城崎(きのさき)

城崎(きのさき)というと有名な城崎温泉をイメージされる。そもそも城崎とは城崎温泉のある界隈のみを意味する地名ではない。城崎郡田結郷湯島が江戸までの城崎温泉の名称であった。城崎郡の温泉なので俗に城崎温泉と呼ばれていた。では城崎とはどこを指すのだろうか。城崎郡城崎郷とは今の豊岡市街地で城崎郡豊岡町を指していた。

『国司文書 但馬故事記』は、質量ともに他の古典・古伝・古史などに劣らないばかりか、上古から中世までを克明に記された稀な史料。
但馬故事記は郡別に第一巻・気多郡故事記から第八巻・二方郡故事記まであり、第四巻が城崎郡故事記である。

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)は、「天火明命はこれより西して谿間に来たり、清明宮に駐まり、豊岡原に降り、御田を開き、垂樋天物部命をして、真名井を掘り、御田に灌がしむ。

すなわちその地秋穂八握に莫々然シナヒヌ。故れその地を名づけて豊岡原と云い、真名井を名づけて御田井と云う。のち小田井と改む。」

「人皇10代崇神天皇9年(BC88年)秋7月 小江命の子、穴目杵命を黄沼前県主と為す。」で黄沼前県が最初に記載されているので、この頃には黄沼前県となっていたようである。

黄沼前とは、円山川下流域は黄沼前海きのさきのうみと呼ばれていた入江の湖沼で旧城崎郡一帯は黄沼前県と云われるようになり、同じく同記に「人皇17代仁徳天皇10年(322年)秋8月 水先主命の子、海部直命を以て、城崎郡司兼海部直と為す」と城崎郡の初見があるので、この古墳時代(4世紀)にはすでに城崎郡と記していたようである。
(中略)

天火明命は、御子、稲年饒穂命を小田井県主と為し、稲年饒穂命の子、長饒穂命を美伊県主(のち美含郡)と為し、佐久津彦命に命じて、佐々前県主(のち気多郡)と為し、佐久津彦命の子、佐伎津彦命に命じて屋岡県主(のち養父郡)と為し、伊佐布魂命に命じて、比地県主(のち朝来郡)と為す。

(中略)

人皇10代崇神天皇9年秋7月 小江命の子、穴目杵命を黄沼前県主と為す。

(中略)

人皇17代仁徳天皇10年秋8月 水先主命の子、海部直命を以て、城崎郡司と為す。

『但馬世継記』に、城崎郡風土記作成の記録として、
元明天皇の御世、和銅7年(714) 黄沼前キノサキを改めて、城崎キノサキとなし、佳字ヨキジを用い、風土記を造る。

城崎郡

倭名類聚抄に載する郷6
新田・城崎(キノサキ)・三江・奈佐・田結(タイフ)・餘部

延喜式神名帳曰く城崎郡。21座、大1座、小20座

新田郷

太田文曰く長講堂領、新田庄

今の村数
江本・今森・鹽津(塩津)・立野 右新田庄
駄坂(ダサカ)・木内(キナシ)・篠岡・中谷・河谷・百合地
右 六方と云う。

城崎郷

太田文曰く長講堂領、城崎庄
今の村数
佐野・九日・妙楽寺・戸牧(トベラ)・大磯(オホゾ)・小尾崎
豊岡・野田・新屋敷・一日市・下陰・上陰・高屋・六地蔵

豊岡

豊岡は山の名なり。一に亀城(カメシロ)と云う。今の城地は、一郷の市場なりしを、中世開かる。今の新屋敷と云う所なり。

三江郷

太田文曰く上三江庄、下三江庄を鎌田庄という。
今の村数
庄境・鎌田・祥雲寺・法華寺・馬路(マヂ)・下ノ宮・梶原・火(日)撫(ヒナド)
右鎌田庄と云う。
山本・金剛寺・舟町・宮島・森・野上(ノジョウ)
右を今俗に田結庄(タイノショウ)と云うは、鶴城に田結庄左近将監の居られしより云いならわしたるなり。

奈佐郷

太田文曰く平等院領、樋爪(ヒツメ)庄。
中古より奈佐樋爪庄と称す。表米の三男をここに置かれしことは日下部の伝記に見ゆ。鎌倉の時、奈佐春高と云うものあり。朝倉高清の嫡子を養子として奈佐太郎高原と云う。これ奈佐氏の中興なり。山名の時、篠部伊賀守これに居る。

今の村数13
岩井・栃江・宮井・庄村・吉井・野垣・福成寺・大谷・内町・辻・目坂・船谷・河合

田結郷

今の村数
森津・瀧・新堂・岩熊・江野(ゴウノ)・伊賀谷
右 大濱(浜)庄と云う。
下鶴井・赤石・結(ムスブ)・戸島・楽浦(ササノウラ)・飯谷(ハンダニ)・畑上・三原
右 下鶴井庄と云う。

上山(ウヤマ)・簸磯(ヒノソ)・来日(クルヒ)・今津
右 灘と云う。

気比(ケヒ)・田結(タイ)・湯嶋・桃島・小島・瀬戸・津居山
右 気比庄と云う。

温泉

一本堂薬選続編曰く、但州城崎温泉、三数座ありて、(中略)
新湯 薬選曰く、この邦諸州、温泉極めて多し、しかして但州城崎新湯を最第一とす。(中略)

中湯 曰く2つあり。俗に瘡湯(カサユ)と云う。これは一切の瘡傷の類を早く癒やすゆえなり。(中略)

上湯 一つなり。中ノ湯の上に並んであり。(中略)

御所湯 2つあり。御所の名はいずれか確かならず。(中略)

曼荼羅湯 法華霊場記曰く、日眞師、北国御弘通の砌(みぎり)、但馬国湯島と云う所に赴き給う。ここの療湯湧き上がること甚だ強く、熱きことまた忍びがたし。故に病人たまたま行向へども、一足を入れし侍ることかなわず。師これを見給いて、やがて曼荼羅を遊ばして温泉に沈め給えば、それより滑然として和らぎ、病人四方よりつどい集まり、ひとえに眞師の徳行を貴ぶここを以って、今の世までも曼荼羅の湯といい侍りぬ。(中略)

養父(やぶ)・八鹿

桜井勉『校補 但馬考』には、
風土記曰く、古老伝え云う。この地その昔民家なくして竹藪(やぶ)のみ。故に藪と云う。今養父と云うはその訛りなり。この郡民家豊かにて、竹木多し。

この風土記とは『国司文書 但馬故事記』のことであろう。その第三巻・養父郡故事記に、但馬と養父・八鹿の名の起こりが記されている。

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朝来(あさご)

朝来郡(あさごぐん)

倭名類聚抄に載る郷は八
山口・桑市・伊田(伊由の誤記)・賀都・東河(トガ)・朝来・粟鹿(アワガ)・磯部
以上八郷に村数79

『国司文書別記 郷名記抄』
朝来郷

朝来山あり。この故に名づく。朝来は諸神朝来(アサキ)の義。朝来直(アタエ)在住の地なり。朝来直の祖・天砺目命神社あり。朝来神社という。朝来山にあり。天砺目命は彦坐命陸耳征討の供奉(グブ)の神なり。

朝来村

朝来直在住の地なり。朝来直は、丹波国、今は丹後国加佐郡朝来(アセク)の人(今の舞鶴市朝来)
孝徳天皇の御世、朝来軍団を置く。故に兵庫を建て、兵主神を祀る(式内 兵主神社)

『国司文書 但馬故事記』(第二巻・朝来郡故事記)

天火明命(あめのほあかりのみこと)は、
丹波国加佐志楽国において、この国を国作大己貴命(くにつくりおおなむちのみこと)に授かり、

天道姫命 坂戸天物部命
二田(フタタ)天物部命 両槻(ナミツキ)天物部命
真名井天物部命 嶋戸天物部命
天磐船命   天揖取部命
天熊人命  蒼稲魂命(うかのみたまのみこと)
を率いて、この地に来ました。真名井を掘り、御田を聞いて、その水を潅(そそ)ぎ、稲穂が垂れ秋には美味しい稲の野面にしました。
それゆえ、この地を名づけて、比地(ひち)の真名井と云います。(比地は奇霊地の義)(朝来市和田山町比地)

(註:豊受大神を雄略木朝の22年に丹波国比治の真奈井原より伊勢国の山田原に遷し奉るとあるが、この比地の真名井原は、丹波の比治真奈井原にあやかって命名したものであろうか)

天火明命は、奇霊クシヒ宮に在(ま)し、(式内 浅間神社:養父市浅間)
妃の天道姫命は老波(志波奈美)宮に在(ま)し、(朝来市佐嚢老波)
天熊人命は大斎宮に在(ま)し、(朝来市山東町大月)
蒼稲魂命は弥生宮に在(ま)す。(式内 養父神社:養父市藪崎)

第一代神武天皇八年秋七月、伊佐布魂命の子である麻布御魂命をもって、比地県主とする。

(中略)

人皇十代崇神スジン天皇(紀元前97年1月13日- 紀元前30年12月5日)の十年秋(紀元前87)九月、
丹波青葉山(わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠(くがみみのみかさ)、(土蜘蛛の匹女など)盗賊を集め、民衆の物を略奪していました。

その党(やから)、狂(クルヒ、今の豊岡市来日)土蜘蛛は多遅麻(但馬)に入り、盗みを行う。
(多遅麻)国造の祖、倭得玉命、多遅麻国造・天日楢杵(あめのひならき)命は、それを崇神天皇にこもごも奏しました。天皇は、(九代開化天皇の皇子)彦坐命(ひこいますのみこと)に命じて、これを討つようにと命じられました。

(中略)

天皇はその功を賞し、丹波・多遅摩・二方の三国を与えました。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(今の東河・粟鹿)の宮に居しました。アワビは、塩ケ渕(のり味沢)に放ちました。水がかれたのち、枚田ひらたの高山の麓の穴渕に放ちました(のち赤渕神社に祀ると云う)。
のちに彦坐命は(天皇から)勅を奉じて、諸国(三国)を巡察し、平定を奏しました。

天皇は勅して、姓を日下部足泥(宿祢)クサカベノスクネと賜い、諸国に日下部を定め、これを彦坐命に賜いました。

十一年夏四月、(粟鹿)宮に還り、諸将を各地に置き、鎮護(まもり)としました。
丹波国造 倭得玉命
多遅摩国造タヂマノクニノミヤツコ 天日楢杵命アメノヒナラキノミコト
二方国造フタカタノムニノミヤツコ 宇都野真若命ウツノマワカノミコト
その下に、
当芸利彦命の功を賞し、気多県主ケタアガタヌシ(のちの気多郡)とし、
武額明命タケヌカガノミコトをもって、美伊県主(のちの美含郡)としました。
同じく、
比地県主(のちの朝来郡)・美保津彦命
夜夫県主(のちの養父郡)・美津玉彦命
黄沼前県主(のちの城崎郡)・穴目杵命
伊曾布県主(のちの七美郡)・黒田大彦命
みな、刀我禾鹿宮に朝して、その徳を頒ました。
朝来の名は、ここに始まります。

(中略)

第十一代垂仁天皇八十四年九月、
丹波・多遅摩・二方三国の大国主・日下部宿祢の遠祖・彦坐命は、刀我禾鹿宮に薨ず。寿二百八歳。禾鹿の鴨の端の丘に葬りました。(兆域28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部ニ烟(けむり)を置き、これを守る。

息長宿祢の子。大多牟阪(おおたむさか)命をもって、朝来県主としました。大多牟阪命は、墨阪大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足泥(すくね)命を生みました。
大多牟阪命は、山口宮にあり、彦坐命を禾鹿宮に祀りました。(名神大 粟鹿神社)

第十三代成務天皇五年秋九月、
大多牟阪命の子・船穂足泥命をもって、多遅摩国造と定めました。船穂足泥命は大夜夫宮に還りました。(名神大 養父神社)

船穂足泥命の子・当勝足泥(まさかつすくね)命をもって、朝来県主としました。

この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。俗には、この郡にいます粟鹿の神、国中の一宮ゆえ、諸の神たち、朝ことに来たりまみえ給う。故に、朝来郡と名づけしと云うは、臆説ならん。すべて郡郷名の名は、その地名を取って名づけること、古くからの事実なり。

『校補 但馬考』桜井勉 *1

[解説]*1
『天日槍』の著者今井啓一郎は、同じ出石の郷土史家桜井勉が『国司文書 但馬故事記』を偽書説などを牙歯にもかけず、人或いは荒唐無稽の徒事なりと笑わば笑えと堂々の論れんを張り、天日槍研究に自信の程を示した。すなわち彼は、桜井とは見解を異にし、この但馬国司文書を大いに活用している。

「この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。」とするならば、その朝来山の由来はどう説明するのだろう。(『国司文書 但馬故事記』注釈本著者 吾郷清彦)

以上

【沿革】

1889年(明治22年)4月1日、市制町村制により、朝来市域に1町10村(うち朝来郡1町8村、養父郡2村)が誕生
1925年(大正15年)4月1日、朝来郡梁瀬村が町制施行
1927年(昭和2年)1月1日、朝来郡竹田村が町制施行
1930年(昭和5年)4月10日、朝来郡枚田村が町制施行し和田山町と改称
1954年(昭和29年)3月31日、朝来郡梁瀬町、粟鹿村、与布土村が合併し山東町、朝来郡山口村、中川村が合併し朝来町となる
1955年(昭和30年)3月31日、朝来郡和田山町、東河村が合併し和田山町、養父郡大蔵村、糸井村が合併し南但町となる
1956年(昭和31年)9月30日、朝来郡和田山町、同郡竹田町、養父郡南但町が合併し和田山町となる
1957年(昭和32年)4月1日、神崎郡大河内町川尻、栃原地区が朝来郡生野町に編入
1959年(昭和34年)4月1日、朝来郡和田山町から堀畑地区が分町
2005年(平成17年)4月1日、朝来郡生野町、和田山町、山東町、朝来町四町が合併し、朝来市となる

出石(いずし)

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桜井勉『候補但馬考』 出石郡

風土記曰く、古老伝え云う「その昔、天下を治むる御神大穴持命、この郡に至りたまふ。地上に光あるを数夜なり。その光を尋ねて地を掘ること、数仞(スウジン)にして、白石を得る。故にこれに名付ける。その石は、今の一宮の御形(みしるし)これなり。」

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