東構区と地名

私の生まれ育ち、現在も暮らす区は東構(ひがしかまえ)区という。大正12年に舂米(つきよねとも言うが、正確にはつくよね)神社を建立したとあるので、その数年前である。来年、平成27年(2015年)区創立百周年を迎えることとなる。

『ひがしかまえ区誌』によれば、

「大正の初期には、祢布区から出て来た者の他、他地区からの居住者もあり、約三十戸に達し、暫らく独立の機運が高まってきた。(中略)

大正四年四月、日高村議会に新区設立を申請し、承認を受けたことにより、祢布区から分区し東構区として独立した。

議会申請第拾七号議案

西気県道筋 岩中村所属 祢布村所属ヲ合ワセ行政上便宣の為一ノ
行政区ヲ設置其ノ名称ヲ
東構ト定ム

大正四年四月二十五日
日高村長 藤本俊郎 印
認可ス 印

以下、沿革

明治2年、祢布村の住人田里順三郎氏が、祢布字北構に出村して住居を構えたのが最初とされる。
〃 6年、長谷川周治氏、古川徳兵衛氏がこの地に移り住む。
〃 7年、岩中字東柳に日高村立東柳小学校設立(現在の日高小学校の前身)。
〃 7年以降、前記先住者の外に、4名が相協力して部落への来住を各所で勧誘し、建築資金不足者には頼母子講を以って建築資金を融通する等、大正13年までの約四十年間にわたり鋭意住民の増加に努力して、区形成の基盤を固めていった。
大正2年、阿瀬水力発電所完成。供給開始。
〃 3年1月、独立を前提として集会所(寄付台帳では倶楽部となっている)新築を計画。ニカ年にわたって寄付金を募る。
〃 4年8月、平屋建面積(15坪)の集会所及び、一部消防器具庫を兼ねた火の見櫓を建設。(今の4組小林盛夫氏宅)
〃 7年、藤本俊郎村長が県に運動して、兵庫県蚕種製造所を誘致。東構に開設。東構住民の良き働き場所として大変歓迎された。
〃 10年、日高、宿南、三方、清滝各村の伝染病隔離病舎計画が起こり、建設地を日高村の中央に位置する東構区(現在の日高医療センター)に決定する。
〃 区民は、祢布の楯石神社に参拝していたが、他地区から転入する区民が増加するに従い、祢布村出身者以外の者の神社参拝を遠慮されたしという通達が祢布村よりあり、これを機に大正12年、自区内に神社を建てようという機運が盛り上がる。
〃 12年頃、バイパス案を作成、新県道建設
〃 13年4月、日高上水道株式会社が設立。7月20日給水開始。

〃 15年1月、社殿建築決定。用地取得と社殿の建築には巨額の費用が必要としたので、総予算額を各戸の経済事情に応じて割り当てし、四年間の分割徴収を行った。
境内登記(十六坪 長谷川丈エ門寄贈) 岩中東柳56 152坪2合 3月18日登記
〃    6月23日、社殿落成。区民の意見を取りまとめた結果、明治神宮の遥拝所に決定。長谷川利雄氏が区を代表して東京へ行き、明治神宮の遥拝所としての認可を受ける。祭事には明治神宮ののぼり旗を立てていた。
昭和2年、三方村荒川の吉田神官が舂米(つくよね)神社の御神霊を奉持されていることを聞き、それを勧請し、県の神社庁にも登録され、正式に舂米神社となった。なお、祭神の本社は、鳥取県若桜町の舂米神社である。
〃 8年、火葬場の建設については、確かな時期は不明であるが、昭和八年四月の日付で村議会議事録に「東構火葬場に達する道路改良工事施行の件」と上程されているので、この時以前に建設されていたと思われる。
〃 36年には区の戸数は90戸に達し、舂米神社の地続き岩中字東柳(現在地)に新築。
〃 37年、町立の養護老人ホーム「ことぶき苑」完成
〃 42年、区長、副区長、会計の他に事務長を置き、従来の老人会・青年団・婦人会等外郭団体への財政補助を廃止。また区独自の区民運動会を計画実施する。

区名の由来

新区は、大字祢布と大字岩中から成り、区名の「東」は岩中字東柳から、「構」は祢布字北構から取り、「東構」と名付けられた。

区粋はすべて祢布の地番ではなく、下の地図をみるとお分かりいただけるように、面積の約半分は岩中地番であり、神社と公民館も祢布地番に近いが正確には岩中地番にある。

ところで、構や西構もないのになぜ東構なのかと思う。これは区名となった東構のいわれは、区域の西端にあたる祢布字「北構」の「構」と、区域の東端にあたる岩中字「東柳」の「東」と「構」を合わせ東構としたものである。
明治に旧気多(けた)郡日高村という村名が発足したいわれも、『郷土誌 日高村』には、「日高村ハ往時、日置・高生・高田・気多・太田・楽前ノ六郷ニ分属シタリシガ、近古、日置・高田二郷の頭文字を取リテ日高村ト改称セルナリ」とあるが、それに倣ったのかもしれない。

『但馬の中世』p251 宿南保氏に、南構について触れられている。

垣屋氏の本拠地は、しばしば述べてきたように、三方庄・楽々前庄であった。ここは円山川支流の稲葉川の中・下流域である。垣屋氏の居城はこの庄域に集中している。東西に伸びるこの谷の入口部を制する位置の南側の山上に宵田城、その真向かいの北側に祢布城があって、その両域を結ぶ平地部の直線上には、「南構」「北構」の小字名が橋渡しのように接続して並んでいる。明確に入口部に防衛線が構築されていたことを物語っていよう。南構と北構の境界線上には街道があって、それが西方向へと伸びていたのだろう。南構の西に細長い「市場」字名の存在することは、街道沿いに市場の形成されていたことが読み取れる。

(現在の東構区に隣接する久斗区東部)


赤点線域 祢布


赤点線域 岩中

上図のように、国道312号線城山トンネルの真ん中あたりに宵田城跡がある。その北構と南構の境界線は、西の下道(西気道)とすると、現在の旧県道にあたり、その旧県道に離接する北側で、おそらく北構は中川までだろう。東は祢布区に北に伸びる道までが祢布。道から東は岩中だが、宿南保氏の図によれば、北構は、中川から旧県道までの間に岩中地番までだろうか。その旧県道に隣接する南側から稲葉川までが南構である。祢布区につながる道の西までが祢布、東からは岩中になる。旧県道はJR山陰本線をまたぎ、江原本町で旧国道312号と合流する。岩中字東柳は、西気(西の下)道(旧県道)の北側で、現在の日高小学校の前進、東柳小学校があったあたりから祢布に向かう旧道までの細長い字である。旧県道の日高小学校入口あたりである。

現在の行政区域は、本籍上は上記の祢布と岩中であるが、西北部が祢布であるが、その他の大部分は岩中となっている。ちなみに明治までは祢布は高田郷、岩中は高生郷と異なる郷であるように、祢布と岩中の田畑地域で、何時頃から居住者があったかは定かではないが、大正期に東構発足時、十数軒と記されている。

10年ぶりに宵田城跡を登る

  

豊岡市日高町岩中区の宵田城跡へ約10年ぶりに登った。FBに30年ぶりと書いたけど、10年ほど前に一人で旧道から登ったことを思い出した。新しい広い道からははじめて。
毎年、地元消防団で竹だんじりを製作していた頃は、この城山の麓まで真竹を採りに登っていたので、よく知っているし、城跡では最も回数が多い。しかし60歳近くなって広い道なのに息切れがして老化を痛感した。神社の長い石段には慣れているものの、城山としては156mと低いのに、なかなか着かない。

宵田城中枢部縄張図 西尾孝昌氏

講師は但馬では城郭研究の第一人者である西尾孝昌先生。指導を受けながらメジャーで本丸、二の丸や各郭の実寸を測り方眼紙にスケッチする。

宵田城については、すでに書いているので概要のみ記すと、中世から戦国時代前記まで山名四天王といわれた重臣の一人で気多郡西気谷(現在の豊岡市日高町と竹野町南部)と阿瀬金銀山、竹野鉱山を押さえていた垣屋氏の居城のひとつ。道場区と佐田区の西南にあった楽々前城(ささのくまじょう)を本拠として垣屋隆国の長男、垣屋熙続(熙忠長男:越前守)が楽々前城、次男の垣屋熙知(次男:越中守)がここ宵田城、三男・垣屋豊茂(熙忠三男:駿河守)が竹野の轟城主となった。兄弟三人は、越前守家が楽々前城、越中守家が宵田城、駿河守家が轟城と、それぞれ城を分かち持ち垣屋氏の勢力はおおいに伸張したのある。

山名四天王のうち、竹田城の太田垣氏は生野銀山と朝来郡を配下に置き、中瀬金山と八木城を築き養父郡を配下に置いた八木氏は、丹波道主命の末裔で但馬国造日下部一族の流れをくむ但馬の国人衆、田結庄(たいのしょう)氏は桓武天皇の皇子葛原親王の後裔で、七代後の越中次郎兵衛盛継は源平合戦に敗れ、城崎郡気比に隠れ住み、その子の盛長が一命をとりとめて田結庄に住み田井庄氏を名乗ったという。鶴ケ城(豊岡市山本)と城崎郡を配下に置いていた。垣屋氏はこの3人と異なリ但馬国人ではなく、山名氏の重臣の一人として群馬県山名庄から起こった山名氏に従って但馬へ移り住んだ。もとは土屋姓で、相模国大住郡土屋邑を本貫地とする関東の武門の名門の一つ土屋党で、垣屋氏は土屋氏分流のひとつである。

いまNHK大河「軍師官兵衛」では秀吉の但馬・因幡侵攻で竹田城が登場するかもと期待してみていたら、織田軍羽柴秀吉の備中松山城水攻めに重点が置かれて、羽柴秀長率いる豊臣軍の竹田城を始め但馬や鳥取城攻めまで、ものの見事にカットされてしまっていたが、宵田城のすぐ南の浅倉の岩山城では毛利方についた山名一門の激烈な防御戦により秀長軍は気多郡からの侵攻は諦め、出石へルートを変更したのである。

丹波道主命と大丹波王国

地図:国土交通省

但馬・丹後は、方言も山陰や若狭に近いが、兵庫県・京都府であり、関西(近畿)でもある。瀬戸内の山陽地方と中国山地を隔てて北にあるので山陰という。かといって、日本海側は交通も不便であり、過疎化が進み人口も減少傾向にある。

しかしである。結果的に自然や寺社などが残っていることは財産でもあるのだ。そもそも三丹が国として誕生したはるか昔から江戸末期に黒船が来航するまでの日本誕生から長い間、日本海側が表日本だったのであるのに比べれば、日本列島の太平洋側が表玄関になったのは、幕末からわずか200年に過ぎない。

丹波たんばの国は、律令制以前の古代は、丹後たんご但馬たじまも丹波であった。

とくに但馬・丹後は、なかでも近い豊岡市と京丹後市などの地域は、文化・方言等がよく似た地域で、府県の違いはあるにも関わらず、共通の生活圏でもある。

『国司文書 但馬故事記』にそのヒントが隠されている。

郡ごとに八巻に分けられれるが、ほとんどの冒頭はこれにはじまる。

天照國照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖、高皇産霊神より、十種瑞宝を授かり、妃の天道姫命とともに、坂戸天物部命等十数名を率い、天磐船に乗り、田庭の真名井原に降り、豊受姫命より五穀養桑の種子を獲て、射狭那子嶽に就き、真名井を掘り、稲の水種や五穀の陸種をつくるべく植え、その秋、稲の穂が一面に充ちた。(中略)故にこの処を田庭と云う。丹波の号、ここに始まる。その後、天火明命は谿間(但馬)を開く。(中略)

のち、人皇10代崇神天皇の御世、先帝の皇子、彦坐命が丹波・多遅麻・二方の三国を賜い、大国主となる。

伴とし子さんは著書「ヤマト政権誕生と大丹波王国」で、

国宝『海部氏系図』(元伊勢籠神社)の中で、地名に限り言及すると、「孫 健振根宿祢たけふりねのすくね」のところに、「若狭木津高向宮わかさこづたかむくのみや」という地名が記されている。このことから、古代の地域国家を名づけて大丹波王国(=丹後王国)としたが、若狭国もその勢力範囲であったと考えられる。(中略)

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とよおか市民学芸員養成講座 に行ってきました

第6回「展示活動と資料の取り扱い」

但馬国府・国分寺館
前回に作った勾玉。前の席で夏休み体験イベントで親子で古代の勾玉づくりをされていて、染料があったので緑がそれらしいと染めてみました。

『但馬故事記』から読み解く但馬国府の所在地

但馬国府の所在地は、但馬史の長年の謎とされている。

日本後紀にほんこうき』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府移転が考えられる。遷された理由や、どこからどこへ遷したのかについては、記述がないため分からないので今後も発掘調査にかかっているが、所在地については、近年の国道312号バイパス発掘調査により、その移転先は、豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の西にある祢布にょうヶ森遺跡から国道312号バイパスまであると考えられている。「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるから、この発見は、移転後の第二次、第三次国府だとされている。
ではなぜ、祢布ヶ森遺跡が但馬国府と考えられるようになったのか。

川岸遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市日高町松岡(JR山陰線東側市道建設時)
・川岸遺跡出土(昭和59年)
人形、斎串、馬形、木製品、須恵器、土師器など

都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市水上字深田他(国道312号バイパス建設工事発掘調査)(平成6年)
・深田遺跡出土
木簡、木製品、墨書土器、金属製品、須恵器、
土師器など
(一部兵庫県指定文化財。平成6年度指定 兵庫県立考古博物館蔵)

祢布ヶ森遺跡
(国道312号バイパス袮布交差点西北から豊岡市日高総合支所まで)
・祢布ヶ森遺跡出土
水田面から深さ25cmの所で平安時代の遺構を確認。木簡、木製品、祭祀具、墨書土器、須恵器、土師器など。さらに南北20mにわたって濠を発見し、中からは自然木や木製品、建築部材などたくさんの木に混じって木簡203点が出土した。木簡203点が出土(県内最多)した。日本で初めて中国最古の詩集『詩経』の一部を書いたもの、城埼郡(原文のママ)から茜を送った際の付札、「弘仁四年(813)の年号を書いたものなど祢布ヶ森遺跡では、これまでに16点の木簡が出土しているので、今回のものと合わせて219点の木管が出土したことになる。

県内で見つかっている木簡は約870点あるが、市内で見つかった木簡は、袴狭はかざ遺跡(出石)の76点但馬国分寺跡(日高)の42点など、約440点。県内の木簡の約半数が豊岡で出土していることになる。全国60ヶ所余りに置かれた国府跡でも、点数では栃木県の下野国府に次いで全国で2番目に多い出土となる。

長く続いていた国府推定地をめぐる論争は、以下の川岸遺跡・深田遺跡2ヶ所の発掘調査で、国衙と思われる官衙跡が見つかりほぼ断定されてきた。

祢布ヶ森但馬国府は条里制に収まっていた

但馬国府は少なくとも三回移転が行われていることがわかっている。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もあった。
『日高町史』には
但馬史説・国府村誌説・日置郷説・八丁路説・八丁路南説・国司館移設説が記されている。

詳細は『日高町史』をご覧いただくとして、国分寺と国府は、まず距離的に近い場所に遷されるのが通例である。国分寺と国分尼寺は当初から移転がなかったことはそれぞれ礎石が残っていることから確定しており、国衙はその付近が濃厚だということになる。国分寺と国分尼寺のあった水上(正確には山本字法花寺。奈良の法華寺を総国分尼寺とする。正式には法華滅罪之寺という、日高東中前の礎石の所在地も山本字法花寺。法花寺は古くは法華寺と書いた。現在の法華寺と天河森神社所在地は移転)は隣接区で、その2ヶ所を底辺とする二等辺三角形の頂点に国府があったものだと考えると、その三角形の頂点にあたるのが深田遺跡付近で、この国分寺、国分尼寺に近い地点に国府(国衙)が最初に建設されたと見るのが妥当であろう。

国府と国衙

府とは、『国司文書・但馬故事記』に府と記されているように政務を執る施設のことで、すでに全国に国府が置かれる以前の多遅麻国造のころから国の政治を掌る場所を「府」と呼んでいたようだ(国府と国衙を同一視する説もあり)。通常、国府とは令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市をいい、国司が政務を執る施設(国庁)を国衙(国の役所)というそうだ。


2011.資料:2011.5.22 「第45回 但馬歴史講演会」但馬史研究会
「祢布ヶ森ニョウガモリ遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡孝彰氏資料より

最初の国府は国府(郷)にあった

 

『国司文書・但馬故事記』(抜粋)に、

人皇12代景行天皇32年夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐せしことを賞し、その功により摂津の川奈辺(旧川辺郡)・多遅麻の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に在り。多遅麻物部氏の祖なり。
人皇15代神功皇后立朝の2年5月21日、気多の大県主物部大売布命薨(殯)モガリす。寿158歳(79歳)。射楯(今の国分寺石立)丘に殯す。(式内売布神社)
物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武を以て、多遅麻国造と為し、府を気立(のち気多と記す)県高田邑(今の久斗)に置く。
人皇16代仁徳天皇元年4月、物部多遅麻連公武の子、物部多遅麻毘古を以て、多遅麻国造と為し、府を日置郷に遷す。物部連多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武を射楯丘に葬る。
2年春3月、物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊を気多神社に合祀す。
人皇18代反正天皇3年春3月、物部連多遅麻毘古の子、物部連多遅麻公を以て多遅麻国造と為す。多遅麻公は多遅麻毘古を射楯丘に葬る。
人皇21代雄略天皇3年秋7月、黒田大連を以て多遅麻国造と為し、府を国府村に移す。

人皇42代文武天皇庚子4年春3月、二方国を廃し、但馬国に合し、八郡と為す。
朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。
府を国府邑に置き、これをツカサドる。従五位下・櫟井イチイ臣春日麿を以って、但馬守タジマノカミと為す。
櫟井臣春日麿は孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の孫、彦姥津命五世の孫・大使主命オホオミノミコトの裔なり。

とあるから、律令制度による最初の但馬国府は国府村(官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)辺り)で間違いないだろう。

大宝3年春3月、国司櫟井臣春日麿はその祖大使主命オオオミノミコトを市ノ丘に祀る。
5月市場を設け、貨物を交易す。しかして商長首宗麿命アキオサノオビトムネマロノミコトを祀る。(式内 伊智神社の現在地 豊岡市日高町府市場935)

「国司櫟井臣イチイノオミ春日麿はその祖大使主命を市ノ丘に祀る。」とあるから、式内 伊智神社の現在地は豊岡市日高町府市場935であるが、遷座される前は国府所在地に近い市が開かれた市ノ丘という丘の場所であったであろう。

『国司文書・但馬故事記』に見る限り、第一次但馬国府は国府村内ということになる。しかも美努(三野)ミノ神社は国府村に祀ったとしている。美努は今の野々庄だ。今の所在地が遷座されたものではないものとすると、当時の国府村はいまの府市場から野々庄までを指したのかもしれない。

『但馬国司文書別記・第一巻・気多郡郷名記抄』に、太多タダ郷・三方郷・佐々前ササクマ郷・高田郷・日置郷・高生タコウ郷・国府・狭沼サノ郷・賀陽カヤ郷とある。

国府は国府所在地なので、あえて「郷」は付けないのだろう。
国府内の村名は山本(古くは八上ヤカミ)・土居ヒヂイ村・伊智村・堀部・美努ミノ・熊野・柴垣・池上イキノエ上石アゲシ
同時期の『但馬郷名記抄』には美努とあり、美努は式内三野神社から今の野々庄である。気多郡郷名記抄に国府村は記載がないにも関わらず、美努村としないで国府村と記されている。それは、どういうことなのだろう。国府村が戸数増加により分村し美努村が分かれたのか。

『但馬故事記』註解の吾郷清彦氏は、それぞれの但馬国史文書編纂時期を調べているが、『但馬故事記』・『但馬郷名記抄』は、ともに天延3年に完成している。しかし、最初に編纂された第一巻・気多郡故事記から第八巻完成まで、起稿 弘仁5年(814)-脱稿 天延2年(974)で160年という長い年月をかけているわけである。その長い年月の間に国府村・美努村と変遷があったのかもしれない。しかし、国府の郷にあって国府村とするには、国府所在地だったからで、何んらかの根拠があったからではないか。伊智村は市場を意味する。

『和名抄』にはいまの地名である府市場に近い国府市場コウノイチバとなっている。国府に近いに違いないが、国衙(国府が置かれていた区画)の所在地ではない。山本は元は国府郷に入っていたことが、国府所在地のヒントだといえないだろうか。国分寺はいまの国分寺区、国分尼寺は今の水上ミノカミ区(正確には山本字法花寺)で国分寺と国分尼寺はともに礎石が残っており、場所は確定されるので、国衙は2つを底辺に二等辺三角形の頂点だと考えられる。それらに近い場所であるはずだから、発掘調査で水上字深田から川岸遺跡の松岡辺りのJR山陰本線西周辺である可能性が高くなった。第一次国府はその近い位置に置かれたとすれば、深田遺跡は高田郷であり、松岡は当時日置郷にあるからおかしいことになるが、深田遺跡とは隣接地である。『日本後紀』延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がその唯一の記録である。中央から地方に派遣された任官が中央に報告しないと『日本後紀』に記録されるはずはない。第一次但馬国府は、高田郷には近いかも知れないが、高田郷の水上・国分寺・祢布あたりではなく国府(郷)であった。そうでないと、「高田郷に遷す」と、わざわざ書かないだろう。高田郷ではない国府(郷)でなければならない。

以下、私個人の推察

以上、調査を元に地図にしてみた。

縄文時代、人々は山間部で狩猟や木の実や果実を採集して暮らしていた。縄文海進からやがて平地が現れる。稲作が伝わり計画的農業には水の多い平地が適している。田んぼの作業に近い場所に定住するようになり、村が生まれ人口が増え郷へ発展し物々交換で往来する。なぜ、縄文以前の旧石器時代に人々は高い山岳地帯に暮らしていたのだろう。但馬で人類の遺構として古いものは、新温泉町の鳥取県境の畑ヶ平遺跡など豪雪地帯の山岳であるのに、他に但馬の古い遺跡は鉢伏や神鍋などで見つかるのだ。

平地に住めばいいのに何で不便で寒い山岳地帯に人類は最初に住んだのかと不思議なことだと思っていた。不思議でもなく理由があるはずだ。

当時の縄文海進のころは海抜は高くおそらく今の高地部まで海水が近かったのだろう。新温泉町でも海であった貝殻の化石が見つかるし、今より気温は高く、日本列島は細かい島々に分かれていたのではないか。高所を好んだのではなく、地勢により必然的にそこしか陸地がなかった。

奈良時代に律令制が全国的に整備されものが国と国府(国衙)・国分寺・国分尼寺で、また、国府は水運に便利な円山川に近い平地からやや高い高田郷へ遷ったとすれば、それは何を理由にしたのだろう。台風など天災による水害に見舞われたのか、火災なのか、あるいは不便だったからからかやむを得ない事情が起きたことに他ならない。

官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)は、ともに隣接地なので同一のもとも考えられるが、水上ミノカミという地名の通り、縄文期までは円山川下流域は黄沼前海キノサキノウミという入江で、国府から以北の円山川流域は海抜が0mに近い地点である。丹後の国庁跡、丹波国庁推定地、鳥取県の因幡国庁跡や伯耆国庁跡、島根県の出雲国庁跡も見に行ったが、例えば因幡国庁も千代川下流域の旧鳥取市内ではなく旧国府町に置かれた。出雲国庁も松江の宍道湖周辺ではなく、やや内陸部である。それは河口に近いところは川から運ばれてきた土砂が堆積して平野部を形成する沖積地であり、松江、鳥取、豊岡、宮津にしても、中世以降、戦国時代に城を築き発展した城下町である点だ。豊岡と旧日高町との地勢や国庁の配置が酷似している。

気多郡(旧日高町のほぼ全域)は、すぐ北は城崎郡、東は出石郡、南は養父郡、朝来郡で、西は蘇武岳を越えると七美郡、美含郡、二方郡、また山陰道につながり、但馬国八郡のどまん中である。国府を置くには最適地だ。しかし、それは大水による水害かあるいは地震による地盤沈下と倒壊なのか、移転せざるを得ない止むに止まれぬ大きな事情が起きたからではないかと思っていたのである。

また、興味深い事実を知った。平安期にも縄文海進のような平安海進があったというのだ。8世紀から12世紀にかけて発生した大規模な海水準の上昇(海進現象)と減少を繰り返していた。ロットネスト海進とも呼ばれているが、日本における当該時期が平安時代と重なるためにこの名称が用いられている。ローズ・フェアブリッジ教授の海水準曲線によると、8世紀初頭(日本の奈良時代初期)の海水面は、現在の海水面より約1メートル低かった。10世紀初頭には現在の海水面まで上昇した。11世紀前半には現在の海水面より約50センチメートル低くなった。12世紀初頭に現在の海水面より約50センチメートル高くなった。

8世紀初頭は現在の海水面より約1メートル低かったが、10世紀初頭には現在の海水面まで上昇しているのだ。高田郷に移転したのが、延暦23(804)年であるから、この平安海進の時期に符合するのだ。第二次但馬国府は高田郷

さて、但馬国府は何かの理由で最低一回は移転されている。おそらく国府平野が海抜0メートルに近い低湿地であったことが原因だったのではないかと思う。国衙が河川の大きな水害に遭ったのだ。祢布ケ森遺跡で大量の木簡などが発掘された、水害を免れるより高い場所の高田郷の祢布(市役所日高振興局周辺)である。

ところが、『国司文書・但馬故事記』は、律令以前の府を克明に記してあり貴重であるが、人皇50代桓武天皇御代に関する記述は、。『日本後紀』にある延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がまったく記されず、こう記してある。

人皇50代桓武天皇延暦3年冬12月 本国、大毅外従六位上、川人部広井、私物を集めて、公用に供す。勅して外従五位下を賜う。
4年春2月 外従五位下、川人部広井、本姓を改め、高田臣を賜う。

国の正書『日本後紀』に但馬国府移転が記載されるというのは国の重要事項なのに、但馬国府の国学の任官であるはずの執筆者等にとっては、知っていながらさしたる重大事でなかったのだろうかと不思議である。

(続いて、)人皇52代嵯峨天皇大同5年夏5月11日 兵士300人を以て健児と為し、健児一人ごとに馬子二人を置く。
弘仁3年春正月 従五位下、良峰朝臣安世を但馬介と為し、国学寮をして但馬故事記を撰ましむ。これを国司文書と云う。

国衙移転という大事業の時期なのに、軍団は簡素化され、歴史書を編纂し始めると、いたって平穏な印象である。

また、深田遺跡は水上ミノカミといって、出石町にも水上ムナガイという同じ漢字の地名がある。いずれも黄沼前海が入り込んだ低湿地帯のそばであったと思われる岸辺だった。水上字深田という地名からみて、沖積土壌で地盤も軟弱な地盤であったことは推察できる。この田園地帯は北へ進むほど海抜0メートルに近い場所である。国府には郷名はそもそもない。国府は国府でありあえて郷名は必要ないからだが、中世以降は、国府、または国府郷と郷名で記されている場合もある。

国府の国衙を置くとすれば水害に遭わないように少しでも海抜が高い場所を選んだはずで、以降に挙げた但馬国司文書但馬故事記に国府村に移すとあるので、今の野々庄から堀辺りに府が置かれたことはあった。唯一の公式文書『日本後紀』にある延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるので、国府郷から高田郷に遷すと記したのだから他の郷からである。国府村ではなく国府(郷)で一番水害の起きにくい標高の高い場所の深田遺跡で、ここはぎりぎり国府(郷)の南端であり、すぐ西隣は高田郷、南は日置郷に隣接している3つの郷の境に当たる。『日高町史』にある八丁路説・八丁路南説はこの条里制の東西道に当たるし、すぐ南は日置郷で日置郷説にも近い。

条里制が布かれた頃は、すっかり水位が下がって国府平野も安定していたのかどうか分からないが、国衙もその条里の正方形の一画に組み入れられ計画されたものだとすれば、その当時は、すっかり平野ができていたのだろうか。私は大きな水害に見舞われたのではないかと推察する。同一場所に再建するのは不可能であったか、また、より安心できる標高の高い場所で地盤もしっかりしている高田郷の祢布ケ森付近に遷したのではないかと考えている。

『国司文書・但馬故事記』を見ると、延暦3年(784)には、かなり中央集権からその土地の人々に権限を移譲していったのがが分かる。弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介タジマノスケと為し、とあり、但馬守は国司で、介はその次官であるので、「弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介」とあり、この頃すでに国司は任地に赴かず、次官の介を派遣していたようだ。実務上の最高位は次官の介であった。
この3点の年月は10年以内で、中央集権機能は簡素化されていったのだろう。

 

新温泉町の郷と地名

[郷名は、鎌倉以前の郷名として作成した。行政区名は現在の地名を使用]
現在の兵庫県美方郡新温泉町は、鳥取県と兵庫県の西の県境に位置する旧美方郡浜坂町と温泉町で、平成17年(2005年)10月1日に日本海に面する漁港で知られる浜坂町と夢千代日記の舞台となった湯村温泉で有名な温泉町が合併して発足した。その町域は、但馬国に併合される以前の二方(ふたかた)国(郡)に当たる。

ちなみに美方郡は、明治29年(1896年)4月1日、郡制施行のため、七美しつみ郡・二方ふたかた郡の区域をもって七美の美・二方の方より一字ずつを用い美方郡として発足したものである。西は鳥取県岩美郡岩美町、東隣りは美方郡香美町。

二方国

二方国とは、(古くは「ふたあがた」と読み布多県と書いた。)九州北部や出雲などからクニ(小国)が起こり始めて、二方国が国としては小さいながら、因幡・但馬とは独立した国であったのかを考えると、その地理的要因が大きい。因幡国と但馬国の中間にあり、中央や周囲と疎遠で独自の文化を残していたからと考えられる。中国山地の県境、氷ノ山など標高の高い山岳地帯をくねくねと曲がりながらいくつも峠を越えて山陰道(今の国道9号線)が走る。湯村を下り式内面沼神社がある竹田交差点で左に折れれば因幡(鳥取県東部)の山陰道が通り、まっすぐ北へ進めば日本海の浜坂へ分かれる交通の要所である。

『国司文書別記 但馬郷名記抄』をみても、他の但馬国の朝来・養父・気多・出石・城崎・美含、七美の七郡は、天火明命が丹波から但馬へ入り国を開き、多遅麻(但馬)と名づくことから話が始まるのは共通している。しかし、二方郡だけは当初別々の国であり、出雲国から素盞鳴尊が子の大歳命(大年命)と稲倉魂命に勅し、井久比宮(今の居組)に坐し、布多県国を開くところから始まる。

二方国は、人皇42代文武天皇の庚子四年(701)に廃し、但馬国に合せられ二方郡となるまで、約1300年間、二方国造16代、同国司1代、計17代続く。

二方とは

二方は古くは「ふたあがた」と読み布多県と書いた。二方郷は久斗川と岸田川が合流する久斗川から日本海までの北の郷名でもある。現在の区は西から清富・指杭・田井・三尾・赤崎・和田。

「ふたあがた」が「ふたかた」になったようであるが、布多は万葉仮名でまだ仮名がなかった当時の漢字の当て字なので意味はない。その「ふたあがた」とは、大庭県オホバノアガタ端山県ハヤマノアガタの2つの県をさす。二方郷は、律令制で但馬国府の国府が置かれた郷には郷名がなく「国府(または国府郷)」と記しているように、二方国の府が置かれたから二方郷としたのではないか。大庭県は旧浜坂町全域、端山県は旧温泉町全域(その後七美郡から一部編入)で、二方とは二方国、のち二方郡であり、旧浜坂町と旧温泉町が合併し新温泉町となったのは、二つの県(郡の古名)の二方国がそもそも歴史上においては起こりである点では、ごく自然な合併の流れといえるかも知れない。

二方郡(ふたかたのこおり・ぐん)

人皇42代文武天皇の庚子四年(701)に二方国を廃し、但馬国に合せ二方郡となる。

『校補但馬考』地理第七上

この郡は、上古別に一国なり。人皇十三代成務天皇の御宇、国造を定め給う。旧事本紀曰く二方国造くにのみやつこ、志賀高穴穂朝の御世、出雲国造の同祖、遷狛一奴命うかつくぬのみことの孫、美尼布命みねふのみことを国造に定め賜うとあり、其後一郡として、但馬に合わせられしは、何時にかありけん。古書に見えず。(*1)

倭名類聚抄に載る郷 9
久斗・二方・田公・大庭・陽口・刀岐・熊野・温泉(ユ)
以上9郷に村数54

延喜式神名帳曰く二方郡五座並小
二方神社・大家神社・大歳神社・面沼神社・須加神社

久斗郷(クト)
今の村数 7
瀧田・久谷・正法菴・邊地・境・濱(浜)坂・福島

二方郷(フタカタ)
今の村数 5
清富・赤崎・指杭(サシクイ)・和田・田井
『国司文書・但馬故事記別記・郷名抄』
和機村(和田)・二方村

三尾浦

『国司文書・但馬故事記別記・郷名抄』
御火浦ミホノウラ(古語は御保乃宇良)

息長帯姫尊は、越前国気比浦より御船に御し、北海より穴門(長門)国に至る。
この時多遅麻の伊佐佐御崎において日暮るる故、五十狭沙別大神、御火を現わし、二方浦曲(ウラワ)に導く。故に御火浦という。
のち火を避け、尾となすため「三尾浦」という。五十狭沙別(イササワケ)大神・息長帯姫尊・帯仲彦天皇(仲哀)を鎮座す。

田公郷(タキミ)
今の村数 7
栃谷・七釜・古市・新市・用土・今岡・金屋

大庭郷(オホバ)
今の村数 7
三谷・二日市・戸田・高末・釜屋・諸寄・蘆(芦)屋・居組

今 居組は仮で、別に大歳ノ庄というは、延喜式の大歳神社ここにいますゆえならん。本名は伊含なり。太田文大庭ノ庄に加えるとあり。今居組と書くは、訓同じければなり。

大庭(オホバ)

素戔嗚尊は、大年命と蒼稲魂神に命じて、布多県(ふたあがた)国を開かせ賜う。大年命は、蒼稲魂神とともに布多県国に至り、御子を督励して、田畑を開き、その地を称して、大田庭と云う。いま大庭(おおば)と云う。(美方郡新温泉町に大庭あり)

八太郷(ハタ)

今俗に畑と一字に書くは、謬(アヤマ)りなり。地名は二字を用いて、佳名を選ぶべしと延喜式にあり。(*2)

今の村数 11
井土・千原・鐘尾・千谷・宮脇・内山・越坂・海上・前村・石橋・岸田

面沼神社
井土村にいます。(中略)面沼に駅馬八疋置きし。

熊野郷
何れの郷と入り混じりや、その境を知らず。(*3)

温泉(ユ)郷
この郷の湯村に温泉あるゆえ、古代に二字にて「ゆ」と読ませたるを、後世知らずして、温泉(ユセン)郷と云う。また誤って泉の字を前に書き換えて、今は湯前庄と云う。(*4)

今の村数 16
湯村・熊谷(クマダニ)・伊角・檜尾()・春木・哥長(今は歌長)・柤岡(ケビオカ)・細田・多子(オイゴ)・鹽(塩)山(シオヤマ)・中辻・丹土(タンド)・切畑・竹田・飯野・相岡

温泉郷(ユノサト)

端山(ハヤマ)村・榛木(ハリキ)村(春木、今の春来)
*春木は二方郡温泉郷であったが、延喜式神名帳で春木神社は七美郡となっていることから、のち平安後期には、七美郡射添郷に編入された時期があったかも知れない。『国司文書・但馬故事記』『国司文書別記 但馬郷名記抄』等には、春来が二方郡から七美郡に変更されたような記述は全く見られないので、もしかしたら延喜式神名帳の編纂者が誤って七美郡としたのかも知れない。

陽口刀岐の二郷は、倭名鈔に和訓なし。その地を考えがたし。故に強いて論せず。総じてこの郡中諸郷の土地。その村入り混じりて正しからず。古代の境を失えるに似たり。重ねてその地を踏まずんば、みだりに議しがたし。故に今しばらく土人の説に従いこれを訳す。

(以上、『校補但馬考』)

拙者註

『校補但馬考』では、桐岡が抜けているのはなぜか。『校補但馬考』の以上の村は『和名抄』の記載を引用しているが、『和名抄』以前の『国司文書・但馬故事記別記 但馬郷名記抄』 天延3(975)にすでに桐岡村は記されている。

陽口(ヤク)郷(古語は屋久)

陽口開別命鎮座の地なり。この故に名づく。
壇岡(古語は麻由美乃意可)
壇貢進の地なり。日枝神社あり。大山咋(オオヤマクイ)命を祀る。
切畑村・細機村・陽口村・桐岡村

*切畑・細機(細田)・桐岡は現存し、陽口村とは郷の中心部であるから郷名となったものだろう。照来小学校など今も中心部である。陽口と照来は似た意味なので今の桐岡は人口増加により桐岡と陽口は村の区域が密着して桐岡に合わせた可能性が高い。

真弓 壇岡(マユミオカ)
人皇40代天武天皇白凰12年閏4月 文武官に教えて軍事を努め習わしめ、兵馬器械を具え、馬有る者は以て騎兵と為し、馬無き者を以て歩卒と為し、時を以て検閲す。牧場場を当国の刀伎波トキハ村に設け、刀伎波兵主神を祀り、兵馬の生育を祈らしむ。
(それまでは、人皇37代舒明天皇の2年 竹田周辺に軍団は置かれていた。おそらく人口増加により集落が発達し、兵馬・軍事訓練には向かなくなったためではないか?)

常磐ときわ神社 美方郡新温泉町中辻304)

旧温泉町で広い場所として考えられるのは、唯一、但馬牧場公園のある照来地区である。最も平坦な場所はここ以外にない。照来を陽口郷、中辻から塩山・飯野を古くは刀伎波郷で、但馬牧場公園スキー場辺りの丘を真弓、壇岡と称していたのではないだろうか?

『但馬神社系譜伝』壇岡

壇貢進の地なり。日枝神社あり。大山咋命を祀る。とある。この付近で日枝神社は香美町村岡区柤岡の村社に日枝神社。

照来(テラギ)

人皇16代応神天皇六年春三月、
二方開咋彦命の子・宇多中大中彦命(又の名は須賀大中彦命)をもって、二方国造と為す。宇多中大中彦命は、前原大珍彦命の娘・多久津毘売命を娶り、陽口開別(やくひらきわけ)命を生む。

人皇42代文武天皇庚子4年春3月 二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡と為す。
従七位上榛原公照来を以て二方郡司と為し、郡衙を端山郷に置く。
大宝元年秋9月 榛原公照来は、その祖大山守命を春木山に祀り、春来神社と申しまつる。(式内 春来神社 新温泉町春来)

(陽口郷(ヤク)の陽口は見当たらないが、榛原公照来からこの地区を照来となったのだろう。)

刀岐郷(トキ)

刀岐波彦命の地なり。この故に名づく。また刀岐波兵主神を斎きまつる。往昔(ムカシ)は兵庫(ヤグラ)の地なり。
刀岐波村・塩屋村・壱岐村とある。

*『校補但馬考』では熊野郷・陽口郷・刀岐郷は不明とし一緒に合わせて16村としているが、『但馬国郷名記抄』から考察するに、熊野郷は県道47号線の今岡・金屋から県道549、550線の熊谷・伊角・桧尾を指す。

『国司文書別記 但馬郷名記抄』 天延3年(975)より (吾郷清彦氏編者註含む)

素戔嗚尊の子・大年命の子・瑞山富命の孫である布多県国造初代・穂須田大彦命と布多県国造二代・刀岐波彦命はいずれも大年命と蒼稲魂命の兄弟神の血が濃く入り交じっている。
第三十五代舒明天皇まで、素戔嗚尊の末裔が第十五代まで長く続く。
第四十二代文武天皇朝に、二方国は廃され、但馬国に合わせ、二方郡となる。

歌長(古語は宇多中、歌中:ウタナカ・哥長:ウタナガ)

人皇一代神武天皇五年八月、
瑞山富命の孫・穂須田大彦命をもって、布多県(ふたあがた)国造と為す。穂須田大彦命は、久々年命の娘・萌生比売命を娶り、刀岐波彦命を生み、宇多中宮に在りて国を治む。(美方郡新温泉町に歌長あり)

塩山(シオヤマ)

人皇五代孝昭天皇元年夏四月、
刀岐波彦命の子・布伎穂田中命を以って、布多県国造と為す。布伎穂田中命は、黒杉大中彦命の娘・千々津比売命を娶り、糠田泥男(ひじ)命を生む。布伎穂田中命は、志波山宮にありて国を治む。(刀岐郷の地名に今の塩山に相当する鹽(塩)山あり)

人皇八代孝元天皇五十六年春三月、
布伎穂田中命の子・糠田泥男ひじ命をもって、布多県国造と為す。糠田泥男ひじ命は、磐山飯野命の娘・豊御食姫命を娶り、宇津野真若命を生む。糠田泥男命は、泥男宮にありて国を治む。

浜坂(濱坂・濱阪)

人皇10代崇神天皇三年秋七月、
糠田泥男命の子・宇津野真若命をもって、布多県国造と為す。宇津野真若命は、波多類彦命の娘・真若毘売命を娶り、高末真澄穂命を生む。宇津野真若命は、浜阪宮にありて国を治む。(美方郡新温泉町浜坂)

高末(タカスエ)

人皇11代垂仁天皇十年春二月 宇津野真若命の子・高末真澄穂命をもって、布多県国造と為す。高末真澄穂命は、熊野狭津見命の娘・飯依毘売命を娶り、弥栄滝田彦命を生む。高末真澄穂命は、高末宮にありて国を治む。
(美方郡新温泉町高末あり)

対田(古くは滝田)

人皇12代景行天皇二年春三月 高末真澄穂命の子・弥栄滝田彦命をもって、布多県国造と為す。弥栄滝田彦命は、滝田宮にありて国を治む。弥栄滝田彦命は、遷狛一奴命(うかつくぬ)の娘・安来刀売(やすぎとめ)命を娶り、美尼布命を生む。

田井・清富

人皇13代成務天皇五年秋八月 出雲国造の同祖・遷狛一奴命の孫・美尼布命をもって、二方国造と定む。美尼布命は、田井宮にありて国を治む。大清富命の娘・美保津姫命を娶り、二方開咋(あきくひ)彦命を生む。(美方郡新温泉町に田井・清富あり)

人皇15代神功皇后七年春二月 美尼布命の子・二方開咋彦命をもって、二方国造と為す。二方開咋彦命は、多遅摩国造天清彦命の娘・須賀嘉摩比売命を娶り、宇多中大中彦命を生む。二方開咋彦命は、田井宮にありて国を治む。

和田

人皇35代舒明天皇十二年春三月 檜尾真若彦命の子・真弓射早彦命をもって、二方国造と為す。真弓射早彦命は、磐山野中彦命の娘・和田毘売命を娶り、和田佐中命を生む。
(美方郡新温泉町に和田あり)

千原・千谷・前

人皇17代仁徳天皇十年春三月 宇多中大中彦命の子・陽口開別命をもって、二方国造と為す。陽口開別命は、井上湧津玉命の娘・井上滝流姫命を娶り、千原大若伊知命を生む。

人皇19代反正天皇三年秋七月 陽口開別命の子・千原大若伊知命をもって、二方国造と為す。千原大若伊知命は、千谷聖中津彦命の娘・千谷若子比売命を娶り、前原真若伊知命を生む。
(美方郡新温泉町に千原・千谷・前あり)

伊角(イスミ)

人皇22代雄略天皇二十二年夏六月 千原大若伊知命の子・前原真若伊知命をもって、二方国造と為す。前原真若伊知命は、戸田大弓臣命の娘・清澄姫命を娶り、伊角大若彦命を生む。
(美方郡新温泉町に伊角あり)

桧尾(ヒノキオ)

人皇27代継体天皇二十四年秋七月 前原真若伊知命の子・伊角大若彦命をもって、二方国造と為す。伊角大若彦命は、宇多上大中彦命(又の名は須賀狭津男命)の娘・宇志賀毘売命を娶り、檜尾真若彦命を生む。
(美方郡新温泉町に桧尾あり)

人皇30代欽明天皇三十年秋七月 伊角大若彦命の子・檜尾真若彦命をもって、二方国造と為す。檜尾真若彦命は、黒杉太立彦命の娘・黒杉太立姫命を娶り、真弓射早彦命を生む。

 

 

拙者註
*1 『国司文書・但馬故事記』
人皇42代文武天皇の庚子四年春三月、二方国を廃し、但馬国に合わせ、二方郡と為す。

*2 桜井勉は「今俗に畑と一字に書くは、謬(アヤマ)りなり。地名は二字を用いて、佳名を選ぶべしと延喜式にあり。」と述べているが、氏の認識の欠如としか言えないのは、八太こそカナがまだなかった時代に、「ハタ」と云っていたものを八太と万葉仮名で当てただけのことがそんなに大した意味はないのであり、むしろハタは畑や機織りを指すだろうから、畑の方が由来として妥当だ。“地名は二字を用いて、佳名を選ぶべし”とといえども、拘束力はなく要望文なのであって、例外はある。畑をどう書けば二字にできるというのか。

*3 『国司文書・但馬郷名抄』
熊野連在住の地なり。故に味饒田(ウマシニギタ)命を斎きまつり、これを久麻神社と称しまつる。熊野神社 祭神 家津御子神)(イヘツミコノカミ)美方郡新温泉町熊谷849

*4 *2同様、桜井勉の万葉仮名の認識不足あるいは独断に過ぎない。“また誤って泉の字を前に書き換えて、今は湯前庄と云う” 誤ったのではなく、湯の前に庄があると解釈すると、前は先と同義で、黄沼前をキノサキ(今の城崎)と読み、佐々前をササノクマと読む例にある通り、前は(サキ)と読めば、湯前庄は“ユノサキ庄”で誤りとはいえない。

美方郡の変遷

美方郡の変遷は、1896年(明治29年)4月1日の郡制による郡再編により、七美(シツミ)郡(村岡町、兎塚村、射添村、小代村、熊次村)、二方(フタカタ)郡(浜坂町、大庭村、西浜村、温泉村、照来村、八田村)が合併して誕生した。
七美郡の美、二方郡の方を合わせ美方郡。

1912年(大正元年)城崎郡長井村九斗山地区を大庭村に編入、
1956年(昭和31年)8月1日熊次村が養父郡関宮村と合併し養父郡へ分離、
2005年(平成17年)4月1日に村岡町、美方町との合併により城崎郡から香住町を編入し、郡境が変更されている。(城崎郡竹野町・城崎町・日高町は、豊岡市との合併により消滅。)
これにより、美方郡は以下の2町を含む。
・香美町(かみちょう)2005年4月1日に美方郡美方町・村岡町、城崎郡香住町の合併により誕生
・新温泉町(しんおんせんちょう)2005年10月1日に浜坂町・温泉町の合併により誕生

気多郡道場・久斗の市場

気多郡(今の豊岡市日高町)は但馬国の国府が置かれた場所で、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「高田郷に遷す」という記述が残っており、気多郡のおそらく国府地区周辺から高田郷に移転したのは、袮布ガ森遺跡から多量の木簡などが見つかり間違いないこととなった。現在豊岡自動車道八鹿日高道路建設に伴う南構遺跡調査が行われており、古墳や但馬国府の役人らの居館跡ではないかと思われる遺構が見つかった。

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