【韓国朝鮮の歴史と社会】(22) 日中戦争と朝鮮 

[catlist id=8] 大陸兵站(へいたん)基地と植民地工業化

1937年7月、日中戦争が起こると、朝鮮は軍需物資を生産する後方基地となりました。これに先がけ、36年8月に関東軍司令官を経て朝鮮総督に就任した南次郎は、工業化の推進と産業の統制をかかげました。そして、臨時資金調整法を施行して軍需産業に対する資金の重点配分を進めるなど、戦争経済の確立につとめました。

その結果、工業生産額が急増し、1930年代末には農業生産額と肩を並べました。とりわけ重化学工業の成長が顕著で、日本窒素肥料系の企業が多数設立された北部のかん興や興南を中心に工業地帯が形成され、在来の精米業や紡織業を主軸とする京仁(京城、仁川)工業地帯とともに二大工業地帯をなしました。しかし、生産は完成品ではなく部品や半製品が中心であり、一部を除き朝鮮人資本は弱体であるなど、植民地工業化は朝鮮内の有機的連関を欠くものでした。

内鮮一体と皇民化

日中戦争の勃発は、朝鮮における全国的な戦争動員体制の確立を促しました。当時マスコミは未発達だったので、総督府は講演会や時局座談会、紙芝居などを利用して、戦果とその意義の宣伝につとめました。しかし、人々にもっとも身近な情報源は噂話でした。当局はこれを「流言飛語」とみなして取り締まりましたが、根絶は不可能でした。戦争を傍観する態度や日本の敗北を願う気分が蔓延し、動員政策に対する非協力が民衆感情の根底を成していました。それに対して朝鮮人の民族性を抹殺し、天皇に忠誠を尽くす「皇国臣民」とする政策、すなわち「皇民化」政策を徹底する必要を感じました。

そこで唱えられた標語が「内鮮一体」でした。「内地」と「朝鮮」とは一つであり区別はない、という単純な内容でしたが、朝鮮人から自発的な戦争協力を引き出すため、その時々の政策の必要に応じた意味づけがなされました。「内鮮一体」の究極目標は、将来の徴兵制実施に備えて、「皇軍兵士」を創出することでした。しかい、現実には「流言飛語」が飛び交うように目標の達成は困難であり、かつて激しい抗日闘争を展開した経験のある朝鮮人に武器を渡すことに対する不安は、尋常ではありませんでした。したがって、総督府と朝鮮軍(駐屯陸軍)は、徴兵制の実施には数十年の歳月がかかると想定しながらも、「皇民化」の三本柱といわれた、志願兵制度、朝鮮教育令の改定、創始改名の実施を、実施しました。

戦時動員体制

1938年2月、陸軍特別志願兵令が公布されました。志願兵制度は、朝鮮人に武器を与えるテストとしての意味をもち、実施の地ならしの役割をはたすものでした。行政当局は熱心に応募を勧誘した結果、名目は志願ながら強要に近い形をとり、兵志願者訓練所の定員を大幅に上回る応募者がみられました。また、43年7月、海軍特別志願兵令が公布されました。

38年3月に実施された朝鮮教育令の改定は、「内鮮教育の一元化」を唱えて、学校の名称、教科書、教育方針を日本国と同一としましたが、実際には本国以上に徹底した「皇民化」教育が実施されました。また、朝鮮語は必修科目から随意科目へと変更され、事実上の廃止処置がとられました。41年4月には国民学校令が施行され、小学校は国民学校に改められました。しかし、42年でも、就学率は55%、日本語普及率は20%に留まりました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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【韓国朝鮮の歴史と社会】(21) ロシア革命と朝鮮

[catlist id=8] 在外朝鮮人

韓国併合前から、政治的な自由や生活の基盤を求めて国外に移住する朝鮮人が増加しました。そのなかでも朝鮮と国境を接する中国東北地方の領域は「間島(カンド)」とよばれ、在外朝鮮人の活動の一大拠点となっていました。併合後には、民族主義者が自治組織や民族教育機関を設立し、越境した義兵部隊を改編した軍事団体を備えて、武装闘争を展開しました。これらは独立軍と総称されました。これに対して、日本は、1920年10月、日本人居留民の保護を口実にシベリア出兵軍などを「間島」に侵入させ、独立軍の鎮圧をはかりましたが、和竜県青山里の戦闘では独立軍の部隊に大敗しました。以後、日本軍は報復として「間島」在住の朝鮮人を虐殺するなど徹底的な弾圧をおこないました。独立軍の諸部隊は離合集散を重ねましたが、25年前後には参議府、正義府、新民府の三団体に統合されました。
極東ロシアでも、併合直後から自治組織が結成されましたが、ロシア革命の勃発は社会主義思想を伝播する役割を果たしました。18年6月ハバロフスクで韓人社会党が、19年9月イルクーツクで全露韓人共産党がそれぞれ結成されました。中国国内では、18年8月、上海で新韓青年党が結成され、パリ講和会議に代表を派遣することを試みました。米国でも、ウィルソン大統領の知己である李承晩[*1]らを中心に外交活動が展開されました。
三・一運動が発生すると、運動継続を願う民族主義者により各地で亡命政権が樹立され、これらが統合して、1919年4月、上海のフランス租界に大韓民国臨時政府(臨政)が樹立されました。臨政は朝鮮国内との連絡網の確立につとめる一方、欧米の世論に向けた工作を展開しましたが、外交活動か武装闘争かをめぐる内紛が激しくなり、1925年3月、大統領李承晩が罷免され、国内との連絡も断絶されて、以後活動は沈滞しました。
日本本国へは併合以前から労働者が移住していましたが、併合後は在日朝鮮人の数は増加しました。その原因は、地主制の発達にともなう土地喪失農民の増大と、日本資本主義の勃興による労働力の創出は、日本への移住をいっそう促進しました。

※[*1]…李承晩(イ・スンマン、1873~1965)。独立運動家・政治家。早くから英語を学ぶ。1904年渡米してプリンストン大学で博士号を取得する。1919年大韓民国臨時政府大統領に就任後も米国を拠点に独立宣言運動に従事する。1948年韓国の初代大統領となるが60年四月革命により退陣した。竹島問題の発端である漁業権をめぐる李承晩ライン。

労農運動と新幹会

1920年代、日本資本進出の本格化につれて、朝鮮内でも労働者の数が増大しましたが、長時間労働、低賃金、親方支配、危険放置など、劣悪な労働条件に対する不満を爆発させました。各地に労働組合が結成され、1920年4月に結成された最初の労働団体である朝鮮労働共済会は、知識人が会員の多くを占め、労働者の知識啓発や品性向上など、労資協調主義的な団体でしたが、のちには社会主義思想の影響を受けるようになりました。
一方、地主制の発達にともない小作争議もさかんになりました。1920年初頭には、地主との協調を基本とする小作人組合が指導し、高率小作料の引き下げを要求する大規模な争議が発生しましたが、半ばからは、小作権移動に反対する小規模な争議が多発しました。24年4月には、全国の労農運動を統括する朝鮮労農総同盟が組織されました。27年には階級的色彩を明確にし、朝鮮労働総同盟と朝鮮農民総同盟に分立しました。29年1月にライジング・サン社の石油貯蔵所の労働争議として発生した元山ゼネストは、港湾と運輸関係の労働者を巻き込み、植民地期最大規模のストライキに発展しました。
1920年代初頭、ロシアや日本などを経由して朝鮮にも社会主義思想が伝播しました。社会主義に基づく政治活動は禁止されていたので、研究をかかげる各種の思想団体が結成されました。25年金在鳳を中心として秘密裏に朝鮮共産党が結成され、モスクワのコミンテルン(国際共産党)から承認を受けました。共産党は、1926年4月、大韓帝国最後の皇帝であった純宗の死去を契機に、三・一運動の再現をねらって学生や天道教に工作を進めました。そして、6月10日純宗の国葬当日、ソウルで学生が万歳の高唱やビラの散布などの独立示威を敢行しました(6・10万歳運動)。しかしその後、共産党は度重なる弾圧のため壊滅し、コミンテルンの承認も取り消されました。
1929年11月、光州で発生した日本人と朝鮮人の学生同士の衝突が、植民地教育制度に反対する全国規模の運動に拡大する(光州学生運動)と、12月に新幹会は運動を支援する民衆大会の開催を計画しました。しかし、直前の弾圧により主要幹部が多数検挙されて大会は中止となりました。31年5月、新幹会は解消しましたが、近代的な「政治」のあり方を学ぶという意味で、その経験は貴重なものでした。また、27年5月、女性運動の統一組織である槿友会が創立され、新幹会と共同歩調をとりました。

近代社会の形成

「文化政治」のもと、1920年代から30年代にかけて、都市を中心に近代社会の形成が進みました。当時京城とよばれたソウルの人口は急増し、日本帝国有数の都市へと発展しました。道路の拡張、城壁の撤去や高層建築の登場などは、都市の景観を一変させました。街路には路面電車や自動車が行き交い、電気や水道の整備も徐々に充実し、官庁や大企業の従業員を中心に俸給生活者が増加しました。それのともない、百貨店や映画館、喫茶店、カフェなど都市的な消費文化の施設が増えました。人々の洋装や洋髪も暫時普及し、日本食や洋食など外食の習慣も広まっていきました。ラジオや電話、電報など新たなメディアが導入され、レコードも発売されました。さらに、欧米の文化や芸術も、おもに日本を経由する形で受容されました。
ただし、都市生活の中心にあった朝鮮在住の日本人たちは、本国の生活文化をそのまま持ち込み、それを極力維持しようとしました。神社の祭礼や花見、川遊び、紅葉狩り、初詣など、日本の一地方都市としての生活が営まれたのでした。他方、農村から大量の住民が都市に流入するようになると、都市周辺部に朝鮮人スラム街の形成が急激に進みました。その結果、都市は、洗練され先進的な中枢部と、劣悪で後進的な周辺部の二重性を帯びるようになりました。このように、日本人の生活圏と朝鮮人の生活圏が直接交わることはそれほどなく、同じ都市内でも格差は大きいものでした。
これらの都市的な文化や価値観は、都市以外の村落地域に居住する人々にとってもあこがれの対象として受け止められました。学校や官公庁、病院などを拠点として、時間厳守の観念や衛生の観念の普及、文書を通じた事務処理の徹底のような日常生活における規律の強化と一体となって、村落地域にも緩慢ながら着実に浸透していったのです。

恐慌下の農村と「満州事変」

昭和恐慌は朝鮮でも猛威をふるい、労働者が解雇されたり日本への渡航が制限されたりして、民衆を困窮させました。さらに産米増殖計画が中断されると、豊作飢饉のなかで農村は崩壊の危機に瀕しました。とりわけ、春の端境期は、自家の食糧さえ確保できず、山野の「草根木皮」の採取によって辛うじて生命を維持するような極貧の生活を強いられる農家が少なくありませんでした。そうしたなかで、北部のかん鏡道・北道を中心に社会主義思想が浸透し、「赤色農民組合運動」とよばれる激しい農民運動が展開され、支配基盤は動揺しました。
農村の社会不安を危惧する宇垣一成総督は、1933年3月、農村振興運動の開始を命じました。この官制運動は更正部落や更正農家を選定して、家計管理に至る個別指導をおこないつつ、増産と節約、副業を通じた困窮からの脱出を企てました。しかし、根本的な解決とはなりませんでした。
ところで、「文化政治」のもとでさかんになった民族運動や社会運動への対応として、総督府当局は、従来の同化主義体制を最終的には自治主義体制へと転換せざるを得ないと判断しました。29年末から、朝鮮議会の設立と帝国議会議員選出のための試案を作成し、本国政府と交渉を進めましたが、本国政府の拒否によって挫折しました。それに代わっておこなわれたのが、地方制度の改編でした。30年、道制、邑制が新たに公布され、府制が改訂されました。議決権機関として道会、府会、邑会を設置しました。この改編は朝鮮人有権者の増大をもたらし、地主や商工業者など有力者が地方政治に参加する道を拡大することになりました。その結果、朝鮮人の対日協力が進展することとなりました。
20年代から朝鮮農民の「満州」移民が増大し、「満州事変」勃発直前には約60万人におよびました。とくに豆満江対岸の「北間島」では朝鮮人が住民の多数を占めました。多くが中国人地主の小作農民である彼らに対しては、「満州」在住の朝鮮人社会主義者による組織工作が進められ、朝鮮共産党満州総局や中国共産党満州省委員会の指導下に闘争が発生しました。そして、30年5月には朝鮮人社会主義者が一斉に蜂起し、日本の軍隊や警察と市街戦を演じる事態にいたりました(間島五・三○蜂起)。また、31年7月長春郊外で水路開削工事をめぐり朝鮮人入植者と中国人農民が衝突する万宝山事件が発生しましたが、この事件の内容が朝鮮内に歪曲報道されたことにより、多くの朝鮮在住中国人が報復を受けました。
33年3月「満州国」が成立すると、在住朝鮮人のなかには中国人とともに反満抗日運動を展開する者も少なくありませんでしたが、一部は満州国のかかげる「五族協和」[*1]に呼応し、官吏や企業家として支配に協力しました。20年代からいち早く進出していた日本窒素系の企業を中心に、朝鮮北部の工業化が開始されました。

※[*1]「五族協和」…五族とは日本人・満州人・蒙古人・韓人・朝鮮人のこと。
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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10 大韓帝国成立と民族運動

東学と甲午農民戦争

19世紀の朝鮮では、世道政治の弊害によって混乱をきたし、それに加えて、自然災害や疫病の流行、天主教の流入などによって、社会的な不安が高まりました。そのため各地で民乱が続発しました。こうした社会不安を背景に、崔済愚が1860年に東学という宗教を創建しました。東学とは、西学である天主教に対抗するという意味をもっており、その点で民族主義的な性格をもっていました。また、人間平等を説いて「地上天国」の到来を予言しました。そのため圧政に苦しむ多くの人々を惹きつけました。
1894年2月、全羅道で、東学異端派に属する全ほう準を指導者に、不正を働く地方官に対する民乱が起こりました。さらに閔氏政権を倒し外国人を排斥するために農民軍を組織して、漢城めざして北上していきました。5月末には全羅道の中心地の全州(チョンジュ)に入り、政府軍と戦闘を繰り広げました(第一次甲午農民戦争)。政府軍と戦闘が拡大すると、政府が清国には兵を要請し、日本も出兵してくるとの情報が伝わってくると、農民軍は政府との間に和約を結んで、一次撤退しました(全州和約)。

日清戦争と農民軍の再蜂起

一方、朝鮮政府は、農民戦争鎮圧のため清国には兵を要請しました。日本はこれに対抗して居留民保護などを理由に朝鮮への軍隊派遣を決定し、清国から朝鮮は弊の通告を受けた後、混成一個旅団を朝鮮に派遣しました。ところが、日本軍が朝鮮に到着したときには、すでに全州和約が結ばれており、日本は軍隊派遣と駐兵の理由を失っていました。日本は、駐兵の口実として、清国に対して共同の朝鮮内政改革案を提示しましたが、清国はこれを拒否しました。朝鮮政府も相次いで日本軍の撤退を求めましたが、日本は単独改革を主張し、さらに朝鮮政府に清国との宗属関係による取り決めの破棄を迫りました。朝鮮側がこれを拒否すると、日本軍は7月23日に景福宮を占領し、閔氏政権を倒しました。さらに大院君を執政に据えて、その下に開化派政権を樹立させました。

7月25日、日本艦隊が忠清道の豊島(ブンド)沖で清国艦隊を攻撃し、日清戦争が開始されました。日本は開化派政権との間に攻守同盟を結び、朝鮮は日本側に協力することを強要されました。日本軍は人夫や物資を徴発しましたが、これを拒否したり軍用電線を切断するなどの抵抗が相次ぎました。しかし、平壌、黄海の海戦で日本軍が勝利するなど、戦況は日本有利に進んでいきました。
こうしたなか、一次撤退していた農民軍が、日本と開化派の駆逐を標榜して第二次農民戦争を起こしました。これには、第一次農民戦争に消極的だった忠清道の東学組織が加わり、また各地の農民らが蜂起しました。しかし、近代的兵器を誇る日本軍と朝鮮政府軍の前に農民軍は敗退を余儀なくされ、12月始めには、主力部隊が大敗し、間もなく鎮圧されました。

1895年4月、日清講和条約が締結されました。第一条には、朝鮮が「独立自主の国」であることを確認するとうたわれ、宗属関係を廃止することが清国によって承認されました。

甲午改革と王妃閔氏殺害事件

開化派政権は、甲午改革とよばれる広範な改革を実施しました。清国との宗属関係の破棄、政府機関の改革、科挙の廃止、国家財政の一元化、税の金納化、両班と常民・賤民の差別の禁止、奴ひ制度の廃止など、朝鮮王朝全般にわたる近代的な改革が矢継ぎ早に決定されました。

1894年10月に朝鮮公使として赴任した井上馨は、大院君を政権から降ろして政治に関与することを禁じ、ついで急進開化派の朴泳孝らを内閣に加えて、強力な干渉のもとに改革を推進させました。この時期の改革では、内閣制の導入、徴税機構の改革、地方制度の改革など、急進的な近代的改革がおこなわれました。しかし、朝鮮政府には日本人の顧問が配置されたり、日本政府によって借款が供与され経済的に日本に従属させられるなど、日本による干渉が深まったことに、政府のなかでも日本に対しての反発がおこりましたが、とりわけ権力から疎外された高宗や王妃閔氏らの勢力はロシアに接近して日本を牽制しようとしました。

井上馨は閔氏らを懐柔しようとしましたが、結局6月に離任し、7月には朴泳孝が王妃閔氏殺害謀議の疑いをかけられ日本に亡命しました。さらに8月には兪吉しゅんらが失脚し、かわって親露・親米的な官僚が内閣に入りました。辞任した井上馨に代わって公使に着任した三浦梧楼は、王妃閔氏の排除を計画しました。10月、朝鮮軍人のクーデターを装って、日本守備隊・公使館員・日本人壮士らが景福宮を占拠して閔氏を殺害し、大院君を再び担ぎ出して親日内閣を樹立しました。ところが、この事件はアメリカ人とロシア人に目撃されており、日本は国際的な非難を浴びることになりました。日本政府は三浦公使をはじめ関係者を帰国させて軍法会議や裁判にかけましたが、全員証拠不十分で無罪・免訴となりました。朝鮮では日本と親日内閣に対する敵愾心が高まりました。

大韓帝国の成立

王妃閔氏殺害事件後に成立した親日内閣は、陽暦の採用、朝鮮独自の年号の採用などの急進的な改革をさらに進めました。ところが、1895年12月末に断髪令を公布すると、儒者たちが各地で兵を挙げました(初期義兵)。親日内閣はこの反日反開化の義兵への対応に追われましたが、親露的な官僚らがロシア軍の支援を受けて、高宗をロシア公使館に移しました。親露派はクーデターによって親日内閣を倒し、甲午改革は最終的に挫折しました。高宗は、1897年2月に、ロシア公使館からほど近い慶運宮に移り、8月に光武という年号を定め、さらに10月に皇帝に即位する儀式をおこない、国号を「大韓」と改めました。こうして大韓帝国が成立し、これによって高宗は中国皇帝と同格になり、また欧米・日本と同格の独立国の元首になったことを宣言しました。

1899年8月に制定された「大韓国国制」では、大韓帝国は国際法上での独立国であるとともに専制君主国であるとされ、この皇帝先制権力の元で、自主的な近代的改革を試みました(光武改革)。軍備の増強、土地測量事業、貨幣・金融制度の改革、また、官僚主導による会社設立、電気・電車事業、鉄道敷設や鉱山開発などの殖産興業政策が試みられました。しかし、その財源を確保するために税源が拡大されたり、税率が引き上げられ、また補助貨幣が濫発されました。拡大された財源の多くは軍備増強に遣われ、また王宮の造営・宴会費などの皇帝の権威強化のための支出も膨大でした。光武改革は外国に依存せず自主的な近代化をめざしましたが、その意図とは反対に借款に依存するようになりました。そうして、担保とされた鉱山採掘権などの利権をめぐって列強の争奪戦がおこったり、また列強の利害対立により借款経過于が妨害されるなど、大きな成果を上げないまま中断してしまいました。

引用:『韓国朝鮮の歴史と社会』吉田光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他


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9 朝鮮の開国と開化政策

大院君の攘夷政策

19世紀の中ごろ、東アジアの中国・日本・朝鮮は、相ついで欧米諸国との開国を迫られました。
19世紀の朝鮮では、世道政治の弊害によって混乱をきたし、それに加えて、自然災害や疫病の流行、天主教の流入などによって、社会的な不安が高まりました。そのため各地で民乱が続発しました。こうした社会不安を背景に、崔済愚が1860年に東学という宗教を創建しました。東学とは、西学である天主教に対抗するという意味をもっており、その点で民族主義的な性格をもっていました。また、人間平等を説いて「地上天国」の到来を予言しました。そのため圧政に苦しむ多くの人々を惹きつけました。1894年2月、全羅道で、東学異端派に属する全ほう準を指導者に、不正を働く地方官に対する民乱が起こりました。さらに閔氏政権を倒し外国人を排斥するために農民軍を組織して、漢城めざして北上していきました。5月末には全羅道の中心地の全州(チョンジュ)に入り、政府軍と戦闘を繰り広げました(第一次甲午農民戦争)。政府軍と戦闘が拡大すると、政府が清国には兵を要請し、日本も出兵してくるとの情報が伝わってくると、農民軍は政府との間に和約を結んで、一次撤退しました(全州和約)。

「夷をもって夷を征す(欧米の力を取り入れ殖民地になるのを防ぐ」という方針を国家づくりの基礎として、盛んに欧州の技術や文化を取り入れ近代化を推し進めていました。同時に東アジアにおけるロシアをはじめとする欧米列強による植民地化の流れを防ぐことで自国の安全と安定を図ろうと考えた日本政府は、朝鮮半島に対し、西洋に対抗するには、東洋の近代化と貿易が重要であることを訴え、朝鮮との交渉を始めた。しかし、当時の朝鮮は鎖国状態で、周辺の社会情勢について詳しくなく、日本で起きた革命の意図もあまり理解していませんでした。当時、政治の実権を握っていた国王高宗の父である大院君は対外政策では欧米諸国の侵入に対し激しく反対し、開国した日本も洋賊であるとして、国交の樹立に反対し、交渉は一向に進みませんでした。

1864年、幼くして即位した国王高宗に代わって実権を掌握した興宣大院君は、相ついで来航し開国・通商を要求する欧米諸国に対して、強硬な攘夷政策をもって臨みました。66年、アメリカ商船シャーマン号が平壌に侵入すると官民らはこれを焼き払いました。同じ年、大院君が天主教(カトリック)に弾圧を加えたことを理由に、フランス艦隊が江華島に侵入すると、大院君はこれも打ち払いました。また、71年には、通商条約を求めて江華島に来航したアメリカ艦隊を撤退させ攘夷を強めました。

また、大院君の攘夷政策を背景に、小中華思想にもとづき、天主教邪学としてしりぞけ、朱子学を正学として守るという衛生斥邪(えいせいせきじゃ)思想が高揚しました。しかし内政については、衛生斥邪派と大院君は対立しました。自らの権力を強化しようとする大院君は、景福宮の再建など大規模な土木工事を行い、さらに両班の勢力に規制を加えるため書院を撤去したり、両班には免除されていた軍布を徴収するようにしたからでした。

※軍布…形骸化した徴兵に代わり、年間綿布を徴収するもの。農民にはかなり重い負担だった。

日朝の対立

そのころ、日本との間にも外向的な問題が発生しました。1869(明治2)年、明治政府は、政権樹立後、対馬藩を通じて朝鮮に王政復古を通知し国交を結ぼうとしました。ところが、朝鮮側は日本の用意した書契(外交文書)に、中国皇帝しか使用できない「皇」という文字が使われているという理由で、受け取りを拒絶しました。

その後、日本政府は対馬から朝鮮に冠する外交権を接収し、朝鮮との条約締結を試みましたが、大院君政権によって拒否されました。

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

衛生斥邪派の崔益玄(金へん)が内政問題について大院君を攻撃すると、大院君と対立する王妃閔氏の一族らは大院君を政権から追放しました。そして、国王高宗の親政がはじまり、閔氏政権が成立しました。翌74年、閔氏政権は、日本の台湾出兵事件と朝鮮出兵の可能性に関する情報を清国から得ました。また、政権内でも、開国派が日本からの書契を受け取るべきだと主張しました。こうして、閔氏政権は日本との交渉を行うことになりましたが、交渉は難航しました。

江華島事件と朝鮮の開国政策

1875年、江華島事件(雲楊号事件)が起きました。日本政府が示威で江華島沖に送った軍艦雲揚から出た小船に江華島の砲台から発砲、雲揚が「応戦」した事件です。雲揚が許可なく朝鮮の領海を侵犯したので、これを排除しようとしたものでした。しかし日本政府はこれを口実として砲艦外交を押し出し、1876(明治9)年、江華島条約(日朝修好条規)が結ばれます。釜山・元山・仁川の3港を開港、ソウルに日本公使館を開設しました。これは中国がイギリスと結んだ南京条約(1842年)、日本がアメリカと結んだ日米修好通商条約(1858年)と同様、治外法権の認定など、結ばされた側にとっての不平等条約でした。

これによって朝鮮は、帝国主義が渦巻く世界へ開国していくことになりました。日朝修好条規はれまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が開国する契機となった条約ですが、その第一条で、「朝鮮国は自主の国」であるとうたいました。これは、朝鮮が清朝の冊封から自立した国家であることを明記しすることで、清朝の影響から朝鮮を切り離すねらいがありました。従来もっていた華夷秩序との葛藤が起こっていきます。

1880年、朝鮮政府は金弘集を修信使として日本に派遣しました。金は日本を視察するとともに、東京の清国公使館に立ち寄り『朝鮮策略』を受け取りました。それには、ロシアの侵略を防ぐために、朝鮮は清国との関係を深め日本と連携するとともに、アメリカと関係を結ぶこと、国内改革を進めるべきことが述べられていました。これを直接の契機として、閔氏(びんし)政権は、対欧米開国や開化政策を進めていきます。閔氏政権は、新たな外交関係に対応する機関として統理機務衙門を設置し、日本から教官を迎えて様式軍隊を編成したり、近代的な政治制度や技術習得のために日本に朝士視察団、清国に領選使を派遣したりしました。朝鮮国内では『朝鮮策略』に対して反対運動が起こりましたが、開国・開化路線を固めた閔氏政権はこれを押さえつけました。

清国の李鴻章は、朝鮮国王から交渉に仲介を依頼されたという形をとって、アメリカ側と条約締結交渉を進め、1882年5月、米朝修好通商条約が調印されました。さらにイギリス・ドイツ・ロシア・フランスとも同様の条約を結びました。

李鴻章は、伝統的な宗属関係を国際的に認めさせるため、朝鮮は清国の属国であり、その内政・外交は自主であるという内容の条文を設けようとしました。しかし、これはアメリカ側の反対にあい、李鴻章は同じ内容の書簡を朝鮮国王からアメリカ大統領に送らせることによってこれに代えました。朝米条約を契機に、これまでの清国との宗属関係と、日本や欧米列強国との条約関係が併存することになりました。

開化派と甲申政変

閔氏政権の開国・開化政策にともない、開化派が形成されました。朝鮮王朝後期の実学や清国からもたらされた書籍によって西洋の事情などを学び、外交使節や留学生として海外に渡航し近代西洋文明を吸収しました。
開化派は、清国の宗主権が強化されると二つの派に分かれました。一つは、閔氏政権の内部で清国との宗属関係を基軸に内政・外交の実務を担う穏健開化派で、もう一つが、清国との宗属関係を破棄し、さらに閔氏政権の打倒をめざす急進開化派で、日本の維新をモデルに朝鮮の富国強兵を試み、日本からの資金導入、日本への留学生派遣などをおこないました。

1884年12月、金玉均らは日本公使館守備隊の兵力を借りてクーデターをおこし、閔氏政権の要人を殺害して新政府を建て、清国との宗属関係を破棄、門閥によらない人材登用、税制・軍制の改革などを内容とする政策方針を作成しました(甲申政変)。ところが、閔氏政権の要請によって清国軍が出動すると、日本公使館守備隊は撤退し、新政府は間もなく倒れました。

清の宗主権強化と朝露密約

甲申政変によって朝鮮をめぐる日清の対立が深まると、日清は一時的妥協をはかって天津条約を結び、両国は朝鮮から軍隊を撤退することにしました。ところが、この条約の締結直前に、イギリスの極東艦隊が、ロシアの大平洋艦隊に対抗するため、巨文島(コムンド)を占領するという事件が起きました(巨文島事件)。朝鮮政府はイギリスに抗議しましたが、イギリスとロシアの調停を行ったのは、清国の李鴻章でした。

一方、朝鮮国王の高宗は、甲申政変の直後から、日本と清国を牽制するためにロシアへの接近を試みていました。高宗はドイツ人顧問のメレンドルフを通じて、ロシアから朝鮮への軍事顧問派遣の約束を取り付けました。しかし、この密約が露呈すると、李鴻章はメレンドルフを解任するとともに、高宗や王妃閔氏の一族を牽制するために大院君を帰国させました。そうして袁世凱を宗主国の代表として漢城に駐在させ、朝鮮国王・政府を指導させることにしました。

ところが、高宗は再びロシアと秘密交渉を進め、ロシアは朝鮮が独立国であることを認め、有事の際に朝鮮に軍隊を派遣することを求めました。ロシアへの接近を阻止された高宗は、さらに他の欧米諸国への接近によって、清国の宗主権強化に対抗しようとし、1887年、駐米全権公使とヨーロッパ五か国兼任の全権公使を任命しました。李鴻章は、はじめは全権公使の派遣に反対しましたが、結局朝鮮側の要請を容れ、清国公使の格下として行動することなどを条件に全権公使派遣を許可しました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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9 朝鮮時代後期

日本の侵入

1592年4月、朝鮮半島南端の水軍基地釜山鎮の兵士たちは、目の前の海面を埋め尽くすような日本軍船の大軍を発見して驚愕しました(文禄の役)。豊臣秀吉の命令を受けた日本軍十数万の侵入です。この事件は、朝鮮王朝が滅亡の淵にたたされた、王朝開始以来最大の危機でした。朝鮮王朝はすでにその危機を察知し、その前年、外交使節(通信史)二人が秀吉と会見させて情勢を探らせていましたが、その時点では差し迫った危機的状況にはないと判断していました。この間に準備を進めていた秀吉は、明を侵攻するための通路を開く(仮道征明)という理由で朝鮮に軍を進める決定をしました。佐賀県唐津の北方、玄界灘に面した名護屋の地に設営された本営(名護屋城)に諸大名の軍勢を集め、一挙に軍を進めていきました。

防備の整わない朝鮮に対して日本軍は釜山鎮と東莱府城を攻め落とし、さらに要衝蔚山(ウツザン)などを撃破して進撃を続けました。翌月には加藤清正と小西行長の舞台が首都漢城(ソウル)に突入し、さらに北上して小西行長隊は平壌をも占領下におきました。加藤清正隊はかん鏡道の北端まで軍を進め、こうして朝鮮半島の広い地域が日本軍に踏破されていきました。

国家軍が壊滅するなか、慶尚道など各地で儒者を中心として朱子学の義を奉じた義兵が立ち上がり、抵抗運動の先頭に立ちました。朝鮮政府の要請に応じて明の救援軍が駆けつけると日本軍は後退を始め、1593年初めには平壌から撤退していきました。このころになると朝鮮政府も陣容を建て直し、明軍と協力しながら反撃に転じます。

日本軍は1593年4月には漢城を引き上げて大部分が日本に撤兵し、いったん戦争は終結するに思われました。しかし、明の使節を招じて大坂で行われた講和交渉は失敗に終わり、秀吉は1597年、全国の大名に対して再度、朝鮮への侵攻を命令しました(慶長の役)。今回は朝鮮側の防衛体制も整い、明の救援軍も早くから投入されたうえ、日本軍自体に嫌戦気分も高かったため、戦闘は全土に広がらず、南部地方に留まりました。李舜臣(リシュンシン)の率いる朝鮮水軍が全羅道南部(半島西南)の海戦で大勝利をあげ、秀吉の死去したこともあって日本軍はさしたる戦果もあげないまま、ようやく1598年11月に完全撤退を完了しました。この足かけ七年にわたる戦争は朝鮮に大きな被害を与えました。土地が荒れ果てただけでなく、多くの人々が死傷しました。

捕虜として日本に連れ去られた人々も数万に上りました。そのなかには、多くの陶工が含まれており、佐賀県の有田など各地で陶磁器生産に従事して日本の陶磁器産業の基礎を築きました。また、松山に連れてこられた儒学者姜沆(きょうこう)がその学識によって日本の人々に大きな影響を与えるなど、この戦争によって朝鮮から日本に伝わったものは少なくありません。一方、戦争のさなか、王宮である景福宮などが焼失し、漢城は荒廃してしまいました。

清の侵入

救援に駆けつけた明の被害も甚大でした。多大な軍事費負担が圧力となって国力の衰退を招き、明軍が朝鮮半島に進駐している間に、北京の東北(現在の中国東北地方)では、女真人の勢力が台頭してきました。交通ルートの結節点を抑えていた女真人は交易によって多大の利潤を上げ、大きな軍事力も蓄えていました。ヌルハチは諸勢力を糾合して後金(のちの清)を建国して明に圧迫を加えてきました。後金は明と戦いながら朝鮮にも軍を進め、服属を迫ってきました。宣祖の後を継いだ光海君は、明と後金との間で慎重な外交政策をとっていましたが、1619年、今度は明の要請で参戦し、後金軍に大敗してしまいました。これ以後、光海君は後金との衝突を回避する政策をとるようになります。

1623年、光海君の後を継いだ仁祖は、明と協力しつつ後金と対決する方向へと政策を転換しました。1627年、後金軍が朝鮮半島に侵入してきましたが、和議が成立し、朝鮮と後金は兄弟関係を結ぶことで事態は沈静化しました。しかし、その後も朝鮮が明との協力関係を継続していたため、1636年、ホンタイジの率いる後金がこの年に国号をと改め、大軍が再度攻撃してきました。漢城を占領され、抵抗した仁祖も翌年初めに降伏し、朝鮮は清の冊封を受ける臣属国となりました。また、ついに1644年、首都北京が清の攻撃で陥落し、300年近く続いた明王朝は崩壊してしまいました。

朝鮮の対外関係

16世紀末から17世紀前半にかけての戦乱が終息すると、朝鮮は中国・日本と平和で安定した関係を結びました。
朝鮮王朝は早くから、外交関係を重視していました。通訳養成所として司訳院を設置し、漢学(中国語)・倭学(日本語)・女真学(満州語)・蒙学(蒙古語)の教育が行われました。卒業生は合格すると訳官として政府に採用され、外交の第一線に立ちました。
朝鮮政府にとって最大の外交相手は柵封を受けた清で、1637年以来、歴代の国王は藩属国の君主として清皇帝から「朝鮮国王」に柵封され、元号も清皇帝の名を使っていました。漢城から燕京(北京)には毎年多くの朝貢使節が派遣され、その回数は500回ほどになります。国境の鴨緑江の江界には開市とよばれる交易場が設けられ、牛・毛皮・薬用人参などの取引が行われました。

豊臣秀吉の侵攻を受けた日本との関係は複雑です。朝鮮政府はとりたてて江戸幕府との交流を望んでいたわけではありませんでしたが、両国の間にあって古くから仲介貿易を経済基盤としてきた対馬の人々の多大な努力により、政治関係・経済関係とも戦前に復することになりました。1607年、宣祖は、徳川家康から送られてきたとされる手紙(国書)に対する回答の伝達と、戦乱のときに捕虜として日本に拉致された人々を調査して帰国させることを名目として、外交使節を派遣しました。のちに1631年、国書は対馬が偽造したものであることが判明し、大事件となりましたが、江戸幕府は対馬の責任を不問に付し、両国の関係は継続しました。1636年以降は、台頭の外交である「交隣」を取り結ぶために使節は「通信使」を称するようになりました。派遣された外交使節は、1811年の最終回までに約200年間で12回ありました。一方で、日本側の外交は対馬に委任されており、江戸幕府の外交使節は一度も漢城に派遣されることはありませんでした。

東莱に設けられた倭館には対馬の役人が常駐して交易を行っていました。倭館は広さ約10万坪、常駐する人員は400人以上にのぼりました。1609年、朝鮮政府は対馬の大名宗義智に交易権を認める権利を締結し、年間に往来する交易船の数などを規定して、この締結は1872年まで機能しました。朝鮮は薬用人参・米・木綿など、日本は銀・銅などを主要商品としており、その取扱高は長崎の出島貿易を凌駕するものでした。銀は中国に再輸出され、清の銀本位体制を支えるとともに、貿易の決済手段としても使われ、遠く西アジアからヨーロッパにまで運ばれていきました。

新たな時代の到来

18世紀末になると、北京経由で朝鮮にも天主教(カトリック)が入ってきました。正祖政権はこれを邪教として禁止し信者を弾圧しました。この政策は19世紀にも継続され、多くの殉教者が出ました。いよいよ朝鮮にも西洋との接触が本格化してきたのです。

正祖のあとを受けて1800年、純祖が第23代国王に即位します。わずか十歳で、政治の実権は母である正祖妃がにぎりました。純祖が15歳を過ぎて自立し、国王として動き始めたころ、母の父である老論時派に属する金祖淳が僻派を倒して主導権を握り、出身氏族である安東金氏一門が国王の外戚として政権の要職を占めていきました。このような政治形態を世道(勢道)政治といいます。純祖以降もあいついで王妃を出した安東金氏一門は権力の座を保持しました。

しかし、このような世道政治による権力集中に不満を募らせた地方有力者たちが、貧しさにあえぐ農民たちを巻き込んで、ついには1811年、平安道博川で政治に対決する反乱が起こりました。政府はこれを基盤を揺るがす重大事と受け止め、大軍を送って翌年壊滅させました。

これ以後も、さまざまな不満が暴動となって噴出してきます。漢城でも米価をつり上げた商人が襲われる事件が起きます。1862年、慶尚道晋州で起きた反乱は三南(忠清・全羅・慶尚)一帯に広がりました。この年の干支をとって壬戌民乱といいます。やがて済州島など各地に広がり、朝鮮は騒然としたなかで「開国」前夜を迎えていました。この動きは、さまざまな身分・職業をもつ人々が参加し、社会の矛盾とそれに根ざす不満が多様化していました。

社会変動と国家財政

日本・清軍の侵入をへて、17世紀の韓国朝鮮社会は深刻な状態にありました。農地が荒廃し、農民が死亡したり逃亡したりしてノン尊社会は大きな変動期を迎えていました。その影響を受けたのが、農業生産物からの税収に頼っていた政府の財政運営でした。それに加えて、戦乱による支配機構の混乱によって農地・農民の把握が困難となり、財政は危機的状況を迎えていました。

王朝創設以来、国家財政は、主として農民たちが生産物に賦課される田税で、大豆で収めるものでした。政府では税制改革が必要不可欠だと認識されるようになり、その第一歩が大同法の実施でした。邑ごとに収める貢納を、農地の広さに応じて定率制で米・銭を納入するようにしたもので、地代のようなものです。

しかし、建国以来はじめての大税制改革となる大同法は大きな抵抗があり、全国的に施行されるには100年という時間が必要でした。

経済の変動

水利施設の発達と農業技術の改良により、17世紀半ばには早くも戦乱の痛手から立ち直り、農業生産力は戦前の水準をこえはじめました。なかでも水稲耕作の発展が顕著で、田植え法が全国に広まり、南部の二毛作の普及とあいまって食糧供給が安定しました。綿花・麻・薬用人参・たばこなど商品作物の栽培も活発となり、それらを利用する農村手工業もおこって、綿布・麻布などが広く流通し、中国・日本にまで輸出される国際商品となりました。

大同法は漢城を中心とする流通経済に大きな刺激を与えましたが、農業発展も全国の商業に変化をもたらしました。地方住民が必要物資を入手する場として場市(市場)が各地に出現し、五日ごとに開かれる定期市になって、しだいに地域ごとにネットワークを形成していきました。

商品流通が活発化すると、交通の要衝や漢城には旅閣・客主とよばれる中間業者があらわれました。商品の委託販売や倉庫業をおこないながら、行商人などに宿泊施設も提供していました。貨幣もしだいに銅銭「常平通宝」が広く流通するようになり、貴金属の高額貨幣は、丁銀など、倭館貿易を通じて日本から流入した銀貨が流通しました。また大量の取引や遠隔地の取引には手形の一種である「於音」が用いられました。

常設店舗「市塵(してん)」は、漢城のほかに平壌、開城(ケソン)、水原(スウォン)のみにありました。漢城の市塵は、景福宮前の大路との交差点から東大門(トンデモン)までの両側と、一部は南大門(ナンデモン)に向かう幹線道路にも店舗を並べました。市塵はさまざまな国家義務を負担することを条件として認可を得て、特定商品を専売品として独占販売する権利を持つ商人組合でした。

身分と社会

人々は法律的には良民と賤民の二つに分けられ、良民男子は軍役など国家に対する義務を負担する一方、科挙受験の権利を持っていました。賤民の大部分は主人に所有される奴ひで、15世紀後半には良民を主人とする私奴ひが、全人口の80~90%を占めたという証言があるほど奴ひの人口が多かったのです。

伝統と歴史に根ざした序列があり、法的身分とも連動していました。地域によって違いがあるものの、おおむね最上位に士大夫の族として士族があり、以下、一般良民で官位・官職をもつ者、郷吏、一般良民、賤民という序列が成立していました。漢城には代々、科挙の雑科を通じて通訳・医師などの技術官僚となる家系の人々がおり、中人とよばれました。士族は、儒学を身につけることで立派な人物と認められ、科挙に合格し、官僚(両班)になって国家経営を担っていく母体と考えられていました。

人口の多くを占めていた一般良民(常民)は、賤民とともに農業などの生産活動を行っていました。良民と賤民の間の壁は低く、身分を超えて結婚する人々も多くありました。そのことが良民の数を急速に増大させていきました。

社会の変容

17世紀になると、急速に賤民数が減少して良民が増加します。18世紀になると、士族と同様に役を免除される人々が増加します。同じ父方祖先から出発したと考える人々(氏族)は強い血縁関係をもち、始祖の本拠地である本貫と、姓を同じくする意識が士族層以外の身分層にも広がり、18世紀末には、住民たちの大多数が本貫と姓をもつようになり、なかには族譜のなかに入り込んで士族の末裔を称する者まで出るようになります。人々は社会のなかで生き抜いていくため、自分の基盤を固めるつながりを模索して、氏族にたどりついたといえるでしょう。(例:金海金氏)

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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【日本神話】4.日向神話3/3 「ウガヤフキアエズの誕生」・「神武東征(東行)」

6.ウガヤフキアエズの誕生

地上の世界に帰ったヤマサチヒコは、海の神様に教えられた通りに、釣針を投げて返しました。お兄さんのウミサチヒコは怒って受け取らず、困ったヤマサチヒコは魔法の瓊(たま)を取りだしました。すると海の波がザブンザブンとやってきてウミサチヒコをおぼれさせました。海におぼれるウミサチヒコは「私が悪かった。これからは何でもいうことを聞くから、どうか助けてください。」とヤマサチヒコに頼みました。ヤマサチヒコはもう一つの魔法の瓊(たま)を取り出しました。すると、波がスーッと引いてウミサチヒコはおぼれずにすみました。

ウミサチヒコが何でもいうことを聞くようになったので、ヤマサチヒコは安心してトヨタマヒメのための部屋造りを始めました。ところが、全部完成しないうちにトヨタマヒメがやってきて「もう産まれそうだ。」といいました。そして「私が赤ちゃんを産むときに、絶対に見たりしないでください。」と頼んで、部屋の中に入って行きました。ヤマサチヒコは、初めは約束通り外で待っていたのですが、だんだん我慢ができなくなって、とうとう部屋の中を覗いてしまいました。すると、なんとそこには赤ちゃんを産んでいる大きな鰐(ふか)がいたのです。ヤマサチヒコに本当の姿を見られたトヨタマヒメはとても悲しんで、産まれたばかりの赤ちゃんを残して海の世界に帰っていってしまいました。ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトと名付けられた赤ちゃんは、トヨタマヒメの妹のタマヨリヒメが育てることになりました。

大きくなったヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトは自分を育ててくれたタマヨリヒメと結婚しました。そして二人には、ヒコイツセノミコト・イナヒノミコト・ミケイリノノミコト・カムヤマトイワレビコという四人の子供ができました。

7.神武東征(東行)

ヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコトとタマヨリヒメの四人の子供たちはやがて大人になりました。ある日、カムヤマトイワレビコは兄弟と話し合いました。「私たちの祖先は、この日本をより良い国にするためにこの地上に降りてきて頑張ってきた。しかし、この日本には私たちの知らない場所がまだあります。塩土老翁は『東の方角がよい』という。みんなで力を合わせて東の方に行って、この日本全体の中心となるような場所を作り上げよう。」

そうして四人は、海を渡ったり山を越えたりしながら、何年もかかって東の方角を目指しました。長い長い旅の途中では、戦いをしなければならないときもあり、目指していた場所にたどり着いたときにはカムヤマトイワレビコただひとりになっていました。
ようやく目指していた場所にたどりついたカムヤマトイワレビコは、そこでも最後の戦いをしなければなりませんでした。しかし、もう自分を守って一緒に戦ってくれる兄弟はいません。「もう勝てない。」と思ったとき、急に空が真っ黒になり、ピカピカに光る金色の鵄(トビ)が飛んできてカムヤマトイワレビコの弓の先にとまりました。この金色の鵄があんまりにも光るので、敵は眩しくて目を開けることができず戦うことができなくなりました。

こうして最後の戦いに勝ったカムヤマトイワレビコは橿原(奈良)という場所を日本の中心とし、そこで日本で初めての天皇(神武天皇・ジンムテンノウ)となり、より良い日本国のために働きました。

■考察 日向神話と現代

人間は生きていく上で、生と死という重大事をはじめ、人間の存在を問うさまざまな問題をかかえています。

それは古代の人にもわからない、また現代の人にも今もって答えられないものが多い。我々はそのような問題をかかえながら人間の歴史を生きています。
日向神話のなかで、古代のひとびとは疑問に思ったこと、不思議に思ったさまざまなことに答えを出そうとします。いくつかの例をあげてみよう。

(1)人にはなぜ死があるか

生あるものには必ず死があります。なぜ死があるか。これはいまだに古代人も現代人も解きえない問題です。この問題にとりくんだ古代人は、神話のなかで、美醜に迷った神の仕業と考えた。  地上に天降ったニニギノミコトは、クニツ力ミノムスメであるコノハナサクヤヒメを見染めて、結婚をクニツカミの父神に申し込んだ。父神は姉ヒメでシコメ(醜女)ではあるが、永遠に続く生命をもった大地の象徴であるイワナガヒメをもさしだすことを申し出た。ところがニニギノミコトは美しいコノハナサクヤヒメだけを選んだ。コノハナサクヤヒメは、春には花が咲きほこるが、やがてはかなく散って行く限りある生命の象徴であった。

クニツカミの父神は、ニニギノミコトの選択を大変なげいた。ミコトとコノハナサクヤヒメの間に生まれてくる神々や人皇たちは、生あるものは必ず死を迎えるという有限の生命をもってうまれてくることになった。不老長寿の願いは今もって人間の大きな関心事です。

(2)疑心と嫉妬は人の性である

疑心と嫉妬は人間の醜悪な性(さが)です。
ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメは一夜にして身ごもった。ミコトはいくら私がアマツカミであっても一夜をともにしただけで身ごもるとは、自分の子供ではないのではないかと疑念をもった。このことを大変悲しんだヒメは、出口のない産屋に入り、火を放って無事に出産することで身のあかしをたてた。

疑心と嫉妬は人間の世界では絶えることがないが、これに対処する方法も決め手もなく、いつの世にも悩みはつきない。古代の人々は、人間の能力を超えたところにその解決をもとめた。

(3)好奇心と海陸での生活

トヨタマビメはホオリノミコトのミコを生むために、鵜の羽の産屋を作りはじめた。それが終わらないうちにミコが生まれそうになった。そのときヒメはホオリノミコトに「子を生むときは私の身は本国(ワダツミの世界)の姿になるので見ないでください」と頼んだ。

見るなといわれれば、どうしても見たくなる。ふしぎに思って覗いてみると、8丈もある大きな鰐がのたくっていた。トヨタマビメは本姿を見られたことを恥じて海への道をふさいで海宮に帰った。

人間は未知のものに対する大きな好奇心を持っています。見るなといわれれば見たくなる。それに対して自制できない弱さをも持っています。

また人間はどうして海で生活できないか。どうして海と陸の間で往来ができないのか、というのも古代の人々以来の課題です。古代の人々は好奇心に駆られ自制できなかったアマツカミの末孫である人間に、ワダツミノカミが道を閉ざしたからだとした。

霧島神宮 (1995参拝)

鹿児島県霧島市霧島田口2608-5
主祭神:ニニギノミコト天饒石国饒石天津日高彦火瓊瓊杵尊
コノハナサクヤヒメ(木花咲耶媛尊)
ヒコホホデミノミコト(彦火火出見尊)
トヨタマヒメ(豊玉媛尊)
ウガヤフキアエズノミコト(??草葺不合尊)
タマヨリヒメ(玉依媛尊)
別表神社

御由緒:欽明天皇の時代、慶胤(けいいん)なる僧侶に命じて高千穂峰と火常峰の間に社殿が造られたのが始まりとされる。実際の所は高千穂峰に対する山岳信仰から始まった神社であろう。

高千穂神社(たかちほじんじゃ)

宮崎県西臼杵郡高千穂町
主祭神 高千穂皇神 十社大明神
国史見在社論社・旧村社・別表神社
引用:宮崎県 「民話と伝承」

■日本神話

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【日本神話】 第3巻「出雲編」 第2章 因幡の白ウサギ

出雲大社 大国様と白うさぎ像

出雲の国にだいこくさま(大黒様)という神様がいらっしゃいました。その神様はおおぜいの兄弟があり、その中でもいちばん心のやさしい神様でした。
「因幡(いなば)の白ウサギ」で有名な大黒様は、このオオクニヌシ(大国主)ノカミ(大国主神)のことをいいます。

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオの孫の孫の孫、つまりスサノオから数えて6代目にオオクニヌシ(大国主)が誕生しました。

たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシ(大国主)は出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシ(大国主)は心やさしき神として成長していきました。

ある日のこと、オオクニヌシ(大国主)の兄たちは、美しいことで評判のヤカミヒメ(『古事記』では八神上売・八上比売)という美しい姫が いるという噂を聞き、みんなでプロポーズしようと、出雲から因幡(いなば・今の鳥取県東部)の国に向けて出かけました。 オオクニヌシ(大国主)も兄たちの家来のように荷物持ちとして、大きな袋をかついで一番後ろからついて行きました。

兄弟たちが気多の岬(けたのみさき)という海岸を通りかかったときのことです。 全身の皮をむかれて真っ赤になった白ウサギが泣いているではありませんか。

おなじみの「大きな袋を肩にかけ、大黒様が来かかると、そこに因幡(いなば)の白ウサギ、皮をむかれて赤裸」という童謡の場面です。そして、その気多の岬(けたのみさき)が現在の鳥取県白兎海岸(はくととかいがん)だといわれています。

隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思っていました。 しかし、船もありません。 そこでワニ(シュモクザメとされる)をだまして渡ることを思いついたのです。

海岸にいたワニに、自分の仲間とワニの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。 そして、ワニの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 ワニをだましたことをしゃべってしまいました。

さあ、大変!白ウサギは怒ったワニにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまったのです。

白兎神社前 鳥取市白兎592

兄弟たちはそのうさぎに意地悪をして、海水を浴びて風にあたるとよいと嘘をつきました。

そのうさぎはだまされていることも知らずに、言われるまま海に飛び込み、風当たりのよい丘の上で風に吹かれていました。

そうしていると海水が乾いて傷がもっとひどくヒリヒリ痛みだしました。

前よりも苦しくなって泣いているうさぎのところに、後からついてきただいこくさまが通りかかりました。

それから、私が痛くて泣いていると先ほどここを通られた神様たちが、 私に海に浸かって風で乾かすとよいとおっしゃったのでそうしたら前よ りもっと痛くなったのです。

オオクニヌシ(大国主)(大黒様)はそのうさぎを見てどうして泣いているのかわけを聞きました。 そのうさぎは言いました。

わたしは隠岐の島に住んでいたのですが、一度この国に渡ってみたいと 思って泳がないでわたる方法を考えていました。するとそこにワニがきたので、わたしは彼らを利用しようと考えました。

わたしはワニに自分の仲間とどっちが多いかくらべっこしようと話をも ちかけました。

ワニたちは私の言うとおりに背中を並べはじめて、私は数を数えるふり をしながら、向こうの岸まで渡っていきました。

しかし、もう少しというところで私はうまくだませたことが嬉しくなっ て、つい、だましたことをいってしまいワニを怒らせてしまいました。そのしかえしに私はワニに皮を剥かれてしまったのです。

大黒様はそれを聞いてそのうさぎに言いました。 かわいそうに、すぐに真水で体を洗い、それから蒲(かま)の花を摘ん できて、その上に寝転ぶといいと教えてやりました。

そういわれたうさぎは今度は川に浸かり、集めた蒲の花のうえに、静かに寝転びました。 そうするとうさぎのからだから毛が生えはじめ、すっかり元のしろうさぎに戻りました。

そのあと、ずい分遅れて大黒様は因幡の国につかれましたが、八上比売(やかみひめ)が求められたのは、大黒様でした。

大黒様に言われた通りにした白ウサギは、やがて元に戻り、親切なオオクニヌシ(大国主)に心から感謝しました。

童謡・大黒様の歌の中の「大黒様の言う通り、きれいな水に身を洗い、ガマの穂わたにくるまれば、ウサギは元の白ウサギ」。

白兎神社 鳥取市白兎592

このあと、大国命は出雲にやってきた八上比売(やかみひめ)と結ばれたのでした。

有名な童謡のシーンです。

2009/09/06

引用:出雲大社公式ページ「神々の国 出雲」
社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課

因幡の白うさぎの意味は?

ヤマタノオロチを退治して一躍ヒーローになったスサノオノミコトの孫の孫、つまりスサノオノミコトから数えて6代目にオオクニヌシ(大国主)ノカミが誕生しました。

たくさんの兄弟の末っ子としてオオクニヌシ(大国主)は出雲に生まれ、出雲に育ちましたが、何かにつけてお兄さんたちからいじわるな仕打ちを受けていました。 しかし、そんな兄たちのいじめにも負けず、オオクニヌシ(大国主)は心やさしき神として成長していきました。-隠岐の島にいた白ウサギは、なんとかして向こう岸に渡りたいと思って、海岸にいたサメに、自分の仲間とサメの仲間とどちらが多いか比べてみようと声をかけ、向こう岸までサメを並ばせました。そして、サメの数を数えるふりをして背中を渡って行ったのです。あと少しで岸に着くというときになって、白ウサギも油断したのでしょう。 サメをだましたことをしゃべってしまいサメにつかまって、全身の皮をすっかりはがされてしまいます。

これは、隠岐の島を治めていた白兎に例えられる豪族が、因幡を攻めようとして失敗し、オオクニヌシ(大国主)が助けて隠岐の島を穏やかに平定したのち、プロポーズした兄たちには見向きもせず、オオクニヌシ(大国主)ノカミを夫に選んだ因幡の八上比売(やかみひめ)はウサギが予言したとおりオオクニヌシ(大国主)はヤガミヒメを得ます。これは隠岐の豪族が穏やかに因幡にオオクニヌシ(大国主)と協力せよと伝え、隠岐・因幡を平定したということではないでしょうか。

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【日本神話】4.日向神話2/3 「海幸・山幸」・「海宮遊行」

4.海幸・山幸

火の中から産まれてきた三人の子供のうち、お兄さん(ホノスソリノミコト)は海で釣りをするのが上手だったのでウミサチヒコと呼ばれ、弟(ヒコホホデミノミコト)は山で狩りをするのが上手だったのでヤマサチヒコとよばれました。

ある日二人は「取りかえっこしてみよう。」と話して、ウミサチヒコは山に狩りに行き、ヤマサチヒコは海に釣りに行きました。しかし、二人とも何にも捕まえられませんでした。それに、ヤマサチヒコはお兄さんから借りた釣針を海でなくしてしまって困っていました。

ヤマサチヒコは自分の刀をこわして沢山の釣針を造って「これで許してください。」と一生懸命謝りましたが、お兄さんは「なくなったあの釣針じゃないとだめだ。」と許してくれません。

5.海宮遊行

どんなに探しても釣針を見つけられないヤマサチヒコが困っていると、おじいさん(シオツチノオジ)がやってきて「どうしてそんなに困っているのですか。」と聞きました。ヤマサチヒコがわけを話すと、あっという間に船を造り、「この船で海の世界に行きなさい。」といいました。

ヤマサチヒコはおじいさんの言う通り、その船に乗って海の底深くに潜っていきました。

さて、海の世界に行ったヤマサチヒコは、海神の宮という家の前にある大きな木の上に登っていました。そこは海の世界を守っている神様(ワタツミ・トヨタマヒコ)の家でした。

すると、そこに井戸の水を汲もうとしたトヨタマヒメがやってきました。木の上に人がいるのを見てびっくりしたトヨタマヒメは急いで家に帰って

「井戸に水を汲みに行ったら、そばの木の上に男の人がいました。その人はとても立派なお顔をしていて、きっととても偉い人だと思います。」と両親に話しました。

海の神様が「あなたはどなたですか。」と聞いたので、ヤマサチヒコは「私は天から降りてきた神の子供です。」と答えました。

海の神様は、ヤマサチヒコをとても大切なお客様として、たくさんのご馳走や踊りを披露したりしてもてなしました。それからしばらくしてヤマサチヒコはトヨタマヒメと結婚して、海の神様の家で一緒に暮らしていました。

ヤマサチヒコが海の国に来て三年がたちました。ときどき「はあ」と溜め息を吐くヤマサチヒコをみてトヨタマヒメが「ひょっとしてあなたは自分の家に帰りたいのですか。」と聞くと、ヤマサチヒコは「その通りだ。」と答えました。そこでトヨタマヒメは父親に、ヤマサチヒコは帰りたいといっていると相談をしました。

娘から話を聞いた海の神様は、ヤマサチヒコが探しているお兄さんの釣針をみつけてあげようと、海の世界の全部の魚を集めました。すると魚たちが「鯛が口が痛いと言って来ていません。」というのでその鯛を呼び出して口の中をみるとヤマサチヒコの針が刺さったままになっていました。

そして、この針を海の神様が取ってあげました。
さあ釣針が見つかったので、これでお兄さんに返すことができます。地上の世界に帰ろうとしているヤマサチヒコに向かってトヨタマヒメが言いました。「もうすぐあなたの赤ちゃんが産まれます。赤ちゃんを産むときにはあなたの所に行きますので、家を造って待っていてください。」そして、ヤマサチヒコは、釣針と海の神様からもらった二つの魔法の瓊(たま)をもって、地上の世界に帰っていきました。

引用:宮崎県 「民話と伝承」

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【日本神話】4.日向神話1/3 天孫降臨(てんそんこうりん)

■日向神話の構成

日本神話の中心は古事記・日本書紀にみえる神話です。この2つの書の神話は必ずしも同じではないが、全体としては1つの筋をもっていて、日本国と皇室の創生の物語が中心となっています。その物語の舞台は3つあります。日向と大和、そして出雲です。

出雲の場合は大方が独立した物語で展開します。それに対して、日向と大和の場合は、天・地・海の神の世界から日向へ、日向から大和へと連続した物語として展開します。

このように2つの書は、内容上は、大きくは「神の世界の物語」から「日向での神と人との物語」そして「日向から大和の人」の物語へと展開します。
なかでも注目されるのは、日向を舞台とした「神」の世界から「神と人」の世界として展開し、それは「日向三代神話」とよばれています。

それはアマツカミ(天神)「ニニギノミコト」の御代の
「天孫降臨」
「コノハナノサクヤビメの結婚」
「火の中の出産」
アマツカミ(天神)「ホホデミノミコト」の御代の
「海幸・山幸」
「海宮遊行」
アマツカミ(天神)「ウガヤフキアエズノミコト」の御代の
「ウガヤフキアエズの誕生」
それに神武天皇の
「神武東征(東行)」

以上7つの物語が主たる内容になっています。そしてその物語の展開は、アマツカミ(天神)とその子孫がクニツカミ(地神)のヒメ神と、さらにはワタツミノカミ(海神)のヒメ神と結婚し、人皇であるカムヤマトイワレビコノミコトが誕生するという構成になっています。これは、アマツカミ(天神)によるクニツカミ(地神)とワタツミノカミ(海神)の統合の上に人皇初代が生み出されたという古代の人々の考えが表わされていて、これが日向を舞台としている神話の特色です。

なぜ古代国家のなかでも、都から遠くはなれた僻遠の地にある日向が、これらの物語の舞台になったのであろうか。それは一口でいえば、この物語が創りだされる時代に、日向が朝廷と深いかかわりを持っていて、日向を無視できない事情があり、また物語の展開の上で最もふさわしい土地とみられる要素があったことが考えられる。歴代天皇にかかわる日向の女性が物語のなかにしばしば登場するのもそれらを示唆しているものと思われます。

1.天孫降臨

雲の上のまだずっと高くの神様の国で、この日本を造った神様たちがお話をしていました。アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様にいいました。「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」

それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立ったのです。

2.コノハナノサクヤビメの結婚

高千穂に降り立ったニニギノミコトはその近くに家を建てて住んでいましたが、そこでとても美しい女の人に出会いました。ニニギノミコトは、その美しい姫(コノハナサクヤヒメ)と結婚したいと思い、姫の父親にお願いしました。父親は「姫を嫁に欲しいのなら、姉(イワナガヒメ)の方も一緒にもらってくれ。」といって二人の姫をくれました。ところが、ニニギノミコトは美人ではないお姉さんを「いらない。」と家に返してしまいました。返された姫は大変腹をたてて「神様の子も人の子も、生きているものは必ず死んでしまうようにしてやる。」と呪いをかけました。

3.火の中の出産

さて、ニニギノミコトと結婚したコノハナサクヤヒメのお腹には赤ちゃんができました。しかしニニギノミコトがそのことを喜ばなかったので、コノハナサクヤヒメはとても悲しんで、「この赤ちゃんが本当にあなたの子ならきっと生き残るでしょう。」といって自分の部屋に火をつけてしまいました。  メラメラと燃える火の中で生まれてきたのが、ホノスソリノミコト(ウミサチヒコ)・ヒコホホデミノミコト(ヤマサチヒコ)・ホノアカリノミコトの三人です。
引用:宮崎県 「民話と伝承」

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