2 高句麗と三韓

[catlist id=8] 高句麗は漢王朝の郡県支配に抵抗するなかで、いち早く国家として成長をとげましたが、遅くとも紀元前後のころには、王を中心に周辺の有力な首長たちを組織するされたとみられます。高句麗の根拠地は、はじめ鴨緑江(オウリョクコウ)支流の渾江(コンコウ)流域にある桓仁(カンジン)に置かれていました。しかし王族内部の抗争から支配層は分裂し、その一派が鴨緑江の中流域まで南下して、209年に新都・丸都城(国内城)を今の集安に置きました。高句麗の新たな発展はここから始まりました。

同じころ、半島の中部から南部にかけての地域には、農耕を主たる生業とする韓族が居住していました。二世紀から三世紀始めに、遼東半島を支配するようになった公孫氏政権が楽浪郡の南に帯方郡を設置したのも、この韓族の成長への対応策でした。韓族の地は、三世紀ごろには、70を超える小国があったと伝えられ、それらの国々は、言語や習俗に多少の違いがあり、それによって馬韓50余国、辰韓12国、弁韓12国に分かれていました(三韓)。

そのころ中国の魏は、楽浪郡と帯方郡を受け継いでいましたが、二郡は、三韓諸国の首長をはじめとする千以上二昇る者たちに印章や衣服を与えていました。これは当初、高句麗の王権が郡との交通を独占・管理していたのとは大きく異なります。魏は諸小国の首長たちに広く権威の象徴となる文物を与えて、この地域の人々の政治統合をはばんでいたといえます。それは弁韓地方で豊かに産出されていた鉄の確保に関わっていたとみられています。

高句麗の発展

三世紀から四世紀にかけての高句麗の国家体制は、飛躍的な進展がみられました。内政面では、十三等からなる官位制が再編・整備されました。王を頂点として部族的な秩序を排除して王の下に一元的な身分編成を押し進めようとするものでした。一方、対外的には313年に楽浪郡・帯方郡を滅ぼして、半島南部へ進出する足場を固めました。これによって四百年に及んだ中国の郡県支配を終わらせ、その地域に基盤をおいていた中国系の人々も編入することによって半島北部を掌握したようにみえました。

ところが、対外的には、二つの勢力に悩まされました。一つは急成長した前燕に、王都の国内城を奪われ、高句麗には深刻な打撃を受けました。もう一つは、馬韓のなかから生まれた新興国。百済が北上してきて、371年には故国原王が百済との戦争で戦死するという事件が起きました。高句麗は西方と南方から押し寄せる二つの勢力に挟まれ試練の時代でもありました。

その後、父の戦死を受けて即位した二人の兄弟の時代には、仏教の導入や、大学の設立、律令の制定など、国政の充実に努めました。こうした内政の整備を受けて391年に広開土王が即位すると、高句麗は領域を拡大し、その後の発展の基礎を築きました。
414年に「広開土王碑」を建てた長寿王は、父の南進政策を継承して、427年には国内城から平壌へ都を移して、半島の国々を威圧しました。そのころ中国では南北朝が鋭く対立していました。長寿王は南北双方に使者を派遣して安定した国際的地位を築き、積極的に半島南部への支配力を強めていきました。そして475年には、百済の都であった漢山城を陥落させ、今のソウルの韓江以南まで領域を拡大し、西方の遼東地方の確保とあわせて高句麗最大の領域を誇りました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男


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