信仰などの地域性の強いものも多い。

明治の神仏分離令によって分離される以前は、神道と仏教はしばしば神仏や社寺を共有し寺院の境内に社があったり、神社の境内に神宮寺が併設されたり、混じりあっていました。それは人と同じような姿や人格を有する「人格神」であり、現世の人間に恩恵を与える「守護神」ですが、祟る(たたる)性格も持っています。災害をもたらし、祟るからこそ、神は畏れられました。神道の神は、この祟りと密接な関係にあります。

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2.分類

自然物や自然現象を神格化した神 最も古い、自然物や自然現象を神格化した神です。古代の日本人は、山、川、巨石、巨木、動物、植物などといった自然物、火、雨、風、雷などといった自然現象の中に、神々しい「何か」を感じ取っていました。自然は人々に恩恵をもたらすとともに、時には人に危害を及ぼします。古代人はこれを神々しい「何か」の怒り(祟り)と考え、怒りを鎮め、恵みを与えてくれるよう願い、それを崇敬するようになりました。これが後に「カミ(神)」と呼ばれるようになりました。

古代の指導者・有力者の神格化

日本において天皇のことを戦前は現人神と呼び、神道上の概念としてだけでなく、政治上においても神とされていました。現在では、昭和天皇によるいわゆる人間宣言により政治との関わり、国民との関係は変わりました。しかし、神道においては天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血を引くとされる天皇の存在は現在も大きな位置を占め、信仰活動の頂点として位置付けられています。

また、その時代の有力者を死後に神として祭る例(豊臣秀吉=豊国大明神、徳川家康=東照大権現ど)や、権力闘争に敗れまた逆賊として処刑された者を、後世において「怒りを鎮める」という意味で神として祭る例(菅原道真、平将門など)もこの分類に含まれます。

さまざまな部族が個々に固有の神を信仰していました。それらの部族が交流するにしたがって各部族の神が習合し、それによって変容するようになっっていきました。この神神習合が、後に仏教をはじめとする他宗教の神々を受け入れる素地となっていきました。

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3.神名(しんめい

 神名は、大きく3つの部分によって構成されています。

例えば天日槍命(アメノヒボコノミコト)の場合

  1. 「アメ」ノ
  2. 「ヒボコ」ノ
  3. 「ミコト」

となります。

神名は、1.の部分を省略して呼ぶことがある。また、民俗学・神話学など学術的な場面では3.の神号を略すことが多い。

1.神の属性(「アメ」ノ)

最も多い「アメ」「アマ」(天)は天津神であること、または天・高天原に関係のあることを示す。「クニ」(国)は国津神を表すこともあるが、多くは天を表わす「アメ」のつく神と対になって地面もしくは国に関係のあることを示す。

天津神(あまつかみ)は高天原(たかまがはら)にいる、または高天原から天降った神の総称。

別天津神(ことあまつがみ)古事記において、天地創発の時にあらわれた五柱の神々を云う。

三柱の神(造化の三神という)

  • 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
  • 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
  • 神産巣日神(かみむすひのかみ) その次に、国土が形成されて海に浮かぶくらげのようになった時に以下の二柱の神が現われた。この二柱の神もまた独神(対となる夫婦神を持たない神)として身を隠した。
  • 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
  • 天之常立神(あめのとこたちのかみ) 別天津神の次に神世七代の神が現れた。最も初期に誕生し、その神性も特別扱いされる別天津神は、本来ならば天照大神(あまてらすおおみかみ)を凌駕するはずである。天照大神を高天原の最高神であるとし、またその子孫であると主張することによって自らの王権を権威付けたい天皇、ひいては朝廷にとって、これはいかにも都合が悪い。この矛盾を解消するために、古事記・日本書紀編纂の過程において別天津神は隠れたことにされた、と考えることができるだろう。つまり、存在はするが影響力は持たない“別格”としたのである。同様に、神世七代の神である伊弉諾尊(いざなきのみこと)は素盞嗚尊(すさのおのみこと)を黄泉の国へ追放した後に身を隠しているし、伊弉冉尊(いざなみのみこと)は天照大神が生まれる前に亡くなっているため、やはり天照大神の最高神としての地位を脅かすことはない。国津神(くにつかみ)は地に現れた神々の総称とされています。日本神話においては、国津神のほとんどが天津神に支配される対象として扱われています。ヤマト王権によって平定された地域の人々が信仰していた神が国津神に、皇族や有力な氏族が信仰していた神が天津神になったものと考えられます。特に国津神については、日本神話に取り入れられる際に変容し、元々の伝承があまり残っていないものも多いです。日本書紀ではしきりにある文として伝承等を引用している点から、その記録文書は後世で失われてしまったようです。「つ」は現代語の「の」のことで、天の神・国の神という意味です。「天つ神」「国つ神」と書くこともあります。漢字二字で天津神を「天神」(てんじん)、国津神を「地祇」(ちぎ)とも言い、併せて「天神地祇」「神祇」と言います。
    ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされている。2.神の名前(「ヒボコ」ノ)末尾が例えば「チ」「ミ」「ヒ」「ムス」「ムツ」「ムチ」「ヌシ」「ウシ」「ヲ」「メ」「ヒコ」「ヒメ」などである。これらは、神神習合が起こる前の各部族での「カミ」を指す呼び名であったとも考えられる。「チ」「ミ」「ヒ」(霊)は自然神によくつけられ、精霊を表す(カグツチ、オオヤマツミなど。ツは「の」の意味)。「チ」より「ミ」の方が神格が高いとされている。「ヌシ」(主)「ウシ」(大人)は位の高い神につけられる(オオヒルメノムチ(アマテラスの別名)、大国主など。「ムス」(産)「ムツ」(親)「ムチ」(祖)は何かを産み出した祖神を表し「キ」「ヲ」(男)「シ」「コ」(子)「ヒコ」(彦・比古・毘古)は男神、「メ」(女)「ヒメ」(媛・姫・比売・毘売)は女神につけられるものである。特に「メ」のつく神は、巫女を神格化した神であるとされることが多い。「コ」は国造(ミヤツコ)小野妹子など、元は男性を表したが、藤原氏が女性名として独占し、近世までは皇后など一部の身分の高い女性しか名乗れなかった事から、現代では女性名として定着した。

    3.神号(ミコト)

    代表的なのは「カミ」(神)と「ミコト」(命・尊)です。「ミコト」は「御事」すなわち命令のことで、何かの命令を受けた神につけられるもの。現れた時の神号は「神(カミ)」です。

    特に貴い神に「尊」、それ以外の神に「命」の字を用いています。特に貴い神には大神(おおかみ)・大御神(おおみかみ)の神号がつけられています。また、後の時代には明神(みょうじん)、権現(ごんげん)などの神号も表れました。

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4.神道の研究

平安時代以前より、出雲において日本神話とのかかわりが議論されていたらしく『出雲風土記』には他所風土記とは違い、そういった性格を色濃く見ることが出来る。 鎌倉時代に伊勢神宮の神官による学問的研究がはじまり、徐々に現在の神祇信仰の形を取るに至った。そして、そうした伊勢派の努力はやっと江戸末期のお伊勢参りの確立によって、知識人よりも祖霊性の強い庶民の一部からも支持を得ることに成功した。

一方で、本居宣長が江戸期には解読不能に陥っていた、『古事記』の解読に成功し、国学の源流を形成していった。これら神道や国学の目覚めが欧米列強に植民地化されつつあったアジアの中で、日本の自覚を促し、明治維新を成功に導く思想的流れの一角を成した。神道が形成される過程において、古代は仏教から強く影響を受け、近世では儒教の日本への流入が大きい。伊勢派の果したことは、それに対抗する神道側の努力だったと考えるべきだろう。

現代の神道は、延喜式(特に「神名帳」)に見られる古くから大和朝廷(ヤマト王権)が祀ってきた神々を中心に統制され、仏教や地方の神々(元は氏神など)を習合し、全国的な一大ネットワーク及び独特の世界を形成しているように見える。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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