丹後(京都府北部)の秦氏系神社 1/2

[catlist categorypage=”yes”] 京都府の新羅神社(1)

京都府には北部から南部まで新羅の神々が祭られている。北部では丹後地方、南部は山城地方の宇治市である。南部の京都盆地には「新羅牛頭(ごず)山に座す素盞鳴尊」を祀る八坂神社や新羅系渡来人秦氏とつながりの深い上賀茂神社・下鴨神社がある。

丹後地方は古来、大陸や半島との往来が頻繁にあり、弥生時代には王国があったといわれている。特に弥栄(やさか)町の新羅明神(溝谷神社)は渡来の人々(特に新羅系、或いは秦氏系の氏族)が祭ったといわれる。丹後地方は但馬の出石郡に隣接しているが、出石郡は地理的には丹後の一部であり、新羅の渡来人、天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に濃い。

一、古代の丹後地方

丹後地方は但馬の出石郡(現豊岡市)に隣接しているが、出石郡は地理的には丹後の一部であり、新羅の渡来人、天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に濃い。

丹後地方の東側には舞鶴市や宮津市があり、それらの街を包み込むように若狭湾が広がっている。若狭湾に沿った地域は新羅系渡来人である天日槍や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)など伝承と共に、伊奨諾(いざなぎ)、伊奨冊(いざなみ)神話から始まり、山幸彦(天火明命(あめほあかり))の天降り伝承をもつ冠島や海人(あまべ)族の系図をもつ籠(この)神社(丹後一宮・元伊勢)などがある。

丹後半島は京都府の中で唯一、日本海に面している。縄文から弥生時代にかけての丹後地方は、朝鮮半島と一帯となった連合国家を形成していたと考えられる。当地方の海岸には今でもハングル文字のビンや缶などがたくさん漂着している。半島から流れる海流に乗れば、容易に日本海沿岸に到達できる。

丹後は元々は丹波国であったが、和銅六年(七一三)に分離し、丹波後国、丹後国となった。『和名抄』に、タニハノミチシノリ(田庭道後)とあり、南の大和からみて北側の奥にあるという表現であり、蝦夷に対するような意味であったのかも知れない。

丹波は中国産地の東端にあり、山陰地方の玄関口に当る。平均六百mの高地である。丹波は“たには”といわれ、豊受大神(穀物神)が初めてこの国に鎮座して神饌米を供したことから田庭と書かれたという。また、丹波・谷端とも書かれていたようである。古代の「たには」国は、丹後、丹波、若狭、但馬を含む大国であり、日本海を往来した海人族が大陸文明を取り入れた先進地域を形成していた。古代の「たには」は大和の国より古く、また出雲に匹敵する王国であった(拙者註:むしろ丹波の中心地は丹後(日本海側)だった)。

丹後半島は古代の伝承や説話が多く残っており、古代遺跡も多い。特に天孫降臨と類を同じくする渡来人の漂着神話や伝承は多い。そして、数多く存在する神社は、弥生時代から古墳時代にかけての古代祭祀遺跡や古墳をその境内にもっているものも多い。伝説で有名な神社には、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を探しに来た徐福を祭る新井崎神社(与謝郡伊根町)、浦島と乙姫伝説(『日本書紀』雄略天皇二十二年)が伝わる宇良(浦島)神社(与謝郡伊根町)、更に、羽衣伝説で有名な乙女神社(中郡峰山町)や、矢田、波弥、名木、枳(からたち)の各神社(中郡峰山町)がある。

更に、彦火火出見尊(山幸彦)を祭神とする元伊勢の籠(この)神社(宮津市大垣―雄略天皇が天照大神を伊勢に祀る前には当地に祭られていたという)。天の橋立は当神社の参道である。元伊勢といわれる籠神社の参道は天の橋立であるが、神代の昔、天にあった伊奨諾大神が、地上の籠(この)宮の磐座(いわくら)(太古の斎場)に祭られた女神伊奨冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子(はしご)を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったといわれている。伊奨諾のイザは磯の男、即ち磯(海岸)へ辿り着いた男ということである。アイヌ語では露岩の意味である。渡来伝承の一つと考えられる。

大国主命が沼河姫と共に当地に住んだ時、姫が病に罹った時、少名彦命が治したという伝説に基づく小虫神社、大虫神社(与謝野町加悦(かや)町)。この加悦町は伽耶を意味し、朝鮮半島の人(高天原といわれる)の渡来してきた町である。

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全国的に有名な山城 竹田城


兵庫県朝来市竹田 国史蹟(昭和18年)

JR播但線竹田駅の西方、古城山(標高353.7m)の山頂部
中世山城で全国的にも有名な竹田城は、山陰道と播但道が分岐する交通の要所にそびえ立ち三方が見渡せる。

竹田城門

【竹田城趾の概要】

縄張りが虎が臥せているように見えることから別名「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」と呼ばれる。
また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。

天守台と高見殿(本丸)

標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。
春は東に立雲峡の紅葉を望み、夏は天空に輝く幾千の星を眺め、秋は雲海に浮かび上がる舟の上で、冬は一面雪景色の中で、古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。


南千畳

竹田城の縄張りは、中央の最高峰を天守台とし、周囲に高見殿(本丸)、平殿、奥殿、天守台北西部に花殿を配し、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、さらに鳥が両翼を広げたように、その南北の端をそれぞれ南千畳、北千畳が置かれている。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。


北千畳

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
天と地と(1990年公開の映画)- 城をセットとして春日山城を再現した上、ロケ地として使われた。
魔界転生(2003年公開の映画)- 城をセットとして原城再現した上、ロケ地として使われた。

歴史・沿革


二の丸

但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設された。 築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441 – 43年)と伝えられる。当初は土塁造りの城郭であったが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となった。

修復には13年の年月を要し、賦役のため農民は「田に松が生えた」ほどの困窮に陥ったり、村中が夜逃げするところもあったと伝えられる。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。

山名氏のもとでは山名四天王の太田垣氏が配された。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に撃退した。しかし、羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により落城。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえた。

その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となるが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となる。

最後の城主である赤松広秀(斎村政広)は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。


三の丸と櫓
安土城、姫路城と同じ穴太流(あのうりゅう)石積み
石垣は、織田信長がしばしば採である用した安土城と同じ技術穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。山城としての美しさとともに、その縄張り(平面構成)の見事さは全国でも屈指の城郭といえるでしょう。

歴代城主
太田垣光景(1443年(嘉吉3年)~1465年(寛正6年))
太田垣景近(1465年(寛正6年)~1479年(文明11年))
太田垣宗朝(1479年(文明11年)~1521年(大永元年))
太田垣宗寿(1521年(大永元年)~1538年(天文7年))
太田垣朝延(1538年(天文7年)~1570年(元亀元年))
太田垣輝延(1570年(元亀元年)~1577年(天正5年)?)
城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6年)~1580年(天正8年))
桑山重晴(1580年(天正8年)~1585年(天正13年))
赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年)~1600年(慶長5年))

【斎村 政広(さいむら まさひろ)】

永禄5年(1562年)- 慶長5年10月28日(1600年12月3日)

安土桃山時代の武将。父は赤松政秀、母は赤松晴政の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広通・広秀・広英といった。播磨国龍野城、のち但馬国竹田城を居城とした。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。室は宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の妹)。子に次郎右衛門、善右衛門。

1570年に父、その後、兄赤松広貞も相次いで早逝したため家督を継承した。政広の家系の赤松氏は、血統上は本家である赤松義祐の家系(七条流)よりも、むしろ本流の赤松氏であった。織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となった。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられた。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、また、儒学者藤原惺窩に教えを受けるなど、文学人としての一面もあった。姜沆とも交友を持ち、彼の帰国も支援している。
不運な最後

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、細川藤孝の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原で西軍が敗れると東軍に寝返って、西軍に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めた。しかし、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。ただし、この焼き討ちは政広に寝返り促し、鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策(焦土戦術)であり、実行した政広一人に罪を擦り付けたとする説が強い。また西軍から東軍に寝返った大名では唯一の死亡者である。

因みに斎村姓は、父の政秀の死後、一時避難をしていた才村(又は佐江村)に由来する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水嶋 元 『残月―竹田城最後の城主、赤松広英』東洋出版(拙者の小学校の恩師です)
火坂 雅志『壮心の夢 』(文春文庫)
和田山町観光協会

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秦氏などの渡来人と日本の文化

秦氏については以前にも
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_94.html
などで触れたが、渡来人と日本の文化の発展について考えてみる。
ただし、ここでは渡来人とは歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多いので、それ以前に日本列島の先住民である旧石器人や縄文人を除外して定義している。
言うまでもなく、日本列島がアジア大陸から切り離されるまでに日本民族として孤立したものではなく、人類のルーツはみな同じであって、いつごろから先住民がいたかなどは大きすぎる課題でありここではテーマではない。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』(奈良県)は次の三つピークを挙げている。

◎第一波 四世紀末から五世紀初め 応神天皇期

高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。
『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。
後に有力な豪族となる東(倭)漢氏(やまとのあやうじ)の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文氏(かわちのふみうじ)の祖・王仁(ワニ)、秦氏(はたうじ)の祖・弓月(ゆづき)君がいる。

●疑問点

この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。

しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。

宇佐八幡

この神は、北九州の豪族宇佐氏の守護神だったが、応神天皇が八幡神であるとされている。

◎第二波 五世紀後期 雄略天皇期

高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。

倭の五王最後の武王=雄略天皇にいたっては、使持節都督倭・新羅・任那・加羅(伽耶)・秦韓・慕韓(馬韓)六国諸軍事安東大将軍と、いかにも長々しく威厳に満ちたもので日本列島から朝鮮半島までをも支配していたかのような響がある。

ただしこれを言葉通りに受け止めてはいけない。高句麗の南下を食い止めているヤマトの王権に対する、宋側からのご褒美であり、一種の名誉職と言った方がいいかも知れない。しかし、実験を伴わなかったヤマトの王家が、宋から認められたことによって(もっとも実際に活躍していたのは物部氏を中心とする周囲の豪族だっただろうが)増長していった疑いが強い。

雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てた。

須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。

この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。

◎第三波 七世紀中ごろ 孝徳天皇~天智天皇

唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期。

以上、ピーク(集中渡来の時期として)の三つとして記されているが、この他に、
古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと考えられている。彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約3500年前から存在。約6000年前からとする説もある。)、いわゆる弥生時代に繋がっていく。

渡来および帰化系氏族のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。

また一説には五胡十六国時代に前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある(弥生時代の到来)。いずれの説も今後の検証の必要がある。

縄文時代に、山(火山)、瀧、岩、森、などを自然神として磐座(いはくら / いわくら)や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。のちに社を建て、土地の祖先や豪族など人物神を神としても祀るようになったのは、渡来人の秦氏族などは賀茂氏系神社(松尾大社、上賀茂神社、伏見稲荷神社、八幡社など、建築技術や専門職(テクノクラート)によるものと考えられる。

繰り返しになるが、日本列島がアジア大陸から切り離され列島となった。元々日本列島に移動してきた人類は北方、南方、半島、南西島嶼部などから移動してきて、日本民族として形成されたものである。いつごろから先住民がいたかなどは考古学史料に求めれるしかない。

渡来人とは歴史用語として、すでに日本列島に定住していた旧石器人や縄文人からみた4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多いので、それ以前に日本列島の先住民である旧石器人や縄文人を除外してそれ以降に定義している。

しかも定住者は帰化人となって同化し日本民族となる。

◎第四波 戦前~戦後

日韓併合時、半島から働きやって来た人々はいたが、戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。むしろ日本内地では国民徴用令により徴兵・学徒動員などは全国民に課せられていた。

当時は朝鮮・台湾も日本人国籍であって、強制連行されたというのは誤解であり、戦後すぐに朝鮮半島などを放棄するものとなり、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、 北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している。
現在、在日韓国・朝鮮人の総数は約61万人だが、日本国籍が認められなくなった際に、帰国を促しても自由意志もしくは帰る宛がないなどの事情により帰国しなかった人々である。その内、戦時徴用で日本人として日本列島に働きにやってきたとされる正確な人数は245人にすぎない(外務省)。また戦後、密航などでやって来た人々も含まれる。

このような事情はあるものの、日本国内に永住するのであれば、今日帰化は書類上の手続きにより取得できる。当然日本国籍を取得し日本国憲法を遵守することが自然であるのだ。移民国家アメリカなどでは、むしろ国籍を取得するには一定期間を経てアメリカ国民として徴兵の義務(今は志願、奨学金制度)と参政権を得るためにはアメリカ国家に忠誠を誓うことが義務づけられていて、むしろそうした移民国家の方が厳しいのである。
外国人地方参政権とは、法治国家で採用している国はごく少なくあまり類のないおかしな法案である。しかも、年々減少している在日韓国朝鮮特別永住者よりも、年々増加する中国人に対して歯止めが利かなくなる恐れが問題なのである。中国人は帰化しても華人としてチャイナタウンを形成しその国の国民という意識は薄く、持たないケースが多いからである。
強制連行、従軍慰安婦、南京大虐殺等はすべて朝日新聞のでっち上げである。いまだ一切謝罪しない。

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生野城(古城山=いくのじょう)と生野平城

[catlist categorypage=”yes”] 足利三代将軍義満の時代、幕府最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいた。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(武士のトップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていた。

応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである播磨守護赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である京都東山龍徳寺で行っていた。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡した。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであった。これにはいろいろ原因があるとされるが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられている。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいとたびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかった。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまった。

これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」

ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのだ。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようだ。

生野城

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上(古城山)に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれている。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれている。

一方播磨国に引き上げた赤松満祐は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しなかった。

ところが、翌年に突如持貞と義持側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられている。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。

生野平城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられている。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれている。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていた。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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丹後国分寺跡と丹後国府推定地

古代丹波

かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だった。水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に日本海側最大の巨大な三大前方後円墳などが多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある。弥栄町丹波という地名が残る。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。

丹波から丹後へ降格?

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられている。南部の桑田郡(亀岡)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる
籠神社(与佐宮)が元伊勢といわれるように、元丹波なのだが、そういう国名は例がなく、朝廷からの位置関係で分割された場合は吉備のように前・中・後とつけられているのに習ったのだろう。
い。

丹後国府

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。
ただし、「易林本」の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間 (931年 – 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。
今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。
「節用集」(せつようしゅう)とは、室町時代に成立した国語辞書の名称で、当時の書き言葉を語頭のイロハ順に分け、天地・時節・草木・人倫など12前後の意義部門別に多少の注記をほどこして示すのが特徴である。江戸時代に流布した節用集の基となったのが、『節用集(易林本)』である。易林本とは西本願寺の平井休与易林(号は夢梅)が編集したので、多くの節用集の中で特異な存在で区別するために呼ばれる通称である。

  

地元の但馬国府が何かの事情で三度ほど同じ気多郡の近隣地に移転したことが分かっており、一説には出石(はかざ)もその前には国府ではなかったかという節もある。同様に丹後国府も天災等で加佐郡から与謝郡の現在地に移転したことは不思議はない。しかし、加佐郡からいまだに国府跡・国分寺跡と思われる遺跡が見つかっていないので分からないが、平安時代より前の奈良時代の律令制が制定されたころから、山陰道の丹後への支道が与謝郡加悦から籠神社へ通じていたようだし、加佐郡は七道から外れている。宮津市国分・府中という地名からも、記録的に和名類聚抄および拾芥抄が「易林本」の節用集よりも古いといえ、奈良時代に宮津に国府・国分寺が置かれていたのは間違いない。平安時代には国府が何かの事情で加佐郡に移った可能性があるが、以降の鎌倉時代中期からの記録では与謝郡となっているから、丹後の位置からも、丹後支道に入っていないし、都からの交通の利便からいっても、丹後の東端にあたる加佐郡(舞鶴)よりも、中央の与謝郡に国府・国分寺を置いた方が自然だ。


ふるさとミュージアム丹後(京都府立丹後郷土資料館)
京都府宮津市字国分小字天王山 611-1

丹後・丹波の歴史や文化の展示を行っている。1970年に創設された丹後で最も伝統ある資料館。考古展示・歴史展示・民俗展示に分かれている。

宮津湾に面して天橋立の西側に阿蘇海という内海が広がる絶好の景色を見下ろす丘に位置する。寺跡には、寺域全域、金堂、筆跡、礎石が残るのみであるが、しかし、国分寺はのち荒れるにまかせられ、創建当時の様子を知る資料は、軒瓦が二点残されているだけであり、礎石などものちの再建時に移動されており、寺域などほとんど分かっていないのが実情である。現在の史跡は、天平国分寺跡ではなく、鎌倉時代に再建された建武国分寺跡だそうです。


国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀) 京都国立博物館所蔵

画面に作者を明示するような落款・印章の類はないものの、全体の筆法や構図、図中に書き込まれた地名の文字の書体などから、雪舟(1420~1506頃)筆とみなされている作品である。
図にはほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が表され、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。一方、橋立の下方には宮津湾がひろがり、またそれを囲むように栗田(くんだ)半島の山並みがその下端になだらかに横たわっている。広大な空間を感じさせる、開放感たっぷりの構成である。
この図が実際の景観に基づいて描かれているのは確かだが、実景そのままを絵画化したというものではなく、成相寺の建つ山を極端に屹立(きつりつ)させてみたり、府中の町並みを横に引き伸ばすなどの変更が見て取れる。またかなり高い位置から橋立とその周辺を捉えているが、このように見える場所も実際は存在しない。近年の指摘によれば、こうした実景との違いは、雪舟が中国画の学習で培った山水画の画面構成法をもとにして実景部分を再構成したためであるという。とくにこの図の俯瞰(ふかん)的な構成法は、おそらく中国の景勝地を描いた西湖図などのそれを強く意識した結果なのであろう。
筆遣いはいたって荒々しく、まさに一気呵成に仕上げた感があるが、かえってそれが図に独特の躍動感、力強さをもたらしている。寸法の違う21枚もの小紙を不規則に貼り合わせた紙に描かれていることや、描き直しの跡が認められることなどからみて、本来は完成画(本絵)ではなく、下絵であった可能性が高い。もしかすると、すでにみた荒々しい筆さばきもそのあたりに原因があるのかもしれない。(京都国立博物館所蔵)


旧永島家住宅

旧永島家住宅は、京丹後市丹後町徳光にあった農家の母屋で、天保11年(1840)に建てられました。永島家は、江戸時代に宮津藩の大庄屋を務めました。
この建物は、丹後地方の民家の特徴である「平入り広間型三間取り」が「整型四間取り」へ変化した初期の建物です。
屋根が茅葺きで、室内の天井は鉄砲梁など大庄屋らしく整えられています。
(ふるさとミュージアム丹後)

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2 生野義挙への動き

生野義挙(生野の変)への前夜

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。
また、この義挙は大和で挙兵した天誅組に呼応してのものだったが、ともに天領であり代官所の占拠といい、山間部での挙兵といい、ともに共通するところが多い。

その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。

そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市(南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のころからの親友であった)。

変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。

8月19日に七卿と同じく京を落ちた美玉三平は、21日に但馬に入り、本多素行と会い、養父市場で止宿した。翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島の鯰江伝左衛門方に止宿。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。

8月24日 平野國臣、新撰組に襲われる。
五條から帰京した平野は木屋町の山中成太郎宅を仮住まいにしていたが、ここを新撰組に踏み込まれていた。幸い留守であったのでこの時は難を逃れたが、24日には三条木屋町の古東領左衛門宅にいるところを襲撃された。このとき古東が平野を逃がし、自ら縛に就いた。

8月26日、新撰組から難を逃れた平野は、阿波の浪士長曽我部太七郎を伴って、但馬に向かった。

9月1日、京に入った北垣晋太郎(国道 のちの京都府知事)は、長州藩士野村和作、因州の有志らと会見する。そのときに野村から天誅組に呼応し、生野で挙兵の提唱をされる。

9月2日 但馬入りをした平野はまず、能座村の北垣晋太郎を訪ねるが、北垣は上京のために不在であった。その日はここで泊まることとし、翌日、円山川を下り、湯島(今の城崎温泉)の旅館三木屋片岡平八郎方で止宿した。

なぜ但馬生野で挙兵したのか

こういう状況下で農兵組立を画策、実現の運動を進めていたのが、養父郡高田村の大庄屋中島太郎兵衛、弟の黒田与一郎、建屋村(養父市)の北垣晋太郎(後の国道)、膳所藩浪士で養父市場明暗寺出張僧の本多素行らであった。しかし、この計画は容易に具体化されなかった。

生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

なぜ生野において挙兵されたかであるが、上記の農兵の存在の他に銀山による幕府の経済要所の占領、京からも近く、山間部でしかも代官所は周囲を高い塀で囲まれ、銀山町周囲には播磨口、但馬口など7つの番所が配置されており、ある種、砦のような様相であり、天領を浪士に占拠される幕府の精神的ダメージと、諸藩への倒幕の起爆剤としての働きかけが期待された。

第一回農兵組立て会議

9月5日、養父明神別当所普賢寺(今の社務所)において、第一回目の農兵組立て会議が行われた。この会議の場所が普賢寺となったのは養父市場に居住し、代官とも交流のあった本多素行がこの農兵組立ての発起人の一人だったからである。美玉、北垣らの画策が功を奏し、生野代官も農兵に賛同したため、代官所からは小川愛之助、木村松三郎が出席した。

また、会議には生野代官の呼びかけにより支配村の代表的な豪農や村役人24,5名が集まった。この会議では各村に2,3名の農兵周旋方が指名された。中には百姓に武芸の稽古をさせたところで何の役にもたたず、百姓の気性を荒立て、また、農業の妨げになるだけなどといった反対意見も出ていたが、当会議を前に生野代官川上猪太郎は農兵周旋方を有力な百姓に命じていたために、会議は一応のまとまりを見せる形となっていた。また、この会議が行われた日に美玉三平は湯島に平野が来ていることを知った。

一方、京にいる北垣はこの日、長州の野村和作と会見し、「但馬の国は1年かけて農兵を訓練し、兵器を備え、明年秋ごろに隣国の有志と気脈を通じて挙兵すれば、近畿、中国を動かすことが出来る。この機に長州も大挙を発せられれば事は成就する。大和の天誅組は一時、楠公の赤阪城退去の例に習ってもらうのが得策である。」と京へ向かう前に美玉や但馬の同志と話あった意見を述べたが、これに対して野村は「久坂(玄瑞)、寺島(忠三郎)も兵庫から潜行して(七卿落ちから別れて)、今京に来ている。君が告げる意見書も同志らと拝見した。実に得策とは思うが、今日の勢は1日も早く大和の義挙を助けないといけない。長州人や諸藩の同志も行って、兵器なども供給して便宜をはかりたい。」と意見した。また、「平野國臣はその為に但馬に向かったので、あなたも急いで但馬に帰り、平野を助けて、大和の応援を謀ってくれ。」と告げられている。

美玉三平、平野國臣と会見する

美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月8日 美玉三平、平野國臣と会見する。美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月11日 美玉、平野養父明神に参拝する。
8日に美玉と再開した平野は、農兵組立てについて談義し、10日には湯島に帰るはずであった幕吏が彼の止宿先でもある三木屋にまで探索に来ているとのことで、養父市場に留まることになった。11日には養父神社で祭礼があり、身辺は決して安全とはいえないが、平野は美玉、本多らと正午ごろに参拝に出かけ、二時ごろから境内で行われた相撲を観戦したという。

9月13日 北垣晋太郎、但馬に戻る。
この日は第二回目の農兵組立て会議が行われる予定であったが、京より北垣が帰り竹田町の太田六衛門方に来ていたので、急遽会議は取りやめにし、平野、美玉、本多、中島が集まり、京の情勢の徴収をした。北垣は長州の野村和作が説いた大和義挙に呼応して兵を挙げることの必要を語った。

第二回農兵組立て会議

9月19日、13日に予定されていた2回目の農兵組立て会議が、高田村の中島太郎兵衛宅で行われた。前回と同じく、生野代官所役人も参加し、今回において農兵組立ての意見はまとまり、会議は解散となった。表向きはそうみせかけ、役人が帰ったあと、用意されていた中島宅の別室でいよいよ挙兵の決行策を協議し、この会議には平野も参加した。農兵召集に関しては表向きの会議に代官所側が出席していたので問題はないであろう。会議の結果、10月10日を期して長州にいる七卿の一人を大将として、生野にて挙兵することに決まった。

平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、平野は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)と連携して、生野天領での挙兵を計画した。さてここで、いよいよ生野で倒幕の兵を挙げる事となる。

生野義挙への動き

9月20日 会議の翌日、早速平野は長州にいる七卿の中から一人を総帥として迎えるため、長州に向かう。26日に広島に着き、後発の北垣晋太郎と合流し三田尻に向かった。
9月27日 吉村寅太郎戦死。
大和の東吉野村で戦っていた天誅組は、24日土佐の那須信吾ら6人の決死隊が彦根藩の陣に切込みを駆けるうちに、主将中山忠光は鷲家口を脱出、天誅組三総裁の藤本鉄石、松本奎堂は25日紀州藩勢との戦いにより戦死、吉村寅太郎は27日に藤堂藩勢40人の銃手に囲まれて銃殺され、事実上天誅組は壊滅した。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
幕末史蹟研究会
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

1 なぜ但馬生野で挙兵したのか

但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くあった。

1716年(享保元)、織田信長から豊臣秀吉および江戸幕府により置かれていた生野奉行を生野代官と改称した。それは産出量減少のためであった。奉行所・代官所は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の生野小学校付近にあった。江戸時代の生野奉行は11代、代官に改組後は28人が勤めた。代官には旗本が任命され、生野銀山の後背地となっていた但馬国、播磨国、美作国の天領も統治した。なお、統治規模は但馬国最大の藩である出石藩よりも大きく、江戸時代初期は5万2千石、江戸時代末期には8万2千石に達していた。明治維新期の日本の人口は、3330万人であった。しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していた。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていったのである。

文久2年(1862年)の頃から但馬の幕府領の豪農層などの間で農兵の組立の必要性が囁かれるようになっていた。外国船が日本沿岸に出没する社会情勢の折、北辺沿岸の防備に備えるためでもあり、領内の不意にも備えるためである。また、生野の代官は但馬から播磨にかけて244ヶ村、石高64,716石余りを支配していたが、武備に関しては裸同然であり、代官の家臣に地役人6,70人程しかいなかった。

生野天領では豪農の北垣晋太郎(のち国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。
28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎えることを決めた。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めるが、藩首脳部は消極的だった。
10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かった。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置いた。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張するが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

5 平野国臣 北垣晋太郎との出会い

国臣 北垣晋太郎との出会い


北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)は、養父郡能座村(養父市)の庄屋・北垣家の長男として天保7年(1836)8月に生まれた。父・三郎左衛門は、鳥取藩郷士で儒学を修めまわりの農民から信頼されていた人だった。

天保14年(1843)、北垣は父のすすめに従い、宿南村の池田草庵の青溪書院で原六郎(朝来市佐中の大地主、 進藤丈右衛門の子。22歳までは進藤俊三郎、それから後は原六郎)らとともに論語など漢学を学びました。勉強も大変良くできたという。

長く続いた徳川の幕藩体制が揺らぎ、近代国家に生まれ変わろうとする幕末。北垣国道は尊皇攘夷派の活動にのめり込んでいった。師である池田草庵の反対を押し切って、慶応元年(1865)原六郎たちといっしょに生野義挙に参加するが、生野挙兵は失敗に終わる。

寺田屋騒動

その頃、京では伏見において、薩摩藩内による藩士同士による騒乱があった。文久2年4月に起こった寺田屋騒動である。この事件により藩邸の中に監禁されていた美玉三平という人物がいた。彼は、今自刃するのは犬死にと薩摩藩を脱藩。その後、江戸に三ヶ月ほど潜伏し、年が変わって文久3年2月に京に戻っている。

一方、2月23日北垣晋太郎は、浪士隊と共に入洛していた千葉道場出身の山岡鉄太郎(鉄舟)、清河八郎(出羽国庄内藩)と親戚である西村敬蔵(但馬八鹿の郷士・池田草庵に学んだ蘭法医)邸で会見し、農兵組立ての建白を老中板倉勝静に提出を依頼していた。

文久3年3月、京では依然薩摩藩の探索は厳重であったために七卿と同じく京を落ちた美玉三平はこの日に但馬に入り、近江膳所藩(滋賀県)藩士で京都明暗寺に入り虚無僧となり、但馬養父村の明暗寺出張所を拠点として尊王攘夷運動を進めた本多素行と会い、養父市場で止宿した。

8月21日に養父市場で止宿した美玉は、翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島(城崎)の温泉宿田井屋鯰江(なまずえ)伝左衛門方に投宿した。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。

この鯰江伝左衛門は北垣晋太郎と同じ青渓書院(養父市八鹿町宿南)の池田草庵の徒であり、鯰江の紹介により、美玉三平は但馬の有志と会い、その後農兵組立に関与していくことになった。

平野釈放

国臣は福岡藩へ引き渡され福岡へ送り返されることになった。尊攘志士の間で令名高い国臣はまずは丁重に扱われたが、寺田屋事件で急進派が一網打尽にされるや扱いが一変し、手荒く牢屋へ入れられてしまった。

平野釈放について黒田公に勅命があったのは、文久三年10月のことであった。それが藩主不在の理由で延び延びになっていた。釈放を延ばしていたのは、平野を釈放したくないのが本心であった、重臣たちはできることなら、その首をはねたいと思っていた。ただ、藩主不在中に実行することにはためらいがあった。黒田公は参勤の帰途上洛参内して天皇より杯を賜ったが、この時改めて平野釈放が決定する。文久三(1863)年3月にほぼ一年ぶりに釈放された。平野の感激はいうまでもない。

国事参政

情勢が再び勤王派に有利となった。文久三(1863)年の頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。

文久二年以前の朝廷機構は、伝奏(朝廷・幕府間の諸事項に付き天皇への御伺とその処理)・議奏(典礼と任免に付き天皇の御裁下を仰ぐこと)が重要な仕事であった。

文久二(1863)年12月、朝廷機構を改革し、国事係を設けられ、少壮有為な公卿等二十余名が任命された。このころ姉小路公知卿は国事参政、沢主水正は国事寄人、京へ上っていた国臣は、孝明天皇の大和行幸決定(文久三年八月十三日)と共に八月十六日、学習院出任を命ぜられた。

国事参政の実質的働きは、攘夷断行臨時職務であった。、この頃の学習院は三条実美を中心とする攘夷派公卿の政策決定の場となっており、格式も高く足軽身分の国臣としては相当な大抜擢であった。
そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。

17日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五条天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。19日、国臣は五条に到着するが、その前日の8月18日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。

大和行幸・農兵組立

この頃、京都では長州藩が攘夷派公卿と結んで朝廷を牛耳り、天誅と呼ばれる暗殺事件が頻発していた。そして、理論家の真木和泉が画策した大和行幸の勅命が下る。天皇の攘夷親征を決行する計画であった。
幕府側に農兵組立ての建議した北垣らに対して、今度は美玉三平が朝廷側に農兵組立ての勅許を拝するために北垣晋太郎を伴って7月下旬に上洛し、平野國臣や真木和泉に拝受方の斡旋を依頼した。それから、美玉は朝廷から農兵組立ての指令を拝受したあとに但馬に戻ることを約束し、北垣は8月13日に但馬に戻った。

農兵組立の指令は、はからずともほとんど同日に、朝廷と幕府より発令があった。

翌14日、生野及び久美浜代官所に幕府から農兵組立ての指令が下された。また、16日は朝廷から農兵組立ての指令も下りこの日から平野國臣は学習院出仕を仰せ使わされている。

文久三(1863)年8月14日、攘夷祈願のため孝明天皇から大和行幸の勅許が下され、その先鋒として浪士たちが集結し、まず手始めに幕府の直轄地である大和五條をめざして京を出発し、伏見から淀川を下り堺へと向かった。また、この日に生野、久美浜両代官所に農兵組立ての公文が幕府より下された。

8月16日、三条中納言実美より、美玉三平に対し御用御召の報あり、農兵組立の御書が渡された。その文面は要約すると次の通りである。また、平野国臣が公式に学習院出仕を命せられたのもこの日からであった。こうして、美玉による表向きの外警防備の手筈は整ったのである。

但馬の国は要地に当たり、まことに京都よりわずかに三、四十里の地、きっと兵備するのに適している。農民等忠孝に厚きようであるから、農兵の組立、切迫した時勢により、速やかに出来るように。もちろん、その功績により必ず沙汰あり。帯刀は許す。以上、心得て置くべし。
八月十四日 勘定奉行より、生野、久美浜代官へ
八月  参政   美玉三平へ

八月十八日の政変

文久三(1863)年、三条実美ら攘夷派公卿や真木和泉と大和行幸を画策する。十七日、国臣は三条から中山忠光、吉村寅太郎らの天誅組の制止を命じられた。天誅組は大和国五條天領の代官所を襲撃して挙兵していたのである。十九日、国臣は五條に到着するが、その前日の八月十八日に政局は一変してしまっていた。会津藩と薩摩藩の公武合体派が結託して政変を起こし、長州藩を退去させ、三条ら攘夷派七公卿を追放してしまったのである(八月十八日の政変)。
朝廷及び幕府から農兵組立の命が出されたが、大和義挙は壊滅し、八月十八日の政変で、生野義挙の拠り所であった国事参政は解体されてしまい、三条ら攘夷派七卿をはじめ、尊攘派は一婦されてしまった。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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生野義挙 3/8 国臣投獄される

国臣投獄される

平野は『尊攘英断録』をもとに『回天管見策(回天三策)』を著し朝廷に献上したところ、孝明天皇のお目にとまり、平野に対して、おぼえめでたくなった。
文久二(1862)年春、福岡藩主黒田公が明石に到着、本陣に宿泊されることがわかった。平野は久光公使者といつわり、黒田公に書状を提出する。それには、黒田公に勤王派へのご協力をお願いし、もしかなわぬ時は、道中に危険が生じた場合、お守りできぬやも知れず、とあった。黒田公はこの要求を断わり、急病ということにして福岡へ引き返すことになる。この時、意外にも平野は黒田公帰藩のお供を命ぜられる。

行列が下関に着くと、筑前の最新鋭「日華丸」が待っていた。平野は家老から黒田公乗船ゆえと下検分を依頼される。そして日華丸に移ったところで、まんまと盗賊改め方に逮捕されたのだった。そして福岡の獄につながれた。四月二十九日の事であった。

十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。

神武必勝論

十月も末のころ、朝廷から直接黒田藩に対し、速やかに平野を釈放せよと、勅書が下ることとなった。朝廷が直接藩主に対し、刑事被告人を名指しで釈放を求めたのである。
しかし平野は釈放されず、この間にまとめたのが『神武必勝論』であった。上中下の三巻からなる尊王攘夷論である。もとより筆墨はなく、獄中で使用される粗悪な紙によって文字の形を作り、飯つぶの糊でいちいち別の紙に貼り付けたもので、国臣の国を思う執念が伝わる労作だ。

「神武必勝論」抜粋

上巻

(前略)方今海外の諸蛮連合して、神州をうかがうは、之を囲み攻めんとする敵にして、蒼海は池の如く、海内は本城にして、清国は支城の如し。既に清国の仇をなすこと数十年、しばしば敗をとり、国境を蚕食せられ、或いは夷を雇いて夷を防がしむに至って、英仏の為に天津をとられ、北京に迫られ、終わりに王城を捨て満州に避くるに至りしは、英断のなき故なり。
今それ支城に等しき清国、この如く危急成るのみにならず、本城たる所の海内にも、敵兵すでにかん伏せるもの十年に及べり。(中略)海内よく一和し、器機全備し、兵練航熟し親兵をもって神国を守り、将軍精兵を統率して勝を期するものは、これ英断なり。(以下略)

中巻

(前略)皇国は元来義を貴び利を賤しむ。故に海外に出て商事を務めず、かつ異域を奪うことなし。故に巨艦への蓄えなし。今より必戦を予想し、紀州、日州(日向)あるいは北辺の如き、巨木多材の地を選び、天下の精工、良匠を召し集め、財貨だに費やしたらば、必ず整うべし。すでに水戸、薩摩、長州等にて、自製の巨艦は洋製に劣らずといへり。
西洋諸国は火器をもって勢利を助く。彼、長兵を用いなば、我また長兵をもって之を挫折せしむべし。これまた炭水銅鉄便せんの地に、水軍・大火床・たたら等を据え、鋳工・鍛工を招き砲銃を製せば、数年を経ずして備はらん。(以下略)

下巻

(前略)凡俗どもはとかく、人心の動かん事を恐れ、上部ばかりを押しつくろい巧言にこびいり、無事平穏をはかる。一時の間に合わせをしたり、安易な事のみを行う等、心身を労せずに必勝を求めんとする。
たとえ天地神に祈るとも、未だ人事を尽さざるに、天神いずくんぞ眞祐を下さんや。天朝を尊奉し、幕府を初め国主領主は王事を初め、幕臣はその主命に従いて、武を講じ兵を練り、庶民もまた家業を励みて、軍事を助け兵糧を償いなば、必勝の策は聖明の神武より輝き出でんことを疑うべからず。
文久三年上巳   平野次郎国臣

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【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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