因幡国府址をさぐる

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但馬国府国分寺が置かれた旧日高町(現豊岡市)の人間として全国の国府国分寺跡は関心があった。鳥取市内から南東に国府町がある。もとは法美郡(法味郡)で、合併前までは岩美郡国府町。近年鳥取市と合併し鳥取市国府町になったが、名の通り因幡国府国分寺が置かれた政治の中心地だった場所である。因幡一宮宇倍神社も近い。ここも我が日高町と豊岡市の関係に似ているので親近感が湧く。

  

鳥取市国府町中郷

スマホのナビを見ながら国道53号を市内から県庁前まで行き、そのまままっすぐ旧若狭街道を走る。県道291号を曲がらずさらに進んで県道31号から国府跡をめざすが、鳥取は道路網が整備されていて平野部は目印がなく、いくつも似たような道路があってカーブが多くまっすぐ目的地にたどり着くのが容易ではない。県立盲学校聾学校が見えてくると左にゆるく大きくカーブして結局291号に戻ってから宮ノ下小前を県道225へ右折すると新しい郵便局がある。しばらくすると因幡国庁跡への案内標識が見えた。

細い農道を進むと田んぼの中に整備され史跡公園になっている。全国的に国衙址はよくわからないケースが多いが、ここはすでに平安時代末期から鎌倉時代にかけての国衙跡中心部の遺跡が発掘されていたというからすごい。1978年(昭和53年)に国の史跡に指定された。

概要 『ウィキペディア(Wikipedia)』

因幡国は、鳥取県のほぼ東半分にあたる。本国庁跡は、鳥取市の東方約10キロメートルの所にあり、法美平野の中に残っている。そして、1977年(昭和52年)の発掘調査では、国庁の中心部にごく近いと推定される建物群の一画が発見されて、翌1978年(昭和53年)には史跡に指定されている。発掘調査で10軒余の掘立柱建物、2条の柵、2基の井戸、数本の道路と溝などが検出された。これらの遺構は、石積み遺構や溝に囲まれており、中心殿舎は、桁行5間×梁間4間で南北の両面に廂を持つ掘立柱建物と後方約7、8メートルに軸線を同じくして桁行5間×梁行2間の切妻型の掘立柱建物である。中心殿舎の南側約750メートルの所に桁行7間×梁間3間以上の東西棟の掘建柱建物(中世に下る)が国庁の南限を示していると考えられている。国庁を象徴する遺物の代表的なものは、石帯(せきたい)、硯、題簽、木簡、墨書土器、緑秞陶器などが挙げられる。

これら中心遺構の年代は、近くの溝から出土した「仁和2年假分」(886年、けぶん)の墨書を持つ題簽(だいせん)、木簡やその他の資料から、平安時代初期以降のものと考えられている。
因みに、因幡国庁は、大伴家持が国守として着任したことでも知られる[1]。

『ウィキペディア(Wikipedia)』

現在でも周囲は田んぼが広がり住宅がなく開発されていないことが幸いだ。因幡国分寺跡は史跡公園から農道を進むと国分寺という地名が残っているが、時間がないので今回はパスした。後で調べると幹線道路から少し入った場所に塔跡と南門などが確認されたにとどまり、全容は不明である。また、国分尼寺跡は国分寺跡の西方にある法花寺集落の周辺と推定されるが、確認されていない。総社は、『時範記』によれば国府の近くにあったようだが、現存しないものとみられている。但馬総社は気多神社としてかつては現在の頼光寺の場所に広大な境内を誇っていたことがわかっている。

 

円山川も氾濫し改修工事がされて現在の場所を流れているがかつてはもっと西方だった。但馬国府は数回移転していることがわかっていて、後期は祢布に移されたとされるが、国府町は一級河川旧千代川の沖積平野に位置する。但馬の円山川の沖積平野であり大耕作地帯である国府平野によく似ている。当時は千代川以北の鳥取市街地も豊岡市街地も沼地であり、比較的安定していた場所を選定して国衙としたと想像できる。

因幡は古くは稲葉と書いた。現在でもこの旧岩美郡一帯は水田地帯が拡がる。

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因幡山名氏と布勢天神山城(鳥取県鳥取市)

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布勢天神山城の歴史

山名氏宗家但馬山名氏(出石町)のお膝元豊岡市の住民としては、鳥取にたびたび行く機会があれば因幡山名氏について辿ってみたい思ってた。2月19日にかねてから一度目指したかった久松山(鳥取山城)を登るとどうしても布勢天神山城を訪ねてみたかった。


城山(天神山と卯山)を南東から眺める

『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば、布勢天神山城は因幡国高草郡(現在の鳥取県鳥取市湖山町南、布勢)にあった丘城で、戦国期の因幡国守護所とされる。当時は布勢ではなく布施と表記された。つまり布施という地名は全国に多いが、政治の中心が置かれていた場所という意味であろう。

湖山の県立緑風高校のそばだと地図で確認し国道53号から県道181号へ進む。橋を渡ると同じような小山が乱立していてそばまで来ているのだが、近道をしようと脇道に入ってしまうと新興住宅地が多くて袋小路でなかなか分かりにくい。最初から国道9号バイパスか県道181号など主道路を通った方が良かったと後から思う。

『ウィキペディア(Wikipedia)』にはこう書かれている。

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。1466年(文正元)因幡国第5代守護・山名勝豊によって二上山城(岩美町)より守護所が移転されたと伝わるが、勝豊は1459年(長禄3年)に没しており、この年代には疑義がもたれている。確実な史料による初見は1513年(永正10年)である。一説に『応仁記』にみえる布施左衛門佐は山名豊氏を指すのはないか考えられており、豊氏の築城との指摘もある。(平凡社『日本歴史地名大系32 鳥取県の地名』)

第13代守護・山名誠通はこの城にあって、同族である隣国但馬守護の山名祐豊と対立、敗れて敗死した。誠豊の死後、守護職は豊定、棟豊と但馬山名家から送り込まれた人物が継承した。棟豊が若くして死去した後に家督を継いだ守護・山名豊数の時、重臣・武田高信が鳥取城を本拠として離反する。1563年末(永禄6年)に山名豊数は武田高信の猛攻を受けて布勢天神山城を退去し、鹿野城に退いた。1573年(天正元年)尼子氏の援助を受けた豊数の弟・山名豊国が武田高信を鳥取城から追い、守護所を鳥取城に移転させ、天神山城は廃城になったとされる。この時、天神山城に聳えていた3層の天守櫓も鳥取城に移築されたという。ただし、山名豊数が武田高信の攻撃によって鹿野城に退いた1563年以後は確実な史料に天神山城の名前が出てくることはない。廃城時期については今後の検証が必要である。

1617年(元和3年)に備前岡山の池田光政が鳥取に転封された際、手狭な鳥取城に替わる新城候補地として、城地の要害と城下町を作る利便性から布勢天神山城が新城として検討されたことがあった。しかし半世紀近く前に廃城となっているため整備に時間がかかることから、布勢天神山城が再び因幡の首府になることはなかった。


公園内に建てられた見取り図

『因幡民談記』に描かれた古地図によると、湖山池畔に並ぶ天神山(標高25m)と卯山(標高40m)の2つの小丘に城が築かれている。

守護館は天神山麓に築かれていたようで、古地図や伝承によると3層の天守櫓も存在していたとされる。天神山周辺には湖山池の湖水を引き込んだ内堀が巡り、卯山周辺にも水堀が設けられていた。


公園から湖山池を望む。

卯山の丘陵北側には布勢1号墳がある。古代の古墳を城域に取り込んで砦として利用した例として興味深い。

布勢1号墳(前方後円墳、国指定史跡)

日吉神社(布勢の山王さん)

因幡国初代守護・山名時氏が近江から日吉神社を勧請したとある。比叡山麓坂本の日吉神社だろう。

広い道路脇にそびえる鳥居から一直線に天神山城跡のある卯山まで参道が通っている。まだ補修されたのが新しく立派な社です。瓦などの家紋は因幡池田家の家紋揚羽蝶である。天神山城と因幡山名氏亡きあとも池田家や布勢村の人びとによって大切に護られてきたことが伝わります。

「布勢の山王さん」と親しまれているらしいが、但馬山名氏の豊岡城のある神武山近くにも山王山に山王神社があり但馬山名氏から一族共通のものであることは興味深かい。

拝殿と本殿

より大きな地図で 因幡・伯耆の式内社 を表示

鳥取城久松山と仁風閣(鳥取県鳥取市)

[catlist categorypage=”yes”] 鳥取県鳥取市東町

鳥取城(久松公園)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある山城跡で、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残しています。

この城は但馬山名氏ともゆかりがあり、戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

ということで、久松山頂に築城したのは、山名氏か武田高信かははっきり分かっていないらしい。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。


久松山と仁風閣

正面

3 挙兵

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る

十月十一日 沢卿一行は生野へ入る。
屋形村で合流した沢卿一行は生野街道を北上し、午後2時ごろに森垣村の延応寺に到着した。一行は京都の姉小路五郎丸とその主従であると言い、延応寺を休息所として利用した。この日のことをあらかじめ本多素行が住職に話をつけてはいたが、野袴を着け、長刀を銃砲を持った一行の威容に驚いた。

さっそく寺に乗り込み、やがて中島太郎兵衛、太田六右衛門ら地元勢や美玉三平らも駆けつけ、また生野代官所剣客だった伊藤龍太郎も門人15名ほどを引き連れてきたので総勢29名だった一行は、忽ち大人数となった。

午後3時には延応寺に集結した志士の内、白石簾作と川又佐一郎が沢卿の書状を持って代官所へ走り代官所借用の談判をするが、代官川上猪太郎は倉敷に出張中で不在のため交渉には元締の武井庄五郎が応接した。

元来、銀山町内での宿泊、滞在は御法度とされていたが、武井は姉小路様(沢卿)の書状を拝見し、「表立っての義軍の御逗留は役所の都合上申せませんが、通りがかりの御一泊と言うことならば、市中の御宿を手配いたしましょう。」という返答をした。話が進まず、やむお得ず当寺で夕食をとり、烏帽子直垂の沢卿を先頭に隊列を整えた一行は、丹後屋太田治郎衛門の邸へ移動する。

午後8時ごろ丹後屋に武井が交渉に訪れた。藤本義芳雑記によると、武井庄五郎は丹後屋に訪れ、二階座敷に案内された。浪士の中から、平野国臣、多田弥太郎、南八郎(河上弥市・高杉晋作のあとの奇兵隊総督)、美玉三平、藤崎左馬蔵(木曽源太郎)、虚無僧素行(本多素行)らは武井と一通りの挨拶を済ませたあと、平野は武井にこう語った。

「京都三条様始め、七卿様長州に御下りのうち、今回沢主水正様は京都へ容易ならざる感歎の筋があり、長州を出発され、我々は供として追従しましたが、諸国の吟味が厳しく、身を忍ぶ所もないので、しばらく匿っていただきたい。」
それに対して武井は、「高貴なお方を匿えと申されますが、当初のお話では一同の方々を通りがかりの御宿泊ということで約束いたしておりましたが、正義の士の方が匿ってくれとは話が違うと存じます。」と答えた。

これには平野も閉口した。今度は美玉が「先だってよりの農兵組立ての儀、早速了承していただき、感謝しております。このことに関して、代官様始め、皆様方も我々と同じく正義の一味と推察いたしております。」と言うと、
武井は「それは以ての外の事、当代官は言うに及ばず、我々も公儀の禄を食む者でございます。」と答えた。それに対して美玉は燈火の火を消し、暗闇になった部屋で一時沈黙になったが、やがて武井はポンポンと手を打ち「誰か灯かりを持って来い。」と呼びかけ、やがて浪士側の意見は通らぬまま交渉は終わってしまったという。

武井が退去したあと、南八郎(ここからは河上のことを変名の南八郎と呼ぶことにする)や戸原卯橘らから平野や美玉に代官風情に言いくるめられてこんな旅籠で悠長に戦の準備など出来るかと言い、直ちに代官所を占拠するべきだと言った。

この時点で天誅組は壊滅しており、平野国臣は挙兵の中止を主張するが、天誅組の仇を討つべしとの南八郎の強硬派に意見が分かれ、中止の本陣と強行の先陣とに志士達が分裂した。

当初の計画は、十月二日に戸原卯橘が長州三田尻から郷里の筑前秋月に出した手紙にあるように「三丹を服従致させ、直に京師へ罷越し、皇朝の恢復遠からずと存じ候えば、今日より発足致し候」というものだった。

これに対し、平野は代官所を無理に占拠するのはよくない、今しばらく時期を待つのが妥当と答え、双方またもや強行、自重の対立が始まった。互いに激しく言い争いが続き、沢卿が自分の不徳の致すところで、自分が責任を取って腹を切ると言い出し、議論は収まったが、結局は強硬派の議論の勝利となった。そうなると直ちに陣容が整えられた。陣容は以下のとおりである。
南八郎ら強硬派に押されて挙兵に踏み切った。

●総帥 沢主水正宣嘉
●総帥御側衆  田岡俊三郎(伊予) 森源蔵(阿波)
●総督 平野國臣(筑前) 南八郎(本名:河上弥市 長州)
●議衆 戸原卯橘(筑前) 横田友次郎(因幡) 木曽源太郎(肥後)
●軍監 川又左一郎(水戸) 小河吉三郎(変名:大川藤蔵 水戸)
●録事 藤四郎(筑前)
●使番 高橋甲太郎(出石)
●節制方 中島太郎兵衛(高田村) 美玉三平(薩摩) 多田弥太郎(出石) 堀六郎(筑前)
●周旋方 中條右京(出石) 太田六右衛門(竹田村) 太田悟一郎(竹田村)
●農兵徴集方 黒田与一郎(高田村) 長曽我部太七郎(阿波)
●兵糧方 小国謙蔵(地役人) 小川愛之助(地役人) 大田仁右衛門(生野町)

また、沢卿の名で宣言書(激文)が起草された。執筆は多田弥太郎、補筆は平野と美玉が行った。

 先年開港以来 御国体ヲ汚シ奉り小民共困窮致シ候ヲ 御憂慮遊バサレ 度々関東へ攘夷ノ勅下シナサレ候ヘ共 終ニ属シ奉ラズ朝廷ヲ蔑シ奉ル。
剰サエ毒薬ヲ献ジ候処 皇祖天神ノ保護ニ依り玉体恙無ク在ラセラル。
然ル処八月十七日奸賊松平肥後守始メ偽謀ヲ以テ禁門ニ乱入シ関白ヲ幽閉シ公卿正義ノ御方々ノ参内ヲ止メ御親兵ヲ解キ放チ言路ヲ隔絶シ恐多クモ今上皇帝逆賊ノ囲中ニ在ラセラル。実ニ千秋ノ一時ノ大厄ヲ醸シ恣ニ三条公始メ毛利宰相父子ヲ所置セラレ候始末
不倶載但馬ノ国ハ人民忠孝ノ情厚ク南北朝ノ時ニモ賊足利ニクミセズ皇威ヲ揚ゲ国体ヲ張り候条聞コシ召サレ兼テ頼母シク 奇特ニ思シ召サレ候 早々馳セ集り大義ヲ承り叡慮ヲ奉り奸賊ヲ退ケ震襟ヲ安シ奉ル可ク候事

癸 十月
沢主水正但馬国家旧家並ニ有志之人々 江

翌十二日未明、代官所を占拠し本陣を定め、運上蔵を開き金と米を出させ、沢卿の檄文を各村々に発表し農兵を募った。この時の触れ役は、侍髷に後鉢巻き、ぶっさき羽織に義経袴、大小を差して四枚肩の駕籠を走らせ、至る所の村々の庄屋で檄文を読んでは先へ行ったという。檄文の内容と三年間年貢半減の約束に、即日二千人を越える農兵が朝来郡と養父郡から生野へ集結した。

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8 平野、長州に向かう

平野、長州に向かう

9月28日、平野、北垣三田尻に到着
平野と北垣は周防国三田尻に到着した平野と北垣は、招賢閣において同藩筑前藩士の藤四郎、堀六郎、出石藩士多田弥太郎らと七卿に会見。但馬の情勢を報告し、出馬の懇請をした。
9月29日 進藤俊三郎、池内蔵太より天誅組破陣を聞かされる。軍需品仕入れのため京の止宿先花屋に泊まっていた進藤俊三郎、田中軍太郎、西村哲次郎は長州の野村和作、因州の松田正人、河田左久馬らと軍需品の調達に四条木屋町の具足屋大高又次郎の周旋で準備をしていたところに、鷲家口を脱出してきた池内蔵太(後の海援隊士)が訪ね、大和破陣の報告をした。これにより、一同は生野挙兵を断念し、その使者として進藤が播州に向かった。
同日9月29日に三田尻で七卿と会見し但馬の情勢を聞いた毛利定広は山口で平野と会見した。平野は定広に謁し、入説したが時期尚早と賛同を得られなかった。
10月2日 沢卿三田尻を出立する
慎重論を唱える者もあれば、この際大挙東上するといった声もあり、長州藩内でも意見は分かれていた。また、天誅組のように兵を挙げ、各地に義兵を挙げることにより天下の形成を動かしていくという声もあった。

平野、北垣は4日間三田尻に滞在していたが、論議はひとつにはまとまらなかったが七卿の中から沢宣嘉卿が総帥になることが決まり、沢卿のもとならば義兵を挙げようという声もあり、また七卿のもと三田尻に集まっていた諸方の士もいた。長州藩からは奇兵隊総督の一人、河上弥市(このあと南八郎と変名)が名乗りを上げた。
河上が行くならと集まった中には豪商白石正一郎の弟、白石廉作もいた。生野に随行したのは、水戸藩から小河吉三郎、川又左一郎、関口泰次郎、前木鈷次郎、筑前藩から戸原卯橘、藤四郎、堀六郎、仙田淡三郎、出石藩から多田弥太郎、高橋甲太郎、他に田岡俊三郎(小松藩)、森源蔵(阿波藩)江上庄蔵(尾張)といった面々。
午後8時頃に沢卿は招賢閣を抜け出し、三田尻港を出港した。

長州藩に庇護されていた攘夷派公卿沢宣嘉を主将に迎え、元奇兵隊総管河上弥市ら二十七名の浪士とともに三田尻を出航したのは文久三(1863)年十月二日のことであった。二隻に分けた船は三田尻を出港。沢卿を乗せた船には平野をはじめとする諸方の志士たちと16名が、もう一隻の船には河上弥市を筆頭に長州藩の面々11名が乗った。沖に出た頃から雨が激しくなった。波も激しくなり風も強い。帆を降ろした二隻の船は一向に進まなかった。それでも明け方には上関まで辿りついたが、雨も風もますます激しくなったので、室津港に着いて船を降りた。
沢卿一行、陸路を取り玖珂に着く。
海路を断念した沢卿一行は室津港から陸路を取り、山路を急いで玖珂(岩国市玖珂)に着いた。
そんな中、北垣晋太郎と戸原卯橘は室津から軽船を雇い、暴風雨の中を先行した。
まだ風雨が続くなか、岩国城下を通り新湊に着く。また、軽船で先行していた北垣と戸原は大島(山口県大島郡周防大島)に仮泊し、5日の朝に新湊に到着し一行と合流。また、新湊では長州の西村清太郎と因州の大村辰之助が加わり、29名となったが、ここより北垣が単身で先を急いだ。
10月7日 北垣晋太郎、大和破陣を知る
先行していた北垣は、飾磨(兵庫県姫路市)に上陸し、夜半に新町(神崎郡福崎町)で京より戻って来た進藤俊太郎と落ち合った。進藤から大和破陣の報告と、長州の野村和作、因州の松田正人からの義挙の取止めの勧告を聞かされた。
その後、北垣と進藤は二里ほど離れた屋形の旅籠三木屋で本多素行を訪ね、善後策を講じ、北垣は沢卿一行に事の詳細を伝えるべく、飾磨に折り返した。

沢卿一行姫路到着

10月8日 平野國臣、姫路で天誅組破陣を知る
国臣ら沢卿一行の船は網干は航海中に嵐にあったりしたが十月九日飾磨に入港、ここで平野は藤四郎を伴って情報収集のために上陸した。市中を徘徊すると、天誅組大和破陣の噂を聞かされた。詳しい情報を知るために平野と藤は姫路藩の志士河合惣兵衛の徒、穂積某が室津(たつの市御津町室津)にいることを知り、穂積を訪ねてみたが、やはり市中の噂は本当であった。

10月9日 平野、北垣挙兵中止を説く
午後2時ごろ、網干港を出港し、午後6時ごろに沢卿一行は飾磨に上陸した。沢卿一行と合流した平野は旅籠に入り、食事が終わると一同に大和破陣の報告を一通りしたあと、大和破陣となった以上はこの度の義挙は取止めにしょうと意見を述べた。またその頃、先行していた北垣も一行のもとに駆けつけ、早速京にいる野村和作、松田正人らが説いた義挙取止めの勧告を伝えた。意見としては一旦、沢卿には因州で身を隠していただき、他の同志の方には大坂の長州藩屋敷に身を寄せておいていただこうといった内容であった。
大方の者はこれらの意見に賛成であったが、長州藩河上弥市や彼に従う奇兵隊の面々、それに秋月藩士戸原卯橘ら少壮派は猛反対した。彼らは京大坂の同志がどう言おうとまず我々は倒幕の先鋒であって、三田尻を出たときから死ぬ覚悟できている。どのような状況であろうと、初志を貫くべきであると怒気をこめた。意見が対立したまま時が流れていったが、やがて沢卿は口を開き、各有志に進展を委ねようということになったので、この夜は河上、戸原ら少壮派の意見が通り、北上することに決議した。
その夜旅館にて国臣は大和義挙破陣の状況を説明したあと、自分の考えをこう述べている。
大和義挙敗退となった今、我々の計画している但馬の義挙も成功の見込みがない。ここは忍びがたきを忍んで、一時解散し、時節の到来を待つのが上策と思う。
そして国臣は、解散後の一時落ち着く先も考慮したようであった。
または、生野義挙の目的は倒幕戦のさきがけとなる事で、したがって大和義挙が不成功であっったからといって、一時解散は筋が通らない。
さて、国臣の考えはどちら真実だったであろうか。
10月10日 沢卿一行北上、仁豊野で本多素行中止を説く
沢卿一行は市川を船で北上し、姫路城下を過ぎて、仁豊野(姫路市仁豊野)の茶屋奥田屋で休息した。ここで本多も一行と合流し、沢卿への挨拶を終えると直ちに義挙中止説を唱えた。これに怒った河上、戸原ら少壮派は今更命乞いをするな、卑怯者、斬ってしまえと本田に詰め寄った。お互い刀を引き合わせかけたところ、沢卿が制止されたのでなんとかこの場はおさまった。
休息が終わると、少壮派は沢卿を擁して先に先行し、その日は屋形(神崎郡市川町)と辻川(神崎郡福崎町)に分宿することとなった。

6 生野義挙 終結

生野義挙終結まで

10月14日 山伏岩の自刃

「山伏岩(自決岩)」 山口護国神社内

文久3年(1863年)10月14日

そのころ、小河吉三郎(大川藤蔵)は養父郡能座村のサケジ谷(朝来市山内)というところにいた。伊藤龍太郎が妙見山の南側の陣に行く前に、小河は南らと共に妙見山にいる同藩の川又左一郎を訪ねた。午前5時頃に沢卿本陣脱出の噂を聞いた小河は、川又にこれを伝えたあと、南に下山の説得をしたのだった。小河は川又と下山したあと、大村辰之助と丹後の片山九市にあった。地の利がある片山を案内役として、丹波路に入ったころに百姓たちが後をつけてきた。農兵として駆り立てられた百姓たちは、近隣諸藩の追討を知り、沢卿一行の本陣脱出を知ると彼らに騙されたと思っていた。やがてサケジ谷にさしかかったあたりで、百姓らは激しく発砲してきた。小河は百姓に殺されるのならと、その場で自刃した。小河の介錯をした川又は大村、片山と共に縄にかかり、出石藩に引き渡された。

午後4時、妙見山に訪れた伊藤龍太郎に説得され、下山した中條と長曽我部は生野に戻り、伊藤の案内で追上峠(神崎郡神河町)まで来ていた。ここから姫路街道に落ちるつもりであった。伊藤と別れ二人は猪篠村に向かったときに百姓どもは追跡していた。浪人待てと言い放ち、発砲する。まず中條は胸板を撃ち抜かれ、長曽我部は自刃しようとしたところを狙い撃ちされた。

午後4時半ごろ

南八郎ら志士13名は、山口村妙見山の陣から生野の本陣に戻るべく討死の覚悟で降りてきた。生野の追討に諸藩が出陣したうわさを聞いた農兵召集で駆けつけてきた農民どもは村への後のお咎めを恐れ、かくなる上は浪士たちを追い払おうということになり、山口村西念寺で早鐘を打ち、妙見山麓に押寄せたのであった。集結した農民たちは、沢卿をはじめ、義軍を偽浪士と思い込こみ空砲を放ってきた。

妙見山麓に街道があり、その向こうには市川が流れている。街道沿いにいる南ら13名と、川辺にいる農民どもとのにらみあいは続した。やがて農民どもは鉄砲で空砲を撃ちかけ、浪士たちを威嚇してきた。つい先程までは浪士たちの手足となって働いていた百姓たちであるが、手のひらを返してきたのである。憎い百姓らめと抜刀して追いかけると百姓どもはパっと散り、引き上げようとすると竹槍を振り回し、空砲を撃ってわぁわぁ騒いで迫ってくる。

百姓らは幕府側の追討の火の粉が浪士たちのせいで己に降りかかると恐れている。物の分らん百姓めと切りかかろうともしたが、百姓相手に討死してもと思っているところに、川の向こう岸から岩津村(朝来市岩津)の大川勇平という愚者が実弾を放ち、これが26才の小田村信一の胸板を貫いてしまった。2、3人の者が手負いの小田村を担いで、通称山伏岩という岩陰に連れて行き、みなもそれに続き、岩陰で百姓どもの銃弾から逃れました。

彼らを恐れて、百姓らは近ずくことは出きず、しばらく睨み合いが続いたが、これ以上、百姓と戦をしても仕方がない、もはやこれまで山伏岩の岩陰でまず南八郎が切腹、続いて9名が切腹、このとき見事なのが全員の介錯をした筑前秋月藩の戸原卯橘(29才)だった。

言い伝えによると、戸原は南ら同志たち10名の介錯をしました。介錯を終えた戸原は山伏岩によじ登り、後事を託すために百姓どもを手招きしましたが、誰も近寄るものはいなかった。戸原は刀を拾い、武士の最後を見よと腹を一文字に切り、喉を突いて同志たちの死んだ岩陰に転げ落ちた。

戸原が死んで、しばらくすると山伏岩の近くの藪の中に二人の浪士がいた。氷田左衛門と草我部某で、百姓どもはまた、わぁわぁ叫びながら二人の後を追った。すると氷田が後ろざまに羽淵村の元三郎というもの肩先を切りつつけると、元三郎は驚いて川に飛び込み、家に逃げ帰ったがすぐに死んだという。元三郎が斬られて、百姓どもは一目散に逃げ帰った。そして、静かになった頃を見計らい、氷田左衛門と草我部某は刺違えた。

午後8時、南八郎ら少壮派が壮絶な最後を遂げた山伏岩に出石藩は検分に駆けつけている.。検視に来た出石藩が驚いたのは、戸原に介錯された志士たちの首か皆、頸の皮を一寸(約3cm)程を残して切ってあったらしく、出石藩士たちはこれを見て思わず感歎の声を上げたという。

13名の浪士たちは皆、鎖帷子を着けて、懐中には鰹節が2,3本ずつ入れてあったという。また、戸原卯橘に介錯された首級は出石藩士により、一人ずつ切り離され、生野代官所に届けられた。

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4 生野代官所占拠

10月12日 生野代官所占拠
生野代官所跡(朝来市生野町口銀谷)

午前2時、陣容が整うと直ちに出陣の用意に取り掛かった。物々しい様相に丹後屋太田治郎左衛門は代官所に注進した。これを聞いた元締武井庄五郎はただちに密使を出石に差し向けた。

やがて、南八郎の率いる少壮派たちは代官所を包囲した。役人どもが歯向かうようなら切り捨てる気構えであったが、婦女子には一切手荒な真似はしないように言い伝えた。やがて表門が開かれると一斉に突入した。しかし、代官所側は刀を捨てて一切戦う意思が無いことを示し、南八郎は元締武井に対し、当分代官所を拝借すると言った。また、南は御持ち出しになられる品物があれば随意持ち出されよと、寛大に措置を取った。また、武井もなかなかの人物で、代官所内にある槍などの武具は事前に穂先などを削り、あまり使えないようにしてあったという。

午前4時、無血で占拠した代官所に沢卿らが到着した。

宣言書を携え、各村々に黒田興一郎、長曽我部太七郎ら農兵徴集方や、地役人たちが農兵招集に奔走した。午前10時頃から農兵たちは集りだし、正午頃には2000人余りの兵が集った。

本陣に集った兵の前に沢卿ら首脳が現れ、沢卿は床の間の上段に座し、側には平野、南、美玉、長曽我部、多田らが甲冑をつけて居並び、本多素行が烏帽子姿で今回の義挙の大意を告げた。やがて、式が終わり、農兵たちは銀山町の来迎寺に引き移った。

午後6時、本陣ではまたもや軍議が二つに分かれた。一つは生野に籠り、敵を迎え討とうという者。あるいは軍を整えて丹波路から京へ進出し、大和追討の諸藩の兵と一戦交えようというものなど、強行派と出石、豊岡、姫路などの諸藩の追討が寄せる風聞を知り、兵器が未だ不十分ということなどから自重すべしとこの期に及び意見はまとまらなかった。

この頃、代官所元締の武井は密使を豊岡、姫路へと送っていた。幕府の対応は早く、翌日には周辺諸藩が兵を出動させた。浪士たちは浮足立ち、早くも解散が論ぜられた。

前日に武井から送られた密使は出石に午前8時頃に到着し、出石藩は早速出陣の用意を行い、一番手は生野に向かい出陣した。一方、生野本陣では美玉三平は大阪の薩摩藩の有志あてに義挙の勧誘状を送っていた。

しかし、軍議は未だ一致せず、このときの様子を銀山新話にこう記されている。

沢殿曰く、「竹田町より京都正義の方へ急々勢揃の上、此処へ下向いたすべき旨申し遣わすといえども当時京都にても時々に変事これあり、時節、これとても当に成り難し。そのうちに南に酒井(姫路15万石)、北には仙石(出石3万石)、京極(豊岡1万5千石)、東は篠山(青山氏6万石)、福知山(朽木氏3万2千石)、宮津(本庄氏7万石)、柏原(織田氏2万石)等寄せ来たらばいかに防戦すべきかな」と、有りければ、南八郎進み出て、「仙石始め加令一時に攻め寄せ候とも、某、黒田(興一郎)に勇士14,5人を賜え。

山口(山口村)へ砦を構え、要害堅固に防戦に及べば、仙石、京極取るに足らず。南より酒井寄せ来らば、森垣(森垣村)、追上(追上峠)2ヶ所の内、美玉(三平)始め長曽我部(太七郎)、多田(弥太郎)等、地役人農兵引き具し、追上峠よりポンペン放ちかくれば、酒井勢大半討たれ、進む敵はこれあるまじく、君(沢卿)の御側には平野、本多(素行)両士等守護あらば心安き事」と、安気に申しければ、平野曰く、「南公(南八郎)は若武者ゆえ、左様に思い召され候得共、この軍中は容易ならず仙石、京極のみにあらず。三丹一所に攻め寄れば大敵なり。」その時、多田進み出て、「なにぶん無勢にて所々へ手を分け候こと、はなはだ以って危うし。某、所存は峠の切り所に陣を布き敵寄せ来たれば逆路にポンペン打ち付ける時は、岩屋谷津村子までは寄る共、一人近寄る事ある可らず。陣屋付近なれば万事駆引き自由なり。」と申せば、南八郎気色変じ、「全体この度の企て違いに相成り、勢い揃い兼ねる杯。足下方申され候へ共、諸方の集り勢、当に致し多勢小勢、杯論ずるは、必竟(ひきょう)臆病神の付くに似たり。仮令無勢にても心を一致して身命を抛(なげう)ち、精神貫き発せば何千騎の寄手なりとも、蹴散らして一人も通す間敷。黒田殿は此の辺地理委しき事ゆえ、采を取り指揮いたすべし。」とある。

午後2時、南八郎や戸原卯橘の正義同盟の少壮派志士達は先陣として北面の守りへ山口村に出陣する。生野の村は今や戦かと大騒ぎになっている。諸藩の追討に対して、南らは生野からさらに東北に二里ほど離れた山口西念寺に赴き、大挙出陣して来る出石藩に備えることにした。

翌十三日に先陣は要害堅固な妙見山のほうが陣としてはふさわしいと、早速、農民に大砲や水など兵器、兵糧を妙見堂に運ばせた。ここなら諸藩の兵が押寄せても様子が一望出来るし、大砲を撃つにも絶好の場所である。それにくらべ、生野の陣地ではたとえ楠正成以上の軍師がいても諸藩の包囲を防ぐことは出来ないであろう。南らは山頂にある妙見堂の祠の周りに陣幕を張り、陣容を整えるとすぐに生野の陣営に至急移動するように使いを出した。

しかし、決戦の構えを整えるが、同夜になって生野本陣はこの頃も相変わらず議論は続いていた。南らが出陣したものの、残された大方の意見は自重説である。今、諸藩を迎え討とうとしても勝ち目がないという意見が多かった。南らのもとに多田弥太郎が説得に向かった。銀山新話にはこう書かれている。「銀山本陣より多田弥太郎早馬にて駆け付け、(沢卿からの)書簡差し出す。南八郎披見(ひけん)して打ち笑い、出石勢近寄り候に恐怖し、この出張(でばり)を開くべしとは片腹痛し。美玉始め平野等の諸勇士は酒井勢討ち入りに備え、某は此所にて仙石勢、相防ぎ此所より一人も通すまじき。云々。」

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日本人はどこから来たのか 5/8 同時期に伝わった鉄器と青銅器

中国では、殷代には既に鉄器が発見されているが、中国戦国時代が青銅器時代から鉄器時代への移行期と言われている。本格的な鉄器の普及は前漢時代とされる。中国戦国時代の記録を見ると秦は、高度に精錬された青銅器武器を使っていた。日本では対照的に縄文時代末期から弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入している。

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏

28 鉄器の出現

日本は、鉄器の出現は、縄文時代末期です。福岡県曲り田遺跡出土の鉄片(板状鉄斧の頭部といわれます)は、水稲耕作とともに伝播したと考えられ、縄文時代末期に用いられたとみられます。また、熊本県斎藤山遺跡は弥生時代全期を主体とする貝塚で、夜臼式と板付I式の混在する貝層から、鉄斧が出土しています。

中期には、石製工具の消失や木製農具の製作法の変化などがみられ、何れも鉄器の使用を想定しなければ理解できないことから、鉄器が普及していたことがうかがえます。
鉄器普及が顕在化するのは、福岡県立岩堀田遺跡の例のように、中期後半のことで、この時期に、「王」制が確立する段階を迎えました。生産力の発展段階においても時代を画する重要な時期となっています。

つまり、中期中頃、あるいは中期後半に当たる福岡県の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡では、青銅器武器や前漢鏡・ガラス製品などがみられるものの、鉄器はみられません。しかし中期後半の福岡県立岩堀田遺跡では、鉄製武器と前漢鏡・ガラス製品の組合せとなっており、武器を中心に、青銅器から鉄器へと材質が転換していきます。

後期に入ると鉄製農工具が激増します。長崎県原ノ辻・カラカミ遺跡、福岡県大南遺跡などで多量に検出されるように、摩耗・破損した鉄器は再使用されることなく廃棄されています。それは潤沢な供給を抜きにしては考えられません。

それらの検出遺構は、中期後半には墓だったものが、後期には住居跡や包含層へと変化している点からも普及ぶりが分かります。

鉄器の場合、初期の例を除いて形態的な特徴から、多くは国内生産と考えられます。つまり、前期初頭~中期前半は船載品の工具(手斧、刀子など)が主体をなし、前期末よりヤリガンナ、鏃(ヤジリ)、刀子など小鉄器が、中期前葉より斧など工具が国内生産されました。そして中期中葉に武器、中期後葉に鍬(クワ)などの農具の生産が開始されます。

29 青銅器の鉄器の普及

弥生時代は、水田稲作の時代でもあり、また金属器の時代でもあります。前期末には、船載された武器を主体とする青銅器と、国内生産された工具を中心とする鉄器が出現します。

中期前半には、剣・矛(枝がないほこ)・戈(クヮ・ほこ)の他に腕輪や多紐細文鏡などが加わります。そして、この頃までに青銅器の国産化が始まります。つまり、中期前半で基本的に姿を消す細形銅矛の鋳型が佐賀県惣座遺跡・吉野ヶ里遺跡の二遺跡で検出され、また佐賀県姉遺跡出土の中期初頭~中頃の銅剣鋳型は、朝鮮半島に例を欠く中細形銅剣で、さらに前期末の福岡県有田遺跡の細形銅剣などに国産の可能性が指摘されます。

中期後半以降、中国からの船載の銅鏡や鉄製素環頭刀などが見られるものの、青銅器・鉄器の多くは国内生産されます。

中期後半になると、副葬品は、青銅製武器が姿を消し、鉄製武器が銅鏡とともに主役になります。前期末に日本に流入した青銅器武器は、副葬されなくなったこの時期に、祭器・儀器に変質して大型になり、祭祀遺構に埋納され、それまでの実用的性格が祭祀用的性格に変質します。

一方、鉄器は、国内生産が開始された時点から工具を中心とした実用品で、墳墓には埋納されません。中期後半には、福岡県立岩堀田遺跡に象徴されるように、余剰を掌握した「王」が出現し、鉄器武器を独占するようになりますし、その一部が墓に副葬されます。

金属器は当初、朝鮮半島南部から流入しますが、中期後半かやや先行する頃、甕棺墓副葬の前環鏡や鉄製素環頭刀、ガラス器などにみられるように中国の影響が出始め、以降、対馬を除き船載品は圧倒的に中国製となります。

中期後半は、それまで朝鮮を主体としていた外的影響力が、漢(中国)に転換する時期であり、その最大の契機は、前漢武帝の四郡設置(前108年)による朝鮮半島の直接経営と、それに続く鉄製武器の輸出解禁(前82年)です。

ガラス製品や一部の鉄製武器など中国製品が登場する中期中頃や、前漢鏡や鉄製素環頭刀・ガラス璧など圧倒的な中国製品の世界となる中期後半は、漢帝国の影響を受けたものです。

30 銅鏡と鉄器の東遷

弥生時代の青銅器鋳造遺跡は、福岡県春日市須玖岡本遺跡を中心とする春日丘陵一帯、大阪府茨木市東奈良遺跡を中心とする一帯が知られています。特に春日丘陵は、弥生時代最大の青銅器生産拠点で、鏡・剣・矛・戈・鐸など多種類の青銅器を鋳造するほか、ガラス勾玉を製作し、さらに鉄器の生産も行っています。ことに中広銅矛は独占生産しています。

高倉洋彰氏(1943~、西南学院大学教授)は、銅鏡・鉄器が当選していく状況を、およそ次のように述べています(『日本金属器出現期の研究』などの内容から要約)。

○中期後半の遺跡の出土鏡はすべて前漢鏡で、そのほとんどは筑前にあり、特に糸島・福岡の良平屋に集中している。

○次に、後期前半の遺跡の出土鏡(前漢鏡系の鏡と後漢鏡)は、面数は糸島平野が圧倒するが、遺跡数では佐賀平野の伸びが目立つ。この時期までは、例え破片であっても、副葬時には完形であったと判断されるものばかりである。

○停滞期をはさんで後期後半から終末、一部古墳時代初頭にかけて、再び後漢鏡が副葬されるが、一変してその分布は西日本に波及する。注目すべきは完鏡で、後期前半とほぼ同じ範囲の対馬・壱岐・佐賀県・福岡県にしか分布していない。

一方、破鏡や破片の鏡は、大分県や西日本一帯に拡大分布している。北部九州の一部に分布する完鏡に対し、鏡片が漢鏡の分布範囲を押し広げている。

○このような漢鏡の分布圏の変遷は、細形銅矛(玄界灘沿岸の諸平野に集中)→中細銅矛(細形銅矛分布圏が拡大)→中広銅矛(山陰地方、瀬戸内海沿岸から四国西南部まで拡大)と同じ方向性で、また銅剣やほう製鏡も同様。弥生時代青銅器の初源はすべて朝鮮半島や中国大陸に由来することから、自然な流れであるといえる。

○弥生時代、北部九州を中心に普及する鉄製武器は、鉄製農具と相前後して東遷する。鉄剣は後期後半~終末に瀬戸内・近畿では実態として古墳時代以降にみられる遺物である。

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