たじまる 飛鳥1

飛鳥時代

概 要

目 次

  1. 推古天皇
  2. 大和(やまと)国
  3. 「氏(ウヂ)」と「姓(カバネ)」
  4. 地方官制のはじまり
    1. 日本語の歴史
    2. 言語と方言

飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終末期と重なりますが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つです。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期がありましたが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的です。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもあります。

また、この頃には文字の発生と記録を残すことが行われるようになりました。つまり「有史時代」の誕生です。日本の歴史の飛鳥時代の始まりはいつなのか諸説ありますが、推古天皇の即位を基準にするのが一般的です。日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代であり、これを飛鳥文化といいます。現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来します。

推古天皇(すいこてんのう)

推古天皇は、欽明天皇15年(554年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝です。

第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。別名は、『古事記』では豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、『日本書紀』では豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめ)。菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけました。用明元年夏5月(586年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたましが、逆の方は殺されるはめとなってしまいました。

天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着しています。ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっています。『古事記』ではこの天皇までを記しています。

やがて時代は移り、ヤマト王権が諸国を統治する時代に入ります。統一日本の誕生です。崇峻天皇5年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させました。女性天皇が祭祀の責務を行い行政の責務を男性摂政が行う共同統治で、卑弥呼が立つと乱れていた国内が治まったとされるのと似ています。

推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかったとされています。公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣しました(遣隋使)。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていましたが、初めて日本の独立性を強調する目的で使節が派遣されました。

翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。

推古天皇28年(620年)、聖徳太子と蘇我馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上しましたが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなってしまいました。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いありません。

推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようです。わが国にも仏教が伝わると、ヤマトの豪族にならって但馬の豪族たちも次第に寺院を築きはじめます。これは、海人族(=物部氏?)の勢力下を平定し、統一国家に組み入れていく過程ではないかと思われます。やがて、ヤマトから但馬を管理する人が派遣され、ヤマト朝廷の直接の地方支配が始まるとともに、古墳時代も終わりを迎えます。弥生時代の日本列島の人口は5万9千人でしたが、この頃、約十倍の450万人になったと推定されています。

大和(やまと)国

大和(やまと)・倭(やまと)は、狭義では奈良県の南部、次いで奈良県全部、広義では日本全体を指します。

ここでは律令制下の奈良県の地域を指す国名として検討します。

大和(やまと)国は、夜麻登(『古事記』、『万葉集』)、夜萬止(『和名抄』)、耶魔等・夜麻等・野麻登・山門・大日本など(『日本書紀』)、日本(『日本書紀』、『万葉集』)、倭(『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』)、大養徳(『続日本紀』)、和(『万葉集』、『続日本紀』)、大倭(『古事記』、『日本書紀』)、大和(『続日本後紀』、『和名抄』、『万葉集』)などと多様に書かれています。

その語源については、

(1) 「ヤマ(山)・ト(門)」で山間地帯への入り口の意、
(2) 「ヤマ(山)・ト(処)」で山国の意、
(3) 山の神が居られるところ、
(4) 大物主神が鎮座する三輪山あたりの土地の意

とする説があります。
大和には備後、但馬、吉備、筑紫、長門というように二〇数か所の国号地名がある。古代における中部及び西日本と、大和との文化交流を示すもので、出雲国の文化が大和に移入したことも考えられる(『書紀』垂仁記三十二年七月の条)。大字出雲付近には野見宿禰にちなむ出雲伝説があり、いわゆる出雲人形の製産地でもあった。京都伏見の伏見人形の製作技術も大和から移したと伝えています。

大和三山
耳成山 (みみなしやま)
畝傍山 (うねびやま)
天香具山 (あまのかぐやま)

まほろば

『古事記』は、倭建命が薨去される前に
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
と歌ったと記しています(『日本書紀』景行紀17年3月条には「まほろば」ではなく「まほらま」とあります)。

この「まほろば」は、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「まほら」に同じ(『万葉集』巻5・800、巻18・4089には「まほら」とあります)とあり、「まほら」の「ら」は接尾語で、その意味は「すぐれたよい所。ひいでた国土」とあります。

欽明天皇と蘇我氏のヤマト王権による中央の支配体制についてです。
職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)などがあります。君主につかえる家来の地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)などがあります。その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがあります。姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられました。まず蘇我稲目が就いた大臣(おおおみ・オオマヘツキミ)という職位は、稲目から馬子・蝦夷(えみし)という蘇我氏本宗家の三名、実質的には入鹿(いるか)を含めた四名に受け継がれていったもので、「大臣」は「臣」の代表であるとともに、合議体を主宰したり、ヤマト政権を代表して外交の責任者となったりしました。
また、この頃までに「氏(ウヂ)」という、支配者層に特有の政治組織と、「姓(カバネ)」という、政治的地位や職位に応じた族姓表象が成立し、ヤマト政権を構成する支配者層が再編成されました。
これらのうち、後に畿内と呼ばれることになる内国(ウチツクニ)を基盤とした有力氏族は、大王の御前に侍る有力者という意味で、「マヘツキミ(臣・卿・大夫)」と呼ばれました。
マヘツキミ層氏族の代表者は、国政を審議する臨時の合議体に参議したり、合議の結果を大王に奏上し、大王の決定を合議体に宣下したり、また大王の側近に侍奉(じぶ)したりすることによって、ヤマト政権の各職能を分掌しました。

一方、五世紀末の雄略朝から六世紀前半の欽明朝にかけて、朝鮮半島からの人々の渡来がさらに活発になり、大陸の新しい文化と技術が伝えられました。渡来人は、「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田・須恵器・錦の技術などを伝えました。鉄の国内生産がようやく本格化したことは、朝鮮半島への鉄の依存度が低くなったことを意味し、中国王朝の冊封体制から離脱する重要な背景となりました。原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となっていました。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にありましたが、それが国家の政治制度として編成し直されました。同族のなかの特定の者が、臣(おみ)、 連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主(あがたぬし)などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色があります。各姓(かばね)は以下の通りです。臣(おみ)葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏(ウヂ)の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族で。連(むらじ)大伴氏、物部氏、中臣氏(なかとみ)、忌部氏(いんべ)、土師氏(はじ)のように、ヤマト王権での職務を氏(ウヂ)の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。

伴造(とものみやつこ)

連(むらじ)とも重なり合いますが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)などの代表的な帰化氏族、それに弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏(ウヂ)がある。連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(カバネ)を称しました。

百八十部(ももあまりやそのとも)

さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。

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国造(くにのみやつこ)

代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民(べみん)を率(ひき)いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓(カバネ)が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
9世紀成立の全国135の国造の設置時期・任命された者らの記録「国造本紀」(「先代旧事本紀」巻10)があります。

大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造の例

  • 出雲国造 – 天穂日の十一世孫。出雲大社の最高神職として、現人神のように信仰を集めた。南北朝時代に千家・北島の両家に分裂したが、現在も出雲大社社家として存続。
  • 紀伊国造 – 日前神宮・国懸神宮社家。平安時代前期と江戸時代中期に後嗣を欠いたことがあったが、女系相続により辛うじて家を維持した。現在は藤原姓。
  • 阿尺国造(安積国造) – 福島県郡山市・安積(あさか)国造神社社家の安藤家。安積国造家の末裔であるとして安積姓を名乗る。
  • 石背国造 福島県須賀川市・石背国造神社 (いわせくにつこじんじゃ)
  • 武蔵国造 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町・武蔵国一宮氷川神社。武蔵国造は出雲国造と同族とされる。
  • 但島国造(たじま=但遅麻国造)粟鹿神社社家 – 日下部家
  • 二方国造(ふたかた・但馬北西部=美方郡(旧二方郡・旧美含郡)) 出雲国造の同祖
  • 丹波国造 – 京都府宮津市・籠神社(このじんじゃ)社家の海部家。現宮司は第82代丹波国造を称する。
    凡河内国造
  • 賀陽国造 岡山県および備中国にかつて存在した国府所在地とされる郡。吉備津神社の主神、大吉備津彦命はまたの名を四道将軍 彦五十狭芹彦命
  • 沼田国造 – 沼田神社社家。古代には、現在の広島県三原市の沼田(ぬた)地域を支配していた。
  • 因幡国造 – 宇倍神社の神主であった伊福部氏は因幡国造を名乗っていたが、実際の国造は因幡氏(因幡国造氏)であり、伊福部氏はこの一族から分れた支流に当る。9世紀の国造なので、ヤマト政権成立時(4世紀はじめ)から9世紀頃は定かではありませんが、但島(但馬)国造は粟鹿神社社家 – 日下部家とあり、付近に池田古墳の規模(近畿で前方後円墳で4番目の大きさ)や城の山・茶すり山古墳などが集中していることからも、池田古墳は但馬国造の墓であろうとされています。但馬国造の設置は朝来郡内に置かれたのでしょう。

律令国が整備される前の行政区分は判明しませんが、但馬・丹後はその後丹波から分割された律令国なので、8世紀の但馬成立後の9世紀にも二方国造が記されており、但馬北西部(美方郡(旧二方郡・旧七美郡)は、同じ但馬でも広範なために二人の国造が置かれていたのかもわかりません。出雲国造の同祖とあるので、因幡から出雲の勢力範囲(今でも鳥取に近い生活圏)にあった可能性が高いと推測できます。県主(あがたぬし)これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏(ウヂ)の名とする。このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれました。そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及びました。部民などの私有民氏姓は元来はヤマト王権を構成する臣・連・伴造・国造などの支配階級が称したものである(王とその一族を除く)。しかし、6世紀には一般の民にも及んだ。これらの一般の民は、朝廷すなわち、天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、さらに臣、連らの豪族に領有・支配されていた。そのため、一般の民の中から、朝廷に出仕して、職務の名を負う品部(しなべ)、王名、宮号を負う名代(なしろ)・子代(こしろ)、屯倉(みやけ)の耕作民である田部(たべ)などが必然的に生まれた。彼らは先進的な部民共同体の中で戸を単位に編成され、6世紀には籍帳に登載されて、正式に氏姓をもちました。これに対し、地方豪族の支配下にあった民部(かきべ)は、在地の族長を介して、共同体のまま部(べ)に編入し、族長をへて貢納させる形のものが多くありました。そのため、地方豪族の支配下にあった一般の民にまで6世紀の段階で氏姓が及んでいたかどうかは定かではありません。

ヤマト政権は、百済の二十に部司の制度を摂取して、渡来人を部(べ)に組織しました。錦(にしこり)部・衣縫(きぬぬい)部・鍛冶(かぬち)部・陶(すえつくり)部・鞍(くらつくり)部・馬飼(うまかい)部などの宮廷工房的な伴(とも)が新たに組織され、王権の政治機構が再編されたのです。これらの伴は、伴造の統率の下、百八十部として配置された下級氏族、その下部にあった渡来系技術者としての品部(しなべ)によって構成されました。

姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化していきましたので、代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられました。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの氏族の姓(カバネ)が朝臣(あそん)になってしまい、八色の姓も甚だ形式的なものに変質してしまいます。
一般の公民については、670年(天智9)の庚午年籍、690年(持統4)の庚寅年籍によって、すべて戸籍に登載されることとなり、部姓を主とする氏姓制度が完成されることとなりました。しかしながら、現存する702年の大宝2年籍に、氏姓を記入されていない者、国造族、県主族などと記された者がかなり存在するため、このとき、まだ無姓の者、族姓の者が多数いたことが伺(うかが)えます。
※氏姓は平安期(10世紀)に取って代わることになる苗字(名字)とは異なります。貴族では家名、武士では名字(みようじ)が生ずるようになります。

地方官制のはじまり

地方官制(ちほうかんせい)は、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されたのが公的には最初のようです。

4世紀~6世紀頃?、『古事記』成務段に、「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺(境)、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」とあります。
『日本書紀』成務紀には、4年「今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む。」(阡陌は南北・東西の道の意)しかし、成務天皇は13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたります。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の潤色であると考えられています。また成務天皇自体の実在性が疑われています。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主(アガタヌシ)として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできるそうです。

郡(コホリ・コオリ、あがた)

6世紀後半~7世紀中?、『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉(みやけ)の大量設置の記事がみられますが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できます。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられますが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)のだということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察されています。

この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられています。
県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたのでしょう。

地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは天武朝においてであったと思われます。その基礎となる戸(コ)は、正丁(セイテイ)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になりました。註:県は縣、郡は群が旧使用漢字
参考:ウィキペディア

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