飛鳥2 聖徳太子と仏教

聖徳太子と仏教

目 次

  1. 聖徳太子
  2. 仏教はいつ日本に伝来したのか
  3. 崇仏か廃仏か
  4. 物部氏と蘇我氏の対立

聖徳太子は、歴史上最もよく知られた日本人の一人です。しかし実は、その生涯に関しても事績に関しても、不明な点が多い人物です。関係資料も、かなり時代を経て成立し、信憑性に疑問を抱かせるものが大半です。このことから、太子の存在それ自体を否定する研究者もいるほどなのです。

しかし、太子を架空の存在と見ることにはやはり無理があると思われ、信憑性の高い記事を取り上げたいと思います。『日本書紀』等によると、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)から推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族とされる人物です。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)とされています。また、『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるといいます。敏達(びたつ)天皇3年(574年)、聖徳太子は橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれましました。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、聖徳太子の父母ともに蘇我氏の出で、しかも両人の母は姉妹でした。太子がいかに濃厚に蘇我氏の血を受け継いでいたかです。本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説があります。ただし、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力です。別名、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれましました。

『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記されています。『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されています。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となっていましたが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もあります。幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されています。用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位しました(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていましました。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御しました。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こしました。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めましたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗しました。討伐軍は三度撃退されましました。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺されましました。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落しました。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけました(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立しました。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝です。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐しました。

太子は自ら仏教の学習・研究を深めるとともに、中央集権的な諸政策を次々と打ち出していきました。

  • 崇峻元年(588年)、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。
  • 592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりましました。
  • 推古天皇元年(593年)、四天王寺造立を開始。
    推古天皇2年(594年)、三宝興隆の詔を下す。臣・連らは競って仏事を建立したという。
  • 595年、高句麗僧慧慈(えじ)が渡来し、太子の師となる。「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
  • (推古十二年(604年)、冠位十二階を制定。聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築く。607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、「隋の皇帝に日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)をおくります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めましました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しましました。国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていましました。国造(くにのみやつこ)とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。推古天皇8年(600年)、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させます。推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営しました。推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こしました。

    同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めましたが、渡海準備中に来目皇子が死去しました(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されましたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もあります。推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めました。氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われています。

    推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定しました。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調しています(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。

    推古天皇13年(605年)、斑鳩(いかるが)宮へ移り住みました。

    日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とあります。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白すとあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としています。

    推古天皇15年(607年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)を送ります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れ、国家の政治・文化の向上に努めました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しました。

    国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていました。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。

    厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著しました。

    推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選びました。

    厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入しました。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげました。

    推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなりました。

    全体的に見て太子の政治理念が仏教を基範としたものあることは確かでしょう。
    憲法十七条第十条一節には
    我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず。共に是れ凡夫のみ。
    と述べています。第二条には儒家、第十条には道家の影響も認められます。これらは太子の思想の根幹に大乗仏教的な人間観・世界観があることを明瞭に示していると思われます。事実上絶大な権力を握る蘇我氏を抑え、調整を図りながら、摂政として現実の日本を理想的な中央集権国家(仏国土、浄土)に作り上げようと務めた太子は、宗教的視点に立つ、日本における明確な現世否定論の最初の表明という意味でも歴史上注目されます。

聖徳太子

聖徳太子の中国に対する姿勢は、小野妹子に託した煬帝への国書、「日出ずる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙無きや」(『隋書倭国伝』)に表れています。これは当時の外交姿勢としては大変な意思表示です。国家関係は、先例が大きくものを言いますから、聖徳太子の外交姿勢によって、日本は朝貢国にならずに済み、その後も長くことになります。

仏教はいつ日本に伝来したのか

その時期は、必ずしも明確ではないようです。
おそらく、遅くとも六世紀初めころから日本に伝来し始めました。しかし本格的な学習・研究が開始されるのは、聖徳太子の時代です。奈良時代までに伝承した仏教についての史料は、天平十九年(747)の「寺院縁起流記資材帳」です。また、東大寺の智憬(ちけい)が書いた文書によれば、仏教の学派は三論・法性・華厳・律・成実・倶舎の六宗に分けられます。後代の「南都六宗」は、この区分を源とするものです(ただし、法性宗は法相宗とされるのが一般的)。仏教公伝(ぶっきょうこうでん)といって、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることをいいますが、日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済の聖明王が倭(古代日本)へ「釈迦仏金銅像一躰、幡蓋(ばんがい)若干、経論若干巻」を奉献したときを仏教公伝とするのが一般的であり、単に仏教伝来と呼ぶこともありますが、公伝以前に、すでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、「公伝」と称されることが多いのです。しかし、その年が何年かははっきりしていません。『日本書紀』は欽明天皇十三年(552年、壬申)10月として上記の百済の聖明王のことを記していますが、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においては、欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとあります。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 – 571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられています。ところが、中国や韓国の史料等にもとづいて算定すると、西暦の549年、または548年がその年に当たることになります。いずれにしろ、国家レベルにおける仏教の伝来が、六世紀半ばであることに間違いはないようです。

ちなみに、平安後期に成立した歴史書『扶桑略記』によれば、継体天皇十六年(522)、漢人の司馬達止が来朝し、大和国坂田原に草堂を結んで仏像を安置し、礼拝したと記しています。この記事や当時の日本と百済などとの密接な関係から考えると、少なくとも「公伝」の数十年以前から民間レベルで仏教が日本に伝えられていた可能性はかなり高いと思われます。敏達(びたつ)天皇六年(577)、新羅との戦争で敗死した聖明王の後を継いだ百済の威徳王は、日本の使者に託して、経論若干と律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工、合わせて六人[*1]を送りました。その二年後には、新羅も貢ぎ物とともに仏像を献上しました。また584年、蘇我氏の当主、馬子は、ある帰化人から弥勒の石像と、佐伯連(さえきのむらじ)が所有していた仏像一体を請い受けて祀りました。日本にわたり還俗していた高句麗のヘビョン(慧便(えびん))は敏達天皇六年(584)、蘇我馬子が建てた精舎に迎えられ、師として司馬達等の娘、嶋と二人の女性を得度させ、法会を行いました。嶋は出家して善信尼と称した、と『日本書紀』は伝えています。

これらの記事を全面的に信じることはできませんが、とくに百済のバックアップのもとで、六世紀後半、貴族僧を中心に、仏教が日本の社会に定着し始めていたことは間違いありません。中でも、経論や僧尼とともに様々な技術者が韓半島から渡来していること、日本最初の出家者が中国からの渡来人の血を引くこと、出家の儀式が高麗僧の主導で行われたらしいこと、および、その出家者が女性であったことなどは注目で、初期の日本仏教は、韓半島の諸国の仏教に大きく依存しながら形成されていきました。崇峻元年(588年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始めました。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てました。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりました。四天王寺聖徳太子建立七大寺の一つ、四天王寺が建てられます。『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されています。蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てました。

法隆寺

推古天皇十二年(604年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築きました。百済の僧イルラ(日羅)が帝の要請によって来日しました。聖徳太子は彼を神人と敬い、救世観音(ぐぜかんのん)の再来と尊んだと言います。同じく百済の三論宗の学僧カンルク(観勒)は、推古十年(602)に来日し、三年後には僧正に任じられています。
法隆寺は聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされていますが、確証はありません。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれます。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。

崇仏か廃仏か

『日本書紀』によれば、上記の聖明王から仏像などの奉献があったとき、欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。仏を信奉すべきかどうか」と群臣に対し意見を求めました。

これに対して、有力氏族の蘇我稲目は「諸国で尊崇されているものを日本だけが退ける理由はありません」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神(となりぐみのかみ)を拝せば、国神たちがお怒りになるでしょう」と反対したといいます(崇仏・廃仏論争)。
しかし、推古天皇が仏教を取り入れたときに、縄文以来続いている神道を傷つけてはいけない、と言って、これまでの文明の上に積み重ねたことです。中西輝政京都大学教授は『堆積の文明』と呼んでいますが、何でも上に積み重ねていって、排斥しないのです。
すでに日本人の、文明を堆積していく伝統的な姿勢があったわけです。ここが他宗教や異宗派を排斥してきた諸外国とは異なる特色です。例えば中国は、易姓革命です。前野王朝の歴史も次の王朝になれば残りません。すべて、次の政権が自分たちの都合のいい歴史に書き換えられてきました。したがって、それまでの文明が次の時代には残らないわけです。この意見の対立は、実際には蘇我氏を代表とする国際派と、物部氏を代表とする民族派の争いを反映したもので、外交政策などが深く関連していたと見られています。事態は結局、蘇我氏優勢のうちに推移し、百済との関係が強化されるとともに、仏教も公式に(といっても現実には蘇我氏ら崇仏派氏族の宗教として)受容されることとなったのです。

ところで、物部尾輿の発言のなかで注意されることは、仏が「蕃神」と表現されていることです。これをどう解釈するかは簡単ではないようです。別の文献に「客神(まろうどがみ)」とか「仏神(ほとけがみ)」「今来の神(いまきのかみ)」といった語で仏を表す例が見えることと照らし合わせても、新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、これらの神といわば同列の存在と把握されたことは想像に難くないのは、これらは一般的な倭人にとって仏が「国神」と異質な存在としてではなく、それらと同じ「神」の範疇に属する存在として理解されていたようです。神と同じく仏の性格は、ないがしろにされれば、怒ったり崇ったりする存在として理解していたことです。日本における仏は、当初は蕃(となりぐに)からやってきて住み着いた氏神であり、性格的にはありのままの人間の延長線上に位置づけられながら、人間以上の力を持ち、人間に恐れられる存在でした。例えばユダヤ教やキリスト教、イスラム教における、超越的・絶対的な存在ではないのです。

受容の過程が以上のように紆余曲折を経たこともあり、神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、主として7世紀以降に進められることとなります。

物部氏と蘇我氏の対立

史実の上で、物部氏が最も大きく登場するのは、蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いです。宣化天皇の死後、欽明天皇になると物部尾輿(モノノベノオコシ)が最高位の大連(オオムラジ)になります。

『日本書紀』によると、欽明天皇の時代、538年(宣化三年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明二年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立しました。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可しました。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上しました。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したといいます。物部守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺は焼いてしまいます。そして3人の尼を鞭で打ったとされています。しかし、それ以後疫病が流行し、用明天皇が崩御されてしまいました。これにより姻戚関係から皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ:用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により、蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込むのです。ただし、近年では物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もあります。いずれにしても、蘇我稲目・物部尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりしました。

当初、物部守屋は有利でしたが、守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死してしまいました。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼしました。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握ります。

蘇我氏

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族です。

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね。たけのうちのすくね)を祖としていますが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていません。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族、または(系譜に現れる名前などから)その地に定住した渡来人であった、などの説がありますがいずれも定かではありません。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類しています。蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられています。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされています。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察されています。

6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われています。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもそれがうかがえられます。『日本書紀』 は、明らかに出雲の神々を「鬼」=祟りとみなしています。大己貴命の幸魂は大物主神といい、出雲からヤマトに移され三輪山(奈良県櫻井市)で祀られるが、大物主神はヤマト朝廷がもっとも丁重に祭った神であった。いわば、ヤマトにおける出雲神の代表格であり、その大物主神の 「物」 が 「鬼」 の 「モノ」 であるところが重要である。(奈良時代以前、「鬼」は「オニ」とは読まずに「モノ」といっていた)。 物部とは道具ではなく鬼を鎮める部という意味ではないか、と考えられる。銅鐸はその祭祀を行う道具だったのではないかと考えられる。なぜ物部氏亡き後、蘇我入鹿が出雲神スサノオとかかわりを持っていたのだろう。スサノオの祀る出雲大社の真裏の摂社が「素鵞(そが)社」と呼ばれていたのはなぜだろう。
『日本書紀』 は、舎人(とねり)親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。蘇我氏満智-韓子—-高麗伊香色謎命=孝元天皇

彦太忍信命

武内宿禰

蘇我氏

百済(346年[1] – 660年)

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね・たけのうちのすくね)を祖としているが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよく分かっていない。

蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。

飛鳥寺

奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興った寺という意味)の後身である。この寺にはいくつもの呼び名がある。すなわち蘇我馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)だが「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにも見え、「飛鳥寺式伽藍配置」など学術用語にも使われている。

百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し、王族・貴族をはじめ技能を持った民も登用されて朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統を伝えることになる。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社である。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

王興寺址(忠清南道窮岩面新里の蔚城山山腹)

藤原不比等

天智天皇の寵臣藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は淡海公。
藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが文武天皇の698年に藤原姓を名乗る事を許され、太政官の官職に就くことができ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖と言っても良い。
不比等という名前は「他に比べることができるものがいない程優れている」というような意味である。

大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死、作業は中途する。

参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝
フリー百科事典 「ウィキペディア」

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