1 なぜ但馬生野で挙兵したのか

但馬は石見・佐渡と並ぶ幕府の三大鉱山として栄えた生野銀山を筆頭に、明延、神子畑、中瀬、阿瀬等の金・銀などを産出する鉱山が各所にあったことからも幕府直轄領(天領)が多くあった。

1716年(享保元)、織田信長から豊臣秀吉および江戸幕府により置かれていた生野奉行を生野代官と改称した。それは産出量減少のためであった。奉行所・代官所は、現在の兵庫県朝来市生野町口銀谷の生野小学校付近にあった。江戸時代の生野奉行は11代、代官に改組後は28人が勤めた。代官には旗本が任命され、生野銀山の後背地となっていた但馬国、播磨国、美作国の天領も統治した。なお、統治規模は但馬国最大の藩である出石藩よりも大きく、江戸時代初期は5万2千石、江戸時代末期には8万2千石に達していた。明治維新期の日本の人口は、3330万人であった。しかし、幕末の頃には産出量が減少し、山間部のこの土地の住民は困窮していた。このように全国各地で260年間続いた藩幕体制は崩壊に向かっていったのである。

文久2年(1862年)の頃から但馬の幕府領の豪農層などの間で農兵の組立の必要性が囁かれるようになっていた。外国船が日本沿岸に出没する社会情勢の折、北辺沿岸の防備に備えるためでもあり、領内の不意にも備えるためである。また、生野の代官は但馬から播磨にかけて244ヶ村、石高64,716石余りを支配していたが、武備に関しては裸同然であり、代官の家臣に地役人6,70人程しかいなかった。

生野天領では豪農の北垣晋太郎(のち国道)が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、長州三田尻に保護されている攘夷派七卿の誰かを迎え、また武器弾薬を長州から提供させる手はずを決定する。
28日に平野と北垣は長州三田尻に入り、七卿や藩主世子毛利定広を交えた会合を持ち、公卿沢宣嘉を主将に迎えることを決めた。平野らは更に藩としての挙兵への同調を求めるが、藩首脳部は消極的だった。
10月2日、平野と北垣は沢とともに三田尻を出立して船を用意し、河上弥市(南八郎)ら尊皇攘夷派浪士を加えた37人が出港した。10月8日に一行は播磨国に上陸、生野へ向かった。一行は11日に生野の手前の延応寺に本陣を置いた。この時点で大和の天誅組は壊滅しており、挙兵中止も議論され、平野は中止を主張するが、天誅組の復讐をすべしとの河上ら強硬派が勝ち、挙兵は決行されることになった。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
プレジデント
幕末史蹟研究会
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