たじまる あめのひぼこ 5

天日槍ゆかりの神社

  1. 諸杉(もろすぎ)神社
  2. 比遲(ヒジ)神社
  3. 日出神社
  4. 須義(すぎ)神社

天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社は、いずれも式内社で、出石神社と御出石神社を囲むように旧出石郡に集中している。

  • 諸杉神社 天日槍の子・多遅摩母呂須玖(タヂマモロスク)/出石町内町
  • 比遅神社/多遅摩斐泥(タヂマヒネ) 但東町口藤
  • 中嶋神社 曾孫が、菓子の神とされる多遅摩毛理、田道間守(タヂマモリ)/豊岡市三宅
  • 日出神社 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)/但東町畑山、清日子(スガヒコ)であり、
  • 多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)の娘が菅竃由良度美(スガカマノユラトミ)/須義神社/出石町荒木
    一節には清日子(スガヒコ)の娘とあります。

私は、この天日槍(アメノヒボコ)ゆかりの神社を調べて、これは後々の伝承に過ぎないのだと断言できる。『国司文書但馬神社系譜伝』によれば次の神社は天日槍とはまったく無関係である。

比遲(ヒジ)神社 本来の祭神は味散君
佐伎都比古阿流知命神社は、平安期までは養父郡浅間郷坂本に鎮座しており、
祭神 佐伎津彦命・阿流知命 (浅間郷開拓の祖神)

諸杉(もろすぎ)神社

兵庫県豊岡市出石町内町28
式内社 旧県社
御祭神 多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすく)
『国司文書但馬神社系譜伝』は天諸杉命 亦の名 多遲摩母呂須玖、但馬諸助
アメノヒボコ(天日槍)命の嫡子とある。

豊岡市出石総合支所駐車場の前の出石城の東に隣接する古社ですが、私もはじめて訪ねました。この辺りは出石観光の中心にあたります。日本書紀に「但馬諸助」とある神で、
「母呂須玖」が社名の「諸杉」と転訛したようです。


木の鳥居が古さを物語る。


拝殿

創祀年代は不詳。当初は小坂村水上(むながい)に祀られていたが、天正二年(1574)、但馬国守護山名氏が居城を
此隅山(小盗山)から出石有子山に移すにあたり現在地に遷座したという。


本殿

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比遲(ヒジ)神社


兵庫県豊岡市但東町口藤字山姥547
式内社 旧村社
御祭神 多遲摩比泥(たじまひじ)神

多遲摩比泥神は天日槍の孫であり多遅摩毛理の祖父神。
多遅摩比泥とも、多遅摩斐泥とも書かれる。『国司文書但馬神社系譜伝』には、ご祭神 味散君(みさのきみ)。
人皇五十代柏原天皇の延暦三年夏六月、葛井宿祢比遲は出石主帳となり、これを祀る。
味散君、百済国都慕王十世孫・塩君の子なり。葛井宿祢の祖。

日出(ひので)神社


豊岡市但東町畑山329式内社 旧村社

御祭神 多遅摩比多訶神(たぢまひたか)祭神は、ヒボコの四世孫・多遅摩比多訶神。多遅摩比那良岐の子、田道間守命の弟。社号の日出、鎮座地が日殿村で、この祭神名から取られたものでしょうか。

日出神社は但馬神話で出石を中心とする但馬地方を治めたヒボコの四世「多遅摩比多訶」を祭神とします。神社の創立は明らかでないが、延喜式に但馬国出石郡の小社と記された式内社であります。現本殿の建立は、建築の様式技法から考察して室町時代末期の16世紀初頭と考えられ、その後、宝永元年(1704)、享保11年(1726)、明治21年(1888)に修理したことが棟札によって知られます。解体修理は昭和48年10月に着手し、翌昭和49年11月に工事を完了しています。構造様式は旧規を踏襲し、後世改変された箇所は資料にもとづいて復旧し、覆屋も撤去して当初の姿に修復された。

本殿は室町時代末期の様式技法をよく伝えているとして、昭和38年に兵庫県指定文化財となり、昭和45年6月に国指定の重要文化財となった。国の文化財保護審議会において「日出神社本殿は庇部分に後世の改造部分が多いが、手挟、蟇股など細部は当初材を残し、兵庫県における室町時代末期の三間社流造本殿の一例として保存すべきものと考える」と評価されています。

 

須義(すぎ)神社


兵庫県豊岡市出石町荒木字竹ヶ原273-1
但馬國出石郡 シ頁義神社 式内社 旧郷社
御祭神 由良度美神(ゆらとみのかみ) 配祀 誉田別

神社伝によると、応神天皇四十年の創祀。
『国司文書但馬神社系譜伝』には、須義芳男命(亦の名は荒木帯刀部命)
一説に、神功皇后が熊襲征討のため
出石神社に戦勝祈願をした時。山の中腹の高い場所に祀ったのもその権力を誇示するためだろうか。


鳥居を過ぎると長い石段が迫る。

式内社・須義神社に比定されている古社で、『三代実録』に、貞観十年十二月二十一日に
正六位上から従五位下に昇進した「菅神」が当社。
吉野朝時代、当社付近を菅庄と称し、八幡宮領となり、八幡神を併せ祀ったという。菅川のそば、菅谷の菅庄に鎮座する神社で、以前は、菅八幡宮と称し、
荒木の八幡さんと呼ばれている神社。かつての京街道沿いにあり、かつて但馬征伐で秀長率いる豊臣軍が浅間峠を越えて出石城攻めに行軍した道です。


拝殿

『神名帳考證』には、多遲摩母呂須玖神(たぢまもろすくのかみ)とある。多遲摩母呂須玖神は天日槍神の子。
菅竈由良度美神は、その多遲摩母呂須玖神の妹、あるいは娘、あるいは四世孫清日子の娘で神功皇后の外祖母と考えられる神らしい。


本殿


石段を登ると境内は以外と広かった。

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あめのひぼこ 4 お菓子の神様-中嶋神社

お菓子の神様-中嶋神社

目 次
  1. お菓子の神様-中嶋神社
  2. お酒の神様-酒垂神社(さかだれじんじゃ)

お菓子の神様-中嶋神社


朱塗りの大鳥居

【国指定重要文化財】

祭神:主祭神:田道間守命(たじまもりのみこと・多遅麻毛理命) 配祀:天湯河棚神(あまのゆかわたなのかみ)
住所:兵庫県豊岡市三宅1

「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社がある。

中嶋神社の祭神田道間守は、古事記では、多遅麻毛理(タヂマモリ)、日本書紀では田道間守(タヂマモリ)は、ヒボコの曾孫、多遅摩比那良岐の子。
式内社 旧社格は県社
二間流造(ながれづくり)で、室町時代の典型的な神社建築を伝えています。


中の鳥居

御祭神の田道間守は、韓国、昔の新羅の皇子で、我が国に渡来して帰化し、但馬の国を賜り、これを開発したアメノヒボコ(天之日矛、天日槍)命(アメノヒボコ)の五世の子孫で、日本神話で垂仁天皇の命により常世の国(現在の韓国済州島と言われている)から当時の菓子としては最高のものとして珍重された「非時(ときじく)の香の木の実」(橘…みかんの一種)を、長い歳月をかけ、艱難辛苦の末持ち帰ったところ、垂仁天皇はすでにお亡くなりになり、命は悲嘆の余り、その御陵に非時香菓を献げた上、殉死された。 ときの景行天皇は、命の忠誠心を哀れみ、御陵(山辺道上陵:奈良県天理市渋谷町の渋谷向山古墳(前方後円墳・全長300m)に比定)の池の中に墓を造らせた。田道間守の墳墓が垂仁天皇陵をめぐる池の島にあったことからその名がついました。

また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから養蚕の神ともされます。


拝殿

田道間守命が異界に果物や薬草を求めに行く話は、人物を代えて世界各地に伝わるもので、この説話は中国の神仙譚の影響を受けていると考えられています。例えば秦の徐福が蓬莱に不老不死の薬を求めに行く話があります。徐福伝説として各地に伝わっています。全国でも珍しいお菓子の神様として、「菓祖・菓子の神」として製菓業者の崇敬を受け、日本各地に分社があります。中嶋神社の分霊が太宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都市)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。現在も全国の菓子製造業者などの崇拝を受け広く親しまれいます。

佐賀県伊万里市には、常世の国から帰国したタヂマモリが上陸した地であるという伝承があり、伊万里神社にはタヂマモリを祀る中嶋神社がある。和歌山県海南市の橘本神社の元の鎮座地「六本樹の丘」は、タヂマモリが持ち帰った橘の木がはじめて移植された地と伝えられています。


本殿

天湯河棚神は中古に合祀された安美神社の祭神であります。天湯河棚神(天湯河板挙命)は鳥取造の祖であります。一説には、日本書紀に記される、垂仁天皇の命により天湯河板挙命が鵠を捕えた和那美之水門の近くに天湯河棚神を祀ったものであるといわれています。 創建は非常に古く、国司文書によれば、約千三百年前の推古天皇(在位593~628)の御代、田道間守の七世の子孫である三宅吉士が、祖神として田道間守を祀ったのに始まる。「中嶋」という社名は、田道間守の墓が垂仁天皇の御陵の池の中に島のように浮んでいるからという。

中古、安美郷内の4社(有庫神社・阿牟加神社・安美神社・香住神社)を合祀し「五社大明神」とも称されたが、後に安美神社(天湯河棚神)以外は分離した。


摂社 安美神社

現在の朱塗りの本殿は、応永年間の火災の後、約六百年前の室町中期、正長元年(1428年)に但馬の領主 山名氏により建立されたもので、室町中期の特色をよく示しているものとして重要文化財に指定されて国指定重要文化財に指定されました。 推古天皇の御代になって、七代目の命の孫に当たる、この地三宅に住む「吉士中嶋(キチシナカジマ)の君がこの神社を創立し、命を祭られたと伝えられます。

毎年四月の第三日曜日を「橘菓祭(菓子祭)が行われ、全国より菓子業者の参拝もあり、招福、家業発展を祈願して盛大に行われます。(神社御由緒などより)

地名の三宅について

屯倉(みやけ)とは古墳時代に設けられた土地や人民の支配制度の一つで、大和政権が直接支配した土地のことを指す。「屯倉」は『日本書紀』の表記。『古事記』・『風土記』・木簡では「屯家」「御宅」「三宅」「三家」とも表記されます。
大化の改新で廃止されました。

豊岡市三宅という地名から大和政権が直接支配した土地だったとことが濃厚です。但馬・丹後には養父市関宮町にも三宅、京丹後市丹後町三宅があります。
旧神美村三宅は、森尾古墳群があり、ヤマト朝廷以前から栄えていた豪族がいたのでしょうか。朝廷の支配下にして直轄領にしたということは重要な場所であったに違いないのでしょう。

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[註]
  • [*1]…この「社伝」は、のち奥丹後震災で焼失した。
  • [*2]…「宝物」の数は、[古事記』では「八種」、『日本書紀』では「七種」とされている。
  • [*3]…「ひもろぎ」 ヒモロキとも。神の宿る神聖な場所。玉垣で囲ったりした。


兵庫県豊岡市法花寺
祭神:酒弥豆男命、酒弥豆女命

【国指定重要文化財】創祀年代は不詳。境内案内によると、白鳳三年(675)の夏、
当地方を治めていた郡司・物部韓国連久々比命が
贄田の酒所を定め、酒解子神・大解子神・子解子神の酒造神を祀って
醸酒し、これを祖神に供えて五穀豊穣を祈願した。
その斎殿が、当社の発祥であるという。

祭神は、杜氏の祖神、酒造司の守護神である
酒美津男命と酒美津女命。

別名、大倉大明神とも大蔵大明神とも記され、拝殿扁額にも「酒垂神社」と並んで「大蔵大明神」の名が掲げられている。

酒弥豆男命と酒弥豆女命という酒の神をまつる酒垂神社。本殿は2本の柱で一間をつくる一間社流造の構造で、国の重要文化財に指定されている。現在は保護のために上屋で覆われている。永享10年(1438)に斧始め、嘉吉元年(1441)に立柱、文安元年(1444)に遷宮、体裁を完備したのが、宝徳元年(1449)で、前後11年をかけて建てられた建物。

お菓子の神様・中嶋神社やコウノトリの神社・久々比神社と同じ大工の手によってつくられていて、ここはお酒の神様。記録によると大伴久清という宮大工によって建てられており、細部にわたってすぐれた意匠が凝らされています。 大伴久清という大工の苗字・大伴は、今も三江地区に分布している大伴姓と関係があるかも知れません。江戸時代に入って修理を担当した藤原勘右衛門は、明らかに下宮の人でした。その修理技術は優秀で、原型を損なうことなく修復してあります。

こけらぶきの本殿は、鮮やかな朱塗りが修理の跡を物語りますが、すっぽりと覆い家の中に収まり、この囲いがあったからこそ、本殿も数百年の風雪に耐えてきたのかと変に納得させられました。 参道の左右に、狛犬のかわりに垣に囲まれて「甕石」があります。「鶴石」「亀石」といいます。古来は磐座だったものかも知れない。

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たじまる あめのひぼこ 3 気多に落ちた黒葛

塗り替えられた気多の歴史

旧気多郡 「日高町史」

拙者が生まれた旧日高町は、古くはほぼ気多(ケタ)郡全域だった。その後周辺の城崎郡と美含郡との合併で城崎郡となる。平成に豊岡市と周辺の香住町を除く城崎郡・出石郡が合併し豊岡市となる。もうすでに市町村合併によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがそもそも郷土の歴史を知りたいきっかけだった。

播磨風土記でも天日槍と伊和大神との争いに気多郡が登場する。

1.気多という地名

日本に初めて伝わった文字が漢字であり、気多という地名は、漢字にはない訓読みを表すために、万葉仮名という漢字をヨミガナに充てたものが、もちにカタカナやひらがなに発展する。つまり、漢字が伝わる以前から“ケタ”という地名はおそらく口頭ではあったのであって、気多という漢字にあまりこだわる意味はないかも知れない。

万葉仮名として日本語の訓読みに使用された漢字は一種類ではなく数種類ある。「ケ」では発音で“e”(エ段甲類)と“ae”(エ段乙類)の発音があった。「気」はそのエ段乙類に分類されるので当時のケタの発音は、カとケの中間の“k-ae ta”だったようだ。カタカナの「ケ」は「気」を崩したカナ、「タ」は「多」を崩してできたカタカナなので、万葉仮名の漢字としてそれぞれ最もポピュラーな漢字である。

奈良時代初期の和銅6年(713年)に、「畿内七道諸国郡郷着好字」(国・郡・郷の名称をよい漢字で表記せよ)という勅令が発せられている。(「好字令」という)これには2字とは記されていないが、この頃から一斉に地名が2字化したことがわかっている。により、ケタにも漢字が充てられた。地名のほとんどやその住む土地の名から派生した苗字が漢字2文字なのはこの名残りである。

したがって、漢字が伝わる弥生時代以前からケタという地名はあっただろうし、「和妙抄」の中でも例えばタヂマは多遅麻など、地名や人名を表すのに様々な漢字が使用されていることからも、漢字の意味にばかりこだわるというのは、そもそも漢字以前に「ケタ」はあり、漢字はあとからなので狭い解釈だと思えるが、カタカナのもとになったことでも分かる通り、最も一般的な気と多が用いられたことになる。好字を当てたという意味で掘り下げてみると、本来の漢字の意味は、気多の「気」とは、正字は「氣」で、中国思想および中医学(漢方医学)の用語でもある。目に見えないが作用をおこし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなるものをさす。本来は、中国哲学の意味だが、日本では「元気」などの生命力、勢いの意味と、気分・意思の用法と、場の状況・雰囲気の意味の用法など、総じて精神面に関する用法が主であり、「病は気から」の「気」は、日本ではよく、「元気」「気分」などの意味に誤解されているそうである。

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記には、第1代神武天皇の頃はケタは佐々前県で、人皇8代孝元天皇32年、櫛磐竜命をもって佐々前県主と為す。
当県の西北に気吹戸主命の釜あり。常に物の気を噴く。故にその地を名づけて、気立原という。その釜は神鍋山という。
よって、佐々前県を改めて気立県という。

これは、「ケタツ・ケダツ」と読みのではなく、最初から「ケタ、またはケタッ」だと思う。

縄文人と同じルーツを持つとされる南方系で、ニュージーランドの先住民族マオリ族のマオリ語の 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)、「変わった(地形の)場所がある(地域)」 の転訛と解しておられる。
あながち、ハワイなどの地名をみても、日本語に近い発音であるし、なるほどと思った。
旧石器から縄文にここへやってきた先住民が、噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を見つけ、びっくりし「ケ・タ」と呼んだのではないか、と冗談ともいえない想像もできる。

但馬で最も古く人が住み着いた形跡が残る新温泉町畑ヶ平遺跡、鉢伏山家野遺跡(養父市別宮字家野)、そして神鍋遺跡、この中国山地でつながる標高の高いエリアは、無理やり漢字を充てはめたかのような難解な地名が多い。神鍋周辺でも、名色ナシキ万場マンバ万却マンゴウ稲葉イナンバなど、まず一発で読めない。

「気多」という地名があるのは、意外に多く、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷、丹後国(京都府北部)加佐郡に気多保、因幡国(鳥取県東部)にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となった(現在は鳥取市)。伝説で有名な因幡の白兎は、この高草郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。奇しくもわが兵庫県気多郡も城崎郡と合併し明治23年(1890)に消滅しています(現在は豊岡市)。気多神社にある「鰐口(わにぐち)」も因幡白兎に関係あるのでしょうか。

気多神社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんあります。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされます。崇神天皇のときに社殿が造営されました。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。グーグル検索してみると、字名で、岐阜県飛騨市古川町上気多(飛騨国)、福島県河沼郡会津坂下町気多宮字宮ノ内(上野国)がありました。それぞれ気多若宮神社、坂下町は地名の通り気多神社(宮)で神社があります。

大己貴命と大国主(オオクニヌシ)は同一神で、全国の出雲神社で祀られています。

また、三重県に多気郡多気町丹生があります。関係が全くないとも思えないのが、丹生(にゅう)です。日高町には祢布(にょう)があり、日高町で最初に発掘調査が行われた場所で、古く縄文期から人が住んでいたところです。また、第二次但馬国府が置かれた場所だと確定されています。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出ています。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記しています。

さて、前出の『播磨風土記』では「アメノヒボコ(天日槍)とアシハラシコオ(葦原志許乎命・大己貴神の別称)との争いで、葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げた。葦原志許乎命の黒葛のうち1本は但馬気多郡、1本は夜夫郡(養父郡)、1本はこの村に落ちた。そのため「三条(みかた)」と称されるという。一方、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(出石)の土地を自分のものとしたという。また別伝として、大神が形見に御杖を村に立てたので「御形(みかた)」と称されるともいう。

ヒボコは出石を選び、アシハラシコオは気多を選んだ。それは鉄の産地争いではないかともいわれている。

日本海に多い気多という地名と気多神社

拙者が生まれた町は古くは気多(ケタ)郡といわれていた。明治29年(1896年)4月1日、郡制の施行のため、城崎郡・美含郡・気多郡の区域をもって、改めて城崎郡が発足。(2町24村)。平成17年(2005年)4月1日
城崎町・竹野町・日高町が豊岡市・出石郡出石町・但東町と合併し、改めて豊岡市が発足、郡より離脱。香住町が美方郡村岡町・美方町と合併して美方郡香美町が発足。同日城崎郡消滅。以上によって気多郡も城崎郡も消滅したが、ところで、気多ってどういう意味なんだろう?というのがあった。

1.気多という地名

「気多」という郡名、郷名は、日本海に意外に多く、鳥取県(因幡国)気多郡(現鳥取市青谷町・鹿野町)、兵庫県(但馬国)気多郡(現豊岡市日高町)、京都府(丹後国)加佐郡に気多保(現舞鶴市喜多?)、石川県羽咋市能登国一宮気多大社(羽咋市寺家町・延喜式は名神大)、遠江国(静岡県西部)山香郡気多郷にもかつて気多郡があった。

明治29年(1896)、鳥取県の旧気多郡は高草郡と合併して、気高郡となり、現在は鳥取市。伝説で有名な因幡の白兎は、この気多郡に関係がある説話で、「この島より気多の崎という所まで、鰐(ワニ=サメのこと)を集めよ」といい、兎が隠岐から戻る話です。気多の島という名は、『出雲風土記』の出雲郡の条にも出てきます。

気多大社は、石川県羽咋市に能登国一宮、旧国幣大社で、同じ「大己貴命(オオナムチノニコト)」を祭神とする気多大社など北陸にたくさんある。気多大社の社伝によれば、大己貴命が出雲から舟で能登に入り、国土を開拓した後に守護神として鎮まったとされる。崇神天皇のときに社殿が造営された。奈良時代には北陸の大社として京にも名が伝わっており、『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っている。

人名では、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、気多君の名が出てくる。

「気多の名前が分布しているのは、出雲、因幡、但馬、能登と太平洋側の遠江の五ヶ所に限られる。但馬の気多神社も、祭神は出雲国と濃い関係にある大己貴命(おおなむちのみこと)だというから、気多という名を負う気多氏は、出雲の国から起こって、その一族の播居地に、気多という名前を残していたとも考えられはしないだろうか。」

と日高町史は記している。

2.気多大社と気多苗裔神びょうえいしん

 

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
能登国気多大神宮式内社(名神大社)気多大社大己貴命石川県羽咋市寺家町能登国一宮

六国史や『延喜式』神名帳には、次に示すような気多神の苗裔神(御子神)や分祠が日本海沿いの各地に確認される。(ウィキペディア)

櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』気多神は、越中国府に分祀された。越中国一宮気多神社である。さらに越後国が分離されると、国衙の置かれた直江津の五智に気多の神が分祀され、越後国一宮居多神社が創建された。後になって越後の一宮は、弥彦神社となった。同様に国内最後に立国された加賀国には、江沼郡(小松市額見町)に気多神が分祀され、気多御子神社が創設される。また気多神は飛騨国にも足跡を残した。古川盆地に鎮座する気多若宮神社である。この他に但馬国円山川の中流域を支配する気多郡にも、気多神社は鎮座する。

気多苗裔神の一覧

六国史・延喜式比定社備考
国郡旧社名社格現社名主祭神所在地
飛騨国吉城郡気多若宮神気多若宮神社大己貴命

御井神

岐阜県飛騨市古川町上気多国史見在社
加賀国江沼郡気多御子神社式内社気多御子神社天照皇大神 大己貴命 菊理媛神石川県小松市額見町
越中国射水郡気多神社式内社(名神大社)気多神社大己貴命
奴奈加波比売命
富山県高岡市伏木一ノ宮越中国一宮
越後国頸城郡居多こた神社式内社居多神社大己貴命
奴奈川姫命
建御名方命
事代主命
新潟県上越市五智越後国一宮
但馬国気多郡惣社気多大明神式内社気多神社[*1]大己貴命兵庫県豊岡市日高町上郷但馬国総社

*1 『国司文書 但馬故事記』には、人皇一代神武天皇九年冬十月、佐久津彦命の子・佐久田彦命を以って佐々前県主と為す。佐久田彦命は国作大己貴命を気立丘に斎き祀る。これを気立神社と称し祀る(佐々前県はのち気立県となり、さらに気多県)。また。「人皇八代孝元天皇三十二年の条に、当県の西北に気吹戸主命の釜在り。常に物気を噴く。ゆえにその地を名づけて、気立原と云う。その釜は神鍋山なり。よって佐々前県を改めて気立県と云う。」

気多神社は最初は気立神社と云う。気立県は、のちに気多県と字を変え、気多郡と改制される。

これからみると、能登国一宮の気多大社と豊岡市日高町の総社気多神社の関係性以前に、気多は、神鍋山に由来する県名としてすでに存在していたので、気多大社から気多郡になったのではなさそうである。

その神鍋山であるが、すでに何万年も前に死火山となっており、「常に物気を噴く」とは解せない。神が宿っているとされる山を神名備というが、物気とは「もののけ」で、噴火口の痕を見た人々が、「もののけ」が宿っていそうな神名備としたのが、神鍋に訛ったのだろうと筆者は考えている。

気多神社の社伝では、

『播磨国風土記』宍禾郡御方里条では、葦原志許乎命(大己貴命)と天日槍命が黒葛を投げて国占を争ったという伝説が記され、葦原志許乎命の投げた黒葛3本のうち1本は但馬気多郡に落ちたと伝えることから、郡名を冠する当社は早くより鎮座したものと推測される。また社名から、能登国一宮の気多大社(石川県羽咋市)を始め各地の気多神社との関連が指摘される。

同じく『国司文書 但馬故事記』に、「人皇二八代宣化天皇三年夏六月、能登臣気多命を以って、多遅麻国造と為す。能登臣命は、その祖・(垂仁天皇の皇子)大入杵命を気多神社に合わせ祀る。」

多遅麻国造に能登臣の子孫らしき人物が任命されることに不思議に思っていた。能登国造は、成務天皇の御代に垂仁天皇の皇子大入来命(大入杵命)の孫彦狭島命が任じられ、後裔は能登臣である。能登国一宮・気多大社と気多神社の関係性があるとすれば、能登国造ゆかりの能登臣の子孫が多遅麻国造に赴任したのはそうした経緯と思わなくもない。

 

 

気多神社と潟湖

気多という地名・神社の所在地を地図上に確認すると、かつては潟湖であった寄港地に鎮座していることがわかった。ネットでそのことを書いていたことから、櫻井正範さんから自著『気多祝の源流』という作品をいただいた。

能登と丹波

能登半島が丹後半島との関係を深めたのは、ヤマト大王系譜からみるとタケル(日本武尊)の祖・垂仁天皇を仲立ちとしている。今日の天皇系譜につながる大王(天皇)は、六世紀前半の継体天皇からではないかと考えられている。この継体大王は越前三国湊で育ち、母の振姫は羽咋君に連なっている。

丹波と能登は、共に対馬海流が海岸を洗う日本海に突き出た半島国であった。そして能登半島・羽咋はくいは、丹後半島・竹野たかのと同様に「潟湖」が発達した日本海の良港であった。両半島の付け根に位置した潟湖は、弥生時代から水田が開かれていた。今では干拓が進んで一面の水田となり、潟湖の面影はない。潟湖とは、砂州で出口を狭められて出来た汽水湖である。

この両地域の潟湖には、日本海地域王権を象徴する盟主古墳が築かれている。丹後半島の西の付け根の竹野潟を見下ろす丘に、日本海側最大の前方後円墳、神明山古墳が築かれた。神明山古墳は、全長210m、三段築成葺石で覆われ、象形埴輪が伴っている[*2]。古墳の麓には、代々櫻井氏が奉る丹後竹野神社が鎮座する。一方、能登半島の気多大社の背後には、滝大塚山古墳が築かれた。直径90mの帆立貝形古墳で、やはり葺石で墳丘が覆われ、邑知潟おろちがたを見下ろす眉丈丘陵に築造された。埴輪を伴う帆立貝形古墳としては、日本海側最大級のものであった。

両方の古墳は、ヤマトに「イリヒコ」王権が成立した四世紀末から五世紀初頭に築造され、潟湖を見下ろす地域盟主の古墳である。丹後半島の神明山古墳から出土した象形埴輪には、船首が上がるゴンドラと、かいを持つ人物がヘラ描きされており、埋葬者と海との関わりが深いことを物語っていた。森浩一氏によれば、越のヨオド王(継体大王)は、帆船をトレードマークに使用したと言われる。

*2 日本海側最大の前方後円墳は、網野銚子山古墳(墳丘長201m)で、神明山古墳はこれに次ぐ墳丘長190m。

 

たじまる あめのひぼこ 2

天日槍と伊和大神の国争い

概 要

『播磨国風土記』[*1]には伊和大神(いわのおおかみ)とヒボコとの争いが語られています。結果としては住み分けをしたことになり、ヒボコは但馬の伊都志(出石)の地に落ち着いたことが語られています。 ヒボコは海水を攪きて宿ったとある宇頭の川底とは、「宇須伎津の西の方に紋水の淵あり。」とされ、姫路市網干の魚吹八幡神社(うすき)が遺称地です。

ヒボコと伊和大神の国争い


写真左から銅剣・銅鐸・銅矛複製 荒神谷博物館

ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て、国の主の葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。
ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。
葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべく粒丘(いいぼのおか)に上がった。
葦原志挙乎命(アシハラシノミコト)とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)[*6]に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時葦原志挙乎命の黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を占領した。
神前郡多駝里粳岡は伊和大神とヒボコ命の二柱の神が各々軍を組織して、たがいに戦った。その時大神の軍は集まって稲をついた。その粳が集まって丘とな った。

アメノヒボコは、とおいとおい昔、新羅(しらぎ)という国からわたって来ました。

日本に着いたアメノヒボコは、難波(なにわ=現在の大阪)に入ろうとしましたが、そこにいた神々が、どうしても許してくれません。
そこでアメノヒボコは、住むところをさがして播磨国(はりまのくに)にやって来たのです。
播磨国へやって来たアメノヒボコは、住む場所をさがしましたが、そのころ播磨国にいた伊和大神(いわのおおかみ)という神様は、とつぜん異国の人がやって来たものですから、
「ここはわたしの国ですから、よそへいってください」
と断りました。

ところがアメノヒボコは、剣で海の水をかき回して大きなうずをつくり、そこへ船をならべて一夜を過ごし、立ち去る気配がありません。その勢いに、伊和大神はおどろきました。

「これはぐずぐずしていたら、国を取られてしまう。はやく土地をおさえてしまおう。」

大神は、大急ぎで川をさかのぼって行きました。そのとちゅう、ある丘の上で食事をしたのですが、あわてていたので、ごはん粒をたくさんこぼしてしまいました。そこで、その丘を粒丘(いいぼのおか)と呼ぶようになったのが、現在の揖保(いぼ)という地名のはじまりです。

一方のアメノヒボコも、大神と同じように川をさかのぼって行きました。
二人は、現在の宍粟市(しそうし)あたりで山や谷を取り合ったので、このあたりの谷は、ずいぶん曲がってしまったそうです。さらに二人は神前郡多駝里粳岡(福崎町)のあたりでも、軍勢を出して戦ったといいます。
二人の争いは、なかなか勝負がつきませんでした。
「このままではまわりの者が困るだけだ。」
そこで二人は、こんなふうに話し合いました。
「高い山の上から三本ずつ黒葛(くろかずら)を投げて、落ちた場所をそれぞれがおさめる国にしようじゃないか。」

二人はさっそく、但馬国(たじまのくに)と播磨国の境にある藤無山(ふじなしやま)[*6]という山のてっぺんにのぼりました。そこでおたがいに、三本ずつ黒葛を取りました。それを足に乗せて飛ばすのです。
二人は、黒葛を足の上に乗せると、えいっとばかりに足をふりました。
「さて、黒葛はどこまで飛んだか。」と確かめてみると、
「おう、私のは三本とも出石(いずし)に落ちている。」とアメノヒボコがさけびました。
「わしの黒葛は、ひとつは気多郡(けたぐん)、ひとつは夜夫郡(やぶぐん)に落ちているが、あとのひとつは宍粟郡に落ちた。」
伊和大神がさがしていると、「やあ、あんな所に落ちている。」とアメノヒボコが指さしました。
黒葛は反対側、播磨国の宍粟郡(しそうぐん)に落ちていたのです。
アメノヒボコの黒葛がたくさん但馬に落ちていたので、アメノヒボコは但馬国を、伊和大神は播磨国をおさめることにして、二人は別れてゆきました。
ある本では、二人とも本当は藤のつるがほしかったのですが、一本も見つからなかったので、この山が藤無山と呼ばれるようになったと伝えられています。

その後アメノヒボコは但馬国で、伊和大神は播磨国で、それぞれに国造りをしました。アメノヒボコは、亡くなると神様として祭られました。それが現在の出石神社のはじまりだということです。


  • *6志爾蒿(シニダケ=藤無山・ふじなしやま)宍粟市と養父市の播・但国境にあるある山。標高は1139.2m。若杉峠の東にある、大屋スキー場から尾根筋に登るルートが比較的平易だが、ルートによっては難路も多い、熟達者向きの山であります。尾根筋付近は植林地となっています。[*6]扶余…紀元前三世紀から現在の中国吉林市付近にあった最も早くからあった国家。五世紀末に高句麗に降伏して滅亡。[*7]『三国史記』…高麗の編纂した高句麗・百済・新羅の史書。1145年に成立。朝鮮における現存最古の体系的な史書。
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たじまる あめのひぼこ 1

天日槍(あめのひぼこ)

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました
縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより

天日槍(あめのひぼこ、以下ヒボコ)は、但馬国一の宮・出石神社のご祭神です。
「出石神社」(いずしじんじゃ)のご祭神で、『播磨国風土記』、日本の正史『古事記』『日本書紀』(記紀)の日本神話に登場する古代史上の人物です。『天之日矛』とも書きます。 朝鮮半島から日本に渡来した新羅の人々が信仰した神様だと伝えられています。

ヒボコは、出石神社由緒略記には、その当時「黄沼前海(きぬさきうみ)」という入江湖だった円山川河口の瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、耕地にしたと記されています。列島は海面が今より3~5メートル高かったとされ、縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされています。豊岡盆地中央部は、入江湖や湿地帯であったとされています。矛(ほこ)とは、槍(やり)や薙刀(なぎなた)の前身となった長柄武器で、やや幅広で両刃の剣状の穂先をもちます。日本と中国において矛と槍の区別が見られ、他の地域では槍の一形態として扱われています。日本では鉾や桙の字も使用されます。

この場合の矛は、武器というよりも、銅鐸と同じく太陽神を奉祀する呪具としての性格が強いようです。

『日本書紀』では、以下のように記しています。

日本書紀垂仁天皇三年の条

《垂仁天皇三年(甲午前二七)三月》三年春三月。新羅王子日槍来帰焉。将来物。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。并七物。則蔵于但馬国。常為神物也。

〈 一云。初日槍。乗艇泊于播磨国。在於完粟邑。時天皇遣三輪君祖大友主与倭直祖長尾市於播磨。而問日槍曰。汝也誰人。且何国人也。日槍対曰。僕新羅国主之子也。然聞日本国有聖皇。則以己国授弟知古而化帰之。仍貢献物葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。胆狭浅大刀。并八物。仍詔日槍曰。播磨国宍粟邑。淡路嶋出浅邑。是二邑。汝任意居之。時ヒボコ啓之曰。臣将住処。若垂天恩。聴臣情願地者。臣親歴視諸国。則合于臣心欲被給。乃聴之。於是。日槍自菟道河泝之。北入近江国吾名邑、而暫住。復更自近江。経若狭国、西到但馬国、則定住処也。是以近江国鏡谷陶人。則日槍之従人也。故ヒボコ娶但馬国出嶋人。太耳女。麻多烏。生但馬諸助也。諸助生但馬日楢杵。日楢杵生清彦。清彦生田道間守也。 〉

垂仁天皇3年(紀元前31年)春3月、新羅の王の子であるヒボコが謁見してきた。
持参してきた物は羽太(はふと)の玉を一つ、足高(あしたか)の玉を一つ、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉を一つ、出石(いずし)の小刀を一つ、出石の桙(ほこ)を一つ、日鏡(ひかがみ)を一つ、熊の神籬(ひもろぎ)を一揃えの合わせて七点だった。それを但馬の国に納めて神宝とした。

一説によると、ヒボコの噂を聞いた天皇は、初めは、播磨国宍粟邑と淡路の出浅邑を与えようとしたが、三輪君の祖先にあたる大友主と、倭直(やまとのあたい)の祖先にあたる長尾市(ながおち)を遣わした。大友主が「お前は誰か。何処から来たのか。」と訪ねると、ヒボコは「私は新羅の王の子で天日槍と申します。「この国に聖王がおられると聞いて自分の国を弟の知古(ちこ)に譲ってやって来ました。」

そして持参した物は葉細(はほそ)の玉、足高の玉、鵜鹿鹿の赤石の玉、出石の刀子(かたな)、出石の槍、日の鏡、熊の神籬(ひもろぎ)胆狭浅(いささ)の太刀合わせて八種類[*2]だった。

天皇はこれを受けて言った。「播磨国穴栗村(しそうむら)[*3]か淡路島の出浅邑 (いでさのむら)[*4]に気の向くままにおっても良い」とされた。「おそれながら、私の住むところはお許し願えるなら、自ら諸国を巡り歩いて私の心に適した所を選ばせて下さい。」と願い、天皇はこれを許した。ヒボコは宇治川を遡り、北に入り、近江国の吾名邑、若狭国を経て但馬国に住処を定めた。近江国の鏡邑(かがみむら)の谷の陶人(すえひと)は、ヒボコに従った。

但馬国の出嶋(イズシ・出石)[*5]の人、太耳の娘で麻多烏(あたお)を娶り、但馬諸助(もろすく)をもうけた。諸助は但馬日楢杵(ひならき)を生んだ。日楢杵は清彦を生んだ。また清彦は田道間守(たじまもり)を生んだという。

2.阿加流比売神(アカルヒメノカミ)

阿加流比売神は、『古事記』では、以下のように記しています。

古事記
「昔、新羅の阿具奴摩、阿具沼(アグヌマ:大韓民国慶州市)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。

ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、ヒボコと出会った。天日槍は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしてもヒボコは許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。ヒボコがその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。」ヒボコは娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶったヒボコが妻を罵ったので、親の国である倭国(日本)に帰ると言って小舟に乗って難波の津の比売碁曾(ヒメコソ)神社[*6]に逃げた。ヒボコは反省して、妻を追って日本へ来た。この妻の名は阿加流比売神(アカルヒメ)である。しかし、難波の海峡を支配する神が遮って妻の元へ行くことができなかったので、但馬国に上陸し、そこで現地の娘・前津見(マエツミ)と結婚した。

『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述があります。

応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島(ヒメジマ)」と名附けた。

『日本書紀』では、アメノヒボコの渡来前に意富加羅国王の子の都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)が渡来し、この説話の前半部分、阿加流比売神が日本に渡りそれを追いかける部分の主人公。都怒我阿羅斯等は3年後に帰国したとされています。


[註]
  • http://kojiyama.net/history/history/?p=119111 神籬(ひもろぎ)とはもともと神が天から降るために設けた神聖な場所のことを指し、古くは神霊が宿るとされる山、森、樹木、岩などの周囲に常磐木(トキワギ)を植えてその中を神聖な空間としたものです。周囲に樹木を植えてその中に神が鎮座する神社も一種の神籬です。そのミニチュア版ともいえるのが神宝の神籬で、こういった神が宿る場所を輿とか台座とかそういったものとして持ち歩いたのではないでしょうか。
  • *2 八種類 『古事記』によれば珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種。これらは現在、兵庫県豊岡市出石町の出石神社にヒボコとともに祀られています。いずれも海上の波風を鎮める呪具であり、海人族が信仰していた海の神の信仰とヒボコの信仰が結びついたものと考えられます。
    「比礼」というのは薄い肩掛け布のことで、現在でいうショールのことです。古代ではこれを振ると呪力を発し災いを除くと信じられていた。もう一度これら宝物の名前をよく見ていただけるとわかりやすいが、四種の比礼は総じて風を鎮め、波を鎮めるといった役割をもったものであり、海と関わりの深いものです。波風を支配し、航海や漁業の安全を司る神霊を祀る呪具といえるだろう。こういった点から、ヒボコ神は海とも関係が深いといわれています。
  • *3 穴栗邑…兵庫県宍粟市
  • *4 出浅邑 (いでさのむら) 「ヒボコは宇頭(ウズ)の川底(揖保川河口)に来て…剣でこれをかき回して宿った。」とあるので、淡路島南部 鳴門の渦潮付近か?
  • *5 出嶋(イズシマ)…兵庫県豊岡市出石。イズシマから訛ってイズシになったのかも知れない。
    [*6]…比売碁曾(ヒメコソ)神社(祭神:下照比賣命(シタテルヒメ)=(阿加流比売神(アカルヒメ)、大阪市東成区

    3.但馬の地元に伝わる民話

    少し長いですが、但馬の地元に伝わる民話をご覧ください。

    兵庫県の民話 天日槍(あめのひぼこ)

    むかしむかし、新羅の国(しらぎのくに→朝鮮)に、天日槍(あめのひぼこ)という王子がいました。
    王子には美しい妻がいましたが、日槍(ひぼこ)はちょっとした事から、妻をののしるようになったのです。

    これに耐えられなくなった妻は、
    「私はあなたの妻としては、ふさわしくありません。私は国へ帰ります」
    と、言い残して、一人こっそり船に乗り、日本の灘波(なにわ→大阪)に帰ったのです。
    これを知った日槍(ひぼこ)は、自分も妻を追って日本へと渡ったのですが、灘波に近づくとその土地の神々が邪魔をして、どうしても上陸できません。

    そこで仕方なく、日槍は但馬の国(たじまのくに→兵庫県)に船をつけると、そこに落ち着くことになったのです。

    やがて時は流れて、日槍は土地の娘と結婚して、子孫も栄えていました。
    ところがその当時の豊岡や出石盆地のあたりは、一面が泥の海だったので、とても生活しにくい土地でした。

    そこで日槍は五社大明神(ごしゃだいみょうじん)の神々と力を合わせて、この地を開拓しようと考えたのです。

    まずは、来日岳(くるひだけ)の下流を切り開くことになりました。
    そこには固くて大きな岩がさえぎっているため、水がせき止まって瀬戸(せと)になっているのです。
    みんなで力を合わせて横たわっている大岩をとりのぞくと、泥水がすさまじい音をたてて日本海へと流れ出しました。

    やがて水の引いたあとには、肥えた広々とした平野が少しずつ広がっていきます。
    日槍も神々も大喜びで、その様子をながめていました。

    そのとき、残った水の中ほどがざわざわと大きく揺れ動いたかと思うと、渦巻きとともに水煙をあげて頭を突き出したものがありました。
    見ると体の周りが二メートルはありそうな、恐ろしい大蛇ではありませんか。

    みんなが息をのんで見ていると、大蛇は下流に向かって泳ぎ出して、せっかく切り開いた瀬戸の口に体を横たえて、水の流れをせき止めてしまったのです。
    みんなは大いに怒って、この大蛇を岸に引きづり上げると、胴体を真っ二つに引きちぎってしまいました。
    こうして開拓は成功し、泥海のようだった土地は人の住めるりっぱな土地になったのです。
    その後、日槍は出石神社に祭られて、開発の神として今でも多くの人々の信仰を集めているのです。

    おしまい

    4.丹後のヒボコ伝説

    京丹後市網野町(旧網野町)に次の記事があります。

    浜詰区の志布比神社(宗教編第一章神社参照)の「社伝」に、大意が次のような記事がある。(『竹野郡誌』所載)

    『(本社の)創立年代は不詳であるが、第十一代垂仁天皇の御代、新羅王の王子ヒボコが九種の宝物を日本に伝え、垂仁天皇に献上した。九種の宝物というのは、「日の鏡」・「熊の神籬(ひもろぎ)」・「出石の太刀」・「羽太玉」・「足高玉」・「金の鉾」「高馬鵜」・「赤石玉」・「橘」で、これらを御船に積んで来朝されたのである。

    この御船を案内された大神は「塩土翁(しおづちのおきな)の神」である。その船の着いた所は竹野郡の北浜で筥石(はこいし)の傍である、日本に初めて橘を持って来て下さったので、この辺を「橘の荘」と名付け、後世文字を替えて「木津」と書くようになった。

    ヒボコ命が日本で初めて鎮座された清い「塩化の浜」のあたりを、「宮故(くご)」と名付け、案内された塩土翁の神の祠も同所にお祀りしたという。

    その後、ヒボコ命は但馬国へ行きたいと思われ、熊野部川上荘馬次(まじ)の里の須郎(すら)に暫らく休まれ、それから川上の奥布袋野(ほたいの)の西の峠を越えて立馬(たじま)(ママ)の国に越えられた。この時九種の宝物は馬に付けて峠を越えられた。後、この峠を「駒越(こまご)し峠」と呼ぶ。(ヒボコは)但馬国出石郡宮内村に鎮座し、宝物を垂仁天皇に奉献されたのである。」(後略)

    ところで、同じ『竹野郡誌』の「浜詰村誌稿」―唐櫃越(からとこごえ)―の箇所には、

    「垂仁天皇がヒボコの孫の田道間守に対して、常世(とこよ)の国から橘の実を求めてくるよう命令された」と書かれている。十年余を経て、田道間守がようやく橘の実を求めて帰国したとき、着船した所を「橘(キツ)の庄」といったというのである。
    このように、先の「志布比神社社伝」と「浜詰村誌稿」とは、内容が少々異なる。しかも、木津の「売布(めふ)神社」は、田道間守がまず「ひもろぎ」[http://kojiyama.net/history/history/?p=119111]を設けた記念の地として奉祀されたともいう。(『木津村誌』)

    さらに、このほかにも「意富加羅国(おおからこく)の王子・都努我阿羅斯等(つぬがあらしと)」が木津の浜に上陸したという伝説もあるようで、全国的に名高い「函石遺跡」の存在も唐櫃越付近一帯、浜詰・木津・函石などの地域が、古代、大陸とさかんな往来のあった良港であったことを証明する伝承群であろう。そして、新しい文化文明が大陸から次々に渡来してきた事実が、「ヒボコ」という名に象徴されるのであろう。
    ヒボコ伝承は西日本一帯にさかんだが、丹後ではこの一例だけである。

新島八重と川崎尚之助

NHK歴史秘話ヒストリア
「悪妻伝説~明治のハンサムウーマン 新島八重」

 ある時は銃を構えた“女戦士”、ある時は日清・日露戦争の“従軍看護婦”、またある時は“茶道の先生”。「天下の悪妻」ともうわさされた女性の実体は、同志社の創立者・新島襄の妻・八重。勝手気ままに見える生き方だが、女は男に従うことがあたりまえとされた当時、八重は新時代・明治にふさわしい“ハンサムウーマン”だった。自分らしい生き方を求め続けた知られざるヒロインを通して描く、女性たちへのエール。-NHKより

 ここでは取り上げられていなかったですが、前夫だった川?尚之助がいます。

 川崎尚之助は、出石藩医の息子で、蘭学と舎密術(理化学)を修めた若くて有能な洋学者だった。山本八重(のち新島 八重)は弘化二年(一八四五)一一月三日、会津若松鶴ヶ城郭内米代四ノ丁で生まれている。父の権八が三九歳、母の咲が三七歳のとき三女として生まれたのだが、山本家にとっては五人目の子であった。一男二女は早逝し、一七歳年上の覚馬と二歳下の弟、三郎とともに育った。兄の覚馬は江戸で蘭学、西洋兵学を学ぶ藩期待の駿才だった。いつも銃や大砲に囲まれて育った八重は、並みの藩士以上に軍学に明るく武器の扱いも上手だった。

 『山本覚馬伝』(田村敬男編)によると、父の権八は黒紐席上士、家禄は一〇人扶持、兄の覚馬の代には一五人扶持、席次は祐筆の上とあるが、疑問がある。郭内の屋敷割地図を見ると、山本家の屋敷のあった米代四ノ丁周辺は百石から二百石クラスの藩士の屋敷が連なっている。幕末の山本家は、それ相応の家柄だったろうと情勢判断される。
 兄の山本覚馬は嘉永六年(一八五三)ペリーが黒船をひきいて浦賀にやってきたとき、会津藩江戸藩邸勤番になっている。江戸での三年間、蘭学に親しみ、江川太郎左衛門、佐久間象山、勝海舟らに西洋の兵制と砲術を学び、帰藩するやいなや蘭学所を開設している。八重にとって多感な人間形成期に兄覚馬の影響は大きかった。兄から洋銃の操作を習うことにより、知らず知らず洋学の思考を身につけていったのだった。

 安政四年(一八五七)、川?尚之助は、覚馬の招きにより会津にやってきて、山本家に寄宿するようになっていた。尚之助は覚馬が開設した会津藩蘭学所日新館の教授を勤めながら、鉄砲や弾丸の製造を指揮していた。
 戊辰戦争が始まる前、八重と結婚した。八重と尚之助の結婚の時期についての記録は定かではないが、元治二年(一八六五)ごろと推定される。八重一九歳のときである。男勝りだった八重にはじめて女性らしい平凡な日々が訪れたが、結婚して三年後に戊辰戦争が始まる会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが、戦の最中尚之助は行方不明になった。断髪・男装し、家芸であった砲術を以て奉仕し、会津若松城籠城戦で奮戦したことは有名である。後に「幕末のジャンヌ・ダルク」と呼ばれる。

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MAZDA ZOOM-ZOOM広島と但馬ドーム

阪神タイガースの本拠地甲子園球場がリニューアルし、8日にタイガースの初試合がありましたが、11:10の大逆転には感動しました。
広島カープも4月10日新しいスタジアム、MAZDA ZOOM-ZOOM広島で行われます。
設計したのは兵庫県立但馬ドームと同じ設計事務所だそうです。


兵庫県立但馬ドーム


兵庫国体女子ソフトボール大会

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女代(めしろ)神社と女代遺跡


兵庫県豊岡市九日市上町460-1
但馬国城崎郡 式内社
御祭神:タカミムスビ「高皇産靈神」(タカミムスビノミコト)

かつて円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地でした。

御由緒 当社は延喜式神名帳に載する城崎郡二十一座の一社なり。 円山川と出石川合流の西窪地田園に囲まれ数百年の老樹の繁げれた宮地なり。御祭神 は造化三神(天御中主神、神産巣日神、高皇産霊神)と賛えられ、高天原に在せられし神である。葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(タカギノカミ)という名で登場する。子に八意思兼神(ヤゴコロオモイカネノカミ=知恵の神)、萬幡豊秋津師比売命(ヨロズハタトヨアキツシヒメノミコト)がいる。往古祝融の災害により創立年月詳不明ですが古社であることは確か。

仁寿元年正月(文徳帝御宇・西暦八五一年) 、当時境内地は五町四面と伝えられており、広大なものでした。古くは浮島明神と称せられ、神殿が田圃の低地にありながら、円山川の氾濫に際しても未だ浸水したことはなく、ことから浮島の名称が付けられたようです。


摂社 八神社

天正五年(安土桃山時代)に社頭は没収せられ、祭祀は衰えました。寛永六年( 江戸時代初期)、神主住宅並に社務所・宝庫焼失し、当時の古文書はことごとくなくなりました。その後明和三年(徳川時代中期)、古社改築。

文化五年(徳川時代後期)、神祇伯白川資延王殿より社号の染筆を賜わる。神祇官 西院に八神殿を設けられ宮中を始めて崇敬者篤かりしが神祇官荒廃後には白川、吉田家において共に八神殿を建てて奉斎せられしこと史実にあります。当社の祭神は八神殿奉斎の御一座にあらせられるがため、現在の御本殿掲載の社号の染筆を賜わったものです。

女代遺跡銅鐸片

女代遺跡から銅鐸片が見つかった。但馬で発見された銅鐸3箇所のひとつ。

1992年、女代神社前から鞄団地にかけての工事では、周知の遺跡(女代神社遺跡)の近接地で、豊岡市教委が現状確認に出向いた際、女代神社南遺跡の土から銅鐸の鰭部分の破片を発見しました。同時に採集した遺物は、弥生時代から中世までの時期幅のある土器片が若干みつかりました。その時の遺物散布状況や急遽実施した簡易な試掘による所見では、銅鐸片を含む採集遺物は遺跡の緑辺部にあたる比較的希薄な包含層のものと見られた。

破片は、銅鐸の側面に取り付く鰭の一方の下端部分。両面に文様が鋳出されており、表面は緑青がふいて、淡い緑色を呈している。文様は明確に観察でき、2条の突線で縁取りがされた内部に鋸歯状の文様が1 1単位連続している。破片の中ほどの外部には、半円を2個並べた飾り耳が付いている。本体の長さは約1 3㎝、幅約2㎝、厚み1 . 5?3m mを測り、飾り耳は幅2㎝、高さ1 . 3㎝のものが2連取り付いている。重さは約4 0gであった。上端の折れ曲がりは比較的新しい可能性もあるが、本体と接合していた部分の破断面の状態をみると錆も古く、破損の際の力の作用からか一方向にわずかな盛り上がり(歪み)が観察できる。こうしたことから、意識的に破砕された銅鐸の例(いわゆる破砕銅鐸)である可能性がきわめて強い。

この段階の例としてはかなり小型である。聞く銅鐸から見る銅鐸への変換時期の資料として貴重な例である。時期的には気比銅鐸より新しく、日高町久田谷銅鐸より古く位置付けられ、但馬地方では新形式の銅鐸である。破片で見つかった例は全国に約20例あり、突如銅鐸が用いられなくなることの意味を考える上で、こうした破砕銅鐸の実態が注目されている。

-豊岡市教育委員会-

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