戦時国際法と戦争犯罪

今ようやく本当の近現代史が生まれつつある


概 要

>目次

  1. 戦時国際法と戦争犯罪
  2. 戦勝国は不利な公文書を秘匿する
  3. 欧米のアジア植民地支配
  4. 対日戦に触れるな
  5. 皇国史観という言葉はなかった
  6. 自虐史観と自由主義史観
  7. 侵略国家にされた日本
  8. 補 足
 日本においていちばん近い国は、中国・韓国・北朝鮮。同じアジアで漢字を使用し、古来から深く関わりを持ってきた国家ですが、それぞれ歴史感の問題などまだまだ多くの問題があります。▲ページTOPへ

1.戦時国際法と戦争犯罪

人間は長い歴史の中で、国家や民族の利害の衝突から、絶え間なく戦争を繰り返してきました。そこで、戦争のやり方を国際的に取り決めたルールの制約のもとに置こうとする知恵が生まれました。このルールを戦時国際法といいます。1907年にオランダのハーグで締結されたハーグ陸戦法規は、その代表例です。

戦時国際法では、戦闘員以外の民間人を殺傷したり、捕虜となった敵国の兵士を虐待することは、戦争犯罪として禁止されました。一方、軍服を着ていない者に武器を持たせたり戦闘に参加させることは禁じられ、それを捕らえた側にはスパイやゲリラとして処刑することも認められていました。しかし、二つの世界大戦を通じて、これらのルールはしばしば破られました。実際には、戦争で、非武装の人々だけに対する殺害や虐待を一切しなかった国はありませんでした。日本軍も、戦争中に侵攻した地域で、捕虜となった敵国の兵士や非武装の民間人に対しての不当な殺害や虐待をおこなって多大な惨禍を残しています。▲ページTOPへ

1.戦勝国は不利な公文書を秘匿する

国際政治学、国際関係史、文明史の中西輝政氏はこのように書いています。
かつて留学した西欧の大学で、指導教官から「現代史というような学問は本当はないのですよ。最低50~60年経たないと大切な資料は出てこないからです。つまりそれは、本当の歴史ではないのです。」と言われたことがあると。とくに、このことは二十世紀の世界大戦や冷戦といった世界史的な出来事についてあてはまると思います。
良く近代史の書き換えということが言われますが、そもそも、まだ本当の意味で「書かれた歴史」というものはないのです。従って「書き換え」ということもあり得ないわけです。少なくとも、二十世紀の戦争や第二次大戦をめぐる歴史は、本当は今ようやく書かれ始めている時期を迎えているのです。
歴史は資料によって書かれるものです。「近現代史」といわれるものについては、その重要な資料は各国の政府が作成した公文書ということになります。しかしどの交戦国の政府も、戦争ではみな当事者ですから、自国に不利になるような文書の公開は可能な限り先に延ばそうとします。先の戦間期のフランスや日本、ドイツのように外国部隊に占領され押収されない限り、容易には自国の国益んい大きなマイナスとなる資料の公開はしないものなのです。
戦勝国というのは、自国に有利な戦後の国際秩序(その中には当然、歴史観も含まれる)を、どれほど必死になって守ろうとするのか、そのためには、いかに手の込んだ工作やトリックを使うものであるか、ということが如実にわかるのです。空爆・原子爆弾投下とシベリア抑留一方、第二次世界大戦末期には、アメリカが東京大空襲をはじめとする日本やドイツの多数の都市への無差別爆撃を行い、広島と長崎には原爆を投下し民間人を無差別に殺しました。また、ソ連は日本の降伏後、日ソ中立条約を破って満州や南樺太および千島列島に侵入し、日本の民間人に対する略奪、暴行、殺害を繰り返しました。そして、日本兵の捕虜を含む約60万人の日本人をシベリアに連行して、苛酷な労働に従事させ、およそ1割を死亡させました。

二つの全体主義の犠牲者

ナチスドイツは、第二次世界大戦中、ユダヤ人の大量虐殺を行いました。これはナチスドイツが国家として計画的に実行した犯罪で、戦争にともなう殺傷ではありません。ナチスはまた、自国の障害者や病人を注射などで薬殺し、ジプシーと呼ばれた移動生活者も大量に殺害しました。しかし、戦前からヨーロッパのどの国でもユダヤ人を迫害していました。日本は日露戦争の際にユダヤ人が高額の戦争資金を調達してくれたこともありますが、ポーランドやシベリアのユダヤ難民を助けています。

共産党の一党独裁体制が確立したスターリン支配下のソ連では、富農撲滅の名のもとに、多数の農民が処刑され、また餓死させられました。共産党の幹部の粛清も繰り返され、多くの政治犯とその家族が強制収容所に送られましたが、ほとんどは生きて戻りませんでした。

二つの世界大戦は各国に大きな被害をもたらしましたが、そればかりでなく、ファシズムと共産主義が、戦争とは異なる国家の犯罪として、膨大な犠牲者を出したことも忘れてはなりません。

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3.欧米のアジア植民地支配

高山正之氏(元産経新聞ロサンゼルス支局長など)は、欧米のアジア植民地支配のポイントは愚民化政策だったといいます。知恵は白人のもので植民地の民のものではありませんでした。近代化の目覚めを奪うために、ただ伝統と文化を重んじさせました。インドを支配していたイギリスは、衰退気味だったヒンズー教を復興させ、イスラム系やさらに別シーク派の人たちを同じ政治区分に住まわせることで、四億の民が宗教で対立して争っている限り、団結して宗主国イギリスに抵抗する事態を避けさせました。

しかしヒンズー教の復活はこの宗教が内包するカーストも甦らせてしまいました。李氏朝鮮は両班(ヤンバン)以下四つの身分を据えただけで深刻な停滞を招いた事を考えれば、一口に130といわれるカーストがどれほどインド社会を縛ってきたかは想像に難くありません。同じように地方言語も尊重させた結果、現在の紙幣に16種の言葉が書かれているように、インドは共通の母国語を持つ機会を完全に失ってしまいました。

共通語がなければ国家意識も連帯感も希薄になります。宗教と言語。この二つの分団の結果、イギリスはたった二千人の文官だけで四億人のインドを支配できたのです。オランダが350年支配したインドネシアも共通語を持っていませんでしたが、趣旨は同じです。

しかしインドネシアからオランダを追った日本はジャワ語を共通語に採用し、学校を作ってたった三年で定着させました。共通語が連帯意識と祖国愛を育むことは、終戦後帰ってきた宗主国オランダと四年間も戦い抜き独立を果たした事実によって見事に証明されます。

インドに次いでビルマ(ミャンマー)を支配したイギリスは、単一宗教単一民族の国を国王をインドに追い出して、インド人、華僑を送り込み、山岳民族をキリスト教化して軍、警察など治安機関に据えました。一瞬にして他民族他宗教国に変貌し、この国のビルマ族は農奴にまで落とされました。

フランスの仏領インドシナ(ベトナム)もビルマ式に倣っています。まず皇帝をアルジェリアに流して国民の心の支えを抜き、次ぐに華僑を大量に入れて代理支配させました。イギリスのアヘン貿易をうらやましく感じていたのでアヘン専売公社を設立。ハーグ条約で売買が禁止されても販売を続けました。コーヒーの強制栽培も収益を上げましたが、最大の収入源は徴税でした。人頭税、葬式税、結婚税など思いつく限りの税が課せられ、滞納すれば即刑務所行きでした。そのために「学校よりも多くの刑務所が建てられた」という仏女性記者A・ビオリスの報告書にあります。

アメリカ軍がハワイを占領する際に多くのハワイ国王や原住民を迫害し、日本との戦争が勃発すると強制的に併合しました。アメリカのフィリピン植民地化は経済的搾取を基本とする欧州諸国とは違ってアジア進出の足掛かりという戦略的政治的意図からでした。反対するフィリピン民族軍を徹底的に叩き、拠点であったパタンガスは焼き払われ数万人が餓死しました。米兵が殺された報復にレイテ、サマール両島の住民は皆殺しにされました。イギリスが印度で捕虜でありながら大砲の前に吊して吹き飛ばして見せました。それらは白人に逆らえば残忍な報復があることを植民地の民に刷り込み、恐怖で押さえ込む植民地統治法のひとつです。

そんなアジア諸国の民に大きな衝撃を与えたのが日露戦争だったと、ミャンマーのヤンゴン大タット・タン教授はいいます。▲ページTOPへ

4.対日戦に触れるな

 中西輝政氏は、こう記しています。
第二次大戦については戦勝国側の重要資料が、未だ十分に公開されているとはいえません。ソ連崩壊によってこの十年、大戦期のソ連に関する公文書資料がほんの少しですが公開されました。その中からいくつもの驚くべき新事実が明らかになりました。
たとえば1938(昭和13)年の日ソ間で起こった「張鼓峰事件」については明らかにソ連側が仕掛けた戦いで、日本は純然たる被害者だったことが新たに分かったのです。しかし東京裁判では、これも「日本の侵略」として断罪されており関係者の処罰も行われました。また数年前に公開された旧ソ連軍の資料からは、戦後ずっと「日本側の一方的敗北」とされてきたノモンハン事件では、実はソ連側の方がはるかに大きな損害を被っていたことも明らかになりました。
そして言うまでもありませんが、現在の中国はほとんどといってよいほど資料公開をしていません。もし旧ソ連のように中国共産党体制が崩壊したときは、日中戦争についてどれほどの新事実が出てくるか、まだまだ闇の中と言わねばなりません。
情報公開に熱心なはずのアメリカやイギリスについても、ドイツの場合と比べ、なぜか日本が関わる戦争についての資料を、長く秘匿しています。たとえば、1928年の張作霖爆殺事件について、当時のイギリスの資料の中に、ソ連の関与の可能性に触れたものがあるのですが、それさえも2007年まで非公開とされてきました。1979年から90年まで足かけ12年をかけてイギリス政府の特別許可を得て、膨大な非公開文書をもとに書かれた『第二次大戦におけるイギリスの諜報活動』(全五巻)は、ドイツと米英の戦いについては、きわめて多くの新事実を明らかにしていますが、日本に関わるものについてはほとんど触れていません。同書の編集代表であったケンブリッジ大学のヒンズリー教授は、何度も「対日戦については触れてはならない、とアメリカ強く申し入れてきている。アメリカはどうして日本をもっと信用しないのか、私にはわからない」と語っています。
おそらく真珠湾関係の秘密やその他、多くの対日諜報活動が明らかになるのを恐れたのでしょう。しかしなぜ日本に対してだけ、それほど恐れるのか不可解というしかありません。またアメリカ政府は対日占領政策についても未だに大量の文書を非公開扱いにしると言われています。
いずれにしても、今後、日本の近現代史について、戦勝国側の資料公開について日本人はもっと強い関心を向けなければなりません。今ようやく初めて本来の歴史が書かれる時代を迎えており、しかもこの機会を逃すと、永遠に闇に葬られることがずい分多いと思われるからです。▲ページTOPへ

5.皇国史観という言葉はなかった

皇国史観とは、日本の歴史を天皇中心に捉え、万世一系の天皇家が日本に君臨することは神勅に基づく永遠の正義であり、天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値であるとする価値判断を伴った歴史観そうした天皇に忠義を尽くすことが臣民たる日本人の至上価値だとする歴史観。
南北朝時代に南朝の北畠親房の『神皇正統記』がその先駆例とされ、江戸時代の水戸学や国学、幕末の尊王攘夷運動によって思想的・政治的影響力が強まり、明治維新後、政治体制によって正統な歴史観として確立した(現実の天皇家は北朝の流れであり、北朝の天皇の祭祀も行っていた)。
しかし、当初祭政一致を掲げていた明治政府は、近代国家を目指して政教分離・信教の自由を建前に学問の自由を尊重する方向に政策転換し、明治十年代には記紀神話に対する批判など比較的自由な議論が行われていた。また考古学も発展し、教科書には神代ではなく原始社会の様子も記述されていた。
しかし明治24年(1891年)東京帝国大学教授久米邦武の「神道は祭天の古俗」という論文が皇室への不敬に当たると批判を受け職を追われ、学問的自由に制限が加わるようになる。このような変化は、神道内においては伊勢派が出雲派を放逐したことと軌を一にする。その後大正デモクラシーの高まりを受けて歴史学にも再び自由な言論が活発になり、マルクス主義の唯物史観に基づく歴史書も出版されたが、社会主義運動の高まりと共に統制も強化された。世界恐慌を経て軍国主義が台頭するに及び、昭和10年(1935年)、憲法学者美濃部達吉の天皇機関説が学会では主流であったにも拘らず問題視されて発禁処分となり、昭和15年(1940年)には歴史学者津田左右吉の記紀神話への批判が問題となり著作が発禁処分となった。一般の歴史書でも、皇国史観に正面から反対する学説を発表する事は困難となった。19世紀末から1945年の終戦まで、学校で用いる歴史教科書は日本神話に始まり天皇家を中心にした出来事を述べ、歴史上の人物や民衆を、皇室に対する順逆によって賞賛あるいは筆誅を加える史観によって記述していた。(国定教科書)戦後は、思想、信条の自由が保障されると、戦前は取り締まりの対象であったマルクス主義の唯物史観が興隆する。これにより、皇国史観下ではタブー視されていた古代史や考古学の研究が大いに進展した。これら戦後の歴史学は一般的に「戦後史学」と呼ばれ、こうした戦後民主主義の流れの中で、皇国史観も衰退することとなった。

ところが、『産経新聞』紙上で連載された「教科書が教えない歴史」の反響から執筆者達によって作られた新しい歴史教科書をつくる会(つくる会)は戦後民主主義教育について、近代の戦争と植民地支配への反省を過度に強調する歴史教科書は歴史認識を誤認させ、敗戦を節目として神話時代から続いている日本の伝統ある歴史を貶める「自虐史観」(東京裁判史観)または「暗黒史観」であるとして、つくる会による『新しい歴史教科書』が作られた。2001年に文部科学省の教科用図書検定に合格し、2002年から一部の中学校などで使用されている。これは戦時体制下で過度に利用されたが、皇国史観それ自体は極度に否定されるものではなく、長い日本の歴史の歩みの中で国民に継承されてきた伝統、文化的な価値観として肯定的に評価するものである。

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6.自虐史観と自由主義史観

自虐史観(じぎゃくしかん)とは、第二次世界大戦後の日本の歴史学界において主流であった歴史観を「自国の歴史の負の部分をことさら強調し、正の部分を過小評価する歴史観」であるとの評価を持たせて表現する場合に用いられる呼称である。自由主義史観研究会を主宰した藤岡信勝によって唱えられた。
第二次世界大戦敗戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)による統制の下で、歴史学界や教育界(学校教育の現場、日本教職員組合(日教組)に入っている教師ほか)などでは「なぜ敗戦に至ったのか」という視点から過去への反省がなされ、戦前の日本国民の価値観は徹底的に覆される事になった。アメリカに比べて日本の近代化の遅れ、民主主義の未成熟などが問題とされることが多かった。また、皇国史観が歴史学研究に影響を及ぼし、その発展が阻害されたという反省からマルクス主義の影響を強く受けた歴史研究が主流となった。
しかしその反動が行き過ぎたため、日本の伝統・文化などの世界に誇るべき歴史の再評価の気運が生じ、「新しい歴史教科書をつくる会」などの運動が活発となった。「つくる会」は、日本の誇るべき歴史を貶める歴史認識を「自虐史観」とし、「戦後の歴史教育は日本の歴史の負の面ばかりを強調し過ぎ、あまりにも偏った歴史観を自国民に植え付ける結果となった。」と主張する。「自虐史観教育を受けた結果、自分の国の歴史に誇りを持てない」、「昔の日本は最悪だった」、「日本は反省と謝罪を」という意識を植え付けられ、「いわゆる戦後民主主義教育によって誤った歴史観(自虐史観)が蔓延した」として、「暗黒史観」「土下座教育」の改善を主張している。
これに対して、自由主義史観は、藤岡信勝・東大教授(当時)の唱えた歴史検証法。歴史を動かす要因として「人物」を重視し、「『偉大な人物』が歴史を切り開く」との歴史観に立っている。▲ページTOPへ

7.侵略国家にされた日本

 欧米諸国が西から津波のように押し寄せ、アメリカが太平洋を東南から駆け上がってきます。北からはソ連が迫ってきます。そういう直接的な脅威を感じ、断固日本人のサムライの気風が立ち向かったのがわが国の近現代史で、中国大陸との関係も満州事変以後というような短い時間尺度で見るべきではないでしょう。清朝の時代は、中国史の中でも比較的に良い時代なのですが、それでも内乱と疫病、森の消滅と巨大水害、いなごの害など数千万単位の餓死者を出し続けた不幸な国土でした。強盗団がはびこる無法社会で、幕府治世下の法治国家を生きていた日本人が明治になっていきなり接触するにはあまりに放埒すぎました。人類史上最大の内乱といわれる太平天国の乱は十~十五年も続き、人口四億のうち五千万から八千万もの死者が出ました。中華民国になってからも内乱はやみません。中国はそのころまだ国家ではないのです。
中国の内乱に介入すべきではありませんでした。清朝末期から国民党と中国共産党の殺し合いを経て、文化大革命に至るまで内乱の連続で、皇帝や政権が代わるたびに何百万人を虐殺してきた歴史があり、最近でもチベット、ウイグル、内モンゴルなど、統一といって侵略によって民族を抹殺してきた歴史があり、天安門事件や農村での土地問題によって自国民でさえも民主化運動や共産党の意に添わない者は虐殺を繰り返しています。日本の文明とは異質な大陸の長い歴史に、過去のほんの一時期巻き込まれたに過ぎないのです。
ちょうど同時期に、ドイツとの戦争を始めたソ連とイギリスはそれぞれ異なる動機から、大陸に介入した日本の戦火の拡大を期待し、謀略の限りを尽くします。ソ連は日本の北進を防ぐ必要がありました。イギリスは欧州戦線にアメリカを引き込むために、中国に好意と野心を持つアメリカの反日感情を可能な限り刺激する必要がありました。イギリスとアメリカは連合して蒋介石を支援し、ソ連はルーズベルト政権の中枢にコミンテルンのスパイを送り込むことに成功しました。それらに対して日本の政治と外交の受け身の弱さでした。国際政治の修羅場で国益を守るため粘り腰でしたたかに自己主張する強さの欠如です。
満州事変以後、日本が大陸で展開したとされる国家悪など、世界史的に見れば何ほどのことでもありませんが、戦前に「侵略」という文字は欧米にのみ与えられていました。例えば『英国の世界侵略史』『白人の南洋侵略史』『米国東亜侵略史』『露西亜帝国満州侵略史』『米英東亜侵略史』『印度侵略非史』『西洋文化の支那侵略史』など数え切れぬ本がGHQによって没収、廃棄処分(焚書)されてしまいましたが、これらを見れば欧米諸国が「侵略」した側であって、それ以外ではありません。ところがいつのまにか侵略したのは日本だということにされてしまっています。
「侵略」や「天皇制」「皇国史観」も戦前は使われていません。「天皇制」はコミンテルンの指令書に出てくる「君主制」の訳語で、打倒のための革命用語が戦後に流布したものだそうです。戦前の日本人はこんな冷たく無礼な言葉を用いるはずがなく、「皇室」といっていました。戦後の占領支配は戦前まであった日本人の世界史を長い時間で計る目を消し去りました。日露戦争後に日本が取り込まれた英米の金融資本主義の罠、ユダヤ人の暗躍、コミンテルンの陰謀など。これらすべてを歴史として描くべきです。近現代史を、日本の軍部の行動と国内政治だけを描くような歴史なら子どもたちにむしろ教えない方がよいと思います。一方の資料だけを見て、本当の意味が分かるはずはないのです。▲ページTOPへ

8.補 足

アジア圏は欧米諸国に植民地化されていた歴史を持ち、日本がこの体制を解放する立場なのか、それとも新たな支配者として居座ることを目差したものかという、相反する見方があるのは当然です。
たとえば、台湾現総督の馬英九氏は、国民党主席就任後の2005年8月には、「南京大虐殺や尖閣諸島での日本の言動は、大陸、台湾双方の人々の心を逆なでする」、「国民党は将来、尖閣諸島の問題解決に注力する。私は尖閣諸島についての専門的知識を持っている」 と発言し、また、日本の植民地統治にも厳しい態度をとっています。
しかし、総統候補になってからは、「許せるが、歴史は忘れない」、日本を訪問した2007年11月21日、同志社大学での講演では「19世紀、20世紀の亡霊はもう過去のことだ」、「過去は白と黒以外にグレーもある」などと述べるなど、日台関係を強化する必要を強調しました。また、2006年には一度否定的な意見を述べた日米安保条約も支持すると立場を転換させました。
われわれは、歴史のなかで過去を葬り消すことはできないし、客観的な史実と研究を行いつつ、国家のために政治的に利用するのではなく、学びながら相互の発展につなげていかなければならないと思います。引用:『靖国問題と中国』岡崎久彦引用:『中国・韓国反日歴史教育の暴走』黄文雄(台湾出身。早稲田大学商学部卒、明治大学大学院卒、拓殖大学日本文化研究所客員教授、評論家)
『日本人の歴史教科書』自由社出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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北近畿鉄道物語-福知山線

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

JR福知山線・舞鶴線

JR福知山線

福知山線の発祥は、1891年(明治24年)に川辺馬車鉄道が開業させた尼崎(のちの尼崎港)~伊丹間の馬車鉄道である。のちに摂津鉄道と改称して馬車鉄道を蒸気動力の軽便鉄道に改築し尼ヶ崎~池田(現在の川西池田)間を開業させた。当時の池田駅は呉服橋西詰付近にありましました。

摂津鉄道は、大阪から舞鶴までの鉄道を計画していた阪鶴鉄道に合併され、改軌(レール幅を広げる)した上で宝塚駅まで開業。以後順次延伸されて、1899年(明治32年)には福知山南口駅(堀内田町付近)まで開通しました。

1904年(明治37年)、軍部からの要請で対ロシア戦略の軍用鉄道として舞鶴鎮守府までの開通を急がされた福知山~綾部~新舞鶴(現在の東舞鶴)間が官設で開通。阪鶴鉄道も現在の福知山駅(天田)まで延伸し、福知山~新舞鶴間の貸与を受けて、大阪~舞鶴間を結ぶ鉄道が完成しました。
1907年に国有化され、官設区間とあわせて阪鶴線と呼ばれていましたが、山陰本線の京都~出雲今市(現在の出雲市)間が1912年に開通したのを機に、神崎(かんざき:現在の尼崎)~福知山間、塚口~尼崎間が福知山線となりました。

1986年(昭和61年)11月1日、全線電化完了と伴いL特急「北近畿」運転開始。東海道本線の大阪~尼崎間を含む大阪 ~篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称がある。阪急電鉄にも宝塚線があるため、混同を避けるために愛称に「JR」と付けています。また尼崎~谷川間が大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなって、大阪と北近畿を結ぶ路線であると同時に、兵庫県東部の各都市から大阪への通勤・通学路線となっています。

武庫川、由良川など川沿いを進むため、生瀬 – 道場付近では武庫川の渓流の眺めを楽しめたりするなど、のどかなローカル路線の体であったが、宝塚~新三田間の複線電化を機に路線短縮化と客車普通列車らは姿を消し、沿線住宅開発の進展とJR東西線の開業などにより新型電車が行き交う通勤路線(アーバンネットワーク)となっています。太平洋と日本海を分ける本州で最も低い分水嶺の氷上(石上駅)を通るため、高低差やトンネルは少ないが、106.5kmながら直線区間がなくカーブが多い。
北近畿ビッグXネットワークの一角として以下の優等列車が運行されています。2004年10月16日に急行「だいせん」が廃止されてからは、夜行列車の運転は無くなり、昼行列車のみの運転となっています。

  • エル特急「北近畿」(新大阪 – 福知山・豊岡・城崎温泉:10.5往復)
  • 特急「文殊」(新大阪 – 北近畿タンゴ鉄道 – 天橋立:1往復)
  • 特急「タンゴエクスプローラー」(新大阪 – 北近畿タンゴ鉄道 – 宮津・豊岡:2往復)

路線データ

管轄(事業種別)西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
路線距離(営業キロ)106.5km
駅数30駅(起終点駅含む。JR宝塚線としては23駅)
複線区間尼崎 – 篠山口間電化区間全線電化(直流1500V)
最高速度120km/h

※尼崎 – 新三田間はJR西日本大阪支社の直轄、新三田 – 福知山間は両端の駅を除き同・福知山支社篠山口鉄道部の管轄である。

東海道本線の大阪 – 尼崎間を含む大阪 – 篠山口間にJR宝塚線(ジェイアールたからづかせん)の愛称を持っています。また尼崎 – 谷川間は大阪近郊区間に含まれ、JR宝塚線の区間はアーバンネットワークの路線の一つとなっています。路線の起点は尼崎であるが、全ての列車が東海道本線経由で大阪駅、またはJR東西線と直通しています。

北近畿(きたきんき)とは、西日本旅客鉄道が新大阪駅~福知山駅・豊岡駅・城崎温泉駅間を福知山線(JR宝塚線)・山陰本線経由で運行するエル特急の名称である。北近畿ビッグXネットワークを形成する列車の1つである。

イメージカラーは黄色。走行路線の一つであるJR宝塚線のラインカラーにちなんでいる。

2015年10月31日より特急
北近畿」は廃止され、特急「こうのとり」を運用開始。

こうのとり 287系

写真:JR西日本

停車駅
新大阪駅 – 大阪駅 – 尼崎駅 – 宝塚駅 – 三田駅 – (新三田駅 – 相野駅) – 篠山口駅 – (谷川駅) – 柏原駅 – (石生駅 – 黒井駅 – 市島駅) – 福知山駅 – 和田山駅 – 八鹿駅 – 江原駅 – 豊岡駅 – 城崎温泉駅
括弧内の駅は一部列車が停車。

JR舞鶴線

舞鶴線(まいづるせん)は、京都府綾部市の綾部駅から京都府舞鶴市の東舞鶴駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)。
日本海軍の舞鶴鎮守府が置かれ、軍港として発展した舞鶴への鉄道として建設された。かつて出征者や引揚者の輸送で賑わった路線も現在は舞鶴市などへのビジネス利用や丹後・若狭地方への観光路線となっています。

路線データ
管轄(事業種別)西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
路線距離(営業キロ)26.4km
駅数6駅(起終点駅含む)
複線区間なし(全線単線)
電化区間全線(直流1500V)

歩み

全区間JR西日本福知山支社の直轄である(1991年4月から2006年6月までは、同支社舞鶴鉄道部の管轄であった)。
京都 – 東舞鶴間に特急「まいづる」と「タンゴディスカバリー」が合わせて上り7本、下り8本運転されています。なお、土曜・休日・夏季には「まいづる」のうち1往復が小浜線の小浜駅まで乗り入れ、観光需要に応えています。
他の北近畿方面特急と異なり、大阪方面の列車は設定されていない(過去には「エーデル北近畿」として東舞鶴駅まで乗り入れていた時期もあった)。ちなみに東舞鶴 – 大阪間の距離は福知山経由 (152.9km) よりも京都経由 (145.4km) のほうが若干短い。

元は阪鶴鉄道・京都鉄道が計画していた路線だが、日露戦争を控え着工を急ぐ必要性から1904年に官設で福知山 – 綾部 – 新舞鶴(現在の東舞鶴)間と支線が開通、阪鶴鉄道に貸与されて開業した。支線として舞鶴港線(西舞鶴 – 舞鶴港間)や、出征者や戦場からの引揚者を運んだ中舞鶴線(東舞鶴 – 中舞鶴間)などを有していましたが、1985年までにすべて廃止。

摂津鉄道

川辺馬車鉄道会社が1891年(明治24年)に開業した尼崎~伊丹間の馬車鉄道を、軽便鉄道化したもの。当時の法律の制限があるため、川辺馬車鉄道の解散、新会社の設立の手順を踏んでいます。1893年(明治26年)12月に開業。伊丹~池田(川西池田)間に新線路を追加し、尼崎~池田を1日13便(尼崎始発:6:05 最終発:23:02)で運行しました。ただし、川辺馬車鉄道では許されていた平面交差が認められず、汽車が官線をまたぐことは許可されなかったため、長洲駅を官線(東海道本線)の北側と南側の2か所に分けて、乗客には歩いて乗り替えを行うこととなりました。興味深いことに貨物のみの通過は認められていた。馬車鉄道で尼崎~伊丹間が1時間を超えていたものが、わずか18分で交通できるようになりました。

1897年(明治30年)2月に阪鶴鉄道会社に合併されることとなる。

摂丹鉄道

1889年(明治22年)に設立された。兵庫県尼崎市(神崎)から京都府舞鶴市への鉄道建設をめざしたが免許は却下された。川西馬車鉄道(後の摂津鉄道)を設立した小西壮二郎(白雪/小西酒造)ら30名が発起人となり、1889年(明治22年)4月29日に設立された。川西馬車鉄道の計画を延伸する形で、当時、京都府第二の都市で、軍港として発展が見込める舞鶴へ至る鉄道敷設を目的としました。摂丹鉄道のほかにも、京鶴鉄道(京都~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~綾部~舞鶴)、南北鉄道(加古川~舞鶴)、播丹鉄道(姫路~生野~舞鶴)の4つの民営鉄道が舞鶴への鉄道敷設に名乗りをあげており、積極的な免許許可運動が展開された。

しかし、いずれの計画も採算困難であると予想され、また複数路線の並立で共倒れになると考えられたためいずれの路線も却下された。なお、摂丹鉄道が却下されると、小西らは再び川西馬車鉄道を推進しており、摂丹鉄道の基本構想は後の阪鶴鉄道に引き継がれています。

阪鶴鉄道

阪鶴鉄道(はんかくてつどう)は、大阪から福知山を経て舞鶴を結ぶ鉄道を運行していた鉄道会社。尼崎(のちの尼崎港)~池田(現在の川西池田駅)間で営業していた摂津鉄道に出資していた小西新右衛門らが大阪と、軍港を擁し日本海側の主要都市の1つであった舞鶴を結ぶ鉄道を計画。1895年(明治28年)に設立。

1897年(明治30年)に摂津鉄道を合併し、池田~宝塚間が開業。1899年(明治32年)には三田、篠山(現在の篠山口駅)、柏原と順次延伸され福知山南口(のちに廃止)まで開通。

しかし京都鉄道に京都~綾部~舞鶴間の認可が下ったため、福知山~舞鶴間の鉄道敷設は出来なかった。

1904年(明治37年)には、現在の福知山駅まで開通。その際に官製の線路であった福知山~舞鶴間を借りて大阪~舞鶴間の運行が可能となりました。舞鶴からは丹波・若狭地方との連絡のため宮津、境、小浜などへの連絡船も運営しました。

また、神崎(現JR尼崎駅)~大阪間も、官鉄線と並行しているという理由で認可が下りなかっため、塚口から官鉄線の神崎に接続し大阪までのルートを確保しました。なお、将来の輸送量の増加を考え、支線として池田~大阪間の鉄道敷設免許を受けた。

1907年(明治40年)8月1日に、鉄道国有法により帝国鉄道庁に尼ヶ崎~福知山間の営業を譲渡し国有となりJR福知山線の原型となりました。また、池田~大阪間の鉄道敷設免許は阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道に継承され、阪急宝塚本線の原型となりました。

但馬の文化財

但馬の国指定史跡

国指定史跡

  • 竹田城跡(たけだじょうあと)〔朝来市〕1943年9月8日
  • 茶すり山古墳(ちゃすりやまこふん)〔朝来市〕
  • 箕谷古墳群(みのだにこふんぐん)〔養父市〕
  • 八木城跡(やぎじょうあと)〔養父市〕1997年3月6日
  • 但馬国分寺跡(たじまこくぶんじあと)〔豊岡市〕
  • 山名氏城跡(やまなししろあと)〔豊岡市〕1996年11月13日
    • 此隅山城跡(このすみやまじょうあと)
    • 有子山城跡(ありこやまじょうあと)

国指定文化財

但馬城ノ山古墳出土品 鏡類をはじめ、碧玉【へきぎよく】製品、玉類、刀剣類、鉄製工具類など
気比の銅鐸(けいのどうたく)4口〔豊岡市気比〕1912年(大正元年) 東京国立博物館の蔵品


有形文化財
兵庫県指定文化財

  • 建造物
  • 旧兵庫県豊岡尋常中学校本館(豊岡高校達徳会館) 〔豊岡市〕
  • 彫刻
    • 温泉寺 木造四天王立像・木造金剛力士立像 〔豊岡市〕
    • 大乗寺 木造四天王立像4躯・木造薬師如来坐像 〔香美町〕

文化財愛護シンボルマーク

遺跡を訪ね歩いていると、案内表示にこのシンボルマークがあります。なんのマークなんだろうと調べてみました。
文化庁文化財愛護シンボルマークは,文化財愛護運動を全国に推し進めるための旗じるしとして,昭和41年5月に定められたものです。
このシンボルマークは,ひろげた両手の手のひらのパターンによって,日本建築の重要な要素である斗(ときょう=組みもの)のイメージを表し,これを三つ重ねることにより,文化財という民族の遺産を過去,現在,未来にわたり永遠に伝承してゆくという愛護精神を象徴したものです。
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北近畿鉄道物語-播但線

銀の馬車道~播但鉄道~JR播但線

播但線(ばんたんせん)は、兵庫県の中央部を流れる市川・円山川に沿って山陽本線と山陰本線を結ぶ、その名の通り陰陽連絡路線。日本の鉄道開業は、日本初の鉄道路線である新橋駅~横浜駅間が、1872年(明治5年)9月12日である。

1.日本最初の高速産業道路 「生野鉱山寮馬車道」

「銀の馬車道」は、日本最初の高速産業道路というべき馬車専用道路が、当時日本三大鉱山としての生野銀山と飾磨港の間、約49kmに1876年(明治9年)開通した。官設の馬車道で、生野鉱山道とも言う。正式には「生野鉱山寮馬車道」。
1873年(明治6年)7月、生野鉱山長だった朝倉盛明とフランス人鉱山師フランソワ・コアニエが選んだ技師レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事が始まった。道路を水田より60cm高くし、 あら石、小石、玉砂利の順に敷きつめる技術は「マカダム式」と呼ばれ、当時のヨーロッパの最新技術を導入することにより、雨等の天候に左右されず、馬車がスムーズに走行できる工事が3年がかりで行われた。この馬車道により、物資を非常に早く輸送でき、生野から飾磨港までの輸送経費が8分1まで低減したと言われている。
完成から約130年がたった今では、播但鉄道(現在のJR播但線)開通により物資輸送が鉄道にかわり、馬車道としては1921年(大正9年)に廃止となったが、その後も道路として利用された。現在でも国道312号などの一部に当時の面影を残している。一部は新幹線姫路駅になっている。

2.播但鉄道

1887年(明治20年)内藤利八、浅田貞次郎ら地元の数名が馬車鉄道で結ぶ計画を兵庫県知事に提出、将来は蒸気鉄道にする計画だった。この頃、舞鶴を目指す鉄道計画が、播丹鉄道(飾磨~生野~福知山~舞鶴。播但線の前身である播但鉄道とは別))をはじめ、京鶴鉄道(後に京都鉄道となる、京都~園部~舞鶴)、摂丹鉄道(尼崎~福知山~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~池田~園部~山家~舞鶴)、舞鶴鉄道(大阪~池田~綾部~舞鶴)、南北鉄道(加古川~氷上~舞鶴)と6社の出願するところとなったが、乱立および計画不十分によりいずれも却下された。(ここに見える播丹鉄道と地元資本による馬車鉄道の関係は資料によって異なる。)
播但鉄道の設立は1893年(明治26年)で資本金は当初100万円、のち180万円。本社は、初め東京市京橋区(現中央区の一部)日吉町に設置されたが、その後さらに飾磨郡国衙村に移転している。和田山への敷設の仮免許は1894(明治27年)7月、本免許が1896年(明治29年)5月に下付された。そしてさらに1894年(明治27年)7月には、兵庫県津居山(現在の豊岡市、円山川の河口付近)への延長を出願した。この延長も京都鉄道、但馬鉄道との競願になったが、1896年(明治29年)5月に仮免許、翌年8月に本免許が下付された。
しかしこの後の経営は免許前の井上勝の具申書で予想されたように苦しく、生野~新井間の工事に着工したが、この区間は途中難工事が多く、そのため、1901年(明治34年)8月に新井まで開通したところで建設を終了した。1902年(明治35年)には、和田山-津居山間の敷設免許を返納。そして、翌年3月には山陽鉄道と売却の仮契約を結び、播但鉄道は解散することとなった。払込資本金113万円、社債86万円に対して山陽鉄道の年利6%の社債140万円が交付。
1903年(明治36年)5月30日に引き継がれた線路設備は路線35M57C、機関車6両、客車26両、貨車82両だった。開業駅は、飾磨-天神-亀山駅-豆腐町-姫路-京口-野里-仁豊野-香呂-溝口-福崎-甘地-鶴居-寺前-長谷-生野-新井。その後、新井~和田山間は山陽鉄道によって建設、1906年(明治39年)開業した。

3.国鉄播但線


旧和田山機関庫1912年(明治45年)3月に建築されたもので、旧豊岡機関区和田山支区のレンガ造りの車庫と給水塔が現在も残されている。車庫は1991年(平成3年)3月に支区が廃止されてからは倉庫として利用されている。屋根に「ふれあい リゾ-ト 北近畿」と書かれいる。たしかこの看板で「北近畿」というフレーズをはじめて知ったと思う。
1906年(明治39年)12月1日、鉄道国有法により山陽鉄道は国有化、飾磨~和田山間は官設鉄道の一部となり、後に播但線と名称が定められた。播但線を延伸する形で敷設された山陰本線の東部分、当時の山陰東線と合わせて陰陽連絡路線の一つが完成した。 播但線でも貨物扱いがあったが、線路規格が弱く、生野の峠を越えるため1000分の25の急勾配で、補機を設けていた他、C57の回送運用を兼ねて3重連牽引(私もさようならSL三十連に中学の時、カメラとカセット録音で乗車した。)もしばしば見られた。
生野峠での補機には、1960年(昭和35年)よりDF50型ディーゼル機関車が、また1969年(昭和44年)からはDD54型ディーゼル機関車が用いられた。1972年(昭和47年)の無煙化後は、山陰本線より転属してきたDD54型が旧型客車を牽引していたが、故障が多発していたため1979年(昭和54年)までに順次DD51型ディーゼル機関車やDE10型ディーゼル機関車に置き換えられた。

4.JR播但線


寺前 – 和田山間の非電化区間で使用されているキハ41形(キハ40系気動車の両運転台改造車)気動車
 姫路駅を除きJR西日本福知山支社の管轄である(うち、同支社直轄の和田山駅以外は福知山支社管轄の福崎鉄道部が管轄する。なお姫路駅は神戸支社の直轄)。

221系電車
 1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災の時には、東海道・山陽本線が寸断され、朝早いこともあり、車両が姫路方面の車両基地にあったため、加古川線(当時は非電化)と共に、迂回路線として使われていた。
古いトンネルが多く、開口面積が小さかったので、パンタグラフを外して、ディーゼル機関車で牽引して福知山運転所まで回送し、そこでパンタグラフを取り付けて福知山線方面へ自力回送した。なお、生野駅 – 新井駅間の生野トンネルは、特に開口面積が小さく、超低速で、かつトンネルの壁などに当たらない様に監視しながら通り抜けたようである。

2006年11月2日まで朝の通勤ラッシュ時間帯に使用されていた103系0番台R10編成103系電車

電化以前は基本的に姫新線と共通の運用であり、車両についても同じ運用であった。 また、姫路駅で山陽本線(JR神戸線)に接続しているが、機関車等は福知山機関区の所属機を運用していたため、いずれも寒冷地仕様であった。
姫路 – 寺前間の電化区間で主に使用される103系3500番台電車 智頭急行智頭線が開通して以降、この路線を走る優等列車は特急「はまかぜ」のみとなり、それ以外では地域輸送が主体となっている。普通列車については電化区間である姫路 – 寺前間と非電化区間である寺前 – 和田山間に運転系統が分かれており、全線を通して運転される列車はない。また姫路 – 福崎間の区間運転もある。
電化後、普通列車は主に103系3500番台が使用されており、うちH6編成は2008年(平成20年)3月から「銀の馬車道」のラッピングを施して運転されている。

5.急行 但 馬


キハ58
 まだ蒸気機関車が主力で走っていた1960(昭和35)年頃、但馬地方と姫路・京阪神を結ぶ急行「但馬(たじま)」号が生まれた。昭和35年10月にDC準急として生まれ、昭和41年3月5日に急行に昇格した。
最初はキハ28、キハ26などの3両編成で準急「たじま」上下1本で、昭和36年10月1日に漢字表記の「但馬」に変更となり、昭和37年3月1日ダイヤ改正で、播但線経由大阪~鳥取(下り1号、上り1号)と姫路~浜坂(下り2号、上り2号)の計4本運行となった。
昭和38年10月1日からは、準急「但馬・みまさか(上下但馬1号・上下みまさか1号)」として、大阪→鳥取・新見(下り但馬1号・下りみまさか1号)となり(みまさか3両、たじま9両、計12両連結車)、しかもM1号車は大阪~津山、M2、3号車は大阪~新見、T1~3号車は姫路~豊岡(但馬)、T4~9号車は大阪~鳥取(但馬)と、準急「きのさき・但馬・丹後」京都・姫路←城崎・天橋立・浜坂(上りきのさき・上り但馬2号・上り丹後4号)が誕生。3~1号車は姫路~浜坂(但馬)、A1~A3号車は京都~城崎(きのさき)、1~6号車は京都~天橋立(丹後4号)を12両連結(和田山駅連結)した列車だった。

昭和39年10月1日の改正で、準急「但馬・城崎」姫路・京都←浜坂・城崎(上り但馬2号・上りきのさき)7両編成A3~A1号車は京都~城崎(きのさき)、1~5号車は姫路~城崎(但馬)、準急「但馬・みまさか」10両大阪→鳥取・新見(下り但馬4号・下りみまさか1号)、*印の付いた1号車は大阪~津山(みまさか)、*印の付いた2、3号車は大阪~新見(みまさか)、6~12号車は大阪~鳥取(但馬)、1~5号車は姫路駅から「みまさか」を切り離した後、5両連結し12両編成姫路~豊岡(但馬)となります。大阪~鳥取・新見(上り但馬1号・上りみまさか1号)13両(3両みまさか、10両但馬)。昭和41年3月5日改正で「急行」に昇格となります。

昭和43年10月1日改正から、急行「但馬・伯耆・みまさか」大阪~米子・中国勝山・城崎(上り伯耆2号・上りみまさか3号・上り但馬3号)が誕生。1~6号車は大阪~城崎(但馬)、5両は大阪~米子(伯耆)、2両は大阪~中国勝山(みまさか) が誕生しますが、昭和45年10月1日に消滅。急行「但馬・みまさか」のみまさかは6両編成に変更。上り「但馬1号・上りみまさか1号」の姫路~豊岡(但馬)は2両に変更。
1996(平成8年)3月に廃止された。2004(平成16年)5月2日、1961年にデビューし、全国の急行列車として活躍したキハ28・58系の車両が2日、懐かしい国鉄時代の塗色で復活、急行「但馬」として大阪-豊岡(兵庫県)間を走った。

6.特急はまかぜ

 はまかぜは、西日本旅客鉄道(JR西日本)が大阪駅~香住駅・浜坂駅・鳥取駅間を東海道本線・山陽本線・播但線・山陰本線経由で運行する特急列車。兵庫県の但馬地方と県西部の中心都市・姫路市や県都・神戸市を結ぶ役割を持つ。
「まつかぜ」が廃止され、大阪・神戸対但馬・鳥取県東部直通列車が唯一となった。1986(昭和61)年より1994(平成6)年までの「スーパーはくと」運行まではその存在理由がはっきりとしていたが、智頭急行線開業以降同線を経由し、大阪・神戸対鳥取県東部直通では速達列車となった特急「スーパーはくと(153分)運行以降は、京阪神方面から鳥取駅へ行く場合は、1往復運転されているこの列車(267分)を使用するより智頭急行線の「スーパーはくと」(7往復)を利用する方が圧倒的に速く、運賃・料金も若干安価である。また、尼崎(大阪)~和田山駅間では、同じような時間帯に福知山線経由のエル特急「北近畿」が運行されており、先発の「はまかぜ」より後発の「北近畿」または、福知山駅乗換で「きのさき」か「タンゴエクスプローラー」・「文殊」の方が先着する事例もある。
2006年(平成18年)3月の寝台特急(ブルートレイン)「出雲」廃止後、余部鉄橋を通過する鳥取までの優等列車はこの「はまかぜ」のみとなっている。鳥取駅発着の06:05発「はまかぜ2号」は後発の06:39発「スーパーはくと2号」(智頭急行)に先着されている。また、08:53発「スーパーはくと4号」は、「はまかぜ5号」の約2時間後に大阪駅を発車するが、鳥取駅到着は5号のわずか55分後である。
しかし、2・5号は運行上鳥取発着であるが、他は香住駅・浜坂駅発着となっており、非電化区間の城崎温泉以西の但馬北西部の利用が主目的であるため。
2010年11月7日から京都総合運転所(2012年6月に吹田総合車両所京都支所に改組)に所属するキハ189系気動車が使用されている。

余部橋梁
京都総合運転所所属のキハ181系を使用する唯一のJRの定期列車。同系列は車両の老朽化が目立つため、新型車両への置き換え計画が挙がってもおかしくない状況であるが、現在の所、具体的な計画はまだない。そのため、 JRの気動車特急の中では最も古い車両を使用していることとなるが、逆に人気は高く、大阪駅や姫路駅などでは「はまかぜ」を撮影する鉄道ファンが日々増加している。現在国鉄時代に気動車優等列車に利用されていた「アルプスの牧場」の車内チャイムが今でも聴けるのも臨時列車を除けばこの列車だけである。

新大阪から大阪・神戸、姫路までは複々線の東海道本線・山陽本線を並行して走る快速電車をディーゼル気動車ながら特急のメンツたりと懸命に走る(大阪駅~姫路駅間 時速120km/h)姿は可愛いい。神戸港や瀬戸内海・明石海峡大橋が眺められ、姫路駅で進行方向が反対になる。播但線からは姫路城、難所の生野峠越え、城崎温泉、そして日本海とリアス式山陰海岸、桃観トンネル(山陰本線一長い)や余部鉄橋(高さ日本一)を通過する車窓は実に多彩で楽しい列車だ。「夢千代日記」(NHKドラマ人間模様・浜坂駅)「ふたりっ子」(1996年度下半期にNHK連続テレビ小説。香住町・城崎町)「砂の器」(TBS・鎧駅・鎧海岸)のロケ地の雰囲気が楽しめる(冬季余部鉄橋が強風で香住~浜坂間が運行停止することがある)。

掛け替え工事夏休みなどの長期休暇や冬季のいわゆる「カニ食い(ツアー)列車」などの多客時や臨時列車として、車両の貸し出しや臨時列車の運転(増発)、車両が1~4両増結される機会が多い。ただし「かにカニはまかぜ」については、最近は増発ではなく定期列車の増結で対応するようになっている。
運転本数・列車番号大阪駅~香住駅間 1往復(3・6号 多客時は浜坂駅まで延長)
大阪駅~浜坂駅間 1往復(1・4号 1・4号の姫路駅~浜坂駅間では、車内販売も行われている)
大阪駅~鳥取駅間 1往復(2・5号)
大阪駅~浜坂駅間 1往復(88・89号 ※多客臨時列車)
大阪駅~香住駅間 1往復(「かにカニはまかぜ」※冬期臨時列車)
特急はまかぜ(画像:JR西日本)

餘部鉄橋を通過するはまかぜ(画像:JR西日本)

停車駅()内の駅は一部列車が臨時停車。姫路駅では構内配線の関係で走行する方向が変わる(スイッチバック)。

大阪駅 – 三ノ宮駅 – 神戸駅 – 明石駅 -(加古川駅) – 姫路駅 – 福崎駅 – 寺前駅 – 生野駅 – 和田山駅 – 八鹿駅 – 江原駅 – 豊岡駅 – 城崎温泉駅 – 竹野駅 – (佐津駅) – 香住駅- (餘部駅) – 浜坂駅 – 岩美駅 – 鳥取駅

1971年(昭和46年)、キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車を運転した。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。

同年3月15日、同区間特急「はまかぜ」新大阪~倉吉(下り1号、上り2号)、大阪~鳥取(下り2号、上り1号)が誕生。車両は気動車にキハ82が前後ろ各1両ずつとキロ80が1両、キハ80が3両の計6両編成。

桃観トンネル

1972年(昭和47年) 福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し、新大阪駅・大阪駅~鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。

「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。1973年(昭和48年)10月1日、新大阪~倉吉(下り1号、上り2号)が7両に増設、昭和50年3月10日に下り1号、上り2号が、6両になり新大阪~米子なで延長されましたが、昭和51年10月1日には再び新大阪~倉吉となる。1982年(昭和57年7月1日から1984年(昭和59年)1月31日まで大阪~倉吉(1、4号)が8両編成になり、1985年(昭和60年3月14日から新大阪・大阪~鳥取に変更、1986年(昭和61年)11月1日から上下合わせて計6本に、1、6号は新大阪~倉吉に。3・4号は米子までとなる。1988年(昭和63年3月13日から5両編成になる。

1994年(平成6年)12月3日から大阪~浜坂(1、4号)、大阪~鳥取(3、2号)の計4本となる。1996年(平成8年)3月16日から大阪~浜坂(1、4号)、大阪~城崎(3、6号)、大阪~鳥取(5、2号)で全4両編成に、1997年(平成9年)3月8日、3、6号は大阪~香住までに延びた。

7.播但線沿革

播但線沿革
1876年(明治9年)現在の姫路市飾磨(しかま)~生野(いくの)銀山間には日本初の高速道路というべき「生野鉱山寮馬車道」が整備
1887年(明治20年)11月5日内藤利八、浅田貞次郎ら生野飾磨間馬車鉄道敷設願を知事に提出
1888年(明治21年)5月31日馬車鉄道認可
1889年(明治22年)10月18日飾磨~生野間の蒸気鉄道敷設を出願
1893年(明治26年)3月8日鉄道敷設の仮免許
 〃 5月30日測量が完了し、鉄道敷設の免許出願
 〃 6月30日鉄道敷設の本免許
〃 7月播但鉄道会社設立
1894年(明治27年)2月飾磨~生野敷設工事開始
 〃 7月生野~和田山間の仮免許
 〃 7月26日姫路~寺前間開業
1895年(明治28年)4月17日長谷~生野間、姫路~飾磨(後の飾磨港)3M31C開業
1896年(明治29)年5月23日生野~和田山の敷設本免許
1897年(明治30年)8月25日和田山~津居山間の本免許
 〃 10月30日生野~和田山間の本免許
1901年(明治34年)8月29日生野~新井間開業
1902年(明治35年)3月10日和田山~津居山間の工事竣工期間経過により免許返納
1903年(明治36年)5月31日播但鉄道解散
1903年(明治36年)6月1日山陽鉄道による営業開始
1906年(明治39年)4月1日新井~和田山間開業、播但線全線開通
 〃 12月1日山陽鉄道国有化
1952年(昭和27年)大阪駅~城崎駅(現:城崎温泉駅)間を播但線経由で運転する臨時快速列車「たじま」が設定される。
1953年(昭和28年)大阪駅~城崎駅間を播但線経由とする臨時快速列車「ゆあみ」の運転を開始する。
週末運転で下りは金曜日、上りは日曜日運転であった。
1955年(昭和30年)「たじま」定期列車化。
1956年(昭和31年)「たじま」上り始発駅を香住駅に変更。
1958年(昭和33年)「たじま」浜坂駅まで運転区間を延長。また、臨時列車「ゆあみ」を準急列車化。
1959年(昭和34年)4月6日生野 – 長谷間で蒸気機関車牽引の回送列車が脱線転覆。播但線真名谷トンネル列車脱線転覆事故。
1960(昭和35)10月但馬地方と姫路・京阪神を結ぶDC準急「但馬(たじま)」号が生まれた。同時に運転区間も大阪駅~鳥取駅間に変更。
1960年(昭和35年)「たじま」準急列車に昇格。
1961年(昭和36年)「たじま」名称を漢字書きの「但馬」に変更。
1962年(昭和37年)「但馬」に姫路駅発着列車が設定される。
1965年(昭和40年)「ゆあみ」の名称を「但馬」に変更。また、1往復増発され、「但馬」4往復での運転となる。
但し、大阪駅発着は2往復のままで、運転区間も従来の「たじま」・「ゆあみ」を踏襲する形で運転。
1966年(昭和41年)準急列車制度の変更により「但馬」 急行列車に昇格。
1971年(昭和46年)キハ80系を使用し、臨時特別急行列車「ゆあみ」が秋季、「はくぎん」が冬季のそれぞれ週末に運転され、臨時ながら初めて播但線で特別急行列車運転。「はまかぜ」登場前の慣らし運転的意味あいも兼ねていたとされる。
1972年(昭和47年)福知山線経由の特急「まつかぜ」の補完列車として、キハ80系を使用し無煙化(ディーゼル車)、新大阪駅・大阪駅~鳥取駅・倉吉駅間を播但線経由となる特別急行列車「はまかぜ」の運転を開始。「はまかぜ」は播但線内を無停車で運転されたため、急行である「但馬」との差別化は計られていた。
1975年(昭和50年)「はまかぜ」倉吉行を米子駅行きに変更し、鳥取・米子~小郡間に新設された特急「おき」との共通運用を開始。
1976年(昭和51年)「おき」の使用車両がキハ181系に変更された為、米子行きを倉吉行きに再変更。
1982年(昭和57年)「やくも」電車化に伴う余剰車両を割当てる形でキハ181系に車両変更。
1984年(昭和59年)2月1日飾磨港 – 飾磨間の貨物営業廃止。
1985年(昭和60年)「はまかぜ」全列車鳥取駅発着となる。
1986年(昭和61年)福知山線電化に伴い特急「まつかぜ」の運転が終了。これをカバーする目的で倉吉駅・米子駅発着列車を運転開始。また、「但馬」については大阪駅~豊岡駅間運行の列車と姫路駅~浜坂駅間の2往復に減少する。
1986年(昭和61年)11月1日飾磨港 – 姫路間 (5.6km) が廃止。
1987年(昭和62年4月1日国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。姫路 – 和田山間の貨物営業廃止。
1989年(平成元年)「但馬」 大阪駅乗り入れを臨時列車に格下げ。定期列車は全列車姫路駅発着となる。
1991年(平成3年)11月1日ワンマン運転開始。
1992年(平成4年)客車列車全廃。北陸地区より転属したキハ58系初期型を改造したキハ58系5500番台車(オールロングシート改造車)投入。
1993年(平成5年)全列車大阪駅発着となる。
1994年(平成6年)智頭急行智頭線開業。特急「スーパーはくと」運転開始により、運転区間を大阪駅~浜坂駅・鳥取駅間と短縮。3往復から2往復へ減便し、大阪駅~浜坂駅間、大阪駅~鳥取駅間各1往復とする。
1995年(平成7年)阪神大震災の影響により1月17日より3月31日まで全便全区間運休。
1996年(平成8年)姫路駅発着で同区間を運転していた急行「但馬」2往復のうち1往復を大阪駅まで延長の上、「はまかぜ」に格上げして城崎駅(多客期に限り香住駅)発着とし、残りの1往復は廃止とする。これによって「但馬」は定期列車としての運行を終了することとなり、大阪駅乗り入れの臨時「但馬81・82号」も「はまかぜ81・82号」として特急に格上げ。
それまで播但線内無停車であったが、この時より播但線内の福崎駅及び寺前駅に停車、特急料金も大阪駅~浜坂駅に関しては急行廃止の救済も兼ねて割安なB特急料金が新たに導入されることとなった。また、このころより「はまかぜ」の性格も兵庫県内移動が主体となる。
1998年(平成10年)姫路~寺前間電化。「はまかぜ」播但線内の停車駅に生野駅を追加。
2006年(平成18年)山陰本線余部鉄橋架け替えに伴う記念事業「鉄橋サミット」開催に伴う輸送列車として姫路駅~浜坂駅間を運行する急行列車「あまるべ」が運行。
使用車両は、キハ58・キハ282両一組の4両編成。金沢総合車両所・越前大野鉄道部所属車の国鉄色を用い、全車座席指定席で運行された。
2006年(平成18年)4月1日姫路 – 和田山間の全通100周年記念セレモニーが和田山駅で行われ、特製ヘッドマーク掲出運転や様々な記念関連イベント開催。
2008年(平成20年)12月22日姫路駅付近(約1.3km)が高架に切換予定。

たじまる 飛鳥-6 文字(漢字)の導入

文字(漢字)の導入

日本語の歴史

上代(飛鳥時代以前)

縄文時代の日本にはまだ固有の文字は存在していなかったとされるのは、その頃の遺物には現在まで文字らしい形跡が見つからないためでです。日本で文字が現れたのは、象形文字ではない中国から伝わった漢字の音を借用して漢字を使い書き表したのが最初で、5世紀頃、稲荷山古墳から発見された刀剣に「雄略天皇」に推定される名が刻まれています。これも万葉仮名の一種とされています。記された文字遺物がいくつか見つかっています。この頃盛んであった朝鮮半島諸国との関係から、政治制度や文化の移入に伴って、漢字の移入・使用がおこなわれるようになり、そこには渡来氏族が大きく関わっていたと考えられています。

漢文に送り仮名を付けて中国語発音である「音」を日本語の発音で漢字を「訓読」するようになり、日本語の文として読もうと、言葉の違いを認識し埋めていく工夫がされました。したがって、中国語発音以前に日本語は別の言葉だったといえるでしょう。(そもそもこれが訓読みと音読みが同居するややこしさ、よくいえば多彩な日本語のベースといえる。)

古代(飛鳥時代)

七世紀頃には『古事記』や『万葉集』を見ると、漢字のみを使って実に様々に工夫されています。『風土記』では人名や地名を漢字で書き表す際にさまざまな当て字が用いられており、「万葉仮名」と呼ばれる漢字の音を借りてその義(漢字本来の意味)に拘らずに一音節の表現のために用いるのが万葉仮名の特徴です。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれています。『古事記』には呉音が、『日本書紀』α群には漢音が反映されています。それらは「真仮名」、借字ともいいます。万葉仮名の自体をその字源によって分類すると「記紀」・「万葉」を通じてその数は973に達します。使用が確かめられる最古のものは、大阪市中央区の難波宮跡において発掘された652年以前の木簡です。

中古(平安時代)

平安時代に至ると、万葉仮名をもとにして、日本語固有の文字である平仮名片仮名が生み出されました。平仮名が生まれたことによって、例えば和歌のように一音一音を書き表すことが確実に行えるようになりました。こうした表現力を背景に物語り文学や日記文学などが大きく開花した。一方で片仮名は、仏典や漢籍など、漢文を読む際の補助的な文字として用いられたのが始まりとされています。

中世

「歌学」を中心に、古典、特に和歌を正しく理解し、あるいは実作するようになりました。既にこの頃は、平安時代とは日本語の音や文法などが様変わりしてしまっており、「てにをは」、「仮名遣い」などの違いが問題視されています。

近世(江戸時代)

国学をはじめ諸学が隆盛を見るようになります。古典の理解という域を超えて、前後の語句や意味によって様々に変化する「活用」の考え方が生まれ、現代の文法にも用いられています。

近代

西洋の文物や考え方が大量に移入され、これらを表すための新しい日本語が必要になりました。主に漢語の造語能力を活かした新しい漢語が生み出されたり、音の面では、多くの外来語を書き表すための表記方法が工夫(例:ファ、チャなど小文字表記?)されました。さらに母語としての言葉を習い教えるための体系的な国語科教育が整備されました。

戦後、政府は複雑な当用漢字を簡素化することを行いました。片仮名、平仮名も漢字を簡略化していましたが、それは意味を持たない発音を意味する文字であり、語彙を含む漢字そのものではありません。ゐ(wi)、ゑ(we)も消えました。

例えば、國→国、縣→県、濱→浜、驛→駅などです。それらは新字体と呼ばれ、古い自体を旧字体と呼び、今日ではほとんど使用されることはありません。それは中国も同様で、繁体字と呼ばれ、簡体字と新字体はそれぞれの国で独自に簡化したため字体が異なるものが多く、同じ漢字文化圏でも読めない場合があります。
また、中国では日本のカナや韓国のハングル文字に相当する文字が作られてこなかった経過から、外来語を発音で漢字に当てはめることで対応してきました。とくに国名など外来語は戦前日本でも行われていましたが、日本では片仮名で表すことがほぼ一般化しています。

現在、日本語を日常に使用している人は、世界中に一億二千万ほどといわれています。意外にも世界の言語の中でも多い方から10位以内に入るのだそうです。しかし、日本語は世界でも独自なもので、どのような系統に属すのかは、いまだに不明とされています。
参考『日本語の歴史』 近藤 泰弘  放送大学客員教授・青山学院大学教授

月本 雅幸  放送大学客員教授・東京大学大学院教授

杉原克己 放送大学助教授 より

言語と方言

方言とは、あるひとつの言語における変種のことです。同じ文法を用いる言語でも、語彙・発音(訛り・アクセントなど)・文法・表記法のいずれかもしくはいくつかの面で差異が見られる場合は方言といいます。同一国家内では、方言話者同士が会話する場合は、ある特定の方言そのもの、あるいはその方言を元にして新しく作られた標準語を使用してきました。

しかし、言語学から「同語族・同語派・同語群の同系統の別の言語」なのか、「同一言語の中の方言」なのかを客観的に区別する方法はなく、言語と方言の違いは極めて曖昧です。国境の有無などのような政治的な条件や正書法の有無などを根拠に両者の区別が議論されることもあり、「言語とは、軍隊を持った方言のことだ」というたとえさえ存在しますが、例外は多々存在します。

日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きいものです。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられますが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの 2つです。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第一拍の高低を弁別します。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いですが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国の一部、九州北東部、沖縄県の一部に分布しており、京阪式アクセントは北陸地方、近畿地方、四国の大部分に分布しています。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっています。

但馬弁日本の方言政策明治時代以降、日本では学校教育の中で標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられました。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になりました。東北弁と琉球語(琉球方言)が全く意志疎通ができないように、これは単なる方言といっていいのか、まったく異なった言語であるといっていいかです。文法が同じであり、中国語同様に漢字で書くと意思疎通が比較的容易です。

標準語がなかった頃は、どのように会話していたのでしょう。時代劇を観ていると、例えば幕末に、薩摩藩士と長州藩士、土佐藩士、江戸弁の幕府方や会津藩士、京都弁の公家などが当時どの程度スムーズに聴き取れていたのかは分かりませんが、漢字による文書を通じて理解できたでしょうから方言・武士など階級による言葉の差はあったものの理解し得たといえます。

現在では、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により殆どの者が標準語を話せるようになった一方、その土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っています(例えば近畿方言(関西弁)のように比較的方言が保たれていても、さらに細分化された地域性が失われる傾向もある)。特に若者の間でその傾向が著しいようです。方言アクセントは、多くの地域で若者においても保持されていますが、語彙は、世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にあります。また、あえて、最近では若者の間で各地の方言を生かした会話を楽しんでいる場合もみられます。

日本語は系統において様々に議論があるものの、比較言語学的にいずれかの日本以外の他言語と共通の語族に属すことは証明されておらず、孤立言語とされています。ただし琉球諸島の言葉を、別の言語である琉球語とする考えがあり、その論をとれば日本語の同系言語が存在することになります。その場合、それぞれがさらに多数の方言に分類することができるため、これらすべてをまとめ一語族として日本語族と称し、日本語派と琉球語派に分類しています。

民族論

沖縄県や奄美諸島の住民と、その他の日本人との文化などの違いを抽出して、別民族(琉球民族)とみなす場合は、別言語といえます。

印象論

世界にはお互いに意志疎通が可能でも(すなわち音韻の違いが小規模且つ規則的でも)別言語とされている例も、意志疎通が不可能でも同言語とされている例もあり、聞き取れるか否か、或いは音韻関係がどの程度厳密かといったことは、言語か方言かを分類する決定的な根拠とは必ずしもなりえないとしています。

  • 言語とみなす場合、「琉球語はまったく聞き取れない。だから琉球語は日本語ではない」あるいは「琉球語は日本語とは異なる多くの言語学的特徴を持っている。だから琉球語は独自の言語と見なすのが妥当」。
  • 方言とみなす場合、「本土方言と琉球方言の音韻変化と文法には明確な関係とがある。さらに、日本各地の方言でよそ者に理解不能なのは琉球方言に限ったことではない。だから琉球方言だけを独自の言語と見なすことはできない」。
    政治論
    政治的に国家を背景として同一言語の方言であるとするものです。しかし、世界には複数の言語を有する国が多いし、また同一民族、同一言語とされるが複数の国家に分かれている事例もあるのでこれは絶対的な基準とはならないとしています。
  • 「琉球語」は「琉球民族」という意識・概念と密接な関係にあり、「琉球語」と言うこと自体が政治的・民族的(文化集団)な立場の表明となる。
  • 「方言」であると言うことが、例えば琉球王国をはじめとした独自の歴史・文化を軽視するような政治的立場の表明となる。
  • 沖縄県や奄美諸島に住む人々も本土に住む人々と同じ日本民族である。よって琉球語という呼称は正しくない。
  • 民族と言語も必ずしも一致するものではない、そもそも沖縄県や奄美諸島に住む人々を大和民族に含めて良いのかも疑問である、よって独自の言語とすることが妥当。
  • 琉球語か琉球方言かの論争は、民族や国家の根本問題とも関わり、冷静・学問的な論議が必要である。

    それに対して、アイヌ語は、アイヌ民族の言語で、話者はアイヌ民族の主たる居住地域である日本・北海道、樺太(サハリン)、千島列島(クリル諸島)に分布します。日本語と同様、「孤立した言語」とされています。それは、地理的に近い位置で話されてきたにもかかわらず、日本語との間には、語彙の借用を除いてそれほど共通点が見いだせないからです。専門家の間では、アイヌ語を、日本語の基盤となったいくつかの言語の内の一つから発展した言語とする見方が一般的ですが、現段階ではアイヌ語は特定の語族に属さないとされています。

    基本的な文型はSOV(主語・目的語・動詞)の順で、この点では日本語と同じですが、形態論的には膠着語である日本語と異なり、抱合語というイヌイット(カナダ北部グリーンランドなど)やアメリカ先住民族らの言語(エスキモー諸語、インディアン諸語など)の間でしか見られない、アジアでは珍しい分類に属するとされています。しかし、現在、アイヌ語を継承しているアイヌは非常に少なく、近いうちに消滅してしまうことが懸念されている言語の一つです。千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の話者も平均年齢が既に80を越え、数も10人以下となっています。

    本州以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説があります。この説は、北海道から東北地方北部(太平洋側は仙台付近、日本海側は秋田県・山形県・新潟県)にかけての多数の地形を実地に検分して共通点を調べあげた山田秀三の業績によって、学界に広く受け入れられました。

    琉球語(琉球方言)を独立した言語とみなすか方言とみなすかについては大きく意見が分かれます。言語学的には言語と方言を客観的に区別することができず、両者の区別は政治・宗教・民族などの歴史的・社会的要因によって一種の慣習として定まってきます。同様に次の例があります。

    主にセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで話されるセルボクロアチア語は、十数年前までひとつの旧ユーゴスラビアという共和国の言語で、各国・各地方の言葉は、使用する文字に違いはあっても同じ言葉であり、方言関係にあります。しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在は、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると主張がそれぞれの国家民族でされるようになりました。

    また、中国語の各方言はヨーロッパ各国の公用語ほどの違いがあり、北京語と広東語では意思疎通が難しいですが、表意文字である漢字で書くと書き言葉が同じであるため意思疎通が比較的容易です。さらに同系の標準語である普通話(プートンフア)があるために、方言関係にあるとされています。中国の大陸部やシンガポールの中国語(華語)は表記に簡体字を使い、台湾、香港、マカオの中国語は繁体字を使っており、発音表記にもそれぞれラテン文字と注音符号という別体系の文字を使うなど、一部が異なった正書法が使われていますが、別の言語との扱いは一般にはされていません。また、キルギス共和国には、中国から移住した、キリル文字で書き、アラビア語やロシア語から借用語の多いドンガン語を話す人たちがいますが、国も文字も語彙も違っていても、方言だとみなす人がいます。

    一方ドイツ語は、大きく北部方言(低地ドイツ語)と標準語を擁する南部方言(高地ドイツ語)に分けられ、互いに通じないほど違います。しかし、北部方言もドイツ語であるとされています。ところが、このドイツ語の北部方言ときわめて近い関係(方言の変化が連続的なので、明確な境界は存在しない)にあるオランダの言葉は、国が異なりオランダ語として、別の言語とされています。ドイツ語北部方言とオランダ語では会話が可能でありながら、同じ国ながらドイツ語北部方言と同南部方言では会話が困難だという奇妙な現象が起こります。

    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日本語の歴史

文字(漢字)の導入

日本語の歴史

上代(飛鳥時代以前)

縄文時代の日本にはまだ固有の文字は存在していなかったとされるのは、その頃の遺物には現在まで文字らしい形跡が見つからないためでです。日本で文字が現れたのは、象形文字ではない中国から伝わった漢字の音を借用して漢字を使い書き表したのが最初で、5世紀頃、稲荷山古墳から発見された刀剣に「雄略天皇」に推定される名が刻まれています。これも万葉仮名の一種とされています。記された文字遺物がいくつか見つかっています。この頃盛んであった朝鮮半島諸国との関係から、政治制度や文化の移入に伴って、漢字の移入・使用がおこなわれるようになり、そこには渡来氏族が大きく関わっていたと考えられています。漢文に送り仮名を付けて中国語発音である「音」を日本語の発音で漢字を「訓読」するようになり、日本語の文として読もうと、言葉の違いを認識し埋めていく工夫がされました。したがって、中国語発音以前に日本語は別の言葉だったといえるでしょう。(そもそもこれが訓読みと音読みが同居するややこしさ、よくいえば多彩な日本語のベースといえる。)

古代(飛鳥時代)

七世紀頃には『古事記』や『万葉集』を見ると、漢字のみを使って実に様々に工夫されています。『風土記』では人名や地名を漢字で書き表す際にさまざまな当て字が用いられており、「万葉仮名」と呼ばれる漢字の音を借りてその義(漢字本来の意味)に拘らずに一音節の表現のために用いるのが万葉仮名の特徴です。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれています。『古事記』には呉音が、『日本書紀』α群には漢音が反映されています。それらは「真仮名」、借字ともいいます。万葉仮名の自体をその字源によって分類すると「記紀」・「万葉」を通じてその数は973に達します。使用が確かめられる最古のものは、大阪市中央区の難波宮跡において発掘された652年以前の木簡です。

中古(平安時代)

平安時代に至ると、万葉仮名をもとにして、日本語固有の文字である平仮名片仮名が生み出されました。平仮名が生まれたことによって、例えば和歌のように一音一音を書き表すことが確実に行えるようになりました。こうした表現力を背景に物語り文学や日記文学などが大きく開花した。一方で片仮名は、仏典や漢籍など、漢文を読む際の補助的な文字として用いられたのが始まりとされています。

中世

「歌学」を中心に、古典、特に和歌を正しく理解し、あるいは実作するようになりました。既にこの頃は、平安時代とは日本語の音や文法などが様変わりしてしまっており、「てにをは」、「仮名遣い」などの違いが問題視されています。

近世(江戸時代)

国学をはじめ諸学が隆盛を見るようになります。古典の理解という域を超えて、前後の語句や意味によって様々に変化する「活用」の考え方が生まれ、現代の文法にも用いられています。

近代

西洋の文物や考え方が大量に移入され、これらを表すための新しい日本語が必要になりました。主に漢語の造語能力を活かした新しい漢語が生み出されたり、音の面では、多くの外来語を書き表すための表記方法が工夫(例:ファ、チャなど小文字表記?)されました。さらに母語としての言葉を習い教えるための体系的な国語科教育が整備されました。

戦後、政府は複雑な当用漢字を簡素化することを行いました。片仮名、平仮名も漢字を簡略化していましたが、それは意味を持たない発音を意味する文字であり、語彙を含む漢字そのものではありません。ゐ(wi)、ゑ(we)も消えました。

例えば、國→国、縣→県、濱→浜、驛→駅などです。それらは新字体と呼ばれ、古い自体を旧字体と呼び、今日ではほとんど使用されることはありません。それは中国も同様で、繁体字と呼ばれ、簡体字と新字体はそれぞれの国で独自に簡化したため字体が異なるものが多く、同じ漢字文化圏でも読めない場合があります。
また、中国では日本のカナや韓国のハングル文字に相当する文字が作られてこなかった経過から、外来語を発音で漢字に当てはめることで対応してきました。とくに国名など外来語は戦前日本でも行われていましたが、日本では片仮名で表すことがほぼ一般化しています。

現在、日本語を日常に使用している人は、世界中に一億二千万ほどといわれています。意外にも世界の言語の中でも多い方から10位以内に入るのだそうです。しかし、日本語は世界でも独自なもので、どのような系統に属すのかは、いまだに不明とされています。
参考『日本語の歴史』 近藤 泰弘  放送大学客員教授・青山学院大学教授

月本 雅幸  放送大学客員教授・東京大学大学院教授

杉原克己 放送大学助教授 より

言語と方言

方言とは、あるひとつの言語における変種のことです。同じ文法を用いる言語でも、語彙・発音(訛り・アクセントなど)・文法・表記法のいずれかもしくはいくつかの面で差異が見られる場合は方言といいます。同一国家内では、方言話者同士が会話する場合は、ある特定の方言そのもの、あるいはその方言を元にして新しく作られた標準語を使用してきました。

しかし、言語学から「同語族・同語派・同語群の同系統の別の言語」なのか、「同一言語の中の方言」なのかを客観的に区別する方法はなく、言語と方言の違いは極めて曖昧です。国境の有無などのような政治的な条件や正書法の有無などを根拠に両者の区別が議論されることもあり、「言語とは、軍隊を持った方言のことだ」というたとえさえ存在しますが、例外は多々存在します。

日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きいものです。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられますが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの 2つです。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第一拍の高低を弁別します。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いですが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国の一部、九州北東部、沖縄県の一部に分布しており、京阪式アクセントは北陸地方、近畿地方、四国の大部分に分布しています。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっています。

但馬弁

日本の方言政策明治時代以降、日本では学校教育の中で標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられました。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になりました。東北弁と琉球語(琉球方言)が全く意志疎通ができないように、これは単なる方言といっていいのか、まったく異なった言語であるといっていいかです。文法が同じであり、中国語同様に漢字で書くと意思疎通が比較的容易です。

標準語がなかった頃は、どのように会話していたのでしょう。時代劇を観ていると、例えば幕末に、薩摩藩士と長州藩士、土佐藩士、江戸弁の幕府方や会津藩士、京都弁の公家などが当時どの程度スムーズに聴き取れていたのかは分かりませんが、漢字による文書を通じて理解できたでしょうから方言・武士など階級による言葉の差はあったものの理解し得たといえます。

現在では、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により殆どの者が標準語を話せるようになった一方、その土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っています(例えば近畿方言(関西弁)のように比較的方言が保たれていても、さらに細分化された地域性が失われる傾向もある)。特に若者の間でその傾向が著しいようです。方言アクセントは、多くの地域で若者においても保持されていますが、語彙は、世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にあります。また、あえて、最近では若者の間で各地の方言を生かした会話を楽しんでいる場合もみられます。日本語は系統において様々に議論があるものの、比較言語学的にいずれかの日本以外の他言語と共通の語族に属すことは証明されておらず、孤立言語とされています。ただし琉球諸島の言葉を、別の言語である琉球語とする考えがあり、その論をとれば日本語の同系言語が存在することになります。その場合、それぞれがさらに多数の方言に分類することができるため、これらすべてをまとめ一語族として日本語族と称し、日本語派と琉球語派に分類しています。

民族論

沖縄県や奄美諸島の住民と、その他の日本人との文化などの違いを抽出して、別民族(琉球民族)とみなす場合は、別言語といえます。

印象論

世界にはお互いに意志疎通が可能でも(すなわち音韻の違いが小規模且つ規則的でも)別言語とされている例も、意志疎通が不可能でも同言語とされている例もあり、聞き取れるか否か、或いは音韻関係がどの程度厳密かといったことは、言語か方言かを分類する決定的な根拠とは必ずしもなりえないとしています。

  • 言語とみなす場合、「琉球語はまったく聞き取れない。だから琉球語は日本語ではない」あるいは「琉球語は日本語とは異なる多くの言語学的特徴を持っている。だから琉球語は独自の言語と見なすのが妥当」。
  • 方言とみなす場合、「本土方言と琉球方言の音韻変化と文法には明確な関係とがある。さらに、日本各地の方言でよそ者に理解不能なのは琉球方言に限ったことではない。だから琉球方言だけを独自の言語と見なすことはできない」。

政治論

政治的に国家を背景として同一言語の方言であるとするものです。しかし、世界には複数の言語を有する国が多いし、また同一民族、同一言語とされるが複数の国家に分かれている事例もあるのでこれは絶対的な基準とはならないとしています。

  • 「琉球語」は「琉球民族」という意識・概念と密接な関係にあり、「琉球語」と言うこと自体が政治的・民族的(文化集団)な立場の表明となる。
  • 「方言」であると言うことが、例えば琉球王国をはじめとした独自の歴史・文化を軽視するような政治的立場の表明となる。
  • 沖縄県や奄美諸島に住む人々も本土に住む人々と同じ日本民族である。よって琉球語という呼称は正しくない。
  • 民族と言語も必ずしも一致するものではない、そもそも沖縄県や奄美諸島に住む人々を大和民族に含めて良いのかも疑問である、よって独自の言語とすることが妥当。
  • 琉球語か琉球方言かの論争は、民族や国家の根本問題とも関わり、冷静・学問的な論議が必要である。それに対して、アイヌ語は、アイヌ民族の言語で、話者はアイヌ民族の主たる居住地域である日本・北海道、樺太(サハリン)、千島列島(クリル諸島)に分布します。日本語と同様、「孤立した言語」とされています。それは、地理的に近い位置で話されてきたにもかかわらず、日本語との間には、語彙の借用を除いてそれほど共通点が見いだせないからです。専門家の間では、アイヌ語を、日本語の基盤となったいくつかの言語の内の一つから発展した言語とする見方が一般的ですが、現段階ではアイヌ語は特定の語族に属さないとされています。

    基本的な文型はSOV(主語・目的語・動詞)の順で、この点では日本語と同じですが、形態論的には膠着語である日本語と異なり、抱合語というイヌイット(カナダ北部グリーンランドなど)やアメリカ先住民族らの言語(エスキモー諸語、インディアン諸語など)の間でしか見られない、アジアでは珍しい分類に属するとされています。しかし、現在、アイヌ語を継承しているアイヌは非常に少なく、近いうちに消滅してしまうことが懸念されている言語の一つです。千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の話者も平均年齢が既に80を越え、数も10人以下となっています。

    本州以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説があります。この説は、北海道から東北地方北部(太平洋側は仙台付近、日本海側は秋田県・山形県・新潟県)にかけての多数の地形を実地に検分して共通点を調べあげた山田秀三の業績によって、学界に広く受け入れられました。

    琉球語(琉球方言)を独立した言語とみなすか方言とみなすかについては大きく意見が分かれます。言語学的には言語と方言を客観的に区別することができず、両者の区別は政治・宗教・民族などの歴史的・社会的要因によって一種の慣習として定まってきます。同様に次の例があります。

    主にセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで話されるセルボクロアチア語は、十数年前までひとつの旧ユーゴスラビアという共和国の言語で、各国・各地方の言葉は、使用する文字に違いはあっても同じ言葉であり、方言関係にあります。しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在は、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると主張がそれぞれの国家民族でされるようになりました。

    また、中国語の各方言はヨーロッパ各国の公用語ほどの違いがあり、北京語と広東語では意思疎通が難しいですが、表意文字である漢字で書くと書き言葉が同じであるため意思疎通が比較的容易です。さらに同系の標準語である普通話(プートンフア)があるために、方言関係にあるとされています。中国の大陸部やシンガポールの中国語(華語)は表記に簡体字を使い、台湾、香港、マカオの中国語は繁体字を使っており、発音表記にもそれぞれラテン文字と注音符号という別体系の文字を使うなど、一部が異なった正書法が使われていますが、別の言語との扱いは一般にはされていません。また、キルギス共和国には、中国から移住した、キリル文字で書き、アラビア語やロシア語から借用語の多いドンガン語を話す人たちがいますが、国も文字も語彙も違っていても、方言だとみなす人がいます。

    一方ドイツ語は、大きく北部方言(低地ドイツ語)と標準語を擁する南部方言(高地ドイツ語)に分けられ、互いに通じないほど違います。しかし、北部方言もドイツ語であるとされています。ところが、このドイツ語の北部方言ときわめて近い関係(方言の変化が連続的なので、明確な境界は存在しない)にあるオランダの言葉は、国が異なりオランダ語として、別の言語とされています。ドイツ語北部方言とオランダ語では会話が可能でありながら、同じ国ながらドイツ語北部方言と同南部方言では会話が困難だという奇妙な現象が起こります。

    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

飛鳥-5 文字(漢字)の導入

文字(漢字)の導入

3.秦氏(はたうじ)

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく、集団名・一族名を指している)です。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち、日本の国づくりを根底で支えたと言えます。

日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代にテイ族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。

桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっています。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来しました。「秦」と書くように、弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもありますがその根拠はありません。土木技術や農業技術などに長けていた秦(はた)氏は、灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行いましました。また、養蚕、機織、酒造、金工などももたらしました。ヤマト王権(ヤマト朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていましました。

本拠地は京都山背太秦(うずまさ)がに分かっていますが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名があり、これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)しています。

後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住みましました。中央での活躍と共に、秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで、全国規模で勢力を伸ばしていきましました。

しかし、秦氏の朝鮮半島の新羅から来たのも、元はといえば中国の秦から朝鮮半島沿いに日本列島にたどりついた過程でしょう。弓月君の祖先も秦からやってきたと考えます。畑という地名
畑(はたけ)だから畑と名付けたとするのが自然ですが、どこかしこにもある畑をわざわざ畑と名づけては区別がつきません。「徐」姓は名乗ってはいけない秦(シン)氏は、日本語読みに改めハタと名乗り畑と字を替えた。秦庄(ハタノショウ)などはそのまま畑ではなく秦氏の庄。
蛭子(エビス)

波多野氏

波多野氏(はたのし)は丹波の戦国大名です。

波多野氏と秦氏が関係あるかどうかは分かりません。しかし、出身地が秦氏の中心地太秦(うずまさ)に近い丹波であること、但馬に深い日下部氏を祖としている説があることで、気になるところです。

波多野氏出自については諸説あります。一説に相模波多野庄(神奈川県秦野市)に住んだ藤原秀郷の後裔の波多野義通を祖とする。また一説には因幡国八上郡田公氏の族とする。義通の妹は河内源氏の源義朝の妻となり、次男の朝長(源頼朝の兄)をもうけたとされています。さらに一説には桓武平氏系の三浦氏の出自とも、丹波の豪族・日下部氏の庶流ともいわれますが、前歴にはかなり不明な点が多いようです。

波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。

秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)、朝治山に八上城を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

日下部(くさかべ)氏は、日本の古代から続く氏族。

日下部氏の後裔に、但馬・養父郡から分かれた戦国大名の越前朝倉氏がいます。
起源にはいくつかの説があります。

  • 開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
  • 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)松尾大社京都府京都市西京区嵐山宮町秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を御神体として、701年(大宝元年)に創建したいわれています。社の由緒書によれば、「太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇した」とあるので、松尾大社の前身となる場がこの地域にあったと言えます。朝鮮半島より渡来してこの地に居住した秦氏は松尾山の山霊を現在の社地に遷し、これを総氏神として仰いだ。そして、新しい文化・技術をつかってこの地方一帯を開拓していきましました。平安京に遷都した後は都城を鎮護する神として崇められましました。松尾大社はお酒の神様として全国に知られています。また、中津島姫命は市杵島姫命(いつきしまひめのみこと:伊都岐島神)の別名で、市杵島姫命は厳島神社の祭神でもあります。(厳島神社の祭神は市杵島姫命、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神)。木島神社
    京都市太秦森ケ東町

    太秦周辺には蛇塚古墳や天塚古墳など秦氏と関係がある古墳があります。

    京都太秦地区を拠点としていた秦氏に関係のある神社として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)」ほか3神を祀った木島(このしま)神社があります。正しくは木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社ですが、境内地にある摂社養蚕(こがい)神社から通称蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれています。秦氏が養蚕や機織りの技術を広めたことからここに祀られています。

    ここには日本で唯一の三柱の鳥居があります。どのような意味を持つのかは不明だが、キリスト教との関わりがあるという説もあります。

    4.東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
    東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は、応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して、ヤマト王権(大和朝廷)のもとで文書記録、外交、財政などを担当しました。また、製鉄、機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらしました。初め直(あたえ)姓、のちに連(むらじ)姓・忌寸(いみき)姓を賜り、六~七世紀には政治・軍事面でも活躍しました。坂上田村麻呂らはこの一族。漢部(綾部)や錦部や統率しましました。「機織部=はとりべ」は機織(はたお)りの転で服部は同じ。雄略天皇の時、漢部は呉織(くれはとり)とともに中国から渡来したとされる機織りの職人。

    平安時代になると、東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではありません。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので、互いに対抗意識をもっていたのかもしれません。

    明日香 稲淵地区に龍福寺があります。ここにある石塔は、原形を止めてはいませんが、もとは朝鮮式の五重の石塔(日本最古の銘文入り層塔)と思われています。台の部分には「天平勝宝三年(751年)」「竹野王」の文字が彫られています。この地域が渡来人と深く関わっていたことがわかります。

    5世紀後半頃、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述があります。東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)、鞍作(くらつくり)、金作(かなつくり)の諸氏を配下にし、製鉄、武器生産、機織りなどを行いましました。蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていきましました。

    西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で、古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え、日本に文字をもたらしたとされます。西文氏は河内を本拠地として、文筆や出納などで朝廷に仕えていましました。

    参照:飛鳥の扉 asuka-tobira.com/奈良文化財研究所

    5.葛城氏(かつらぎうじ)

    葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)4世紀後半~5世紀前半頃?)は、武内宿禰の子の一人で、大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されている。編年がほぼ正しく同時代史料が元となったと考えられる百済三書のひとつ、百済記にその名が見えるので、実在の可能性が高い。

    しかし、葛城氏が6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。

    始祖・襲津彦の伝承

    『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。

    襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた。

    しかし「沙至比跪」の逸話が史実と見なせるかには疑問の余地があり、これを考慮すると、『書紀』の襲津彦像は総じて没個性的で、各々の記事間にも脈絡がほとんどない。このことから、襲津彦は特定の実在人物ではなく、4・5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった葛城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説化された英雄であったと見る説もある。

    大王と葛城氏の両頭政権

    葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である?媛(はえひめ、?は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を設けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。このような婚姻関係の形成は、葛城氏と大王家の政治的連携が、婚姻策によって保たれていたことを意味しよう。
    しかも葛城氏は、大王家の支配から相対的に自立しうる私的な軍事的・経済的基盤を維持していた。先の襲津彦伝承に見たような対朝鮮外交を通して、葛城地方に定住することになった多くの渡来系集団が、葛城氏の配下で鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとみられる。渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、大王家のそれと肩を並べるほどであり、両者の微妙なバランスの上に、当時のヤマト政権が成立していたのであろう。 当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る。

    衰退と滅亡

    だがこのような両頭政権には、一度両者間の協調関係に亀裂が生じると、次第に崩壊してしまうという脆弱性を内在していた。『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。同時にヤマト政権の朝鮮における軍事的影響力は衰え、対朝鮮政策は苦境に陥った。

    高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。

    要するに、高木と葛のつるで覆い尽くされたような原野が広がっていたのであろう。

    神と人の間の葛城

    『神武紀』

    磯城邑に磯城の八十梟師がいます。葛城邑に赤銅の八十梟師がいます。
    『神武紀』の言葉の対応から見ると、葛城=赤銅と。それほどの銅を産出したのだろうか。

    『神武紀』

    椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。

    『神武紀』から見える事は、葛城は銅が産出する地であること。銅鐸の製造の痕跡は出ていないが、銅鐸祭祀の氏族が住んでいたのかも知れない。銅鐸は長柄から出土している。銅鐸祭祀氏族を鴨氏の源流と云ってもいいのかも知れない。朝町の大穴持神社の鎮座する山から五百家付近には銅を採取した痕跡が残っていると云う。幕府直轄領であった。現在、山は堺屋太一氏の実家の所有と云う。

    剣根を葛城国造とした記事があるが、国造の制度はもっと後世のものであり、要は葛城のボスを追認したと云う意味であって、記紀を作成した王権の見栄だろう。
    以下、剣根について若干。

    葛木出石姫と伊加里姫

    天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
    「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています。

    では何故、この神が當麻(タギマ)の長尾神社の祭神になっているのでしょうか。長尾街道は吉野・壺坂から当地をで竹内街道と交差、更に北上してから西に折れ、堺につながる街道です。このことから吉野への関心からの勧請と云う説があります。ここでは違う説を建てます。イカリの神は丹後ににに鎮座していました。これは、大三元さんのサイトで分析されている『丹後風土記残欠』に紹介されていました。「伊加里姫社」の祭神だそうです。  現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。

    天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。出石神社の神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。

    ここに葛城の勢力と丹後、但馬の勢力との連携の姿が見えるようです。系譜の中に倭宿禰命の名も見えます。椎根津彦のこと。長尾市は倭直の祖でもあり、伊加里姫の子に倭宿禰命がいるのもそう云うこと。

    神々のこと 難波の比売碁曾神社

    珂是古とは物部阿遅古のことで、宗像神を祭った水沼君の祖のこと。先の小郡市の媛社神社には棚機神社、磐船神社の扁額がかかっており、媛社神を棚機神と見ていることになります。

    タナバタ、日本の棚機、大陸の七夕、本来違うものだったものが習合したものであるとか諸説あるようです。伝承の発生や伝達の時が早いのか遅いのかの程度の差で、タナバタの言葉から見て元々は同じものだったのでしょう。
    タナバタ伝承、これは織布技術が織姫(織工女)とともに渡来してきたということ。
    もう一つの磐船神社の名、これは物部阿遅古が祖神を祭ったのでしょう。祭神は饒速日尊。

    こうして見ますと、肥前の媛社神社の神は宗像神の御子神と言えます。ここに下照姫の事が思い起こされます。ヒメコソと云えば、摂津国東生郡(鶴橋)に比売許曽神社が鎮座、この社の近くにも磐船伝承が残っており、肥前国とのつながりを示しているようです。

    『古事記』応神記に「天の日矛の渡来譚と難波の比売碁曾神社の話があり、阿加流比売神が坐します。」とあります。阿加流比売神は摂津国住吉郡(平野区)の赤留比売命神社に祀られており、下照比売神と阿加流比売神とは復層気味。この女神達、織姫でもあり、太陽の女神でもあり、天照大御神にも似ている所があります。」

    神々のこと 二上神社

    大和国當麻は當麻物部の拠点、二上神社の祭神に豊布津神の名が見えます。鹿島神宮の武甕槌神のこととされていますが、元々は物部の神だったのでしょう。饒速日神の降りられた哮峯は二上山のこととは蟹守神社宮司さんの説。これは當麻物部の哮峯ということ。余談ですが交野物部の哮峯は磐船神社付近となりましょうか。

    蟹守宮司の祭神の「天忍人命」とは『古語拾遺』では、掃守連の遠祖で、箒を作り産屋に近づく蟹を掃ったとあり、現在では産婆の神になっています。

    天忍人命は、天村雲命の日向での御子神とされており、當麻が日向とか丹後とつながっていることを示しているようです。対馬の志々伎神社や伊予の高忍日売神社の祭神。

    この高忍日売神ですが、忍はオシで照の意があるとすれば、高照姫に通じ、鴨の女神と云うこと。

    葛城の垂見宿禰と但馬

    但馬(タジマ)の地名は葛城の當麻(タギマ)郷[*1]として大和盆地に現れます。
    『古事記』開化天皇記に「開化天皇は葛城の垂見宿禰の女、ワシヒメを娶して生みましし御子、建豊波豆羅和気。一柱。」

    「建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽(因幡)の忍海部・丹波の竹野別・依網(よさみ)の阿毘古等の祖なり。」との記載があります。

    これについて、門脇禎二著『葛城と古代国家』によりますと、建豊波豆羅和気王が祖とされている葛城の忍海部、河内の依網の阿毘古(よさみのあびひこ)、丹波の竹野別(たにはのたけののわけ)、稲羽(因幡)の忍海部(おしぬびめ)の諸氏は葛城から日本海側への一つのルートにのっていて、神戸の垂水から加古川沿いに北上、由良川を下って氷上(ひかみ)から丹後へつながるルートを想定されています。初期の葛城に拠点を置いた豪族の勢力の動向を示していると云うことです。

    『日本書紀』垂仁天皇八十八年に、但馬に拠点を持つ天日槍(アメノヒボコ)の末裔の清日子(スガヒコ)や多遲麻毛理(田道間守)は、大和へ出てきていることになっています。ヒボコが持ってきた宝物を見たいと云うことになって、「天日槍の曽孫の清彦(清日子)が自ら神宝を捧げ献上した。」との記事があります。『紀』では清彦の子が田道間守となっており、彼は非時(ときじく)の香美を探す旅に出るのです。清彦以降の天日槍の後裔は大和に居住したのでしょう。香芝市の畑、また川西町の糸井神社などが考えられます。

    『古事記』では、清日子は當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之咩斐(タギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。

    葛城の高額比賣命の高額、まさに香芝市の畑に比定されています。ヒボコの末裔の居住に相応しい所。

    『常陸国風土記』には行方郡に當麻(タギマ=当麻)郷が出てきます。道路が凸凹でたぎたぎしかったから、即ち「悪し路」のこと。また『古事記』で倭建命の最後のシーンで、当芸(峠)の野に来た時、「吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ。」と云われたとあり、足をひく、高かったり低かったりとの注釈があります。當麻の道もそのような道だったのかも知れません。
    [*1]…當摩は佐賀の邪馬台国説あり。
    葦田神社の「足いたの伝承」と似ています。

    6.倭文(しとり)神社

    いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社。
    建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたもの。その本源は奈良県葛城市(旧當麻町)の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。

    延喜式神名帳には以下の社名が見える。

    葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)
    奈良県葛城市(旧當麻町)の二上山山麓にある神社である。式内大社で、旧社格は村社。単に倭文神社(しずりじんじゃ)とも呼ばれる。

    天羽雷命(あまはいかづちのみこと)を主祭神とし、右殿に摂社・掃守神社(天忍人命)、左殿に摂社・二上神社(大国魂命)を配祀する。
    天羽雷命は各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされる。

    • 伊勢国鈴鹿郡 倭文神社(現 加佐登神社(三重県鈴鹿市加佐登町)に合祀)
    • 駿河国富士郡 倭文神社(静岡県富士宮市星山)
    • 伊豆国田方郡 倭文神社(現 鍬戸神社(静岡県三島市長伏字石原)ほか論社複数)
    • 常陸国久慈郡 静神社(しずじんじゃ)(茨城県那珂市)鹿島神宮に次ぐ常陸二の宮
    • 甲斐国巨摩郡 倭文神社(山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮)
    • 上野郡那波郡倭文郷 倭文神社(群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東)
    • 丹後国加佐郡 倭文神社(京都府舞鶴市今田津ノ上)
    • 丹後国与謝郡 倭文神社(京都府与謝郡野田川町三河内)
    • 但馬郡朝来郡 倭文神社(兵庫県朝来市生野町円山)
    • 因幡国高草郡 倭文神社(鳥取県鳥取市大字倭文字家ノ上)
    • 伯耆国河村郡 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)
    • 伯耆国久米郡 倭文神社(鳥取県倉吉市志津)
      他に以下の倭文神社も著名である。
    • 倭文神社(岩手県遠野市)
    • 倭文神社(奈良県奈良市)
    • 美作国久米郡倭文郷倭文神社(岡山県津山市油木北)
    • 淡路国三原郡倭文郷倭文神社(兵庫県南あわじ市倭文)。
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    7.日下部氏(くさかべうじ)

    古事記には、次のとおり記されている。

    「この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部(かつらぎべ)を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部(みぶべ)を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。」

    とあります。それぞれの部が何の職務かわかりませんが、大日下王は別名「大草香皇子」なので大阪草香邑で、波多は秦で渡来系ですから、崇神・垂仁から続く半島との繋がりを明確に正当化しているのでしょうか。
    日下部氏は開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔や越前朝倉氏であると記されています。いずれにしても、日下部氏は、古事記や日本紀といった神話をはじめ、丹後や肥前、豊後、播磨などの風土記にもその名が見える一方、平城京跡や佐賀県唐津市の「中原遺跡」などから日下部の名を記した木簡が出土していることから8世紀初頭には、全国的に展開していたことはほぼ間違いないようです。

    天孫族説では、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコホノニニギノミコト)と木之花佐久夜卑売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた火須勢理命(ホノスセリノミコト)を祖としています。

    火須勢理命は日本書紀における海幸彦、弟は山幸彦。
    天神説では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫である天照国照彦火櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)(元伊勢籠神社)を祖とする。地祇族説では、近畿から九州にかけて分布していたと思われる先住民族・隼人(ハヤト・ハヤヒト)を祖とする。隼人は九州南部の阿多・大隈・日向・薩摩などの地に居住していたとされる人々の呼称。「古事記」では木之花佐久夜卑売の御子神、火照命が隼人阿多君の祖とする。「日本書紀」では火須勢理命は隼人等が始祖と註がある。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    3.百済王

    百済王(クダラノコニキシ)氏は、百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする日本の氏族。百済を氏・姓(本姓)とし、持統朝に王(こにきし)姓を賜ったとされています。
    当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人のうち別格の地位にありました。

    平安時代は、初期とくに桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏であったため、「百済王等者朕之外戚也。」(同二月二七日条)と厚遇を受けました。女子を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮に入れ、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得ました。本貫地、河内国交野(カタノ)への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られます。

    百済王氏の本拠地は当初難波にありましたが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、この地に百済王の祀廟と百済寺を建立しました。百済寺は中世に焼失しましたが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残ります。奈良時代末期には俊哲が陸奥鎮守将軍征夷副使などに任じ、武鏡は出羽守となるなど、敬福(きょうふく)以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続しました。8世紀に敬福が、陸奥守として黄金を発見し、東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍しました。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社です。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもあります。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残ります。飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
    大阪府羽曳野市飛鳥1023番地

    式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

    素盞嗚命が祭神

    創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。
    5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地。

    『日本の神々3』によると、延喜式神名帳の河内国安宿郡の名神大社。当地は古墳時代に飛鳥戸と呼ばれた。
    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

たじまる 飛鳥-4

三国時代

1.古代三国


中国の三国時代(4世紀中葉 – 676年)、百済(くだら/ひゃくさい/ペクチェ:古代の朝鮮半島南西部にあった国家)、高句麗、半島南東部の新羅、半島南部の伽耶諸国がありました。

南部の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)は、馬韓諸国のなかの伯済が百済に、辰韓諸国の斯盧(しろ、サロ)が新羅(シラギ)となり、弁韓諸国は統一した政権を形作ることなく伽耶諸国となりました。伽耶諸国はその時々の状態から「六伽耶」「浦上八国」「任那十国」などという名でも記され、その領域の所有を巡って百済と新羅とが争いましたが、最終的には6世紀中頃に新羅に吸収されました。(済州島の独立国時代)は、5世紀末に百済に服属し、百済が滅びた後は新羅に服属しました。

日本は飛鳥・奈良時代(7~8世紀)に、「新羅=天敵」、「百済=同盟」、「加羅(任那)=植民地」という史観で『日本書紀』をつくりあげました。その結果、「朝鮮半島南部(加羅)は日本の領土だった」というイメージが形成され、戦前の朝鮮併合の大義名分にもなったうえに、現在でも「飛鳥時代以前、日本は朝鮮南部を支配し続けていた」と思っている人は多いそうです。

しかし、近年、日韓の遺跡から見つかった遺物の研究によって、極めて流動的だったという歴史が明らかにされています。

3世紀

卑弥呼の時代でもある3世紀を境に、加羅との窓口となる日本側の勢力が、それまでの北部九州から畿内へと変わります。この時点でヤマト王権が外交を掌握したことになります。

371年に楽浪郡の故地である平壌を攻めて高句麗の故国原王を戦死させたこともあるが、その後は高句麗の広開土王や長寿王のために押され気味となり、高句麗に対抗するために倭国と結ぶようになりました。

7世紀

607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)を送ります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れ、国家の政治・文化の向上に努めました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しました。

国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていました。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。

660年、唐の蘇定方将軍の軍が山東から海を渡って百済に上陸し、百済王都を占領しました。義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏して百済は滅亡しました。

663年、百済と倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及びました(白村江の戦い)。
これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させ、亡命を希望する多くの百済貴族を伴って帰国させました。

668年、唐と連合して百済・高句麗を相次いで滅ぼした新羅が半島の単独政権となりました。
高句麗もまた668年に唐の軍門に降ることになります。唐は平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指しますが、これに反発した新羅は、百済・高句麗を名目的に復興させて反唐戦争に動員し、倭国とも友好関係を結びました。

古墳時代にはヤマト王権に仕える技術者集団として朝鮮半島からも人々が渡来しました。大和朝廷に仕えた渡来人としては、秦氏、東漢氏、西文氏が代表的です。

飛鳥時代には百済の滅亡により亡命貴族が日本を頼って渡来しました。

4.渤海の成立と新羅

新羅が統との関係を修復するころ、旧高句麗の将軍であった大示乍栄が東牟山(吉林省)に拠点を構え、高句麗民をを結集して震国を興しました。やがて唐から渤海郡王に冊封されると、国名をあらため渤海を称するようになりました。渤海はかつての高句麗領域の大半を治めましたが、その際に在地社会を改編することなく、かつて高句麗の支配下に靺鞨(マッカツ)族をはじめとする諸族の首長を通じてかれらを支配しました。

唐の諸制度に習い中央官制、軍制、地方制度(五京・十五府・六二州)が整備されて国力も充実しました。王都となった上京竜泉府には、中国の都城を模倣した整然とした条坊制がしかれるなど、積極的に唐文化を受容し、九世紀には唐から「海東の盛国」といわれるまでにいたりました。

対外関係では、唐と日本との関係を重視して頻繁に交渉しました。727年にはじまった対日本外交は、九世紀になると定期的にほぼ105人で構成される使節団は日本に派遣され、交易もさかんにおこなわれました。一方で、南に境界を接した新羅との交流は、二百年にわたってほとんどなく、時に敵対することがありました。

渤海の中央集権的な国家体制の成立は、統一後の新羅の国家体制に次ぐものでした。紀元前より、中国東北地方から朝鮮半島にかけては、多様な言語・文化をもち、生業を異にした諸民族が居住していました。そうした諸民族が興亡を経て、中国王朝から受容した漢字・儒教・律令・仏教を通して諸族を統合し、新羅・渤海の領域内に社会的・文化的な共通基盤を生み出していきました。こうした基盤は、これ以後に形成されていく朝鮮文化の基層となっていきました。

新羅・渤海の両国が朝鮮半島の南北で並立する体制は、10世紀に至ると動揺し、まず渤海は北方の契丹族の侵入によって926年に滅亡しました。南の新羅も900年を前後して、後百済と高麗が勢力を増し、後三国とよばれる分裂状況となり、935年に新興の高麗に降伏して滅亡しました。

5.渤海使来航

九世紀を境に日本の外交姿勢は内向きとなり、遣唐使は838年出発の使節を最後に途絶えてしまうし、新羅からの使者は779年、新羅への使者も836年で終わります。そのなかで、727年に始まった渤海との関係はおおむね良好でした。その後、926年までの間に、渤海からの使者が34回、渤海への使者が13回記録されており、とくに前者は滅亡寸前まで途絶えることはありませんでした。九世紀半ばから十世紀にかけて、渤海は日本と国交のあった唯一の国だったのです。

727年、渤海二代目の王、大武芸から聖武天皇に宛てた啓書は、「高麗の旧居を復し、扶余の遺俗を有(たも)つ」と述べて、渤海が高句麗(高麗)を復興したことを強調します。また、使者はテン皮300張を献じました。730年の渤海の遣唐使が献じた海獣皮が8張だったことと比較すれば、渤海の日本に対する期待がいかに大きかったかがわかります。

初期には武官が起用されていましたが、762年の渤海「国王」柵封後は文官中心になります。国際社会での地位が上昇した渤海は、対日関係を対等なものに近づけようとして、高句麗の後継国との解釈をとる日本側との摩擦が生じました。他方、使節団の規模が759年以降の数倍になるなど、貿易の比重が高まります。

日本は811年を最後に使者派遣を停止し、824年には渤海からの使者を12年に1回に制限しました。人員が105名に固定するとともに、構成も地方首長や商人の比重が大きくなりました。右大臣藤原緒嗣は、この傾向を端的に「実に是れ商旅なり、隣客にあらず」と指摘しています(826年)。

渤海使の目的は、八世紀には遣唐使の護送や大陸情勢の伝達など政治的なものが多いですが、しだいに貿易を中心とするようになり、日本側に入京を拒否される例が多くなります。日本からの使節の多くは渤海使を本国に送り届けるのが任務で、出発地や航路は不明な点が多いです。

以下、「福井県史」より

式内社として、白木(シラギ)神社などがみえる。そのうちとくに、「久麻加夫都」はおそらくコマカブトで、冠帽を意味する韓語の(kat)がカブトになったのであろう。このように能登から敦賀にかけて新羅系文化の伝存がみられるわけであるが、それは同時に物資の交流をともなったに違いない。

アメノヒボコは八種の宝を持って渡来したというが、それはヒボコに限ったことではなく、おそらく知識や技術の伝達をともなうものでもあったろう。日本と外国との交渉は八世紀になり、従来の唐・新羅に加えて、渤海との交渉が始まる。迎使や送使を除きほぼ二〇年間隔で遣唐使を派遣するが唐からの使(唐使)は地方官の私的な使も含め、わずか二例のみである。また、新羅とは、八世紀前半は使の往来が活発であったが、入京を許さず大宰府から帰国させる場合もあり、宝亀年間(七七〇~八〇)を境に公的な交流はほとんどなくなる。このように八世紀後半以降、唐・新羅との公的な国家間の交流は減少する傾向にある。そのころ活発となるのは渤海との交流であった。唐・新羅との交流においては大宰府がその窓口となったが、渤海は日本海を隔てていたため、渤海使は例外を除いて北陸道をはじめとする日本海沿岸諸国に来航し、また遣渤海使は越前(加賀)や能登など北陸道から出発した。西域や唐の先進文物は大宰府から山陽道または瀬戸内海を経て平城京に至り、正倉院は「シルクロードの終着点」とよばれるが、公的な使の回数では奈良から平安初期にかけて、渤海との交渉が最も多く、渤海は日本と唐との中継貿易的な役割も果たした。

したがって最近の研究では、日本海ルート、とくに都から比較的近かった北陸道経由で中国大陸の文化が日本にもたらされた場合が注目されている。

このような意味で福井県の県域は、古代において大宰府と並び、外国との「窓口」であったといえよう。渤海と日本との交渉は、七二七年、国書と方物(贈り物)をたずさえた渤海使が日本に来航し、翌年、日本の送使を同行させたことに始まり、九二六年、契丹に渤海が滅ぼされる直前の九一九年までの間、渤海使は約三四回派遣された。一方、日本からは約一三回の遣渤海使が派遣されたが(表36)、ほとんどが送使であり、弘仁二年(八一一)に出発した使を最後に、日本からの使の派遣は途絶える。このほか、遣唐使が渤海経由で入唐および帰国したこともあった。

日本と渤海との交渉は、初期は唐・新羅との対立という東アジア情勢のなかで、渤海側からの政治的な目的で行われた。渤海との公的な交渉で両国の友好関係が保たれるとともに、貿易および文化交流が行われた。渤海使が日本にもたらした物としては、貂や大虫(虎)の毛皮など皮革製品や蜂蜜や人参など自然採集品が中心であり、平安貴族が貂裘(貂の皮ごろも)を愛用していたことは有名である。このほか、貞観元年(八五九)正月ごろ、能登国に来航した渤海使によってもたらされ、貞観三年から貞享元年(一六八四)まで八二四年間も用いられた『宣明暦』(『長慶宣明暦経』)、貞観三年に渤海大使李居正が将来し東寺や石山寺に所蔵された『尊勝咒諸家集』や『佛頂尊勝陀羅尼記』などの仏典に代表されるように、渤海使は大陸の文化・文物ももたらし、日本の文化に少なからぬ影響を与えた。さらに南海産の玳瑁で作られた盃や麝香の将来など、唐と日本との中継貿易的な役割を果たしていた。反対に日本からは、絹・・綿・糸など繊維製品、黄金・水銀・漆・海石榴油・水精念珠・檳榔の扇などが渤海にもたらされた。

6.渤海使来航の季節と航路

渤海使は主に秋から冬にかけて日本に来航したが、若干の例外を除き来航の季節で大きく分けると(以下、すべて陰暦)、弘仁五年を境に、前半は十月中旬から十一月中旬ごろに(出港は九月下旬から十月下旬ごろか)、後半は十二月中旬から三月上旬に(出港は十一月下旬から二月中旬ごろか)、それぞれ集中している。前半の場合、入京後は元日朝賀に参加することが多く、一方、後半の場合は、入京後も元日朝賀に参加することはなく、かわりに五月の節会に参加するという特徴がある。これはおそらく、弘仁年間以前は元日朝賀に、それ以降は五月の節会に参列できるように来航することが義務づけられていたためであろう(田島公「日本の律令国家の『賓礼』」『史林』六八―三)。また、季節風の利用からいえば、前半が北西の季節風の吹き出しを、後半は真北の季節風を利用し一気に日本海を横断したとの説がある(上田雄「渤海使の海事史的研究」『海事史研究』四三)。

今の北朝鮮の清津(チョンジン)かロシア沿海州のポシェト港を出向し、日本海を突っ切る航路をとりました。到着地は、風の具合で対馬から蝦夷地にまで及んでいますが、北陸道の越前・加賀・能登が多いです。能登半島西岸の福浦津(石川県富来町)は、小さいが水深があり風も避けられる良港で、使者の宿泊施設や帰国船の造船所があったといいます。敦賀や羽咋(福浦の少し南)には客館が置かれ、使者到着が報じられると、京都から特使が赴いて接待に当たりました。二つの客館はともに砂州上にあり、砂州の付け根には、それぞれ日本海の海の神として名高い気比社(敦賀・越前国一宮)、気多社(羽咋・能登国一宮)が鎮座します。祭りや祓いを通じて神社と客館が深くつながっていたことを想わせます。また、海流の状況を考慮にいれた最新の研究によれば、北西の季節風とリマン海流を利用し、朝鮮半島沿いに南下したあと、対馬暖流に流され、初期は航海技術の未熟さから、能登半島より東に流されたが、後期はうまく横切ることができるようになり、西の方にたどり着くことができるようになったと考えられている(日下雅義「ラグーンと渤海外交」『謎の王国・渤海』)。また、渤海使の帰国航路についても、これも直接日本海を横断するのではなく、奥田説を逆に考え、対馬海流に乗っていったん東北地方の沿岸を北東に進んだあと、北海道またはサハリンの沖で西に梶をとってリマン海流にのり、沿海州の沿岸を南下するという説も考えられている(稲垣直「美保関から隠岐島まで(再考)」『季刊ぐんしょ』再刊一八)。しかし、当時の航海技術および造船技術からみて、渤海使は季節風を利用したといっても、結局は風波に任せたため、到着地は表35のごとく、東(北)は出羽国から、西(南)は対馬島・長門国まで広範囲に来航している。しかし、来航地は前半から後半にかけて東北から西南に変化しており、前半では出羽国・佐渡国に計八回も到着しているが、後半ではすべて能登国以西となっている。25代継体天皇となる男大迹王(おおどのおおきみ)は、『記紀』によると、応神天皇5世の孫(曾孫の孫)であり、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)。先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江高嶋郷三尾野とも)から迎えられました。継体天皇以降は、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなりました。

7.破綻する小中華帝国

842年8月15日、太宰府の藤原衛から朝廷に上奏文が届きました。その趣旨は「今後は新羅国人の入境をいっさい禁止したい」とうものです。提案理由として次のようなことが記されていました。

新羅はずっと前から日本に朝貢してきた。ところが、聖武皇帝の代から始まって、仁明朝の今に至るまで、旧例に従わず、つねによこしまな心を懐き、贈り物を献上せず、貿易にかこつけてわが国の状況を探っている。もし不慮のことがあったら、どうして凶事を防げばよいだろうか。

これを受けた朝廷では、「天皇の徳が遠方まで及び、外蕃が帰化してきた場合、いっさい入境を禁止してしまうのは不仁ではないか。よろしく流来に準じて、食糧を与えて放還すべきである。商人が飛帆来着した場合は、持ってきた物は民間に自由貿易を許可して、取引が終わればすぐに退去させよ。」という官符を発しました。

中央政府の決定は、「徳の高い天皇が外蕃を従える」という建前から、大宰府の提案に比べて穏便なものに落ち着きました。とはいえそこには重大な対外政策の変更がありました。そのことは、以下の官符との比較で明らかになります。701年施行の大宝令を改訂した養老令(757年施行)の戸令没落外蕃条に、「化外の人が帰化してきたら、余裕のある国に本貫を与えて安置せよ」とあるように、積極的に国内居住を許すことで徳化を誇示するところにありました。また、759年の太宰府に下した勅においては、帰化新羅人が「墳墓の郷」を想うあまり帰還を願った場合の恩恵的特例として、「給ろう放却」という措置が規定されています。

しかし、774年官符は、来着する新羅人を「帰化」と「流来」とに分類します。流来の場合は、彼らの意志に基づいて到来したのではないから、放還して日本の恩情を示すこと、その際には、乗船が破損していれば修理を加え、食糧がなければ給与することが定められています。他方、帰化の場合は、「例により申し上げよ」とあるだけですが、少なくとも従来の原則である国内居住許可を排除していません。これに対して842年官符では、帰化の場合も放還するとしていますから、新羅人の帰化を一切受け入れない方針に転換したことになります。

「小中華帝国」という自己認識を支えてきた徳化思想は、年を追うごとに明らかに破綻を来しています。

8.東夷の小帝国

「倭の五王」のころ以来、倭は、朝鮮半島の百済・新羅および加耶諸国を朝貢国として従える小帝国として、自己を位置づけることに、外交的努力を注いできました。一方、百済以下の各国には、倭に朝貢することで、朝鮮半島の分立状況において優位を確保しようよいう動機づけが存在しました。

660年代、唐が新羅と連合して百済・高句麗を滅ぼし、さらに唐は朝鮮半島の直接支配を試みますが、新羅がこれに抵抗して、676年に唐の勢力を朝鮮半島から駆逐しました。660年、百済滅亡後、百済王族の亡命先となった倭(やまと)は、百済復興支援を掲げて軍事介入を試みますが、663年に白村江で唐・新羅連合軍に敗北を喫しました。律令体制の本格的導入はこの危機への対応という面があり、このころ「日本」という国号も確立します。

新羅は、統一後しばらくは日本との良好な関係を維持するために朝貢国の立場を変更せず、701年元日の文武天皇に対する朝賀の儀式にも、藤原宮の大極殿に新羅使が「蕃夷の使者」として参列しています。このような新羅の位置づけは、前年に完成した大宝令において法的規定を与えられました。『令集解』に収められた令の本文や注釈によれば、天皇を戴く国家の統治の及ぶ空間を「化内(けない)」、その外の天皇支配の及ばない空間を「化外(けげ)」として区別します。化外は「隣国」である唐、「蕃国」である新羅、蕃と称するに足りない「夷狄(いてき)」としての毛人(えみし・蝦夷)・隼人(はやと)の三カテゴリーからなります。
令文のなかには唐までも「蕃国」に含めるものがあり、遣唐使を朝貢使として受け入れていた唐を蕃国とみなすのは、当時の国際関係からかけ離れています。中華思想からは出てこない「隣国」という用語は、このようなギャップを埋めるべく開発されたと思われます。

この後中世にかけて、中国の王朝とは対等、朝鮮半島の諸国よりは一段上という位置づけを、国家関係の理想像とする思想が、日本の支配層を強固に貫いて流れる伝統となります。この自己規定を存続させるには、朝鮮半島に唯一残った新羅を朝貢国として従えることが、必要不可欠でした。

9.新羅の外交攻勢

七世紀末、朝鮮半島北部から中国東北地方に書けての地域に渤海が興り、唐の支配から自立して最盛期を迎えた新羅との並立状況が生まれました。渤海は靺鞨(マッカツ)をめぐって唐と対立し、732年には山東半島の登州に奇襲をかけたので、翌年、唐は新羅に命じて渤海の南境を攻めさせました。孤立を恐れた渤海は、727年を皮切りに日本に使者を派遣し、「蕃国」の増加を歓迎する日本との間に親密な関係を築きました。735年、新羅は唐から大同江以南の領有を正式に認められ、日本に朝貢を続ける積極的な意味はほとんど失われました。新羅が日本との関係を対等なものに改めるべく、外交攻勢に出てくるのは必至でした。

その動きは、842年官符が強調するように、聖武朝(724~49年)から明瞭になります。734年、日本に国号を「王城国」と変更する旨を告げる使者を送りますが、翌年日本はこれを追い返しました。この新名称には日本との対等関係の含みがあったらしいです。

「王城国」の一件があった翌736年、日本は新羅に大使 阿倍継麻呂以下の使者を送り、翌年帰国して「新羅は常礼を失し、使の旨を受けず」と伝えました。朝廷は上下の官人を内裏に招して諮問し、これに答えて「使者を遣わして詰問せよ」とか、「兵を発して征伐を加えよ」とかの意見が出ました。また、伊勢神宮、大和の大神(おおみわ)社、筑紫の住吉社・宇佐八幡・香椎宮に奉弊使を遣わして、「新羅無礼の状」を神に告げました。この発想は、神功皇后の三韓征伐伝説とも結びついて、日本の支配層のなかに長期にわたって持続し、事あるたびに露頭するようになります。

752年に使者の往来があり、両国の関係修復が試みられたものの、日本側の高圧的な態度により不調に終わりました。そのうえ、翌年唐の朝廷で遣唐使大伴古麻呂が席次を新羅使より上位に変更させたことが重なって、両国関係は冷え込み、同年新羅に赴いた使者小野田守は、謁見されず追い返されています。こうして日本と渤海が同盟して新羅を挟み撃ちにする構図が生まれました。

これが実現しなかった原因は、恵美押勝(藤原仲麻呂)が国内で政治的孤立を深め、764年に反乱を起こし滅んだことにありますが、国際的には、762年に唐が渤海王を「郡王」から「国王」に格上げするなど、唐・渤海関係が好転し、北東アジアが緊張緩和へ転じたことにありました。

出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
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たじまる 飛鳥3

大化改新

目 次

  1. 大化の改新
  2. 「日本」という国号
  3. 天皇という称号
  4. ヤマト政権の地方官制
  5. 白村江の戦い

大化の改新

622年に聖徳太子が没し、ついで628年には推古天皇も逝去しました。その皇位継承をめぐる対立に乗じて、蘇我氏はさらに勢力を拡大していきます。その過程で太子の一家も滅ぼされてしまいました。蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)でありました。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにしました。

孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握りました。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させました(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たりました(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、その父で大臣の蘇我蝦夷(えびす・えみし)を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼしました(乙巳の変(いっしのへん)。こうして蘇我氏は急速に没落、新たに即位した孝徳天皇は中大兄皇子を中心に、律令制度に基礎を置く「大化の改新」が断行されます。ちなみに「大化」は日本において初めて立てられた年号です。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月に新しい難波宮(大阪市)で改新の詔を宣して、着々と中央集権的な統一国家が形づくられていくのです。(大化の改新

その後も、これまでの蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めました。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとあります。
しかし、改新の詔はのちの律令などによって文章が様々に装飾されているので、そのまま信じることはできませんが、人口・土地の調査を行い、地方行政区画の「郡」を設置するなど、中央集権化を進める諸政策が打ち出されていきました。

663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなりました。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置きました。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進みました。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移されました。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれています。
仏教もこれを契機として、保護と統制が時代が下がるにつれて強まります。「大宝律令」(701年完成)の「僧尼令」は、唐の「道僧格」等に倣ったもので、全体は二十七条からなり、各条ごとに違反した場合の罰則が付けられています。重いものは教団追放、あるいは還俗、軽いものは苦使(掃除や建物の修理などの肉体労働)となっています。

ところで、国家にとって仏教界の統制が重要な問題の一つになったということは、裏返せば、その大きさと力が無視できない、放ってはおけないものになってきたということなのです。ある記録によれば、例えば寺院の数は、推古天皇三十二年(624)に46であったものが、持統天皇六年(692)には545に達したとされます。約七十年の間に約十二倍に増加しているのです。
それらの中には、百済大寺(大安寺)のような官寺もありますが、ほとんどは各氏族が祖先崇拝の念にもとづき、一族の繁栄と仏神の加護を祈って建てた氏寺(うじでら)でした。
しかし、斉明天皇六年(660)、詔によって大規模な任王般若会が行われたころから、諸寺は次第に護国的な役割を伴わせ持つようになります。天武九年(680)、初めて『金光明教』の講説を行うことが宮中および諸寺に求められました。これによって奈良仏教の鎮護国家的な性格は、決定的に重要な特徴となったと推測されます。舎利塔中心から金堂中心へと伽藍配置の変化もみられます。

「日本」という国号

この時代前後に「倭国(倭:ヤマト)」から「日本」へ国号を変えたとされています。日本列島が中国や朝鮮半島に対して東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられています。
建国は、紀元前660年2月11日とされていわれていますが、「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられています。具体的には、天武天皇治世(673年-686年)において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されています。

7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期でした。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられていますが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説です。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至りましたが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説です。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されています。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できます。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としています。

天皇という称号

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていました。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称しました。

「天皇」号をはじめて採用したのは、推古天皇という説も根強いですが、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とされていますが、近年の研究では、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されたことにより、それまでの「大王」から「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力です。天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなります。伝統的に「てんおう」と訓じられていました。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされています。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一されました。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」「大日本帝国皇帝」が多く用いられていました。完全に「天皇」で統一されていたのではないようです。

ヤマト政権の地方官制

天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こりました。672年(弘文元)壬申の乱が起こりました。この戦いは、日本古代最大の内乱であり、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となりました。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めました。

即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指します。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにしました。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもありました。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めました。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大しました。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革しました。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行いました。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達されました。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を一人も置きませんでした。

外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により、新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶しました。
「天武天皇 九つの偉業」

  1. 1. 天皇号の創始
  2. 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置
  3. 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
  4. 4. 践祚大嘗祭の制定
  5. 5. 宮都の選定と設計
  6. 6. 八色の姓の制定
  7. 7. 飛鳥浄御原令の制定
  8. 8. 三種の神器の制定
  9. 9. 伊勢の遷宮の制定・開始

672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移しました。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行いました。

681年(天武10年)には、律令の編纂を開始しました。5年後の686年(朱鳥元年)に天武天皇は没しました。8年後の689年(持統3年)に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定されます。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられています。

人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始されます。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となりました。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施しました。

694年(持統8年)には藤原京に都を定めました。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定されました。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成しました。これをもって、一応の古代国家成立とみます。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われました。
701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされています。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えました。

このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されています。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されています。

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。戦いは唐・新羅連合軍の勝利に終わりました。大陸に超大国唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、その後の倭国(日本)にも大きく影響しました。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多いですが、中国・朝鮮側では「白江」と表記されます。

668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進しました。また、東国に柵を造りました。白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来しました。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されています。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていました。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになりましたが、日本はこれを認めませんでした。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれました。

737年には新羅征討が議論に上りますが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなりませんでした。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備しています(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったのですが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなりました。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされています。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しています。