日本統治時代の台湾 学校で教えてくれなかった近現代史(32)

日本の台湾統治


画像: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1895年(明治28年)4月17日、日清戦争の敗戦に伴い下関条約の締結によって清朝が台湾を日本に割譲しました。統治初期は1895年5月から1915年の西来庵事件までを第1期と区分することができます。

台湾総督は台湾の行政・司法・立法から軍事までを一手に掌握しうる強大な権限を持ったため「土皇帝」と呼ばれた程でした(後に軍事権が台湾軍司令官に移譲されたことにより、文官の総督就任が可能になる)。但し台湾総督は内閣総理大臣、内務大臣、拓務大臣の指揮監督を受けることになっており、天皇直属の朝鮮総督より地位が低いものでした。初代総督は樺山資紀で、当初は陸海軍の将官が総督を務めました。児玉源太郎総督の下で1898年に民政長官に就任した後藤新平は、土地改革、ライフラインの整備、アヘン中毒患者の撲滅、学校教育の普及、製糖業などの産業の育成を行うことにより台湾の近代化を推進し、一方で植民地統治に対する反逆者には取り締まりをするという『飴と鞭』の政策を有効に用いることで植民地支配の体制を確立した。

台湾総督府は軍事行動を全面に出した強硬な統治政策を打ち出し、台湾居民の抵抗運動を招きました。それらは武力行使による犠牲者を生み出した他、内外の世論の関心を惹起し、1897年の帝国議会では台湾を1億元でフランスに売却すべきという「台湾売却論」まで登場していました。こうした情況の中台湾総督には中将以上の武官が就任し台湾の統治を担当しました。

日本統治初期は台湾統治に2種類の方針が存在していました。第1が後藤新平などに代表される特別統治主義でした。 1898年、児玉源太郎が第4代台湾総督として就任すると、内務省の官僚として活躍していた後藤新平を民政長官に抜擢し、台湾の硬軟双方を折衷した政策で台湾統治を進めていきました。また1902年末に抗日運動を制圧した後は、台湾総督府は日本の内地法を超越した存在として、特別統治主義が採用されることとなりました。当時ドイツの科学的植民地主義に傾倒していた後藤は、生物学の観点から植民地の同化は困難であり、英国政府の植民地政策を採用し、日本内地の外に存在する植民地として内地法を適用せず、独立した特殊な方式により統治するというものでした。後藤は台湾の社会風俗などの調査を行い、その結果をもとに政策を立案、生物学的原則を確立すると同時に、漸次同化の方法を模索するという統治方針でした。

日本統治初期、台湾の財政は日本本国からの補助に依拠しており、当時の日本政府において大きな財政的負担となっていました。第4代台湾総督の児玉源太郎は、民政長官の後藤新平と共に『財政20年計画』を策定、20年以内に補助金を減額し台湾の財政独立を図りました。1904年に日露戦争が勃発すると、その戦費捻出のために日本の国庫が枯渇、台湾は計画を前倒して財政独立を実現する必要性に迫られました。

具体的な施策として総督府は地籍整理、公債発行、統一貨幣と度量衡の制定以外に、多くの産業インフラの整備を行うと共に、専売制度と地方税制の改革による財政の建て直しを図った。専売制度の対象となったのは阿片、タバコ(参照台湾総督府専売局松山煙草工場)、樟脳、アルコール、塩及び度量衡であり、専売政策は総督府の歳入の増大以外に、これらの産業の過当競争を防ぎ、また対象品目の輸入規制を行うことで台湾内部での自給自足を実現しました。

また特筆すべき政策としては阿片対策がある。流行していた阿片を撲滅すべく、阿片吸引を免許制とし、また阿片を専売制にして段階的に税を上げ、また新規の阿片免許を発行しないことで阿片を追放することにも成功しました。そのため、現在の台湾の教育・民生・軍事・経済の基盤は当時の日本によって建設されたものが基礎となっていると主張する意見(李登輝など)と、近代化の中の日本の役割を過大評価することは、植民地統治の正当化と反発する意見、台湾は日本への農作物供給地として農業を中心に発展させられたため、工業発展に遅れたと主張する意見、日本商人の搾取によって富が奪われたとする意見(図解台湾史、台湾歴史図説)も提示されています。

台湾で抗日武力闘争が発生していた時期、総督府は武力による鎮圧以外にその統治体制を確立し、教育の普及による撫民政策をあわせて実施しました。台湾人を学校教育を通じて日本に同化させようとしました。初等中等教育機関は当初、台湾人と日本人を対象としたものが別個に存在し、試験制度でも日本人が有利な制度でたが、統治が進むにつれ次第にその差異は縮小していきました。台湾に教育制度を普及させた日本の政策は現在の台湾の教育水準の高さに一定の影響を与えています。

1895年、初代学務部長に伊沢修二を任命し日本内地でも実現していなかった義務教育の採用しました。台湾人の就学率は当初緩慢な増加でしたが、義務教育制度が施行されると急速に上昇、1944年の台湾では国民学校が944校設置され、就学児童数は876,000人(女子を含む)、台湾人児童の就学率は71.17%、日本人児童では90%を越える世界でも高い就学率を実現しました。

1928年(昭和3年)、外地では1924年(大正13年)の京城帝国大学に次いで、台北帝国大学を創立しました。

台湾統治時代のインフラ整備

1908年には台湾南北を縦貫する縦貫線を完成させるなど、それまで数日を必要とした移動を1日で移動できる空間革命となりました。その後も鉄道整備を推進し淡水線、宜蘭線、屏東線、東港線などを建設すると共に、私鉄路線であった台東南線(現台東線の一部)、平渓線を買収しました。このほか林田山、八仙山、太平山、阿里山などの森林鉄道の整備も進められていきました。戦後、鉄道に関して確実に戦後の台湾経済の発展に大きな影響を与えた遺産となり、現在、台湾の鉄道輸送に対する依存度は低下しましたが、しかし鉄道網の日本統治時代の鉄道路線をそのまま踏襲し、重要な輸送手段の一つとして使用されています。

日本統治時代後半になると道路網の整備も一定の成果があると、鉄道と自動車輸送の競争が生じ多くの軽便鉄道がバス輸送に代替されました。このバス輸送に対し鉄道部は鉄道との平行バス路線を買収するなど対策を行っていました。また市内交通では「乗合自動車」が設置され、鉄道駅を中心に放射状のバス路線が整備されていました。
港湾では、台湾の海運業の改善と、日本の南方進出のための中継港湾基地として基隆港、高雄港の築港を行い、大型船の利用が可能な近代的港湾施設が整備されました。そのほか台湾東部や離島との海上交通の整備の一環として花蓮港や馬公港などもこの時代に整備されています。

水利事業の整備は台湾の農業に大きな影響を与え、農民の収入を増加させるとともに、総督府の農業関連歳入の増加を実現しています。台湾南部では大河川が存在しない上に降水量が乏しい地域であり、総督府技師の八田与一は10年の歳月を費やし、当時東南アジアで最大となる烏山頭ダムを完成させると、1920年には嘉南大圳建設に着工、1934年に主要部分が完成すると嘉南平原への水利実現に伴い、台湾耕地面積の14%にも及ぶ広大な装置を創出しました。台湾での工業化を推進するために整備が進められた本格的な水力発電所が次々と建設されました。
日本が台湾に進駐した初期において、日本軍は伝染病などにより多くの戦病死者を出した経験から総督府が台湾の公共衛生改善を重要政策として位置づけました。当初総督府は各地に衛生所を設置し、日本から招聘した医師による伝染病の発生を抑止する政策を採用しました。大規模病院こそ建設されなかったが、衛生所を中心とする医療体制によりマラリア、結核、鼠径腺ペストを減少させ、この医療体系は1980年代まで継承されていました。
設備方面ではイギリス人ウィリアム・バードンにより台湾の上下水道が設計されたほか、道路改善、秋の強制清掃、家屋の換気奨励、伝染病患者の強制隔離、予防注射の実施など公共衛生改善のための政策が数多く採用されました。
また学校教育や警察機構を通じた台湾人の衛生概念改善行動もあり、一般市民の衛生概念も着実に改善を見ることができ、また台北帝国大学内に熱帯医学研究所を設置し、医療従事者の育成と台湾の衛生改善のための研究が行われていました。

内地延長主義時期(1915年-1937年)

日本統治の第2期は西来庵事件の1915年から1937年の盧溝橋事件であり、国際情勢の変化、特に第一次世界大戦の結果、西洋諸国の植民地統治の権威が失墜し、民族主義が高揚した時期でした。民主と自由の思想による民族自決が世界の潮流となり、また、レーニンの提唱した植民地革命論は世界の植民地に大きな影響を与えるようになりました。このような国際情勢の変化の中、日本による台湾統治政策も変化していきました。

1910年代、藩閥政治に反対し政党政治を実現しようという大正デモクラシーのなか、1919年に台湾総督に就任した田健治郎は、初めての文官総統であり、また田は赴任する前に当時首相であった原敬と協議し、台湾での同化政策の推進が基本方針と確認され、就任した10月にその方針が発表されました。田は同化政策とは内地延長主義であり、台湾民衆を完全な日本国民とし、皇室に忠誠な国民とするための教化と国家国民としての観念を涵養するものと述べています。
その後20年にわたり、台湾総督は同化政策を推進し、具体的な政策としては地方自治を拡大するための総督府評議会の設置、日台共学制度及び共婚法の公布、笞刑の撤廃、日本語学習の整備などその同化を促進し、台湾人への差別を減少させるための政策を実現しました。また後藤新平の消極的な政策を改め、鉄道や水利事業などへの積極的な関与を行い、同化政策は具体的に推進されていきました。

皇民化運動(1937年-1945年)

1937年に中国で盧溝橋事件が発生すると、日本の戦争推進のための資源供給基地として台湾が重要視されることとなりました。

台湾における国民意識の向上が課題となった総督府により皇民化政策が推し進められることになります。皇民化運動は国語運動、改姓名、志願兵制度、宗教・社会風俗改革の4点からなる、台湾人の日本人化運動でした。その背景には長引く戦争の結果、日本の人的資源が枯渇し、植民地に頼らざるをえなくなったという事情がありました。

国語運動は日本語使用を徹底化する運動で、各地に日本語講習所が設けられ、日本語家庭が奨励されました。日本語家庭とは家庭においても日本語が使われるというもので、国語運動の最終目標でもありました。その過程で台湾語・客家語・原住民語の使用は抑圧・禁止されました。改姓名は強制されませんでしが、日本式姓名を持つことは社会的上昇に有利なこともあり、多くの台湾人が改姓名を行いました。

日本は中国と戦争を行っていたことから、台湾の漢民族を兵士として採用することには反対が多かったが、兵力不足からやむをえず志願兵制、そして1945年からは徴兵制が施行されました。およそ21万人(軍属を含む)が戦争に参加し、3万人が死亡しました。

また台湾の宗教や風俗は日本風なものに「改良」されました。寺廟は取り壊されたり、神社に改築されました(寺廟整理)。中華風の結婚や葬式は日本風な神前結婚や寺葬に改められました。
しかし、これらの運動は短期的であったこともあり、台湾社会に根付くことはありませんでしたが、台湾が香港やシンガポールなど、日本の支配を受けたが皇民化運動が徹底されなかった他の華人社会に比べて、日本的であるという理由の一つの説明にはなるでしょう。

敗戦と中華民国の接収

1945年8月15日、日本は終戦の詔書を発表し太平洋戦争が終結し、台湾は中華民国による接収が行われることとなりました。同年8月29日、国民政府主席の蒋介石は、陳儀を台湾省行政長官に任命、9月1日には重慶にて台湾行政長官公署及び台湾警備総部が設置され、陳儀は台湾警備司令を兼任することとなりました。そして10月5日、台湾省行政長官公署前進指揮所が台北に設置されると、接收要員は10月5日から10月24日にかけて上海、重慶から台湾に移動しました。

1945年10月25日、中国戦区台湾省の降伏式典が午前10時に台北公会堂で行われ、日本側は台湾総督安藤利吉が、中華民国側は陳儀がそれぞれ全権として出席し降伏文書に署名され、台湾省行政長官公署が正式に台湾統治に着手しました。公署は旧台北市役所(現在の行政院)に設置され、国民政府代表の陳儀、葛敬恩、柯遠芬、黄朝琴、游弥堅、宋斐如、李万居の他、台湾住民代表として林献堂、陳炘、林茂生、日本側代表として安藤利吉及び諫山春樹が参加し、ここに日本による台湾統治は終焉を迎えました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

コメントする

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください