日米関係とワシントン会議 学校で教えてくれなかった近現代史(39)

日米関係の推移

日露戦争後、日本は東アジアにおいて押しも押されもしない大国になりました。フィリピンを領有したアメリカの極東政策の競争相手は日本となりました。
他方、日米間では、日露戦争直後から人種差別問題がおこっていました。アメリカの西部諸州では、勤勉で優秀な日本人移民が、白人労働者の仕事を奪うとして、日本人を排斥する運動が起こりました。アメリカ政府の指導者は建国理念のたてまえから日本人移民の立場を弁護しましたが、各州の自治重視もまた重要な原則であるため、こうした西部諸州の行動を抑えることはできませんでした。
第一次世界大戦のパリ講和会議で、日本は国際連盟規約に人種差別撤廃を盛り込む決議をしました。この提案は世界の有色人種から注目と期待を集めました。しかし、その目的の中には、移民への差別を撤廃することが含まれていたので、オーストラリアなど、有色人種の移民を制限していた国は強硬に反対しました。
投票の結果、11対5で日本の決議案への賛成が多数を占めましたが、議長役のアメリカ代表ウィルソンは、重要案件は全会一致を要するとして、決議の不採択を宣言しました。世界の有色人種が期待した決議は国際連盟ではついに採択されませんでした。このことにも多くの日本人は落胆しました。
アメリカでは、こののちも日本人の移民排斥の動きが続き、日本人はこれを人種差別と受け取りました。

ワシントン会議

1921(大正10)年から翌年に欠けて、海軍軍縮と中国問題を主要な課題とするワシントン会議がアメリカの提唱で開かれ、日本を含む9か国が集まりました。会議の目的は、東アジアにおける各国の利害を調整し、この地域の安定した秩序をつくり出すことでした。
米英日の海軍主力艦の保有率は、5:5:3とすることに決められ、また、中国の領土保全、門戸開放が9か国条約として文書化されました。同時に20年間続いた日英同盟が解消されました。日英同盟の廃棄はイギリスも望んでいなかったのに、アメリカの強い意向で決まったもので、結果的に日本の未来に暗い陰を投げかけることとなりました。
主力艦の相互削減は、第一次世界大戦後の軍縮の流れに沿うもので、軍備拡張競争では経済的に太刀打ちできない日本にとっては、むしろ有利だったといえます。

関東大震災

1923(大正12)年9月11日、関東地方で大地震が起きました。東京や横浜などで大きな火災が発生して、死者・行方不明者は10万人を超えました(関東大震災)。日本の経済は大きな打撃を受けましたが、地震の多い日本での近代都市づくりに得た教訓は多く、耐震設計の基準づくりや都市防災への研究がはじまりました。

新しい学問と文学・芸術

明治末から大正時代にかけて、日本が欧米と対等の国になるという目標が達成されると、新しい知識に敏感な青年たちの関心は、国家よりも個人の内面に向けられるようになりました。それにともない、個性の尊重や自己実現が説かれ、西洋文学・芸術・哲学などのふれて教養を深めることが重視されるようになりました。
禅の体験の上に西洋哲学を取り入れ、西田哲学とよばれる独特の哲学を生み出した西田幾太郎や、日本の庶民の生活風俗を研究する民俗学を始めた柳田国男などが出て、学問に新しい発展をもたらしました。
文学では、人道主義を掲げた志賀直哉、武者小路実篤、有島武郎など白樺派の作家たちや、耽美的な作品で知られる谷崎潤一郎、理知的な作風で知られる芥川龍之介などが登場して、新しい時代の精神を表現しました。
大正時代後半からは、マルクス主義の見地から、労働者の生活や革命運動を描いたプロレタリア文学もあらわれました。また新劇とよばれる西洋の舞台を模範にした演劇もさかんになりました。絵画では日本の風景を雄大に描く横山大観や女流画家で美人画を描き続けた上村松園などの活躍が大衆の注目を集めました。

大正文化と都市生活の形成

大正時代半ばから、民衆の知識水準が向上するに連れ、新聞の他に『中央公論』や『文藝春秋』などの総合雑誌が読まれるようになり、文学全集なども大量出版されました。ラジオ放送も開始され、文化の大衆化が進行しました。
近代産業の発展に伴う都市生活者の増大につれて、都市の中心と郊外を結ぶ私鉄が開通しました。また、乗合自動車(バス)の路線拡大、デパートの開業、女性の服装の洋装化、カレーライス、コロッケ、トンカツといった洋食の普及など、今日に至る都市生活の原型ができあがりました。バスガールや電話交換手など、女性の新しい職場への進出も始まりました。第一次世界大戦後には、アメリカの文化が流入し、とくにアメリカ映画は人気を集めました。
引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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第一次世界大戦と日本の参戦 学校で教えてくれなかった近現代史(37)

第一次世界大戦のはじまり

日露戦争後、ロシアは東アジアでの南下政策をあきらめ、再びヨーロッパへの進出を図りました。そのため、ヨーロッパの情勢は緊迫しました。
ドイツはすでに、オーストリア、イタリアと三国同盟を結んでいましたが、急速に海軍力を拡大して、海外進出に努めました。これを恐れたイギリスは、フランス、ロシアに接近し、1907年、三国協商が成立してドイツを包囲しました。ヨーロッパの各国は両陣営のどちらかと同盟関係を結び、緊張が高まっていきました。
このころ、バルカン半島では、民族の独立をめざす運動が高まりました。この地域に利害関係をもつ列強は、独立運動を利用して勢力を伸ばそうとしました。そのためバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」とよばれ、一触即発の緊張状態が続いていました。
1914年、オーストリアの皇太子夫妻が、ボスニアのサラエボを訪問中に、ロシアに心を寄せるセルビアの一青年に暗殺された事件(サラエボ事件)をきっかけに、三国協商と三国同盟があいついで参戦し、第一次世界大戦が始まりました。

日本の参戦

日英同盟を結んでいた日本は、三国協商の側について参戦し、ドイツに宣戦布告しました。ドイツの租借地であった山東半島の青島や太平洋上の赤道以北の島々を占領しました。また、ドイツの潜水艦が敵国の協商側の商船を警告せず無制限に攻撃する作戦を開始すると、日本は駆逐艦の艦隊を地中海に派遣して、護衛に当たりました。
中国は、青島を占領した日本軍の撤退を求めました。日本は逆に中国に対して、1915(大正4)年、ドイツが山東省に持っていた権益を日本に譲ることなどを要求しました。中国側は、日本人顧問の受け入れなどの希望条項の内容を、列強の介入を期待して公表しました(二十一か条要求)。英米両国は日本に抗議しましたが、日本は希望条項を除く要求を強硬な姿勢で中国に受け入れさせたので、中国国内では反日世論が高まりました。

ロシア革命と大戦の終結

長引く戦争のさなか、1917年、ロシア革命が起きました。食糧難にあえぐ都市の市民の暴動に兵士が合流し、ロマノフ王朝が倒れました。マルクス主義の理論に基づき、国外に亡命して革命の機会を待っていたレーニンは、こうした情勢を直ちに利用しました。武装蜂起したレーニン一派は、労働者と兵士を中心に組織された代表者会議(ソビエト)を拠点とする政府をつくりました。その後他の党派を武力で排除し、みずから率いる共産党の一党独裁体制を築きました。
ソビエト政府はドイツとの戦争をやめ、革命に反対する国内勢力との内戦に没頭しました。皇帝一族をはじめ、共産党が的とみなす貴族、地主、資本家、聖職者、知識人ら、数知れないほど処刑されました。

シベリア出兵

長年、南下するロシアの脅威にさらされていた日本は、共産主義の革命勢力に対しても、アメリカ以上に強い警戒心を抱きました。同様にヨーロッパ諸国も、軍を送って革命阻止の干渉戦争を行いました。
1918(大正7)年、日本はロシア領内で孤立したチェコスロバキア部隊の救出と、シベリアへの影響力拡大を目的に、アメリカなどと共にシベリアへ共同出兵しました。やがてアメリカは撤兵しましたが、日本は1922年まで共産軍と戦い、兵を引きませんでした。

総力戦

第一次世界大戦は当初、人々は短期間で簡単に終わるものと思っていました。しかしロシア革命をはさんで戦争は4年ものあいだ続きました。そしてこの戦争は、過去の戦争と全く違った性格を持つようになりました。
第一次世界大戦では各国は持てる力のすべてを出し尽くし、国民生活はすべて戦争にまきこまれました。このような戦争を総力戦といいます。科学兵器の発達にともない、飛行機、飛行船、戦車、潜水艦、さらには毒ガスなどの新兵器が用いられ、参戦国の国民は空襲にさらされました。国民は軍需工場に動員され、生活必需品にも不足する状況があらわれました。

大戦の終結

第一次世界大戦は1918年、ドイツなど三国同盟の敗北に終わりました。最大の戦場となったヨーロッパは、人類史上初めて総力戦の悲惨な現実を経験しました。多数の国民が戦争に巻き込まれ、たがいに民間人まで殺し合ったことは、のちにさまざまな影響を及ぼしました。
その一方で、参戦した日本は、結果として少ない犠牲で戦勝国となることに成功しました。アメリカにとっても、この戦争は国力すべてを傾けた戦争ではありませんでした。第一次世界大戦を境に、太平洋をはさむ日本とアメリカの二つの国が、国際社会で発言力を高めるようになりました。

ベルサイユ条約と大戦後の世界

1919年、パリで講和会議が開かれ、日本は五大国(米・英・仏・日・伊)の一つとして出席しました。講和会議の結果、ベルサイユ条約が結ばれました。これによって、ドイツは戦争の責任を問われ、すべての植民地と領土の一部を失い、苛酷な賠償金の返済にあえぐようになりました。これはのちに、第二次世界大戦の原因の一つとなりました。
アメリカのウィルソン大統領は、講和のための14か条の原則を提唱し、パリ講和会議で、国家の利害を超えた世界平和と国際協調のための機関として、国際連盟の設立を提案しました。フランスなど他の戦勝国の中には政治の現実からかけ離れた空論であるとして反対する国がありましたが、戦勝国はアメリカの参戦で勝つことができたので、最後にはアメリカの提案を受け入れ、1920年、国際連盟が発足しました。ところが、提案国であるアメリカが議会の反対にあって参加できず、国際連盟は限られた力しか発揮できませんでした。

アジアの独立運動

大戦後、民族自決の気運の高まりの中で、アジアでも民族独立運動が起こりました。インドでは、非暴力主義の指導者ガンジーやネルーが、約束されていたインドの自治をイギリスに要求しました。イギリスはこれを弾圧しましたが、民族独立への動きはかえって大規模になりました。
日本の支配下の朝鮮では、1919年3月1日、旧国王の葬儀に集まった人々がソウルで独立を宣言し、「独立万歳」を叫んでデモ行進を行いました。この動きはたちまち朝鮮全土に広まりました(三・一運動)。朝鮮総督府は武力でこれを鎮圧しましたが、以後は統治の方針を文化統治政策に変更し、のちに日本との一体化を進めていくこととなりました。
中国では、パリ講和会議で日本が中国の旧ドイツ権益を引き継ぐことになると、1919年5月4日、北京の学生デモをきっかけに抗議運動が起こりました(五・四運動)。この運動はその後、中国の各地に広がっていきました。

日本の大戦景気

第一次世界大戦中、日本では軍需品の輸出が急増しました。アジア地域への輸出も大きな伸びをみせ、重工業も急速に発展して、日本は大戦景気とよばれる空前の好景気をむかえました。三井・三菱・住友などの財閥は、金融や貿易、造船といった多角経営で急速に力をのばしました。
このようにして日本は、第一次世界大戦によって日清・日露に続く第三の成功を収めました。その一方で大きな犠牲を払わずに成果を得たので、これからの戦争が総力戦になると言う世界の動向に充分な注意を向けることができませんでした。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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列強の仲間入りをした日本 学校で教えてくれなかった近現代史(35) 

日本国家の新しい課題

日清・日露の二つの戦争に勝利したことによって、日本は、欧米列強の圧力のもとで独立を維持するという幕末以来の目標を達成しました。日本の国際的地位は向上し、世界列強の仲間入りを果たしました。
しかし、国際的地位の向上は、日本にとって思い試練を課されることでもありました。日本は唯一の有色人種の大国として、欧米列強からは警戒のまなざしで見られるようになりました。
また、国内では、ポーツマス約において、日本は、満州南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争中に軍事費として投じてきた国家予算の約4倍にあたる20億円を埋め合わせるはずの戦争賠償金は取得することができなかったため、戦時中に増税による耐乏生活を強いられてきた日本国民が日比谷焼打事件などの暴動を起こしました。

日本と植民地

日本の植民地としては、どの地域を植民地として捉えるべきか見解が分かれており、沖縄(大東諸島、尖閣諸島を含む)と北海道、小笠原諸島も植民地として捉えるべきという少数意見もあります。
しかし、主に第二次世界大戦以前の日本の植民地とされる地域については、いわゆる内地とは異なる内容・形式の法令が施行されていた点を重視し、以下の5つの地域を日本の植民地とする見解が一般的です
台湾(下関条約による割譲)
南樺太(ポーツマス条約による割譲)
関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
朝鮮(日韓併合条約による大韓帝国の併合)
南洋群島(国際連盟規約による委任統治)
これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではありませんでしたが、いずれも日本の統治権が及んでいた地域であり外地と総称されていました。ただし、南樺太は、各地域の法令の適用範囲の確定等を目的とした共通法(1918年制定)では内地の一部として扱われ、さらに1943年4月には完全に内地に編入されました。

内地(ないち)と外地(がいち)

日本の法令で植民地という用語を使用したものはありませんが、公文書ではこれらの地域について植民地(殖民地)の語を使用しているものは存在する上、戦前、日本が締結した条約で植民地に適用しないとされたものは、実際外地には適用されていないので、当時の日本政府がこれらの領土を植民地と考えていたことは明らかであるとされてれいます。
法令による規定を見ても、
・内地では帝国議会が法律を制定したのに対し、外地では行政庁である総督が制令(朝鮮)や律令(台湾)などを制定していたこと、
・外地には衆議院の選挙区が設置されなかったこと、
・樺太・関東州・南洋諸島の在来住民に日本国籍が与えらなかったことなど、
内地と外地の間に法律上の区別が存在したことから、学術領域ではこれらの地域について「植民地」と呼ぶことを自明の前提として研究や議論が展開されており、植民地であったかどうかを議論の対象にすることはほとんどありません。
また、日本の統治が及んでいた地域ではありませんが、1932年に建国された満州国を初めとして、大東亜共栄圏構想の下に、アジア太平洋戦争(大東亜戦争)中に日本軍占領下で樹立された国々(フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジア)や、日本軍占領下で成立した政権の支配地域(蒙古自治邦、汪兆銘政権など)も名目上は独立国であるとはいえ、その実質的な傀儡(かいらい)性から日本の植民地同然だったと理解する考え方もあります(満州国については、準外地と呼ぶことがある)。
しかし、領有に至る経緯に至る経緯(一般に植民地化は無主地先占の法理によって行われることが多かったが、日本の朝鮮や台湾は文明国間の条約による併合や割譲という法形式によって獲得された)が異なるという認識から日本の海外支配地域を植民地と呼ぶのは妥当ではないという意見もあります。
内地以外の国土を総称して外地あるいは植民地などといました。外地には朝鮮総督府、台湾総督府、樺太庁、関東庁、南洋庁といった官庁が置かれ、統治が委任されました。これら外地官庁の要職は内地人で占められていました。外地官庁が定める法令は、法律に相当する規定であっても帝国議会の協賛を要しませんでしました。

内地

日本列島及び周辺の島嶼からなり、現在の日本国の領土とほぼ一致する。内地の来歴は以下のとおり。
本州・九州・四国:日本の古来からの領土(東北地方は平安時代以降)。古事記は淡路、対馬、壱岐、隠岐、佐渡と合わせて大八島と呼ぶ。
北海道:中世以来徐々に統治権を及ぼす(参照:和人地)。1855年の日本国魯西亜国通好条約(安政元年12月21日締結)により択捉島と得撫島の間に国境を確定。
沖縄:日清両属の琉球王国だったが、1872年、第一次琉球処分により琉球藩を設置して琉球国王を藩王とし(明治5年(1872年)9月14日詔勅)、領土であることを確認(公文録明治5年外務省付録)。
千島:1875年千島樺太交換条約(明治8年太政官布告第164号)により得撫島以北の18島を領土に加える。
南樺太:南樺太についても、台湾や朝鮮と同様に日本の領土であったため、帝国議会の協賛を要するという見解を前提にした方策が採られました。しかし、南樺太に設置された樺太庁の長たる樺太庁長官には樺太庁令という形式の命令を発する権限はあったものの、台湾総督や朝鮮総督とは異なり、立法権を一般的に委任する方策は採られなかった。これは、台湾や朝鮮とは異なり南樺太は内地からの移住者が多かったため、内地からの移住者については内地の法令をそのまま適用するのが相当であったためである。
1943年(昭和18年)4月1日、「樺太ニ施行スル法律ノ特例ニ関スル件」(大正9年勅令第124号)の廃止にともない、名実ともに樺太が内地に編入されました。
小笠原:1876年、官吏を派遣し実効統治する旨を各国に通知し、領土として確定(明治9年10月17日小笠原島ニ関スル在本邦各国使臣宛文書)。
このほか以下の島々を内地に編入しました。
北大東島・南大東島:1885年調査隊を派遣し国標を建設。同年沖縄県編入(公文録明治18年内務省ノ部)。
硫黄島・北硫黄島・南硫黄島:1891年小笠原島庁の所轄とする(明治24年勅令第190号)。
南鳥島:1898年小笠原島庁の所管とする(明治31年(1898年)東京府告示第58号)。
魚釣島・久場島:1895年沖縄県の所管とし標杭建設を決定(明治28年内甲第2号閣議決定)。現在は尖閣諸島と呼ばれる。
沖大東島:1900年沖縄県に編入(明治33年沖縄県告示第95号)。
竹島:1905年島根県に編入(明治38年島根県告示第40号)。
中ノ鳥島:1908年小笠原島庁の所管とする(明治41年東京府告示第141号)。その後再発見できず、1946年水路図誌から削除。
沖ノ鳥島:1931年東京府小笠原支庁の管轄とする(昭和6年内務省告示第163号)。

外地

外地(がいち)とは、第二次世界大戦前の日本(大日本帝国)において、いわゆる内地以外の統治区域をいう。植民地、殖民地、属地ともいった。
日本が外地を最初に取得したのは、下関条約の締結に伴い台湾の割譲を受けたことが最初である。その際、既に内地に施行されていた大日本帝国憲法(以下、単に「憲法」という)の効力がその後に統治権を取得した地域に対しても及ぶかという形式的な問題(具体的には、外地の立法につき憲法5条の規定により帝国議会の協賛が必要か否かという問題)、内地人とは異なる慣習を持つ者が住む地域に対して内地に施行されていた法令をそのまま外地にも施行するのが相当かという実質的な問題が生じた。
当時の政府は、外国人顧問から聴いた母国の植民地法制を参考にしつつ、日本の領土たる外地(南樺太、台湾、朝鮮)には憲法の効力が及ぶのに対し、日本の領土ではない外地(関東州、南洋群島)には憲法の効力が及ばないという考え方を前提にして、統治方針を決めた。
外地に施行すべき法令の形式については、日本の領土であったか否かという点、領土であった地域については内地人の割合が多かったか否かという点により、統治方針が区別される。
1 台湾
2 朝鮮
3 関東州
4 南洋群島

租借地・委任統治区域

租借地は領土とは異なり、潜在主権を租貸国が有し、租借期限があり、また在来の住民に日本国籍が与えられない。中国から関東州と一時膠州(青島)を租借しました。
委任統治区域は南洋群島で、西太平洋赤道以北の広い範囲に散在する島々。ドイツ領でしたが、第一次世界大戦で占領、1920年同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約(大正8年条約第1号)により、国際連盟の委任に基づき統治する委任統治区域としました。国際連盟脱退後も引き続き委任統治を行いました。南満洲鉄道附属地(満鉄附属地) は、南満洲鉄道(満鉄)の線路両側数十メートル程度の地帯、および駅周辺の市街地や鉱山などからなります。満鉄に関するロシアの権利を1905年のポーツマス条約で譲り受けた際に、その一部として鉄道附属地における行政権を獲得しました。行政権のほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有していました。1937年、行政権を満洲国に移譲するとともに、治外法権を撤廃しました(昭和12年条約第15号)。
租界(そかい)は行政自治権や治外法権をもつ清国(のちに中華民国)内の外国人居留地で、阿片戦争後の不平等条約により中国大陸各地の条約港に設けられました。日本は専管租界を1897年杭州と蘇州に、1898年天津に、1898年漢口に、1901年重慶に、それぞれ開設しました。また、上海の共同租界に参加していました。北京には正式な租界ではありませんが、事実上の共同租界として機能した公使館区域がありました。このほか沙市、福州、厦門に租界を設置する権限がありましたが設置しませんでしました。租界では行政権を行使するほか、治外法権に基づき日本人に関する裁判権も有しました。1943年、中華民国(汪兆銘政権)に対し租界を還付し治外法権を撤廃しました(昭和18年条約第1号、同第2号)。
[2]近代国家体制の確立していなかった朝鮮では、土地の所有制度が不明瞭であり両班の暴力による土地収奪などは日常茶飯事であり、農民の間でも土地の所有をめぐる抗争が絶えなかった。 また政府が国地勢を正確に把握していなかったために国土計画も困難であった。

出典: 『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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世界を変えた日露戦争 学校で教えてくれなかった近現代史(33)

日英同盟

三国干渉のあと、日本は同盟をロシアと結ぶかイギリスと結ぶかの選択を迫られ、政府の中でも意見が対立しました。
論争の焦点は、ロシアについての見方でした。ロシアは、1900(明治33)年に中国で起こった義和団事件を口実に、満州(中国東北部)に2万の兵を送り込み、そのまま居座っていました。ロシアが満州に留まって朝鮮半島に出てこないように、ロシアとの話し合いがつくかが最大の争点でした。

論争に決着をつけたのは、外交官の小村寿太郎が提出した意見書でした。それは、日露と日英とのどちらの同盟が日本の国益になるかを論じ、日英同盟をとるべきであると主張したものでした。小村意見書は、政府の方針として採択され、それに基づいて1902(明治35)年、日英同盟が締結されました。日英同盟はこののち20年間、日本の安全と繁栄に大きく役立ちました。

経緯

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図りました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

各国の思惑と戦費調達

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。

日露開戦の火ぶた

日本の10倍の国家予算と軍事力をもっていたロシアは、満州の兵力を増強し、朝鮮北部に軍事基地を建設しました。このまま黙視すれば、ロシアの極東における軍事力が太刀打ちできないほどに増強されるのは明らかでした。政府は手遅れになることを恐れて、ロシアとの戦争を始める決意を固めました。
1904(明治37)2月、日本はロシアに国交断絶を通告し、日露戦争の火ぶたが切られました。戦場になったのは朝鮮と満州でした。1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。1905年、日本陸軍は苦戦の末、旅順を占領し、奉天会戦に勝利しました。

日本海海戦

戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

ロシアは劣勢をはね返すため、本国からバルチック艦隊を派遣しました。艦隊はインド洋を横切り、東シナ海を経て、1905年5月、日本海にやってきました。これを迎え撃った日本の連合艦隊は、東郷平八郎司令長官率いる、兵員の高い士気とたくみな戦術でバルチック艦隊を全滅させ、世界の海戦史に残る驚異的な勝利をおさめました(日本海海戦)。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

世界を変えた日本の勝利

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。
日本は19か月の戦争期間中に、国家予算の8年分に当たる戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは外国からの借金と戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。
さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。

長期戦になれば、ロシアとの国力の差があらわれて形勢が逆転するのは明白でした。アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトは、日本に最も有利な時期を選んで、両国の講和を仲介しました。1905年9月5日に終戦交渉に臨み、締結されたポーツマス条約により講和しました。
この条約で日本は、ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。大韓帝国(朝鮮)の日本による支配権をロシアに認めさせ、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。
しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。
当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ポーツマス条約

ポーツマス条約は、日露戦争の講和条約。日露講和条約とも。1905年(明治38年)9月5日15時47分に、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、アメリカ合衆国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にあるポーツマス海軍造船所において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印された。また、条約内容を交渉した会議(同年8月10日-)のことを 日露講和会議、ポーツマス会議、ポーツマス講和会議と呼ぶ。

当初ロシアは強硬姿勢を貫き「たかだか小さな戦闘において敗れただけであり、ロシアは負けてはいない。まだまだ継戦も辞さない。」という主張を行っていたため、交渉は暗礁に乗り上げていたが、これ以上の戦争の継続は不可能である日本が譲歩し、この調停を成功させたい米国がロシアを説得するという形で事態を収拾し、戦争賠償金には一切応じないという最低条件で交渉は締結した。日本が困難な外交的取引を通じて辛うじて勝利を勝ち取った。

ポーツマス条約概要

日本の朝鮮に於ける優越権を認める
日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満洲から撤退する
ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する
ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する
ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する
ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える

東郷 平八郎と肉じゃが

弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

肉じゃが論争

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。
海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。
1. 油入れ送気
2. 3分後生牛肉入れ
3. 7分後砂糖入れ
4. 10分後醤油入れ
5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
6. 31分後玉葱入れ
7. 34分後終了
発祥の地論争
京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
根拠は、
舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。 としています。
なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。

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日本統治時代の台湾 学校で教えてくれなかった近現代史(32)

日本の台湾統治


画像: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1895年(明治28年)4月17日、日清戦争の敗戦に伴い下関条約の締結によって清朝が台湾を日本に割譲しました。統治初期は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができます。

台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程でした(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝鮮総督より地位が低いものでした。初代総督は樺山資紀で、当初は陸海軍の将官が総督を務めました。児玉源太郎総督の下で1898年に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進し、一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。

台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招きました。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場していました。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当しました。

日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していました。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義でした。 1898年、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚として活躍していた後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていきました。また1902年末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義が採用されることとなりました。当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は、生物学の観点から植民地の同化は困難であり、英国政府の植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものでした。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針でした。

日本統治初期、台湾の財政は日本本国からの補助に依拠しており、当時の日本政府において大きな財政的負担となっていました。第4代台湾総督の児玉源太郎は、民政長官の後藤新平と共に『財政20年計画』を策定、20年以内に補助金を減額し台湾の財政独立を図りました。1904年に日露戦争が勃発すると、その戦費捻出のために日本の国庫が枯渇、台湾は計画を前倒して財政独立を実現する必要性に迫られました。

具体的な施策として総督府は地籍整理、公債発行、統一貨幣と度量衡の制定以外に、多くの産業インフラの整備を行うと共に、専売制度と地方税制の改革による財政の建て直しを図った。専売制度の対象となったのは阿片、タバコ(参照台湾総督府専売局松山煙草工場)、樟脳、アルコール、塩及び度量衡であり、専売政策は総督府の歳入の増大以外に、これらの産業の過当競争を防ぎ、また対象品目の輸入規制を行うことで台湾内部での自給自足を実現しました。

また特筆すべき政策としては阿片対策がある。流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功しました。そのため、現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)と、近代化の中の日本の役割を過大評価することは、植民地統治の正当化と反発する意見、台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させられたため、工業発展に遅れたと主張する意見、日本商人の搾取によって富が奪われたとする意見(図解台湾史、台湾歴史図説)も提示されています。

台湾で抗日武力闘争が発生していた時期、総督府は武力による鎮圧以外にその統治体制を確立し、教育の普及による撫民政策をあわせて実施しました。台湾人を学校教育を通じて日本に同化させようとしました。初等中等教育機関は当初、台湾人と日本人を対象としたものが別個に存在し、試験制度でも日本人が有利な制度でたが、統治が進むにつれ次第にその差異は縮小していきました。台湾に教育制度を普及させた日本の政策は現在の台湾の教育水準の高さに一定の影響を与えています。

1895年、初代学務部長に伊沢修二を任命し日本内地でも実現していなかった義務教育の採用しました。台湾人の就学率は当初緩慢な増加でしたが、義務教育制度が施行されると急速に上昇、1944年の台湾では国民学校が944校設置され、就学児童数は876,000人(女子を含む)、台湾人児童の就学率は71.17%、日本人児童では90%を越える世界でも高い就学率を実現しました。

1928年(昭和3年)、外地では1924年(大正13年)の京城帝国大学に次いで、台北帝国大学を創立しました。

台湾統治時代のインフラ整備

1908年には台湾南北を縦貫する縦貫線を完成させるなど、それまで数日を必要とした移動を1日で移動できる空間革命となりました。その後も鉄道整備を推進し淡水線、宜蘭線、屏東線、東港線などを建設すると共に、私鉄路線であった台東南線(現台東線の一部)、平渓線を買収しました。このほか林田山、八仙山、太平山、阿里山などの森林鉄道の整備も進められていきました。戦後、鉄道に関して確実に戦後の台湾経済の発展に大きな影響を与えた遺産となり、現在、台湾の鉄道輸送に対する依存度は低下しましたが、しかし鉄道網の日本統治時代の鉄道路線をそのまま踏襲し、重要な輸送手段の一つとして使用されています。

日本統治時代後半になると道路網の整備も一定の成果があると、鉄道と自動車輸送の競争が生じ多くの軽便鉄道がバス輸送に代替されました。このバス輸送に対し鉄道部は鉄道との平行バス路線を買収するなど対策を行っていました。また市内交通では「乗合自動車」が設置され、鉄道駅を中心に放射状のバス路線が整備されていました。
港湾では、台湾の海運業の改善と、日本の南方進出のための中継港湾基地として基隆港、高雄港の築港を行い、大型船の利用が可能な近代的港湾施設が整備されました。そのほか台湾東部や離島との海上交通の整備の一環として花蓮港や馬公港などもこの時代に整備されています。

水利事業の整備は台湾の農業に大きな影響を与え、農民の収入を増加させるとともに、総督府の農業関連歳入の増加を実現しています。台湾南部では大河川が存在しない上に降水量が乏しい地域であり、総督府技師の八田与一は10年の歳月を費やし、当時東南アジアで最大となる烏山頭ダムを完成させると、1920年には嘉南大圳建設に着工、1934年に主要部分が完成すると嘉南平原への水利実現に伴い、台湾耕地面積の14%にも及ぶ広大な装置を創出しました。台湾での工業化を推進するために整備が進められた本格的な水力発電所が次々と建設されました。
日本が台湾に進駐した初期において、日本軍は伝染病などにより多くの戦病死者を出した経験から総督府が台湾の公共衛生改善を重要政策として位置づけました。当初総督府は各地に衛生所を設置し、日本から招聘した医師による伝染病の発生を抑止する政策を採用しました。大規模病院こそ建設されなかったが、衛生所を中心とする医療体制によりマラリア、結核、鼠径腺ペストを減少させ、この医療体系は1980年代まで継承されていました。
設備方面ではイギリス人ウィリアム・バードンにより台湾の上下水道が設計されたほか、道路改善、秋の強制清掃、家屋の換気奨励、伝染病患者の強制隔離、予防注射の実施など公共衛生改善のための政策が数多く採用されました。
また学校教育や警察機構を通じた台湾人の衛生概念改善行動もあり、一般市民の衛生概念も着実に改善を見ることができ、また台北帝国大学内に熱帯医学研究所を設置し、医療従事者の育成と台湾の衛生改善のための研究が行われていました。

内地延長主義時期(1915年-1937年)

日本統治の第2期は西来庵事件の1915年から1937年の盧溝橋事件であり、国際情勢の変化、特に第一次世界大戦の結果、西洋諸国の植民地統治の権威が失墜し、民族主義が高揚した時期でした。民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、また、レーニンの提唱した植民地革命論は世界の植民地に大きな影響を与えるようになりました。このような国際情勢の変化の中、日本による台湾統治政策も変化していきました。

1910年代、藩閥政治に反対し政党政治を実現しようという大正デモクラシーのなか、1919年に台湾総督に就任した田健治郎は、初めての文官総統であり、また田は赴任する前に当時首相であった原敬と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認され、就任した10月にその方針が発表されました。田は同化政策とは内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、皇室に忠誠な国民とするための教化と国家国民としての観念を涵養するものと述べています。
その後20年にわたり、台湾総督は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現しました。また後藤新平の消極的な政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い、同化政策は具体的に推進されていきました。

皇民化運動(1937年-1945年)

1937年に中国で盧溝橋事件が発生すると、日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることとなりました。

台湾における国民意識の向上が課題となった総督府により皇民化政策が推し進められることになります。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動でした。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情がありました。

国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、各地に日本語講習所が設けられ、日本語家庭が奨励されました。日本語家庭とは家庭においても日本語が使われるというもので、国語運動の最終目標でもありました。その過程で台湾語・客家語・原住民語の使用は抑圧・禁止されました。改姓名は強制されませんでしが、日本式姓名を持つことは社会的上昇に有利なこともあり、多くの台湾人が改姓名を行いました。

日本は中国と戦争を行っていたことから、台湾の漢民族を兵士として採用することには反対が多かったが、兵力不足からやむをえず志願兵制、そして1945年からは徴兵制が施行されました。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡しました。

また台湾の宗教や風俗は日本風なものに「改良」されました。寺廟は取り壊されたり、神社に改築されました(寺廟整理)。中華風の結婚や葬式は日本風な神前結婚や寺葬に改められました。
しかし、これらの運動は短期的であったこともあり、台湾社会に根付くことはありませんでしたが、台湾が香港やシンガポールなど、日本の支配を受けたが皇民化運動が徹底されなかった他の華人社会に比べて、日本的であるという理由の一つの説明にはなるでしょう。

敗戦と中華民国の接収

1945年8月15日、日本は終戦の詔書を発表し太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国による接収が行われることとなりました。同年8月29日、国民政府主席の蒋介石は、陳儀を台湾省行政長官に任命、9月1日には重慶にて台湾行政長官公署及び台湾警備総部が設置され、陳儀は台湾警備司令を兼任することとなりました。そして10月5日、台湾省行政長官公署前進指揮所が台北に設置されると、接收要員は10月5日から10月24日にかけて上海、重慶から台湾に移動しました。

1945年10月25日、中国戦区台湾省の降伏式典が午前10時に台北公会堂で行われ、日本側は台湾総督安藤利吉が、中華民国側は陳儀がそれぞれ全権として出席し降伏文書に署名され、台湾省行政長官公署が正式に台湾統治に着手しました。公署は旧台北市役所(現在の行政院)に設置され、国民政府代表の陳儀、葛敬恩、柯遠芬、黄朝琴、游弥堅、宋斐如、李万居の他、台湾住民代表として林献堂、陳炘、林茂生、日本側代表として安藤利吉及び諫山春樹が参加し、ここに日本による台湾統治は終焉を迎えました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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日清戦争と三国干渉 学校で教えてくれなかった近現代史(31)

清国の半植民地化と滅亡

19世紀なかばから東アジア世界に西欧列強による脅威が迫ってきました。  アヘン戦争、清仏戦争(1884年 – 1885年)、日清戦争(1894年 – 1895年)、義和団の乱(19世紀末 – 20世紀初頭)といった事件が起こっていき、帝国主義列強に侵略されていくことになります。イギリスに香港島を割譲、九竜・新界租借地、威海衛租借地を与え、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権を与え、ドイツに膠州湾(こうしゅうわん)租借地を、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲しました。上海に共同租界やフランス租界が設置され、半植民地となっていきます。

19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳(かげ)った時代です。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。

19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということでした。
伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。

まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。琉球につづいて、1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争(- 1885年)が起きたが、これによってもう一つの朝貢国越南(ベトナム)がフランスの支配下に入りました。アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。

ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻した(ヤクブ・ベクの乱)。その中で、ロシアが1871年中央アジアからウイグルに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

朝鮮をめぐる日清の抗争

日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊の制度改革を援助しました。ところが1882(明治15)年、改革に取り残され、冷遇された事に不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が起きました(壬午事変)。清はこれに数千の軍隊を派遣し、ただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めました。

1884(明治17)年には、日本の明治維新に倣って近代化を進めようとした金玉均らのクーデターが起きましたが、このときも清の軍隊がこれを鎮圧しました(甲申事変)。

朝鮮における清朝との勢力争いに二度敗北した日本は、清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、ほぼ対等な軍事力を蓄えるようになりました。
大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われました。

日清修好条規

李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で「日清修好条規」が結ばれました。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。平等条約でしたが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていました。

その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示しました。ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。

さらに同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。日本側の感情を逆撫でする効果は十分にあり、「征韓論」が巻き起こるに至りました。

江華島事件

1875年(明治8年)9月20日、日本側が測量等のために朝鮮側の官僚と面会しようとして武装端艇でその陣営近くまで遡航し、さらに朝鮮側に断ることなく奥(ソウル方面)へと進もうとして江華島付近でで砲台から砲撃されたと記されていました。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は挑発だったと考えられています。

朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦隊と海兵隊を上陸させて第2砲台を放火し、3日目には第1砲台も放火し、朝鮮側の35名を殺害しています。一方日本側の死傷者は雲揚の2名でした。

この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されました。

江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきました。

日清の対立

1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになりました。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗しました。

1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することが定められました。
1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなりました。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化しました。
甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化しました。

日清戦争海戦

日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まりました。なお、宣戦布告は8月1日です。なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していました。
日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものでした。
「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結し、平和を回復させたいと思う。」

7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破りました。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧しました。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始しました。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領しました。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かいました。

日清戦争

日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と、1860年代から洋務運動による近代化を進める清朝(中国)との間で行われた、日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国では甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)。

日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。

大日本帝国と清国戦争で、支持勢力として、日本側は李氏朝鮮 独立党(開化派)、清国側は李氏朝鮮 事大党(保守派)。
1894年(明治27年)、朝鮮南部に甲午農民戦争とよばれる暴動が起きました。農民軍は、外国人と腐敗した役人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどでした。わずかな兵力しか持たない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めましたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まりました。

戦場は朝鮮の他、満州南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利しました。日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、軍隊の規律・訓練に勝っていた事があげられますが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがあります。

下関条約と三国干渉

1895(明治28)年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれました。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意しました。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行いました。
条約の主な内容は次の通り
1. 清は朝鮮が独立国であることを認める。
2. 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
3. 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の約3倍に当たる賠償金3億円あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本に譲り渡しました。
このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子があります。
当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
また同年には、日英通商航海条約を結び、イギリスに日本国内での治外法権の撤廃(領事裁判権の撤廃)を認めさせます。

日清戦争の影響

日清戦争は、欧米流の近代国家として出発した日本と伝統的な中華秩序との対決でした。結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなりました。他方、「眠れる獅子」とよばれてその底力を恐れられていた清は、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊しました。

「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏としました。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点としました。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しました。

これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって、清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃されました。

1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ北京に進出しました。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進みました。

その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置きました。しかし、清朝は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げていた。1911年、武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えました。

翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡しました。
戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速され、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えることになりました(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立)。

しかし、ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求しました(三国干渉)。独力で3国に対抗する力を持たない日本は、やむを得ず代償として3000万両と引き替えに、返還させられました。

結果、国民に屈辱感を与え、中国の故事「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に、官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになりました。

以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と、次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用しました。

加えて、1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、戦果は経済的にも影響を与えました。
台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北しました。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始しました。

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不平等条約改正への苦悩 学校で教えてくれなかった近現代史(28)

不平等条約の問題点

幕末に日本が欧米諸国と結んだ条約は、日本人の誇りを傷つける不平等条約でした。
江戸幕府が王政復古により倒れると、薩摩藩・長州藩を中心に成立した明治政府は幕府から外交権を引き継いだのですが、戊辰戦争の終結によって明治政府が日本の正統な政府であることが諸外国に認められると、1869年2月4日(明治元年12月23日)に明治政府は江戸幕府が勅許を得ずに締結した(不平等)条約には問題がある点を指摘し、将来的な条約改正の必要性を通知しました。

第一に、治外法権が相手国にだけ認められ、第二に、関税自主権が日本には与えられなかった。欧米諸国との法的な差別を解消する条約改正は、明治の日本人の悲願であり、日本外交の最大の課題となりました。

この条約は1872年(明治5年)から改正交渉に入ることとなっていたため、1871年(明治4年)岩倉使節団が欧米に派遣されました。従来この使節派遣の目的は、条約改正の打診であったといわれてきましたが、実情は刑法などの法律が整備されていないことを理由に、国法や近代的社会制度の整備が遅れていることから、改正時期の延期を諸外国に求めるものであったという学説が一般的になってきています。

次ぎに日本は、イギリスとの間で関税自主権の回復を図ろうとしました。ところが、イギリス商人によるアヘンの密輸事件がおこり、イギリスは領事裁判権を行使し、アヘンは薬用であるとして無罪を言い渡しました。この事件は日本人を怒らせましたが、治外法権に手をつけない条約改正交渉は失敗しました(1878年)。

鹿鳴館とノルマントン事件

1883(明治16)年、政府は東京の日比谷に鹿鳴館という名前の洋風建築をつくり、外国人を招いてさかんに舞踏会を開きました。これは日本も欧米並みの文化を持つ国であることを世界に誇示し、条約改正を有利に進めようとする試みでした。

1885年(明治18年)に太政官制度が廃止され内閣制度が発足。条約改正は明治憲法制定と同時並行で取り組まれ、伊藤博文内閣の外相井上馨は鹿鳴館に代表される欧化政策を行いつつ交渉を進めました。1886年(明治19年)、井上は東京において諸外国の使節団と改正会議を行いましたが、井上案は関税の引き上げや外国人判事の任用など譲歩を示したため、政府内で農商務大臣谷干城や法律顧問ボアソナードらからの反対意見を受けました。翌1887年(明治20年)、国民がこの案を知るところとなると、全国的な民権運動が盛り上がり(三大事件建白運動)、条約改正交渉は中止となり、井上は辞任しました。

1886(明治19)年、ノルマントン事件が起きました。審査をしたイギリス領事裁判所は、船長に禁固3ヵ月という軽い罰を与えただけでした。この事件を境に治外法権を撤廃するための条約改正を求める国民の声はいっそう強くなりました。

40年がかりの条約改正

1888年11月30日には駐米公使兼駐メキシコ公使だった陸奥宗光が、メキシコとの間にアジア以外の国とは初めての平等条約である日墨修好通商条約を締結することに成功しました。

黒田清隆内閣の外相大隈重信は1888年(明治21年)に交渉を再開するが、外国人を大審院に任用するなどの譲歩案がイギリスのロンドンタイムズに掲載されて日本へも伝わると、国内世論からは激しい批判がわき上がりました。大隈は改正案に反対する右翼団体の団員から爆裂弾を投げつけられ右脚切断の重傷を負い、これが原因で黒田内閣は崩壊、改正交渉はまたしも挫折しました。

欧米諸国はそれでも簡単に条約改正に応じようとはしませんでした。日本はあくまで欧米並みの制度を取り入れることによって、対等な扱いを受けることのできる国になろうと努力を重ねました。1889(明治22)年、日本が時前の憲法を制定した動機の一つは条約改正でした。

山縣有朋内閣で外相青木周蔵は法権の完全回復を目指して交渉を再開。この頃にはロシアの進出などの国際的状況においてイギリスの外交姿勢は軟化を示していたが、1891年(明治24年)の大津事件で青木が辞任に追い込まれた結果、中断を余儀なくされました。

やがて最大の強国イギリスは、こうした日本の近代化の努力を認め、また、極東に進出してきたロシアの南下に危機感を募らせていたイギリスは対抗するためにも、日本との交渉に応じました。第二次伊藤内閣で、メキシコとの間に平等条約締結を成功させた陸奥宗光外務大臣が交渉の責任者となり駐英公使の青木周蔵を交渉に当たらせ努力が実を結び、日清戦争が始まる前の1894(明治27)年、日本の内地を開放するのと引き換えに治外法権が撤廃されました(日英通商航海条約)。このことは後の日英同盟への布石となりました。その後、日清戦争に日本が勝利すると、アメリカをはじめ各国も治外法権を撤廃しました。

関税自主権の条約改正はさらに遅れ、達成されるのは日露戦争において勝利した日本の国際的地位が高まった後のことです。1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに条約改正が達成されました。岩倉使節団の交渉から40年の歳月が経っていました。

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岩倉使節団と征韓論 学校で教えてくれなかった近現代史(27)

東アジアが欧米列強に植民地化されていくなかにあって、日本が植民地化を免れたのは何故だろう。
江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結びました。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある)内容でしました。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになったのです。

岩倉使節団

1871(明治4)年、廃藩置県のあと、新政府として正式に条約締結国を訪問し、あわせて条約改正の予備交渉を行うために、全権大使岩倉具視を代表とする、大久保利通、木戸孝允らの使節団が、アメリカとヨーロッパに派遣されました。使節団は留学生を含め総勢110人からなっていました。
使節団は、2年近く欧米文化を実地に学び取った結果、欧米と日本との文明の進歩の差はおよそ40年と見積もるにいたりました。そして何よりも近代産業の確立(富国)を優先して欧米に追いつくべきだと考えるようになりました。

征韓論

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

「征韓論」は、すでに18世紀末、仙台藩の林子平は海国兵談で海防論を説き、幕末には経済学者佐藤信淵は土地国有化と海外進出を行う絶対主義国家を論じ、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられました。

吉田松陰は幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への侵略統治論を展開していました。それらの主張は、尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与え、朝鮮との国交交渉が進展しない明治政府内で武力による開国を迫るいわゆる征韓論が台頭していました。

そもそも、維新後、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行いましたが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側にたびたび拒否されていました。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気大いにあがっていました。
日本は、平和のうちにことをおさめようと努めたのですが、朝鮮は頑としてこれに応じることなく、1873(明治6)になってからは排日の風がますます強まっていました。ここに、日本国内において武力で朝鮮を開国しようとする征韓論が沸騰したのです。

政府の分裂と西南戦争

廃藩で失業した士族たちは、全国民に徴兵令が施行されていたので、武士の誇りを傷つけられたとして不満を高めていました。彼らが期待をかけたのは、その留守を守るために組織された留守政府の首脳であった西郷隆盛でした。

西郷は政府にあって近代国家をつくる改革を進めながらも、士族たちの精神も重要だと考え、彼らの社会的な役割と名誉を守ってやらなければならないと考えていました。西郷は自分が使節として朝鮮 に行くことを協力に主張し、板垣退助・江藤新平など参議も同意して、政府の決定を取り付けました。西郷自身は戦争覚悟の交渉によって朝鮮に門戸を開かせようと考えていました。西郷・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた使節を朝鮮に派遣することを閣議決定しました。

しかし、当時西洋の政治を学ぶために欧米各国を視察していた岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通達が、それを知って急いで同年9月に帰国しました。繁栄していた欧米列強を目の当たりにした、岩倉・大久保らをはじめ、太政大臣の三条実美は、まずは国力充実を図ることが先として、万が一朝鮮と交戦状態になれば、欧米の干渉を招くとし、本来の目的である東アジアの大同団結を損ねるのみならず莫大な戦費が必要となること等も鑑みこの決定に反対し、決定が取り消されました。

当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組(岩倉使節団)との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組(留守政府)に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えました。
これを明治六年政変(征韓論政変)といいます。これに怒った西郷と板垣退助、江藤新平ら、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞しました。これが1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となりました。
また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではありませんでした。
1876(明治9)年、政府は旧藩に肩代わりして士族に給付していた禄を、一時金の給付と引き替えにうち切りました(秩禄処分)。これを不満とした各地の士族が、政府に反対する兵を挙げましたが、次々に鎮圧されました。
西郷は鹿児島に帰って私学校を開いていましたが、不満を持つ全国の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げましたが、徴兵された平民からなる政府軍に敗れました(西南戦争)。
これ以降、士族たちの武力による抵抗はあとを絶ちました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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近隣諸国との国境画定 学校で教えてくれなかった近現代史(25)

近隣諸国との国境は、どのようにして画定していったのでしょうか。

北方の領土画定


画像:『日本人の歴史教科書』自由社

明治維新を成し遂げ、近代国民国家の建設をめざす日本は、近隣諸国との間の国境を定める必要がありました。国境を画定しなければ、住民の生命や財産を保証したり、国民としての平等な権利を住民に与えたりする範囲を明確に定めることができないからです。

北方の樺太(サハリン)および千島列島にはアイヌ民族が住んでいました。間宮林蔵の探検以来、日本人が居住していました。その後、ロシア人が移住を始め、ロシアは樺太が日本人とロシア人の雑居の地であると日本人に認めさせました。両者の間では紛争がたびたび起こりました

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていました。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着しました。

1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。

イギリスは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと明治政府に警告してきました。新政府はロシアとの衝突を避けるために、 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。

その他の記録

1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出 この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻 占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す 同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。 この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。
1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。
太平洋方面では、小笠原諸島を日本領とし、1876(明治9)年、各国の承認を得ました。すでに英国船がここにも英国旗を立てていましたが、アメリカが反対し日本領となりました。

台湾出兵と琉球

日本は清との国交樹立のため、1871(明治4)年、日清修好条約を結びました。これは、国際法の原理に基づく、領国対等の関係を定めた条約でした。
同年、琉球の宮古島の島民66人が宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難、台湾に漂着し、54人が殺害される事件が起きました。当時、琉球は日本と清の両方に従属していました。日本は清国に対して事件の賠償などを求めますが、清国政府は「化外の民(管轄外)」として拒否しました。こうなると外交交渉の経験が少なく、国際慣習を知らない明治政府はどうしようもなく、事件はその後3年間も放置されることとなってしまいました。

そこで日本政府は、台湾の住民を罰するのは日本の義務であるとして、1874(明治7)年、長官に大隈重信、陸軍中将の西郷従道を事務局長に任命して全権が与えられました。政府内部やイギリス公使パークスやアメリカなどからは出兵への反対意見もあった。特に木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、同じ海外である台湾に出兵するのは矛盾であるとして反対の態度を崩さず、4月18日参議の辞表を提出して下野してしまいました。そのため、政府は一旦は派兵の延期を決定するが、長崎に待機していた西郷率いる征討軍3000名(薩摩藩・藩士編成をした政府軍)はこれを無視して出兵を決断(台湾出兵)、5月2日に西郷の命を受けた谷干城・赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で長崎を出航すると政府もこれを追認、5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民と小競り合いを行う。5月22日に西郷の命令を受けて本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を制圧して現地の占領を続けました。

この衝突は、近代国民国家の観念をまだ十分に理解していない清と、日本の考え方の違いから起こった事件でした。清との協議の結果、問題は解決しましたが、清はこれにより、琉球島民を日本国民と認めました。翌1875年琉球に対し、清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年、琉球を日本領土とし、沖縄県を設置しました(琉球処分)が、それに反対する清との1880年北京での交渉において日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島にたいする琉球人の反対もあり清は調印に至らなかった。 このため、帰属問題が解決したのは日清戦争で日本が勝利した後のことでした。
日本はこうして、近隣諸国との間の国境をほぼ画定させることに成功しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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