生野義挙 3/8 国臣投獄される

国臣投獄される

平野は『尊攘英断録』をもとに『回天管見策(回天三策)』を著し朝廷に献上したところ、孝明天皇のお目にとまり、平野に対して、おぼえめでたくなった。
文久二(1862)年春、福岡藩主黒田公が明石に到着、本陣に宿泊されることがわかった。平野は久光公使者といつわり、黒田公に書状を提出する。それには、黒田公に勤王派へのご協力をお願いし、もしかなわぬ時は、道中に危険が生じた場合、お守りできぬやも知れず、とあった。黒田公はこの要求を断わり、急病ということにして福岡へ引き返すことになる。この時、意外にも平野は黒田公帰藩のお供を命ぜられる。

行列が下関に着くと、筑前の最新鋭「日華丸」が待っていた。平野は家老から黒田公乗船ゆえと下検分を依頼される。そして日華丸に移ったところで、まんまと盗賊改め方に逮捕されたのだった。そして福岡の獄につながれた。四月二十九日の事であった。

十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。

神武必勝論

十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。もとより筆墨はなく、獄中で使用される粗悪な紙によって文字の形を作り、飯つぶの糊でいちいち別の紙に貼り付けたもので、国臣の国を思う執念が伝わる労作だ。

「神武必勝論」抜粋

上巻

(前略)方今海外の諸蛮連合して、神州をうかがうは、之を囲み攻めんとする敵にして、蒼海は池の如く、海内は本城にして、清国は支城の如し。既に清国の仇をなすこと数十年、しばしば敗をとり、国境を蚕食せられ、或いは夷を雇いて夷を防がしむに至って、英仏の為に天津をとられ、北京に迫られ、終わりに王城を捨て満州に避くるに至りしは、英断のなき故なり。
今それ支城に等しき清国、この如く危急成るのみにならず、本城たる所の海内にも、敵兵すでにかん伏せるもの十年に及べり。(中略)海内よく一和し、器機全備し、兵練航熟し親兵をもって神国を守り、将軍精兵を統率して勝を期するものは、これ英断なり。(以下略)

中巻

(前略)皇国は元来義を貴び利を賤しむ。故に海外に出て商事を務めず、かつ異域を奪うことなし。故に巨艦への蓄えなし。今より必戦を予想し、紀州、日州(日向)あるいは北辺の如き、巨木多材の地を選び、天下の精工、良匠を召し集め、財貨だに費やしたらば、必ず整うべし。すでに水戸、薩摩、長州等にて、自製の巨艦は洋製に劣らずといへり。
西洋諸国は火器をもって勢利を助く。彼、長兵を用いなば、我また長兵をもって之を挫折せしむべし。これまた炭水銅鉄便せんの地に、水軍・大火床・たたら等を据え、鋳工・鍛工を招き砲銃を製せば、数年を経ずして備はらん。(以下略)

下巻

(前略)凡俗どもはとかく、人心の動かん事を恐れ、上部ばかりを押しつくろい巧言にこびいり、無事平穏をはかる。一時の間に合わせをしたり、安易な事のみを行う等、心身を労せずに必勝を求めんとする。
たとえ天地神に祈るとも、未だ人事を尽さざるに、天神いずくんぞ眞祐を下さんや。天朝を尊奉し、幕府を初め国主領主は王事を初め、幕臣はその主命に従いて、武を講じ兵を練り、庶民もまた家業を励みて、軍事を助け兵糧を償いなば、必勝の策は聖明の神武より輝き出でんことを疑うべからず。
文久三年上巳   平野次郎国臣

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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生野義挙 2/8 国臣 黒船来航から西郷との出会い

平野次郎の生い立ち

平野次郎(1828~64)は、 文政11(1828)年、福岡地行下町(福岡市中央区)で福岡藩足軽・平野吉郎右衛門能栄の二男に生まれる。誕生地は現在今川一丁目となっており、二〇二号線に面し、平野神社が建つている。

父吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分取り立てられている。二歳の時に、父平野吉郎右衛門を亡くした。十一歳で黒田家足軽平野吉郎右衛門の跡を相続した。名は種言、種徳、のち国臣、号は月迺舎・友月庵等。通称は源蔵・次郎。一般には「平野次郎国臣」と呼ばれることが多い。

十代の頃から国学と和歌に通じていた。11歳の時大塩平八郎の乱が起き、13歳にはアヘン戦争(~1842年) が起きている。次郎は14歳で足軽鉄砲頭小金丸彦六の養子になった。小金丸氏は、大蔵春実の三男の大蔵種季の子の小金丸種量の子孫で、本姓は大蔵氏であり、平野国臣の正式名は大蔵種徳(おおくらのたねのり)。

20代のころ、江戸勤務のさなか、黒船が来襲。幕府のその場しのぎの対応に不信感を抱いた。次いで長崎勤務。駐留外国人の非礼さに憤りは頂点に達した。外国の真の目的は日本の富を持ち出すことにある。今の幕府にはそれに対抗する力はない。幕府を倒し、天皇を中心に日本を統一する。強い危機感を抱いた国臣は独自の倒幕論を形成していった。
しかし、福岡藩は佐幕派。国臣は「国の臣下」を意味する名に変え、31歳で脱藩。京都に出て西郷隆盛らと知り合い、活動を始める。最初に表舞台に登場するのは西郷の自殺未遂にかかわる経緯だ。

発端は幕府大老井伊直弼が尊皇攘夷派を弾圧した安政の大獄だ。西郷は、薩摩藩と反井伊派の公家勢力との橋渡し役を務め、追われる身となった僧月照と京都を脱出。自身は先に薩摩に向かう。月照を警護する命がけの任務を国臣は快諾。山伏姿に変装し知略で追っ手を逃れた。

ところが、保守色に転じた藩は月照の薩摩入りを拒否。暗に殺害を命じる。途方に暮れた西郷は月照と入水自殺を図った。月照は死亡。西郷は国臣らの懸命の介抱で息を吹き返す。逃げ延びる国臣の後ろ姿にこうべを垂れ、見送ったのが大久保利通だ。一連の経緯は司馬遼太郎や海音寺潮五郎の作品にも登場する。

追われながら支援者の商家で番頭になりすまし、身を隠した国臣は薩摩に倒幕の決意を促すため再度入国を試みる。だが、薩摩はようやく公武合体に踏み出したばかりで倒幕とはギャップがあった。鹿児島の近くで待つと大久保から「入国不可能」の伝言が届く。このとき、薩摩藩を桜島になぞらえ、無念の思いを刻んだのが冒頭の「我が胸の」の歌だ。

国臣はそれでもあきらめない。身を潜めながら、今度は薩摩藩の最高権力者である藩主島津忠義の父、久光宛に建白書をまとめ上げると、飛脚を装い、薩摩入りに成功。大久保に会い、懸命に説得した。しかし、一脱藩浪士の働きかけだけでは簡単に動くはずもない。薩摩が公武合体から倒幕に転じ、維新を達成するのは、それから7年後のことになる。

その後、国臣は福岡藩に捕らわれ、投獄される。驚くのはその間の執念だ。政治犯には筆墨は与えられない。そこで、落とし紙でつくった「こより」を飯粒で紙に貼りつける「こより文字」を編み出し、牢内で総文字数3万字に上る和歌や論考を書き綴った。食事につくゴマ塩の黒ゴマで「天地」の文字を描き、壁に掲げて悦に入ったりもした。自らの境遇を決してあきらめない。ある種の痛快ささえ感じる。

1年後、朝廷の命により釈放される。直後に公武合体派の薩摩・会津両藩が尊攘派の長州を京都から追放する8・18の政変が勃発。国臣は但馬の生野で挙兵を企てる(生野の変)。勝算はなかったが、藩同士で争う状況を打開し、国内統一を訴える覚悟の挙兵だった。最後は捕らわれ、未決のまま処刑された。早くから独自の倒幕論を唱え、何ら後ろ盾を持たず、独力で駆けめぐった活動はわずか7年で幕を閉じるのだ。享年37。

幕末維新の英傑といえば、普通は坂本龍馬や西郷隆盛らが浮かぶ。ファンの多い人たちだ。が、それと並んで平野国臣の名を挙げるのは、たとえ有名ではなくとも、最初に行動を起こした人々を大切にしたいという思いが強くあるからだ。

福岡藩士
弘化2年(1845年)、18歳の時、普請方手付に任命され、太宰府天満宮の楼門の修理を手がけ、弘化2年に江戸勤番を命じられ江戸に出た。
福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚し、一男(六平太)をもうける。福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。
それでは、次は平野国臣について、いよいよくわしく追跡してみる。

黒船来航と脱藩

6月3日、ペリー提督率いる米艦隊が浦賀沖に来航した(黒船来航)。
嘉永6年(1853年)、再び江戸勤番になり、江戸で剣術と学問に励んだ。ちなみに同じ年に17歳の坂本龍馬は剣術修行のための1年間の江戸自費遊学を藩に願い出て許され、北辰一刀流の千葉定吉道場(現:東京都千代田区)の門人となる。
この頃に国臣の尚古主義は本格的になっており、安政元年(1854年)に帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。
平野と接点はないが龍馬が小千葉道場で剣術修行を始めた直後の、6月23日、龍馬も15カ月の江戸修行を終えて土佐へ帰国した。

離縁と脱藩

24歳の時、普請方手付として宗像神社の中津宮の修理役として宗像郡大島に出張、そこで薩摩藩を脱藩してきた勤王家・北条右門(木村仲之丞が本名)と出会う。北条は島津斉彬に早く島津家を嗣がせようと運動したことが災いとなり、仲間の多くは捕らえられ処刑されたが、運良く逃れ福岡黒田家にかくまわれた。当時の黒田家の当主は斉溥(なりひろ)・長溥(ながひろ)で薩摩藩からの養子、斉彬の大叔父にあたる人であった。

安政2年(1855年)に長崎勤務となり、ここで有職故実家坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなり、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになった(現代ならば侍の姿で街を歩くようなもの)。これには養家も迷惑し、国臣を咎めるようになった。

国臣は純粋で、かつ行動家だった。彼は国事に奔走する覚悟を決めた。そして養家に迷惑はかけたくないと考え、離縁を決意する。妻の菊と三人の子どもを捨てて養家を飛び出した。安政三(1856)年、29歳の時である。初め養父と妻は、国臣の離縁の申し出に驚愕した。夫婦仲はうまくいっていて、分かれる理由が分からない。二人はかたくなに拒んだ。

国臣は尋常な手段では別れられないことを悟る。そこで、太宰府天満宮への参拝を理由に家を出た。養父も妻も、国臣が数冊の書籍を包んだ風呂敷を手にしているのを見て少しも疑わなかった。

この時に藩務を辞職して脱藩した。結局、平野家へ戻った。無役の厄介となっている。この頃に梅田雲浜と出会い、国事についての知識を得た。

国臣の尚古主義は止まず、安政4年(1857年)には藩主に犬追物の復活を直訴し、無礼として幽閉されている。この時に、月代を伸ばしたままにして総髪にした。月代は古制ではないというのが平野の考えであり、後には浪士を中心に総髪が流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代を置かないのは異様である。国臣は優れた学才とこのような過激な言動から、人望を集めるようになった。

草莽志士時代

安政5年(1858年)6月、島津斉彬の率兵上洛の情報が北条右門から入り、国臣は菊池武時碑文建立願いの名目で上京。
ところが7月16日、斉彬は急逝し、率兵上洛は立ち消えとなった。国臣は京で北条右門を通じて斉彬の側近だった西郷隆盛と知り合い、善後策を協議、公家への運動を担当することになった。31歳で脱藩し、国臣の志士活動のはじまりである。
その後、国臣は藩主への歎願のために福岡へ戻る。通名・国臣についてはわからないが、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物で、闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあったから、尊皇愛国の僕(しもべ)たらんと自ら名のったのだろう。生野で親しくなった但馬草莽の志士・北垣晋太郎ものちに国道と名乗っている。

僧月照と国臣

西郷は安政5年(1858年)7月27日、京都で斉彬の訃報を聞き、殉死しようとしたが、月照らに説得されて、斉彬の遺志を継ぐことを決意した。

8月、近衛家から託された孝明天皇の内勅を水戸藩・尾張藩に渡すため江戸に赴いたが、できずに京都へ帰った。以後9月中旬頃まで諸藩の有志および有馬新七・有村俊斎・伊地知正治らと大老井伊直弼を排斥し、それによって幕政の改革をしようとはかった。

しかし、9月9日に梅田雲浜が捕縛され、尊攘派に危機が迫ったので、結局、西郷たちの工作は失敗し、近衛家から幕府から逮捕命令が出された勤王僧月照の保護を依頼された月照を伴って伏見へ脱出し、伏見からは有村俊斎らに月照を託し、大坂を経て鹿児島へ送らせた。

9月16日、再び上京して諸志士らと挙兵をはかったが、捕吏の追及が厳しいため、9月24日に大坂を出航し、下関経由で10月6日に鹿児島へ帰った。捕吏の目を誤魔化すために藩命で西郷三助と改名させられた。11月、筑前で平野国臣に伴われて月照が鹿児島に来たが、幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを東目(日向)へ追放すること(これは道中での切り捨てを意味していた)に決定した。

藩情が一変して難航。国臣と月照は山伏に変装して、関所を突破し、11月にようやく鹿児島に入った。
藩庁は西郷に月照を幕吏へ引き渡すべく、東目(日向国)への連行を命じる。暗に斬れという命令であった。西郷は月照、国臣とともに船を出し、前途を悲観して月照とともに入水してしまう。月照は水死するが、西郷は国臣らに助け上げられた。西郷は運良く蘇生したが、回復に一ヶ月近くかかった。藩当局は死んだものとして扱い、幕府の捕吏に西郷と月照の墓を見せたので、捕吏は月照の下僕重助を連れて引き上げた。藩当局は幕府の目から隠すために西郷の職を免じ、奄美大島に潜居させることにした。、国臣は追放され筑前へ帰った。

『尊攘英断録』

平野一行が薩摩領に入ったのは、万延元(1860)年十月だった。
村田新八らの手引きで薩摩へ入ることに成功するが、国父島津久光は浪人を嫌い、精忠組の大久保一蔵も浪人とは一線を画す方針で、平野は大久保(利通)を信用し、期待して待っていたが、大久保は平野忌避の急先鋒であり、三つ先輩の親友西郷を氏に追いつめるほどの男であることを見抜いてはいなかった。平野一人で久留米城下の旅宿に泊まった時、盗賊改め方の池野に先手をとられる。ここで捉えられては万事休すと、池野の一瞬のすきに灰神楽を浴びせ、脱兎の如く飛び出し、友人宅に走り込む。その後離島に潜入する。ここで執筆したのが、島津久光公への上洛の希望を託した建白書『尊攘英断録』であった。
この一文は平野のかねてからの持論で、尊皇攘夷につき、藩主として断行すべき事を述べたものであった。その要点としては、
・航海術の習得
・罪人による離島開発
・海軍の増強
・清国と同盟を結ぶ(他は省略)
この書の中で国臣は、日本の武士は天皇のために忠誠を尽くすべきだとして、そのための行動決起を促している。
久光の返答を待つ間、国臣が宿で詠んだのが、国臣の歌で最も有名な次の歌である。
「わが胸の 燃ゆる思いに くらぶれば 煙はうすし 桜島山」
日本と天皇を想う国臣の熱い思いが、この歌からひしひしと伝わってくる。
だが国臣苦心の『尊攘英断録』も、結局老中小松帯刀の手に留め置かれ、久光の目には触れなかった。結局、国臣は退去させられることになった。久光の素志は「公武周旋(公武合体)」にあり、幕府を倒そうなどという過激な了見はさらさらない。久光が上京を決意したのは、薩摩藩の代表として、堂々と京に上り、朝廷と幕府の間を取り持ち、国政のイニシアチブを握りたいというのが第一の理由なのであったからだ。しかし、大久保は金10両を旅費として与えて帰還させた。


平野家親族の田中氏が生野資料館に寄贈された。田中氏は昭和12年頃、三菱合資会社生野鉱山営林技術者として勤務されていた。
[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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生野義挙 平野国臣1/8 恋闕(れんけつ)第一等の人


「平野国臣」像 福岡市中央区西公園内

「生野義挙」は生野の変ともいう。

平野次郎国臣は、幕末三大義挙のひとつ、「生野義挙」の中枢人物である。福岡脱藩士 平野国臣は、攘夷派志士として奔走し、西郷隆盛ら薩摩藩士や久留米の勤王志士真木和泉、清河八郎(将軍家茂警護役・浪士隊(のちの新選組)の進言者)ら志士と親交をもち、討幕論を広めた。幕末の但馬に関わる出来事として桂小五郎の但馬潜伏は有名だが、但馬・生野で起こったこの義挙を最初に起こした人としてもっと知られていいと思う。

彼は、幕末の動乱期に活躍した志士として、「幕末の三大豪傑」として知られる木戸孝允(桂小五郎)、西郷隆盛、大久保利通が有名だが、またあまりにも有名な坂本龍馬らの影に隠れた人物の一人である。有名ではなくとも、明治維新の礎となった行動を最初に起こした人々の一人で、同じく先駆者だった真木保臣(まきやすおみ)(久留米藩)から「恋闕(れんけつ)第一等の人」とたたえられた人物である。

平野国臣 ひらの・くにおみ●1828~64年。福岡藩士として江戸、長崎に赴任する。31歳で脱藩し、志士として活動、僧月照と入水した西郷を助け出した。薩摩藩主への建白書『回天管見策』を著すが、下関で捕縛され、出獄ののち生野にて挙兵。京都に護送され、37歳で斬首された。

闕(けつ)とは皇居の門のこと。恋闕とは天皇を深く敬い慕う尊皇の心である。維新の志士の中で、平野は後世に残る最もすぐれた尊皇愛国の名歌を詠んだ歌人でもあった。

《大内(おおうち)の山の御(み)かま木樵(ぎこ)りてだに仕(つか)へまほしき大君の辺(へ)に》
《大内のさまを思へばこれやこの身のいましめのうきはものかは》
《君が代の安けかりせばかねてより身は花守となりけむものを》
《わが胸の燃ゆる思ひにくらぶれば煙はうすし桜島山》
《年老いし親のなげきはいかならん身は世のためと思ひかへても》
《わが心岩木(いわき)と人や思ふらむ世のため捨てしあたら妻子(つまこ)を》
《国のため世のためなればいかにせんゆるしたまひね年月のつみ》
《青雲のむかふすきはみ皇(すめらぎ)のみいつかがやく御代(みよ)になしてん》
《大王(おおきみ)にささげあまししわがいのちいまこそ捨つる時は来にけれ》

平野はじめ志士たちの絶唱は、西行や定家らの名歌とは趣が異なるが、彼らの歌以上に私たち日本人の心魂を強く打ってやまない。それは天皇を敬い、国を愛する心こそ日本人の奥底にある最も深い心であるからである。(日本政策研究センター主任研究員 岡田幹彦 産経新聞2010.2.10 07:44 一部加筆した)

神戸製鋼所社長・工学博士 佐藤廣士氏は、「幕末維新の人物学―一歩前に出る勇気、決断(4)」『「自らの境遇を決してあきらめない」』(プレジデント2010年1月 19日)『平野国臣:「最初に種をまいた人々の思いと行動」』(プレジデント2010年 1月 18日(2009年6.15号)で、

我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山
幕末維新に関心がある方ならどこかでこの歌に出合っているはずだ。胸にたぎる思いを噴煙たなびく桜島の姿と重ねた堂々たる作風が胸に響く。私がこの歌の作者である一人の勤王志士と出会ったのは、九州大学に通う学生時代だった。
博多湾に突き出た丘陵地にある西公園に今も銅像が立つ福岡藩士、平野国臣。一般にはあまり知られていない。隣の大分出身の私もそうだったが、「我が胸の」の歌の作者と知り、足跡をたどるにつれ、その情熱と行動力に引かれてしまった。

我が心 岩木と人や思ふらむ 世のため捨てしあたら妻子を

国臣が志士として活動するため、離別した妻子を思って詠んだ歌だ。岩や木のように心のない人間と思われても妻子を捨てる。決断をさせたのは外国の脅威だった。その生涯をなぞってみたい。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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日本三大義挙 生野義挙

[wc_button type=”primary” url=”http://webplantmedia.com” title=”Visit Site” target=”self” position=”float”]生野義挙(生野の変)[/wc_button]

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月、但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きた。「生野の乱」、「生野義挙」とも言う。
この静かな農村地帯であった但馬で、幕末にそのような大事件があったことは、くわしくは知らなかったので、調べてみることにした。


生野代官所跡

《概 要》

生野義挙(生野の変)は、平野国臣、長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、公卿沢宣嘉を主将に迎える生野での挙兵を計画した。あっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である大和義挙(天誅組の変)、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙(功山寺挙兵)とともに日本三大義挙といわれる。

【たじま昔ばなし】 おりゅう柳(養父市八鹿町九鹿)

むかしむかし、今の養父市高柳(やぶしたかやなぎ)の北の山に一本の大きな柳の木がありました。もう何百年もそこに立っているような、とても大きな木でした。

山の北側にある九鹿(くろく)には、おりゅうという近所でも評判のきれいな娘がいました。おりゅうは高柳の造り酒屋へつとめに通っていて、その行き帰り、いつも決まってこの大きな柳の下でひと休みをし、長い髪(かみ)をとかしなおしていたのでした。

ある日のこと、いつものように髪をとかしていたおりゅうは、ふと人の気配を感じて顔をあげました。そこには若い侍(さむらい)が立っていて、おりゅうにほほえみかけていました。その日から、二人はこの柳の下で毎日出会うようになりました。楽しげな二人の様子は、いつしか村の人々のうわさにもなっていました。

ところがそのころ、都で三十三間(さんじゅうさんげん)のお堂を建てるために、材木を諸国から集めるとのうわさが流れ、まもなく、この柳の大木を切り出すようにとの命令が届きました。その日から柳の大木は、風もないのに枝をふりみだし、ごうごうと大きな音をたてて鳴りひびくようになりました。

やがて、国の役所から大勢の人々が村に着き、柳の切り出しをはじめました。しかし、斧(おの)を入れたはずの切り口が、次の日になるといつの間にかふさがっていて、仕事は一向にはかどりません。おかしいと思った人々が、夜通し柳を見はっていると、切りくずがひとりでに飛んでいって、切り口をもと通りにうめてしまっていたことがわかりました。

そこで人々は、次の日から夜になる前に、切りくずを焼いてしまうようにしました。それから仕事ははかどり、とうとう数日後に柳は切りたおされました。それに合わせるように、おりゅうも体調をくずしていきました。

切りたおされた柳を都まで運ぶために、また大勢の人々がやってきて、柳を引きはじめました。しかし、いくら人数を増やして引いても、柳はびくとも動きませんでした。困った人々は村の長老に相談しました。すると長老は、「おりゅうを呼んでくれば、動くかもしれない。」と言いました。

呼ばれてやってきたおりゅうは、病みつかれた姿で、そっとやさしく柳の木はだをなでました。すると柳は静かに坂を降りはじめました。おりゅうが毎日会っていた若い侍は、この大きな柳の精霊(せいれい)だったのです。

兵庫県歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」

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【たじま昔ばなし】 粟鹿山 「大山」の地名伝説(朝来市山東町粟鹿)

遠い昔のことです。

但馬(たじま)の山東(さんとう)や和田山(わだやま)のあたりは、向こう岸が見えないほど広い湖でした。粟鹿山(あわがやま)や、まわりの高い山々も、その湖の上に頭を出した島でした。人々は、粟鹿山のことを、大山(おおやま)と呼んでいたそうです。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトという神様が、天から粟鹿山の頂上に降りてきました。そして山の上からあたりを見回して、「この広い湖の水を海へ流し出して、広い土地を造ったならば、人々が住みやすくなるだろう」と考えました。

ここで、この長い名前の神様のことを、少しだけお話ししておきましょう。

アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、天の上にある、高天原(たかまがはら)という神様の国から下ってきたニニギノミコトが、地上でコノハナサクヤヒメと結婚(けっこん)して生まれた三人の子(ホデリノミコト・ホスセリノミコト・ホオリノミコト)の一人、ホオリノミコトの別名だということです。

ホオリノミコトにはもう一つ名前があって、山幸彦(やまさちひこ)とも呼ばれていました。お兄さんのホデリノミコトは、海幸彦(うみさちひこ)と呼ばれています。『古事記』という本には、山幸彦が兄の海幸彦との争いに勝って、海の神のむすめ、豊玉姫(とよたまひめ)と結婚し、ウガヤフキアヘズノミコトという子供が生まれたと記されています。そしてこのウガヤフキアヘズノミコトの子供が、日本で最初の天皇である、神武天皇(じんむてんのう)になったという神話へと続いてゆくのです。

さて、粟鹿山の頂上から下りると、アマツヒダカヒコホホデミノミコトは、水をせき止めていた山をけりくずしました。水はごうごうと音を立てて、みんな日本海へと流れ出してしまいました。そのあとには広い土地ができましたが、まだ水気が多くてぬかるんでいたところもありましたので、そこには大きな石のお地蔵様をうめこんで、土地を固めたそうです。

それからというもの、この土地にはたくさんの人が住み着いて、あちこちに豊かな村ができました。人々は、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが国を見わたした山を、見国岳(みくにだけ)と呼んで毎日拝んでおりました。

ある日のこと、アマツヒダカヒコホホデミノミコトが見国岳で休んでおりますと、一頭の美しい牝鹿(めじか)が、三本の粟(あわ)の穂(ほ)を角の上にのせてやって来て、うやうやしくささげました。これが粟鹿山という名の始まりになったのです。その後人々は、山のふもとに粟鹿神社(あわがじんじゃ)を建てて、アマツヒダカヒコホホデミノミコトをお祭りするようになったということです。


粟鹿神社

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行-妖怪・自然の世界-

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【たじま昔ばなし】 妙見の臼 (養父市八鹿町妙見)

はるかに遠い昔。八鹿(ようか)の妙見山(みょうけんさん)に、妙見菩薩(みょうけんぼさつ)がお下りになったころのことです。

網場村(なんばむら)に森木三右衛門(もりきさんえもん)という人が住んでいました。三右衛門は妻と二人暮らしでしたが、信心のあつい働き者でした。

ある夜のことです。三右衛門が仕事を終えてねようとしていたところ、とんとんと戸をたたく音が聞こえました。

「こんな夜ふけにだれだろうか」

三右衛門がふしぎに思いながら戸を開けてみると、暗やみの中に一人の少年が立っています。

「夜おそく申しわけありませんが、一晩、とめてもらえないでしょうか」

少年のつかれきったようすを見て、気の毒に思った三右衛門は、家に招き入れました。

「何のおもてなしもできんが、休んでいきなされ」

家の明かりであらためて少年を見ると、どうもただの人とは思えません。顔だちはまだ少年ですが、何とも神々しい気配がします。

少年を部屋へ案内した後も、三右衛門はどうも落ち着きませんでした。何か大切なことを忘れているような気がしてならないのです。そのうちどうしたわけか、蔵の中にしまってある木の臼(うす)のことが気にかかりはじめました。

そこで、三右衛門は妻と相談して、臼を少年の部屋まで運びこみました。すると少年は、当たり前のようにその臼に座ってこう言ったのです。
「私はこれから休ませてもらいます。けれど、私が休んでいる間、けっして部屋の中をのぞかないでください」

そう言われると、三右衛門は、ますます気になってしかたがありません。布団に入っても、なかなかねつかれないまま考えこんでいましたが、夜中をすぎるころ、とうとうがまんできなくなってしまいました。ねどこをそっとぬけ出すと、少年の部屋に近づいて、戸のすきまから中をのぞいてしまったのです。するとそこには、臼にぐるぐると巻きついてねむっている、一ぴきの大きな白い蛇(へび)の姿がありました。

あまりのことに、三右衛門は気を失うほどおどろきました。ふるえながら自分の布団にもどり、そのまま朝までねむることもできませんでした。
ようやく東の空が白みかけたころ、少年は起きてきて、三右衛門に声をかけました。

「とめていただきありがとうございました。私はこれから帰ることにいたします」

支度をととのえて、少年は出て行きました。しかしきみょうなことに、街道ではなく、道のない山の方へと向かってゆきます。神社の森がある山へ向かってまっすぐに進み、やがて、尾根(おね)をこえるところで、その姿が夜明け前の空にくっきりとうかんで見えたのでした。三右衛門はようやく気づきました。

「そうか、妙見さまのお使いだったのだ」

そこで三右衛門は、少年の姿が最後に見えた尾根の上に鳥居を建てて、妙見様をおがむ場所にしました。それからは、三右衛門の家は栄えて、お金持ちになったといいます。これを聞いた村人たちは、鳥居がある場所を、富貴が撓(ふきがたわ)と呼ぶようになりました。
しかし、言いつけに背いて部屋をのぞいたためか、その後、この家のあととりに生まれた人は、みんな生まれつき右の目が見えなかったということです。

三右衛門から何代か後、信心のない人がこの家の主になりました。妙見様を信心せず、鳥居が古くなってたおれても、知らん顔をしていたところ、だんだんと貧しくなって、とうとう家は絶えてしまったのです。

けれどもあの臼だけは、分家の三吉(さんきち)があずかっていました。
文化4(1807)年の秋、網場村に大火事がおきました。村中の家が焼けてしまいましたが、臼をしまってあった三吉の蔵だけは焼けませんでした。
「きっと、妙見様が臼を守っておられるのだろう」
そう考えた三吉は、この臼を日光院(にっこういん)へ納めて、供養してもらうようにとたのみました。
こうして、いまでもこのふしぎな臼は、日光院にお祭りされています。

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【たじま昔ばなし】 難儀にあったお大師様(朝来市山東町楽音寺)

何百年か昔、楽音寺(がくおんじ)というお寺にどろぼうが入りました。「何か金目のものはないか」と探しているうちに、お祭りしてあった一尺二寸(四十センチほど)ばかりの金のお薬師様が目につきました。お薬師様は、病気を治してくれる仏様で、手には薬が入った小さな壺(つぼ)を持っています。

「よしよし、こいつは金になるぞ」

どろぼうはそう言うと、お薬師様をつかんでそのままにげてしまいました。

どろぼうは、遠くまでにげると、お薬師様を鍛冶屋(かじや)に持っていって売り飛ばしました。この鍛冶屋も悪い人だったので、買い取ったお薬師様をとかして、金のかたまりにしてしまおうと考えました。

さっそく火をおこしましたが、どんなに火をたいてあぶっても、お薬師様は少しもとけません。おこった鍛冶屋は、それなら金づちでたたいてつぶしてやろうと、大きな金づちを持ち出しました。そして大金づちをふりあげると、力いっぱいお薬師様をたたきました。ところがお薬師様は少しもへこんだりしません。「ええい、このやろう」と、たたくと、こんどはたたくたびに、お薬師様が「がっこんじ、がっこんじ」とおっしゃるではありませんか。

鍛冶屋はびっくりしてこしをぬかしました。

「こんな仏様をつぶしたりしたら、ひどいばちがあたるかもしれん」

こわくなった鍛冶屋は、日が暮れるのを待って、お薬師様をかかえるとこっそり楽音寺までやってきました。そして、お堂のそばにあった弁天池に、お薬師さまを放りこんでにげてしまいました。

それから何日か後のことです。ちょうど日暮れ時に遠坂峠(とおざかとうげ)を歩いていた旅人が、楽音寺のあたりをながめていると、何かぴかぴかと光るものが見えます。「いったい何だろう」と思いながら、その光るものを目指して歩いていると、弁天池に行き当たりました。
光は、池の中からさしています。

旅人はおどろいて、お寺のお坊(ぼう)さんのところへ飛んでゆきました。話を聞いたお坊さんが、村人にたのんで池の底をさらってみると、なんと先日ぬすまれたお薬師様が見つかったではありませんか。

お坊さんはさっそく、お薬師様のために新しいお堂をたてて、ていねいにお祭りしました。

火で焼かれたり、金づちでたたかれたり、たいへんな難儀(なんぎ)にあったのに、無事にもどってきたお薬師様です。きっとどんな病気でも、けがでも助けてくださるだろうという話が、遠くまで伝わりました。それからというもの、近所だけでなくずっと遠い村からも、お参りする人が絶えなくなったということです。

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【たじま昔ばなし】 五社明神の国造り(豊岡市小田井)

大昔、まだ豊岡(とよおか)のあたりが、一面にどろの海だったころのことです。

人々は十分な土地がなくて、住むのにも耕すのにも困っていました。そのうえ悪いけものが多く、田畑をあらしたり、子供をおそったりするので、人々はたいへん苦しんでいました。この土地を治める五人の神様は、そのようすを見て、なんとかしてもっと広く、住みよい所にしたいものだと考えました。

そこで神様たちは、床尾山(とこのおさん)に登って、どろの海を見わたしてみました。すると、来日口(くるひぐち)のあたりに、ものすごく大きな岩があって水をせき止めています。

「あの大岩が、水をせき止めているのだな」
「あれを切り開けば、どろ水は海へ流れるにちがいない」
「そうすれば、もっと広い土地ができるだろう」
「それはよい考えだ。どろの海がなくなれば、たくさんの人が安心して暮らせる」

神様たちはさっそく相談して、大岩を切り開くことにしました。

大岩を断ち割り、切り開くと、どろ海の水はごうごうと音を立てて、海の方へ流れ始めました。神様たちはたいそう喜んで、そのようすを見ていました。

ところが、水が少なくなり始めたどろ海のまん中から、とつぜんおそろしい大蛇(だいじゃ)が頭を出して、ものすごいうなり声を上げながら、切り開かれた岩へ泳ぎはじめました。そして、来日口に横たわって水の流れをせき止めてしまったのです。

神様たちはおどろきました。

「この大蛇は、どろの海の主にちがいない」
「これを追いはらわねば、いつまでたっても水はなくならないぞ」

神様たちがそろって、大蛇を追いはらおうとすると、大蛇はすぐにどろにもぐってにげてしまいます。あきらめてひきあげると、大蛇はまたあらわれて、水をせき止めてしまいます。神様たちはたいそうおこりました。

すきをみて大蛇に飛びかかり、神様たちは、とうとう大蛇を岸に引きずり上げてしまいました。そして頭と尻尾(しっぽ)をつかんで、まっぷたつに引きちぎろうとしましたが、大蛇もそうはさせまいと大暴れします。それどころか、太くて長い体を神様たちに巻き付けて、しめころそうとするのでした。

五人の神様と大蛇は、上になったり下になったりしながら、長い間戦いました。大蛇が転がるたびに、地面は地震(じしん)のようにゆれます。けれども五人が力をあわせ、死にものぐるいでたたかいましたので、大蛇もしだいにつかれてきました。そこで神様たちが、大蛇の頭と尻尾にとびかかって、えいっと力をこめて引っ張りますと、さしもの大蛇も真っ二つになってしまいました。

こうして、どろの海の水は全部日本海へと流れ出し、後には豊かな広い土地が残りました。そしてどろの海のまわりにはびこっていた悪いけものたちも、みなにげ出してしまいましたので、人々はたいへん喜び、それからは安心して暮らせるようになったということです。
このできごとをお祝いして、毎年八月に、わらで大蛇の姿をした太いつなをつくり、村人みんなでひっぱってちぎるというお祭りが、行われるようになったということです。


小田井神社

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