山名氏四天王 太田垣氏竹田城(虎臥城)


兵庫県朝来市竹田

山城で全国的にも有名な竹田城は、山陰道と播但道が分岐する交通の要所にそびえ立ち三方が見渡せる。
但馬国はその頃、近畿と中国地方に日本全国60余州の内11カ国を所有し「六分一殿」といわれた山名氏氏の支城で、播磨の赤松氏、丹波の細川氏と、山名氏と幾度も乱を起こした相手との出陣の砦のようなものだったとか。四天王のひとり太田垣氏が初代城主で朝来郡と生野銀山を収めた。  四天王の垣屋氏が気多郡と金山の要、楽々前(ささのくま)城と城崎道の要、宵田城、竹野へ通じる轟城。  八木氏が山陰道の八木川沿い養父郡を、田結庄(たいのしょう)氏が久美浜へ通じる愛宕山に築城し城崎郡を収めていた。
のちに豊臣氏の但馬平定によって、秀長氏に与えられ、没後、播磨龍野城主赤松氏が城主の頃に大修復が行われた。壮大な城郭はこの頃に13年の歳月をかけて築かれたもの。虎が横たわっているように見えるこよから別名「虎臥城(こがじょう)」と呼ばれる。
清酒 虎臥城 巨人の前に虎がいるということで阪神ファンにもおすすめ(^^)。 (ちなみにその折りに筆頭家老といわれる三日月町中島砦の中島重右衛門は、母方の本家で、おじいさんまで代々中島重右衛門を名乗り、13代目の伯父からあまりにも古くさいと言うことで重夫、弟の伯父が重門になった。先日叔母の一周忌で墓参りに行って、久しぶりに会った従兄弟とそんな話題になった。(^^) 中学・高校の同級生に谷垣、田結庄、太田垣がいた。今思えば子孫なのかも。。。

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八木城趾


養父市八鹿町今滝
今日は午前中は叔父の一周忌の法要と、午後からは左官屋をしていた祖父の一番弟子で、遠い親戚にあたるおじさんの葬儀が重なる。 重なったので一周忌法要は母が出席することにしていた。
余裕ができたので出席することにした。 高校の恩師(2年3年の担任)が、この家の同じ苗字の遠縁にあたり、「法事で一度顔みたいな」と聞いていたので、久しぶりに再会できるのを楽しみにしていたこともあったからなのだ。 しかし都合により、遠縁はご遠慮いただき近親者のみとなり、会えなくなったので残念だ。
この親戚の目の前に八木城跡がある。 付近の神社シリーズがほぼ終わり、城跡へと移行しているところで帰り際に山頂だけスナップ。 八木氏は、南北朝の争乱(室町)時代から戦国時代(安土桃山時代)には、但馬山名氏に属して、山名氏の四天王(太田垣、八木、垣屋、田結庄)の一人として、但馬に勢力を誇った。 からにかけての城跡があり、昔から養父郡内における政治的中心地として利用されてきた。

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垣屋氏の菩提寺ぼたん寺隆国寺【豊岡市日高町荒川

兵庫県豊岡市日高町荒川
宗派 曹洞宗
本尊 釈迦牟尼仏

隆国寺は、室町時代の開基で、山名の四天王筆頭といわれた垣屋播磨守隆国公の菩提寺と伝わっています。
自宅の檀家 宵田蓮正寺さんを除けば、高校合宿等最も訪れているお寺です。
旧日高町内でも、最も古く大きな伽藍を誇っています。ぼたん寺として親しまれ、喧噪から離れ、庭のぼたんを眺める時間は、癒されるとともに日本人の心と活力を、思い出させていただける空間です。前住職の大穣さんは大本山福井永平寺副管長を勤められていました。

【たじまる】 涼しい風景「滝」


八反の滝 豊岡市日高町名色
蒸し暑い時節ですので涼しい風景を。 地元近辺の2つの滝をご紹介します。 「八反の滝」 日高町名色 別荘地と但馬ドームがある。

 

 

 

 

「十戸(じゅうご)の滝」 豊岡市日高町十戸
国道482号 日 ニジマス釣りもできる。戸神社。

北近畿鉄道物語-山陰本線全通

北近畿鉄道物語

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山陰本線全通

 
特急「こうのとり」(新大阪~福知山・豊岡・城崎温泉、287系:旧「北近畿」)・特急「きのさき」(京都~福知山・豊岡・城崎温泉)(写真:JR西日本)


特急「はまかぜ」(大阪~(播但線経由)香住・浜坂・鳥取、キハ189系)

JR山陰本線が全通したのは意外にも昭和に入ってからである。1933年(昭和8年)2月24日、ついに須佐駅(山口県萩市) – 宇田郷駅(山口県阿武郡阿武町)間 (8.8km) が延伸開業し、京都駅から幡生駅(山口県下関市)間(673.8km)が全通した。
しかし、在来線としての営業キロは日本最長の路線であるが、起点(京都駅)から終点(下関市の幡生駅)までの列車はなく、京都から居組駅(兵庫県美方郡新温泉町)間までを通して走る列車は全通以来一度もない本線の一つである。山陽本線や山陽新幹線開業以来、山陰本線沿いの各都市(福知山市・豊岡市・鳥取市・倉吉市・米子市・松江市・出雲市・益田市・長門市など)から直接山陽新幹線に至る路線を強化してきた結果である。1961(昭和36)年10月、山陰本線に初の特急「まつかぜ」(キハ80系気動車6連)が京都~松江間(福知山線経由)まで。1964(昭和39)年には一気に博多まで延長となったが最長列車だった。(その後、2003(平成15)年、「スーパーまつかぜ」(鳥取駅 – 米子駅・益田駅間)として、この名が復活する)

また、東京駅-浜田駅間を東海道本線、京都から山陰本線を通る寝台特急「出雲(いずも)」(1998年7月からは、1往復に285系を投入して電車化を行い「サンライズ出雲」として伯備線経由で運転開始。2006年3月に山陰本線経由は、車両の老朽化や利用客の減少などの理由により廃止)や、城崎温泉までの特急「きのさき」のみで、鳥取へは、智頭急行開通後、播但線経由の特急「はまかぜ」のみとなった。

山陰本線はそれぞれの区間で性格が多様だが、京都駅から園部駅間は近畿統括本部、園部駅から居組駅(兵庫県内)間(園部駅構内のぞく)は福知山支社、居組駅から益田駅間は米子支社*1、益田駅から 幡生駅間は広島支社下関地域鉄道部の管轄となっている。

*1 居組駅 – 赤碕駅間(居組駅構内のぞく) 米子支社鳥取鉄道部
赤碕駅 – 田儀駅間(赤碕駅構内のぞく) 米子支社
田儀駅 – 益田駅間(田儀駅構内のぞく) 米子支社浜田鉄道部

たじまる 弥生6 奴国誕生

奴国誕生

2.九州北部「奴国誕生」

1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。 スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。

南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。

当時の天皇は、記紀に

中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。

「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

3.出雲神政国家連合

つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。

荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。

邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。

例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。

ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。

現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。

神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。

神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。

4.四隅突出型方墳


2号墳墓

大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。 山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。

墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。

このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。

造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。


西谷2号墳墓

姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。

また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。

出雲西部の荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。

さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。

朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。 楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。

5.統一奴国

初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。

スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。

そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。

この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。

スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。

『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。

また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。

6.スサノオは「砂鉄」を採る男だった

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。 このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。


[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

弥生6 奴国誕生

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

奴国誕生

2.九州北部「奴国誕生」

1世紀ころ、百余国もあった日本列島の国(といっても西日本の一部であろうが)の中で、スサノオ族を中心に結束した九州北部の「奴国」が、徐々に頭角を現してきたのです。現在の博多付近に存在したと推定されています。 スサノオ尊の建国した国は、まだ中央集権国家ではなく、豪族の合議・連合体でした。『後漢書』東夷伝によれば、建武中元二年(57年)後漢の光武帝に倭奴国が使して、光武帝により、倭奴国が冊封され金印を綬与されたとあり、江戸時代に農民が志賀島から「漢委奴国王」と刻まれていた金印を発見し、倭奴国が実在したことが証明されました。委国の委は、倭の人偏を省略したもので、この場合は委=倭です。

スサノオ尊は、小諸国を統一して国造りに努めただけでなく、住民の生活向上に心を配り、様々な事柄を開発・創始し、御子や部下たちを各地に派遣して国土開発や殖産興業を奨励し、人材を適材適所に登用する優れた指導者でもあった。思えば、スサノオは日本列島に初めて国らしき国を創建した建国の始祖王だった。

南九州では日向を連合させたとき、伊弉諾尊(いざなぎ)の娘・向津姫(むかつひめ、記・紀の天照大神)を現地妻として娶(めと)り、豊国の宇佐や日向の西都に政庁を置いた。そして、各地に御子・八島野(やしまぬ)尊・五十猛(いたける)尊・大歳(おおとし)尊・娘婿の大己貴(おおなむち)尊(大国主)や部下を配置して統治させた。

政情がほぼ安定したのを見定めて、筑紫(ちくし)から讃岐(さぬき)に遷(うつ)って、北九州から瀬戸内地方を統治していた大歳(おおとし)尊に、河内・大和に東遷(とうせん)して、以東の国々を統合するよう命じ、故郷・出雲に帰って亡くなられた。ときに65歳、BC124年頃とみられる。

スサノオの御陵は八雲村大字熊野(現・松江市八雲町熊野)にある元出雲国一の宮・熊野大社の元宮の地とされ、「神祖熊野大神櫛御気野尊(かむおやくまのおおかみくしみけぬのみこと)」の諡号(しごう)で祀られている。神のなかの祖神(おやがみ)である。

大同五(810)年正月、嵯峨天皇は、「須佐之男尊は即ち皇国の本主なり。故に日本の総社と崇め給いしなり」として、スサノオ尊を祀る津島神社(愛知県津島市)に日本総社の号を奉られ、また一条天皇は、同社に天王社の号を贈られた。

当時の天皇は、記紀に

中国の史書・宋史の日本伝は、神武天皇(記・紀では初代天皇)の六代も前に、素戔嗚尊(須佐之男尊)を国王としてはっきりと記している。

ようやく九州北部にもクニが誕生しきて、大陸の統一国家「漢」への朝貢は、満を持してのことだったはずです。そして、初代奴国王こそ、スサノオの父でしょう。当然、他に百余国もあるのだから、妨害工作や、先に朝貢を試みた諸国は他にもあったと考えられますが、『漢書』に、「奴国」以外の朝貢の記述が無いことから、諸国も納得せざるを得ないほど、「奴国」は強大な国になっていたのでしょう。また、稲作が九州北部ではじまったことなどから、スサノオは、九州で生まれていると思われます。

そして、初代奴国王である父から、王位を引き継いだスサノオの時代がおとずれます。推定、紀元前97年のことです。九州北部から中国地方の出雲に勢力を広げます。

『記紀』神話中、最大にして最強の巨神、出雲の荒ぶる神「素戔嗚尊」(すさのおのみこと、以下、スサノオ)です。スサノオは「尊」としています。本文で、大悪人のごとく記述しているにもかかわらず、これは、どういうわけなのでしょうか。

「命」・「尊」と書いて、ともに「みこと」と読みます。『日本書紀』では、より尊い神を「尊」と言い、それ
以外は、「命」と明確に区別しています。『日本書紀』自らが、そう注釈しているのだから間違いはありません。

『古代日本正史』の著者、原田常治氏は、『記紀』という人造亡霊からは、真の古代史などわからない、という一念から、その資料を奈良県の「大神神社」(おおみわじんじゃ)に始まり、全国の『記紀』以前の、創建の神社に求めたのです。

原田氏は、神社名と主祭神との比較検討から、本来祀られていた真実の神を発見し、それら神社の由来を調査した結果、一本の歴史ストーリーを完成させています。同様の手法は、『消された覇王』の著者、小椋一葉氏も採用され、同じ結論に到っています。

それによれば、スサノオは、ヤマト朝廷が成立する以前に、出雲王朝を成立させていた、日本建国の始祖であり、讃え名を「神祖熊野大神奇御食野尊」(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)と言います。

3.出雲神政国家連合

つまり、ここですぐ想像できるのは斐伊川支流の荒神谷(簸川郡斐川町)で発見された358本もの大量の銅剣や銅鐸・銅矛です。

荒神谷で発見されたとき、全国の銅剣出土総数は300本余りでしたが、荒神谷では4列に並んだ同じ形の銅剣358本が一度に出土した組合わせは、これまでに例のないものでした。しかも、358本のうち344本のなかご部分に「×」印が刻まれていました。その印がある例は荒神谷遺跡と隣在する加茂岩倉遺跡から出土したものだけです。「×」印の意味はいまだに謎ですが、「神霊をここに結び鎮める」すなわち埋納した剣のもつ威力が逃げないようにする為の手段などとも考えられています。

これらは、九州「奴国」を統一した王スサノオは、九州地方の政情が安定したのをみて、出雲まで進んできて、スサノオがオオムナチ(大己貴尊・大穴牟遲命)とムカツヒメ(向津姫)に後を托し、故郷・出雲に帰り、紀元前124年頃、65歳くらいで亡くなられたとみられます。オオムナチは出雲の大国主となって出雲の統治を任された。ところで、島根県簸川郡佐多町宮内(もと須佐村、現在・出雲市佐田町)に在る須佐神社(須佐大宮)には、祭神・須佐之男命・稲田比売命・足摩槌命・手摩槌命(須佐家祖神)が祀られ、社伝に「ここはもと国幣小社で、社殿の造営・改修は武将藩主によって行うのを例としてきた。また、須佐家は須佐之男命の神裔であることから須佐国造に任ぜられ、今日まで連綿と七十八代を経ている(AD2004年現在)といいます。

資源や領土争いを繰り返していた各地の部族を、新技術や資源を梃子(てこ)に説き伏せ、大同団結を呼びかけた。越・加賀・能登・長門・筑前・豊前から日向にも遠征し、北陸・山陰・中四国・九州各地の小部族国を連合、拡大に成功し出雲神政国家連合を創建した。国王スサノオは、「和」を治世の基本戦略とした。

邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められる。また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もある。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺える。

例えば、江戸期における大名の参勤交代などは、神無月に出雲へ全国の神々が出雲に参集し会議を行うことをモデルとしたと考えるのが合理的であるとの指摘があるそうです。「弥生」、「神無月」など旧暦の名称や、和歌[*1]、相撲の起源などもここに求められるという説もあります。

ただし、宗教でまとめ上げられた合議的連合政体は、武断的ピラミッド組織をもつヤマト王権の政体にとって変わられたとする見解があり、それが有名な「国譲り」の物語として今に伝わっているとしています。

現在考えられている古代出雲の広がりは律令制でいう出雲国+伯耆(ほうき)国と考えるのが妥当であり、出雲国府跡が松江市大草町であることからも、初期の中心地は出雲と伯耆の国境近辺にあったと思われ、大和朝廷の弱体化政策により、出雲と伯耆に分断されたと見るのが妥当とされています。その後も出雲文化を継承した律令出雲の実質的支配者、出雲国造(くにのみやつこ)家は現松江市東部にあり、その本幹である出雲大社を中心に宗教的活動を行いました。

神話に登場する国譲り神話は、この国造家がその権威を大和朝廷から次第に剥奪され、ついには出雲大社の神官というだけの地位までになり、意宇郡(おうぐん)の大半の権利を平安期に剥奪され、現在の出雲市大社町を中心とする西出雲に押し込められた形となった経緯を神話として今に伝えていると考えられています。

神政合議政体を維持できたのは、同盟国との共有化しうる神話制作の巧みさが指摘されていますが、一方で縄文時代に始まった黒耀石[*2]の流れを汲む圧倒的な玉石加工(玉造)や鉄や銅の金属製造技巧(たたら)を蓄え、その交易によってその優位性を形成したとの見方もあります。

4.四隅突出型方墳


2号墳墓

大規模な西谷古墳群や荒島墳墓群などの、隅部が発達した四隅突出墳と呼ばれる独特の出雲の墳墓の形が、弥生時代中期から中国山地から出雲・伯耆・因幡、時代を日本海を北上して、少し遅れて越前(福井県嶺北)・越中(富山)へとその広がりを持っている(但馬・丹後・若狭の方形墓のものとは異なる)。3号墳丘墓の埋葬施設が楯築墳丘墓のそれと同じような構造の木槨墓であり、埋葬後の儀礼に用いた土器の中に吉備の特殊器台・特殊壺や山陰東部や北陸南部からの器台・高杯などが大量に混じっていた。 山陰地方東部から北陸地方南部にかけての首長の間に強い結びつきがあり、政治的勢力の同盟関係があったのではないかと推測できる。さらに、吉備の場合も同様なことが考えられます。日本海側を中心に約90基が確認されています。北陸地方(福井県・石川県・富山県)では現在までに計8基が知られています。

墳丘墓側面には貼り石を貼りめぐらし、サイズは後の前期古墳のサイズに近づいていたなど、古墳時代以前の墓制ではもっとも土木技術が駆使されており、日本海沿岸という広域で墓形の規格化が進んでいた。

このことから、山陰~北陸にわたる日本海沿岸の文化交流圏ないしはヤマト王権以前に成立していた王権を想定する論者もいます。また、島根県安来市(旧出雲国)に古墳時代前期に全国的にも抜きん出た大型方墳(荒島墳墓群の大成、造山古墳)が造営されるが、四隅突出型墳丘墓の延長線上に築かれたものと考えるものもおり、出雲国造家とのつながりを指摘するものもいます。

造山古墳1号墳(島根県安来市)は一辺60mの古墳時代前期のもので、この時代のものとしては全国でも最大級の方墳で、近隣には、大成古墳もあり造山1号墳同様、古墳時代前期に築造、全国最大規模の方墳。

  
西谷2号墳墓

姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。

また、四隅突出墳墓に代表される独自の文化を生み出しました。

出雲西部の荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡から出土した大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語りますが、この大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説はありません。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では、鳥取県米子市から大山町にまたがる妻木晩田(むきばんだ)遺跡や島根県安来市の竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開しました。古墳時代前期では全国最大級の方墳である、大成古墳、造山一号古墳にその繁栄の後がうかがえます。

さらに、ヤマト・吉備連合政権の物部氏の侵攻によって、ヤマト政権に従属したとの説や、それでは記紀に記された膨大な出雲の活躍が説明できないとして、ヤマト政権樹立のため協力し大和へ一部が移住した(これが物部氏、蘇我氏に相当する)との説もあります。また、魏志倭人伝にある邪馬台国七万戸に次ぐ大国である投馬国五万戸を出雲に比定する説があります(前田晴人氏など)。

朝鮮半島北部にあった中国の植民地の楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと思われ、壱岐の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡、任那と壱岐、古代出雲の間の交流を示しています。 楽浪郡には、中国の文明が移植されており、楽浪郡との交流は中国文明との交流を意味する。邪馬台国より先んじて神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出墳墓や出雲神話への影響が認められています。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(任那)とも関係が深いという指摘もあります。「古事記」、「日本書紀」の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られており、早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことが伺えます。

5.統一奴国

初代奴国王から、王位を受け継いだスサノオを、推定15歳としますが、スサノオの死亡年齢から推定すれば、このとき10~20歳であったと思われます。幼き王に、一国を治めるだけの力があろうはずがなく、当然、参謀格の武将なり智将なりが、政治を司っていたものと思われます。彼らは、「もののふ」と呼ばれる武闘派であり、呪術集団でもありました。もちろん推定でしかありませんが、その中でも、卓越した指導力を発揮した者こそ、後の「物部氏」「蘇我氏」です。

スサノオを王とした「奴国」は、107年までに九州全土をほぼ掌握したものと思われます。スサノオ尊、その息子・「大歳」(おおとし=のちにニギハヤヒノミコト(饒速日尊)と改める)とともに、鹿児島県に至るまで、九州地方の神社に広く祀られています。

そしてその年、「奴国」を「倭面土」(ヤマトと読める説も、首都の意味である)とした一大国家・「統一奴国」の国王帥升(すいしょう)となったスサノオは、「後漢」の首都、洛陽におもむき、孝安帝に面会を求めたのです。

この時の推定年齢は、20~30歳でしょう。大国・「後漢」の皇帝に直接面会を求めるという大胆な発想は、血気盛んなこの若さでないとできないことだと思います。ちなみに、生口(せいこう)[*1]を160人つれてと、『後漢書』は記しています。

スサノオは、その勢いに任せて、関門海峡を渡り「出雲」へと向かったのではないでしょうか。「出雲」の鉄資源の噂を、どこからか聞いたのかも知れません。ところが、その地は既に、八岐大蛇(やまたのおろち、以下、ヤマタノオロチ)が支配する土地でした。

『記紀』神話では、高天原を追われたスサノオが、出雲の地で、ヤマタノオロチの人身御供にされようとしていた、「櫛稲田姫」(くしいなだひめ)を救うためにヤマタノオロチを倒して、夫婦になったと記しています。『古事記』では、「高志」(こし)のヤマタノオロチとしています。「高志」とは「越」であり、今の、新潟県のことではないかというのが有力です。

また、『日本原紀』の著者である朴炳植氏によれば、「越」とは、「高句麗」のことであり、朝鮮半島から日本海を渡って、高句麗人が住み着いていた地が、「越」であるといいます。ヤマタノオロチとは、大勢の「オリ」とか「オロ」と呼ばれた、「越」の人々であるらしく、それを裏付けているとしています。さらに、「語りべ」・「下僕」と言うことから「べ=人」であり、他にも、人の意味を表す古語として、「ち」があるといいます。とすると、「オロチ」は大勢の人となります。「オチ=エチ」「アイチ」も類似します。

6.スサノオは「砂鉄」を採る男だった

砂鉄は日本のような火山列島には、それこそ腐るほど埋蔵されています。だから、出石の墳墓に砂鉄が埋葬されてあったということは、出石の豪族が砂鉄に感謝したからに他ならないのです。 このことは、出雲のスサノオをめぐる神話からも読みとれます。一般に「出雲神は新羅系」とする考えがありますが、そうではなく、スサノオは朝鮮半島に群がった倭人を象徴的に表しているようです。

なぜなら、出雲でのスサノオは、朝鮮半島の「鉄の民」の要素を持っていますが、それは決して大陸や半島の人々の発想ではないからです。

吉野裕氏は、『出雲風土記』に登場するスサノオをさして、海や川の州に堆積した砂鉄を採る男だから「渚沙(すさ)の男」なのだと指摘しています。

スサノオはヤマタノオロチ退治をしていますが、この説話が製鉄と結びつくという指摘は多いです。砂鉄を採るために鉄穴流し(かんなながし)によって真っ赤に染まった河川をイメージしているというのです。

出雲大社の摂社は「素が社」です。蘇我氏と出雲は強く結ばれていたのではないかと思えます。その理由の一つが、蘇我氏も砂鉄と強く結ばれていたからです。スサノオ同様、蘇我が関与したのは「鉄鉱石」ではなく「砂鉄」です。「ソガ」のもともとは「スガ」からきているようで、「スガ」は湿地帯を意味していて、なぜスサノオがじめじめしたところを好んで宮に選んだかというと、やはり「鉄」が関係してくる疑いがあります。砂鉄は鉄穴流しをするために大量の水を必要とします。スサノオがヒボコ同様に湿地帯を選んだのも、このためだろう。


[*1]生口(せいこう)…弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。

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弥生5 古代出雲(いずも)

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

概 要

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。 弥生前期末から中期にかけて、日本列島西部には多くの変化が起こった形跡がうかがえます。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現します。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られず、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されています。

中期以降は、甕棺墓や銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものですから、朝鮮半島から身分の高い人々がやってきたものと考えられています。

紀元前108年、朝鮮半島では、漢の武帝が半島最初の国家とされる衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡、つまり植民地を朝鮮に置いた時代と合致しますから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものとされます。

縄文時代から弥生時代早期にかけて、秦が統一によって多くの人々が避難してきたように、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命からがらであったと推定されます。

中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようです。博多湾岸を中心に九州北部でクニが誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われはじめました。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として墳墓に治められています。それは特別な王というべき位の高い身分であり、神として崇めたものです。

出土する遺物から、九州北部に渡ってきた一団は朝鮮半島南部(伽耶)から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部(楽浪郡)から来たと思われます。

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

1.古代出雲(いずも)

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古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆(ほうき・現鳥取県西部)国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を古代出雲とする見方が濃厚です。 姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出しました。

考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力であります。

また出雲地方でこのことから考えても、同じ日本海側で出雲と越国(福井から新潟)が交流があったと記されているので、中間地点にある因幡・但馬・丹波も出雲からの物部氏?の一族が、海岸線から定住し始めた人々もいたのではないかと考えても何の不思議はありません。

先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されました。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味しています。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団(スサノオ一族)とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようです。これらの人々(ニギハヤヒ一族)によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものとも判断できます。

近年になって、出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」で、全国のこれまでの出土総数に匹敵するほどのおびただしい銅鐸や銅剣が一度に見つかってきましたが、大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るてがかりとして、また豊富な神話、特有四隅突出型墳丘墓から、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられています。

1.朝鮮半島と日本海

日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。

DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。

日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。

[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。

古代出雲(いずも)

出雲は神政国家連合体を形成した痕跡があり、北陸、関東、九州宗像などに四隅突出方墳や出雲神話への影響が認められます。

また、早期から製鉄技術も発達しており、朝鮮半島の加耶(カヤ((任那(みまな))とも関係が深いという指摘もあります。記紀の1/3の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社は出雲系の神が祭られています。それは早期の日本神道の形成に重要な働きを及ぼし、日本文明の骨格を作り上げた一大古代勢力であったことは決してはずせない史実が伺えます。 弥生前期末から中期にかけて、日本列島西部には多くの変化が起こった形跡がうかがえます。北九州地方では、細型の銅剣や銅矛が出土するようになり、甕棺墓が出現します。大阪湾沿岸地方では、方形周溝墓が見られず、時期的には、紀元前二世紀末頃と推定されています。

中期以降は、甕棺墓や銅剣にしても、朝鮮半島と関係が深いものですから、朝鮮半島から身分の高い人々がやってきたものと考えられています。

紀元前108年、朝鮮半島では、漢の武帝が半島最初の国家とされる衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を初めとする四郡、つまり植民地を朝鮮に置いた時代と合致しますから、この難を逃れた人々が日本列島にやってきたものとされます。

縄文時代から弥生時代早期にかけて、秦が統一によって多くの人々が避難してきたように、やはり緊急避難であったと考えられます。緊急避難で日本列島に上陸した人々は命からがらであったと推定されます。

中国史書を見ると、この後あたりから、倭人が中国へ朝貢を始めたようです。博多湾岸を中心に九州北部でクニが誕生し、中国から手に入れた漢鏡や銅剣銅矛が、宝器として使われはじめました。そして、これらの品は伝世されることなく、副葬品として墳墓に治められています。それは特別な王というべき位の高い身分であり、神として崇めたものです。

出土する遺物から、九州北部に渡ってきた一団は朝鮮半島南部(伽耶)から、近畿地方に渡ってきた一団は中国東北地方または朝鮮半島北部(楽浪郡)から来たと思われます。

出雲とは、稜威母(イズモ)という、日本国母神「イザナミ」の尊厳への敬意を表す言葉からきた語、あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説があります。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であることから、出鉄(いづもの)からきたという説もあります。

大きな地図で見る

 古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられています。特に東部出雲は律令下でいう伯耆(ほうき・現鳥取県西部)国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆を古代出雲とする見方が濃厚です。 姫原西遺跡や西谷墳墓群、荒島古墳群がある出雲平野、安来平野、意宇平野には、強大な国があったと推定出来ます。また、四隅突出型墳丘墓に代表される独自の文化を生み出しました。

考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もあります。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力であります。

また出雲地方でこのことから考えても、同じ日本海側で出雲と越国(福井から新潟)が交流があったと記されているので、中間地点にある因幡・但馬・丹波も出雲からの物部氏?の一族が、海岸線から定住し始めた人々もいたのではないかと考えても何の不思議はありません。

先年、朝鮮半島北部で相当数の方形周溝墓が発見されました。日本から朝鮮半島に出かけていって、墓を造ったとは考えられないから、この時期、方形周溝墓を持った一団が日本列島にやってきたことを意味しています。北九州と近畿地方では出土遺物がかなり異なることから判断して、彼らは北九州に先にやってきていた一団(スサノオ一族)とは別の集団で、彼らを避けて、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸にやってきたようです。これらの人々(ニギハヤヒ一族)によって、大阪湾岸の大規模な建物や近畿地方の鉄器や古式銅鐸がもたらされたものとも判断できます。

近年になって、出雲西部の「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」で、全国のこれまでの出土総数に匹敵するほどのおびただしい銅鐸や銅剣が一度に見つかってきましたが、大量の銅鐸や銅剣がこの地域の盛大さを物語るてがかりとして、また豊富な神話、特有四隅突出型墳丘墓から、この地域に古くから栄えた大きな勢力があったことは確実であるとされている。その謎を解明するかに見られた「荒神谷遺跡」や「加茂岩倉遺跡」からのこの大量の青銅品埋蔵の解釈にはまだ定説が無い。

その後、出雲西部地方は衰えを見せますが、出雲東部では妻木晩田遺跡や竹ヶ崎遺跡・柳遺跡では大量の鉄器の半製品が発掘されていることから、鉄資源の輸入・鍛冶精錬を司ることで発展し、弥生後期には広く日本海側に展開をしたと考えられています。

1.朝鮮半島と日本海

 日本の文化はすべて朝鮮半島から伝搬されたと主張する学者がいます。どうも朝鮮半島からの渡来、文化の起源説などが強調されすぎているようにも見えますが、日本列島はまだ統一されておらず、楽浪郡(紀元前108年 – 313年)との交流があったと考えられています。古代朝鮮半島は中国王朝の郡県、つまり直接支配の地域でした。後の朝鮮半島全域に出没した倭寇も含めて考えると、朝鮮半島や中国の東海岸は、実際には日中朝の人間が混在していた場所であり、また日本は文化に関しては中国に文化の起源を求めていた、と考えるのがよさそうにみえます。たしかに鉄器、焼き物をはじめ仏教や寺院建築、漢字(文字)などは朝鮮半島経由から伝来したようですが、朝鮮半島も三国時代に中国から伝搬したのであり、鉄器、稲作、焼き物、古墳などが百済や高句麗から発祥して伝わったとみるのはどうでしょうか。

DNA鑑定によれば日本のお米であるジャポニカ種は長江以南が原産であって、青森三内丸山遺跡からみつかった米も縄文時代からジャポニカ米が栽培されており、水稲栽培技術は中国江南で行われたものとする説が有力です。陸路で入って来るには朝鮮北部では米が育たないことからも、中国→朝鮮半島→日本ルートは考えにくく、中国から発祥した先端技術が、朝鮮半島を含めた中国東海岸から経由して日本列島に伝搬していったと考えれています。魏書には倭国の倭女王卑弥呼も帯方郡(たいほうぐん)[*1]を通じて中国王朝と通交しています。帯方郡は楽浪郡(らくろうぐん)の一部で、紀元前108年から西暦313年まで朝鮮半島北部に存在した中国王朝の郡県、つまり直接支配地域にありました。東方における中華文明の出先機関であり、朝鮮や倭国の中国文明受容に大きな役割を果たしました。次の時代になって百済・伽耶・新羅という新しい国々が南方に生まれ、倭国同様に魏との冊封関係にあったわけです。したがって、朝鮮半島文化が日本の文化のルーツそのものであるとするには無理があります。銅鏡も中国から贈られたとされていますが、中国や朝鮮半島からは見つかっていないことから、日本で独自に製作されたという意見が有力視されています。

日本の長崎県壱岐市の原の辻遺跡では楽浪郡の文物と一緒に弥生時代の出雲の土器が出土しており、これは、楽浪郡と壱岐、出雲の間の交流を示しています。したがって、姫原西遺跡や西谷墳墓群がある出雲平野には、強大な国があったと思われ、出雲が楽浪郡と深い関係を持ちながら、山陰を支配していた可能性があるとされています。

[*1] 帯方郡(たいほうぐん)とは、204~313年の109年間、古代中国によって朝鮮半島の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点。楽浪郡の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある。