【もう一つの日本】物部氏2/4 もう一つの東征 

『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向(ヒムカ)を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で「どこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうか」と相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。
ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で八咫烏(やたがらす)が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。 その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。 このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。

そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。
神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。

「記紀」は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。高句麗の建国神話も似ています。

もう一つの東征

一般には、物部氏(もののべうじ)の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船(あまのいわふね)の伝説が残る河南町や交野市の磐船(いわふね)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒ(饒速日命)に使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

谷川健一氏は、
饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?
と見ています。

関裕二氏は、考古学の進展によって明らかにされた三世紀のヤマト建国の様子と、『日本書紀』に記された「ヤマト建国」の記事は、恐ろしいほど見事に重なってくるのである。

今日、ヤマト建国は三世紀半ばから後半の段階であったと考えられている。それは、古代ヤマトの中心・三輪山山麓に、三世紀の巨大な政治と宗教の都市・纏向(まきむく)遺跡が発見され、ほぼ同時に、ヤマトに前方後円墳が出現していたからである。

日本全国を見渡しても、同時代の纏向をしのぐ遺跡はない。しかも、纏向周辺で誕生した前方後円墳が、四世紀にかけて西日本はおろか、東北南部まで広がっていったところに大きな意味が隠されている。これが、考古学の明らかにしたヤマト建国の歴史なのだが、これに対し、『日本書紀』にはいくつもの符合が見出される。

『日本書紀』は、初代神武天皇を指して、ハツクニシラス天皇(スメラミコト)と称賛している。これは「はじめて国を治めた天皇」を意味しているのだが、不可解なことに、第十代崇神天皇にも、同様の称号を与えている。ひとつの王家に二人の初代王がいたことになり、話は矛盾する。

一般に、神武東征は、実際の歴史ではなく、ヤマト建国を神話かしたものにほかならないとされている。そして第九代までの天皇をひとくくりにし、「欠史八代」と呼んでいるのは、ヤマトの本当の初代天皇は崇神で、それ以前は歴史ではない、という考えからである。

ところが、神武東征説話には、神話として捨て置くことのできない信憑性が垣間見える。そして、神武天皇と崇神天皇という二人の「ハツクニシラス天皇」を重ねると、考古学の明かしたヤマト建国とそっくりになることに気づかされるはずである。

『日本書紀』は、神武がヤマトに君臨するはるか以前、出雲神・大物主神は、大和に住みたいといいだし、遷し祀られたといい、またヤマトを造成した神だという。また、その後、神武天皇がまだ九州にいたころ、ヤマトの地にはすでにいずこからともなくニギハヤヒなる人物が舞い降りて、土着の首長ナガスネヒコの恭順を得て、この地域を統治していたとする。神武天皇はこの話を聞き、「ヤマトこそ都にふさわしい」と確信し、東征を決意する。このニギハヤヒがヤマト最大の名門豪族物部氏の遠祖であると書かれている。

神武天皇は長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にてこずるも、ニギハヤヒの子のウマシマシの王権禅譲によって、ヤマトの王位を獲得するに至るのである。

と書いている。とすればニギハヤヒこそヤマト建国の祖であり、崇神天皇以前の歴史を出雲神話と神武天皇に置き換えた可能性が高いともいえるのである。

物部氏(もののべうじ)

物部氏は、河内国の哮峰(タケルガミネ・現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。

物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられます。また、物部連となった氏族は時代によって幾度も交代しながら続いているからです。さらに無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがないのです。石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録があります。各地に多数祀られているスサノオ・ニギハヤヒ・饒速日尊の一族の物部氏、石上氏、尾張氏、海部氏等代々神官を務める式内社は国の一宮、総社、物部系神社や磐船神社は、各地にたくさんあります。

『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、大切な祀り事(神事)である朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。

長髄彦(ながすねひこ)

ナガスネヒコは、『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族で東征に抵抗した豪族の長として登場します。。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。

不思議に思えるのは、『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、を妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

通説は、物部氏を五世紀に勃興した一族と見なします。しかしそれでは、このようなヤマト建国の立て役者である物部氏の活躍を、ほとんど無視してしまいます。しかしそれなら、なぜ『日本書紀』は、「物部氏の祖は神武天皇よりも先にヤマトに君臨していた」という話をわざわざ掲げたのでしょう。それは、「祟る神」として、本当のことを隠したら祟られるであろうと信じていたからではないでしょうか。

たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。
スサノオノミコトの遺命を受けた御子・大歳尊(以下、オオトシ)は、父の死後、北九州の筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に戦闘なく日ノ本王朝・大和国を建国、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名しました。大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、日本(ひのもと)国を拡大し、大和に帰還して没しました。とくに播磨から摂津にかけて大歳神社がたくさん建てられ、三輪山はニギハヤヒの御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られました。
ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。

神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。

島根の物部神社

島根県大田市にはそのものずばりの物部神社があって、ここにはおおよそ次のような伝承が残されています。

「神武天皇のヤマト建国を助けた後、ウマシマジノミコトは尾張氏の祖の天香具山命と共に、尾張、美濃、越国を平定した。ウマシマジノミコトはさらに西に向かい、播磨、丹波を経て石見に入ると、鶴に乗って舞い降り、この地に留まった」といいます。

なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々出雲国と石見国の境目に位置します。

よくわからないのは、ヤマト建国の功労者であるはずのウマシマジノミコトが、なぜ政権の中枢に留まらず、石見に向かったのか、ということです。

神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと 『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、吉備や丹後・但馬・因幡などには前方後円墳がつくられているのに、出雲には巨大な前方後円墳が見当たらず、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。

問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。

物部氏は、兵器や銅剣・銅鉾・銅鐸などの神具の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏(おおともうじ)とならぶ有力軍事氏族へと成長していきました。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣(あそみ・あそん)姓を賜ります。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになりました。

しかし果たして物部氏は単一氏族だったのでしょうか。祭祀に従事する氏族のことを概ね物部氏と呼ばれたのではなかろうかと思わせる程、この氏族は歴史の中心に立ち現れるのです。物部には八十氏とされる諸集団がおり、戦闘、兵器生産、軍神祭祀に従事し、物部連という組織によって統率されていたのではないでしょうか。

継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのも物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。

2009/09/08

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【日本神話】3.出雲神話5/5 オオクニヌシの国譲り -葦原中国平定-

『古事記』オオクニヌシの国譲り

アマテラスら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけアマテラスの子孫だ」とした。そのため、何人かの神を出雲に使わした。大国主の子である事代主・タケミナカタが天津神に降ると、大国主も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。

アメノオシホミミの派遣

アマテラスは、「葦原中国は私の子のアメノオシホミミが治めるべき国だ」と言い、アメノオシホミミに天降りを命じた。しかし、アメノオシホミミは天の浮橋に立って下界を覗き、「葦原中国は大変騒がしい状態で、とても手に負えない」と高天原に上ってきて、アマテラスに報告した。

『古事記』では、アマテラスとスサノオとの誓約の際、スサノオがアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男(『日本書紀』の一書では次男)で、物実の持ち主であるアマテラスの子としている。高木神の娘であるヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間にアメノホアカリとニニギをもうけた。

葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

名前の「マサカツアカツ(正勝吾勝)」は「正しく勝った、私が勝った」の意、「カチハヤヒ(勝速日)」は「勝つこと日の昇るが如く速い」の意で、誓約の勝ち名乗りと考えられる。「オシホ(忍穂)」は多くの稲穂の意で、稲穂の神であることを示す。

『古事記』では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命
『日本書紀』では天忍穂耳命、『先代旧事本紀』では正哉吾勝々速日天押穂耳尊
富田八幡宮/勝日神社(島根県安来市)

アメノホヒの派遣

タカミムスヒとアマテラスは天の安の河の河原に八百万の神々を集め、どの神を葦原中国に派遣すべきか問うた。オモイカネと八百万の神が相談して「アメノホヒを大国主神の元に派遣するのが良い」という結論になった。タカミムスヒとアマテラスはアメノホヒに大国主の元へ行くよう命じた。しかし、アメノホヒは大国主の家来になってしまい、三年たっても高天原に戻って来なかった。

天之菩卑能命、天穂日命、天菩比神などと書く。

アマテラスとスサノオが誓約をしたときに、アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかった。その後、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建て、子の建比良鳥命は出雲国造らの祖神となったとされる。

名前の「ホヒ」を「穂霊」の意味として稲穂の神とする説と、「火日」の意味として太陽神とする説がある。

農業神、稲穂の神、養蚕の神、木綿の神、産業の神などとして信仰されており

能義神社(出雲四大神である野城大神と呼ばれる)など
島根県安来市能義町366
式内社 旧県社
天穗日命(アメノホヒノミコト)
大己貴命,事代主命(コトシロヌシノミコト)
誉田別命,息長足姫命,経津主命,國常立命,國狹土命
伊弉冉命,玉依姫命,順徳天皇,神皇魂命,惶根命

アメノワカヒコの派遣

タカムスヒとアマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、八百万の神々とオモヒカネが相談して「アメノワカヒコを遣わすべき」と答えた。そこで、アメノワカヒコに天之麻古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)と与えて葦原中国に遣わした。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘であるシタテルヒメと結婚し、自分が葦原中国の王になってやろうと考えて八年たっても高天原に戻らなかった。

アマテラスとタカムスヒがまた八百万の神々に、アメノワカヒコが長く留まって戻ってこないので、いずれの神を使わして理由を訊ねるべきかと問うと、八百万の神々とオモイカネは「雉(きぎし)の鳴女(なきめ)を遣わすべき」と答えたので、天つ神は、ナキメに、アメノワカヒコに葦原中ッ国に遣わしたのは、其の国の荒ぶる神どもを平定せよと言ったのに、何故八年経ても帰ってこないのかを、聞くように命令した。ナキメは天より下って、アメノワカヒコの家の木にとまり理由を問うと、アメノサグメが「この鳥は鳴き声が不吉だから射殺してしまえ」とアメノワカヒコをそそのかした。アメノワカヒコはタカムスヒから与えられた弓矢でナキメの胸を射抜き、その矢は高天原のタカムスヒの所まで飛んで行った。

タカムスヒはその矢に血が付いていたので、この矢はアメノワカヒコに与えた矢であると諸神に示して、「アメノワカヒコの命に別状無くて、悪い神を射た矢が飛んで来たのなら、この矢はアメノワカヒコに当たるな。もしアメノワカヒコに邪心があるのなら、この矢に当たれ」と言って、矢を下界に投げ返した。矢はアメノワカヒコの胸を射抜き、アメノワカヒコは死んでしまった。ナキメも高天原へ帰ってこなかった。

名前の「ワカヒコ」は若い男の意味である。これが神名ではなく普通名詞だったため、「神」「命」「尊」の尊称が付かないとする説がある。また、天津神に反逆したためであるとする説もある。

アメノワカヒコ(天若日子、天稚彦)

シタテルヒメとの恋に溺れて使命を放棄しその罪によって亡くなるという悲劇的かつ反逆的な神として、民間では人気があった。平安時代の『宇津保物語』、『狭衣物語』などでは天若御子の名で、室町時代の『御伽草子』では天稚彦の名で登場し、いずれも美男子として描かれている。

アメノワカヒコを唆したアメノサグメが「アマノジャク」の元となったとする説があるが、アメノワカヒコの「天若」が「アマノジャク」とも読めることから、天若日子がアマノジャクだとする説もある。

穀物神として安孫子神社(滋賀県愛知郡秦荘町)などに祀られているが、祀る神社は少ない

アメノワカヒコの葬儀

葦原中国を平定するに当たって、遣わされたアメノホヒが3年たっても戻って来ないので、次にアメノワカヒコが遣わされた。しかし、アメノワカヒコは大国主の娘シタテルヒメと結婚し、葦原中国を得ようと企んで8年たっても高天原に戻らなかった。そこでアマテラスとタカミムスビは雉の鳴女を遣して戻ってこない理由を尋ねさせた。すると、その声を聴いたアメノサグメが、不吉な鳥だから射殺すようにとアメノワカヒコに進め、アメノワカヒコは遣された時にタカミムスビから与えられた弓矢(天羽々矢と天鹿児弓)で雉を射抜いた。その矢は高天原のタカミムスビの元まで飛んで行った。タカミムスビは「アメノワカヒコに邪心があるならばこの矢に当たるように」と誓約をして下界に落とすと、矢は寝所で寝ていたアメノワカヒコの胸に刺さり、アメノワカヒコは死んでしまった。

アメノワカヒコの死を嘆くシタテルヒメの泣き声が天まで届くと、アメノワカヒコの父アマツクニタマや母が聞いて、下界に降りて泣き悲しみ喪屋をつくった。アヂシキタカヒコネが弔いに訪れた時、アヂシキタカヒコネがアメノワカヒコによく似ていたため、アメノワカヒコの父と母が「我が子は死なないで、生きていた」と言って抱きついた。するとアヂシキタカヒコネは「穢らわしい死人と見間違えるな」と怒り、剣を抜いて喪屋を切り倒し、蹴り飛ばしてしまった。この喪屋が美濃国の喪山である。アヂシキタカヒコネの妹のタカヒメは、歌を詠んだ。

タケミカヅチの派遣

アマテラスが八百万の神々に今度はどの神を派遣すべきかと問うと、オモイカネと八百万の神々は、「イツノオハバリか、その子のタケミカヅチを遣わすべき」と答えた。アメノオハバリは「タケミカヅチを遣わすべき」と答えたので、タケミカヅチにアメノトリブネを副えて葦原中国に遣わした。

コトシロヌシの服従

タケミカヅチとアメノトリフネは、出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣を抜いて逆さまに立て、その切先にあぐらをかいて座り、大国主に「この国は我が御子が治めるべきであるとアマテラス大御神は仰せである。そなたの意向はどうか」と訊ねた。大国主は、自分が答える前に息子の事代主に訊ねるようにと言った。事代主は「承知した」と答えると、船を踏み傾け、逆手を打って青柴垣に化え、その中に隠れてしまった。

『古事記』では建御雷之男神・建御雷神
『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神など
鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)
佐志武神社(さしむじんじゃ)
島根県出雲市湖陵町差海891
式内社 建御雷神、経津主神

日本書紀によれば、「高天原から葦原中国を平定するため、経津主神(ふっつぬしのかみ)と武壅槌神(たけみかずちのかみ)を遣わされた」とあり、この二神が降臨されたのがこの地であったとされています。

タケミナカタの服従

タケミカヅチが「コトシロヌシはああ言ったが、他に意見を言う子はいるか」と大国主に訊ねると、大国主はもう一人の息子のタケミナカタにも訊くよう言った。そうしている間にタケミナカタがやって来て、「ここでヒソヒソ話をしているのは誰だ。それならば力競べをしようではないか」と言ってタケミカヅチの手を掴んだ。すると、タケミカヅチは手をつららに変化させ、さらに剣に変化させた。逆にタケミカヅチがタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉を摘むように握りつぶして投げつけたので、タケミナカタは逃げ出した。タケミカヅチはタケミナカタを追いかけ、科野国の州羽の海(諏訪湖)まで追いつめた。タケミナカタはもう逃げきれないと思い、「この地から出ないし、オオクニヌシやコトシロヌシが言った通りだ。葦原の国は神子に奉るから殺さないでくれ」と言った。

建御名方神(たけみなかたのかみ)

建御雷神、経津主神と共に日本三大軍神の一柱に数えられている。

出自について記紀神話での記述はないが、大国主と沼河比売(奴奈川姫)の間の子であるという伝承が各地に残る。妻は八坂刀売神とされている。

建御名方神は神(みわ)氏の祖先とされており、神氏の後裔である諏訪氏はじめ保科氏など諏訪神党の氏神でもある。

諏訪大社(長野県諏訪市)ほか全国の諏訪神社に祀られている。

[考証]

葦原中国平定の記述は、ヤマト王権による国家統一の過程が元になったものと考えられている。記紀の説話では出雲国が舞台となっているが、他の国でもヤマト王権への何らかの形での「国譲り」が行われたものと思われる。記紀で出雲が国譲りの舞台として書かれているのは、出雲が最後に残った勢力で、出雲の平定により一応の国家統一が達成されたと考えられたためとされている。 葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)は、天津神が国津神から葦原中国の国譲りを受ける日本神話の説話である。国譲り(くにゆずり)ともいう。

2009/09/06

出雲神話4/5 「オオクニヌシの国づくり」

オオクニヌシの国づくり

大国主が出雲の美保岬にいたとき、海の彼方から天の羅摩船(あめのかがみのふね)に乗って、鵝(蛾の誤りとされる)の皮を丸剥ぎに剥いで衣服として、やって来る神がいた。大国主がその小さな神に名を尋ねたが答えなかった。従えている者も皆知らなかった。そこにヒキガエルが現れて、「これは久延毘古(クエビコ)ならきっと知っているでしょう」と言った。久延毘古に尋ねると、「その神は神産巣日神の御子の少名毘古那神である」と答えた。久延毘古は山田のかかしであり、歩くことはできないが、天下のことは何でも知っている神である。

神産巣日神は少名毘古那が自分の子であることを認め、少名毘古那に大国主と一緒になって国づくりをするように言った。大国主と少名毘古那は協力して葦原中国の国づくりを行った。その後、少名毘古那は常世に渡って行った。

大国主は、「これから私一人でどうやって国を作れば良いのだろうか」と言った。その時、海を照らしてやって来る神がいた。その神は、「我は汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)である。丁重に私を祀れば、国作りに協力しよう」と言った。どう祀ればよいかと問うと、大和国の東の山の上に祀るよう答えた。この神は現在御諸山(三輪山)に鎮座している神(大物主)である。

オオクニヌシの国譲り

高天原(たかまがはら)では、地上の豊かな出雲の国はアマテラスオオミカミの子孫が治めるべきだという相談がなされていました。 そこでアマテラスオオミカミは国譲りの交渉のために、3度も使いを送ったのですが、使いは出雲の住み心地の良さに帰って来なかったりして、なかなか交渉は成立しませんでした。

そこで切り札として、タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミが出雲にやって来ました。 タケミカヅチノカミとアメノトリフネノカミは稲佐の浜に降り立ち、剣を抜いて波頭に逆さまに立て、その上にあぐらをかいてオオクニヌシノカミに国譲りを要求しました。オオクニヌシノカミは自分の息子であるコトシロヌシノカミから考えを聞くように二神に言いました。

タケミカヅチは、再びオオクニヌシのところへ戻って来て言いました。

「そなたの子どものコトシロヌシとタケミナカタは、アマテラスオオミカミのお子さまの命令には逆らわないと答えた。そなたの心はどうだ。」

これに対して、オオクニヌシは、こう答えました。

「わたしの子どもたちがお答えしたとおり、わたしも同じ気持ちです。この葦原の中つ国(あしはらのなかつくに)は、ご命令どおりに、すべて差し上げます。ただし、わたしの住む場所をアマテラスオオミカミのお子さまが、天の神の「あとつぎ」となってお住まいになられる御殿のように、地面の底深くに石で基礎(きそ)を作り、その上に太い柱を立て、高天原にとどくほどに高く千木(ちぎ)を上げて造っていただければ、わたしは、その暗いところに隠れております。また、わたしの百八十もいる子どもの神たちは、コトシロヌシを先頭にお仕えいたしますので、天の神のお子様に逆らうものはいないでしょう。」

鳥や魚を捕るために美保の碕に出かけていたコトシロヌシノカミは呼び戻され、アマテラスオオミカミの考えに従うと言って、乗ってきた船を踏み傾け、柏手を打って青い柴垣に変えて、その中に隠れてしまいました。

この様子を伝えているのが、美保神社の諸手船神事(もろたぶねしんじ)と青柴垣神事(あおふしがきしんじ)です。

また、もう一人の息子のタケミナカタノカミはタケミカヅチノカミと力くらべで決めようと、タケミカヅチノカミの腕をつかんだところ、たちまち腕はツララに変わり、次いで剣に変わってしまいました。 今度はタケミカヅチノカミがタケミナカタノカミの腕をつかみ、握りつぶしてしまったので、タケミナカタノカミは青くなって、諏訪湖まで逃げてしまいました。

オオクニヌシノカミもアマテラスオオミカミの申し出を受け入れることにしました。 その代わり、自分の住まいをアマテラスオオミカミの子孫と同じように、千木(ちぎ)が大空にそびえるような立派な宮殿を建ててほしいと願い出ました。

そこでアマテラスオオミカミは、オオクニヌシノカミのために多芸志(たぎし)の浜に大宮殿を建てました。
それが出雲大社のはじまりだといわれています。

大国主と出雲神話

高天原を追放されたスサノヲは流浪の果てに、出雲において大蛇を退治し、須賀の宮におさまって妻を求める歌をうたいます。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠(つまご)みに 八重垣作る その八重垣を」

出雲地方の伝承的な歌謡であったこの歌が、『古事記』の中で最初に掲げられた歌です。

『古事記』上巻には、このスサノヲの物語に続いてオオクニヌシ(大国主神)神話が続きます。オオクニヌシの事跡の出雲との関係や出雲大社との関連から、出雲系神話といわれ、また登場する神々を出雲系の神々とよびます。

この部分は、すでにオオクニヌシの支配していたこの国土が、天下ってきた高天原の神の支配に交替するという劇的な構成から、大和朝廷に拮抗ないし対立する出雲での権力の存在を示す物語であるというような歴史的事実と結びつけた見解などさまざまに論じられる物語となっています。上巻特有のごつごつした違和感に満ちた世界が展開すると同時に、他方で人間の「情」のありように通じるもの、たとえば後世なら「仁」や「愛」あるいは「やさしさ」といったことばで本来表現されるべき事柄が描かれてもいます。

オオクニヌシの物語は、前半と後半では趣が異なります。前半は美しい因幡のヤガミヒメを獲得しようと旅立つ兄たちのあとに荷を背負って追うさえない神でした。白ウサギにやさしさを施すとウサギの予言通り姫を得ることになります。しかし、兄弟神の怒りを買い、試練にたたされ死に追いやられます。そのたびに彼は母神やカミムスビや貝の女神たちなどの力で復活しますが、最後には迫害を避けるため、母神の配慮で根の国のスサノヲのもとにおくられます。そこでもスサノヲに試練を与えられますが、恋仲となったスサノヲの娘スセリビメの助けを得て脱出し、スベリビメと手を携え呪術能力を得てこの世に帰還します。迫害した兄弟神たちを退治し、支配者となります。

支配者としてのオオクニヌシは、国作りを単独では行えず、スクナビコナ(小彦名神)という海の向こうから渡ってきた小身の神の協力を得て、支配します。後にスクナビコナは海の向こうに去り、、オオクニヌシは国土の未完であることを嘆きます。

さて、このオオクニヌシは多くの神話的神の重ね絵とされます。事実、物語の展開のなかでその呼称を何度か変えます。『日本書紀』では、人々に「恩頼(みたまのふゆ)」を与えたと簡潔に書かれています。他方『古事記』では、複雑ですが民衆的なレベルでの神、あるいは支配者の理想像という古層をとくによく伝えているといえるでしょう。

しかし、オオクニヌシ神話は国土の完成のあとは一転して、色好みのこの神の女性遍歴と、妻であるスセリビメの嫉妬と、二人の和解の物語となります。

このように、出雲系の神話は、その政治性とは別に、その叙情性において、『風土記』にも登場するオオクニヌシの姿には、民衆に「恩頼(みたまのふゆ)」をほどこした神として、支配ないし支配者によせる集団的な願望のようなものが込められているともいえます。出雲系とくに、オオクニヌシ神話は、その後高天原の神に国の支配を譲るという形で書かれ、天皇の物語のなかで、重要な位置を占めます。政治神話と異なる側面をみせるのが、この神話の後半の愛の遍歴の部分です。そこでは濃厚に歌謡が情の世界と関わり、神の世界から、人間の情の描写へとの橋渡しの意味を持った部分を形成しています。

「大国主」となった「大己貴命」

『出雲国風土記』では、国引き神話のヤツカミズオミツヌこそ、出雲国の名付け神になっている。それは、ヤツカミズオミツヌが、この地を「八雲立つ出雲」と呼んだから、というものであるが、和歌こそ詠んでないものの『古事記』に記されたスサノオのそれと、まったく同じ内容である。

ヤツカミズオミツヌは『古事記』こそ、スサノオの四世孫としているが、案外、スサノオの別名ではなかろうか。

それはスサノオの「出雲」における呼称なのかも知れない。

『古事記』によれば、オオナムチはスサノオから、生大刀、生弓矢、玉飾りのついた琴を奪って逃げ、スサノオは、それを許している。これは、オオナムチを、軍師に命じたことに他ならない。この時スサノオは、50歳にさしかかってしたと思う。オオナムチが軍師になれたのは、スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)が、オオナムチに惚れてしまったという、『古事記』の記述を信用するしかないが、以外にも、本当なのかも知れない。いずれにしても、スサノオの後押しがなければ、不可能な話であろう。

軍師であるからには、スサノオの率いて来た、「物部」の大軍を自由に使ってもいいわけだ。オオナムチは、「越」の八口を討ったと、『出雲国風土記』は記している。この記述が、「越」の高句麗族の最後の時だ。

これにより「出雲」・「越」とも平定され、スサノオは、その後、南朝鮮に渡り、先に述べたとおり、南朝鮮を含めた日本海文化圏を、形成していくのである。

この文化圏は、鉄資源を元手にした通商連合であった。貿易を生業としていたのである。

通商を生業とした、早い話が商売人は、江戸時代の堺衆がそうであったように、何者にも屈しない、強い結束力を備えていたのであるが、一度、メリットが無くなれば簡単に崩壊してしまう。

オオナムチは、スサノオの後押しもあって、最大の貿易相手である「少彦名命」(すくなひこなのみこと、おそらく朝鮮半島の「昔」《すく》姓の一族。以下、スクナヒコナ)と、共同して貿易に携わり、国土経営をしていたのであるが、そのスクナヒコナは、常世の国に行ってしまう。すなわち、死んだのである。

この結果、オオナムチは、スポンサーを失ってしまうこととなった。

オオナムチは、『古事記』によれば様々な地方の女性を妻にしている。
スサノオの娘である「須勢理姫」(すせりひめ)を始め、「因幡」の「八上姫」(やがみひめ)、「越」の「沼川姫」(ぬまかわひめ)、「宗像」の「多紀理姫」(たぎりひめ)、「鳥取」の「鳥取神」(ととりかみ)、「神屋楯姫」(かむやたてひめ)がそうである。

これらの女性出身地からみても、海を通じた交流の様子が窺い知れる。
「神屋楯姫」の出身地は明記されていないが、オオナムチの地元、「意宇国」であろうか。

この頃の、オオナムチの勢力範囲は、「大和」までに拡大していたらしい。

『古事記』には、「出雲」から「大和」(倭国)にオオクニヌシが、出張していく様子が記されている。このことは、「須勢理姫」との歌のやりとりとともに記されているのだが、「須整理姫」が、オオクニヌシに対して「八千矛神」と呼びかけているので、「大和」を勢力範囲にしたのは、スサノオだったのかも知れない。「八千矛神」とは、神社伝承学によれば、スサノオのことであった。

「昔」姓の「少彦名命」が亡くなることにより、スポンサーを失ってしまったオオナムチは、南朝鮮の資金源(鉄資源)を、絶たれてしまう可能性があった。もともと、南朝鮮の鉄資源は、スサノオ族が押さえていたのだが、その後、高句麗族に奪われた。スサノオは、「統一奴国」を成し遂げ、高句麗族を追放することにより、再び南朝鮮の鉄資源を奪取した、と推測している。その地盤をオオナムチが受け継いでいたのであるが、「昔」族は、スサノオ族と同郷であろう。「昔」族もスサノオ族もともに、「高皇産霊尊」(たかみむすびのみこと、以下、タカミムスビ)を、崇める一族であったのである。