平野次郎の生い立ち
平野次郎(1828~64)は、 文政11(1828)年、福岡地行下町(福岡市中央区)で福岡藩足軽・平野吉郎右衛門能栄の二男に生まれる。誕生地は現在今川一丁目となっており、二〇二号線に面し、平野神社が建つている。
父吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分取り立てられている。二歳の時に、父平野吉郎右衛門を亡くした。十一歳で黒田家足軽平野吉郎右衛門の跡を相続した。名は種言、種徳、のち国臣、号は月迺舎・友月庵等。通称は源蔵・次郎。一般には「平野次郎国臣」と呼ばれることが多い。
十代の頃から国学と和歌に通じていた。11歳の時大塩平八郎の乱が起き、13歳にはアヘン戦争(~1842年) が起きている。次郎は14歳で足軽鉄砲頭小金丸彦六の養子になった。小金丸氏は、大蔵春実の三男の大蔵種季の子の小金丸種量の子孫で、本姓は大蔵氏であり、平野国臣の正式名は大蔵種徳(おおくらのたねのり)。
20代のころ、江戸勤務のさなか、黒船が来襲。幕府のその場しのぎの対応に不信感を抱いた。次いで長崎勤務。駐留外国人の非礼さに憤りは頂点に達した。外国の真の目的は日本の富を持ち出すことにある。今の幕府にはそれに対抗する力はない。幕府を倒し、天皇を中心に日本を統一する。強い危機感を抱いた国臣は独自の倒幕論を形成していった。
しかし、福岡藩は佐幕派。国臣は「国の臣下」を意味する名に変え、31歳で脱藩。京都に出て西郷隆盛らと知り合い、活動を始める。最初に表舞台に登場するのは西郷の自殺未遂にかかわる経緯だ。
発端は幕府大老井伊直弼が尊皇攘夷派を弾圧した安政の大獄だ。西郷は、薩摩藩と反井伊派の公家勢力との橋渡し役を務め、追われる身となった僧月照と京都を脱出。自身は先に薩摩に向かう。月照を警護する命がけの任務を国臣は快諾。山伏姿に変装し知略で追っ手を逃れた。
ところが、保守色に転じた藩は月照の薩摩入りを拒否。暗に殺害を命じる。途方に暮れた西郷は月照と入水自殺を図った。月照は死亡。西郷は国臣らの懸命の介抱で息を吹き返す。逃げ延びる国臣の後ろ姿にこうべを垂れ、見送ったのが大久保利通だ。一連の経緯は司馬遼太郎や海音寺潮五郎の作品にも登場する。
追われながら支援者の商家で番頭になりすまし、身を隠した国臣は薩摩に倒幕の決意を促すため再度入国を試みる。だが、薩摩はようやく公武合体に踏み出したばかりで倒幕とはギャップがあった。鹿児島の近くで待つと大久保から「入国不可能」の伝言が届く。このとき、薩摩藩を桜島になぞらえ、無念の思いを刻んだのが冒頭の「我が胸の」の歌だ。
国臣はそれでもあきらめない。身を潜めながら、今度は薩摩藩の最高権力者である藩主島津忠義の父、久光宛に建白書をまとめ上げると、飛脚を装い、薩摩入りに成功。大久保に会い、懸命に説得した。しかし、一脱藩浪士の働きかけだけでは簡単に動くはずもない。薩摩が公武合体から倒幕に転じ、維新を達成するのは、それから7年後のことになる。
その後、国臣は福岡藩に捕らわれ、投獄される。驚くのはその間の執念だ。政治犯には筆墨は与えられない。そこで、落とし紙でつくった「こより」を飯粒で紙に貼りつける「こより文字」を編み出し、牢内で総文字数3万字に上る和歌や論考を書き綴った。食事につくゴマ塩の黒ゴマで「天地」の文字を描き、壁に掲げて悦に入ったりもした。自らの境遇を決してあきらめない。ある種の痛快ささえ感じる。
1年後、朝廷の命により釈放される。直後に公武合体派の薩摩・会津両藩が尊攘派の長州を京都から追放する8・18の政変が勃発。国臣は但馬の生野で挙兵を企てる(生野の変)。勝算はなかったが、藩同士で争う状況を打開し、国内統一を訴える覚悟の挙兵だった。最後は捕らわれ、未決のまま処刑された。早くから独自の倒幕論を唱え、何ら後ろ盾を持たず、独力で駆けめぐった活動はわずか7年で幕を閉じるのだ。享年37。
幕末維新の英傑といえば、普通は坂本龍馬や西郷隆盛らが浮かぶ。ファンの多い人たちだ。が、それと並んで平野国臣の名を挙げるのは、たとえ有名ではなくとも、最初に行動を起こした人々を大切にしたいという思いが強くあるからだ。
福岡藩士
弘化2年(1845年)、18歳の時、普請方手付に任命され、太宰府天満宮の楼門の修理を手がけ、弘化2年に江戸勤番を命じられ江戸に出た。
福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚し、一男(六平太)をもうける。福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。
それでは、次は平野国臣について、いよいよくわしく追跡してみる。
黒船来航と脱藩
6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。
嘉永6年(1853年)、再び江戸勤番になり、江戸で剣術と学問に励んだ。ちなみに同じ年に17歳の坂本龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許され、北辰一刀流の千葉定吉道場(現:東京都千代田区)の門人となる。
この頃に国臣の尚古主義は本格的になっており、安政元年(1854年)に帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。
平野と接点はないが龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月23日、龍馬も15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。
離縁と脱藩
24歳の時、普請方手付として宗像神社の中津宮の修理役として宗像郡大島に出張、そこで薩摩藩を脱藩してきた勤王家・北条右門(木村仲之丞が本名)と出会う。北条は島津斉彬に早く島津家を嗣がせようと運動したことが災いとなり、仲間の多くは捕らえられ処刑されたが、運良く逃れ福岡黒田家にかくまわれた。当時の黒田家の当主は斉溥(なりひろ)・長溥(ながひろ)で薩摩藩からの養子、斉彬の大叔父にあたる人であった。
安政2年(1855年)に長崎勤務となり、ここで有職故実家坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなり、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになった(現代ならば侍の姿で街を歩くようなもの)。これには養家も迷惑し、国臣を咎めるようになった。
国臣は純粋で、かつ行動家だった。彼は国事に奔走する覚悟を決めた。そして養家に迷惑はかけたくないと考え、離縁を決意する。妻の菊と三人の子どもを捨てて養家を飛び出した。安政三(1856)年、29歳の時である。初め養父と妻は、国臣の離縁の申し出に驚愕した。夫婦仲はうまくいっていて、分かれる理由が分からない。二人はかたくなに拒んだ。
国臣は尋常な手段では別れられないことを悟る。そこで、太宰府天満宮への参拝を理由に家を出た。養父も妻も、国臣が数冊の書籍を包んだ風呂敷を手にしているのを見て少しも疑わなかった。
この時に藩務を辞職して脱藩した。結局、平野家へ戻った。無役の厄介となっている。この頃に梅田雲浜と出会い、国事についての知識を得た。
国臣の尚古主義は止まず、安政4年(1857年)には藩主に犬追物の復活を直訴し、無礼として幽閉されている。この時に、月代を伸ばしたままにして総髪にした。月代は古制ではないというのが平野の考えであり、後には浪士を中心に総髪が流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代を置かないのは異様である。国臣は優れた学才とこのような過激な言動から、人望を集めるようになった。
草莽志士時代
安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。
ところが7月16日、斉彬は急逝し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。31歳で脱藩し、国臣の志士活動のはじまりである。
その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。通名・国臣についてはわからないが、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物で、闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあったから、尊皇愛国の僕(しもべ)たらんと自ら名のったのだろう。生野で親しくなった但馬草莽の志士・北垣晋太郎ものちに国道と名乗っている。
僧月照と国臣
西郷は安政5年(1858年)7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。
8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。
しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、結局、西郷たちの工作は失敗し、近衛家から幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照の保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。
9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、筑前で平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。
藩情が一変して難航。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。
藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。藩当局は幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。、国臣は追放され筑前へ帰った。
『尊攘英断録』
平野一行が薩摩領に入ったのは、万延元(1860)年十月だった。
村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、平野は大久保(利通)を信用し、期待して待っていたが、大久保は平野忌避の急先鋒であり、三つ先輩の親友西郷を氏に追いつめるほどの男であることを見抜いてはいなかった。平野一人で久留米城下の旅宿に泊まった時、盗賊改め方の池野に先手をとられる。ここで捉えられては万事休すと、池野の一瞬のすきに灰神楽を浴びせ、脱兎の如く飛び出し、友人宅に走り込む。その後離島に潜入する。ここで執筆したのが、島津久光公への上洛の希望を託した建白書『尊攘英断録』であった。
この一文は平野のかねてからの持論で、尊皇攘夷につき、藩主として断行すべき事を述べたものであった。その要点としては、
・航海術の習得
・罪人による離島開発
・海軍の増強
・清国と同盟を結ぶ(他は省略)
この書の中で国臣は、日本の武士は天皇のために忠誠を尽くすべきだとして、そのための行動決起を促している。
久光の返答を待つ間、国臣が宿で詠んだのが、国臣の歌で最も有名な次の歌である。
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」
日本と天皇を想う国臣の熱い思いが、この歌からひしひしと伝わってくる。
だが国臣苦心の『尊攘英断録』も、結局老中小松帯刀の手に留め置かれ、久光の目には触れなかった。結局、国臣は退去させられることになった。久光の素志は「公武周旋(公武合体)」にあり、幕府を倒そうなどという過激な了見はさらさらない。久光が上京を決意したのは、薩摩藩の代表として、堂々と京に上り、朝廷と幕府の間を取り持ち、国政のイニシアチブを握りたいというのが第一の理由なのであったからだ。しかし、大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。
平野家親族の田中氏が生野資料館に寄贈された。田中氏は昭和12年頃、三菱合資会社生野鉱山営林技術者として勤務されていた。
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参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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