大江山の鬼退治~彦坐王と陸耳の御笠は大丹波平定だった

開化天皇の御子・彦坐王と陸耳の御笠の真相

 

『但馬故事記』は、郡ごとに八巻からなるが、ほとんどの巻は人皇十代崇神すじん天皇から、記載がにわかに詳細になるが、二方郡を除き、八郡のどの郡の故事記も「丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠くがみみのみかさ、(土蜘蛛つちぐもの匹女ひきめなど)盗賊を集め、民衆の物を略奪して…」についての記述に文面を費やしている。

冒頭に天火明命が丹波国から但馬に入った記述は数ページに及び、それに匹敵するページ数を丹波青葉山の賊、陸耳ノ御笠征伐についてさいていて、再び舞台は古代丹波の中心えあった加佐郡(いまの舞鶴市)へ移るのだ。

『第五巻・出石郡故事記』だけは、何故かこの下りをさらりと書いているのであるが、あらすじとしては分かりやすい。

人皇十代崇神(すじん)天皇十年秋九月、丹波国青葉山の賊・陸耳ノ御笠群盗を集め、良民を害す。その党狂(いまの豊岡市来日くるい)ノ土蜘蛛[*1]、多遅麻(但馬)に入り、略奪を行う。
黄沼前県主きのさきあがたぬし穴目杵命あなめきのみことが使いを馳せて多遅麻国造・天日楢杵命あめのひならきのみことに報告し、天日楢杵命がこの由を開化天皇に伝えた。
天皇はその皇・彦坐命に、これを討てと命じる。
彦座命は丹波に下り、これ等の賊徒を多遅摩伊伎佐碕たぢまいぎさのみさき[*2]の海上において討ち、これを誅す。狂ノ土蜘蛛随したがって平らぐ。

これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。

*1 土蜘蛛とはこの時代の記述に度々登場するが、国家統一に抵抗する元々の豪族を侮蔑した名称

*2 伊伎佐碕…兵庫県美方郡香美町香住区御崎の古名。式内伊伎佐あり。

困難な時代の中興の祖 崇神天皇

その前に少し、第十代崇神天皇の時代背景について触れておきたい。十代崇神天皇はおおよそ三世紀終わり頃の天皇である。和風諡号しごう[*3]は『日本書紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、国家体制を整えたことから御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『古事記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと)、同じく所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと)と称えられる。

『日本書紀』における初代神武天皇の称号も、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)で、これを「初めて国を治めた天皇」と解釈するならば、初めて国を治めた天皇が二人存在することになる。安本美典氏は、どちらも同じ意味であるならばわざわざ漢字の綴りを変える理由が解らず、また「高天原」などの用語と照応するならば神武の「天下」は「天界の下の地上世界」といったニュアンスと捉えるべきであり、神武の『始馭天下之天皇』とは「はじめてあまのしたしらすすめらみこと」などと読んで、天の下の世界を初めて治めた王朝の創始者と解し、崇神の『御肇國天皇』はその治世にヤマト王権の支配が初めて全国規模にまで広まったことを称讃したものと解釈すれば上手く説明がつくとしている。要するに神武はヤマト建国の祖、崇神は中興の祖と解釈される。崇神天皇と言う諡号は、漢風諡号を持たない神武天皇から元正天皇までの44代(弘文天皇と文武天皇を除く)に対して、奈良時代の文人「淡海三船」が漢風諡号を一括撰進し、多くの社をたてて神をあがめ奉った事から「崇神天皇」の漢風諡号があたえられて以降呼ばれるようになったものである。

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まりで、

『日本書紀』によると、崇神朝の始めの頃は、困難な時代であったとする。疫病が多く多くの民が死亡し、また百姓が流亡したり背いたりする多難な幕開けだった。そこで崇神は、災いを鎮めるため神を祀るのである。その神の一つが、ヤマト朝廷の祖先神である天照大神である。

最初、天照大神は宮中に祀られるが、崇神は宮中で祀ることに不安を覚え、宮中以外のところで祀ることにする。そこで皇女の豊鍬入姫とよすきいりひめに天照大神を託し、倭(大和)の笠縫邑に祀る。その後、天照大神を祀る場所は転々と遷し替えられていくが、笠縫邑に続く場所が丹波である。丹波の籠神社、海部氏の『勘注系図』には次のように記されている。

「豊鍬入姫は、天照大神を戴き、大和国笠縫の里から、丹波の余社郡よさのこおり(与佐・与謝)久志比真名井原匏宮くしひのまないはらよさのみやに遷る。天照大神と豊受大神を同殿に祀り、日本得魂命やまとえたまのみこと等が仕える」

豊鍬入姫が天照大神を祀る場所を丹波に求めたのは、丹波は尾張氏[*4]の支配地で、尾張氏の当主、日本得魂命の孫であることによる。

豊鍬入姫は、丹波で天照大神を祀るが、再び大和に戻る。その後天照大神を祀る皇女は、垂仁天皇の時代になって、倭姫に替わる。倭姫は天照大神を祀る場所を求めて各地を巡る。最後は、伊勢に祀られ神宮(伊勢神宮内宮)となる。丹波では天照大神と豊受大神が同殿に祀られるのは、豊受大神は元々、丹波の神であったので一緒に祀ったのである。豊受大神は雄略天皇の時代になって、丹波から伊勢に迎えられ、外宮の主祭神として祀られことになる。

*3 和風諡号 主に帝王などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のこと。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。

*4 尾張氏は、 天火明命を祖とする葛木高尾張に居た豪族で ある。高尾張とは現在の奈良県御所市( ごせ し)あたりの事である。

丹波に派遣された丹波道主

『中興の祖 崇神』桂川 光和は、第三章 困難な崇神朝の始まり(3)陸国(くがこく)との戦いで、上述の「これは単なる賊征伐ではなく、ヤマト朝廷における国家的な出来事が起きたと考えていた。」の謎が解けたのだ。

崇神朝の始めの頃である。

『古事記』は崇神時代の事として、「日子坐王を旦波国に遣わし、陸耳之御笠を殺すを命ず」とする。『日本書紀』には見られない伝承である。

丹波の系図『勘注系図』には、八世孫日本得魂命の注記で次のように記す。

「崇神の時代、当国の青葉山中に土蜘蛛あり。陸耳御笠の者、そのさま人民おおみたからぬすむ。ゆえに日子坐王、勅をたてまつりこれを討つ。余社ノ大山に至り遂にこれを誅す。」

『勘注系図』が記すこの伝承は、「丹後風土記」と同様で、日子坐王と日本得魂命が戦った相手は、陸耳御笠と匹女と呼ばれる一党で、場所は現在の福井県の西部から京都府の北部、若狭と丹後との境でもある。

大和朝廷はここ若狭から東の勢力と対峙していたのである。

陸(くが)というのは今の北陸地方の名前である。したがって陸耳御笠は陸国くがのくにの王である。

この陸(玖賀)国こそ『魏志倭人伝』が伝える、邪馬台国と激しく争っていた狗奴国くなこくに他ならない。卑弥呼の時代から続いていた狗奴国との戦いはおおよそ三世紀後半の半ばに、大和朝廷側の勝利で決着がつくのである。その後丹波には、丹波道主が派遣されることになる(拙者註-日子坐王ではなく、その子丹波道主が派遣されたとする記述もある)。

『第一巻・気多郡故事記』『第ニ巻・朝来郡故事記』『第三巻・養父郡故事記』『第四巻・城崎郡故事記』『第六巻・美含郡故事記』を現代文風に要約すると、以下の通りである。

人皇十代崇神(すじん)天皇の十年秋(紀元前87)九月、
丹波青葉山(通称わかさ富士)の賊で、陸耳ノ御笠(くがみみのみかさ)、土蜘蛛の匹女など盗賊を集め、民衆の物を略奪していた。
その党(やから)で、狂(クルヒ、豊岡市来日)の土蜘蛛に入り、盗みを行う。甚だ猖けつを極め、気多県主・櫛竜命を殺し、瑞宝を奪う。

多遅摩国造・天日楢杵命あめのひならきのみことは、それを崇神天皇にこもごも奏した。天皇は、(9代開化天皇の皇子)彦坐命(ひこいますのみこと)に命じて、これを討つようにと命じられ、

御子の将軍丹波道主命とともに、
多遅麻朝来直あさこのあたえの上祖 天刀米命あめのとめのみこと
〃 若倭部連の上祖 武額明命たけぬかがのみこと
〃 竹野別の上祖 当芸利彦命たぎりひこのみこと
丹波六人部連むとべのむらじの上祖 武刀米命たけのとめのみこと(今の福知山市六人部)
丹波国造 倭得玉命やまとのえたまのみこと
大伴宿祢命の上祖 天靭負部命あめのゆきえべのみこと
佐伯宿祢命の上祖 国靭負部命くにのゆきえべのみこと
多遅麻黄沼前県主きのさきのあがたむし 穴目杵命あなめきのみことの子・来日足尼命くるいのすくねのみことら丹波に降り、土蜘蛛匹女を蟻道ありじ川(福知山市大江町有路)に殺し、陸耳を追い、白糸浜(由良川河口)に至る。陸耳は船に乗り多遅麻の黄沼前きのさきの海(円山川河口)に逃げる。
(中略)
時に狂の土蜘蛛は陸耳に加わり、賊勢再び振るう。時に水前大神教えて曰く、

「天神・地祀の擁護有り。すべからく美保大神・八千矛大神を祀れ」と。

再び王軍勢いを得て、陸耳を御崎に攻撃す。時に彦坐命の甲冑鳴動し、光輝を発す。故にその地を鎧浦と云う。(兵庫県美方郡香美町鎧)

当芸利彦命は進んで陸耳に迫り、これを刺し殺す。故にその地を勢刺いきさしの御崎と云い、また勇割の御崎と云う。

彦坐命は賊の滅ぶのをもって美保大神(美保神社:松江市美保関町)・八千矛大神の加護となし、戦功の賽をなさんと、出雲に至り、二神に詣でる。

大江山の鬼退治

大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠たんごふどきざんけつ」[*2]に記された陸耳御笠[*3]の伝説である。『但馬故事記』と見事に一致しているのだ。

青葉山中にすむ陸耳御笠(くがみみのみかさ)が、日子坐王(ひこいますのみこ)[*4]の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山)へ逃げこんだ、というものです。

崇神(すじん)天皇の時、青葉山中に陸耳御笠(くがみみのみかさ)・匹女(ひきめ)を首領とする土蜘蛛(つちぐも)[*5]がいて人民を苦しめていました。

日子坐王(ひこいますのみこ)が勅命を受けて討ったというもので、その戦いとかかわり、鳴生(舞鶴市成生・ナリウ)、爾保崎(匂ヶ崎)、志託(舞鶴市志高・シダカ)、血原(福知山市大江町千原・センバラ)、楯原(福知山市大江町蓼原・タデワラ)、川守(福知山市大江町河守・コウモリ)などの地名縁起が語られています。

このなかで、川守郷(福知山市大江町河守)にかかる記述が最も詳しいです。
これによると青葉山から陸耳御笠らを追い落とした日子坐王は、陸耳御笠を追って蟻道郷(福知山市大江町有路・アリジ)の血原(千原)にきてここで匹女を殺した。
この戦いであたり一面が血の原となったので、ここを血原と呼ぶようになりました。
陸耳御笠は降伏しようとしましたが、日本得玉命(やまとえたまのみこと)が下流からやってきたので、陸耳御笠は急に川をこえて逃げてしまいました。そこで日子坐王の軍勢は楯(たて)をならべ川を守りました。これが楯原(蓼原)・川守(河守)の地名の起こりです。

陸耳御笠は由良川を下流へ敗走しました。このとき一艘の舟が川を下ってきたので、その船に乗り陸耳御笠を追い、由良港へ来ましたが、ここで見失ってしましました。そこで石を拾って占ったところ、陸耳御笠は、与謝の大山(大江山)へ逃げ込んだことがわかりました。そこを石占(石浦)といい、この舟は楯原(蓼原)に祀りました。これが船戸神(ふなどのかみ)[*5]です。

[考察]

陸耳御笠(くがみみのみかさ)は、何故、土蜘蛛という賊称で呼ばれながら、「御」という尊称がついているのか。長年の謎が一つ解けたような気がしています。ヤマト王権の国家統一前、ここに笠王国ともいうべき小国家があったのかもしれない。(加佐郡?)陸耳御笠と笠津彦がダブってみえてきます。

陸耳ノ御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から兵庫県・鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されています。

一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれます。

「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。

土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、天皇への恭順を表明しない土着の豪傑などに対する蔑称である。また一説では、神話の時代から朝廷へ戦いを仕掛けたものを朝廷は鬼や土蜘蛛と呼び、朝廷から軽蔑されると共に、朝廷から恐れられていた。四道(北陸、東海、西道、丹波『日本書紀』)以外のまだ平定されていない地方豪族をさすのだろう。

陸耳ノ御笠も大江山の鬼退治の伝承も、同じく朝廷の丹波平定の過程である。陸耳の御笠とは加佐を中心にした丹後・但馬を含む古代丹波国であり、大和に従った戦いを伝説として残しているのだ。

『第ニ巻・朝来郡故事記』が彦座命について詳細だ。

天皇はその功を賞し、彦座命に丹波・多遅摩・二方の三国を与える。
十二月七日、彦坐命は、諸将を率いて、多遅摩粟鹿県に下り、刀我禾鹿(とがのあわが)の宮に居しました。アワビは、塩ケ渕(のり味沢)に放ちました。水がかれたのち、枚田(ひらた)の高山の麓の穴渕に放ちました(のち赤渕神社に祀ると云う)。
のちに彦坐命は(天皇から)勅を奉じて、諸国(三国)を巡察し、平定を奏しました。

天皇は勅して、姓を日下部足泥(宿祢)と賜い、諸国に日下部を定め、これを彦坐命に賜いました。

十一年夏四月、(粟鹿)宮に還り、諸将を各地に置き、鎮護(まもり)としました。
丹波国造 倭得玉命
多遅摩国造 天日楢杵命
二方国造 宇都野真若命
その下に、
当芸利彦命の功を賞し、気多県主と
武額明命をもって、美伊県主としました。
同じく、
比地県主・美保津彦命
夜夫県主・美津玉彦命
黄沼前県主・穴目杵命
伊曾布県主・黒田大彦命
みな、刀我禾鹿宮に朝して、その徳を頒ました。
朝来の名は、ここに始まります。

(中略)

第十一代垂仁天皇八十四年九月、
丹波・多遅摩・二方三国の大国主・日下部宿祢の遠祖・彦坐命は、刀我禾鹿宮に薨ず。寿二百八歳。禾鹿の鴨の端の丘に葬りました。(兆域28間、西11間、北9間、高直3間余、周囲57間、後人記して、これに入れるなり)守部ニ烟(けむり)を置き、これを守る。

息長宿祢の子。大多牟阪(おおたむさか)命をもって、朝来県主としました。大多牟阪命は、墨阪大中津彦命の娘・大中津姫命を娶り、船穂足泥(すくね)命を生みました。
大多牟阪命は、山口宮にあり、彦坐命を禾鹿宮に祀りました。(名神大 粟鹿神社)

第十三代成務天皇五年秋九月、
大多牟阪命の子・船穂足泥命をもって、多遅摩国造と定めました。船穂足泥命は大夜夫宮に還りました。(名神大 養父神社)

船穂足泥命の子・当勝足泥(まさかつすくね)命をもって、朝来県主としました。

[解説]*1
『天日槍』の著者今井啓一郎は、出石の郷土史家桜井勉が『国司文書 但馬故事記』を偽書説などを牙歯にもかけず、人或いは荒唐無稽の徒事なりと笑わば笑えと堂々の論れんを張り、天日槍研究に自信の程を示した。すなわち彼は、桜井とは見解をことにし、この但馬国司文書を大いに活用している。

「この地に朝来山という名所あり。取りて郡の名とせり。」とするならば、その朝来山の由来はどう説明するのだろう。

[*2]…「丹後風土記残欠」とは、奈良時代に国別に編纂された地誌である 8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
[*3]…陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。大江町と舞鶴市は、かつて加佐郡に属していました。「丹後風土記残欠」にも、加佐郡のルーツは「笠郡」とのべています。
この「笠」に関連して、興味深い伝承が青葉山に伝わっています。青葉山は山頂が2つの峰に分かれていますが、その東側の峰には若狭彦、西峰には笠津彦がまつられているというものです。笠のルーツは、この笠津彦ではないのか、そんなふうに考えていたところ、先年、大浦半島で関西電力の発電所建設工事中、「笠氏」の刻印のある9世紀頃の製塩土器が発見されました。笠氏と呼ばれる古代豪族が、ここに存在していたことが証明されたわけです。また、ここから、大陸との交流を裏づける大型の縄文の丸木舟が出土し話題となりました。
[*4]…日子坐王とは崇神天皇の弟にあたり、四道将軍として丹波に派遣された丹波道主命(たにはみちぬしのみこと)の父にあたる。

[*5]…衝立船戸(ツキタツフナト)神。境界の神。民間信仰における道祖神に相当する。「フナト」は「クナト」を古名とする記述から、「来(く)な」の意。「ツキタツ」は、杖を突き立てて「ここから来るな」と告げた意。
引用:福知山市オフィシャルホームページ「日本の鬼の交流博物館」
福知山のニュース両丹日日新聞WEB両丹

以上

天火明命 谿間に来たり

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弘仁5年(814)-天延3年(975)にわたり、但馬国府の多数の国学者によって編纂された『国司文書・但馬故事記たじまこじき』は、第一巻・気多郡故事記から第八巻・二方郡の但馬国8郡に分けて編纂されている。
出石いずし郡・七美しつみ郡・二方ふたかた郡を除いて5巻の書き出しは、人皇1代神武天皇より先に、必ず「天照国照彦天火明命あまてるくにてるあめのほあかりのみことは・・・」ではじまる。

実年で神武天皇の在位年について実態は明らかではないものの、上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧

によると、紀元前のBC660年から582年とすれば、少なくともそれより前となる。であれば、弥生前期の紀元前660年以前のこととなる。

あとの2巻の出石郡は、国作大巳貴命くにつくりおおなむちのみことが出雲国から、伯耆ほうき稲葉いなば・二方国を開き、多遅麻たぢまに入り、伊曾布いそう(のち七美)・黄沼前(城崎)きのさき気多けた・津(おそらく津居山あたり)・薮(養父)やぶ水石(御出石)みずしあがたを開きませり。(中略)人皇一代神武天皇は、御出石櫛甕玉命くしかめたまのみことの子・天国知彦あめのくにともひこ命をもって(初代)御出石県主と為し給う。(中略)
人皇6代孝安天皇53年、新羅王天日槍あめのひぼこのみこと帰化す。多遅麻を賜う。61年、天日槍命をもって(初代)多遅摩国造くにのみやつこと為す。
七美郡・二方郡はは素盞鳴尊すさのおおのみことから始まる)

『第一巻・気多郡故事記』 天照国照彦天火明命は国造大巳貴命の勅を奉じ、両槻天物部命なみつきのあめのもののべのみことの子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原ささいくはらに御津井を掘り、水をそそぎ、御田おた・みたを作る。後世その地を名づけて、佐田稲生原さたいないはら・いくはらと云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前ささくま邑むら是なり。(のち楽々前郷。いまの豊岡市日高町佐田と道場の山沿い・式内佐久神社)

『第二巻・朝来郡故事記』 天火明命は丹波国加佐郡志楽国→この地(朝来郡)に来たり。真名井を掘り、御田を開きて、その水を灌ぎ給いしかば、即ち垂り穂の稲の甘美稲秋かんびとうしゅう野面のづら狭莫々然しないぬ
故れ此の地を名づけて、比地ひち真名井まないと云う。(比地は朝来あさこの古い県名。比地県→朝来郡)

『第三巻・養父郡故事記』 天照国照彦饒速日にぎはやひ天火明命は、その妃天道姫命あめのみちひめのみこととともに坂戸さかへの天物部命・二田ふたたの 〃 ・嶋戸しまへの 〃 ・垂樋たるひの 〃 ・両槻なみつきの 〃 ・天磐船命あめのいわふねのみこと天揖取部命あめのかじとりべのみこと佐岐津彦さきつひこ命を率い、天照大神あまてらすおおみかみの勅を奉じ、天の磐船に乗り、田庭の真名井原に降り・・・(中略)天火明命これより西して谿間たにま・たぢまに来たり。清明すが宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。垂樋天物部命をして、真名井を掘り、御田に灌がしむ。即ちその秋垂穂の八握穂やつかほ莫々然しないぬ。故れ其の地を名づけて、豊岡原と云い、真名井を名づけて、御田井おだいと云う(のち小田井・式内小田井県神社)。
天火明命は、また南して佐々前原ささくまはらに至り、磐船いわふね宮に止まる。(日高町道場に磐舩神社あり)
佐久津彦命をして、篠生原に就かしめ御田を開き、御津川を掘り、水を灌がしむ。後世その地を真田さだの稲飯原と云う。いま佐田伊原と称す。気多郡佐々前村これなり。
天火明命は。また天熊人命を夜父に遣わし、蚕桑の地を相せむ。天熊人命夜父の谿間に就き、桑を植え蚕を養う。
故れ此の地を谿間の屋岡県と云う。谿間たにまの号なこれに始まる。

『第四巻・城崎郡故事記』 天照国照彦饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種とくさの瑞宝みずたからを授かり、妃天道姫命とともに、田庭の真名井に降り、(以下養父郡とほぼ同じ)

『第六巻・美含みくみ郡故事記』 天火明命は妃天道姫命とともに、坂戸さかへの天物部命・両槻 〃 ・二田 〃 ・嶋戸 〃 ・垂井 〃 を率いて、天磐船に乗り、高天原より丹波国に降り給う。(中略)

『第一巻・気多郡故事記』を除き、天火明命は高天原から丹波国に降りて、御田を作ったのち、谿間に入り、佐田稲飯原を開き御田と為すとしている。また天熊人命を夜父(のち養父)に遣わし、蚕桑の地を相せしむ。谿間の名これに始まる。
豊受姫命とようけひめのみことはこれを見て、大いに歓喜びて、田庭たにはに植えたり。この地をのち田庭と云う。丹波のこれに始まる。

文献では主に「丹波」が使われているが、一部には「旦波」(『古事記』の一部)・「但波」(『正倉院文書』)の表記も見られる。藤原宮跡出土木簡では例外を除いて全て「丹波」なので、大宝律令の施行とともに「丹波」に統一されたと考えられている。
『和名抄』では「丹波」を「太迩波(たには)」と訓む。その由来として『和訓栞』では「谷端」、『諸国名義考』では「田庭」すなわち「平らかに広い地」としているが、後者が有力視されている。[ウィキペディア]

丹波を最初は田庭と書かれていたことから、いつごろから田庭の訓読みの「たには・わ」が、丹波を音読みで「たんば」と変化したたのかは分からないが、山陰から北陸に共通する口をはっきりと開けない方言からみても、発音上「たには」→「たんば」と訛り、「たんば」を漢字にするときに丹波と書くようになったのだろうか。丹波国府が平城京・平安京に近い桑田郡(いまの亀岡市)に遷され、丹波の中心が丹波となり、北部は丹後・西部は但馬として分国された。

但馬も『国司文書・但馬故事記』には谿間とあり、「たにま」か、多遅麻と記すので「たぢま」と読んだようだし、のちに但馬と書く。これも音読みでは「たんば」でもある。たにはが訛って「たには」→「たぢま」→「たじま」に変わったのかも知れない。元々同じ大丹波で、丹波(加佐郡がルーツ)は、丹後となり、南部のみ丹波と三国に分国された。

谷間「たにま」と田庭「たには」、丹波「たんば」・但馬「たじま」を音読みすると「たんば」と同じで音が似ていること、『和訓栞』では丹波を「谷端」、丹と但はカナが誕生するまでの万葉仮名であり、深い意味はないとしても、すでに「たんば」と呼ばれていたから丹と但。旦と当てられたのであろう。

『校補但馬考』に但馬は、「但遅麻」(舊事紀)、「多遅摩・麻」(『古事記』)、「田道間」(『日本書紀』)、「谿間」『先代旧事本紀大成経(舊事大成経)』とす。ただ但馬と云うのみぞ、古来定まりたる本名にして、その他は、詞(ことば)の通ずる文字を用いたるなり。
と記している。

このように「たには」→「たにま」が「たんば」へ、多遅麻「たぢま」、但馬(「たじま」と変化したルーツは同じ「たにわ」ではないかと思える例が多い。漢字の文字が伝わる有史以前にあった地名を万葉仮名に当てはめたとすでに述べた。律令制では国名から土地々にあったふさわしい好字二文字を当てて書いているが、『和名抄』では「丹波」の読みを「太迩波(たには)」としているので平安期までは、少なくとも「たんば」ではなく「たには(わ)」と読んでいたことがわかる。但馬は「太知萬」

但馬故事記が云う谿間とは、屋岡(八鹿)辺であることは揺るぎない。
養父市の円山川の山を背に谷間地はさまじがある。国道9号線が通る。谿間はおそらく養父神社や大藪古墳群から養父市八鹿町あたりだろう。

兵庫県養父市堀畑550

*『国史文書 但馬故事記』

但馬国府に任じられた歴代の国司・官人たちが数年の歳月をかけて編纂された公文書なのである。偽書として無視する学者もあるが「但馬故事記序」の書き出しにこう記されている。

其ノ間、年を経ること158、月を積むこと、1896、稿を替えること、79回の多に及ぶ。(中略)
然して夫れ、旧事記、古事記、日本書紀は、帝都の旧史なり。此の書は、但馬の旧史なり。
故に帝都の旧史に欠有れば、即ち此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。焉。
然りいえども此の書、神武帝以来、推古帝に至るの記事書く。年月実に怪詭を以って之を書かざれば、即ち窺うべからず。
(そうはいっても、この書は神武帝から推古帝の記事を書くのだから、年月は実に怪しさをもって書いていることを否定出来ない。)
故、暫く古伝旧記に依り之を填(うず)め補い、少しも私意を加えず。また故意に削らず。しかして、編集するのみ。

『国史文書 但馬故事記』註解を執筆した吾郷清彦氏はこう述べている。
「この国史文書は、(現存している)『出雲国風土記』に比し、勝るとも劣らない価値ある古文書だ。この文書は左記三種の古記録、計22巻より成る。
『但馬故事記』(『但記』) 八巻
『古事大観録』       六巻
『但馬神社系譜伝』     八巻
このほかに、『但馬国司文書別記・但馬郷名記抄』八巻、『但馬世継記』八巻、『但馬秘鍵抄』などがある。
地方の上古代史書のうちで『甲斐古蹟考』とともに東西の横綱として高く評価されるべきものだ。」

現代でも歴史を知る姿勢として十分通じるべき範として見習うべきことを、奈良時代国府が置かれ、すでに平安時代初期に記紀にも欠落があり、此の書を以って補うべく、但馬の旧史に漏れ有れば、即ち帝都の正史を以って補うべし。と述べられていることに、日本の役人の賢明さを再認識するのである。記録が乏しい神武帝以来、推古帝に至る記事を書いているのは貴重である。

但馬の神奈備(かむなび)

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三瓶山・大山など山陰と山陽を分ける中国山地の東端に氷ノ山・扇の山があり、尾根づたい兵庫県で最も古い旧石器時代の遺物・遺跡が発掘されていることから、中国山脈の山岳地帯に住み、さらに尾根づたいに獲物を求めて移動し、鉢伏山、神鍋山辺りに住み着いたとも思われる。縄文時代の神鍋遺跡や磐座を思わせる岩倉という字が残る。

つまりそれは噴火口のぽっかり開いた神鍋山(かんなべやま)などの火山群を、神鍋山の噴火口跡を見つけた縄文人たちは、不思議な地形にさぞ驚いたことだろう。神様が宿るところ、カンナビ(神名備)だと崇めたのだと想像する。

『国史文書別記 但馬郷名記抄』に、

気多

この郡の西北に気吹戸主神の釜あり、常に烟を噴く。この故に気多郡と名づけ、郡名となす。今その山を名づけて『神鍋山』という。

また、根拠はないが、縄文人のことばは、ニュージーランドの先住民、マオリ族のマオリ語に 「ケ・タ」、KE-TA(ke=different,strange;ta=dash,lay)がある。「変わった(地形の)場所がある(地域)」 という意味である。

神鍋山(かんなべやま)

気多郡太多郷(兵庫県豊岡市日高町太田・栗栖野にかけて)にある神鍋山は、大正時代に開かれた関西初のスキー場として知られている。関西では珍しい約2万年前の火山活動でできた擂鉢状の噴火口と草原になっている。地質学でスコリア丘といい、標高469m、周囲約750m。噴火口は深さ約40m。北西隣のは大机山、南東の太田山、ブリ山、清滝山といった単成火山とともに神鍋単成火山群を構成している。周辺には同時代に生成された風穴・溶岩流・滝などがあり、同じくスキー場として知られる鉢伏高原(養父市)とともに早くから人が住み着いた遺跡や古墳が多数見つかっている。岩倉という小字もあるが、おそらく神鍋山をご神体とした磐座があったのであろう。神鍋と名付けられたのは、神様の大きな鍋のような山に見えたのか知れないが、以下のようにカンナビは全国にあることから、神奈備「かんなび山」がもとだと思える。「神奈備(かむなび)」が訛って「かんなべ」となり、「神様のお鍋」、「神鍋」という字を当てたのではないでしょうか?!

神奈備(かむなび)

「かんなび(山)」は信仰の対象として古代人に祀られていた山のことを指す。神奈備「カンナビ」は「神並び」の「カンナラビ」が「カンナビ」となったとする鎮座の意味や「ナビ」は「隠れる」の意味であり、「神が隠れ籠れる」場所とする意味であるという解釈がある。神名備・神南備・神名火・甘南備とも表記する。

神社神道も元は、日本で自然発生的に生まれた原始宗教ともいわれ、自然崇拝や精霊崇拝を内包する古神道から派生し、これら神社神道も古神道も現在に息づいている。

おそらく縄文時代、遅くとも弥生時代には、自然物崇拝をする原始信仰の対象で、背後にある山や、山にある岩(磐座いわくら)を神として奉った信仰において、神が居る場所の事、もしくはそのような信仰の事を意味する。神奈備信仰の神社では、山や磐がご神体のため、もともと社内にご神体を奉った建物がなかった。

神社の起源は、磐座や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に、臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではありませんでした。元来は沖縄の御嶽(うたき)のようなものだったと考えられます。

現在の神社には、神体として注連縄しめなわが飾られた社があるが、同時に境内の内外に神木や霊石としての岩や鎮守の森、時として湖沼や滝などの神体が存在し、主たる賽神さいじんの尊みこととは別に、自然そのものの神体が存在する。また古代から続く神社では、現在も本殿を持たない神社があり、磐座や禁足地きんぞくちの山や島などの手前に拝殿のみを建てているところもある。例えば奈良県桜井市の大神おおみわ神社、天理市の石上いそのかみ神宮、福岡県宗像市の宗像むなかた大社などである。

社に社殿が設置されるようになる過程には、飛鳥時代に仏教が伝来しその寺院建築の影響もあるといわれているが、神社には常に神がいるとされるようになったのは、社殿が建てられるようになってからといわれている。現在の神社神道としての神体は「社(やしろ)」、すなわち神社本殿であり、神奈備とはいわなくなった。

出雲国風土記におけるカンナビ山

一般的にはカンナビを「神奈備」と書くが、出雲国風土記には、「神名樋野」「神名火山」と書いて、意宇郡、秋鹿郡、楯縫郡、出雲郡の4カ所であったとされている。これらはいずれも「入海(宍道湖)」を取り巻くようにそびえている。

■「神名樋野」風土記では(茶臼山) 秋鹿郡(松江市山代町 矢田町)
■「神名火山」(朝日山)眞名井神社 意宇(おう)郡(松江市東長江町・鹿島町)
■「神名樋山」(大船山)楯縫郡 (出雲市多久町)
■「神名火山」(仏経山)曽支能夜社(そきのやのやしろ) 出雲郡(簸川郡斐川町神氷)

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但馬国名神大社の特徴

式内社が全国で5番めに多い但馬国。そのなかでも朝廷より幣帛を受ける特にに重要な神社を名神大社という。但馬国には9社ある。

山・海・川などの自然信仰に由来する神社

そのものずばり名神大 山神社、気吹戸主神の釜だと思われる名神大 戸神社、雷の神 名神大 雷神社、薬草の神 名神大 [木蜀]椒神社(以上気多郡)

名神大 海神社(今の絹巻神社) (城崎郡)

多遅麻国造(人)をまつる、出石神社、御出石神社(以上出石郡)、粟鹿神社(朝来郡)、養父神社(養父郡)
2002年4月29日初稿 2015年12月8日改訂

「瀬戸の岩戸」を切り開いた国造り伝承は縄文海進だった

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黄沼前海(キノサキノウミ)

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより
縄文時代の豊岡盆地 (Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました)

天日槍(あめのひぼこ)

天日槍(あめのひぼこ、以下ヒボコ)は、但馬国一の宮・出石(いずし)神社のご祭神で、但馬に住んでいる人なら知らない人はまずいないだろう。(以下、ヒボコ)

ヒボコは、出石神社由緒略記には、その当時「黄沼前海きのさきのうみ」という入江湖だった円山川の河口をふさいでいた瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、豊岡盆地を耕地にしたと記されている。

”国造りにまつわるお話”

アメノヒボコは但馬国を得た後、豊岡(とよおか)周辺を中心とした円山川まるやまがわ流域を開拓したらしい。そして亡くなった後は、出石神社いずしじんじゃの祭神として祭られることになった。

但馬一宮の出石神社は、出石町宮内にある。この場所は出石町の中心部よりも少し北にあたり、此隅山このすみやまからのびる尾根が出石川の右岸に至り、左岸にも山が迫って、懐のような地形になっている。神社はその奥の一段高い場所に建っている。

このあたりから下流は、たいへん洪水が多い場所である。2004年におきた台風23号による豊岡市の大水害は記憶に新しいところだが、出石神社のあたりを発掘してみると、低湿地にたまる粘土や腐植物層と、洪水でたまった砂の層が厚く積み重なっている所が多い。

そんな場所であるから、古代、この地を開拓した人々は、非常な苦労を強いられたことだろう。『出石神社由来記』には、アメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いて、湖だった豊岡周辺を耕地にしたと記されているという。そのアメノヒボコは、神となって今も自分が開拓した平野をにらんでいるのだ。

去年の伝説紀行に登場したアメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのだろう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思える。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

また、豊岡市の小田井懸神社に伝わる五社明神の国造りも、土地を治める五人の神様が円山川のものすごく大きな河口の岩を切り開いて開削したと伝える。

小田井懸神社 「五社明神の国造り」 (豊岡市小田井)

大昔、まだ豊岡とよおかのあたりが、一面にどろの海だったころのことです。

人々は十分な土地がなくて、住むのにも耕すのにも困っていました。そのうえ悪いけものが多く、田畑をあらしたり、子供をおそったりするので、人々はたいへん苦しんでいました。この土地を治める五人の神様は、そのようすを見て、なんとかしてもっと広く、住みよい所にしたいものだと考えました。

そこで神様たちは、床尾山とこのおさんに登って、どろの海を見わたしてみました。すると、来日口くるひぐちのあたりに、ものすごく大きな岩があって水をせき止めています。

「あの大岩が、水をせき止めているのだな」
「あれを切り開けば、どろ水は海へ流れるにちがいない」
「そうすれば、もっと広い土地ができるだろう」
「それはよい考えだ。どろの海がなくなれば、たくさんの人が安心して暮らせる」

神様たちはさっそく相談して、大岩を切り開くことにしました。

大岩を断ち割り、切り開くと、どろ海の水はごうごうと音を立てて、海の方へ流れ始めました。神様たちはたいそう喜んで、そのようすを見ていました。

ところが、水が少なくなり始めたどろ海のまん中から、とつぜんおそろしい大蛇だいじゃが頭を出して、ものすごいうなり声を上げながら、切り開かれた岩へ泳ぎはじめました。そして、来日口に横たわって水の流れをせき止めてしまったのです。

神様たちはおどろきました。

「この大蛇は、どろの海の主にちがいない」
「これを追いはらわねば、いつまでたっても水はなくならないぞ」

神様たちがそろって、大蛇を追いはらおうとすると、大蛇はすぐにどろにもぐってにげてしまいます。あきらめてひきあげると、大蛇はまたあらわれて、水をせき止めてしまいます。神様たちはたいそうおこりました。

すきをみて大蛇に飛びかかり、神様たちは、とうとう大蛇を岸に引きずり上げてしまいました。そして頭と尻尾しっぽをつかんで、まっぷたつに引きちぎろうとしましたが、大蛇もそうはさせまいと大暴れします。それどころか、太くて長い体を神様たちに巻き付けて、しめころそうとするのでした。

五人の神様と大蛇は、上になったり下になったりしながら、長い間戦いました。大蛇が転がるたびに、地面は地震じしんのようにゆれます。けれども五人が力をあわせ、死にものぐるいでたたかいましたので、大蛇もしだいにつかれてきました。そこで神様たちが、大蛇の頭と尻尾にとびかかって、えいっと力をこめて引っ張りますと、さしもの大蛇も真っ二つになってしまいました。

こうして、どろの海の水は全部日本海へと流れ出し、後には豊かな広い土地が残りました。そしてどろの海のまわりにはびこっていた悪いけものたちも、みなにげ出してしまいましたので、人々はたいへん喜び、それからは安心して暮らせるようになったということです。
このできごとをお祝いして、毎年八月に、わらで大蛇の姿をした太いつなをつくり、村人みんなでひっぱってちぎるというお祭りが、行われるようになったということです。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)には、こう記されている。

人皇17代仁徳天皇10年秋8月、水先主命みずさきぬしのみことの子・海部直命あまべのあたえのみことをもって、城崎郡司きのさきぐんじ兼海部直あまべのあたえと為す。

海部直命は諸田の水害を憂い、御子みこ・西刀宿祢命せとのすくねのみことに命じて、西戸水門せとすいもんを浚渫しゅんせつせしむ。

故に御田多生さわなるゆえ、功有るという。海部直命は水先主命を深坂丘に葬る。(式内深坂神社)

*浚渫…港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事のこと

縄文海進と日本列島の誕生

「縄文海進」とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に氷河時代が終わると、氷が溶けて海水面が上がり、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られた。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作った。大陸から日本列島が離れて現在とほぼ同じ地形になる。

気温が上昇し、暖流が日本海に流れこんだので、いままで針葉樹が多かった日本列島にクリやドングリなど食べられる実をつける広葉樹が増えた。やがて山々が実り、豊かな植物採集の場になったのである。

最終氷期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は、河川が上流から運んでくる土砂の堆積による沖積層より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込んでいた。

各地にある国生みや入り江開削の神話・伝承は、地球温暖化による縄文海進が神懸かり的な現象と見えて伝わったのではないでしょうか。

兵庫県北部最大の河川である円山川まるやまがわが日本海に注ぐ河口から国府平野以北の円山川流域は水面下であった。『国史文書別記・但馬郷名記抄』によれば、その頃の豊岡盆地と国府平野部は、「黄沼前海きのさきのうみ」といわれる入り江(潟湖)であった。豊岡市塩津や大磯おおぞという地名や、円山川の支流大浜川一帯は森津から江野まで入江で、小江神社のある江野も古くは小江といった。田結郷大浜荘といった。奈佐も古くは渚郷が奈佐郷となったもので入江の渚からきているのだろう。東岸も同様で、「黄沼前郷は古くは黄沼海なり。昔は塩津大磯より下(しも)、三島に至る一帯は入江なり。 黄沼は泥の水たまりなり。故に黄沼というなり。

この章ではくわしく触れないが、平安期に編纂された『国史文書別記 但馬郷名記抄』城崎郡をみると、当時の地形の名残が読み取れる。

新墾田にいはりた郷(新田郷) 江岸(今の江本)・志保津(今の塩津)・清明島

黄沼前郷(のち城崎郷・豊岡旧市街地) 黄沼島

田結郷 大浜・赤石島・鴨居島・結浦島・鳥島(としま・今の戸島)・三島・小島(おしま)・小江(今の江野)・渚浦・干磯(ひのそ)浜・打水浦・大渓島(今の湯島?)・茂々島(今の桃島)・戸浦など

出石郡出石郷 出島(のち伊豆・嶋)

城崎郡・出石郡の円山川およびその支流域には、ずいぶん島や入江がついた地名が多く見受けられる。なかには現在のどこに相当するのか見当がつかない地名もある。平安期にはこうした島・入江があったのか、昔の地名がまだ残っていたのか、平安時代にも、平安海進という、8世紀から12世紀にかけて発生した大規模な海水準の上昇(海進現象)があったようだ。ロットネスト海進とも呼ばれているが、日本における当該時期が平安時代と重なるためにこの名称が用いられている。

2012年1月6日

最初の日本人はどこから来たのか

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最初にやって来た但馬人はどのようにやって来たのだろう。そもそも、われわれの日本人の祖先はどのように日本列島にやってきたのであろうか。

約100万年前から、地球は氷河期時代に入っていた。現在より10度も気温の低い寒冷な時期がくり返し訪れた。海に流れ込むはずの水が陸地で凍りついてしまうため、海面は今より100mも下がったため日本列島は何回かアジア大陸と地続きになることがあり、日本海も大きな湖となってしまうこともあったようだ。しかし、太平洋の暖かい海流にふれる日本列島は、氷河期にも厚い氷に覆われることなく、草原には植物が茂っていたので、マンモスやナウマンゾウ、ヘラジカなどが大陸から移ってきた。それらの動物を追って、シベリア南部から、数万年前についに日本列島という住みやすい場所を発見したのが最初かも知れない。

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。兵庫県にも旧石器時代の遺跡は多いが、北部但馬・丹波は少ない。

長い間、歴史学者の多くの人は、日本は中国や朝鮮半島から漢字や文化が伝わったとするのが定説となっていた。秦氏は秦の子孫で、日本列島に大量移動して水稲稲作や道具・神社などの建築技術をテクノクラート(技術集団)が縄文人と融合したのが弥生人だと、まるでゲルマン民族大移動を思わせる。

ところが、そうした価値観に浸っていない科学的な研究や新たな発見により歴史は覆ろうとしている。縄文時代からすでに 水田稲作は行われていたのではないかといわれている。近年になって縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたことが判明し、また水稲による温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていましたことも判明しつつある。稲作も弥生時代の始まりもはっきりと定義できない状態になってきた。近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきているのだ。

青森県三内丸山遺跡をはじめとする近年の発掘調査の結果により、縄文文化は想像以上に高度な文化をもっていたことが判明し、縄文観を根本から見直さなければならなくなった。世界四大文明と呼び、日本はそれより新しいとされてきた。しかし、日本文明をそれらに並ぶ文明として位置づけなくてはならない可能性も出てきたのである。縄文人がすでにコメをつくっていたこともほぼ確実となり、弥生時代の始まりを単に「稲作の開始」と定義することができなくなりつつあるのだ。

日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていた。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しなかった。それにはわけがあった。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ海の幸が豊富で、なお山海の幸にも恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況になかた。ヤマブドウでワインを作っていた形跡も見つかっている。縄文人たちは竪穴住居で火を囲み、質素な暮らしをしていたとわれわれが想像していた固定観念が覆ろうとしているのだ。縄文人は好きなときに豊富な山海の食べ物とワインを嗜むグルメなのであった。いや山ではぶどう・木の実、山菜を、海や湖でハマグリ、アワビ、アサリ、シジミなどの貝や魚が取り放題なのだから、現代より豊かであるといえる。採取を基礎とする社会で日本列島ほど安定した社会は世界史上稀であった。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われている。

しかし、縄文晩期になると再び寒冷化が起こり、環境が変化して自然の生産力が低下しました。このような時期に大陸から水田稲作と金属器の高度な技術が入り、それを契機として、縄文人も重い腰を上げて稲作に着手することになったのではないだろうか。

では縄文晩期において縄文人の食糧事情が極度に悪化したかというと、そうではないようです。縄文晩期の貝塚に鳥獣の個体が増える形跡はないし、そのころの縄文人の骨や歯に、成長が止まるような生涯は観察されていません。寒冷化によって自然界の生産力が低下したとはいえ、縄文人の食糧事情が極度に悪化したことはないといえます。

すると、縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。それまでに蓄積した知恵と技術をもって、急速に水田を開拓しました。縄文時代から弥生時代への移行は数百年のうちに本州北端まで伝搬し、西日本と東日本でほぼ同時であったことが明らかにされています。

参考:兵庫県立考古博物館遺跡データ、但馬考古学研究会

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2010年2月19日

日本人はどこから来たのか

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日本人はどこから来たのか

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最初の日本人

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。地球的規模でみても、古くから人類がいたことがわかってきた。人類と人(ヒト)の区別は難しいが、猿人が石器を使い始めたのが大体200万年前と考えられており、我々現代人と同じグループの、代表としてはクロマニョン人と上洞人など新人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられている。

道具については、猿人のころから石で石を叩いて、割れて尖った石を道具として使っていたようで、石で出来た道具である石器を使っていた時代のことを石器時代と言う。石器時代は石器の発達に応じて旧石器時代・新石器時代に分けられ、旧石器時代は200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまで、それ以降は新石器時代といい、旧石器時代との違いは、旧石器時代は前出のとおり石を叩いて作る打製石器を使っていたのであるが、これだと思う通りの形のはならないので、割れた石を磨くことで思い通りの形に仕上げて使うようになる。これを磨製石器と言い、これが使われていることが新石器時代の特徴である。

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日本は小さな島国なのか

はじめに

日本列島を北を上にした現在の地図で見ると、大陸から太平洋に離れた小さい島国にみえる。


(大陸からみた日本列島)

ところが、ひっくり返してみると視点が大きく変わってくる。中国や朝鮮半島、シベリアのカムチャッカ半島以南から続く千島列島や樺太(ロシア名サハリン)から、北海道・本州・四国・九州、そして台湾までのトカラ列島まで、長い日本列島は太平洋に鍋の蓋のように見える。小さい島国どころか、北海道・本州・四国・九州だけみても、ヨーロッパで比較するとでデンマークからイタリア半島までにほぼ匹敵するほど細長く、国土面積でもイギリスやドイツ、イタリアより大きく決して小国ではない。西ヨーロッパの先進諸国を大国とすれば日本も物理的大きさでも大国の中に入るのである。日本は思っている以上に「大きい」のである。

小さな島国だとそう思い込んでいる人が多い。原因は学校で教えられる「日本は小さな東洋の島国」だと習い、地図帳に採用されているメルカトル図法にある。地球は丸いので世界地図を平面的に表現するのがむずかしい。そこで採用されているのがメルカトル図法。メルカトル図法の大きな特徴は角度が正しい、すなわち十分狭い範囲だけを見ると形が正しい事である。しかし、緯度によって縮尺が変化し、赤道から高緯度に向かうにつれ距離や面積が拡大されることになる。北極圏に近いグリーンランドやシベリアや南極大陸が実際より17倍も拡大されている。カナダやアメリカ合衆国も実際よりも大きく描かれているのだ。

逆さ地図を見ると、九州北部から出雲・但馬・丹後・若狭(合わせて古代丹波)から北陸、越、津軽半島・北海道、樺太までの日本海沿岸が大陸との表玄関であり、平成10年舞鶴市浦入遺跡群から約5300前の丸木舟を発掘されたことや平成13年の指定で豊岡市出石町袴狭(はかざ)で見つかった船団やサメ・サケ・飛びはねるカツオの群れ、動物を描いた線刻画の木片から、古代丹後・但馬と大陸は強大な船団で往来していたことが分かったのである。大きなロマンが浮かび上がってきた。古代丹波こそ、大陸とヤマト(大和)を結ぶ国際ターミナルだったのである。

たとえば、『国司文書・但馬故事記』は『校補但馬考』桜井勉氏は偽書と決めつけている。多くの研究者にはそうではないとする人もいるのである。むしろ『校補但馬考』にも、ところどころ間違っている私見が含まれているが、明治のまだ十分な史料・発見も乏しい時代、氏が但馬史を調べあげた苦労は偉業である。しかし、大学で教えている考古学者や歴史家は、そうした過去の大先生がいっているのだからと、古い解釈をそのまま教えることが正しいと思うのか迷惑この上ない。ネットや凝り固まった歴史認識ではない自由な研究家により「本当にそうなんだろうか」と自ら調べてみることができる時代になってきた。どこかの大新聞が長い間、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」など捏造記事をくりかえし書いていても、大クオリティペーパーだと信じ込んでいる時代が続いている。真面目で秀才な人ほど、学校で習うことに嘘はないと疑うことをせず、NHKは嘘は言わないと信じ込んでいるのと同じではないか?

歴史は古いままのものでも、暗記することではない。新しい事実を知り、現在に生かすのは楽しいことなのだ。温故知新、不易流行。歴史も過去にはそう思われていた説が、新しい発見、技術など進歩していくものなのである。したがって、『但馬史のパラドックス(逆説) 但馬国誕生ものがたり』とした。自分もこれまでの史料・文献は大いに活かし、おかしなことは最新の歴史の発見・研究を知り、間違っていたことはたえず修正しています。

INDEX

第一章 但馬人はどこから来たのか
[catlist id=582] 第ニ章 天火明命と但馬の始まり
[catlist id=589] 第三章 彦座王と大丹波平定
[catlist id=592]

豊岡の地名の由来

豊岡(とよおか)

「豊岡」は、羽柴秀吉による但馬占領後の1580年、当地を与えられた宮部善祥房継潤が「小田井」に入り、小高い丘(神武山)に築城し、城崎キノサキ(荘)を佳字・「豊岡」と改めたことが起源というが、山名氏の時代に既に「豊岡」の名称が存在したとも考えられている。「地名由来辞典」

豊岡市日高町(旧気多郡ケタグン)の北部に水上ミノカミという地名がある。八代川が上石アゲシから但馬の大川円山川に合流し、日本海へ注ぐ。豊岡市出石町にも水上という区がある。こちらは「ムナガイ」と読む。八代川よりやや下流で円山川と合流する。円山川下流域はむかし黄沼前海キノサキノウミと言われる潟湖であった。その痕跡が水上という集落名として円山川をはさんで東西に残っている。つまりかつて潟湖黄沼前海の畔であった所以だ。同様に豊岡市街地の南端に大磯オウゾ、塩津がある。川を流れる淡水に日本海の海水が混じっていたので塩津だろうし、大磯は舟で日本海に出ていた中心的船溜まりだったから大きな磯と名付けられたとも想像できる。大磯と塩津の間に京口に円山川の廃川をまたいだ橋がある。豊岡城下から京都へ向かう出入り口だった。明治まで円山川はここで大きく蛇行し、京口以南の塩津は塩津村であった。豊岡市街は円山川や支流からの土砂でできた堆積地で、太古は豊岡市日高町水上・出石町水上から塩津付近は黄沼前海の潟湖で、いつごろか水位が下がり広大な平野ができる。平安までは小田井県オダイアガタ、のち黄沼前県キノサアガタ城崎郡キノサキグンへ変わる。大磯から小田井神社辺り、三坂(古くは深坂)から戸牧トベラまでが城崎郡城崎郷。

黄沼前(城崎)キノサキが小義では城崎郡城崎郷という郷名であり、立野・女代メシロ深坂(三坂)ミサカ・永井・鳥迷羅(戸牧)トベラ・大石(大磯オウゾ)の村をさした。

江戸期の伊能忠敬日本地図などは豊岡と書かれているし、豊岡藩である。

『国史文書 但馬故事記第四巻・城崎郡故事記』・『第五巻・養父郡-』に、

天照国照彦櫛玉饒速日天火明命アマテルクニテルヒコクシダマニギハヤヒホアカリノミコト 田庭タニワの真名井原に降り、豊受姫命トヨウケヒメノミコトに従い、五穀 養桑の種子を獲り、伊狭那子嶽イザナゴダケ(岳)に就ユき、真名井を掘り、稲の水種や麦菽(まめ)粟(あわ)の陸種を為るべく、これを国の長田・狭田に蒔く。すなわちその秋瑞穂の垂穂のうまししねないぬ。豊受姫命はこれを見て、大いに喜びてモウし給わく、「あなにやし。命これを田庭に植えたり」と。
故この処を田庭と云う。丹波の号ナこれに始まる。

天火明命はこれより西して、谿間(但馬)タジマに来たり。清明宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。後、御田井(小田井) 佐々原磐船宮(気多郡)→ 夜父ヤブ(養父郡)屋岡(八鹿)ヤオカ→ヨウカ、谿間(但馬)のこれに始まる
→ 比地ヒジ県(のち朝来アサコ郡)→  美伊県(のち美含ミクミ郡)
天火明命 美伊・小田井・佐々前・屋岡・比地の県を巡りて、田庭津国を経て河内へ。

『和名抄』(平安時代中期承平年間(931年 – 938年))

新田・城崎・三江・奈佐・田結・餘部*1

『国史文書別記 第五巻・城崎郡郷名記抄』(975 平安期)に、
北から伎多由キタユ(今の田結タイ)、餘部アマルベ墾谷ハリダニ機上ハタガミ[今の飯谷・畑上])、黄沼前(のち城崎)、御贄ミニエ(のち三江ミエ)、ナギサ(のち奈佐)、新墾田ニイハリタ(のち新田ニッタ)郷。

天火明命国開きの時、すでに所々干潟を生じ、浜をなす。あるいは地震・山崩れにて島涌出て、草木青々の兆しを含む。天火明命、黄沼前を開き、墾田となす。
故に天火明命黄沼前島に鎮座す。小田井県神これなり(小田井県神社)。
降りて、稲年饒穂命イキシニギホノミコト(天火明命の子)*2・味饒田命ウマシニギタノミコト*3・佐努命サノノミコト*4(今の佐野)あいついで西岸を開く。与佐岐命ヨサキノミコトは、浮橋をもって東岸に渡り、鶴居岳を開き、墾田となす。
故に世界神となす。
鶴居岳は、また鵠鳴コウナキ*5山と名づく。鴻集まる故の名なり。黄沼崎島はいわゆる豊岡原なり。

中世の『但馬太田文』(弘安8年・1285 鎌倉期)では、城崎郷
佐野・九日・妙楽寺・戸牧・大磯・小尾崎・豊岡・野田・新屋敷・一日市・下陰・上陰・高屋・六地蔵の14村となり、江本・今森・塩津・立野は新田郷の新田庄となっている。

地元でも、1580年、神武山に築かれた木崎(城崎城)を宮部善祥房継潤が城崎(荘)を佳字ヨキジ・「豊岡」と改め、城も豊岡城としたと云う説が一般的に知られている。
江戸期の『伊能忠敬測量日記』には豊岡や出石・村岡城下は豊岡町、出石町、村岡町と書かれ、その他はすべて村と記している。

しかし、上記のように『但馬太田文』(弘安8年・1285)の城崎郷に「豊岡」の村名は記され、さらに山名氏の時代に既に「豊岡」の名称が存在したといえる。さらに『国史文書 但馬故事記第四巻・城崎郡故事記』には「天火明命は西して谿間(但馬)に来たり。清明宮に駐まる。豊岡原に降り、御田を開く。

この城崎郷(荘)域が明治からの城崎郡豊岡町である。ちなみに廃藩置県により丹波・丹後・但馬を合わせて久美浜県ができ、5年間ではあるが、1871年(明治4年)11月2日:但馬・丹後・丹波3郡(氷上郡・多紀郡・天田郡)が豊岡県に統合され、県庁が城崎郡豊岡町に置かれる。1876年(明治9年)8月21日:豊岡県が廃止され、兵庫県に編入する。丹後・丹波天田郡は京都府に編入。

城崎と豊岡という地名で大きな変化が江戸期から明治期にある。
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、今津村・湯島村・桃島村の区域をもって湯島村が発足。
1895年(明治28年)3月15日 – 湯島村が町制施行・改称して城崎町となる。
1950年(昭和25年) – 城崎郡豊岡町・五荘村・新田村・中筋村が合併して豊岡市が発足。
(以下、変遷は省略)

豊岡は古くは小田井で、のち城崎郷となるが、秀吉軍の但馬征伐以前から豊岡であったのだ。城崎郡城崎郷の豊岡城及び以東周辺の村名であり、城崎郡田結庄湯島村の湯嶋(湯島)は、「城崎温泉」と呼ぶようになる。拙者は旧気多郡(日高町)民なので、とやかくいうものではないが、客観的に解釈できるともいえるだろう。円山川下流域の今の豊岡市大磯から津居山まで古来から黄沼前(城崎)と呼ばれており、「城崎」を郡名として大きくみれば、城崎郡城崎郷は城崎郡の中心ではあっても、城崎郷のエリアだけを指すものではない。同じ城崎郡内である。江戸期にはすでに城崎郷(荘)豊岡町として呼ばれていたのであって、それから数百年経ったのちに、湯島村が町制施行・改称して城崎町となり、湯島を城崎(温泉)としたのであるから、自然の流れであっただろう。

豊受大神宮 外宮(伊勢神宮)、丹後では豊受姫命(豊受大神)を祀る神社が多く、京都府宮津市由良の京丹後市弥栄町船木の奈具神社、賣布神社(網野町木津女布谷)などでは祭神:豊宇賀能売神(とようかのめ)、賣布神社(京丹後市久美浜町女布)では豊受姫命、籠神社奥宮真名井神社、比沼麻奈爲神社、元伊勢外宮豊受大神社では豊受大神、丸田神社:宇氣母智命ウケモチノミコト(豊受) と記される。豊受は「トヨウケ」「トヨウカ」で、あるいは神名の「ウケ」は食物のことで、食物・穀物を司る女神である。後に、他の食物神の大気都比売(おほげつひめ)・保食神(うけもち)などと同様に、稲荷神(倉稲魂命ウカノミタマノミコト)と習合し、同一視される説もある。但馬では豊受姫命を祀る神社は少なく、養父神社を代表するように食物神としては倉稲魂命となっている。
天火明命は丹波から但馬に入り田を開く。豊かな岡とは、豊受の転化したものかもしれない。

小田井の周辺に田結と三江がある。
豊岡市田結(たい)は、城崎郡田結郷、古くは「伎多由」で、[魚昔](キタユ)貢進の地であった。[魚昔]とは小魚で海産物を献上する地。また御贄ミニエ郷(いまの三江) 贄を貢進する国をは御食ミケツ国といった。酒垂神社は小田井神社などに御神酒を献上していたものと思われる。

 


小田井懸神社

*1 餘部 アマルベ 戸数が50戸に満たない郷を地名を用いずに餘部(郷)という

*2 稲年饒穂命(イキシニギホ・天火明命の子) 人皇一代神武天皇三年 初代小田井県主
*3 味饒田命(ウマシニギタ) 甘美真手名の子。人皇二代綏靖(スイゼイ)天皇23年 小田井県主
*4佐努(サノ)命 味饒田命の子。人皇四代懿徳(イトク)天皇33年 小田井県主

*5 鵠(クグイ)…白鳥(はくちょう)の古名。(久々比命・久々比神社の久々比も同義だと思う)
鴻(コウ)…おおとり。オオハクチョウ、ヒシクイ。ガンの一種。
鴻鵠(コウコク)…鴻(おおとり)や鵠(くぐい)など,大きな鳥。また大人物。英雄。
コウノトリは鸛と書く。音-カンと書く。コウノトリは鳴かないので、鵠鳴山の鵠は鳴く鳥でなければならない。白鳥? コウノトリは鴻(の)鳥と書く場合もあるが大きな鳥という意味であろう。

コウノトリは、『国史文書別記 第五巻・城崎郡郷名記抄』(975 平安期)には、鶴居岳に同じく存在していたのかは不明であるが、下鶴井に近い野上に1965年(昭和40)「特別天然記念物コウノトリ飼育場」(現、コウノトリの郷公園附属コウノトリ保護増殖センター)が設置されたことは、偶然なのか、太古から何かつながる部分があって驚くのである。

式内社の廃絶と論社

延喜式神名帳に記載されている神社を式内社というが、平安期に作成されたその記載から、江戸期にはすでにその神社が廃絶となったり、その論社であるとする神社が多々ある。

当時、延喜式に記載された各地の神社が指定された経緯は、当時のその土地の歴史を知る上で欠かせない貴重な証であることには変わりない。

中でも厄介なのが、大和国(奈良県)と山城国(今の京都府南部)。ともに平城京・平安京など歴史的に大きな都が置かれた地域ではあるが、幾多の戦乱などにより、かつてそこにあったであろう式内社が廃絶したり、不詳になっている社が多いのも、大和・山城である。

したがって、その土地々々で我が村の神社こそ式内○○であるという神社がある。それを論社という。

廃絶して、旧社地は分かっているが、近隣の神社に遷座されたり、合祀されて残っているケースもあれば、まったくもって、論拠が不明なケースも有るのだ。

疑問が起きるのは、論社がいまその場所にあることがどうかではなく、歴史を知る上では、延喜式が作成された当時には式内社がどこに置かれていたのか?なのである。日本では神社こそ政治(まつりごと)の中心であり、今風にいえば役所であり行政であったのだ。政は、祀り、祭りとも同義で、要するに祭りは政ごとなのだった。単純に考えてみれば、もうアメリカナイズから開放されるべきであるといえる。私もビートルズや西洋かぶれで育った世代だが、だんだん分かってきたのは、日本の伝統文化は世界的に見ても最古の国家で、特筆すべき価値が有ることに気づいたのだ。その地域は当時は村があり、都として重要な場所であり発展していたことは間違いないからだ。論社がいまどこかは意味があるのだろうかと思うのであるが、論社があらわれるにはそれなりにいろいろな理由があるだろうし、すでに分からなくなってしまっているのである。

今日ではITの進化で、Googlemapに式内社を記録し、最短でまわるルートを表示することで気づくこともある。式内社の論社が氾濫する川岸で不自然であったり、他の式内社と近すぎると気づくこともある。

グローバル社会こそ、日本の歴史を見直し、知らなければ日本は世界に発信できないし、戦後なんともったいないことをしてきたんだろう。

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