日本語の歴史

文字(漢字)の導入

日本語の歴史

上代(飛鳥時代以前)

縄文時代の日本にはまだ固有の文字は存在していなかったとされるのは、その頃の遺物には現在まで文字らしい形跡が見つからないためでです。日本で文字が現れたのは、象形文字ではない中国から伝わった漢字の音を借用して漢字を使い書き表したのが最初で、5世紀頃、稲荷山古墳から発見された刀剣に「雄略天皇」に推定される名が刻まれています。これも万葉仮名の一種とされています。記された文字遺物がいくつか見つかっています。この頃盛んであった朝鮮半島諸国との関係から、政治制度や文化の移入に伴って、漢字の移入・使用がおこなわれるようになり、そこには渡来氏族が大きく関わっていたと考えられています。漢文に送り仮名を付けて中国語発音である「音」を日本語の発音で漢字を「訓読」するようになり、日本語の文として読もうと、言葉の違いを認識し埋めていく工夫がされました。したがって、中国語発音以前に日本語は別の言葉だったといえるでしょう。(そもそもこれが訓読みと音読みが同居するややこしさ、よくいえば多彩な日本語のベースといえる。)

古代(飛鳥時代)

七世紀頃には『古事記』や『万葉集』を見ると、漢字のみを使って実に様々に工夫されています。『風土記』では人名や地名を漢字で書き表す際にさまざまな当て字が用いられており、「万葉仮名」と呼ばれる漢字の音を借りてその義(漢字本来の意味)に拘らずに一音節の表現のために用いるのが万葉仮名の特徴です。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれています。『古事記』には呉音が、『日本書紀』α群には漢音が反映されています。それらは「真仮名」、借字ともいいます。万葉仮名の自体をその字源によって分類すると「記紀」・「万葉」を通じてその数は973に達します。使用が確かめられる最古のものは、大阪市中央区の難波宮跡において発掘された652年以前の木簡です。

中古(平安時代)

平安時代に至ると、万葉仮名をもとにして、日本語固有の文字である平仮名片仮名が生み出されました。平仮名が生まれたことによって、例えば和歌のように一音一音を書き表すことが確実に行えるようになりました。こうした表現力を背景に物語り文学や日記文学などが大きく開花した。一方で片仮名は、仏典や漢籍など、漢文を読む際の補助的な文字として用いられたのが始まりとされています。

中世

「歌学」を中心に、古典、特に和歌を正しく理解し、あるいは実作するようになりました。既にこの頃は、平安時代とは日本語の音や文法などが様変わりしてしまっており、「てにをは」、「仮名遣い」などの違いが問題視されています。

近世(江戸時代)

国学をはじめ諸学が隆盛を見るようになります。古典の理解という域を超えて、前後の語句や意味によって様々に変化する「活用」の考え方が生まれ、現代の文法にも用いられています。

近代

西洋の文物や考え方が大量に移入され、これらを表すための新しい日本語が必要になりました。主に漢語の造語能力を活かした新しい漢語が生み出されたり、音の面では、多くの外来語を書き表すための表記方法が工夫(例:ファ、チャなど小文字表記?)されました。さらに母語としての言葉を習い教えるための体系的な国語科教育が整備されました。

戦後、政府は複雑な当用漢字を簡素化することを行いました。片仮名、平仮名も漢字を簡略化していましたが、それは意味を持たない発音を意味する文字であり、語彙を含む漢字そのものではありません。ゐ(wi)、ゑ(we)も消えました。

例えば、國→国、縣→県、濱→浜、驛→駅などです。それらは新字体と呼ばれ、古い自体を旧字体と呼び、今日ではほとんど使用されることはありません。それは中国も同様で、繁体字と呼ばれ、簡体字と新字体はそれぞれの国で独自に簡化したため字体が異なるものが多く、同じ漢字文化圏でも読めない場合があります。
また、中国では日本のカナや韓国のハングル文字に相当する文字が作られてこなかった経過から、外来語を発音で漢字に当てはめることで対応してきました。とくに国名など外来語は戦前日本でも行われていましたが、日本では片仮名で表すことがほぼ一般化しています。

現在、日本語を日常に使用している人は、世界中に一億二千万ほどといわれています。意外にも世界の言語の中でも多い方から10位以内に入るのだそうです。しかし、日本語は世界でも独自なもので、どのような系統に属すのかは、いまだに不明とされています。
参考『日本語の歴史』 近藤 泰弘  放送大学客員教授・青山学院大学教授

月本 雅幸  放送大学客員教授・東京大学大学院教授

杉原克己 放送大学助教授 より

言語と方言

方言とは、あるひとつの言語における変種のことです。同じ文法を用いる言語でも、語彙・発音(訛り・アクセントなど)・文法・表記法のいずれかもしくはいくつかの面で差異が見られる場合は方言といいます。同一国家内では、方言話者同士が会話する場合は、ある特定の方言そのもの、あるいはその方言を元にして新しく作られた標準語を使用してきました。

しかし、言語学から「同語族・同語派・同語群の同系統の別の言語」なのか、「同一言語の中の方言」なのかを客観的に区別する方法はなく、言語と方言の違いは極めて曖昧です。国境の有無などのような政治的な条件や正書法の有無などを根拠に両者の区別が議論されることもあり、「言語とは、軍隊を持った方言のことだ」というたとえさえ存在しますが、例外は多々存在します。

日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きいものです。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられますが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの 2つです。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第一拍の高低を弁別します。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いですが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国の一部、九州北東部、沖縄県の一部に分布しており、京阪式アクセントは北陸地方、近畿地方、四国の大部分に分布しています。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっています。

但馬弁

日本の方言政策明治時代以降、日本では学校教育の中で標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられました。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になりました。東北弁と琉球語(琉球方言)が全く意志疎通ができないように、これは単なる方言といっていいのか、まったく異なった言語であるといっていいかです。文法が同じであり、中国語同様に漢字で書くと意思疎通が比較的容易です。

標準語がなかった頃は、どのように会話していたのでしょう。時代劇を観ていると、例えば幕末に、薩摩藩士と長州藩士、土佐藩士、江戸弁の幕府方や会津藩士、京都弁の公家などが当時どの程度スムーズに聴き取れていたのかは分かりませんが、漢字による文書を通じて理解できたでしょうから方言・武士など階級による言葉の差はあったものの理解し得たといえます。

現在では、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により殆どの者が標準語を話せるようになった一方、その土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っています(例えば近畿方言(関西弁)のように比較的方言が保たれていても、さらに細分化された地域性が失われる傾向もある)。特に若者の間でその傾向が著しいようです。方言アクセントは、多くの地域で若者においても保持されていますが、語彙は、世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にあります。また、あえて、最近では若者の間で各地の方言を生かした会話を楽しんでいる場合もみられます。日本語は系統において様々に議論があるものの、比較言語学的にいずれかの日本以外の他言語と共通の語族に属すことは証明されておらず、孤立言語とされています。ただし琉球諸島の言葉を、別の言語である琉球語とする考えがあり、その論をとれば日本語の同系言語が存在することになります。その場合、それぞれがさらに多数の方言に分類することができるため、これらすべてをまとめ一語族として日本語族と称し、日本語派と琉球語派に分類しています。

民族論

沖縄県や奄美諸島の住民と、その他の日本人との文化などの違いを抽出して、別民族(琉球民族)とみなす場合は、別言語といえます。

印象論

世界にはお互いに意志疎通が可能でも(すなわち音韻の違いが小規模且つ規則的でも)別言語とされている例も、意志疎通が不可能でも同言語とされている例もあり、聞き取れるか否か、或いは音韻関係がどの程度厳密かといったことは、言語か方言かを分類する決定的な根拠とは必ずしもなりえないとしています。

  • 言語とみなす場合、「琉球語はまったく聞き取れない。だから琉球語は日本語ではない」あるいは「琉球語は日本語とは異なる多くの言語学的特徴を持っている。だから琉球語は独自の言語と見なすのが妥当」。
  • 方言とみなす場合、「本土方言と琉球方言の音韻変化と文法には明確な関係とがある。さらに、日本各地の方言でよそ者に理解不能なのは琉球方言に限ったことではない。だから琉球方言だけを独自の言語と見なすことはできない」。

政治論

政治的に国家を背景として同一言語の方言であるとするものです。しかし、世界には複数の言語を有する国が多いし、また同一民族、同一言語とされるが複数の国家に分かれている事例もあるのでこれは絶対的な基準とはならないとしています。

  • 「琉球語」は「琉球民族」という意識・概念と密接な関係にあり、「琉球語」と言うこと自体が政治的・民族的(文化集団)な立場の表明となる。
  • 「方言」であると言うことが、例えば琉球王国をはじめとした独自の歴史・文化を軽視するような政治的立場の表明となる。
  • 沖縄県や奄美諸島に住む人々も本土に住む人々と同じ日本民族である。よって琉球語という呼称は正しくない。
  • 民族と言語も必ずしも一致するものではない、そもそも沖縄県や奄美諸島に住む人々を大和民族に含めて良いのかも疑問である、よって独自の言語とすることが妥当。
  • 琉球語か琉球方言かの論争は、民族や国家の根本問題とも関わり、冷静・学問的な論議が必要である。それに対して、アイヌ語は、アイヌ民族の言語で、話者はアイヌ民族の主たる居住地域である日本・北海道、樺太(サハリン)、千島列島(クリル諸島)に分布します。日本語と同様、「孤立した言語」とされています。それは、地理的に近い位置で話されてきたにもかかわらず、日本語との間には、語彙の借用を除いてそれほど共通点が見いだせないからです。専門家の間では、アイヌ語を、日本語の基盤となったいくつかの言語の内の一つから発展した言語とする見方が一般的ですが、現段階ではアイヌ語は特定の語族に属さないとされています。

    基本的な文型はSOV(主語・目的語・動詞)の順で、この点では日本語と同じですが、形態論的には膠着語である日本語と異なり、抱合語というイヌイット(カナダ北部グリーンランドなど)やアメリカ先住民族らの言語(エスキモー諸語、インディアン諸語など)の間でしか見られない、アジアでは珍しい分類に属するとされています。しかし、現在、アイヌ語を継承しているアイヌは非常に少なく、近いうちに消滅してしまうことが懸念されている言語の一つです。千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の話者も平均年齢が既に80を越え、数も10人以下となっています。

    本州以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説があります。この説は、北海道から東北地方北部(太平洋側は仙台付近、日本海側は秋田県・山形県・新潟県)にかけての多数の地形を実地に検分して共通点を調べあげた山田秀三の業績によって、学界に広く受け入れられました。

    琉球語(琉球方言)を独立した言語とみなすか方言とみなすかについては大きく意見が分かれます。言語学的には言語と方言を客観的に区別することができず、両者の区別は政治・宗教・民族などの歴史的・社会的要因によって一種の慣習として定まってきます。同様に次の例があります。

    主にセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで話されるセルボクロアチア語は、十数年前までひとつの旧ユーゴスラビアという共和国の言語で、各国・各地方の言葉は、使用する文字に違いはあっても同じ言葉であり、方言関係にあります。しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在は、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると主張がそれぞれの国家民族でされるようになりました。

    また、中国語の各方言はヨーロッパ各国の公用語ほどの違いがあり、北京語と広東語では意思疎通が難しいですが、表意文字である漢字で書くと書き言葉が同じであるため意思疎通が比較的容易です。さらに同系の標準語である普通話(プートンフア)があるために、方言関係にあるとされています。中国の大陸部やシンガポールの中国語(華語)は表記に簡体字を使い、台湾、香港、マカオの中国語は繁体字を使っており、発音表記にもそれぞれラテン文字と注音符号という別体系の文字を使うなど、一部が異なった正書法が使われていますが、別の言語との扱いは一般にはされていません。また、キルギス共和国には、中国から移住した、キリル文字で書き、アラビア語やロシア語から借用語の多いドンガン語を話す人たちがいますが、国も文字も語彙も違っていても、方言だとみなす人がいます。

    一方ドイツ語は、大きく北部方言(低地ドイツ語)と標準語を擁する南部方言(高地ドイツ語)に分けられ、互いに通じないほど違います。しかし、北部方言もドイツ語であるとされています。ところが、このドイツ語の北部方言ときわめて近い関係(方言の変化が連続的なので、明確な境界は存在しない)にあるオランダの言葉は、国が異なりオランダ語として、別の言語とされています。ドイツ語北部方言とオランダ語では会話が可能でありながら、同じ国ながらドイツ語北部方言と同南部方言では会話が困難だという奇妙な現象が起こります。

    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

飛鳥-5 文字(漢字)の導入

文字(漢字)の導入

3.秦氏(はたうじ)

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく、集団名・一族名を指している)です。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち、日本の国づくりを根底で支えたと言えます。

日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代にテイ族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。

桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっています。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来しました。「秦」と書くように、弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもありますがその根拠はありません。土木技術や農業技術などに長けていた秦(はた)氏は、灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行いましました。また、養蚕、機織、酒造、金工などももたらしました。ヤマト王権(ヤマト朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていましました。

本拠地は京都山背太秦(うずまさ)がに分かっていますが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名があり、これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)しています。

後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住みましました。中央での活躍と共に、秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで、全国規模で勢力を伸ばしていきましました。

しかし、秦氏の朝鮮半島の新羅から来たのも、元はといえば中国の秦から朝鮮半島沿いに日本列島にたどりついた過程でしょう。弓月君の祖先も秦からやってきたと考えます。畑という地名
畑(はたけ)だから畑と名付けたとするのが自然ですが、どこかしこにもある畑をわざわざ畑と名づけては区別がつきません。「徐」姓は名乗ってはいけない秦(シン)氏は、日本語読みに改めハタと名乗り畑と字を替えた。秦庄(ハタノショウ)などはそのまま畑ではなく秦氏の庄。
蛭子(エビス)

波多野氏

波多野氏(はたのし)は丹波の戦国大名です。

波多野氏と秦氏が関係あるかどうかは分かりません。しかし、出身地が秦氏の中心地太秦(うずまさ)に近い丹波であること、但馬に深い日下部氏を祖としている説があることで、気になるところです。

波多野氏出自については諸説あります。一説に相模波多野庄(神奈川県秦野市)に住んだ藤原秀郷の後裔の波多野義通を祖とする。また一説には因幡国八上郡田公氏の族とする。義通の妹は河内源氏の源義朝の妻となり、次男の朝長(源頼朝の兄)をもうけたとされています。さらに一説には桓武平氏系の三浦氏の出自とも、丹波の豪族・日下部氏の庶流ともいわれますが、前歴にはかなり不明な点が多いようです。

波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。

秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)、朝治山に八上城を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

日下部(くさかべ)氏は、日本の古代から続く氏族。

日下部氏の後裔に、但馬・養父郡から分かれた戦国大名の越前朝倉氏がいます。
起源にはいくつかの説があります。

  • 開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
  • 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)松尾大社京都府京都市西京区嵐山宮町秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を御神体として、701年(大宝元年)に創建したいわれています。社の由緒書によれば、「太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇した」とあるので、松尾大社の前身となる場がこの地域にあったと言えます。朝鮮半島より渡来してこの地に居住した秦氏は松尾山の山霊を現在の社地に遷し、これを総氏神として仰いだ。そして、新しい文化・技術をつかってこの地方一帯を開拓していきましました。平安京に遷都した後は都城を鎮護する神として崇められましました。松尾大社はお酒の神様として全国に知られています。また、中津島姫命は市杵島姫命(いつきしまひめのみこと:伊都岐島神)の別名で、市杵島姫命は厳島神社の祭神でもあります。(厳島神社の祭神は市杵島姫命、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神)。木島神社
    京都市太秦森ケ東町

    太秦周辺には蛇塚古墳や天塚古墳など秦氏と関係がある古墳があります。

    京都太秦地区を拠点としていた秦氏に関係のある神社として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)」ほか3神を祀った木島(このしま)神社があります。正しくは木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社ですが、境内地にある摂社養蚕(こがい)神社から通称蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれています。秦氏が養蚕や機織りの技術を広めたことからここに祀られています。

    ここには日本で唯一の三柱の鳥居があります。どのような意味を持つのかは不明だが、キリスト教との関わりがあるという説もあります。

    4.東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
    東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は、応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して、ヤマト王権(大和朝廷)のもとで文書記録、外交、財政などを担当しました。また、製鉄、機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらしました。初め直(あたえ)姓、のちに連(むらじ)姓・忌寸(いみき)姓を賜り、六~七世紀には政治・軍事面でも活躍しました。坂上田村麻呂らはこの一族。漢部(綾部)や錦部や統率しましました。「機織部=はとりべ」は機織(はたお)りの転で服部は同じ。雄略天皇の時、漢部は呉織(くれはとり)とともに中国から渡来したとされる機織りの職人。

    平安時代になると、東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではありません。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので、互いに対抗意識をもっていたのかもしれません。

    明日香 稲淵地区に龍福寺があります。ここにある石塔は、原形を止めてはいませんが、もとは朝鮮式の五重の石塔(日本最古の銘文入り層塔)と思われています。台の部分には「天平勝宝三年(751年)」「竹野王」の文字が彫られています。この地域が渡来人と深く関わっていたことがわかります。

    5世紀後半頃、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述があります。東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)、鞍作(くらつくり)、金作(かなつくり)の諸氏を配下にし、製鉄、武器生産、機織りなどを行いましました。蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていきましました。

    西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で、古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え、日本に文字をもたらしたとされます。西文氏は河内を本拠地として、文筆や出納などで朝廷に仕えていましました。

    参照:飛鳥の扉 asuka-tobira.com/奈良文化財研究所

    5.葛城氏(かつらぎうじ)

    葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)4世紀後半~5世紀前半頃?)は、武内宿禰の子の一人で、大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されている。編年がほぼ正しく同時代史料が元となったと考えられる百済三書のひとつ、百済記にその名が見えるので、実在の可能性が高い。

    しかし、葛城氏が6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。

    始祖・襲津彦の伝承

    『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。

    襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた。

    しかし「沙至比跪」の逸話が史実と見なせるかには疑問の余地があり、これを考慮すると、『書紀』の襲津彦像は総じて没個性的で、各々の記事間にも脈絡がほとんどない。このことから、襲津彦は特定の実在人物ではなく、4・5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった葛城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説化された英雄であったと見る説もある。

    大王と葛城氏の両頭政権

    葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である?媛(はえひめ、?は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を設けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。このような婚姻関係の形成は、葛城氏と大王家の政治的連携が、婚姻策によって保たれていたことを意味しよう。
    しかも葛城氏は、大王家の支配から相対的に自立しうる私的な軍事的・経済的基盤を維持していた。先の襲津彦伝承に見たような対朝鮮外交を通して、葛城地方に定住することになった多くの渡来系集団が、葛城氏の配下で鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとみられる。渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、大王家のそれと肩を並べるほどであり、両者の微妙なバランスの上に、当時のヤマト政権が成立していたのであろう。 当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る。

    衰退と滅亡

    だがこのような両頭政権には、一度両者間の協調関係に亀裂が生じると、次第に崩壊してしまうという脆弱性を内在していた。『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。同時にヤマト政権の朝鮮における軍事的影響力は衰え、対朝鮮政策は苦境に陥った。

    高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。

    要するに、高木と葛のつるで覆い尽くされたような原野が広がっていたのであろう。

    神と人の間の葛城

    『神武紀』

    磯城邑に磯城の八十梟師がいます。葛城邑に赤銅の八十梟師がいます。
    『神武紀』の言葉の対応から見ると、葛城=赤銅と。それほどの銅を産出したのだろうか。

    『神武紀』

    椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。

    『神武紀』から見える事は、葛城は銅が産出する地であること。銅鐸の製造の痕跡は出ていないが、銅鐸祭祀の氏族が住んでいたのかも知れない。銅鐸は長柄から出土している。銅鐸祭祀氏族を鴨氏の源流と云ってもいいのかも知れない。朝町の大穴持神社の鎮座する山から五百家付近には銅を採取した痕跡が残っていると云う。幕府直轄領であった。現在、山は堺屋太一氏の実家の所有と云う。

    剣根を葛城国造とした記事があるが、国造の制度はもっと後世のものであり、要は葛城のボスを追認したと云う意味であって、記紀を作成した王権の見栄だろう。
    以下、剣根について若干。

    葛木出石姫と伊加里姫

    天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
    「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています。

    では何故、この神が當麻(タギマ)の長尾神社の祭神になっているのでしょうか。長尾街道は吉野・壺坂から当地をで竹内街道と交差、更に北上してから西に折れ、堺につながる街道です。このことから吉野への関心からの勧請と云う説があります。ここでは違う説を建てます。イカリの神は丹後ににに鎮座していました。これは、大三元さんのサイトで分析されている『丹後風土記残欠』に紹介されていました。「伊加里姫社」の祭神だそうです。  現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。

    天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。出石神社の神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。

    ここに葛城の勢力と丹後、但馬の勢力との連携の姿が見えるようです。系譜の中に倭宿禰命の名も見えます。椎根津彦のこと。長尾市は倭直の祖でもあり、伊加里姫の子に倭宿禰命がいるのもそう云うこと。

    神々のこと 難波の比売碁曾神社

    珂是古とは物部阿遅古のことで、宗像神を祭った水沼君の祖のこと。先の小郡市の媛社神社には棚機神社、磐船神社の扁額がかかっており、媛社神を棚機神と見ていることになります。

    タナバタ、日本の棚機、大陸の七夕、本来違うものだったものが習合したものであるとか諸説あるようです。伝承の発生や伝達の時が早いのか遅いのかの程度の差で、タナバタの言葉から見て元々は同じものだったのでしょう。
    タナバタ伝承、これは織布技術が織姫(織工女)とともに渡来してきたということ。
    もう一つの磐船神社の名、これは物部阿遅古が祖神を祭ったのでしょう。祭神は饒速日尊。

    こうして見ますと、肥前の媛社神社の神は宗像神の御子神と言えます。ここに下照姫の事が思い起こされます。ヒメコソと云えば、摂津国東生郡(鶴橋)に比売許曽神社が鎮座、この社の近くにも磐船伝承が残っており、肥前国とのつながりを示しているようです。

    『古事記』応神記に「天の日矛の渡来譚と難波の比売碁曾神社の話があり、阿加流比売神が坐します。」とあります。阿加流比売神は摂津国住吉郡(平野区)の赤留比売命神社に祀られており、下照比売神と阿加流比売神とは復層気味。この女神達、織姫でもあり、太陽の女神でもあり、天照大御神にも似ている所があります。」

    神々のこと 二上神社

    大和国當麻は當麻物部の拠点、二上神社の祭神に豊布津神の名が見えます。鹿島神宮の武甕槌神のこととされていますが、元々は物部の神だったのでしょう。饒速日神の降りられた哮峯は二上山のこととは蟹守神社宮司さんの説。これは當麻物部の哮峯ということ。余談ですが交野物部の哮峯は磐船神社付近となりましょうか。

    蟹守宮司の祭神の「天忍人命」とは『古語拾遺』では、掃守連の遠祖で、箒を作り産屋に近づく蟹を掃ったとあり、現在では産婆の神になっています。

    天忍人命は、天村雲命の日向での御子神とされており、當麻が日向とか丹後とつながっていることを示しているようです。対馬の志々伎神社や伊予の高忍日売神社の祭神。

    この高忍日売神ですが、忍はオシで照の意があるとすれば、高照姫に通じ、鴨の女神と云うこと。

    葛城の垂見宿禰と但馬

    但馬(タジマ)の地名は葛城の當麻(タギマ)郷[*1]として大和盆地に現れます。
    『古事記』開化天皇記に「開化天皇は葛城の垂見宿禰の女、ワシヒメを娶して生みましし御子、建豊波豆羅和気。一柱。」

    「建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽(因幡)の忍海部・丹波の竹野別・依網(よさみ)の阿毘古等の祖なり。」との記載があります。

    これについて、門脇禎二著『葛城と古代国家』によりますと、建豊波豆羅和気王が祖とされている葛城の忍海部、河内の依網の阿毘古(よさみのあびひこ)、丹波の竹野別(たにはのたけののわけ)、稲羽(因幡)の忍海部(おしぬびめ)の諸氏は葛城から日本海側への一つのルートにのっていて、神戸の垂水から加古川沿いに北上、由良川を下って氷上(ひかみ)から丹後へつながるルートを想定されています。初期の葛城に拠点を置いた豪族の勢力の動向を示していると云うことです。

    『日本書紀』垂仁天皇八十八年に、但馬に拠点を持つ天日槍(アメノヒボコ)の末裔の清日子(スガヒコ)や多遲麻毛理(田道間守)は、大和へ出てきていることになっています。ヒボコが持ってきた宝物を見たいと云うことになって、「天日槍の曽孫の清彦(清日子)が自ら神宝を捧げ献上した。」との記事があります。『紀』では清彦の子が田道間守となっており、彼は非時(ときじく)の香美を探す旅に出るのです。清彦以降の天日槍の後裔は大和に居住したのでしょう。香芝市の畑、また川西町の糸井神社などが考えられます。

    『古事記』では、清日子は當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之咩斐(タギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。

    葛城の高額比賣命の高額、まさに香芝市の畑に比定されています。ヒボコの末裔の居住に相応しい所。

    『常陸国風土記』には行方郡に當麻(タギマ=当麻)郷が出てきます。道路が凸凹でたぎたぎしかったから、即ち「悪し路」のこと。また『古事記』で倭建命の最後のシーンで、当芸(峠)の野に来た時、「吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ。」と云われたとあり、足をひく、高かったり低かったりとの注釈があります。當麻の道もそのような道だったのかも知れません。
    [*1]…當摩は佐賀の邪馬台国説あり。
    葦田神社の「足いたの伝承」と似ています。

    6.倭文(しとり)神社

    いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社。
    建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたもの。その本源は奈良県葛城市(旧當麻町)の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。

    延喜式神名帳には以下の社名が見える。

    葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)
    奈良県葛城市(旧當麻町)の二上山山麓にある神社である。式内大社で、旧社格は村社。単に倭文神社(しずりじんじゃ)とも呼ばれる。

    天羽雷命(あまはいかづちのみこと)を主祭神とし、右殿に摂社・掃守神社(天忍人命)、左殿に摂社・二上神社(大国魂命)を配祀する。
    天羽雷命は各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされる。

    • 伊勢国鈴鹿郡 倭文神社(現 加佐登神社(三重県鈴鹿市加佐登町)に合祀)
    • 駿河国富士郡 倭文神社(静岡県富士宮市星山)
    • 伊豆国田方郡 倭文神社(現 鍬戸神社(静岡県三島市長伏字石原)ほか論社複数)
    • 常陸国久慈郡 静神社(しずじんじゃ)(茨城県那珂市)鹿島神宮に次ぐ常陸二の宮
    • 甲斐国巨摩郡 倭文神社(山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮)
    • 上野郡那波郡倭文郷 倭文神社(群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東)
    • 丹後国加佐郡 倭文神社(京都府舞鶴市今田津ノ上)
    • 丹後国与謝郡 倭文神社(京都府与謝郡野田川町三河内)
    • 但馬郡朝来郡 倭文神社(兵庫県朝来市生野町円山)
    • 因幡国高草郡 倭文神社(鳥取県鳥取市大字倭文字家ノ上)
    • 伯耆国河村郡 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)
    • 伯耆国久米郡 倭文神社(鳥取県倉吉市志津)
      他に以下の倭文神社も著名である。
    • 倭文神社(岩手県遠野市)
    • 倭文神社(奈良県奈良市)
    • 美作国久米郡倭文郷倭文神社(岡山県津山市油木北)
    • 淡路国三原郡倭文郷倭文神社(兵庫県南あわじ市倭文)。
      ▲ページTOPへ

    7.日下部氏(くさかべうじ)

    古事記には、次のとおり記されている。

    「この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部(かつらぎべ)を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部(みぶべ)を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。」

    とあります。それぞれの部が何の職務かわかりませんが、大日下王は別名「大草香皇子」なので大阪草香邑で、波多は秦で渡来系ですから、崇神・垂仁から続く半島との繋がりを明確に正当化しているのでしょうか。
    日下部氏は開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔や越前朝倉氏であると記されています。いずれにしても、日下部氏は、古事記や日本紀といった神話をはじめ、丹後や肥前、豊後、播磨などの風土記にもその名が見える一方、平城京跡や佐賀県唐津市の「中原遺跡」などから日下部の名を記した木簡が出土していることから8世紀初頭には、全国的に展開していたことはほぼ間違いないようです。

    天孫族説では、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコホノニニギノミコト)と木之花佐久夜卑売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた火須勢理命(ホノスセリノミコト)を祖としています。

    火須勢理命は日本書紀における海幸彦、弟は山幸彦。
    天神説では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫である天照国照彦火櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)(元伊勢籠神社)を祖とする。地祇族説では、近畿から九州にかけて分布していたと思われる先住民族・隼人(ハヤト・ハヤヒト)を祖とする。隼人は九州南部の阿多・大隈・日向・薩摩などの地に居住していたとされる人々の呼称。「古事記」では木之花佐久夜卑売の御子神、火照命が隼人阿多君の祖とする。「日本書紀」では火須勢理命は隼人等が始祖と註がある。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    3.百済王

    百済王(クダラノコニキシ)氏は、百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする日本の氏族。百済を氏・姓(本姓)とし、持統朝に王(こにきし)姓を賜ったとされています。
    当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人のうち別格の地位にありました。

    平安時代は、初期とくに桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏であったため、「百済王等者朕之外戚也。」(同二月二七日条)と厚遇を受けました。女子を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮に入れ、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得ました。本貫地、河内国交野(カタノ)への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られます。

    百済王氏の本拠地は当初難波にありましたが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、この地に百済王の祀廟と百済寺を建立しました。百済寺は中世に焼失しましたが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残ります。奈良時代末期には俊哲が陸奥鎮守将軍征夷副使などに任じ、武鏡は出羽守となるなど、敬福(きょうふく)以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続しました。8世紀に敬福が、陸奥守として黄金を発見し、東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍しました。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社です。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもあります。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残ります。飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
    大阪府羽曳野市飛鳥1023番地

    式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

    素盞嗚命が祭神

    創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。
    5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地。

    『日本の神々3』によると、延喜式神名帳の河内国安宿郡の名神大社。当地は古墳時代に飛鳥戸と呼ばれた。
    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

たじまる 飛鳥-4

三国時代

1.古代三国


中国の三国時代(4世紀中葉 – 676年)、百済(くだら/ひゃくさい/ペクチェ:古代の朝鮮半島南西部にあった国家)、高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国がありました。

南部の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)は、馬韓諸国のなかの伯済が百済に、辰韓諸国の斯盧(しろ、サロ)が新羅(シラギ)となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となりました。伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争いましたが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収されました。(済州島の独立国時代)は、5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属しました。

日本は飛鳥・奈良時代(7~8世紀)に、「新羅=天敵」、「百済=同盟」、「加羅(任那)=植民地」という史観で『日本書紀』をつくりあげました。その結果、「朝鮮半島南部(加羅)は日本の領土だった」というイメージが形成され、戦前の朝鮮併合の大義名分にもなったうえに、現在でも「飛鳥時代以前、日本は朝鮮南部を支配し続けていた」と思っている人は多いそうです。

しかし、近年、日韓の遺跡から見つかった遺物の研究によって、極めて流動的だったという歴史が明らかにされています。

3世紀

卑弥呼の時代でもある3世紀を境に、加羅との窓口となる日本側の勢力が、それまでの北部九州から畿内へと変わります。この時点でヤマト王権が外交を掌握したことになります。

371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の広開土王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになりました。

7世紀

607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)を送ります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れ、国家の政治・文化の向上に努めました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しました。

国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていました。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。

660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領しました。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡しました。

663年、百済と倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及びました(白村江の戦い)。
これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させました。

668年、唐と連合して百済・高句麗を相次いで滅ぼした新羅が半島の単独政権となりました。
高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになります。唐は平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指しますが、これに反発した新羅は、百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結びました。

古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者集団として朝鮮半島からも人々が渡来しました。大和朝廷に仕えた渡来人としては、秦氏、東漢氏、西文氏が代表的です。

飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来しました。

4.渤海の成立と新羅

新羅が統との関係を修復するころ、旧高句麗の将軍であった大示乍栄が東牟山(吉林省)に拠点を構え、高句麗民をを結集して震国を興しました。やがて唐から渤海郡王に冊封されると、国名をあらため渤海を称するようになりました。渤海はかつての高句麗領域の大半を治めましたが、その際に在地社会を改編することなく、かつて高句麗の支配下に靺鞨(マッカツ)族をはじめとする諸族の首長を通じてかれらを支配しました。

唐の諸制度に習い中央官制、軍制、地方制度(五京・十五府・六二州)が整備されて国力も充実しました。王都となった上京竜泉府には、中国の都城を模倣した整然とした条坊制がしかれるなど、積極的に唐文化を受容し、九世紀には唐から「海東の盛国」といわれるまでにいたりました。

対外関係では、唐と日本との関係を重視して頻繁に交渉しました。727年にはじまった対日本外交は、九世紀になると定期的にほぼ105人で構成される使節団は日本に派遣され、交易もさかんにおこなわれました。一方で、南に境界を接した新羅との交流は、二百年にわたってほとんどなく、時に敵対することがありました。

渤海の中央集権的な国家体制の成立は、統一後の新羅の国家体制に次ぐものでした。紀元前より、中国東北地方から朝鮮半島にかけては、多様な言語・文化をもち、生業を異にした諸民族が居住していました。そうした諸民族が興亡を経て、中国王朝から受容した漢字・儒教・律令・仏教を通して諸族を統合し、新羅・渤海の領域内に社会的・文化的な共通基盤を生み出していきました。こうした基盤は、これ以後に形成されていく朝鮮文化の基層となっていきました。

新羅・渤海の両国が朝鮮半島の南北で並立する体制は、10世紀に至ると動揺し、まず渤海は北方の契丹族の侵入によって926年に滅亡しました。南の新羅も900年を前後して、後百済と高麗が勢力を増し、後三国とよばれる分裂状況となり、935年に新興の高麗に降伏して滅亡しました。

5.渤海使来航

九世紀を境に日本の外交姿勢は内向きとなり、遣唐使は838年出発の使節を最後に途絶えてしまうし、新羅からの使者は779年、新羅への使者も836年で終わります。そのなかで、727年に始まった渤海との関係はおおむね良好でした。その後、926年までの間に、渤海からの使者が34回、渤海への使者が13回記録されており、とくに前者は滅亡寸前まで途絶えることはありませんでした。九世紀半ばから十世紀にかけて、渤海は日本と国交のあった唯一の国だったのです。

727年、渤海二代目の王、大武芸から聖武天皇に宛てた啓書は、「高麗の旧居を復し、扶余の遺俗を有(たも)つ」と述べて、渤海が高句麗(高麗)を復興したことを強調します。また、使者はテン皮300張を献じました。730年の渤海の遣唐使が献じた海獣皮が8張だったことと比較すれば、渤海の日本に対する期待がいかに大きかったかがわかります。

初期には武官が起用されていましたが、762年の渤海「国王」柵封後は文官中心になります。国際社会での地位が上昇した渤海は、対日関係を対等なものに近づけようとして、高句麗の後継国との解釈をとる日本側との摩擦が生じました。他方、使節団の規模が759年以降の数倍になるなど、貿易の比重が高まります。

日本は811年を最後に使者派遣を停止し、824年には渤海からの使者を12年に1回に制限しました。人員が105名に固定するとともに、構成も地方首長や商人の比重が大きくなりました。右大臣藤原緒嗣は、この傾向を端的に「実に是れ商旅なり、隣客にあらず」と指摘しています(826年)。

渤海使の目的は、八世紀には遣唐使の護送や大陸情勢の伝達など政治的なものが多いですが、しだいに貿易を中心とするようになり、日本側に入京を拒否される例が多くなります。日本からの使節の多くは渤海使を本国に送り届けるのが任務で、出発地や航路は不明な点が多いです。

以下、「福井県史」より

式内社として、白木(シラギ)神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。

アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。日本と外国との交渉は八世紀になり、従来の唐・新羅に加えて、渤海との交渉が始まる。迎使や送使を除きほぼ二〇年間隔で遣唐使を派遣するが唐からの使(唐使)は地方官の私的な使も含め、わずか二例のみである。また、新羅とは、八世紀前半は使の往来が活発であったが、入京を許さず大宰府から帰国させる場合もあり、宝亀年間(七七〇~八〇)を境に公的な交流はほとんどなくなる。このように八世紀後半以降、唐・新羅との公的な国家間の交流は減少する傾向にある。そのころ活発となるのは渤海との交流であった。唐・新羅との交流においては大宰府がその窓口となったが、渤海は日本海を隔てていたため、渤海使は例外を除いて北陸道をはじめとする日本海沿岸諸国に来航し、また遣渤海使は越前(加賀)や能登など北陸道から出発した。西域や唐の先進文物は大宰府から山陽道または瀬戸内海を経て平城京に至り、正倉院は「シルクロードの終着点」とよばれるが、公的な使の回数では奈良から平安初期にかけて、渤海との交渉が最も多く、渤海は日本と唐との中継貿易的な役割も果たした。

したがって最近の研究では、日本海ルート、とくに都から比較的近かった北陸道経由で中国大陸の文化が日本にもたらされた場合が注目されている。

このような意味で福井県の県域は、古代において大宰府と並び、外国との「窓口」であったといえよう。渤海と日本との交渉は、七二七年、国書と方物(贈り物)をたずさえた渤海使が日本に来航し、翌年、日本の送使を同行させたことに始まり、九二六年、契丹に渤海が滅ぼされる直前の九一九年までの間、渤海使は約三四回派遣された。一方、日本からは約一三回の遣渤海使が派遣されたが(表36)、ほとんどが送使であり、弘仁二年(八一一)に出発した使を最後に、日本からの使の派遣は途絶える。このほか、遣唐使が渤海経由で入唐および帰国したこともあった。

日本と渤海との交渉は、初期は唐・新羅との対立という東アジア情勢のなかで、渤海側からの政治的な目的で行われた。渤海との公的な交渉で両国の友好関係が保たれるとともに、貿易および文化交流が行われた。渤海使が日本にもたらした物としては、貂や大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であり、平安貴族が貂裘(貂の皮ごろも)を愛用していたことは有名である。このほか、貞観元年(八五九)正月ごろ、能登国に来航した渤海使によってもたらされ、貞観三年から貞享元年(一六八四)まで八二四年間も用いられた『宣明暦』(『長慶宣明暦経』)、貞観三年に渤海大使李居正が将来し東寺や石山寺に所蔵された『尊勝咒諸家集』や『佛頂尊勝陀羅尼記』などの仏典に代表されるように、渤海使は大陸の文化・文物ももたらし、日本の文化に少なからぬ影響を与えた。さらに南海産の玳瑁で作られた盃や麝香の将来など、唐と日本との中継貿易的な役割を果たしていた。反対に日本からは、絹・・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔の扇などが渤海にもたらされた。

6.渤海使来航の季節と航路

渤海使は主に秋から冬にかけて日本に来航したが、若干の例外を除き来航の季節で大きく分けると(以下、すべて陰暦)、弘仁五年を境に、前半は十月中旬から十一月中旬ごろに(出港は九月下旬から十月下旬ごろか)、後半は十二月中旬から三月上旬に(出港は十一月下旬から二月中旬ごろか)、それぞれ集中している。前半の場合、入京後は元日朝賀に参加することが多く、一方、後半の場合は、入京後も元日朝賀に参加することはなく、かわりに五月の節会に参加するという特徴がある。これはおそらく、弘仁年間以前は元日朝賀に、それ以降は五月の節会に参列できるように来航することが義務づけられていたためであろう(田島公「日本の律令国家の『賓礼』」『史林』六八―三)。また、季節風の利用からいえば、前半が北西の季節風の吹き出しを、後半は真北の季節風を利用し一気に日本海を横断したとの説がある(上田雄「渤海使の海事史的研究」『海事史研究』四三)。

今の北朝鮮の清津(チョンジン)かロシア沿海州のポシェト港を出向し、日本海を突っ切る航路をとりました。到着地は、風の具合で対馬から蝦夷地にまで及んでいますが、北陸道の越前・加賀・能登が多いです。能登半島西岸の福浦津(石川県富来町)は、小さいが水深があり風も避けられる良港で、使者の宿泊施設や帰国船の造船所があったといいます。敦賀や羽咋(福浦の少し南)には客館が置かれ、使者到着が報じられると、京都から特使が赴いて接待に当たりました。二つの客館はともに砂州上にあり、砂州の付け根には、それぞれ日本海の海の神として名高い気比社(敦賀・越前国一宮)、気多社(羽咋・能登国一宮)が鎮座します。祭りや祓いを通じて神社と客館が深くつながっていたことを想わせます。また、海流の状況を考慮にいれた最新の研究によれば、北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され、初期は航海技術の未熟さから、能登半島より東に流されたが、後期はうまく横切ることができるようになり、西の方にたどり着くことができるようになったと考えられている(日下雅義「ラグーンと渤海外交」『謎の王国・渤海』)。また、渤海使の帰国航路についても、これも直接日本海を横断するのではなく、奥田説を逆に考え、対馬海流に乗っていったん東北地方の沿岸を北東に進んだあと、北海道またはサハリンの沖で西に梶をとってリマン海流にのり、沿海州の沿岸を南下するという説も考えられている(稲垣直「美保関から隠岐島まで(再考)」『季刊ぐんしょ』再刊一八)。しかし、当時の航海技術および造船技術からみて、渤海使は季節風を利用したといっても、結局は風波に任せたため、到着地は表35のごとく、東(北)は出羽国から、西(南)は対馬島・長門国まで広範囲に来航している。しかし、来航地は前半から後半にかけて東北から西南に変化しており、前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなりました。

7.破綻する小中華帝国

842年8月15日、太宰府の藤原衛から朝廷に上奏文が届きました。その趣旨は「今後は新羅国人の入境をいっさい禁止したい」とうものです。提案理由として次のようなことが記されていました。

新羅はずっと前から日本に朝貢してきた。ところが、聖武皇帝の代から始まって、仁明朝の今に至るまで、旧例に従わず、つねによこしまな心を懐き、贈り物を献上せず、貿易にかこつけてわが国の状況を探っている。もし不慮のことがあったら、どうして凶事を防げばよいだろうか。

これを受けた朝廷では、「天皇の徳が遠方まで及び、外蕃が帰化してきた場合、いっさい入境を禁止してしまうのは不仁ではないか。よろしく流来に準じて、食糧を与えて放還すべきである。商人が飛帆来着した場合は、持ってきた物は民間に自由貿易を許可して、取引が終わればすぐに退去させよ。」という官符を発しました。

中央政府の決定は、「徳の高い天皇が外蕃を従える」という建前から、大宰府の提案に比べて穏便なものに落ち着きました。とはいえそこには重大な対外政策の変更がありました。そのことは、以下の官符との比較で明らかになります。701年施行の大宝令を改訂した養老令(757年施行)の戸令没落外蕃条に、「化外の人が帰化してきたら、余裕のある国に本貫を与えて安置せよ」とあるように、積極的に国内居住を許すことで徳化を誇示するところにありました。また、759年の太宰府に下した勅においては、帰化新羅人が「墳墓の郷」を想うあまり帰還を願った場合の恩恵的特例として、「給ろう放却」という措置が規定されています。

しかし、774年官符は、来着する新羅人を「帰化」と「流来」とに分類します。流来の場合は、彼らの意志に基づいて到来したのではないから、放還して日本の恩情を示すこと、その際には、乗船が破損していれば修理を加え、食糧がなければ給与することが定められています。他方、帰化の場合は、「例により申し上げよ」とあるだけですが、少なくとも従来の原則である国内居住許可を排除していません。これに対して842年官符では、帰化の場合も放還するとしていますから、新羅人の帰化を一切受け入れない方針に転換したことになります。

「小中華帝国」という自己認識を支えてきた徳化思想は、年を追うごとに明らかに破綻を来しています。

8.東夷の小帝国

「倭の五王」のころ以来、倭は、朝鮮半島の百済・新羅および加耶諸国を朝貢国として従える小帝国として、自己を位置づけることに、外交的努力を注いできました。一方、百済以下の各国には、倭に朝貢することで、朝鮮半島の分立状況において優位を確保しようよいう動機づけが存在しました。

660年代、唐が新羅と連合して百済・高句麗を滅ぼし、さらに唐は朝鮮半島の直接支配を試みますが、新羅がこれに抵抗して、676年に唐の勢力を朝鮮半島から駆逐しました。660年、百済滅亡後、百済王族の亡命先となった倭(やまと)は、百済復興支援を掲げて軍事介入を試みますが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に敗北を喫しました。律令体制の本格的導入はこの危機への対応という面があり、このころ「日本」という国号も確立します。

新羅は、統一後しばらくは日本との良好な関係を維持するために朝貢国の立場を変更せず、701年元日の文武天皇に対する朝賀の儀式にも、藤原宮の大極殿に新羅使が「蕃夷の使者」として参列しています。このような新羅の位置づけは、前年に完成した大宝令において法的規定を与えられました。『令集解』に収められた令の本文や注釈によれば、天皇を戴く国家の統治の及ぶ空間を「化内(けない)」、その外の天皇支配の及ばない空間を「化外(けげ)」として区別します。化外は「隣国」である唐、「蕃国」である新羅、蕃と称するに足りない「夷狄(いてき)」としての毛人(えみし・蝦夷)・隼人(はやと)の三カテゴリーからなります。
令文のなかには唐までも「蕃国」に含めるものがあり、遣唐使を朝貢使として受け入れていた唐を蕃国とみなすのは、当時の国際関係からかけ離れています。中華思想からは出てこない「隣国」という用語は、このようなギャップを埋めるべく開発されたと思われます。

この後中世にかけて、中国の王朝とは対等、朝鮮半島の諸国よりは一段上という位置づけを、国家関係の理想像とする思想が、日本の支配層を強固に貫いて流れる伝統となります。この自己規定を存続させるには、朝鮮半島に唯一残った新羅を朝貢国として従えることが、必要不可欠でした。

9.新羅の外交攻勢

七世紀末、朝鮮半島北部から中国東北地方に書けての地域に渤海が興り、唐の支配から自立して最盛期を迎えた新羅との並立状況が生まれました。渤海は靺鞨(マッカツ)をめぐって唐と対立し、732年には山東半島の登州に奇襲をかけたので、翌年、唐は新羅に命じて渤海の南境を攻めさせました。孤立を恐れた渤海は、727年を皮切りに日本に使者を派遣し、「蕃国」の増加を歓迎する日本との間に親密な関係を築きました。735年、新羅は唐から大同江以南の領有を正式に認められ、日本に朝貢を続ける積極的な意味はほとんど失われました。新羅が日本との関係を対等なものに改めるべく、外交攻勢に出てくるのは必至でした。

その動きは、842年官符が強調するように、聖武朝(724~49年)から明瞭になります。734年、日本に国号を「王城国」と変更する旨を告げる使者を送りますが、翌年日本はこれを追い返しました。この新名称には日本との対等関係の含みがあったらしいです。

「王城国」の一件があった翌736年、日本は新羅に大使 阿倍継麻呂以下の使者を送り、翌年帰国して「新羅は常礼を失し、使の旨を受けず」と伝えました。朝廷は上下の官人を内裏に招して諮問し、これに答えて「使者を遣わして詰問せよ」とか、「兵を発して征伐を加えよ」とかの意見が出ました。また、伊勢神宮、大和の大神(おおみわ)社、筑紫の住吉社・宇佐八幡・香椎宮に奉弊使を遣わして、「新羅無礼の状」を神に告げました。この発想は、神功皇后の三韓征伐伝説とも結びついて、日本の支配層のなかに長期にわたって持続し、事あるたびに露頭するようになります。

752年に使者の往来があり、両国の関係修復が試みられたものの、日本側の高圧的な態度により不調に終わりました。そのうえ、翌年唐の朝廷で遣唐使大伴古麻呂が席次を新羅使より上位に変更させたことが重なって、両国関係は冷え込み、同年新羅に赴いた使者小野田守は、謁見されず追い返されています。こうして日本と渤海が同盟して新羅を挟み撃ちにする構図が生まれました。

これが実現しなかった原因は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が国内で政治的孤立を深め、764年に反乱を起こし滅んだことにありますが、国際的には、762年に唐が渤海王を「郡王」から「国王」に格上げするなど、唐・渤海関係が好転し、北東アジアが緊張緩和へ転じたことにありました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

飛鳥-3 「日本」という国号

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

大化改新

目 次

  1. 大化の改新
  2. 「日本」という国号
  3. 天皇という称号
  4. ヤマト政権の地方官制
  5. 白村江の戦い

大化の改新

622年に聖徳太子が没し、ついで628年には推古天皇も逝去しました。その皇位継承をめぐる対立に乗じて、蘇我氏はさらに勢力を拡大していきます。その過程で太子の一家も滅ぼされてしまいました。蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)でありました。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにしました。

孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握りました。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させました(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たりました(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、その父で大臣の蘇我蝦夷(えびす・えみし)を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼしました(乙巳の変(いっしのへん)。こうして蘇我氏は急速に没落、新たに即位した孝徳天皇は中大兄皇子を中心に、律令制度に基礎を置く「大化の改新」が断行されます。ちなみに「大化」は日本において初めて立てられた年号です。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月に新しい難波宮(大阪市)で改新の詔を宣して、着々と中央集権的な統一国家が形づくられていくのです。(大化の改新

その後も、これまでの蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めました。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとあります。
しかし、改新の詔はのちの律令などによって文章が様々に装飾されているので、そのまま信じることはできませんが、人口・土地の調査を行い、地方行政区画の「郡」を設置するなど、中央集権化を進める諸政策が打ち出されていきました。

663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなりました。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置きました。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進みました。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移されました。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれています。
仏教もこれを契機として、保護と統制が時代が下がるにつれて強まります。「大宝律令」(701年完成)の「僧尼令」は、唐の「道僧格」等に倣ったもので、全体は二十七条からなり、各条ごとに違反した場合の罰則が付けられています。重いものは教団追放、あるいは還俗、軽いものは苦使(掃除や建物の修理などの肉体労働)となっています。

ところで、国家にとって仏教界の統制が重要な問題の一つになったということは、裏返せば、その大きさと力が無視できない、放ってはおけないものになってきたということなのです。ある記録によれば、例えば寺院の数は、推古天皇三十二年(624)に46であったものが、持統天皇六年(692)には545に達したとされます。約七十年の間に約十二倍に増加しているのです。
それらの中には、百済大寺(大安寺)のような官寺もありますが、ほとんどは各氏族が祖先崇拝の念にもとづき、一族の繁栄と仏神の加護を祈って建てた氏寺(うじでら)でした。
しかし、斉明天皇六年(660)、詔によって大規模な任王般若会が行われたころから、諸寺は次第に護国的な役割を伴わせ持つようになります。天武九年(680)、初めて『金光明教』の講説を行うことが宮中および諸寺に求められました。これによって奈良仏教の鎮護国家的な性格は、決定的に重要な特徴となったと推測されます。舎利塔中心から金堂中心へと伽藍配置の変化もみられます。
▲ページTOPへ

「日本」という国号

 この時代前後に「倭国(倭:ヤマト)」から「日本」へ国号を変えたとされています。日本列島が中国や朝鮮半島に対して東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられています。
建国は、紀元前660年2月11日とされていわれていますが、「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられています。具体的には、天武天皇治世(673年-686年)において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されています。
7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期でした。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられていますが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説です。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至りましたが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説です。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されています。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できます。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としています。

天皇という称号

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていました。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称しました。
「天皇」号をはじめて採用したのは、推古天皇という説も根強いですが、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とされていますが、近年の研究では、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されたことにより、それまでの「大王」から「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力です。天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなります。伝統的に「てんおう」と訓じられていました。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされています。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一されました。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」「大日本帝国皇帝」が多く用いられていました。完全に「天皇」で統一されていたのではないようです。
▲ページTOPへ

ヤマト政権の地方官制

天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こりました。672年(弘文元)壬申の乱が起こりました。この戦いは、日本古代最大の内乱であり、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となりました。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めました。
即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指します。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにしました。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもありました。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めました。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大しました。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革しました。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行いました。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達されました。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を一人も置きませんでした。
外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により、新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶しました。
「天武天皇 九つの偉業」

  1. 1. 天皇号の創始
  2. 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置
  3. 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
  4. 4. 践祚大嘗祭の制定
  5. 5. 宮都の選定と設計
  6. 6. 八色の姓の制定
  7. 7. 飛鳥浄御原令の制定
  8. 8. 三種の神器の制定
  9. 9. 伊勢の遷宮の制定・開始

672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移しました。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行いました。

681年(天武10年)には、律令の編纂を開始しました。5年後の686年(朱鳥元年)に天武天皇は没しました。8年後の689年(持統3年)に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定されます。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられています。

人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始されます。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となりました。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施しました。

694年(持統8年)には藤原京に都を定めました。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定されました。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成しました。これをもって、一応の古代国家成立とみます。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われました。
701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされています。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えました。

このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されています。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されています。

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。戦いは唐・新羅連合軍の勝利に終わりました。大陸に超大国唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、その後の倭国(日本)にも大きく影響しました。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多いですが、中国・朝鮮側では「白江」と表記されます。
668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進しました。また、東国に柵を造りました。白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来しました。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されています。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていました。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになりましたが、日本はこれを認めませんでした。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれました。
737年には新羅征討が議論に上りますが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなりませんでした。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備しています(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったのですが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなりました。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされています。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しています。
▲ページTOPへ
飛鳥曙色(あけぼのいろ)#f19072最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reser E-mail

飛鳥2 聖徳太子と仏教

聖徳太子と仏教

目 次

  1. 聖徳太子
  2. 仏教はいつ日本に伝来したのか
  3. 崇仏か廃仏か
  4. 物部氏と蘇我氏の対立

聖徳太子は、歴史上最もよく知られた日本人の一人です。しかし実は、その生涯に関しても事績に関しても、不明な点が多い人物です。関係資料も、かなり時代を経て成立し、信憑性に疑問を抱かせるものが大半です。このことから、太子の存在それ自体を否定する研究者もいるほどなのです。

しかし、太子を架空の存在と見ることにはやはり無理があると思われ、信憑性の高い記事を取り上げたいと思います。『日本書紀』等によると、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)から推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族とされる人物です。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)とされています。また、『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるといいます。敏達(びたつ)天皇3年(574年)、聖徳太子は橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれましました。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、聖徳太子の父母ともに蘇我氏の出で、しかも両人の母は姉妹でした。太子がいかに濃厚に蘇我氏の血を受け継いでいたかです。本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説があります。ただし、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力です。別名、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれましました。

『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記されています。『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されています。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となっていましたが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もあります。幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されています。用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位しました(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていましました。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御しました。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こしました。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めましたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗しました。討伐軍は三度撃退されましました。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺されましました。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落しました。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけました(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立しました。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝です。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐しました。

太子は自ら仏教の学習・研究を深めるとともに、中央集権的な諸政策を次々と打ち出していきました。

  • 崇峻元年(588年)、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。
  • 592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりましました。
  • 推古天皇元年(593年)、四天王寺造立を開始。
    推古天皇2年(594年)、三宝興隆の詔を下す。臣・連らは競って仏事を建立したという。
  • 595年、高句麗僧慧慈(えじ)が渡来し、太子の師となる。「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
  • (推古十二年(604年)、冠位十二階を制定。聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築く。607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、「隋の皇帝に日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)をおくります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めましました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しましました。国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていましました。国造(くにのみやつこ)とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。推古天皇8年(600年)、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させます。推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営しました。推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こしました。

    同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めましたが、渡海準備中に来目皇子が死去しました(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されましたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もあります。推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めました。氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われています。

    推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定しました。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調しています(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。

    推古天皇13年(605年)、斑鳩(いかるが)宮へ移り住みました。

    日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とあります。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白すとあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としています。

    推古天皇15年(607年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)を送ります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れ、国家の政治・文化の向上に努めました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しました。

    国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていました。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。

    厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著しました。

    推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選びました。

    厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入しました。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげました。

    推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなりました。

    全体的に見て太子の政治理念が仏教を基範としたものあることは確かでしょう。
    憲法十七条第十条一節には
    我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず。共に是れ凡夫のみ。
    と述べています。第二条には儒家、第十条には道家の影響も認められます。これらは太子の思想の根幹に大乗仏教的な人間観・世界観があることを明瞭に示していると思われます。事実上絶大な権力を握る蘇我氏を抑え、調整を図りながら、摂政として現実の日本を理想的な中央集権国家(仏国土、浄土)に作り上げようと務めた太子は、宗教的視点に立つ、日本における明確な現世否定論の最初の表明という意味でも歴史上注目されます。

聖徳太子

聖徳太子の中国に対する姿勢は、小野妹子に託した煬帝への国書、「日出ずる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙無きや」(『隋書倭国伝』)に表れています。これは当時の外交姿勢としては大変な意思表示です。国家関係は、先例が大きくものを言いますから、聖徳太子の外交姿勢によって、日本は朝貢国にならずに済み、その後も長くことになります。

仏教はいつ日本に伝来したのか

その時期は、必ずしも明確ではないようです。
おそらく、遅くとも六世紀初めころから日本に伝来し始めました。しかし本格的な学習・研究が開始されるのは、聖徳太子の時代です。奈良時代までに伝承した仏教についての史料は、天平十九年(747)の「寺院縁起流記資材帳」です。また、東大寺の智憬(ちけい)が書いた文書によれば、仏教の学派は三論・法性・華厳・律・成実・倶舎の六宗に分けられます。後代の「南都六宗」は、この区分を源とするものです(ただし、法性宗は法相宗とされるのが一般的)。仏教公伝(ぶっきょうこうでん)といって、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることをいいますが、日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済の聖明王が倭(古代日本)へ「釈迦仏金銅像一躰、幡蓋(ばんがい)若干、経論若干巻」を奉献したときを仏教公伝とするのが一般的であり、単に仏教伝来と呼ぶこともありますが、公伝以前に、すでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、「公伝」と称されることが多いのです。しかし、その年が何年かははっきりしていません。『日本書紀』は欽明天皇十三年(552年、壬申)10月として上記の百済の聖明王のことを記していますが、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においては、欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとあります。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 – 571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられています。ところが、中国や韓国の史料等にもとづいて算定すると、西暦の549年、または548年がその年に当たることになります。いずれにしろ、国家レベルにおける仏教の伝来が、六世紀半ばであることに間違いはないようです。

ちなみに、平安後期に成立した歴史書『扶桑略記』によれば、継体天皇十六年(522)、漢人の司馬達止が来朝し、大和国坂田原に草堂を結んで仏像を安置し、礼拝したと記しています。この記事や当時の日本と百済などとの密接な関係から考えると、少なくとも「公伝」の数十年以前から民間レベルで仏教が日本に伝えられていた可能性はかなり高いと思われます。敏達(びたつ)天皇六年(577)、新羅との戦争で敗死した聖明王の後を継いだ百済の威徳王は、日本の使者に託して、経論若干と律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工、合わせて六人[*1]を送りました。その二年後には、新羅も貢ぎ物とともに仏像を献上しました。また584年、蘇我氏の当主、馬子は、ある帰化人から弥勒の石像と、佐伯連(さえきのむらじ)が所有していた仏像一体を請い受けて祀りました。日本にわたり還俗していた高句麗のヘビョン(慧便(えびん))は敏達天皇六年(584)、蘇我馬子が建てた精舎に迎えられ、師として司馬達等の娘、嶋と二人の女性を得度させ、法会を行いました。嶋は出家して善信尼と称した、と『日本書紀』は伝えています。

これらの記事を全面的に信じることはできませんが、とくに百済のバックアップのもとで、六世紀後半、貴族僧を中心に、仏教が日本の社会に定着し始めていたことは間違いありません。中でも、経論や僧尼とともに様々な技術者が韓半島から渡来していること、日本最初の出家者が中国からの渡来人の血を引くこと、出家の儀式が高麗僧の主導で行われたらしいこと、および、その出家者が女性であったことなどは注目で、初期の日本仏教は、韓半島の諸国の仏教に大きく依存しながら形成されていきました。崇峻元年(588年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始めました。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てました。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりました。四天王寺聖徳太子建立七大寺の一つ、四天王寺が建てられます。『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されています。蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てました。

法隆寺

推古天皇十二年(604年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築きました。百済の僧イルラ(日羅)が帝の要請によって来日しました。聖徳太子は彼を神人と敬い、救世観音(ぐぜかんのん)の再来と尊んだと言います。同じく百済の三論宗の学僧カンルク(観勒)は、推古十年(602)に来日し、三年後には僧正に任じられています。
法隆寺は聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされていますが、確証はありません。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれます。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。

崇仏か廃仏か

『日本書紀』によれば、上記の聖明王から仏像などの奉献があったとき、欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。仏を信奉すべきかどうか」と群臣に対し意見を求めました。

これに対して、有力氏族の蘇我稲目は「諸国で尊崇されているものを日本だけが退ける理由はありません」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神(となりぐみのかみ)を拝せば、国神たちがお怒りになるでしょう」と反対したといいます(崇仏・廃仏論争)。
しかし、推古天皇が仏教を取り入れたときに、縄文以来続いている神道を傷つけてはいけない、と言って、これまでの文明の上に積み重ねたことです。中西輝政京都大学教授は『堆積の文明』と呼んでいますが、何でも上に積み重ねていって、排斥しないのです。
すでに日本人の、文明を堆積していく伝統的な姿勢があったわけです。ここが他宗教や異宗派を排斥してきた諸外国とは異なる特色です。例えば中国は、易姓革命です。前野王朝の歴史も次の王朝になれば残りません。すべて、次の政権が自分たちの都合のいい歴史に書き換えられてきました。したがって、それまでの文明が次の時代には残らないわけです。この意見の対立は、実際には蘇我氏を代表とする国際派と、物部氏を代表とする民族派の争いを反映したもので、外交政策などが深く関連していたと見られています。事態は結局、蘇我氏優勢のうちに推移し、百済との関係が強化されるとともに、仏教も公式に(といっても現実には蘇我氏ら崇仏派氏族の宗教として)受容されることとなったのです。

ところで、物部尾輿の発言のなかで注意されることは、仏が「蕃神」と表現されていることです。これをどう解釈するかは簡単ではないようです。別の文献に「客神(まろうどがみ)」とか「仏神(ほとけがみ)」「今来の神(いまきのかみ)」といった語で仏を表す例が見えることと照らし合わせても、新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、これらの神といわば同列の存在と把握されたことは想像に難くないのは、これらは一般的な倭人にとって仏が「国神」と異質な存在としてではなく、それらと同じ「神」の範疇に属する存在として理解されていたようです。神と同じく仏の性格は、ないがしろにされれば、怒ったり崇ったりする存在として理解していたことです。日本における仏は、当初は蕃(となりぐに)からやってきて住み着いた氏神であり、性格的にはありのままの人間の延長線上に位置づけられながら、人間以上の力を持ち、人間に恐れられる存在でした。例えばユダヤ教やキリスト教、イスラム教における、超越的・絶対的な存在ではないのです。

受容の過程が以上のように紆余曲折を経たこともあり、神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、主として7世紀以降に進められることとなります。

物部氏と蘇我氏の対立

史実の上で、物部氏が最も大きく登場するのは、蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いです。宣化天皇の死後、欽明天皇になると物部尾輿(モノノベノオコシ)が最高位の大連(オオムラジ)になります。

『日本書紀』によると、欽明天皇の時代、538年(宣化三年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明二年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立しました。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可しました。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上しました。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したといいます。物部守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺は焼いてしまいます。そして3人の尼を鞭で打ったとされています。しかし、それ以後疫病が流行し、用明天皇が崩御されてしまいました。これにより姻戚関係から皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ:用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により、蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込むのです。ただし、近年では物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もあります。いずれにしても、蘇我稲目・物部尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりしました。

当初、物部守屋は有利でしたが、守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死してしまいました。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼしました。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握ります。

蘇我氏

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族です。

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね。たけのうちのすくね)を祖としていますが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていません。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族、または(系譜に現れる名前などから)その地に定住した渡来人であった、などの説がありますがいずれも定かではありません。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類しています。蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられています。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされています。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察されています。

6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われています。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもそれがうかがえられます。『日本書紀』 は、明らかに出雲の神々を「鬼」=祟りとみなしています。大己貴命の幸魂は大物主神といい、出雲からヤマトに移され三輪山(奈良県櫻井市)で祀られるが、大物主神はヤマト朝廷がもっとも丁重に祭った神であった。いわば、ヤマトにおける出雲神の代表格であり、その大物主神の 「物」 が 「鬼」 の 「モノ」 であるところが重要である。(奈良時代以前、「鬼」は「オニ」とは読まずに「モノ」といっていた)。 物部とは道具ではなく鬼を鎮める部という意味ではないか、と考えられる。銅鐸はその祭祀を行う道具だったのではないかと考えられる。なぜ物部氏亡き後、蘇我入鹿が出雲神スサノオとかかわりを持っていたのだろう。スサノオの祀る出雲大社の真裏の摂社が「素鵞(そが)社」と呼ばれていたのはなぜだろう。
『日本書紀』 は、舎人(とねり)親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。蘇我氏満智-韓子—-高麗伊香色謎命=孝元天皇

彦太忍信命

武内宿禰

蘇我氏

百済(346年[1] – 660年)

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね・たけのうちのすくね)を祖としているが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよく分かっていない。

蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。

飛鳥寺

奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興った寺という意味)の後身である。この寺にはいくつもの呼び名がある。すなわち蘇我馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)だが「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにも見え、「飛鳥寺式伽藍配置」など学術用語にも使われている。

百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し、王族・貴族をはじめ技能を持った民も登用されて朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統を伝えることになる。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社である。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

王興寺址(忠清南道窮岩面新里の蔚城山山腹)

藤原不比等

天智天皇の寵臣藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は淡海公。
藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが文武天皇の698年に藤原姓を名乗る事を許され、太政官の官職に就くことができ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖と言っても良い。
不比等という名前は「他に比べることができるものがいない程優れている」というような意味である。

大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死、作業は中途する。

参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝
フリー百科事典 「ウィキペディア」

たじまる 飛鳥1

飛鳥時代

概 要

目 次

  1. 推古天皇
  2. 大和(やまと)国
  3. 「氏(ウヂ)」と「姓(カバネ)」
  4. 地方官制のはじまり
    1. 日本語の歴史
    2. 言語と方言

飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終末期と重なりますが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つです。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期がありましたが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的です。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもあります。

また、この頃には文字の発生と記録を残すことが行われるようになりました。つまり「有史時代」の誕生です。日本の歴史の飛鳥時代の始まりはいつなのか諸説ありますが、推古天皇の即位を基準にするのが一般的です。日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代であり、これを飛鳥文化といいます。現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来します。

推古天皇(すいこてんのう)

推古天皇は、欽明天皇15年(554年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝です。

第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。別名は、『古事記』では豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、『日本書紀』では豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめ)。菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけました。用明元年夏5月(586年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたましが、逆の方は殺されるはめとなってしまいました。

天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着しています。ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっています。『古事記』ではこの天皇までを記しています。

やがて時代は移り、ヤマト王権が諸国を統治する時代に入ります。統一日本の誕生です。崇峻天皇5年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させました。女性天皇が祭祀の責務を行い行政の責務を男性摂政が行う共同統治で、卑弥呼が立つと乱れていた国内が治まったとされるのと似ています。

推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかったとされています。公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣しました(遣隋使)。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていましたが、初めて日本の独立性を強調する目的で使節が派遣されました。

翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。

推古天皇28年(620年)、聖徳太子と蘇我馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上しましたが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなってしまいました。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いありません。

推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようです。わが国にも仏教が伝わると、ヤマトの豪族にならって但馬の豪族たちも次第に寺院を築きはじめます。これは、海人族(=物部氏?)の勢力下を平定し、統一国家に組み入れていく過程ではないかと思われます。やがて、ヤマトから但馬を管理する人が派遣され、ヤマト朝廷の直接の地方支配が始まるとともに、古墳時代も終わりを迎えます。弥生時代の日本列島の人口は5万9千人でしたが、この頃、約十倍の450万人になったと推定されています。

大和(やまと)国

大和(やまと)・倭(やまと)は、狭義では奈良県の南部、次いで奈良県全部、広義では日本全体を指します。

ここでは律令制下の奈良県の地域を指す国名として検討します。

大和(やまと)国は、夜麻登(『古事記』、『万葉集』)、夜萬止(『和名抄』)、耶魔等・夜麻等・野麻登・山門・大日本など(『日本書紀』)、日本(『日本書紀』、『万葉集』)、倭(『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』)、大養徳(『続日本紀』)、和(『万葉集』、『続日本紀』)、大倭(『古事記』、『日本書紀』)、大和(『続日本後紀』、『和名抄』、『万葉集』)などと多様に書かれています。

その語源については、

(1) 「ヤマ(山)・ト(門)」で山間地帯への入り口の意、
(2) 「ヤマ(山)・ト(処)」で山国の意、
(3) 山の神が居られるところ、
(4) 大物主神が鎮座する三輪山あたりの土地の意

とする説があります。
大和には備後、但馬、吉備、筑紫、長門というように二〇数か所の国号地名がある。古代における中部及び西日本と、大和との文化交流を示すもので、出雲国の文化が大和に移入したことも考えられる(『書紀』垂仁記三十二年七月の条)。大字出雲付近には野見宿禰にちなむ出雲伝説があり、いわゆる出雲人形の製産地でもあった。京都伏見の伏見人形の製作技術も大和から移したと伝えています。

大和三山
耳成山 (みみなしやま)
畝傍山 (うねびやま)
天香具山 (あまのかぐやま)

まほろば

『古事記』は、倭建命が薨去される前に
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
と歌ったと記しています(『日本書紀』景行紀17年3月条には「まほろば」ではなく「まほらま」とあります)。

この「まほろば」は、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「まほら」に同じ(『万葉集』巻5・800、巻18・4089には「まほら」とあります)とあり、「まほら」の「ら」は接尾語で、その意味は「すぐれたよい所。ひいでた国土」とあります。

欽明天皇と蘇我氏のヤマト王権による中央の支配体制についてです。
職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)などがあります。君主につかえる家来の地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)などがあります。その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがあります。姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられました。まず蘇我稲目が就いた大臣(おおおみ・オオマヘツキミ)という職位は、稲目から馬子・蝦夷(えみし)という蘇我氏本宗家の三名、実質的には入鹿(いるか)を含めた四名に受け継がれていったもので、「大臣」は「臣」の代表であるとともに、合議体を主宰したり、ヤマト政権を代表して外交の責任者となったりしました。
また、この頃までに「氏(ウヂ)」という、支配者層に特有の政治組織と、「姓(カバネ)」という、政治的地位や職位に応じた族姓表象が成立し、ヤマト政権を構成する支配者層が再編成されました。
これらのうち、後に畿内と呼ばれることになる内国(ウチツクニ)を基盤とした有力氏族は、大王の御前に侍る有力者という意味で、「マヘツキミ(臣・卿・大夫)」と呼ばれました。
マヘツキミ層氏族の代表者は、国政を審議する臨時の合議体に参議したり、合議の結果を大王に奏上し、大王の決定を合議体に宣下したり、また大王の側近に侍奉(じぶ)したりすることによって、ヤマト政権の各職能を分掌しました。

一方、五世紀末の雄略朝から六世紀前半の欽明朝にかけて、朝鮮半島からの人々の渡来がさらに活発になり、大陸の新しい文化と技術が伝えられました。渡来人は、「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田・須恵器・錦の技術などを伝えました。鉄の国内生産がようやく本格化したことは、朝鮮半島への鉄の依存度が低くなったことを意味し、中国王朝の冊封体制から離脱する重要な背景となりました。原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となっていました。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にありましたが、それが国家の政治制度として編成し直されました。同族のなかの特定の者が、臣(おみ)、 連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主(あがたぬし)などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色があります。各姓(かばね)は以下の通りです。臣(おみ)葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏(ウヂ)の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族で。連(むらじ)大伴氏、物部氏、中臣氏(なかとみ)、忌部氏(いんべ)、土師氏(はじ)のように、ヤマト王権での職務を氏(ウヂ)の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。

伴造(とものみやつこ)

連(むらじ)とも重なり合いますが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)などの代表的な帰化氏族、それに弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏(ウヂ)がある。連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(カバネ)を称しました。

百八十部(ももあまりやそのとも)

さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。

▲ページTOPへ
国造(くにのみやつこ)

代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民(べみん)を率(ひき)いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓(カバネ)が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
9世紀成立の全国135の国造の設置時期・任命された者らの記録「国造本紀」(「先代旧事本紀」巻10)があります。

大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造の例

  • 出雲国造 – 天穂日の十一世孫。出雲大社の最高神職として、現人神のように信仰を集めた。南北朝時代に千家・北島の両家に分裂したが、現在も出雲大社社家として存続。
  • 紀伊国造 – 日前神宮・国懸神宮社家。平安時代前期と江戸時代中期に後嗣を欠いたことがあったが、女系相続により辛うじて家を維持した。現在は藤原姓。
  • 阿尺国造(安積国造) – 福島県郡山市・安積(あさか)国造神社社家の安藤家。安積国造家の末裔であるとして安積姓を名乗る。
  • 石背国造 福島県須賀川市・石背国造神社 (いわせくにつこじんじゃ)
  • 武蔵国造 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町・武蔵国一宮氷川神社。武蔵国造は出雲国造と同族とされる。
  • 但島国造(たじま=但遅麻国造)粟鹿神社社家 – 日下部家
  • 二方国造(ふたかた・但馬北西部=美方郡(旧二方郡・旧美含郡)) 出雲国造の同祖
  • 丹波国造 – 京都府宮津市・籠神社(このじんじゃ)社家の海部家。現宮司は第82代丹波国造を称する。
    凡河内国造
  • 賀陽国造 岡山県および備中国にかつて存在した国府所在地とされる郡。吉備津神社の主神、大吉備津彦命はまたの名を四道将軍 彦五十狭芹彦命
  • 沼田国造 – 沼田神社社家。古代には、現在の広島県三原市の沼田(ぬた)地域を支配していた。
  • 因幡国造 – 宇倍神社の神主であった伊福部氏は因幡国造を名乗っていたが、実際の国造は因幡氏(因幡国造氏)であり、伊福部氏はこの一族から分れた支流に当る。9世紀の国造なので、ヤマト政権成立時(4世紀はじめ)から9世紀頃は定かではありませんが、但島(但馬)国造は粟鹿神社社家 – 日下部家とあり、付近に池田古墳の規模(近畿で前方後円墳で4番目の大きさ)や城の山・茶すり山古墳などが集中していることからも、池田古墳は但馬国造の墓であろうとされています。但馬国造の設置は朝来郡内に置かれたのでしょう。

律令国が整備される前の行政区分は判明しませんが、但馬・丹後はその後丹波から分割された律令国なので、8世紀の但馬成立後の9世紀にも二方国造が記されており、但馬北西部(美方郡(旧二方郡・旧七美郡)は、同じ但馬でも広範なために二人の国造が置かれていたのかもわかりません。出雲国造の同祖とあるので、因幡から出雲の勢力範囲(今でも鳥取に近い生活圏)にあった可能性が高いと推測できます。県主(あがたぬし)これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏(ウヂ)の名とする。このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれました。そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及びました。部民などの私有民氏姓は元来はヤマト王権を構成する臣・連・伴造・国造などの支配階級が称したものである(王とその一族を除く)。しかし、6世紀には一般の民にも及んだ。これらの一般の民は、朝廷すなわち、天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、さらに臣、連らの豪族に領有・支配されていた。そのため、一般の民の中から、朝廷に出仕して、職務の名を負う品部(しなべ)、王名、宮号を負う名代(なしろ)・子代(こしろ)、屯倉(みやけ)の耕作民である田部(たべ)などが必然的に生まれた。彼らは先進的な部民共同体の中で戸を単位に編成され、6世紀には籍帳に登載されて、正式に氏姓をもちました。これに対し、地方豪族の支配下にあった民部(かきべ)は、在地の族長を介して、共同体のまま部(べ)に編入し、族長をへて貢納させる形のものが多くありました。そのため、地方豪族の支配下にあった一般の民にまで6世紀の段階で氏姓が及んでいたかどうかは定かではありません。

ヤマト政権は、百済の二十に部司の制度を摂取して、渡来人を部(べ)に組織しました。錦(にしこり)部・衣縫(きぬぬい)部・鍛冶(かぬち)部・陶(すえつくり)部・鞍(くらつくり)部・馬飼(うまかい)部などの宮廷工房的な伴(とも)が新たに組織され、王権の政治機構が再編されたのです。これらの伴は、伴造の統率の下、百八十部として配置された下級氏族、その下部にあった渡来系技術者としての品部(しなべ)によって構成されました。

姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化していきましたので、代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられました。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの氏族の姓(カバネ)が朝臣(あそん)になってしまい、八色の姓も甚だ形式的なものに変質してしまいます。
一般の公民については、670年(天智9)の庚午年籍、690年(持統4)の庚寅年籍によって、すべて戸籍に登載されることとなり、部姓を主とする氏姓制度が完成されることとなりました。しかしながら、現存する702年の大宝2年籍に、氏姓を記入されていない者、国造族、県主族などと記された者がかなり存在するため、このとき、まだ無姓の者、族姓の者が多数いたことが伺(うかが)えます。
※氏姓は平安期(10世紀)に取って代わることになる苗字(名字)とは異なります。貴族では家名、武士では名字(みようじ)が生ずるようになります。

地方官制のはじまり

地方官制(ちほうかんせい)は、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されたのが公的には最初のようです。

4世紀~6世紀頃?、『古事記』成務段に、「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺(境)、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」とあります。
『日本書紀』成務紀には、4年「今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む。」(阡陌は南北・東西の道の意)しかし、成務天皇は13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたります。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の潤色であると考えられています。また成務天皇自体の実在性が疑われています。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主(アガタヌシ)として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできるそうです。

郡(コホリ・コオリ、あがた)

6世紀後半~7世紀中?、『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉(みやけ)の大量設置の記事がみられますが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できます。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられますが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)のだということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察されています。

この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられています。
県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたのでしょう。

地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは天武朝においてであったと思われます。その基礎となる戸(コ)は、正丁(セイテイ)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になりました。註:県は縣、郡は群が旧使用漢字
参考:ウィキペディア