第3章 3.ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

ヒボコより伊和大神の方が鉄集団っぽい

『播磨国風土記』にある伊和大神とヒボコの土地(国)争いを、鉄原料の奪い合いであると見て、タタラ製鉄に優れていた出雲からやって来た伊和大神の方が鉄の集団にふさわしいという説もある。

そして、この二人を祀る神社が、それぞれ但馬国一宮出石神社・播磨国一宮 伊和神社であることが、それを後世に証明している。

ここで、『播磨国風土記』をもう一度、振り返ってみよう。

ヒボコは宇頭ウズの川底(揖保川河口)に来て、国の主のアシハラシコ(葦原志挙乎命)に土地を求めたが、海上しか許されなかった。
ヒボコは剣でこれをかき回して宿った。葦原志挙乎命は盛んな活力におそれ、国の守りを固めるべくイイボノオカ(粒丘)に上がった。

葦原志挙乎命とヒボコが志爾蒿(シニダケ=藤無山)に到り、各々が三条の黒葛を足に着けて投げた。

その時、アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。

ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。それで但馬の伊都志(出石)の地を領した。

播磨国一宮 伊和神社

播磨国一宮 伊和神社

兵庫県宍粟市(旧一宮町)にある神社。宍粟市一宮町須行名407
播磨国一宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社。

伊和神社の社叢しゃそうは、「兵庫の貴重な景観」Bランクに選定されている。

祭神は伊和大神(大己貴神おおなむちのかみ)を祀る。『播磨国風土記』にその名が見え、神社周辺は豪族・伊和族の根拠地であったと考えられ、末裔の伊和一族が祭祀したとみられている。

伊和大神は、播磨国の国土開発の神として大己貴神おおなむちのかみ大国主神おおくにぬしのかみ大名持御魂神おおなもちみたまのかみとも呼ばれ、『播磨国風土記』では、葦原志許乎命あしはらしこおのみこととも記されている。『播磨国風土記』も伊和大神と葦原志許乎命(大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成であるのだ。

播磨国の「国造り」をおこなった神とされており、『播磨国風土記』には、記紀にはないヒボコとの土地争いが記されている。

『播磨国風土記』には、宍粟郡しそうから飾磨郡しかま伊和里いわのさとへ移り住んだ、伊和君いわのきみという古代豪族の名が見えることから、この伊和氏が祖先を神格化した神とも考えられている。

同記によると、オオナムチ(大己貴命)は、出雲から来た神と記されている事から、大己貴命は出雲から宍粟邑(宍粟市一宮町伊和)あたりに住みつき、勢力を拡大し、伊和族とともに播磨統一を目指したと思われてきた。しかし最近では、オオナムチは、奈良県桜井市にある三輪山付近で勢力を伸ばしていた一族の長で、この三輪族がなんらかの理由で三輪の地を離れ、海路、播磨に辿り着いたのではないかと言われ始めている。また、播磨土着の神が、後に大国主神に習合されたという見方もある。(アメノヒボコは、西から海路瀬戸内海から播磨に上陸している)

『播磨国風土記』によれば、大己貴命が姫路平野に辿り着き、居を構えた手柄山てがらやま南方の山を、三和山と名付けたと言う。(大和の)三輪山西南麓には金屋遺跡があり、ここからは縄文時代初期の土器が発見されており、日本で最も早く拓けたところと思われるが、この遺跡からは弥生時代の遺物とともに、製鉄が行われていた事を示す遺物が発見され、近くの穴師兵主神社にも鉄工の跡が見られると言う。つまり、この三輪山は古代の鉄生産に関わる山であり、この山を御神体とする大神おおみわ神社の御祭神は大物主大神で、この神も大己貴命と同一神とされている。

鉄と穴師

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜弘明の中に、

『古代の鉄と神々』真弓常忠によると、砂鉄を含む山は「鉄穴かな山」と呼ばれ、砂鉄を採る作業を「鉄穴かんな流し」と言い、そこで働く人々を「鉄穴師かなし」と呼ぶ。つまり古代において「穴」は「鉄穴かな」の意から「鉄」を表し、オオナムチ(大己貴命)は「大穴持命」・「大穴牟遅命」とも記す事から「偉大な鉄穴の貴人」という意味で、すなわち「鉄穴」の神であり、産鉄の神であったということがわかるのだ。大己貴命という名は、新しい産鉄・製鉄の技術を持った鉄鍛冶の長が代々、継承した名前かと思われ、播磨に辿り着いた大己貴命とその一族は、市川や夢前川、揖保川流域の砂鉄を使って、鉄を作り、武器や農具に変えて、播磨を支配下に入れ、豊かな田園地帯を作り上げていった。

『播磨国風土記』には、オオナムチとともに大活躍を見せるスクナビコナ(少彦名命)という神さまが登場し、2人の神さまが競う様に市川を北上し、播磨を開拓して行く様子が描かれている。日本書紀によると、オオナムチが出雲の海岸でスクナビコナと出会った時、スクナビコナは、手のひらに乗るほど小さく、まだ言葉もしゃべれなかったという。その後、オオナムチは、スクナビコナの父神さまに会い、弟として一緒に国づくりをさせてやってくれと頼んだ。産鉄・製鉄の神さまであるオオナムチに対して、スクナビコナは、薬学や養蚕、酒造りなどの神様と言われ、日女道丘ひめじおか(姫路城のある今の姫山)に落ちた蚕子はスクナビコナの荷物かもしれず、播磨で酒造りが盛んなのもスクナビコナのお陰なのかもしれない。

アシハラシコオ(葦原志許乎命)の葦原とは

アシハラシコオ(葦原志許乎命 大己貴神の別称・葦原醜男)は同神であると思わせる構成である。葦原醜男は葦原志許乎命とも記すが、葦原とは何かを知ることが必要になってくる。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、

『古事記』は、わが国を「豊葦原の瑞穂の国」と記している。瑞穂の国はみずみすしい稲穂の実る国で理解できるが、豊葦原がわからない。

(中略)古代の人は鉄鉱の団塊が葦など植物の根などから長い間に褐鉄鉱が生成・蓄積され水辺に層をなすことを知っていた。これをスズ(錫)と称し、万葉集は信濃の枕詞として「みすず苅る」も用いる。ミスズ(信濃)はスズが特産であり、当時から鉄は貴重品であり、その意味でスズに「ミ(御)」をつけたのであろう。

諏訪大社は古代の製鉄に関与した社で、古代よりスズを用いた製鉄が盛んだったことが浮かび上がってくる。

実は、古代日本は製鉄原料に事欠かなかった。火山地帯の河川や湖沼は鉄分が豊富で、水中バクテリアの働きで葦の根からは褐鉄鉱が鈴なりにできたからだ。では何故、鈴なり=鈴というのか。

振ると音のする鈴石や鳴石というものがある。これも葦などの根を包むように成長し、形成された褐鉄鉱の内部の根が枯れて消滅し、内部の鉄材の一部が剥離して、振ると音を出すことがある。これが鈴石などとよばれるのである。

そして足などの根に楕円・管状になった褐鉄鉱が密生した状態が「すずなり=鈴なり=五十鈴いすゞ」の原義であった。(中略)これを横にすると何処か銅鐸に似ているように見えないか。

ここに豊葦原の意味がわかった、といっていいだろう。わが国では神代の昔から鉄が作られ、人々は製鉄職人を崇め、最初の原料はスズ=褐鉄鉱であった。

当時の人々は、「葦原」はスズを生み出す源であることを知っていた。したがって、「豊葦原」とは、「貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原」と云う意味なのだ。(中略)

それが各地から出土する銅矛で象徴されたと考えてよい。また鐸とは「大鈴なり」とあるように、鈴石の象徴で、これを打ち鳴らすことで葦の根にスズが鈴なりに産み出されることを祈ったのだろう。そして祭器としての矛や鐸は、古くは神話にあるように鉄が使われていたが、青銅器を知るに及んで、加工しやすく、実用価値の低い青銅を用いるようになっていった。このような考えに逢着ほうちゃくしたのである。

太古、「豊葦原」から産み出されるスズから鉄を作り、その鉄を使った農具で開墾し、「瑞穂の国」を造る。この両者は、古代より豊かな国の礎いしずえ、両輪と認識されていたゆえに、わが国の美祢となったのである。

気多神社と葦田神社

『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。」

気多郡にそのアシハラシコの但馬総社 気多神社(豊岡市日高町上郷)があるが、そのすぐ隣村が今の豊岡市中郷で、古くは気多郡葦田郷。式内葦田神社がある。

式内葦田神社

『但馬故事記』に葦田神社が現れるのは、人皇15代神功皇后2年のことだ。気多大県主の物部連大売布命が亡くなり、その子・物部多遅麻連公武をもって多遅麻国造とする。

それ以前は初代多遅麻国造となったアメノヒボコ以来、代々ヒボコの子孫が出石に多遅麻国の府を置いていたが、人皇十代崇神天皇十年に重大事が起きる。
丹波青葉山の賊、陸耳ノ御笠が土蜘蛛・匹女ら群盗を集めて民の物を略奪したのである。多遅麻の狂(今の豊岡市城崎町来日)の土蜘蛛ももこれに応じ、著しく猖獗ショウケツを極めた。崇神天皇は、開化天皇の皇子、彦坐命にこれを討たせた。彦坐命は子の将軍丹波道主命を補佐とし、多遅麻・丹波の国造・県主らを率いて、多遅麻美伊県伊伎佐御崎の海上で討滅した。
天皇はこれを賞し、彦坐命に丹波・多遅麻・二方の三国を与え、大国主とした。彦坐命は多遅麻粟鹿県に下向し、刀我禾鹿宮に住んだ。諸将を各地に置き鎮護となした。
丹波国造 倭得玉命、多遅麻国造 天日楢杵命、二方国造 宇津野真若命
この時多遅麻の県主がみな禾鹿宮に朝り、その徳を頒ける。故に朝来ノ県と云うなり。(それまでは比地県)
それから十三代成務天皇五年に、彦坐命の5世孫、船穂足尼命を多遅麻国造とし、夜父宮(今の養父神社)に府を置くことで、アメノヒボコから多遅麻日高命まで代々世襲制で出石県に国造と府が置かれていた時代は終わる。おそらく大国主のいる朝来から近い夜父に遷したのだろう。しかし一代にして気多県・黄沼前県、摂津河辺を賜った物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武が多遅麻国造となる。(これ以降、律令制が瓦解するまで但馬国府は気多郡となった)

アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に
『播磨国風土記』では、「アシハラシコの黒葛は一条は但馬の気多の郡に、一条は夜夫の郡に、もう一条はこの村(御方里)に落ちたので三条(ミカタ)と云う。ヒボコの黒葛は全て但馬の国に落ちた。」は偶然なのか、多遅麻国造は出石から養父、気多と遷るのである。

多遅麻国造 物部多遅麻連公武は、

天目一筒命の末裔・葦田首を召し、刀剣を鍛えさせ、(→式内葦田神社:豊岡市中郷)
彦狭知命の末裔・楯縫首を召し、矛・楯を作らせ、(→式内楯縫神社:現在地ではなく鶴岡字多々谷)
石凝姥命の末裔・伊多首を召し、鏡を作らせ、(→式内井田神社:豊岡市日高町鶴岡)
天櫛玉命の末裔・日置部首を召し、曲玉を作らせ、(→式内日置神社:同日置)
天明命六世の孫、武碗根命の末裔・石作部連を召し、石棺を作らせ、(おそらく豊岡市日高町石井)
野見宿禰命の末裔・土師臣陶人を召し、埴輪・甕・ホタリ・陶壺を作らせ、(→式内須谷神社:豊岡市日高町藤井)

大売布命の御遺骸に就け、

御統玉を以て、モトドリを結い、御統五十連の珠を以てお顎に掛け、磐石の上に立て、これを石棺に納め、射楯の丘に葬る。而して(そして)埴輪を立て、御酒をほたり(徳利)に盛り、御食を陶壺に盛り、之を供え、草花を立てて、之を葬る。

またずっとのちになり、人皇37代孝徳天皇の
大化三年、気多郡高田邑に兵庫を造り、軍団を置き、出石・気多・城崎・美含を管轄する。その際に役職に隊正があり、それぞれ上記の村の男を任命している。

また、葦田氏に剣・鉾・鏑・鏃やじり
を鍛えさせている。

これらから、気多郡の気多神社、葦田神社、井田神社、楯縫神社の古社地タタノヤ(多々谷)は、タタラに通じ、ヒボコの世から神功皇后の頃、気多神社周辺が但馬の鉄の産地であったことが浮かび上がる。おそらく砂鉄が採れたので旧日高町(旧気多郡)で最も古くから記されている気多神社と、近い位置に式内社が集中するのか?井田神社、葦田神社がこの近い距離にいずれも式内社であり、なぜ但馬国府をこの周辺に置いた。

いったいこの小さい国である但馬に何が起きようとしていたのだろうか?但馬は谿間とも記され、平野部の少ない小さな国が、倭国と朝鮮半島という日本海を挟んだ接点として、極めて倭国の国家存亡の危機を握る場所になりつつあったのではないか。新羅が伽耶が百済が裏切ったのだ。


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