中国をめぐる日米関係の悪化 学校で教えてくれなかった近現代史(43)

目的不明の泥沼戦争

中国(当時は支那)との戦争が長引くと、日本は国を挙げて戦争を遂行する体制をつくるため、1938(昭和13)年、国家総動員法が成立しました。これによって政府は議会の同意なしに物資や労働力を動員できる権限を与えられました。またこの時期には言論の統制や検閲なども強化されました。

中国大陸での戦争は長期化し、いつ終わるとも知れませんでした。和平工作の動きもありましたが、戦争継続を求める軍部の強硬な方針が絶えず優位を占めました。代表政府も分からず列強からの武器支援で抵抗をやめず、混沌を深める中国国内において、和平交渉は不可能だったからです。1940(昭和15)年、民政党の斎藤隆夫(兵庫県豊岡市出石町出身)衆議院議員は、帝国議会で「この戦争の目的は何か」(粛軍演説)と質問しましたが、政府は明確に答えることができませんでした。

世界恐慌のあと、日本国内でも、ドイツやソ連のような国家体制のもとでの統制経済を理想とみなす風潮が広がりました。1940年には、政党が解消して大政翼賛会にまとまりました。

粛軍演説

斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。
その前に1925(大正14)年の普通選挙法に対する賛成演説であり、その1つめは1936(昭和11)年5月7日の「粛軍演説」であり、また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行ったことです。そして3つめは、1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。

卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。

支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、  「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。 この事変の目的はどこにあるかわからない。」の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かります。

反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。

第二次世界大戦後の1945(昭和20)年11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。

1947(昭和22)年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(にち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。
『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどでした。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによるものです。

生い立ちと斎藤隆夫記念館「静思堂」

斎藤隆夫の生地・兵庫県豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。

8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。

明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。  同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。

明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。 同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。

明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。  帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚しました。

政治家としての軌道

1912年(明治45年・大正元年)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。  立憲国民党より総選挙に出馬。そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。

斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が、金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に斎藤を応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。

 「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」

大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。

除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。

以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。

斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。 兵庫県豊岡市出石町中村 TEL.0796-52-5643

悪化する日米関係

一方、1933年頃から世界のいたるところに広大な植民地をもっていたイギリス、フランスなどは、本国と植民地との経済的な結びつきを強め、その経済圏の内部で重要な商品の自給自足をはかりつつ、外国の商品には高い関税をかけて国内市場から閉め出すブロック経済を取り始めました。

1938(昭和13)年、近衛文麿首相は東亜新秩序の建設を声明し、日本・満州・中国を統合した独自の経済圏をつくることを示唆しました。これはのちに東条英機首相が東南アジアを含めた大東亜共栄圏というスローガンに発展しました。

一方、国内の不況が長引くアメリカのルーズベルト大統領は、門戸開放、機会均等を唱えて、近衛聖明に強く反発し、日本が独自の経済圏をつくることを認めませんでした。日中戦争では、アメリカは表面上は中立を守っていましたが、この前後から中国国民党政府の蒋介石を公然と支援するようになりました。日米戦争にいたる対立の一因はここにありました。

1939(昭和14)年、アメリカは日米通商航海条約を延長しないと通告しました。石油をはじめ多くの物資をアメリカからの輸入に依存していた日本は、しだいに経済的に苦しい立場に追い込まれました。

日本の陸軍には、北方のソ連の脅威に対処する北進論の考え方が伝統的に強かったのですが、このころから東南アジアに進出して石油などの資源を確保しようとする南進論の考えが強まっていました。しかし、日本が東南アジアに進出すれば、そこに植民地をもつイギリス、アメリカ、オランダ、フランスなどと衝突するのは避けられませんでした。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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