兵主神社とは何か?!

1.概要

但馬内には式内社の兵主神社だけで7社.式外社5社、八幡神社摂社兵主神社2社、計14社。
但馬に隣接する鳥取県最東端の岩美町に佐弥乃兵主神社、許野乃兵主神社の式内兵主神社2社がある。同じく武神を祀る八幡神社、日吉(日枝)神社などは全国的な神社だが、他地方では兵主神社そのものが数が限られていて、極めて特異な例である。

※「延喜式神名帳」に記載された神社を「式内社」という。官幣社と国幣社の別があり、官社とは、毎年2月の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社のことで、その後、延暦17年(年)に、引き続き神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。『延喜式』の祝詞の条に記される幣帛の品目としては、布帛、衣服、武具、神酒、神饌などがある。

2.分布

「兵主神社」は日本全国に約50社あり、延喜式神名帳には「兵主」と名の付く式内社が19社記載されている。
大和国2、和泉国1、三河国1、近江国2、丹波国1、但馬国7、因幡国2、播磨国2、壱岐島1、計19座分布しており、但馬国7と因幡国2で、合わせると9社となり山陰地方に集中している。
その中で名神大社1は
・兵主大社 八千矛神(大国主神) 滋賀県野洲市五条566
・穴師坐兵主神社 兵主神(御食津神)・大兵主神
2 奈良県桜井市穴師町1065
・壱岐国兵主神社 素盞嗚尊 大己貴神 事代主神 長崎県壱岐市芦辺町深江本村触1616
のみである。

*1名神 ? 特に霊験著しい「名神」を祀る、臨時祭の名神祭が行われる神社。全てが大社であるため名神大社(名神大)という。
*2 大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

郡・社号 祭神 所在地
但馬國朝來郡
式内兵主神社 大兵主神:大己貴命 朝来市山東町柿坪字棚田972 大化3年(647)
八幡社 誉田別尊     朝来市山東町森宮馬場706 (論社)
但馬國養父郡
式内更杵村大兵主神社 祭神不詳 兵庫県朝来市和田山町寺内字宮谷
(合祀)十六柱神社     兵庫県朝来市和田山町林垣字門前1285
但馬國出石郡
式内大生部兵主神社 大兵主神:素戔嗚尊・甕槌命・経津主命・宇麻志摩遅・天忍日命 豊岡市但東町薬王寺 天武天皇十二年(683)
式内大生部兵主神社 大己貴命 兵庫県豊岡市奥野1 論社
穴見郷戸主大生兵主神社 「?」 兵庫県豊岡市三宅47  論社・奥野の分社
有庫神社 武甕槌神・奧津彦神・奧津姫神・軻遇槌神・菅原道眞 豊岡市市場85(奥野の分社)

但馬國養父郡
式内兵主神社 大己貴命 兵庫県豊岡市日高町浅倉202
但馬國氣多郡
式内久刀寸兵主神社 兵主神:素盞嗚尊、大己貴命 兵庫県豊岡市日高町久斗字クルビ491 巳丑三年(689)
但馬國城崎郡
式内兵主神社 武素戔嗚神 豊岡市赤石
式内兵主神社二座 速須佐男神 天平十八年(746) 兵庫県豊岡市山本字鶴ヶ城100-1

3.祭神

武神、軍神として、各地にある兵主神社に祭られる神。実際に祭られるのは大貴己神、素戔嗚尊などの神だが、兵主神の名は『古事記』『日本書紀』にまったく登場せず、『日本三代実録』(901年成立)にみえる例が最初であること、『史記』封禅書に載せる諸神の中に「兵主」という神がみえることなどから、これは日本固有の神ではなく中国の「兵主」蚩尤(しゆう)に由来する外来神ではないかとする説もある。また、『延喜式』神名帳には19の兵主神社が出ているが、但馬国(兵庫県北部)にある7社を中心にして、山陰地方に集中することが指摘されている。

朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版(佐佐木隆)

兵主神・大兵主神はすなわち素盞嗚尊、大己貴命、その他祭神の総称。
兵主大社(滋賀県野洲市・名神大)、穴師坐兵主神社二座(奈良県桜井市・名神大 月次相嘗新嘗)は八千矛神(大国主)
穴師坐兵主神社二座の兵主神・大兵主神
大兵主神は、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。
射楯兵主神社(姫路市総社本町) 射楯大神(国津神)飾磨郡因達里(現姫路市新在家本町)の神、兵主大神(大己貴命と伝えられる)

※兵庫県北部やその他の場合は、大巳貴命(オオナムチ)か素戔嗚尊(スサノオ)である。

4.年代

天日槍と兵主神社との関連づけ

『豊岡市史』には、次のように書かれている。
この社名をもつ神社は式内社に限られ、しかも式内社中、その数が最も多く十八社ある。但馬では五社六座あり、

1.全国の兵主神社の三割を占め、そのすべてが円山川水系に沿って鎮座している。

2.豊岡市域は兵主神社の数では全国一である。兵主とは、中国の天主・地主など八神中の武神のことで、兵器を造った神であった。

3.この中国大陸の神が日本で祀られているのは、漢人が奉じてきたものと考えられていて、但馬では漢人が、かつて渡来して円山川水系を遡って、ここかしこに集落を構え、祖先の国から持ち伝えた神を祀り、異域の地で精神的なよりどころとしたのであろう。

ところが、兵主神社のある地方には漢人関係の伝説や史跡はほとんどなく、祭神は兵主神社であるよりも須佐之男命や大国主命が多いことから、荒ぶる神のことではないかともいわれている。しかし、但馬の場合は、滋賀県野洲市の兵主大社や奈良県桜井市の穴師坐兵主神社からの勧請なのかは定かではないが、全国的にも兵主神社が唯一集中しているのは特異な例である。

4.やはり大陸との深い関わりを示すものといえるだろう。

『国司文書 但馬故事記』(814-974)『国司文書 但馬神社系譜伝』(973)
現存する『出雲国風土記』があるが、人皇52代陽成天皇の御代焼失した『但馬国風土記』の再現を意図したと但馬故事記や大観録に記されている。編纂者は但馬国府の国学者数名。

『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡、
第六代孝安天皇の五十三年(推定紀元前339)、
新羅(しらぎ)の王子・天日槍命(あめのひぼこのみこと)が帰化す。
天日槍命は、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の御子・稲飯命(いないのみこと)五世の孫なり。
(中略)
天日槍は、八種の神宝を携え、御船に乗り、秋津州(あきつしま・本州の古名)に来たり。筑紫(九州北部)より穴門(下関の古名)の瀬戸を過ぎ、針間国(播磨)に至り、宍粟(しさわ)邑(宍粟郡・今の宍粟市一宮町)に泊る。人々等、この事を孝安天皇に奉す。
天皇は、すぐに三輪君の祖・大伴主命と倭直(やまとのあたえ)の祖・長尾市命を針間国に遣わし、来日した理由を問うた。
天日槍は、謹んで二人に向かいて曰く、
「僕(やつかれ)は、新羅王の子。我が祖は、秋津州(日本の本州)の王子・稲飯命(いないのみこと)。そして、僕に至り五世に及ぶ。
ただいま、秋津州(本州)に帰りたいと欲し、わが国を弟の知古に譲り、この国に来たる。願わくば、一畝(ひとつのうね)の田を賜りて御国の民と為らん」と。

二人は還りて、この事を天皇に奉す。天皇は勅(天皇の命令)して、針間国宍粟(しさわ)邑と淡路国出浅(いでさ)邑とを賜わる。
天日槍は、再び奏して請(こ)う。
「もし、天皇の恩を垂れ給われれば、臣親(家臣)ら諸国を視察し、者たちの意にかなうところを選ばん」と。
天皇はそれを許し給う。天日槍は、菟道川(宇治川)を遡り、北に入り、しばらく近つ淡海(近江)国吾名(あな)邑に留まる。さらに道を転じ、若狭を経て、西は多遅摩国に入り、出島(いずしま)に止まり、住処(居所)を定む。
ところで、近つ淡海国の鏡谷陶人は、天日槍の従者にして、よく新羅風の陶器を作る。
さて天皇は、ついに天日槍命に多遅摩を賜う。
61年春2月、天日槍命を以て、多遅麻国造と為す。
(中略)
第11代垂仁天皇八十九年夏四月、多遅摩毛理命をもって、多遅摩国造と為す。(世継記)多遅摩毛理命は、黄沼前県主・久流比命の娘・阿佐津毘売命を娶り、橘守命を生む。
(中略)
(人皇12代景行天皇元年)夏四月、
多遅摩毛理命の弟・多遅摩日高命をもって、多遅摩国造と為す。多遅摩日高命は、その姪・由良度売命を娶り、葛城高額(かつらぎたかぬき)姫命を生む。
葛城高額命は、息長宿祢(おきなのがすくね)命に嫁ぎ、息長帯姫(おきながたらしひめ)命・虚空津(そらつ)姫命・息長彦命を生む。
息長帯姫命は、いわゆる神功皇后なり。
(中略)
人皇15代神功皇后6年秋9月、須賀諸男命の子・須義芳男命を以って、出石県主と為す。須義芳男命は皇后に従い、新羅を征ち功有り。故に皇后は特に厚遇を加えませり。
人皇15代神功皇后45年(245)、新羅は朝貢せず。将軍である荒田別命(あらたわけのみこと・豊城入彦命4世の孫)・鹿我別命(かがわけのみこと・大彦命の末裔)は、新羅に行き、これを征伐する。(『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡)
比自[火本](ひしほ)・南加羅・啄国(とくのくに)・安羅(やすら)・多羅・卓淳(とくじゅ)・加羅の七国を平定す。なお兵を移して西に廻り、古奚津(こけつ)に至る。南蛮(ありひしのから)を倒し、百済(くだら)に行く。

5.軍団と兵主神社

軍団 は、7世紀末か8世紀初めから11世紀までの日本に設けられた軍事組織である。個々の軍団は、所在地の名前に「軍団」をつけて玉造軍団などと呼ばれたり、「団」を付けて「玉造団」などと呼ばれた。国家が人民から兵士を指名・徴兵し、民政機構である郡とは別立てで組織した。当初は全国に多数置かれたが、辺境・要地を除き一時的に停止されたこともあり、826年には東北辺境を除いて廃止された。

「日高町史」によれば、但馬に設置された地域軍団の名称が確実に判るのは養父団と気多団の二つだけで、気多広井という名前がある。

大毅- 少毅 ? 校尉 ? 旅帥 ? 隊正 ? 火長 ? (伍長)

軍団は、一つの国に最低一つ、大きな国には複数置かれた。軍団の指揮系統は郡以下の地方組織に対応しており、指揮官の大毅と少毅は郡司層から選ばれた。軍団は数個郡に一つの割合で存在し、一個は国府所在郡の郡家近くに置かれ、残りの軍団も他の郡家の近くに駐屯して、訓練に従事した。

軍団の指揮に当たるのは軍毅であり、大毅(だいき)、小毅(しょうき)、主帳(さかん)がおかれ、その下に校尉(こうい)・旅帥(ろそち)・隊正(たいしょう)らが兵士を統率した。

『国司文書 但馬故事記』第一条・気多郡
人皇37代孝徳天皇の大化3年(647) 、多遅麻国気多郡高田村において、兵庫(ヤグラ)を造り、郡国の甲冑・弓矢を収集し、以って軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管どらせる。 (高田村は今の久斗)

『国司文書 但馬故事記』第二巻・朝来郡
人皇37代孝徳天皇の大化3年(647)、多遅麻国朝来郡朝来村において、兵庫を造り、郡の甲弓矢を収集し、以って軍団を置き、朝来・夜夫・七美三郡を管どる。
主帳・朝来直智嘉麻呂は兵主の神を兵庫の側に祀り、兵庫守護の霊神と為し、かつ己の祖・天砺目命(あめのとちめ のみこと)をその下座に合わせ祀る。(式内兵主神社:大己貴命 朝来市山東町柿坪)
閏(うるう)8月 進大弐 忍海部(オシヌミベ)の広足を以って多遅麻の大穀と為し、生民四分の一を点呼し、武事を講習させる。 広足は陣法にくわしく、兼ねて教典に通じ、神祗を崇敬し、礼典を始める。

巳丑三年(689)閏8月、
兵主(ヘイズ)神を久刀村の兵庫の側(かたわら)に祀り、(式内 久刀寸兵主神社:兵庫県豊岡市日高町久斗)
高負神を高田丘に祀り、(式内 高負神社:〃 夏栗)
大売布命を射楯丘に祀り、(式内 売布神社:〃 国分寺)
軍団の守護神となし、軍団守護の三神と称す。
(註 延喜式神名帳の久刀寸兵主神社については、久刀村(久斗村)の誤記だろう)

『国司文書 但馬故事記』第四巻・城崎郡
人皇40代天武天皇の白凰12年夏閏4月、 物部韓国連久々比は勅を奉じ、兵馬・器械を具え、陣法博士・大生部了(オホフベノサトル)を招き 子弟豪族を集め、武事を講習させる。かつ兵庫を赤石原(現豊岡市赤石)に設け、以って兵器を納める。 楯縫連須賀雄を召し、奈佐村に置き、部属を率いて、楯・甲冑を作らせる。
『国司文書 但馬故事記』第五巻・出石郡、
人皇40代天武天皇十二年冬十月、三宅吉士神床は姓(かばね)連を賜る。 これより先、夏閏(うるう)四月、三宅吉士神床は勅を奉じ、子弟豪族を集め、兵馬器械を具え、陣法博士・大生部了(オホフノサトル)を招き、武事を講習さす。かつ兵庫(ヤグラ)を高橋村
1に設け、兵器を蔵(おさ)む。大生部は大兵主神を兵庫の側に祀る(式内 大生部兵主神社:豊岡市但東町薬王寺)。
大兵主神は、素戔嗚尊(すさのお)・甕槌(かめづち)命・経津主命(ふつぬし)・宇麻志摩遅(うましまち)・天忍日命(あめのおしひ)である。

*1高橋村 『国司文書 但馬郷名記抄』に、高槁郷大生部村
今の豊岡市但東町薬王寺。薬王寺の旧地名は大生部村、高橋村

人皇40代天武天皇の4年秋7月朔、小錦上・大伴連国麿を以て大使と為し、小錦下・三宅吉士入石を以て副使と為し、新羅に差し遣わす。
これより先夏閏4月、三宅吉士神床、勅を奉じ、子弟豪族を集め、兵馬器械を具え、陣法博士・大生部了(オホフベノサトル)を招き、武事を講習す。かつ兵庫を高橋邑に設け、兵器を蔵む。大生部了は大兵主神を兵庫の側に祀る。

第三巻・養父郡・第五巻・出石郡ほぼ共通、
人皇41代(42代?)持統天皇2年(688)秋7月、 三宅宿祢神床は、陣法博士・大生部了(オホフノサトル)を率い養父郡更杵(さらきね)村に至り、一国の壮丁(そうてい)の四分の一を招集し、武事を講習す。またその地に兵庫を設ける。また大兵主神を祀る。これを更杵村兵主神社と云う。
※壮丁(そうてい)
 成年男子

49年、新羅朝貢せず。荒田別命の子・多奇波世君を責む。白鹿を獲って帰り、これを献上す。重ねて、その弟の田道公を遣わす。新羅はあなどり反(そむ)く。田道公はこれを撃破し、4邑の人民を捕虜にして帰る。(『国司文書 但馬故事記』気多郡)

人皇56代水尾天皇の貞観10年閏12月21日、但馬国正六位上・菅神に従五位下を授く。新羅征伐の功によるなり。

6.但馬に兵主神社が多いことについての考察

  • ・新羅(しらぎ)の王子・天日槍命(あめのひぼこのみこと)が帰化したのは、第六代孝安天皇の五十三年(推定紀元前339)。
  • 律令制導入の動きが本格化し軍団・兵主神社が設置されたのは、660年代に入ってから。
  • 660年の百済滅亡と、663年の百済復興戦争(白村江の戦い)での敗北により、唐・新羅との対立関係が決定的に悪化し、倭朝廷は深刻な国際的危機に直面した。

そこで朝廷は、まず国防力の増強を図ることとした。危機感を共有した支配階級は団結融和へと向かい、当時の天智天皇は豪族を再編成するとともに、官僚制を急速で整備するなど、挙国的な国制改革を精力的に進めていった。その結果、大王(天皇)へ権力が集中することになった。
その後の701年に、大宝律令が制定・施行され、日本という国号と最初の制度的元号(大宝)が正式に定められた。
したがって、風土記、記紀編纂時には律令制は取り入れてもそのまま中国の制度を用いたものではなく、但馬国にも軍団が置かれ、郡の兵庫に兵主神社を建て兵主神を祀たようである。神社そのものが日本古来の風習としてあったものだし、兵士(軍団)の神を兵主神とし、日本の武神、大己貴命(大国主)、素戔嗚尊にを祀った。中国の神を知っていたか否からなかったはずであり、天日槍(あめのひぼこ)の帰来伝説地帯の近くに、兵主神社が分布*5している。とするが、天日槍伝承は出石郡が記すのみで、天日槍伝承のある出石郡と養父郡糸井は更杵村だが、最初の兵主神社がつくられた朝来郡と気多郡など他に郡では一切登場しないし、薬王寺、朝来郡柿坪、新温泉町(温泉町・浜坂町)や鳥取県岩美町のように日本海沿岸部にも軍団・兵主神社があり、円山川流域というより国境とみるべきだろう。

6.官幣社と国幣社

2014年2月7日 yamane コメントをどうぞ

官幣社と国幣社

官社とは、毎年2月の祈年祭に中央の朝廷の神祇官から幣帛を受ける神社のことであり、各官社の祝部(はふりべ)が神祇官に集まり幣帛を受け取っていた。その後、延暦17年(798年)に、引き続き神祇官から幣帛を受ける官幣社と、国司から幣帛を受ける国幣社とに分けられた。式内社では、官幣社が573社737座、国幣社が2288社2395座である。国幣社が設けられたのは、遠方の神社では祝部の上京が困難であるためとされるが、遠方でも重要な神社は官幣社とされている。

官幣社
朝廷管理(現在で言うところの中央政府管理)=官幣大社:198社304座/官幣小社 :375社433座

国幣社
各国国司管理(現在で言うところの各都道府県庁管理)=国幣大社:155社188座/国幣小社:2133社2207座

この場合の大小は、当時の社勢の違いによるものとされていた。また、官幣社が、中央直轄系となるため、京都を中心とした畿内に集中し、国幣社は、逆に、全て畿外(地方)に指定されていた。さらには、これら式内社の中から、特にその霊験が著しく高いという意味を込めて、「名神」のタイトルを賜る神社もあり、その全てが大社であったことから、「名神大社」と呼ばれる神社もあった。ちなみにこの時に、「神宮」の称号を付されていたのが、伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮の三社のみであり、こちらもかなり別格扱いされていたということが分かる。

ただ、そのような官社制度も、律令制が崩壊後、中央の基準から外れることとなり、明治時代に改めて、官幣社/国幣社を用いた社格制度が復活するようになった。しかし、そのタイトルは同じでも、意味は相当異なるため、こちらの場合には、やはり「式内社」と表記された上で、実際の社格が表示されるなどの違いがある。

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