米ソ冷戦下の世界と日本 学校で教えてくれなかった近現代史(50)

冷戦の進行

日本が独立を回復し、復興に努めているあいだ、米ソ両陣営の冷戦は激化していきました。両国は原子爆弾より大きな破壊力をもつ水素爆弾(水爆)の開発に成功し、核爆弾を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を設置して、相手国を直接破壊できる攻撃力を備えました。このためのロケット技術を使い1957年ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功、アメリカもそれに続いて、両国は宇宙技術の開発でも競い合うことになりました。

ソ連では、スターリンの死後、1956年、共産党のフルシチョフ第一書記がスターリンの政策を批判し(スターリン批判)、アメリカとの平和共存を提唱して「雪解け」と呼ばれましたが、社会体制の違いに由来する米ソの冷戦はおさまりませんでした。

東西に分断されたドイツでは、1961年、東ドイツが住民の西側への脱走を阻止するため、東西ベルリンを隔てる壁を築きました(ベルリンの壁)。1962年には、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことから、米ソの間に核戦争が起こりかけました。この時、アメリカは強硬な姿勢を貫いたため、ソ連はミサイルを撤去しました(キューバ危機)。

1965年、アメリカはインドシナ半島の共産主義化を警戒し、ソ連や中国が支持する北ベトナムに対抗して南ベトナム政府を支えるため、直接軍隊を派遣しました(ベトナム戦争)。しかし、アメリカ本国を含む各国でアメリカの軍事介入に反対する非難が高まったので、1973年、ベトナムから撤退しました。2年後には、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立し、アメリカの威信は傷つきました。

経済復興から日米安保改定

日本では、朝鮮特需ののち、長期の好景気に恵まれました。経済は戦争前の水準に復帰し、1956(昭和31)年には、「もはや戦後ではない」といわれるようになりました。一方、ソ連を理想とする共産主義も進歩的な理想として労働者や学生、知識人を魅了するようになりました。
1957(昭和32)年に首相になった岸信介は、こうした日本の復興を背景に、日米安全保障条約の改定をめざし、1960(昭和35)年1月、新条約を調印しました。これにより日米両国は、より対等な関係に近づきました。

ところが、これに対して学生や労働者を中心に安保条約の改定を日米軍事同盟の強化になるとして反対する運動が起きました。1960年5月、自民党が新安保条約の国会承認を強行採決すると、国会周辺をデモ隊が連日のように取り囲む大きな争乱になりました(安保闘争)。岸は新安保条約成立ののち辞職しました。

岸首相のあと首相となった池田勇人は、安保をめぐっての大衆騒動が再び起きるのを避けるため、自民党が結党のときにかかげた自主憲法制定や防衛力強化という課題には手をつけず、10年間で所得を2倍にするという所得倍増政策をかかげました。

高度経済成長

日本の経済は1960(昭和35)年ごろよりほぼ10年間、年率10%という世界の歴史でもまれな奇跡といわれる成長を遂げました(高度経済成長)。1968(昭和43)年には、国民総生産(GNP)は資本主義陣営でアメリカに次ぎ世界第2位となりました。ソニーやホンダ、トヨタなど世界的な企業が成長しました。中小工場の現場における無数の人々のさまざまな工夫や発明の積み重ねも、産業の発展に大きな役割を果たしました。

また、高速道路や1964(昭和39)年、10月1日、東京と大阪の間を所要時間をそれまでの半分近くで結ぶ東海道新幹線が開通、庶民の生活にも電化製品や自動車が普及しました。農村も豊かになり、米の生産は過剰になって減反政策がとられるほどになりました。世界での日本の地位も向上し、1964(昭和39)年10月10日には東京オリンピックが開催され、1970(昭和45)年には大阪で万国博覧会が開かれました。これらはアジアで初めて開催されたものでした。

高度経済成長後の社会と経済

1960年代後半から、工場の煙や排水など産業廃棄物による公害が問題となりました。水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病、自動車の排気ガスによる大気汚染、家庭での洗剤による河川の汚染などの解決が求められました。これに対し、1971(昭和46)年、環境庁が設置され、公害防止の対策がとられて、状況は改善されていきました。

1970年代に入ると、中東の産油諸国が、石油の輸出を規制したため、この地域の石油にエネルギーを依存する日本経済は、2度にわたって深刻な打撃を受けました(オイルショック)。しかし、これによって電気製品の消費電力を極度に減らすなどの省エネルギー技術が発達し、日本経済はかえって強くなり、その後の発展の基礎となりました。

外交関係の進展

1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル無償3億ドルの経済協力を約束しました。

アメリカの施政化にあった沖縄では、祖国復帰運動がさかんになりました。佐藤栄作内閣は、非核三原則を表明し、核兵器抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付け、1972(昭和47)年5月、沖縄本土復帰が実現しました。
1970年代になるとアメリカのニクソン大統領は、北ベトナムを支援するソ連への牽制もあって、中華人民共和国に接近し、両国関係は正常化に向かいました。それを受けて、1972年9月、田中角栄首相が訪中して日中共同声明に調印し、両国の国交が正常化されました。しかし、これによって台湾の中華民国との国交は断絶しました。その後、1978年には、日中平和友好条約が結ばれました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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独立の回復 学校で教えてくれなかった近現代史(49)

国際連合と冷戦の開始

1945(昭和20)年10月、連合国は、2度の世界大戦への反省に立ち、新たな戦争を防ぐための国際組織として、国際連合(国連)を結成しました。しかし、戦争の芽はなくなりませんでした。東ヨーロッパを占領したソ連は、各国共産党の活動を通じ、西ヨーロッパにまで共産主義の影響を及ぼし始めました。アメリカは、その影響力を封じるため、西ヨーロッパに大規模な経済援助を行い、1949年にはソ連に対抗する軍事同盟として北大西洋条約機構(NATO)を結成しました。

一方、ソ連も、1949年には原子爆弾を保有し、NATOに対抗して、1955年東欧諸国とワルシャワ条約機構(WTO)を結成しました。ドイツも東西に分断され、世界はアメリカ率いる自由主義陣営とソ連が率いる共産主義陣営が勢力を争う、冷戦の時代に突入しました。

中国では日本の敗戦後、それまで抗日で手を結んでいた国民党と共産党が、国共内戦を再開しました。1949年には、毛沢東が率いる共産党が勝利し、中華人民共和国が成立しました。一方、蒋介石が率いる国民党は台湾に逃れました。朝鮮半島では1948年、南部にアメリカが支持する大韓民国、北部にソ連の影響下にある朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)がちくられ対立しました。こうして冷戦はアジアへと広がりました。

占領政策の転換

冷戦が始まると、アメリカは日本の経済発展を抑える政策を転換し、共産主義に対抗するため、日本を発展した経済をもつ自由主義陣営の一員として育てる方針に変えました。

1950年6月、北朝鮮は、南北の武力統一をめざし、ソ連の支持のもと突如として韓国へ侵攻しました。韓国軍とマッカーサーが指揮するアメリカ軍主体の国連軍がこれに反撃しましたが、北朝鮮側には中国義勇軍も加わり戦況は一進一退をくり返しました。戦争は1953年に休戦協定が結ばれるまで続きました(朝鮮戦争)。日本に駐留するアメリカ軍が朝鮮に出動したあとの治安を守るために、日本はGHQの指令により警察予備隊(のち保安隊、1954年から自衛隊)を設置しました。また、日本は国連軍に多くの物資を供給し、その生産で日本経済は息を吹き返しました(朝鮮特需)。

独立の回復

朝鮮戦争をきっかけに、アメリカは基地の存続などを条件に、日本の独立を早めようと考えました。1951(昭和26)年9月、サンフランシスコで講和会議が開かれ、日本はアメリカを中心に自由主義陣営など48か国と、サンフランシスコ講和条約を結びました。さらにアメリカと日米安全保障条約(日米安保条約)を結び、米軍の駐留を認めました。

1952(昭和27)年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本は独立を回復しました。ただし、沖縄・小笠原諸島は引き続きアメリカの施政したに置かれました。

ソ連は、国後・択捉島など北方領土を日本領と認めないため、日ソ間で平和条約は提携できず、1956年10月に日ソ共同宣言で戦争状態を終結し、国交を回復しました。これでソ連の反対がなくなり、同年12月、日本は国連に加盟して国際社会に復帰しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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日本の復興と国際社会 学校で教えてくれなかった近現代史(48)

占領の開始

1945(昭和20)年8月末、アメリカ軍を主体とする連合国軍による日本占領が始まりました。
アメリカの占領目的は、日本が再びアメリカの驚異にならないよう、国家の体制をつくり変えることでした。日本政府は存続しましたが、その上にマッカーサー司令官が率いる連合国軍司令部(GHQ)が君臨し、その指令を二被音声夫が実行しました。

ポツダム宣言にもとづき、陸海軍は解散させられました。外地にいた軍隊は武装解除され、日本への復員が始まりました。
1946(昭和21)年からは、東京裁判(極東国際軍事裁判)が開かれ、戦争中の指導的な軍人や政治家が、「A級:平和に対する罪」などをおかした戦争犯罪者(戦犯)であるとして7人が死刑判決を受けるなどそれぞれ裁かれました。また、GHQは、戦時中に公的地位にあったものなど、各界の指導者約20万人を公職追放しました。

GHQは、日本政府に対し、婦人参政権の付与、労働組合法の制定、教育制度の改革などの五大改革を発しました。民主化とよばれたこれらの改革のいくつかは、すでに日本政府が計画していたものと合致し、矢継ぎ早に実行されていきました。また経済の面では、戦争中に大きな影響力をもったとして財閥が解体され、農村では農地改革が進められました。

日本国憲法

GHQは、大日本帝国憲法の改正を求めました。日本側ではすでに大正デモクラシーの経験があり、明治憲法に多少の修正を施すだけで民主化は可能だと考えていました。しかし、GHQは1946(昭和21)2月、わずか約1週間でみずから作成した憲法草案を日本政府に示して、憲法の根本的な改正を強く迫りました。

政府はGHQが示した憲法草案の内容に衝撃を受けましたが、それを拒否した場合、天皇の地位が存続できなくなるおそれがあると考え、やむを得ずこれを受け入れました。GHQの草案にもとづいて政府は憲法案をつくり、帝国議会の審議をへて、1946年11月3日、日本国憲法が公布されました(施行は1947年5月3日)。

日本国憲法は、世襲の天皇を日本国および日本国民統合の象徴と定めました。さらに国民主権をうたい、国会を国権の最高機関とし、議院内閣制を明記するとともに、基本的人権に関する規定が整備されました。また、国際紛争を解決する手段としての戦争の放棄と、そのための戦力を持たないと定めたことでは、世界で他に例を見ないものとなりました。これとともに戦後の諸改革も進められました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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終戦をめぐる外交と日本の敗戦 学校で教えてくれなかった近現代史(47)

空襲の被害

戦争末期、国民は直接、戦火にさらされることになりました。1944(昭和19)年7月、日本の委任統治領だったマリアナ諸島の一つサイパン島が陥落し、ここから日本本土を空襲できるようになったアメリカ軍は、年末から爆撃機B-29による無差別爆撃を開始しました。子どもたちは危険を避け親元から離れた地方の寺や親戚の家などに疎開しました(学童疎開)。1945(昭和20)年3月11日には、東京大空襲が行われ、一夜にして約10万人の市民が命を失いました。

4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、ついに陸上の戦いも日本の国土に及びました。日本軍の死者約9万4千人、一般住民の死者も約9万4千人を出す戦闘の末、2ヵ月半のちに連合軍は沖縄を占領しました(沖縄戦)。

ヤルタからポツダムまで

ヨーロッパでもアジアでも、戦争の体制は決まりつつありました。1945(昭和20)年2月、ソ連領クリミヤ半島のヤルタに、米・英・ソ3国の首脳が集まり、連合国側の戦後処理を話し合いました(ヤルタ会談)。アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、アメリカの負担を減らすため、ソ連の参戦を求めました。スターリンは、ドイツとの戦争が終わってから3ヶ月後に対日参戦すると回答し、その代償として、日本領の南樺太と「千島列島を要求し両者は合意しました。

4月、ルーズベルトが急死し、副大統領のトルーマンが大統領に昇格しました。連合軍がベルリンに侵攻すると、ヒトラーは自殺し、ドイツ政府は崩壊しました。5月、ドイツ軍は無条件降伏しました。

7月、ベルリン郊外のポツダムに米英ソ3国の首脳が集まり、26日、日本に対する戦争終結の条件を示したポツダム宣言を、米英中3国の名で発表しました。

原爆投下とソ連の侵攻

日本政府内では、沖縄を占領された6月ごろから、戦争終結をめぐる最高指導者の会議が何度となく開かれていました。日本政府は、対日参戦を密かに決めていたソ連に、そうとは知らずに連合国との講和の注解を求めました。

ポツダム宣言が発表されると、鈴木貫太郎首相や主要な閣僚は、条件付の幸福要求であることに着目し、これを受諾する方向に傾きました。しかし、陸軍は反対し、本土決戦を主張して譲りませんでした。政府はしばらくソ連の仲介の返答を待つこととしました。そのあいだに、8月6日、アメリカは世界最初の原子爆弾(原爆)を広島に投下しました。日本政府も終戦を急ぐ他はありませんでした。8日、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦布告し、翌9日、満州に侵攻してきました。また同日、アメリカは長崎にも原爆を投下しました。広島では15万人、長崎では7万5千人が亡くなり、さらに多くの人々が放射能被爆の後遺症で苦しむことになりました。

聖断下る

9日深夜、昭和天皇の臨席のもと御前会議が開かれました。ポツダム宣言の即時受諾について、意見は賛否同数となりました。10日午前2時、鈴木首相が天皇の前に進み出て聖断を仰ぎました。天皇は、ポツダム宣言の即時受諾による日本の降伏を決断しました。8月15日正午、ラジオの玉音放送で、国民は長かった戦争の終わりと、日本の敗戦を知りました。明治以後、日本の国民から初めて体験する敗戦でした。
日本の降伏によって第二次世界大戦は終結しました。大戦全体での死者は数千万人にのぼると推定されています。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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大東亜会議とアジア諸国 学校で教えてくれなかった近現代史(46)

アジアに広がる独立への希望

日本の初戦の勝利は、東南アジアやインドの人々に独立への夢と勇気を育てました。東南アジアにおける日本軍の破竹の勢いの進撃も、現地の人々の協力が合ってこそ可能でした。もともと親日家だったタイに加えてシンガポールなどで日本軍の捕虜となったイギリス軍のインド人兵士の中からインド国民軍が結成され、日本軍と協力してインドに向けて進撃しました。インドネシアやビルマでも、日本軍の指導で軍隊がつくられました。

大東亜会議

日本はこれらのアジア各地域に戦争への協力を求め、合わせてその結果を示すため、1843(昭和18)年11月、東京で大東亜会議を開催しました。
会議では、連合国の大西洋憲章に対抗して大東亜共同宣言が発せられ、各国の自主独立、相互の提携による経済発展、人種差別撤廃をうたいあげました。この会議以降、日本は、「欧米勢力を排除したアジア人による大東亜共栄圏の建設」を、戦争の表向きの目的として強調するようになりました。
この会議の出席者のうち、中国は重慶の蒋介石国民党政府に対抗してつくられた南京政府。また43年、日本はビルマ、フィリピンを独立させ、チャンドラ・ボースの自由インド仮政府を承認させました。

アジア諸国と日本

この戦争は、戦場となったアジア諸地域の人々に大きな損害と苦しみを与えました。占領した東南アジアの各地では軍政をしきました。現地の独立運動の指導者たちは、欧米諸国からの独立を達成するため、日本の軍政に協力しました。

しかし、日本の占領地域では、日本語教育や神社参拝を強いた(最近では自由だったという研究がある)ことに対する反発もありました。連合軍と結んだ抗日ゲリラ活動もおこり、日本軍はこれにきびしく対処し、一般市民もふくめ多数の犠牲者が出ました。また、戦争末期になり、戦局が不利になると食料が欠乏したり、現地のひち人が苛酷な労働に従事させられる場合もしばしば起きました。

日本の南方進出は、「アジアの開放」という名目をかかげながらも、自国のための資源の確保を目的としたものでしたが、日本が敗戦で撤退したあと、これらの植民地は、ほぼ十数年の間に次々と自力で独立国となりました。日本軍の将兵の中には、敗戦のあと現地に残り、これら植民地の独立勢力に加わった者もありました。

「日本軍は、長いあいだ、アジア各国も植民地として支配してきた西欧の勢力を追い払い、とても白人には勝てないと諦めていたアジアの民族に、驚異の感動と自信を与えた。『自分たちの祖国を自分たちの国にしよう』という心を目覚めさせてくれたのだ」--マレーシアの独立運動家ノンチックの著書より

日本を解放軍として迎えたインドネシアの人々

数百年にわたってオランダの植民地とされてきたインドネシアには、昔から一つの伝説が語り継がれていました。ジャワ島にあった小さな王国がオランダによって滅ぼされるとき、王様が次のように予言しました。「今に北方から黄色い巨人が現れて、圧制者を追放し、トウモロコシの実がなるころには立ち去る。そうしてわれわれは開放される」。

似ろ戦争のとき、ロシアのバルチック艦隊がマラッカ海峡を埋め尽くして進んでいくのを見たとき、インドネシア人は、「北方から来る黄色い巨人とは、日本人のことに違いない」と信じるようになり、密かに日本の南進を待ちこがれていました。

1942年、日本軍がインドネシアに進駐すると、人々は道ばたに集まり、歓呼の声を上げて迎えました。実際、日本は、3年半の占領期間に、オランダ統治時代では考えられないPETAと称する軍事組織の訓練、中等学校の設立、共通語の設定、集団検診、現地青年を集めた技術者養成所など、のちの独立の基礎となる多くの改革を行いました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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大東亜戦争(太平洋戦争) 学校で教えてくれなかった近現代史(45)

真珠湾攻撃

1941年12月8日、日本海軍はアメリカのハワイにある真珠湾基地を攻撃し、アメリカ太平洋艦隊と陸軍の航空部隊に全滅に近い打撃を与えました。この作戦は、アメリカの主力艦隊を撃破して太平洋の制海権を獲得することをめざした者でした。同日、日本陸軍はマレー半島に上陸し、イギリス軍を撃破しつつシンガポールをめざして侵攻しました。

日本は米英に宣戦布告し、この戦争は「自存自衛」の為の戦争であると宣言しました。1941年12月12日の閣議決定により、「大東亜戦争」の名称と定義が定められました。日本政府の宣戦布告は当初米英2国に対して行われましたが、閣議決定では、「情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争」を「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称」するとなっているので、対中国、対オランダ、対ソ連戦も「大東亜戦争」に含まれます。なお、「大東亜」とは「東南アジアを含む東アジア」を指す地理区分です。

ドイツ・イタリアもアメリカに宣戦布告し、第二次世界大戦は、日・独・伊の枢軸国と、米・英・蘭・ソ・中の連合国が世界中で戦う戦争へと拡大しました。

対米英回線をニュースで知った日本国民の多くは、その後、次々と伝えられる戦果に酔っていました。他方、アメリカ政府は、日本の交渉打ち切りの通告が、真珠湾攻撃よりも遅れたのは卑劣な「だまし討ち」であると自国民に宣伝しました。今まで戦争に反対していたアメリカ国民を「リメンバー・パールハーバー」を合言葉に、対日戦争に団結させる結果をもたらしました。

宣戦布告と開戦の真実

最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定でした。
12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになりました。

書記官室の寺崎英成書記官(終戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの奥村勝蔵一等書記官は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交しました。

すなわち、日本は真珠湾を奇襲した後で対米最後通牒を手交したのである。このことは「日本によるだまし討ち」として米国民に広範な憤激を引き起こし、卑劣な国家としての日本のイメージを定着させる原因となるが、公開された公文書によると、既にアメリカは外務省の使用した暗号を解読しており、日本による対米交渉打ち切り期限を、3日前には正確に予想していました。対米覚書に関しても、外務省より手渡される30分前には全文の解読を済ませており、これが現在いわれる真珠湾攻撃の奇襲成功はアメリカ側による謀略説の根拠となっています(真珠湾攻撃陰謀説)。
また日本海軍航空隊の真珠湾攻撃の前のハワイ時間12月7日午前6時40分に、日本海軍所属の特殊潜航艇がアメリカ海軍所属の駆逐艦ワード号に攻撃され撃沈される事件が発生していた(ワード号事件)。なお、ワード号事件よりも早く、日本陸軍が日本時間12月8日午前1時30分(ハワイ時間午前5時30分)にマレー半島に上陸しており、太平洋戦争の戦端はこちらとなる。

暗転する戦局

戦争の最初の半年間、日本の勝利はめざましく、マレー半島に上陸した日本軍は、わずか70日で半島南端のシンガポールにある英軍の要塞を陥落させました。連合国側の準備が整わなかったこともあり、たちまちのうちに日本軍は広大な東南アジアの全域を占領しました。

しかし、1942(昭和17)年6月、ミッドウェー海戦での日本の連合艦隊はアメリカ海軍に敗れ、航空母艦4隻を失いました。これを皮切りに米軍は反撃に転じました。日本は制海権を失い、補給路を断たれ、輸送船はアメリカの潜水艦によって次々と沈められました。日米の生産力の差も次第に表面化し、日本軍は乏しい武器・弾薬で苦しい戦いを強いられましたが、日本の将兵は、この戦いに国将来がかかっている、と信じてよく戦いました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

大東亜戦争が正式な名称です。戦後アメリカ側がこの名称を禁止したので「太平洋戦争」という用語が一般化しました。アメリカ側からすれば、日本と対戦したのは太平洋だけですが、東アジアでの戦争ですので大東亜戦争というのが一般的です。

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第二次世界大戦のはじまり 学校で教えてくれなかった近現代史(44)

ナチスドイツとヨーロッパの戦争

第一次世界大戦の敗戦国ドイツは、1933年ナチス党のヒトラーが政権の座につき、ゲルマン民族血統主義によるユダヤ人を迫害する一方で、武力による領土回復と拡張を進めました。ドイツはソ連と不可侵条約を結んだうえで、1939年9月、ポーランドに電撃的に侵攻し、これをソ連との密約により両国で分割しました。イギリスとフランスは、ドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まりました。1940年、ドイツ軍は西ヨーロッパに侵攻し、パリに入城してフランスを降伏させました。

日独伊三国軍事同盟の失敗

日本はヨーロッパにおけるドイツの勝利に目を奪われました。1940(昭和15)年、日本はアジアにおける日本の立場を有利にするために、イタリアを加えた日独伊三国軍事同盟を締結しました。しかし、遠いヨーロッパの2国との軍事同盟には実質的な効用はなかったばかりか、イギリスを支援するアメリカとの関係を決定的に悪化させる要因となりました。

1941(昭和16)年4月、日本はソ連との間にも日ソ中立条約を結び、二つの条約の圧力でアメリカから譲歩を引き出そうと考えました。しかし、同年6月、ドイツがソ連に侵攻し、このねらいは破綻しました。

追いつめられる日本

日本は石油の輸入先を求めて、インドネシアを領有するオランダと交渉しましたが断られました。こうして、米英中蘭の4国が日本を経済的に追いつめる状況が生まれました。日本の新聞はこれをABCD包囲網と呼んで国民の反発を誘いました。

1941(昭和16)年4月、悪化した日米関係を打開するための日米交渉がワシントンで始まりましたが、交渉はまとまりませんでした。7月、日本の陸海軍はフランス領インドシナの首都サイゴン(現在のホーチミン)に入りました(南部仏印進駐)。サイゴンは、日本が南進の拠点にできる軍事上の重要地点だったので、危機感を募らせたアメリカは、すぐに在米日本資産の凍結と対日石油輸出の全面禁止で報復しました。8月、米英両国は大西洋上で会談を開き、大西洋憲章を発表して、領土不拡大、国境線不変更、民族自決など、領国の戦争目的をうたいました。
日米交渉は続けられていましたが、進展はありませんでした。11月、アメリカは、日本が中国・インドシナから無条件で全面的に撤退することを求める提案(ハル・ノート)をつきつけました。これを最後通告と受け止めた日本政府は、対米開戦を決意しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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中国をめぐる日米関係の悪化 学校で教えてくれなかった近現代史(43)

目的不明の泥沼戦争

中国(当時は支那)との戦争が長引くと、日本は国を挙げて戦争を遂行する体制をつくるため、1938(昭和13)年、国家総動員法が成立しました。これによって政府は議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限を与えられました。またこの時期には言論の統制や検閲なども強化されました。

中国大陸での戦争は長期化し、いつ終わるとも知れませんでした。和平工作の動きもありましたが、戦争継続を求める軍部の強硬な方針が絶えず優位を占めました。代表政府も分からず列強からの武器支援で抵抗をやめず、混沌を深める中国国内において、和平交渉は不可能だったからです。1940(昭和15)年、民政党の斎藤隆夫(兵庫県豊岡市出石町出身)衆議院議員は、帝国議会で「この戦争の目的は何か」(粛軍演説)と質問しましたが、政府は明確に答えることができませんでした。

世界恐慌のあと、日本国内でも、ドイツやソ連のような国家体制のもとでの統制経済を理想とみなす風潮が広がりました。1940年には、政党が解消して大政翼賛会にまとまりました。

粛軍演説

斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。
その前に1925(大正14)年の普通選挙法に対する賛成演説であり、その1つめは1936(昭和11)年5月7日の「粛軍演説」であり、また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行ったことです。そして3つめは、1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。

卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。

支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、  「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。 この事変の目的はどこにあるかわからない。」の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かります。

反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。

第二次世界大戦後の1945(昭和20)年11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。

1947(昭和22)年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(にち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。
『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどでした。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによるものです。

生い立ちと斎藤隆夫記念館「静思堂」

斎藤隆夫の生地・兵庫県豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。

8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。

明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。  同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。

明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。 同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。

明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。  帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚しました。

政治家としての軌道

1912年(明治45年・大正元年)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。  立憲国民党より総選挙に出馬。そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。

斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が、金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に斎藤を応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。

 「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」

大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。

除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。

以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。

斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。 兵庫県豊岡市出石町中村 TEL.0796-52-5643

悪化する日米関係

一方、1933年頃から世界のいたるところに広大な植民地をもっていたイギリス、フランスなどは、本国と植民地との経済的な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自給自足をはかりつつ、外国の商品には高い関税をかけて国内市場から閉め出すブロック経済を取り始めました。

1938(昭和13)年、近衛文麿首相は東亜新秩序の建設を声明し、日本・満州・中国を統合した独自の経済圏をつくることを示唆しました。これはのちに東条英機首相が東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンに発展しました。

一方、国内の不況が長引くアメリカのルーズベルト大統領は、門戸開放、機会均等を唱えて、近衛聖明に強く反発し、日本が独自の経済圏をつくることを認めませんでした。日中戦争では、アメリカは表面上は中立を守っていましたが、この前後から中国国民党政府の蒋介石を公然と支援するようになりました。日米戦争にいたる対立の一因はここにありました。

1939(昭和14)年、アメリカは日米通商航海条約を延長しないと通告しました。石油をはじめ多くの物資をアメリカからの輸入に依存していた日本は、しだいに経済的に苦しい立場に追い込まれました。

日本の陸軍には、北方のソ連の脅威に対処する北進論の考え方が伝統的に強かったのですが、このころから東南アジアに進出して石油などの資源を確保しようとする南進論の考えが強まっていました。しかし、日本が東南アジアに進出すれば、そこに植民地をもつイギリス、アメリカ、オランダ、フランスなどと衝突するのは避けられませんでした。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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二・二六事件から日中戦争へ 学校で教えてくれなかった近現代史(42)

二・二六事件

1936(昭和11)年、桂園時代以来久しぶりに任期満了選挙が翌年2月に20日行われ、民政党205議席、政友会174議席で民政党が第一党に返り咲いたほか、社会大衆党が22議席と躍進しますが、選挙結果に示された民意を反映する方向への変化はまったく起こりませんでした。

1936(昭和11)年、2月26日早朝、陸軍の青年将校の一派が1400余の兵士を率いて、首相官邸や警視庁などを襲撃しました。彼らは宮中をおさえる斉藤実内大臣、財政をおさえる高橋是清大蔵大臣の二人や警護の警官らを殺害し、政党・財閥・重臣らを打倒し、天皇をいただく軍部独裁政権の樹立をならい、東京の永田町周辺を占拠しました(二・二六事件)。

ところが、昭和天皇は重臣を殺害した反乱分子を許さない断固たる決意を示しました。反乱軍は3日で鎮圧され、識者らは死刑に処されました。しかし、こののち、陸軍大臣と海軍大臣には現役の軍人しかなれない制度が復活し、陸海軍が支持しない内閣の成立は困難となりました。

軍部の存在感と影響力は以前とは比較にならない程増大しました。また「憲政常道論」との完全な決別を余儀なくされた元老西園寺は、後継首班選定の幅を広げ宮中グループの制度化と人的増員を図りました。自らの生物的寿命と政権交代ができなかった以上、それを制度と宮中の人材でまかなうしか方法はなかったのです。それは、元老機能代替機関として内大臣・宮内大臣をトップとする宮中の制度化を進め、それに枢密院議長と総理大臣経験者による重臣グループの形成にありました。

こうして、二・二六事件以降、軍部と宮中が政治的肥大化をとげることになります。それは政治のリーダーシップが確立されなかったことを意味しました。近衛文麿と東条英機の二人を除けば、リーダーシップをとれる首相はいませんでした。新体制と日独伊三国軍事同盟という内外の枠組みの確立を過大とした近衛、日米戦争の遂行のために内外の制度整備を課題とした東条だけが、首相指名のそれなりの必然性を有していたのです。

二・二六事件の後、外務大臣広田弘毅が首相となります。それは本命の近衛が断ったために次善の策としか言いようのない巡り合わせでした。勢力を増大した陸軍は、自らリーダーシップを発揮することなく、拒否権集団として自らの組織利益を擁護するだけでした。

たとえば、特定の国務大臣候補への拒否権の発動、政治性交渉能力のある軍人をすべて排除しました。陸軍は巨大な官僚集団と化し、軍事費だけで四割強を占める有様でした。広田は一年後、ハラキリ問答という議会におけるハプニングで倒れると、元老西園寺は陸軍のコントロールを考慮に入れて満を持して親英米派の本命宇垣一成を後継に選びました。しかし今や拒否と排除を旨とする官僚集団化した陸軍は、現役武官制を盾に、宇垣内閣を実現させませんでした。1937(昭和12)年、林内閣の後、西園寺は意を決して政界のホープ近衛を首班に推しました。もはや近衛以外に首相候補はいなかったのです。五摂家筆頭という名門、45歳という若さ、「英米本意の平和主義を排す」という革新的色彩の強い態度、いずれもが近衛に対する各方面からの強い期待を呼び起こしました。

第一次近衛内閣は、一ヶ月後の盧溝橋事件など発展した日中戦争の処理と運命を共にすることとなります。内閣は不拡大方針でしたが、下克上状況にあって軍のコントロールはもはや利きませんでした。

西安事件

同じころ中国では、蒋介石が率いる国民党政権と、中国共産党とがはげしく対立し、内戦状態にありました(国共内戦)。中国共産党は、抗日で国共両党が抗日で協力することを呼びかけました。しかし、蒋介石は、まず国内の共産党勢力を倒し、そののち、日本と戦うという方針を変えませんでした。共産党軍は圧倒的な兵力をもつ国民党軍に追いつめられました。

満州地方の軍閥で、関東軍に追い出された張学良は、蒋介石に共産党の討伐を命じられていましたが、内心は共産党の抗日の呼びかけに賛同していました。張学良は、1936年、蒋介石を西安で監禁し、共産党との内戦をやめ、一致して日本と戦うことを認めさせました(西安事件)。

盧溝橋から日中戦争(支那事変)へ

一方、日本軍は満州国の維持や資源確保のために、隣接する華北地方に親日政権をつくるなどいsて、中国側との緊張が高まっていました。また日本は、義和団事件のあと、他の列強諸国と同様に中国と結んだ条約によって、北京周辺に5千人の軍隊を駐屯させていました。1937(昭和12)年7月7日22時40分頃、北京(当時は北平と呼ぶ)西南方向の盧溝橋、永定河東岸で演習中の日本軍・支那駐屯歩兵第1連隊第3大隊第8中隊に対し、何者かが竜王廟方面より複数発の銃撃する事件が起きました。翌日7月8日3時25分、竜王廟方面から3発の銃声あり。伝令に出た岩谷曹長らが、中国軍陣地に近づき過ぎて発砲を受けたと見られています。

この事件をきっかけに、日本軍と国民党政府は戦争状態に突入、その後戦線を拡大していきました(盧溝橋事件)。事件そのものは小規模で、現地解決が図られましたが、日本側は大規模な派兵を決定し、国民党政府も直ちに動員令を出しました。同年8月、外国の権益が集中する上海で二人の日本人将兵が射殺される事件が起き、ここから、日中間の衝突が一挙に拡大しました。こうして日中戦争(支那事変)が始まりました。

日中戦争(事変)の用語ついて

「事変」とは本来「警察力でしずめることができない規模の事件、騒ぎ」という意味です。「事変」という呼称が選ばれたのは、「戦争とは国家観の戦闘を意味し、当時、大日本帝国と中華民国が互いに宣戦布告しておらず、公式には分裂政府の国民党軍や共産党軍は中華民国を代表するものではなく、国家間では戦争状態にない」という認識から、事変の勃発当初から日米戦争の開始までの4年間を事変と呼ぶことを双方が望んだからです。宣戦布告を避けたのは、両国が戦争状態にあるとすると、第三国には戦時国際法上の中立義務が生じ、交戦国に対して軍事的な支援をすることは、中立義務に反する敵対行動となるためでした。これ以上の国際的な孤立を避けたい日本側にとっても、外国の支援なしには戦闘を継続できない蒋介石側にとっても、宣戦布告は不利とされたのです。

なお、日本軍が駐兵していた法的根拠は義和団の乱の講和条約である北京議定書に基づいています。
この戦争は日米を中心とした太平洋戦争のように、近代国家対近代国家の戦いではありませんでした。当時の中国大陸には、現在の中華人民共和国ような近代国家ではなく、清国が滅亡した後の主力勢力である国民政府(蒋介石の時代には国民政府も北京と南京に分列状態で北伐が行われていた)のほかに、共産党軍と複数の軍閥が各地を統治していました。いわば、日本の戦国時代のような戦国大名が群雄し覇を争っている様な地帯で、蒋介石の北伐などによって少しづつ統一され、ようやく祖国・愛国心というものが芽生えはじめていた時期でした。

日本はその頃満州国を建国し、建国まもない満州の安定を図ることを目的として北支駐衛権確保のため満洲と中国の国境に軍隊を移駐しました。現代的な感覚では、戦争とは主権国家同士の戦いですが、当時、中国には交渉できる主権国家がなく、「日本=近代国家」と「中国=前近代状態」の戦争と考えられ、日本が西欧的「近代ルール」の戦争をしても、講和など近代ルールに基づく目的を達成することは難しく、「近代」と「前近代」の埋めがたい価値観の違いが、結果的に戦争の泥沼化を招いた一要因であったと考えられています。

日本は日中戦争開始前、開始後、それぞれその地方を治めていた北京政府、南京政府と国際条約を結んで駐屯していましたが、最終的に太平洋戦争の敗戦によってそれらの存在が無効となり、そのような条約があったという事実も消滅してしまいました。

出典: 『日本人の歴史教科書』自由社
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