山陰・北陸に多い気多神社

山陰・北陸に多い気多神社

越中国一宮 射水神社

能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であったが、能登国を分立する際に二宮であった射水神社が越中国一宮とされた。物部氏→変更したい?

劔神社

越前国 福井県丹生郡越前町
越前国二宮
御祭神 素盞鳴尊

総社大神宮

越前国 福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越前國総社 旧県社
御祭神 大己貴命

能登生国玉比古神社(気多本宮) 加賀国 石川県七尾市所口町ハ48
御祭神 大己貴命

能登国の式内社の能登生国玉比古神社の論社の一。  社伝では、大己貴命は始め出雲国より此の所口へ着き給ひしが、当国鹿島路の湖水に毒蛇棲み人民為に苦しめりと聞き給ひ往きてこれを退治し、遂に羽咋郡竹津浦に垂迹し給ふ。  孝元天皇の創建と伝わる古社。崇神天皇が当社の祭神の分霊を羽咋郡竹津浦に勧請し、当社を気多本宮と称した。前田利家、当社を字明神野へ遷し、社殿を造営し、神封として更に二十俵の地を寄進した。

氣多御子神社

加賀国 石川県小松市額見町サ-58
御祭神 「大己貴神(気多大神) 菊理媛神(白山大神) 天照皇大神(神明大神)」
この境内には、雑草が生えないという伝承がある。 延宝年間、社守の六兵衛が淵に入って禊をしていると、 淵に住む大亀が出現し、襲ってきたので捕えて殺そうとすると、 大亀は、末代まで境内の草を取り除く事を約束したので放免にした。

高瀬神社

越中国 富山県東砺波郡井波町高瀬291
御祭神 大己貴命 天活玉命 五十猛命
大己貴命が北陸平定を終え、出雲へ戻る時に、自らの御魂を国魂神として鎮め置いたのがはじめ。 故に、能登の気多大社と同神であると考えられている。

気多神社

越中国 富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
御祭神 大己貴命と奴奈加波比売命
高岡市伏木は越中国国府や国分寺のあった地で、越中の中心地であった。当社は越中国一宮とされ、所在地の地名も「一ノ宮」であるが、越中国内には一宮を称する神社がほかに3社ある。旧県社。境内には越中国総社跡の伝承地がある。大伴神社が造られています。
天平宝字元年(757年)に越中国から能登国を分立する際、それまで越中の一宮とされていた気多大社から越中国府の近くに勧請を受けて創建された。それより前の養老2年(718年)に行基により創建されたとする伝承もある。

気多若宮神社

飛騨国 岐阜県飛騨市古川町上気多1297(旧吉城郡古川町)
御祭神 大巳貴神とその子の御井神

秋葉山本宮秋葉神社

遠江国 静岡県浜松市天竜区春野町領家(旧周智郡気多村)841
式内社 旧県社
御祭神 火之迦具土大神
春野町と龍山町の境界、赤石山脈の南端、 標高868mの秋葉山山頂に鎮座している。

但馬に圧倒的に多い兵主神社の訳は?!

但馬には兵主神社という神社が出石神社を取り囲むように郡境などにあって際立って多い。このような地域は全国的にも例がない。

兵主とは武神で、後の八幡神社も武神です。滋賀県野洲市にある兵主大社の祭神は八千矛神(やちほこのかみ)(大国主神)を主祭神とし、手名椎神・足名椎神を配祀する。中世には、「兵主」を「つわものぬし」と読むことより、武士の厚い信仰を得た。中でも源頼朝・足利尊氏による神宝の寄進・社殿造営があり、社宝として残されている。また、江戸時代には、徳川将軍家から社領の寄進を受け、厚い保護を受けた。奈良の穴師坐兵主神社が最も古いらしい。しかし、出雲系の須佐之男命や大己貴命、大國主命を祭神とする社が多いのだが、不思議と天日槍の移動ルートに類似して建っていて、崇神天皇と垂仁天皇の頃には、記紀の丹後、但馬の記述が特に多い。彦坐王(開化天皇の子)の娘、狭穂姫を最初の皇后として、丹波道主王の女たちを後宮に入れ、その中から日葉酢媛を皇后とする。丹後王国がヤマト朝廷支配下に入ったとみられる。また、新羅王子の天日槍が神宝を奉じて来朝。田道間守に命じて、常世国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせる。現在の伝垂仁天皇陵とされる宝来山古墳の濠の中、南東に田道間守の墓とされる小島がある。兵主神社がやたらと多いのはこのころ但馬が半島の防衛基地になったことが分かる。

DNA研究による日本民族

DNA研究の進展

長いあいだ、日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする埴原和郎氏らの二重構造説が占めていた。しかし、少なくとも、従来の時代的概念としての「縄文人/弥生人」という単純な図式では説明できないとする説が台頭し、今日では埴原氏の二重構造説には多くの批判がある。

他方、日本人が重層構造であることは人類学者・考古学者の間では支持する意見が強く、また、分子人類学的なDNA解析(ハプログループによる地域的分布の解析)もあくまで生物学的データであり、文化的な交流や、実際の移動の実態および移動の理由などについては、今後も文化人類学、歴史学、考古学など周辺諸科学の総合的な調査が求められる。

1980年代からのミトコンドリアDNA研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ただし、ミトコンドリアDNAは、形態の生成に関与しない遺伝子であり、DNAタイプ(ハプロタイプ)と形質的特徴(骨格、体格、顔、皮膚など)とは必ずしも対応しないとされている。

つまり簡単にいえば、DNA解析はあくまでもその手法による分類であり、文化的な交流やどのように移動していったはそれだけでは分からないのであるが、この母系をたどるミトコンドリアDNAに対して、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。

ヒトのY染色体のDNA型はAからRの18系統があり、
これらは
アフリカ限定のA系統とB系統
出アフリカのC系統、DE系統、FR系統
に2つに大きく分けられる。

崎谷満氏の分析によれば、これら5系統のうち、世界の多くの地域ではせいぜい2系統しか見られないが、日本人にはC,DE,FRの出アフリカ3系統すべてが見られ、従来の予想に反して日本人の遺伝子は多様であることが分かったのだ。日本人は、D2系統とO2b系統を中心に、多様な系統が混じり合っていることが分かった。

これは、日本列島への渡来人は、一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの渡来の波があったことを示し、また、そのルーツに関しても、黄河流域~山東半島、揚子江流域からの南方ルート、満州~朝鮮半島から、樺太など北方ルートの3つがあり、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっている(最近の遺伝子研究ではおおむね渡来人は北東アジア起源が有力)。

縄文人は海洋民族

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縄文人は海洋民族

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『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

 文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

日本各地から出土する異物は、太平洋諸島、沖縄列島、日本列島周辺で活躍する海洋民族の存在を示し、それが1万数千年といわれる縄文文化の一翼を担ってきた。
この時代の船は、縄文時代前期(6千年前)の千葉県加茂遺跡や福井県の鳥浜遺跡を始め、多くの遺跡から出土しており、その殆どが長さ6m以上、直径80cm以上の丸太をくり抜いた丸木船である。そして彼らの行動範囲が予想以上に広いことも分かってきた。

その証拠として近年、朝鮮半島南部から縄文遺跡が相次いで発見され、縄文時代の人たちはこの地まで進出していたことが明らかになった。

3千年前頃から縄文人たちは、九州あたりを出て朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。(中略)対馬からほど近い慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、縄文土器は縄文人がやって来た確かな証拠品といえる。朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやって来たのではないかと考えられる。(はるかな旅4)

だが、あの重い縄文土器を小さな丸木船に大量の乗せたうえでの渡航は考えられない。長期にわたり縄文時代の人たちが半島南部で生活し、土器を作っていたからこそ大量の土器が発見されたのであろう。さらに九州産の黒曜石が発見されたことから、彼らは消耗品である黒曜石を供給するため、定期的に往来していたに違いない。

今まで「大勢の渡来人が日本へとやって来た」とされた時代があった。逆に、かなりの日本人が半島へと進出していたのだ。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 長浜浩明氏で、「倭人は朝鮮半島にも住んでいた」で、このあと、新羅・百済、加羅のち任那日本府も、縄文時代から続く倭がつくった小国家であったことにつながっていく。韓国人が聞くと発狂しそうだが、朝鮮から日本へもたらされた独産物や文化はない。

三国志・韓の条「韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。三種あり、一に馬韓といい、ニに辰韓といい、三に弁韓という。

実は縄文時代から多くの人々が日本から半島南部に移り住み往来していた。かなりの韓国人のDNAが縄文・弥生時代の日本人と相同であり、半島から出土する多くの縄文土器・弥生土器がこのことを裏付けている。

「韓国」とはシナの植民地名であり、朝鮮が南北に分断され北朝鮮と大韓民国「韓国」となった。朝鮮半島ではなく韓半島というべきとして迫り、一部のノー天気な歴史学者やメディアは「韓半島」と云うが、それはかつてシナが蔑視して周辺を蔑んで倭や韓と呼んでいたのに朝鮮から韓国に戻して喜んでいることを知っているのだろうか?要するにシナの属国だと宣言しているのであるから。まあそうなりつつあるのは皮肉だ。

日本民族は世界最古の発明家

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日本民族は世界最古の発明家

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[catlist id=582]長い間、日本では稲作は弥生時代に朝鮮半島からやってきた渡来人がもたらしたと思い込まされてきた。

『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、こう述べている。

 日本では長らく昭和24年(1949)、群馬県の岩宿遺跡の発見で、旧石器時代から人々が住んでいたことが証明された。そしてこの約3万年前の地層から磨製石斧が見つかった。これまで磨製石器が登場するのは約1万年前の新石器時代からというのが定説だった。

その後、日本各地で3~4万年前の刃の部分だけが研磨された局部磨製石斧が発見されてきた。世界最古の発明といえる。また狩猟用の「落とし穴」が約2万7千年前の箱根山西麓遺跡群などから発見されているが、これも世界に類を見ない発明だった。

文明の先進性を測る尺度の一つである土器について見ると、平成十年(1998)、青森県大平山元I遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまでの世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアはもちろん、中国人が自称する偉大なる中国民族より何千年も前から日本列島の人々は土器を作っていた。世界の四大文明より数千年も早い9千5百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界の最先端を走っていた。

また木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富山県の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千5百年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も誤りであったことが確定した。そして約35cmを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術的基礎はこの時代から育まれていたのである。

平成12年(2000)、北海道の垣の島B遺跡から漆器が発見された。これは朝鮮など問題外であり、中国より2千年も早い世界最古の漆器だった。

使われた漆は日本固有種であり、縄文時代の人たちはこの分野でも世界の最先端を走っていた。発明の古さと、縄文時代の行動範囲が朝鮮半島から大陸までに及ぶことから、文明の基本、土器、漆器などの技術は、日本から彼の地へと伝えられた可能性も否定出来ない。年代からして逆はありえない。

(中略)

文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

ものづくりのアイデアで定評ある器用な日本人。その起源は縄文時代から日本民族にあったのだ。

日本民族のルーツに関する論議は江戸時代から行われてきた。そして明治以降、日本に招聘された欧米の学者が、考古学や人類学を持ち込むことでルーツ研究が盛んになり、この時の彼らの判断が今日まで影響している。
例えば、米国の動物学者で東京帝大教授として招聘され、大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・モースは、「本土には本土人ともアイヌ人とも違う人々・縄文人が住んでおり、彼らは今の日本人の祖先とはいえない。記紀の“国生み”“天孫降臨”“神武東征”などが、天皇の祖先が渡来し、先住民を征服したことを物語っている」と主張したという。
またモースらは、縄文土器と弥生土器を作った人々は連続していないとし、この説が大正期以降に定着した。つまり「日本人の先祖は縄文人ではなく渡来人である」なる説は、明治・大正期のお雇い外国人によってレールが敷かれたというのだ。

(中略)

縄文研究で知られる小山修三・国立民族博物館教授(当時)は、「縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーを着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器・土器・織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。
聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は500人を超えてたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食糧の交換ネットワークが有り、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。
先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアミニズム的な世界観を持っていた。」(『縄文への道』NHKブックス1996)

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。
北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。 彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、稲作の盛んな江南からやってきたのではないかという説が裏付けされたのです。

また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

水田稲作と技術は伝播ではない

稲作と技術の伝播

[catlist id=583] 縄文時代から行われていた稲作

狩猟や自然の恵みを採集していた縄文人と大陸から渡来してきた人々が水田稲作をもたらし人が稲を栽培するようになった。人々の中には農耕や道具作りに長けた人もいたかも知れないが、弥生時代に水田稲作が突如始まったわけでも、大量に弥生人のルーツである渡来人がわたって来たという定説は覆りはじめた。

「日本の酒の歴史」(協和発酵(株)元会長 加藤辨三郎)には、
いろいろな説があるが、今日の学説から次の3つに要約することができる。

(1)華北説(華北→朝鮮半島→北九州)
(2)江南説(江南→東シナ海→南朝鮮・北九州)
(3)「海上の道」説(台湾→沖縄→九州)

第一の華北説は考古学者浜田博士が提唱したものであるが、華北の仰韶(ヤンシャオ)文化・龍山(ロンシャン)文化と日本の弥生文化との間の時間的な落差があまりにも大きすぎるので今日では疑問視されている。また、第三の柳田国男説も偶然性が強く説得力に乏しいとして退けられている。したがって、第二の安東博士の提唱した江南説(江南の稲作が日本と南朝鮮へ同時に伝わったとする学説)が最も有力で、多くの学者の支持を得ている。

江南というのは、今の中国の長江(揚子江)以南地域を指すが、ここから南シナ沿岸地方にかけては、かつては呉・越・ビンなどの名で呼ばれたオーストロ・アジア系の非シナ稲作民族が先住していた。彼らは稲作を行うかたわら航海技術にも長じ、早くから船を操って沿岸交易に従事していた。ちょうどその頃、この地にまず呉・越が台頭し、次に楚(ソ)が勢いを得たが、さらに北からは秦の、続いて漢の国家的統一が進み、漢民族が大挙して江南の地に進出するといった政治的激動が起こった。強大な漢民族の圧迫に耐えかねたこの地の非シナ稲作民族は、やむを得ず海上へ脱出して難を避けた。江南から北九州へ、あるいは南鮮へと稲作文化が移動していったのは、このような民族移動の一つと見られ、紀元前二、三世紀のことであった。たまたま『魏略』逸文に見える倭人の記事の一節に
「其ノ旧語ヲ聞クニ自ヲ太伯ノ後ト謂フ」とある。これは、倭人のなかには呉の太伯の後裔、言い換えれば江南の人を祖先に持つという伝承があるという意である。この伝承は、江南からの稲作文化渡来の有力な裏付けとされている。
しかし、ある日突然稲作文化を携えた多くの人々が、一時に日本へ渡ってきたわけではなくて、これら大陸の農耕文化の波のうち、最も大きなうねりの一つが江南地方からのそれであったと考えてよい。それ故、「日本酒」造りの原型は、この稲作文化を構成する要素のなかから見いだすことができる。

「稲の日本史」 佐藤洋一郎著では、
弥生時代の人びとの中でもっともポピュラーであった植物資源はドングリの仲間であり、イネがこれに続くがそのウェイトは全体の中ではそんなに大きくない。弥生時代の食は、水田稲作が導入された後とはいえまだ採集に依存する部分が相当に大きく、栽培によって得られる資源の中でもイネに依存する割合が高いわけでもない。日本列島では農耕の開始や広まりは実にゆっくりしたものだった。としている。

黄河の下流の肥沃な土地で、約3000年前には稲作が始まったとされる。また緯度が揚子江より高く、温帯性の気候である。
渤海の北側離岸流から対馬海流に乗る。伽耶国あるいは新羅に到着する。伽耶国は鉄の産地なので、このルートで鉄器が伝来した可能性はあるが、稲作については文献資料は残されていない。

東シナ海に出帆し、黒潮の本流に乗ると、秋冬は強い偏西風により、日本列島沖合いを流される可能性が大である。台風に遭遇することが多い。鑑真はこのあたりより出帆し、何度も渡航に失敗している。また元寇の際にも南宋の船団は操船に苦労し、遅延したという記載がある。東シナ海に出帆した漁師の食料の籾が、黒潮に流され、九州に漂着して、自生したという説がある。

朝鮮併合時代に、朝鮮半島は日本総督府によって隅々まで水稲栽培や治水整備がなされた。韓国・朝鮮には農酒(マッコルリ)という濁り酒のような酒はあるが、それ以外に米を用いた紹興酒や清酒のような濾過した酒は今も昔も存在しない。それも半島にあった酒みたいなものに米を混ぜるようになったのは、併合以降である。

ところで、弥生時代の日本の人口は、稲作農耕の普及と国家の形成に伴って、人口はめざましく伸長し、5万9千人くらいになっていたと想定できるようです。

近年、日本海側の山口県から青森県に至る広域で、これまでの歴史学をひっくり返す新たな発見が起きている。

昭和53年(1978)、福岡県の板付遺跡において縄文土器だけが出土する地層から水田遺構が発見された。さらに昭和55年(1980)から翌年にかけて佐賀県唐津市の菜畑遺跡から、より古い時代の縄文土器と共に灌漑施設を伴う水田遺構も出土した。

NHKスペシャル『日本人はるかな旅4』イネ、知られざる一万年の旅(2001)で、「従来、日本列島の水田稲作は弥生時代(2300~1800年前)頃に、朝鮮半島からやって来た渡来人によって始まるというのが定説であったが、菜畑遺跡の発見はその常識を覆すことになった。時代はさらに300年遡り、水田を作った主体も日本列島在来の縄文人であることが分かった。」

『天孫降臨の謎「日本書紀」が封印した真実の歴史』関裕二は、

「めざましい科学の進歩によって、現代の日本列島の住民の遺伝子のなかに、想像以上に渡来系の血が混じっていることが徐々に明らかにされている。その比率は、縄文人を1とすると、弥生時代以降に渡来した人たちは2~3に上っていたと考えれている。この数字を見れば、渡来人が先住民を圧倒したと考えるのは当然である。」

崎山理氏は、「縄文人といっても単一の民族ではなく、北方系のツングース語に、南方系のオーストロネシア語が日本列島のなかで重なって「縄文語」が成立し、これが日本語になった、というのである。縄文期と弥生期の遺伝子の比率を見れば、渡来人の圧倒的な優位を想像しがちだが、渡来人たちは徐々に同化していったのであり、だからこそ、縄文人のつくり上げた「日本語」は、今日に継承されていったと考えられるわけである。」

DNA研究が進み、日本人の遺伝子はなんと16種類ものDNA研究のように2つパターンを持っていたことが分かってきた。少なくとも2つの民族同士の対立という単純な構図ではないので各地から渡ってきた人々によって日本人独自のDNAを持っていることが分かってきた。

紀元前三世紀頃、日本列島は、それまで長く続いていた縄文時代が終わりを告げ、弥生時代が始まる。弥生時代には、出土人骨に大きな変化が急激に表れていることがまずあげられる。これは、大陸から多くの人々の流入があったことを示しているものである。かつて朝鮮半島からというのが考えられていたが、後述のように骨格や血液型の分布から判断して、近年では中国大陸(特に江南地方)からと考える意見が有力になっている。
まず、山口県下関市豊北町の土井ヶ浜遺跡では、

日本列島の弥生人の骨格が朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨と極めてよく似た形質を持っていることが確認されたこと、稲作の導入の点と日本酒の誕生について、どうしても朝鮮半島説は不自然に思う点があるようだ。

紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がりました。初期の水田は、福岡市博多区にある板付遺跡や、佐賀県唐津市の菜畑遺跡など、北部九州地域に集中して発見されており弥生時代のはじまりです。弥生時代の前3~2世紀には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、次いで紀元前2世紀~紀元1世紀には同県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡からも広範囲に整然とした水田区画が見つかっています。水稲農耕は、かなりな速さで日本列島を縦断し伝播波及したといえます。
また、稲の伝来ルートについても従来は朝鮮ルートが有力視されていましたが、遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、朝鮮半島での確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり畑作米の確認しか取れない点である。

極東アジアにおける温帯ジャポニカ種(水稲)/熱帯ジャポニカ種(陸稲)の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部から当該遺伝子の存在が確認されない
ことなどの複数の証左から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート等)による伝来である学説が有力視されつつあります。従来の説とは逆に水稲は日本から朝鮮半島へ伝わった可能性も考えられています。弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない水稲の品種が確認されており、朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されています。後述の青銅器の伝来も古代中国に起源をもち、日本や朝鮮など東アジアで広く使用されたとされることと重なります。

弥生時代以前から稲作はあった

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弥生時代以前から水田稲作はあった

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これまでの固定観念を覆す新たなる大発見

近年、日本海側の山口県から青森県に至る広域で、これまでの歴史学をひっくり返す新たな発見が起きている。青森の三内丸山遺跡の発見(1992)や、島根県雲南市の加茂岩倉遺跡(H8・1996)では、これまでの全国で見つかった総数を出雲一か所で上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかったり、鳥取県米子市淀江町の伯耆・妻木晩田遺跡群(H10・1998)は、発掘当初国内最大級と注目された吉野ヶ里遺跡を5倍も上回る規模とされ、また同じく鳥取県鳥取市青谷町では、因幡・青谷上寺地遺跡は弥生時代後期の100人分を超える人骨が見つかった。日本で初めて弥生人の脳が3人分発見され、また110点に殺傷痕が見られ、倭国騒乱のようすを示す大発見である。これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

縄文時代から弥生時代に変化し、弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島以外から北部九州に移住することによって始まった時代であるとされてきた。縄文晩期から日本民族によって水田稲作は始まっていたことがわかってきた。稲作=水田稲作という図式でいえば、縄文晩期を除けば弥生時代に始まったとされた定説が年代が縄文晩期に遡っただけと言えるかも知れない。しかし、稲作は水田稲作とするのは正しくない。アジアには、例えば焼き畑のように、水田ではない環境で栽培されているイネがいたるところにある。

縄文人は山麓で原始的な狩猟採集をして、入江や海岸部では魚介類を食して暮らしていたと小中学校で教わってきた。ところが近年全国で見つかった新たな遺跡が、これまでの定説を覆していることは既に前項で述べてきた。

現在までに島根県や鹿児島県など全国で30ケ所を上回る縄文遺跡から、縄文前期(6,000~5,000年前)のプラントオパールによる稲作の痕跡がコンスタントに見つかってきていることから、日本の米作りは太古6千年前も縄文前期から途切れることなく現在まで連綿として続いていることがわかってきた。

日本には野生のイネがないことが、プラントオパール分析法んびよる稲作確定の根拠となっている。稲作を含む縄文農耕は、ほぼ確実な情勢となった。

ムラとクニの誕生

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集落(ムラ)の誕生
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集落(ムラ)の誕生

第一章 縄文期の章で触れたが、日本民族には複数のDNAがあるように、陸続きだったころから少しずつ北方や朝鮮半島、あるいは南方から海を渡ってやって来た人々がいた。やがて日本列島は大陸と離れ、長い年月の間に縄文人というオリジナルな文化を持った日本民族を形成したのだ。弥生時代においても少しは渡来人はいただろう。しかし、それまでと同様、当時の縄文総人口に比べてごく少数であった。朝鮮半島から、あるいは秦氏や呉に滅ぼされた越人が江南から大量にボートピープルがやって来て稲作などをもたらし村ができていったのが弥生時代だという説は、縄文晩期から水田稲作やクリなどを栽培していた遺構が発見されてきたことで覆されている。

“日本人が渡来人達によって稲作や文字・技術がもたらされた”
この史観がシナや朝鮮半島にどこか敬意や遠慮をする観念をいだいてマインドコントロールされてきたのではないだろうかと思う。

縄文晩期には佐賀県唐津市の菜畑遺跡で現時点では日本最古の灌漑施設を伴う水田遺構が見つかった。北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がみつかっています。

弥生時代中期前半には、北九州一帯の人口が急増し、「邑(ムラ)」単位から共同体になり、いくつかの共同体がさらに地域国家が形成されるようになります。「ムラ」は群れ(ムレ)から派生したといわれています。初めて王が生まれたのは、九州北部の奴国と伊都国の2カ所とみられています。最初の弥生人が列島に降りたってから約900年後の紀元前50年ごろのようです。

最初の王になったのはその最初の弥生人の子孫かというと、どうもそうではないようです。弥生の王は、農具はもたらしましたが、自衛のために武装するという発送はあまりなかった。しかし、弥生の王は、青銅器の武器で身を飾っっていたことが墓の発掘調査から浮かび上がります。第一次弥生人が運んできたものは、ほとんどが朝鮮半島製なのに対して、王の手元には鏡など中国製の物品が目立ちます。

5.王の誕生

弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、

「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」

しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。

血筋など関係のない実力主義社会なのであるから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。

リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。

首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。

環濠集落

弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。

しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。

また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。

弥生文化のルーツは朝鮮や中国亡命人たちではない

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きる。現在の日本列島の地形ができあがった。新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。稲作も水田稲作になったのもこの時期ではないだろうか。

半島から伝わったのではなく、新羅や百済、加羅は倭人が先住人を巻き込んで築いた小国がもととなっている。つまり、百済や新羅から伝わったのではなく、倭が半島南部を開拓したので逆さまなのである。

これは倭国(日本)も朝鮮半島も、まだ「クニ」と言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が東シナ海沿岸の半島南部や九州、西日本に伝わった時代は大差がないと考えられる。縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいる。弥生時代は700年かけて先住の縄文人と少数の渡来人がゆっくり日本列島に広がっていき、水稲耕作と道具いう食文化を通じた緩やかな統合だったのです。

丹生(にゅう)と日本海水銀ベルト

[wc_skillbar title=”丹生(にゅう)と日本海水銀ベルト” percentage=”100″ color=”#e45e32″] (丹色)
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丹波国は、古くは但馬・丹後を含む大きな国だった。

『但馬故事記』は、天照国照彦櫛玉饒速日天火明命が、この国を国作大巳貴命に授かり、妃・天道姫命とともに坂戸天物部命他、11人等の臣を引き連れて、天磐船に乗り、田庭の真名井原に降りるところから始まる。
これより先に豊受姫命は高天原より降り、伊邪那子岳にいて、農耕を営んでいた。(式内比沼麻奈為神社:京都府京丹後市峰山町久次 伊邪那子岳は比沼麻奈為神社後方の山。籠神社奥宮 真名井神社の説もある。)
「永世なり。青雲志楽国」という。故にこの地を名づけて、志楽国と云う。(今の舞鶴市志楽がある)

田庭(たには)と書いて発音は「たにわ」。いつからかは分からないが、早い頃に丹波と書いて「たんば」と読むようになった。丹の字を用いるようになったきっかけに因果関係があるとは聞いいたことがないが、丹生(にゅう)という地名と神社が、近畿地方の奈良県、和歌山県をはじめ、日本海側の若狭から丹後、但馬にかけて多いことは、丹の字を用いる理由に関係があるのではかろうか。丹波の「波」は日本海を連想する。
丹生(にゅう)とは何か。

丹は血の色でもある朱のことで、これは、活力と蘇生、死との対決、死霊封じ、太古の人々は朱を呪術具とした。丹色は日の丸にも使われ日本を代表する赤色。ただし、今の国旗色は、法律では「紅色」となっており、JIS慣用色名ではマンセル色体系で 3R 4/14 であるが、より明色に見える朱色系の金赤(同 9R 5.5/14)が使われることも実際には多い。

葬る遺体に施朱をする風習があった。再生を願い、死霊を封じるこの風習は、北海道南半部から東北北部と九州北部の二ヶ所で、縄文後期に登場した。九州では弥生時代に引き継がれていったが、北部では終焉してしまった。

日本海に多い丹生地名

丹生とは朱(しゅ)のことで赤土と水銀が採れた場所である。
福井県嶺北地方の西部にも丹生(にゅう)郡がある。全国的に朱の原料の辰砂を産出する水銀鉱床群の分布する地域には丹生、丹生川、丹生神社が同じように分布している。

かつて、「日本海側にある似た地名」でくわしく書いたので簡単に述べると、若狭湾一体から但馬北部には丹生に因む地名や天日槍ゆかりの神社などの新羅・加耶系神社が多い。

越前市丹生郷町(ニュウノゴウチョウ)
福井県丹生郡(福井市)
福井県三方郡美浜町丹生 丹生神社
福井県小浜市遠敷(オニュウ)、丹生、丹布 丹生神社
舞鶴市大丹生(オオニュウ)
舞鶴市浦入(『加佐郡誌』には浦丹生(ウラニュウ)(大丹生と隣同士の集落)
浦入遺跡 5世紀の鉄製品が出土する日本海側最古の鍛冶炉(5世紀後半)と奈良~平安時代の製塩炉・鍛冶炉遺跡、杉の丸木舟(5300年前のもの。わが国最古・最大級といわれる外洋舟である。)

また丹生に似た発音の「ニョウ」という地名が多い。
祢布村があった(舞鶴市赤野)
舞鶴市女布(ニョウ)

京丹後市久美浜町女布(ニョウ) 式内賣布神社

(京都府京丹後市網野町木津 式内 売布神社は久美浜町女布 式内 売布神社の山の反対側)

豊岡市日高町祢布(ニョウ) 但馬国府国分寺が置かれていた。式内賣布神社
兵庫県美方郡香美町香住区丹生地(ニウジ) 丹生神社

朱の原料

天然の赤鉄鉱を砕いた鉄丹(ベンガラ)は縄文早期、同じく辰砂を砕いて得る水銀朱、他に鉛丹等が主な原料である。辰砂は硫化水銀である。常温で液体の水銀は、天然に存在するが、多くは辰砂を製錬して入手する。

朱の意味 日本と西洋

万葉の時代、朱と白が祖先達の愛好する色彩であり、今日の我々の意識にも入っている。国旗の日の丸は言うにおよばず、巫女の装束、祝事の紅白の垂れ幕がその典型であろう。 歌人は、朱・赤の色を〈にほふ〉〈てる〉〈ひかる〉〈はなやか〉と詠い、白〈きよし〉〈さやけし〉〈いちしろく〉と詠じた。

赤という字は,大と火を組み合わせたもので、日本語の〈あか〉は〈あけ〉と同じで (夜明けの〈あけ〉,あかつきの〈あか〉),太陽と結びつく。
一方、赤を意味するヨーロッパ語の多く (red, rot,rouge,……) は,血を語源とする。流石に殺し合いの民を思わす。

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