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新羅の台頭 新羅は、もともと辰韓12国の一つであった斯盧(シロ)国を中核として国家を形成しましたが、その歩みは平坦ではありませんでした。377年には、中国の前秦に高句麗とともに新羅の使者が訪れたとの記録があり、このころに新羅の国家的活動が認められます。新羅は、北方の高句麗や海を隔てた倭の勢力に苦しみながら、まず高句麗との従属的な関係を取り結び、その影響のもとで成長をとげていきました。
しかし五世紀なかごろになると、新羅は百済と結んで高句麗に対抗姿勢をみせるようになり、六世紀に入ると攻勢に転じました。とくに法興王と真興王の二人の王の時代には、法律制度・官僚制度、軍事制度の整備が飛躍的に進められ、その後の発展の基礎を築きました。なかでも重要なのは、法興王代に確立された十七等の官位制で、935年の新羅滅亡にいたるまで、新羅の王権を支える身分制として機能しました。
百済・高句麗の滅亡と新羅の統一 朝鮮半島の古代国家の形成は、まず北部の高句麗が勃興し、それに対抗するように百済が台頭し、後れて新興勢力の新羅が六世紀のなかごろに成長し、高句麗、百済に挑むという展開をみせました。
急成長をとげた新羅に対抗するため、高句麗と百済は同盟関係を結んだり、さらに倭国との積極的な外交を展開したりするなど、三国の対立は複雑に推移していきました。
これに加えて、この過程で重要なのは、中国大陸の情勢で、南北朝対立の状況を利用した高句麗、百済、新羅による戦略的な外交が展開され、三国間の抗争にも影響を及ぼしました。589年に隋が統一帝国を出現させるとその余波は朝鮮半島に波及しました。
隋は百済と新羅の要請もあって三度に渡って高句麗遠征を行いましたが、その失敗で隋が滅び、618年に唐が興ると、三国は唐に使者を派遣して、ともに冊封を受け、一時的に安定したかのように見えましたが、三国の抗争は激しさを増し、破局に向かって突き進んでいきました。
唐の西域への軍事行動を契機に、高句麗では642年に、最高実力者であった泉蓋蘇文を殺害してクーデターをおこし、また百済では義慈王が反対派を追放して権力を集中すると、両国は同盟して新羅を攻撃しました。一方、新羅では唐との外交路線をめぐって647年に内乱がおこり、善徳女王が死去しました。この危機のなかで、金春秋(のちの武烈王)が金庚信とともに内乱を鎮圧し、再び女王を立てて権力を集中しました。
唐の衣服の制度や年号を採用するなど、唐との関係を密接にして百済・高句麗に対抗する戦法に出ました。そして新羅と唐との連合軍は、まず660年に百済を破り、663年に、百済復興軍と倭を白江(ペクカン)=白村江(ハクスキノエ)で破ると、これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させました。668年には高句麗をも滅ぼしました。
しかし唐は、新羅のために戦ったわけではなく、平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島に支配力をおよぼすことをめざしていたため、これに反発した新羅と唐との対立は深まり、両国は武力衝突を重ねました。新羅は百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結びました。新羅は六年間におよぶ戦争を経て、唐の排除に成功します。
これによって、高句麗の南半分と百済の故地が新羅の領域となり、百年以上にわたった三国の抗争は終わりを告げました。
新羅の官僚制は、機密を守る執事部が651年に設置されると、中央官制の整備にはずみがつき、七世紀後半の文武王・神文王代には、中央集権的な官僚組織の体制が整えられていきました。また地方官制では、唐との抗争に勝利したあと、拡大された領土に対して軍事的、行政的な改革がおこなわれ、687年には九州五京の郡県制的な支配が完成しました。
一方、積極的に旧高句麗・百済の民の吸収につとめ、両国の旧支配層に新羅の官位を授け新羅の身分制への編入をはかりました。この過程で、それまで王都と地方を区別して与えていた京位と外位という二本立ての官位制を廃止して、京位に一本化しました。
新羅には、個人的な身分制である官位制とは別に、王都に居住する人々(六部)には、血族的な身分制である骨品制(こっぴんせい)[*1]という閉鎖的な身分制がありました。元来、王都に居住する人々の特権的な身分制でしたが、官僚機構をはじめ諸方面にわたって新羅の国家と社会のありかたを規制しました。
破綻する「小中華帝国」 842年8月15日、太宰府の藤原衛から朝廷に上奏文が届きました。その趣旨は「今後は新羅国人の入境をいっさい禁止したい」とうものです。提案理由として次のようなことが記されていました。
新羅はずっと前から日本に朝貢してきた。ところが、聖武皇帝の代から始まって、仁明朝の今に至るまで、旧例に従わず、つねによこしまな心を懐き、贈り物を献上せず、貿易にかこつけてわが国の状況を探っている。もし不慮のことがあったら、どうして凶事を防げばよいだろうか。
これを受けた朝廷では、「天皇の徳が遠方まで及び、外蕃が帰化してきた場合、いっさい入境を禁止してしまうのは不仁ではないか。よろしく流来に準じて、食糧を与えて放還すべきである。商人が飛帆来着した場合は、持ってきた物は民間に自由貿易を許可して、取引が終わればすぐに退去させよ。」という官符を発しました。
中央政府の決定は、「徳の高い天皇が外蕃を従える」という建前から、大宰府の提案に比べて穏便なものに落ち着きました。とはいえそこには重大な対外政策の変更がありました。そのことは、以下の官符との比較で明らかになります。
701年施行の大宝令を改訂した養老令(757年施行)の戸令没落外蕃条に、「化外の人が帰化してきたら、余裕のある国に本貫を与えて安置せよ」とあるように、積極的に国内居住を許すことで徳化を誇示するところにありました。また、759年の太宰府に下した勅においては、帰化新羅人が「墳墓の郷」を想うあまり帰還を願った場合の恩恵的特例として、「給ろう放却」という措置が規定されています。
しかし、774年官符は、来着する新羅人を「帰化」と「流来」とに分類します。流来の場合は、彼らの意志に基づいて到来したのではないから、放還して日本の恩情を示すこと、その際には、乗船が破損していれば修理を加え、食糧がなければ給与することが定められています。他方、帰化の場合は、「例により申し上げよ」とあるだけですが、少なくとも従来の原則である国内居住許可を排除していません。これに対して842年官符では、帰化の場合も放還するとしていますから、新羅人の帰化を一切受け入れない方針に転換したことになります。
「小中華帝国」という自己認識を支えてきた徳化思想は、年を追うごとに明らかに破綻を来しています。
東夷の小帝国 「倭の五王」のころ以来、倭は、朝鮮半島の百済・新羅および加耶諸国を朝貢国として従える小帝国として、自己を位置づけることに、外交的努力を注いできました。一方、百済以下の各国には、倭に朝貢することで、朝鮮半島の分立状況において優位を確保しようよいう動機づけが存在しました。
660年代、唐が新羅と連合して百済・高句麗を滅ぼし、さらに唐は朝鮮半島の直接支配を試みますが、新羅がこれに抵抗して、676年に唐の勢力を朝鮮半島から駆逐しました。660年、百済滅亡後、百済王族の亡命先となった倭(やまと)は、百済復興支援を掲げて軍事介入を試みますが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に敗北を喫しました。律令体制の本格的導入はこの危機への対応という面があり、このころ「日本」という国号も確立します。
新羅は、統一後しばらくは日本との良好な関係を維持するために朝貢国の立場を変更せず、701年元日の文武天皇に対する朝賀の儀式にも、藤原宮の大極殿に新羅使が「蕃夷の使者」として参列しています。このような新羅の位置づけは、前年に完成した大宝令において法的規定を与えられました。『令集解』に収められた令の本文や注釈によれば、天皇を戴く国家の統治の及ぶ空間を「化内(けない)」、その外の天皇支配の及ばない空間を「化外(けげ)」として区別します。化外は「隣国」である唐、「蕃国」である新羅、蕃と称するに足りない「夷狄(いてき)」としての毛人(えみし・蝦夷)・隼人(はやと)の三カテゴリーからなります。
令文のなかには唐までも「蕃国」に含めるものがあり、遣唐使を朝貢使として受け入れていた唐を蕃国とみなすのは、当時の国際関係からかけ離れています。中華思想からは出てこない「隣国」という用語は、このようなギャップを埋めるべく開発されたと思われます。
この後中世にかけて、中国の王朝とは対等、朝鮮半島の諸国よりは一段上という位置づけを、国家関係の理想像とする思想が、日本の支配層を強固に貫いて流れる伝統となります。この自己規定を存続させるには、朝鮮半島に唯一残った新羅を朝貢国として従えることが、必要不可欠でした。
新羅の外交攻勢と新羅討伐計画 七世紀末、朝鮮半島北部から中国東北地方に書けての地域に渤海が興り、唐の支配から自立して最盛期を迎えた新羅との並立状況が生まれました。渤海は靺鞨(マッカツ)をめぐって唐と対立し、732年には山東半島の登州に奇襲をかけたので、翌年、唐は新羅に命じて渤海の南境を攻めさせました。孤立を恐れた渤海は、727年を皮切りに日本に使者を派遣し、「蕃国」の増加を歓迎する日本との間に親密な関係を築きました。735年、新羅は唐から大同江以南の領有を正式に認められ、日本に朝貢を続ける積極的な意味はほとんど失われました。新羅が日本との関係を対等なものに改めるべく、外交攻勢に出てくるのは必至でした。
その動きは、842年官符が強調するように、聖武朝(724~49年)から明瞭になります。734年、日本に国号を「王城国」と変更する旨を告げる使者を送りますが、翌年日本はこれを追い返しました。この新名称には日本との対等関係の含みがあったらしいです。
「王城国」の一件があった翌736年、日本は新羅に大使 阿倍継麻呂以下の使者を送り、翌年帰国して「新羅は常礼を失し、使の旨を受けず」と伝えました。朝廷は上下の官人を内裏に招して諮問し、これに答えて「使者を遣わして詰問せよ」とか、「兵を発して征伐を加えよ」とかの意見が出ました。また、伊勢神宮、大和の大神(おおみわ)社、筑紫の住吉社・宇佐八幡・香椎宮に奉弊使を遣わして、「新羅無礼の状」を神に告げました。この発想は、神功皇后の三韓征伐伝説とも結びついて、日本の支配層のなかに長期にわたって持続し、事あるたびに露頭するようになります。
752年に使者の往来があり、両国の関係修復が試みられたものの、日本側の高圧的な態度により不調に終わりました。そのうえ、翌年唐の朝廷で遣唐使大伴古麻呂が席次を新羅使より上位に変更させたことが重なって、両国関係は冷え込み、同年新羅に赴いた使者小野田守は、謁見されず追い返されています。こうして日本と渤海が同盟して新羅を挟み撃ちにする構図が生まれました。
これが実現しなかった原因は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が国内で政治的孤立を深め、764年に反乱を起こし滅んだことにありますが、国際的には、762年に唐が渤海王を「郡王」から「国王」に格上げするなど、唐・渤海関係が好転し、北東アジアが緊張緩和へ転じたことにありました。
出典: 『東アジアの中の日本文化』村井章介 東京大学大学院教授
『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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