【韓国朝鮮の歴史と社会】(22) 日中戦争と朝鮮 

[catlist id=8] 大陸兵站(へいたん)基地と植民地工業化

1937年7月、日中戦争が起こると、朝鮮は軍需物資を生産する後方基地となりました。これに先がけ、36年8月に関東軍司令官を経て朝鮮総督に就任した南次郎は、工業化の推進と産業の統制をかかげました。そして、臨時資金調整法を施行して軍需産業に対する資金の重点配分を進めるなど、戦争経済の確立につとめました。

その結果、工業生産額が急増し、1930年代末には農業生産額と肩を並べました。とりわけ重化学工業の成長が顕著で、日本窒素肥料系の企業が多数設立された北部のかん興や興南を中心に工業地帯が形成され、在来の精米業や紡織業を主軸とする京仁(京城、仁川)工業地帯とともに二大工業地帯をなしました。しかし、生産は完成品ではなく部品や半製品が中心であり、一部を除き朝鮮人資本は弱体であるなど、植民地工業化は朝鮮内の有機的連関を欠くものでした。

内鮮一体と皇民化

日中戦争の勃発は、朝鮮における全国的な戦争動員体制の確立を促しました。当時マスコミは未発達だったので、総督府は講演会や時局座談会、紙芝居などを利用して、戦果とその意義の宣伝につとめました。しかし、人々にもっとも身近な情報源は噂話でした。当局はこれを「流言飛語」とみなして取り締まりましたが、根絶は不可能でした。戦争を傍観する態度や日本の敗北を願う気分が蔓延し、動員政策に対する非協力が民衆感情の根底を成していました。それに対して朝鮮人の民族性を抹殺し、天皇に忠誠を尽くす「皇国臣民」とする政策、すなわち「皇民化」政策を徹底する必要を感じました。

そこで唱えられた標語が「内鮮一体」でした。「内地」と「朝鮮」とは一つであり区別はない、という単純な内容でしたが、朝鮮人から自発的な戦争協力を引き出すため、その時々の政策の必要に応じた意味づけがなされました。「内鮮一体」の究極目標は、将来の徴兵制実施に備えて、「皇軍兵士」を創出することでした。しかい、現実には「流言飛語」が飛び交うように目標の達成は困難であり、かつて激しい抗日闘争を展開した経験のある朝鮮人に武器を渡すことに対する不安は、尋常ではありませんでした。したがって、総督府と朝鮮軍(駐屯陸軍)は、徴兵制の実施には数十年の歳月がかかると想定しながらも、「皇民化」の三本柱といわれた、志願兵制度、朝鮮教育令の改定、創始改名の実施を、実施しました。

戦時動員体制

1938年2月、陸軍特別志願兵令が公布されました。志願兵制度は、朝鮮人に武器を与えるテストとしての意味をもち、実施の地ならしの役割をはたすものでした。行政当局は熱心に応募を勧誘した結果、名目は志願ながら強要に近い形をとり、兵志願者訓練所の定員を大幅に上回る応募者がみられました。また、43年7月、海軍特別志願兵令が公布されました。

38年3月に実施された朝鮮教育令の改定は、「内鮮教育の一元化」を唱えて、学校の名称、教科書、教育方針を日本国と同一としましたが、実際には本国以上に徹底した「皇民化」教育が実施されました。また、朝鮮語は必修科目から随意科目へと変更され、事実上の廃止処置がとられました。41年4月には国民学校令が施行され、小学校は国民学校に改められました。しかし、42年でも、就学率は55%、日本語普及率は20%に留まりました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男

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