ポツダム宣言と治安維持法

政権転覆扇動罪で民主活動家に懲役5年 中国
産経IZA 2010/02/09 13:14

香港の人権団体、中国人権民主化運動情報センターによると、四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動で知られ、国家政権転覆扇動罪に問われた民主活動家の譚作人氏に対し、四川省成都市の裁判所は懲役5年の判決を言い渡した。

譚氏の罪状の詳細は不明。香港紙は、譚氏が昨年、1989年の天安門事件当時の民主化運動の学生リーダーだった王丹氏にメールを送り、事件20年の記念活動を呼び掛けたことなどから起訴されたと伝えていた。(共同)

四川大地震の校舎倒壊の真相究明活動自体が違法になる方がおかしい。地方の公共事業請負に共産党幹部が汚職にまみれていることはよく知られている。中国共産党=政府であり国家なのだ。国家政権転覆扇動罪とは、正義よりも党の汚職による欠陥工事を隠蔽しなければ国家が危なくなる国とはいかがなものか。

しかし、最近「治安維持法」という法律がなくなっていることは問題ではないかと思えるほど政府の特に小沢が中国共産党に140人も謁見し、帰り際には韓国の大学で天皇陛下訪韓を発言している。その前にも韓国に「外国人地方参政権」実現を約束している。また、中国の副首相習近平氏をルールを破り天皇と強引に引見させたことだ。国益よりも党益・私益を優先しているのではないか。国家の主権・道議を侵す憲法違反である。献金疑惑は過去最大規模のもので、不起訴になったといっても証拠不十分でありシロだといっていない。

そこで「治安維持法」についてフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で引いてみた。

治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(天皇制)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。

当初治安維持法制定の背景には、とくにロシア革命後国際的に高まりつつあった共産主義活動を牽制する政府の意図があった。
前身

1920年より、政府は治安警察法に代わる治安立法の制定に着手した。1917年のロシア革命による共産主義思想の拡大を脅威と見て企図されたといわれる。また、1921年4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。また、米騒動など、従来の共産主義・社会主義者とは無関係の暴動が起き、社会運動の大衆化が進んでいた。特定の「危険人物」を「特別要視察人」として監視すれば事足りるというこれまでの手法を見直そうとしたのである。

1921年8月、司法省は「治安維持ニ関スル件」の法案を完成し、緊急勅令での成立を企図した。しかし内容に緊急性が欠けていると内務省側の反論があり、1922年2月、過激社会運動取締法案として帝国議会に提出された。「無政府主義共産主義其ノ他ニ関シ朝憲ヲ紊乱」する結社や、その宣伝・勧誘を禁止しようというものだった。また、結社の集会に参加することも罪とされ、最高刑は懲役10年とされた。

これらの内容は、平沼騏一郎(元首相・現衆議院議員平沼赳夫氏の養父)などの司法官僚の意向が強く反映されていた。しかし、具体的な犯罪行為が無くては処罰できないのは「刑法の缺陥」(司法省政府委員・宮城長五郎の答弁)といった政府側の趣旨説明は、結社の自由そのものの否定であり、かえって反発を招いた。また、無政府主義や共産主義者の法的定義について、司法省は答弁することができなかった。さらに、「宣伝」の該当する範囲が広いため、濫用が懸念された。その結果、貴族院では法案の対象を「外国人又ハ本法施行区域外ニ在ル者ト連絡」する者に限定し、最高刑を3年にする修正案が可決したが、衆議院で廃案になった。

また、1923年に関東大震災後の混乱(在日朝鮮韓国人等)を受けて公布された緊急勅令 治安維持ノ為ニスル罰則ニ関スル件(大正12年勅令第403号)も前身の一つである。これは、治安維持法成立と引き替えに緊急勅令を廃止したことで、政府はその連続性を示している。

法律制定

1925年1月のソビエト連邦との国交樹立(日ソ基本条約)により、共産主義革命運動の激化が懸念されて、1925年4月22日に公布され、同年5月12日に施行[1]。普通選挙法とほぼ同時に制定されたことから飴と鞭の関係にもなぞらえられ、普通選挙実施による政治運動の活発化を抑制する意図など治安維持を理由として制定されたものと見られている。治安維持法は即時に効力を持ったが普通選挙実施は1928年まで延期された。 法案は過激社会運動取締法案の実質的な修正案であったが、過激社会運動取締法案が廃案となったのに治安維持法は可決した。奥平康弘は、治安立法自体への反対は議会では少なく、法案の出来具合への批判が主流であり、その結果修正案として出された治安維持法への批判がしにくくなったからではないかとしている。

1928年(昭和3年)に緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」(昭和3年6月29日勅令第129号)により、また太平洋戦争を目前にした1941年3月10日にはこれまでの全7条のものを全65条とする全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)が行われた。
1925年法の規定では「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」を主な内容とした。過激社会運動取締法案にあった「宣伝」への罰則は削除された。

廃止

1945年の敗戦後も同法の運用は継続され、むしろ迫り来る「共産革命」の危機に対処するため、断固適用する方針を取り続けた。同年9月26日に同法違反で服役していた哲学者の三木清が獄死し、10月3日には東久邇内閣の山崎巌内務大臣は、イギリス人記者に対し「思想取締の秘密警察は現在なほ活動を続けてをり、反皇室的宣伝を行ふ共産主義者は容赦なく逮捕する」と主張した。さらに、岩田宙造司法大臣は政治犯の釈放を否定した。こうしたことなどから同10月4日にはGHQによる人権指令「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の除去に関する司令部覚書」により廃止と山崎の罷免を要求された。東久邇内閣は両者を拒絶し総辞職、後継の幣原内閣によって10月15日『「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ基ク治安維持法廃止等(昭和20年勅令第575号)』により廃止された。また、特別高等警察も解散を命じられた。

1948年に制定された韓国の国家保安法は治安維持法をモデルにしたと言われている。

中国の言論統制

中国は自国民だけではなく、外国メディアに対してもしばしば統制をはかる。日本のマスコミも実質的に中国の検閲下にあるといわれている。この背景には親中派議員たちが訪中して締結した1964年(昭和39年)の「日中記者交換協定」、さらに1968年(昭和43年)の「日中関係の政治三原則」という両国間の検閲協定がある。これにより「1中国を敵視しない、2二つの中国の立場に立たない、3日中国交正常化を妨げない」が日中記者が記者交換する原則とされた。これは事実上日本側は記者を北京に派遣するにあたって、中国の意に反する報道を行わないことを約束したものであり、当時北京に常駐記者をおいていた朝日新聞、読売新聞、毎日新聞、NHKなどや、今後北京に常駐を希望する報道各社にもこの文書を承認することが要求された。日本の憲法に照らすと違憲性が強く推定される協定だったが、日本のメディアはほぼ追随した。現在に至るまで日本の報道機関はこれらの協定に従順であり中国へ不利な報道や対中ODAに関する報道はほぼしない。

文化大革命の際に些細なことで日本の報道各社が次々と中国を追放されていたこともマスコミの上記の記者諸協定への強い順守の原因となっている。文化大革命の際には次々と外国メディアが追放され、日本の報道機関も朝日新聞をのぞいてすべて追放されている。そのため当時唯一中国の情報を報道できた朝日新聞は他の報道機関から羨望のまなざしで見られていた。その後、中国への再入国を許された他の日本の報道各社もこの追放の過去が一種の「トラウマ」になって中国共産党当局から目をつけられないよう諸協定に必要以上に従順となっているのではないかともいわれる。

なお唯一産経新聞だけがこの協定に反発し、傘下のフジテレビを含めて特派員をすべて引き上げた事は有名である。このため産経新聞社の発行する各新聞、雑誌、及びFNS系制作のテレビ番組、ニッポン放送のラジオ番組では、しばしば中華人民共和国に対する挑戦的とも取れる批判的内容が盛り込まれることがある他、台湾(中華民国)に対する友好的な記事・番組が多いことでも知られる。

米国愛国者法

テロリズムの阻止と回避のために必要な適切な手段を提供することによりアメリカを統合し強化する2001年の法 (英: Uniting and Strengthening America by Providing Appropriate Tools Required to Intercept and Obstruct Terrorism Act of 2001 公法律 107-56) は、正式名称の頭文字を取って米国愛国者法[1] (USA PATRIOT Act) あるいは単に「愛国者法」(Patriot Act) とも呼ばれる。2001年10月26日に米国大統領ジョージ・W・ブッシュが署名して発効した連邦議会制定法(en)である。

当法は十章から成り、各章は複数の条に分かたれる。各章は以下のとおり。

第1章 テロリズムに対する国内の安全性の向上 (Title I: Enhancing Domestic Security against Terrorism)(en) テロリズム対策について定める。

第2章 監視手続の改善 (Title II: Enhanced Surveillance Procedures)(en) 政府のさまざまな部局の捜査権限を強化する。二十五条から成り、そのうちの一条 (224条) がサンセット条項(一定期間ごとの見直し規定)を含む。

第3章 国際マネーロンダリングの阻止及びテロリストへの資金供与防止のための2001年法 (Title III: International money laundering abatement and anti-terrorist financing act of 2001)(en)

第4章 国境の保全 (Title IV: Protecting the border)(en)

第5章 テロリズムの捜査に対する障害の除去 (Title V: Removing obstacles to investigating terrorism)(en)

第6章 テロリズムの被害者、公共保安職員及びその家族に対する支援 (Title VI: Providing for victims of terrorism, public safety officers and their families)(en)

第7章 重要基盤の防護のための地域的情報共有の増進 (Title VII: Increased information sharing for critical infrastructure protection)(en)

第8章 テロリズムに対する刑法の強化 (Title VIII: Strengthening the criminal laws against terrorism)(en)

第9章 諜報活動の改善 (Title IX: Improved intelligence)(en)

第10章 雑則 (Title X: Miscellaneous)(en)

つまり、GHQによって憲法はじめ自国民が国家解体を図る売国的政治家や左翼を処分できないのである。
戦えない国、主権を守れない国、スパイ天国。これでも独立国家だろうか。

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近代1 近衛文麿と東亜新秩序

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近衛文麿と昭和の戦争
『日本近現代史』 小風秀雅

近衛文麿に鳩山総理との類似点を感じる。

プリンス近衛の登場

近衛文麿は、昭和戦前期を代表する政治家であり、日本の近代を象徴する政治家といってもよいであろう。その出自は五摂家筆頭で、皇族以外では天皇に最も近い人間であった。彼の父近衛篤麿も学習院院長・貴族院議長を務め、特に対外硬運動の指導者として有名な政治家であった。

近衛文麿は篤麿の長男として生まれ、12歳の若さで侯爵を継ぎ「殿様」「閣下」と呼ばれるようになった。しかし、父が政治活動のために使った借財の取り立てが厳しくて家は貧しくなり、そのため彼は取り立てをした富豪に対する不信感と、政治に対する失望を強めたという。その結果、青年近衛は哲学を志望して東京帝国大学哲学科に進学したが、次第に社会科学に対する興味を増し、特に社会主義的傾向を帯びるようになった河上肇に惹かれて京都帝国大学法科大学に転学した。

日本で最も恵まれている青年が、それゆえに社会の矛盾を感じ、正義感から反体制的な思想を持つのはある意味自然であり、当時の青年貴族にも共通してみられるものであった。(省略)

1916(大正5)年満二五歳で貴族院議員となった。貴族院内での彼の権威は高まる一方で、1931(昭和6)年に副議長、1933年には議長に就任した。

このような青年の正義感は、また国際社会にも向けられた。1918(大正7)年12月の雑誌『日本及日本人』に、近衛が執筆した「英米本意の平和主義を排す」が掲載された。第一次世界大戦は民主主義・平和主義を掲げた英米が軍国主義ドイツに勝利し、世界は英米の平和主義を賞賛したが、その平和とは領土などを持てる国が現状維持を主張したまでのことであり、ドイツや日本のような持たざる国が発展しようとすれば、どうしても現状打破的にならざるを得ない、その方法として積極的外交によって「正義人道」に基づき、植民地解放・人種平等を実現することによってのみ日本の活路が見出せる、というものであった。この論文も一つの契機になって、日本国内では人種平等論がにわかに高まった。特にインテリ青年層にその傾向が強かった。近衛はその先頭に立っていたといえよう。

近衛の時代感覚

「正義人道」のうえにたつ近衛は、それを軍国主義化によって達成するのではなく、英米以上に進歩的、革新的に「現状打破」を行うことを目指した。その実行には「現状維持」的な既成政党や特権階級の貴族院ではなく、新しい主体的積極的政治組織を考えていたのであろう。

しかし他方で、受け身の意識も強くなっていった。1910年代の社会主義革命に対する危機意識とは異なり、1930年代には右翼テロに対する危機感に変わった。近衛はしばしば軍部の先手を打って革新的政策を実行すべきであると主張していた。つまり、部分的に軍部の革新的主張を取り込み、それによって革新的政策を実行すると同時に、彼らをある程度満足させることで全面的軍国主義化を抑制しようとしたのである。この結果、近衛は軍部など「現状打破」勢力から首相候補に推されるようになった。また、西園寺公望を頂点とする英米派の「現状維持」勢力も、プリンス近衛に正面から反対しなかった。西園寺個人は、近衛が「現状打破」勢力に取り込まれることを強く懸念していた。彼は、主体的積極的な反面、受動的で敏感な近衛の言動に不安定さを感じていたのであろう

近衛と日中戦争

1937(昭和12)年、近衛が初めて内閣を組織した。

現内閣は各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命とす。是等対立の内最も深刻なるものは「持てるもの」と「持たざるもの」との対立なり。国際間にありては、所謂「持てる国」と「持たざる国」との対立あり。今日の世界不安は之に基づく。国内にありては「持てる者」と「持たざる者」との対立あり。社会不安多く之に因す。

是等の対立を緩和するには、国際間にありては国際正義、国内にありては社会主義を、指導精神とすべし。正義とは何か。結局分配の公平に帰す

多くの国民から歓迎されて誕生した近衛内閣を待ち受けていたものは、日中戦争の勃発であった。北京郊外で日中両軍が衝突して盧溝橋事件が起こり、戦果は上海から内陸へと広がり、ついに日本軍は首都南京を占領した。中国側では第二次国共合作が成立し、国民政府は強い民族意識や米英ソの援助に支えられて徹底抗戦し、日中戦争は次第に長期化の様相をほどこしていった。1938(昭和13)年1月16日近衛内閣は「爾後国民政府を相手とせず」という有名な言葉を発して、交渉打ち切りを通交した。

「東亜新秩序」声明

この過程で、近衛は陸軍を抑制することができなかったことへの反省として、1938(昭和13)年、陸軍に影響力を持つと思われる陸軍出身の有力者たちを入閣させた。しかし、ここでも近衛は指導力を発揮することができなかった。近衛は自らを陸軍のロボットと表現し、会議でも沈黙することが多くなり無気力になったといわれる。「各方面に於ける相剋対立を緩和するを使命」として有力者を網羅したはずの近衛内閣であったが、実際の内閣は群雄割拠的状況となり、近衛の人気と政治力のギャップが目立った。そんな近衛を支えたのも陸軍だったのである。

近衛内閣は1938年末、いわゆる「東亜新秩序」声明を発した。これは王兆銘らに親日政権を作らせ、日・満・中三国連携による東アジアの新国際秩序を樹立しようというものであったが、結果的には日中間をますます引き離すことになった。そして、1939年1月第一次近衛内閣は総辞職した。

昭和14年(1939年)1月に発足した平沼内閣は、第1次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列 (無任所大臣) として残留してこれに協力した。最大の懸案である対中問題では、「自今国民党(蒋介石政権)を相手とせず」という近衛声名にもとづいて、汪兆銘政権を成立させてこれと外交的解決を図ることで日中戦争の幕引きを狙ったが、意図したような中国国民党内部の分断が成功せず、まったくの失敗に終わる。
一方内政問題としては、戦争にともなう経済圧迫に対応するために第1次近衛内閣以来の国民総動員体制を実務的に推進し、警防団の設置など、米穀配給統制法・国民徴用令などの制定とともに、国民精神総動員委員会などを設置して挙国一致体制を整えてゆくものの、天津の親日派海関監督がイギリス租界で抗日派に暗殺される事件がおこり、事件調査をめぐってイギリスと対立した陸軍が同租界封鎖するという問題に発展してゆく。

平沼は外交交渉によってこの問題の解決を図り、有田・クレーギー協定で英国の譲歩を勝ち取るものの、これがアメリカの反発を呼び、また閣内の英米派とドイツ派との対立を深める結果となり、政権は混迷する。さらに8月20日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫し(ノモンハン事件)、また8月23日に独ソ相互不可侵条約が締結されるに至って、防共を標榜しドイツとともに反ソ連勢力の結集を政治課題としていた平沼は衝撃を受け、8月28日「欧州の天地は複雑怪奇」という珍声明とともに総辞職した。

近衛新体制

ところで、近衛内閣の「無気力」に反し、政界では近衛新党論が多方面から起こった。特に1940(昭和15)年5月ドイツ軍が電撃作戦に成功してフランスなどを占領したことが契機となって、日本国内でもドイツナチスをモデルにした一党体制を目指す動きが現れた。

ただし、そこにはさまざまな思惑が含まれていた。陸軍、あるいは親軍的でドイツ的な体制を目指す「革新派」と呼ばれるグループ以外にも、解党のうえで近衛新党に合流し、32年以来遠ざかっていた政権に復帰しようという既成政党グループもいた。また、平沼騏一郎(平沼赳夫衆議院議員・たちあがれ日本代表の義祖父)などの観念右翼や陸軍皇動派も、一国一党には警戒しつつも近衛内閣は支持した。同年6月に新体制運動に乗り出すことを声明した。この近衛の声明を契機に陸軍は米内光政内閣の倒閣に動き出し、各政党は解党へ動き出した。そして実際に7月22日第二次近衛内閣が成立した。

近衛の基本的発想は、地方名望家中心の既成政党とは異なり、国民をより深く取り込んだ国民組織(新体制)を背景に、陸軍を抑え込み日中戦争を解決しようというものであった。しかし、観念右翼や自由主義的政党人(民政党町田忠治、政友会鳩山一郎)、皇動派軍人らの、大政翼賛会はあたかも幕府のようなものであり、天皇の統治権を侵すものであるという批判によって、10月12日に発足した大政翼賛会では、公事結社として「臣道実践」のみを綱領とすることが宣言された。ここにおいても、近衛の構想は他権力の干渉によって大きく変質してしまうのであった

近衛と大東亜戦争(太平洋戦争)

欧米に対抗するため、外相松岡洋右は1940(昭和15)年9月に日独伊三国同盟を締結。西欧諸国の植民地であった東南アジアに進出して「大東亜共栄圏」を建設し資源の確保を図ると共に、アメリカから中国への援蒋ルートの遮断を狙った。こうして日米関係は危機的なものとなったのである。松岡だけを閣外に追い出す形で第三次内閣を組織し、日米交渉をやり直すことにしたが、独ソ開戦を契機に南部仏印進駐を望んでいた軍部が主導して7月末に実行された。アメリカは在米日本資産凍結、対日石油輸出禁止で対抗した。ここについに総辞職することになった。

終戦工作

自らの行動が、結果的にはことごとく意に反して戦争への拡大に向かっていったことに気づき、近衛および近衛周辺は拡大派である陸軍の背後には共産主義者の陰謀があるのではないか、という見方を強めていった(皇動派史観)。大政翼賛会=「幕府」論批判によって、自らが共産主義者ではないかと非難された近衛であったが、これらからも近衛やこの時代がいかに不安定であったかが分かろう。特に太平洋戦争の戦局が悪化し東条英機内閣が弾圧を強めるに従って、このままでは天皇制は崩壊し共産主義国になるだろうという強い危機感を持つようになった。

彼らは東条内閣打倒を目指した。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

1943(昭和18)年頃から近衛あるいは海軍の小林せい造を首相とし、皇動派将軍を陸相として終戦内閣を作ろうというのである。多くの重臣(平沼騏一郎・岡田啓介・近衛文麿・若槻禮次郎ら)や陸軍の宇垣一成らも関与したといわれる。この結果、戦局の悪化も手伝って1944年7月に東条内閣を倒すことには成功した。

しかし、次の小磯国昭内閣も積極的に和平工作を行おうという気配はなかった。そこで、近衛たちは昭和天皇に状況を直訴しようと試みた。細川護貞(旧肥後熊本藩主細川家の第17代当主。第2次近衛内閣で内閣総理大臣秘書官を務めた。初婚は近衛文麿の二女・温子とで、二人の間には護熙(元熊本県知事・元日本新党代表・元内閣総理大臣)を通じて高松宮宣仁親王と接触を深めたり、東久邇宮稔彦親王・賀陽宮恒憲親王と連絡を持ちつつ天皇への拝謁の機会を窺った。そして1945年2月14日にそれが実現した。しかし、天皇自身が政府要路者以外の政治関与を嫌ったため、この拝謁で状況が大きく変わることはなく、逆にこの後に吉田茂(孫に麻生太郎)らが拘束されたことによって近衛たちの動きは封じられてしまった。その後7月に天皇から、社会主義国家ソ連を訪問し和平工作の準備に当たるように命じられたが、訪ソの機会を得られないまま敗戦を迎えることになった。近衛はポツダム宣言受諾が決まり、A級戦犯容疑者として逮捕されることを知ると、その寸前に自殺した。
登場人物や時代背景に似た箇所があると思うのは私だけだろうか。

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=fvejDtRIrHQ&h=344] 心のこり 細川たかし
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20世紀の戦争と戦時国際法 学校で教えてくれなかった近現代史(54)

戦時国際法と戦争犯罪

人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。

戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています。

空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留

一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。

また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。

二つの全体主義の犠牲者

ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。

共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。
二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。

欧米のアジア植民地支配

高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。

しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。

共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。

しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。

インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。

フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。

アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。

そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。

侵略国家にされた日本

欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのが、わが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。

清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。

日本はそのような状態の中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があります。

最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。

ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。

満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。

「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。日本では政治制度として「天皇制」を定めた歴史はありません。

戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、共産党コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。

対日戦に触れるな

中西輝政氏は、こう記しています。
第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。

たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」[※1]については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。

そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。

情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。

おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。

いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。

[※1] 1938年(昭和13年、康徳5年)の7月29日から8月11日にかけて、満州国東南端の張鼓峰で発生したソ連との国境紛争。この激しい紛争で日本側は戦死526名、負傷者914名の損害を出した。この事件は、第一次世界大戦の激戦をほとんど経験しなかった日本にとって、日露戦争後では初めての欧米列強との本格的な戦闘であった。

皇国史観という言葉はなかった

皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。

南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。

しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。

その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。

19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)  戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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国際社会における日本の役割 学校で教えてくれなかった近現代史(52)

昭和から平成へ

1989(昭和64)年1月7日、昭和天皇が崩御されました。60年あまりにおよぶ、激動の昭和時代は幕を下ろしました。皇太子明仁親王が即位し、新しい元号は、平成と定められました。

国際社会における日本の役割

1990年8月、イラク軍が突然クウェートに侵攻し、翌年1月、アメリカを中心とする多国籍軍がイラク軍と戦って、クウェートから撤退させました(湾岸戦争)。この戦争では、日本は憲法を理由にして軍事行動は参加せず、巨額の財政援助によって大きな貢献をしましたが、国際社会はそれを評価しませんでした。国内では日本の国際貢献のあり方につて深刻な議論が起きました。21世紀を迎えた2001(平成13)年、アメリカでイスラム教徒の過激派による大規模な同時多発テロ事件が起こり、これが引き金となってアフガニスタンでの過激派への攻撃やイラク戦争が起こされるなど、世界は新たな試練を迎えました。

一方、インターネットの普及により地球上の時間的距離は一気に短縮され、大量の情報を簡単に交換できるようになったことが世界を大きく変えています。豊かさと引き換えに地球全体で自然環境が大きく崩れ始めていることも心配です。
こうした中で、独自の文化と伝統をもつ日本が、自国の安全と自由をしっかりと確保しつつ、今後、世界の平和と繁栄にいかに貢献していくかが問われています。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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共産主義の崩壊 学校で教えてくれなかった近現代史(51)

社会主義

社会主義とは、生産手段の社会的共有・管理などによって、平等な社会を実現しようとする思想・運動の総称です。狭義では、生産手段の社会的共有・管理を目指す共産主義、特にマルクス主義とその潮流を指します。日本では歴史的経緯により、この狭義を指すことが多いです。しかし広義では、トマス・モア、フェビアン協会、北欧諸国などの社会改良主義や社会民主主義、一部のアナキズム(無政府主義)、上記のマルクス主義などを含めた総称です。ヨーロッパではこの広義を指すことが多いです。

政治的には「左翼」と呼ばれ、労働組合の結成と労働条件の改善、社会保障による富の再分配、教育や医療の無償化、教会権力に対する政教分離、主要産業の国営化や計画経済による近代化、帝国主義戦争に対する反対と国際主義、などを主張します。

ベルリンの壁崩壊

アメリカがベトナムから撤退したあと、ソ連は軍事力を増強して、世界各地の共産主義勢力の援助を強化し、1979年末にはアフガニスタンに軍事侵攻しました。アメリカは1981年にレーガン大統領が登場して、ソ連に対する大規模な軍備拡張(軍拡)競争に乗り出しました。ソ連はこの競争に耐えきれず、しだいに経済を破綻させていきました。

1985年、ソ連では、ゴルバチョフ政権が誕生して、市場経済の導入や情報公開によるソ連社会の再建に取り組みました。しかし、これにより国内はかえって混乱し、東欧でも自由化を要求する動きが広がりました(東欧革命)。1989年、ベルリンの壁は壊され、翌年、西ドイツは東ドイツを統合しました。

米ソ冷戦の終結

ソ連はアメリカとの軍拡競争を断念し、米ソ首脳は冷戦の終了を宣言しました。東欧諸国では次々と共産主義政権が崩壊しました。ソ連共産党は活動を停止、1991年には、新たに独立国家共同体(CIS)が結成されました。こうしてソ連は崩壊し(ソ連崩壊)、ワルシャワ条約機構も解体し、「社会主義」のイメージは世界的に失墜しました。

共産主義体制の崩壊によって、約70年間におよぶ共産主義の実験は決着をみました。この体制は、人々に豊かで安定した暮らしを保証することができず、言論の自由など、政治的権利も保証することができないことが明らかとなりました。

共産主義崩壊後のアジア

共産党独裁体制が続く中華人民共和国やベトナムは市場原理の導入を進め、事実上の混合経済体制を築いています。現在では、社会民主主義では市民主義、軍縮、反原発、環境問題、反グローバリゼーションなども主要なテーマとなっており(ただしこれらのテーマは本来の社民主義とは別の概念)、議会政治を通した民主的な変革を目指し、マルクス主義の暴力革命論を否定します(反共産主義)。社会改良主義、民主社会主義などや、広義にはマルクス主義から転じた修正主義、構造改革主義、ユーロコミュニズムなども含みます。国際組織に社会主義インターナショナルなどがあります。

主体思想(チュチェ思想)は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の独自の思想で、当初はマルクス主義の発展と自称していましたが、現在では「マルクス主義を基礎にしながらもすでにそれを超克した」と称しています。
一方、狭義の社会主義政権は中南米諸国で伸張が著しい。

日本の左翼団体

社会民主党(社民党)

1996年に日本社会党が改称して発足。社会党左派を継承する。旧社会党右派は民主党に合流。はじめ社会党末期の路線を継承して「社民・リベラル」を掲げたが、野党化以降は左寄りの「社会民主主義」を押し出し、2006年決定の綱領「社会民主党宣言」では、リベラルの字句は完全に消えている。西欧・北欧などの社会民主主義政党と比べると、日本社会党時代と同様に、安全保障政策などへの姿勢は大きく異なっている。平和と福祉、環境保護、脱原子力が党の主張の中心である。日本国憲法の固持と理念の実現を呼びかけ、平和外交による紛争対処を唱える。

日本共産党

社会主義・共産主義を目指す日本の政党である。「理論的基礎」として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げているが、資本主義の枠内で、対米従属と大企業支配の打破を当面の目標としている。1922年日本社会党の元党員を中心に設立。ソ連コミンテルンに加盟していた。2009年現在国会に議席を有する日本の政党では同一の党名を維持していることでは最も古い。

民主党の支持団体

労働組合:日本労働組合総連合会(連合)(地域によっては社民党支持)、UIゼンセン同盟、全日本自治団体労働組合(自治労)、・全日本自動車産業労働組合総連合会(自動車総連)、JAM、日本教職員組合(日教組)=教育の自由化をめざす、基幹労連、情報労連、その他の単産
宗教団体:立正佼成会
業界団体:全日本遊技事業協同組合連合会(全日遊連)および日本遊技関連事業協会(日遊協)、19名の民主党議員がパチンコ・チェーンストア協会の政治分野アドバイザーを務める(自民党議員25名も所属)
2002年の日朝首脳会談で金正日が拉致を認めた後は北朝鮮との関係は凍結。朝鮮総連に対して、従来通り友好関係を維持する。社会主義インターナショナル。
その他:・部落解放同盟、在日本大韓民国民団(地方外国人参政権の獲得を目的)

出典:『日本人の歴史教科書』自由社
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米ソ冷戦下の世界と日本 学校で教えてくれなかった近現代史(50)

冷戦の進行

日本が独立を回復し、復興に努めているあいだ、米ソ両陣営の冷戦は激化していきました。両国は原子爆弾より大きな破壊力をもつ水素爆弾(水爆)の開発に成功し、核爆弾を搭載した大陸間弾道弾(ICBM)を設置して、相手国を直接破壊できる攻撃力を備えました。このためのロケット技術を使い1957年ソ連が初めて人工衛星の打ち上げに成功、アメリカもそれに続いて、両国は宇宙技術の開発でも競い合うことになりました。

ソ連では、スターリンの死後、1956年、共産党のフルシチョフ第一書記がスターリンの政策を批判し(スターリン批判)、アメリカとの平和共存を提唱して「雪解け」と呼ばれましたが、社会体制の違いに由来する米ソの冷戦はおさまりませんでした。

東西に分断されたドイツでは、1961年、東ドイツが住民の西側への脱走を阻止するため、東西ベルリンを隔てる壁を築きました(ベルリンの壁)。1962年には、ソ連がキューバに核ミサイル基地を建設しようとしたことから、米ソの間に核戦争が起こりかけました。この時、アメリカは強硬な姿勢を貫いたため、ソ連はミサイルを撤去しました(キューバ危機)。

1965年、アメリカはインドシナ半島の共産主義化を警戒し、ソ連や中国が支持する北ベトナムに対抗して南ベトナム政府を支えるため、直接軍隊を派遣しました(ベトナム戦争)。しかし、アメリカ本国を含む各国でアメリカの軍事介入に反対する非難が高まったので、1973年、ベトナムから撤退しました。2年後には、北ベトナムが南ベトナムを軍事力で併合し、ベトナム社会主義共和国が成立し、アメリカの威信は傷つきました。

経済復興から日米安保改定

日本では、朝鮮特需ののち、長期の好景気に恵まれました。経済は戦争前の水準に復帰し、1956(昭和31)年には、「もはや戦後ではない」といわれるようになりました。一方、ソ連を理想とする共産主義も進歩的な理想として労働者や学生、知識人を魅了するようになりました。
1957(昭和32)年に首相になった岸信介は、こうした日本の復興を背景に、日米安全保障条約の改定をめざし、1960(昭和35)年1月、新条約を調印しました。これにより日米両国は、より対等な関係に近づきました。

ところが、これに対して学生や労働者を中心に安保条約の改定を日米軍事同盟の強化になるとして反対する運動が起きました。1960年5月、自民党が新安保条約の国会承認を強行採決すると、国会周辺をデモ隊が連日のように取り囲む大きな争乱になりました(安保闘争)。岸は新安保条約成立ののち辞職しました。

岸首相のあと首相となった池田勇人は、安保をめぐっての大衆騒動が再び起きるのを避けるため、自民党が結党のときにかかげた自主憲法制定や防衛力強化という課題には手をつけず、10年間で所得を2倍にするという所得倍増政策をかかげました。

高度経済成長

日本の経済は1960(昭和35)年ごろよりほぼ10年間、年率10%という世界の歴史でもまれな奇跡といわれる成長を遂げました(高度経済成長)。1968(昭和43)年には、国民総生産(GNP)は資本主義陣営でアメリカに次ぎ世界第2位となりました。ソニーやホンダ、トヨタなど世界的な企業が成長しました。中小工場の現場における無数の人々のさまざまな工夫や発明の積み重ねも、産業の発展に大きな役割を果たしました。

また、高速道路や1964(昭和39)年、10月1日、東京と大阪の間を所要時間をそれまでの半分近くで結ぶ東海道新幹線が開通、庶民の生活にも電化製品や自動車が普及しました。農村も豊かになり、米の生産は過剰になって減反政策がとられるほどになりました。世界での日本の地位も向上し、1964(昭和39)年10月10日には東京オリンピックが開催され、1970(昭和45)年には大阪で万国博覧会が開かれました。これらはアジアで初めて開催されたものでした。

高度経済成長後の社会と経済

1960年代後半から、工場の煙や排水など産業廃棄物による公害が問題となりました。水俣病や四日市ぜんそくなどの公害病、自動車の排気ガスによる大気汚染、家庭での洗剤による河川の汚染などの解決が求められました。これに対し、1971(昭和46)年、環境庁が設置され、公害防止の対策がとられて、状況は改善されていきました。

1970年代に入ると、中東の産油諸国が、石油の輸出を規制したため、この地域の石油にエネルギーを依存する日本経済は、2度にわたって深刻な打撃を受けました(オイルショック)。しかし、これによって電気製品の消費電力を極度に減らすなどの省エネルギー技術が発達し、日本経済はかえって強くなり、その後の発展の基礎となりました。

外交関係の進展

1965(昭和40)年には、日本は韓国と日韓基本条約を結んで国交を正常化し、有償2億ドル無償3億ドルの経済協力を約束しました。

アメリカの施政化にあった沖縄では、祖国復帰運動がさかんになりました。佐藤栄作内閣は、非核三原則を表明し、核兵器抜きで基地を維持するという条件で、沖縄返還への同意をアメリカから取り付け、1972(昭和47)年5月、沖縄本土復帰が実現しました。
1970年代になるとアメリカのニクソン大統領は、北ベトナムを支援するソ連への牽制もあって、中華人民共和国に接近し、両国関係は正常化に向かいました。それを受けて、1972年9月、田中角栄首相が訪中して日中共同声明に調印し、両国の国交が正常化されました。しかし、これによって台湾の中華民国との国交は断絶しました。その後、1978年には、日中平和友好条約が結ばれました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社

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