気多郡狭沼郷(八代村)

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狭沼郷

八代川が円山川に注ぐ豊岡市佐野から、八代谷を西へ行くと、峠を越えて、河江、小河江、さらに目坂から、西へまた峠を越えた現在の豊岡市竹野町床瀬・椒、三原までが旧気多郡狭沼郷で、細長く広範な郷。普通、上古から郡や郷・村は、地形によって自然発生的に成るものであって、自動車でも遠く狭い道を、当時は徒歩で行き来したとは信じられなかった。

『国司文書 但馬故事記』に、狭沼郷が登場するのは、

人皇21代雄略天皇3年秋7月、
黒田大連をもって、多遅麻国造となし、府を国府村に遷す。
黒田大連は、天児屋根命の末裔にして、大職冠・藤原鎌足公5世の祖なり。

(中略)

17年春3月朔(サク)、詔して、土師等をしてまさに朝夕の御膳に盛る清器を進ぜしめ給う。
これにおいて、土師連の祖・吾笥は、すなわち摂津国来佐々村、山背国内村、俯見村、伊勢国藤形村および丹波・但馬・因幡の私部(きさいべ)を進む。

但馬国出石郡埴野村・養父郡土田村・美含郡阿故谷村を贄(にえ)土師部と云うは是なり。(阿故谷村のうち陶谷村・埴生村・小碗村はこれに属す)

18年春四月、気多郡陶谷村の人、陶谷甕主、出雲国阿故谷の人、阿故氏人、小碗氏人、等、美含郡に入り、阿故谷・陶谷・埴生・小碗にて、陶器・清(須恵)器の類を作り、部落を為す。

人皇40代天武天皇13年3月、
応神天皇の皇子 大山守命の裔、榛原公鹿我麿(はいばら・はりはらのきみかがまろ)を以って、但馬国司と為し(1)、位小錦上(2)を授く。
榛原公鹿我麿は気多郡狭沼を開き、墾田す。

14年秋八月 その祖大山守命を蜀椒(ホソギ)山に祀り、祭式を行う(3)。
朱鳥元年5月、小錦上・榛原公鹿我麿に務広参を授く。墾田の功に依るなり。
榛原氏の後裔はこの地に在り、蜀椒の実を採集し、油を絞り取り、これを朝廷に献ず。のち貢上を制(さだめ)とす。ゆえにこの地を名づけて、蜀椒(ホソギ)村と云う。

人皇26代武烈天皇三年夏六月 大鹿連は、その祖天児屋根命・黒田大連命を大鹿山に祀る。

(大鹿連の子大鹿首(おびと)は伊勢国造と為り、伊勢に遷る。子孫は世々大鹿に住むという)

人皇47代孝謙天皇の天平勝宝元年6月、
大炊山代直都賀麿をもって但馬介となす。大炊山代直都賀麿、八代邑を開き、墾田をなす。
これに依って5年9月、その祖天砺目命を八代の丘に祀り、これを大炊山代神社という。また八代神社という。土人(くにびと)訛りて、思往(おもいやり)神社と云う。

[註] この記述から察すると、大岡は古くは大鹿で、大岡神社の神戸を祖とする気がする。

(1)国司の制が布かれたのは大化二年であるから、鹿我麿が初代但馬国司に任ぜられた天武天皇十三年(675)は、大化二年より40年後に当たる。
(2)十三階の制で小錦は第八階に当たる。さらに各階は上・下がある。
(3)式内社(名神大) 蜀椒神社([木蜀]椒神社) 豊岡市竹野町椒

狭沼(サノ)郷

狭沼(サヌ・サノ)・鷹貫(タカヌキ)・葛井(フジイ)・陶谷(スダニ)・国棺(クノギ)・谷・大炊山代村(オオイヤマシロ)・八代・河合・椒(ハジカミ)・三原・猪爪(イノツメ)

『弘安太田文』に、

狭沼郷
田34町。觀喜光院領八代の荘田53町。
今は佐野と書く。弘安の比、八代谷を分けて別に一庄とする。
但馬考は、今の佐野荘は、佐野・上石(アゲシ)・竹貫の3邑。
八代谷は、藤井・奈佐路・谷・八代・猪(ノ)爪・奥八代・河江・椒・三原・段(ノ)十の10邑。

※陶谷は今の奈佐路、八代が奥八代とすると、大炊山代村の山代が八代中村である。
※河江は、平安時代は河合とあり、その名の通り、三方の谷川が集まる所。『太田文』(鎌倉時代)にはすでに河江になっている。

【沿革】

気多郡狭沼郷
1889年(明治22年)4月1日、気多郡八代村が発足。
1896年(明治29年)4月1日、郡再編により、城崎郡八代村。
1955年(昭和30年)3月25日 – 日高町、国府村、八代村、三方村、西気村、清滝村が合併し、新しい日高町が発足。
2005年4月1日、豊岡市および城崎郡城崎町・竹野町、出石郡出石町・但東町と合併し新しい豊岡市になった。
(ウィキペディア)

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