たじまる 弥生1 弥生時代の研究

[catlist id=20 orderby=title order=asc]

弥生時代の研究

 弥生時代とは、北海道・沖縄を除く日本列島における時代区分の一つであり、縄文時代に後続し、古墳時代に先行する、およそ紀元前10世紀中頃から3世紀中頃までにあたる時代の名称です。

弥生時代の暦年代は、近年、自然科学の年代測定の進歩によって新しい情報が増えています。

研究が進んでくると、時代の過渡期の様相は極めて複雑で、時代区分についても多くの見解の相違が出てきています。

弥生時代については、現在もどの段階を始まりと終わりと考えるかについて、いろいろ意見がありますが、国立歴史民俗博物館の研究グループによる炭素同位対比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだと主張する説がでてきました。

これによると、

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の三期に分けられていましたが、近年では上記の研究動向をふまえ、

  • 早期(紀元前1000年頃~紀元前800年頃)
  • 前期(紀元前800年頃から紀元前400年頃
  • 中期(紀元前400年頃~紀元50年頃)
  • 後期(紀元50年頃~三世紀中頃)の四期区分論が主流になりつつあります。しかし、一口に弥生時代といっても、1200年間というと、時代区分の平安時代(794~)から現代までをひとまとめにするようなもので、狩猟時代から稲作がはじまり、クニが誕生するまでの、とても長く、未知な世界です。つい近年まで、ヤマト建国以前の出雲には、神話にあるような巨大な勢力があったわけではないというのが常識でした。出雲神話は創作されたものであり、ヤマト建国後の話に終始していたものであったからです。

    出雲神話があまりにも荒唐無稽だったこと、出雲からめぼしい発掘品がなかったこともその理由でした。ところが、このような常識を一気に覆してしまったのが、考古学の新たな大発見でした。島根県の荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡、鳥取県の青谷上寺地遺跡、妻木晩田遺跡の発見によって、弥生後期(ヤマト朝廷誕生前夜)に、山陰地方に勢力が出現し、しかも鉄の流通を支配していた可能性が出てきたのです。こうした最近の研究成果や遺跡・遺物など文献資料にとどまらず、神社や神話・説話など、境界を越えたさまざまな交流の上に展開した日本列島諸地域の古代史を多元的に明らかにするというテーマで、探ってみたいと思います。環日本海の古代史…その大きな謎とロマン(そんなたいそうな(;^_^A
    近年、青森・三内丸山遺跡、島根加茂岩倉遺跡、荒神谷銅鐸、鳥取・大山町、淀江町にまたがる妻木晩田遺跡など、
    新しい発掘によって、古代の人々は、日本海沿岸はもちろんのこと、
    朝鮮半島や中国大陸と自由に航海し、交易していたことが実証されてきました。
    江戸時代まで続いていた北前船も、古代から続いてきた「いにしえの文化遺産」であったといえるでしょう。これからも新しい事実が調査によって解明されていくたびに日本史は、新たな事実に塗り代えられていきます。インターネットによる資料公開は、新しい感動を与えてくれます。だからこそ、歴史は興味が尽きないのでしょう。

  • 但馬国府・国分寺が置かれていた兵庫・日高町…
  • 但馬でも発掘される古墳の数や遺跡の多さ、
  • 全国でも稀な粉々に破壊された銅鐸片
  • 社寺の数等では、但馬古代史の宝庫といわれています。 そこで生まれ、ずっと興味があったこと…改めて「気多(ケタ)」という地名及びエリアの誕生にまで遡って考えてみることも無駄ではないと思うのです。ここでは地元の豊富な遺跡や遺構をもとに、日高町という名称以前の地名であった「気多(ケタ)」という郡名、
    そしてこの土地をそう名付けた愛すべき我々の祖、古代人を、「気多人(ケタジン)」と呼ばせてさせていただき、素人だからこそ、独断と偏見?!で大胆かつ自由な仮説が展開できるのかも知れないと思います。

北近畿鉄道ものがたりー今

北近畿鉄道物語

現在の主な交通機関

コウノトリ但馬空港

概 略
空港種別その他飛行場
設置管理者兵庫県
開港日1994年5月18日
運用時間8:30 – 18:30 (JST)
所在地兵庫県豊岡市
岩井字河谷1598-34
海抜 AMSL
584ft (178m)
位置北緯35度30分46秒
東経134度47分13秒


saab340b

但馬飛行場(たじまひこうじょう Tajima Airport)は、兵庫県豊岡市にある飛行場。通称は但馬空港。コウノトリ但馬空港の愛称がある。

新幹線や高速道路などがない高速交通空白地帯であった兵庫県北部(但馬地域)の交通インフラの整備を目的として、兵庫県を事業者として1987年6月に基本建設計画が発表され、1994年5月に開港した。

日本エアコミューター(JAC) がサーブ 340Bを伊丹まで1日2往復運行している。

それまでには神戸ヘリポート~湯村温泉にへりが運行されていた。

また現在、東京羽田直通便実現を目指して、地元での機運が盛り上がって来ている。市民からは東京便実現ももちろんだが、伊丹空港で乗り継ぎを行う事で、東京、松山、出雲、山形、長崎、福岡等日本各地へ短時間でアクセスが出来、疲労も少ない移動が出来る事を行政はもっとPRしてはとの声が出ている。なお、但馬空港から東京便が実現した場合の利用が想定される周辺人口は、舞鶴市など北近畿全域からの利用者が見込まれるため、現在の伊丹便よりも遥かに多い30万人~40万人とされ、これは隣の鳥取空港の周辺人口にも相当し、決していい加減な話ではないと、2007年11月1日に開催された地域航空フォーラムにおいて有識者から意見が出た。

空港を運営する兵庫県は、大阪国際空港線のみでは空港のメリットが十分には活かせず、東京国際空港線の開設が必要との見地から、滑走路延長事業を計画しており2006年から基礎調査が進められている。この計画では現在の1200メートルから1500メートルに延長し、ジェット機材による東京国際空港線が就航できるようにする。

神戸空港の開港に伴い路線就航も検討されたが、運行経費の財政負担を求められた豊岡市、養父市などで構成する但馬広域行政事務組合が2006年6月に「東京国際空港線の開設に具体的に寄与しないのなら神戸空港線は不要」と兵庫県に申し入れ、計画は棚上げされている。

山間を切り開いて開設されたため、早朝の霧や荒天による欠航や出発空港への引き返しが比較的多かったが、2001年10月より兵庫県が計器着陸装置(空港には導入されているが、定期路線があるとはいえ、一般飛行場に導入されるのは異例)を導入したため、運航率は向上している。航空管制については、定期便は大阪国際空港航空管制官による遠隔指示(伝達は大阪レディオ航空管制運航情報官による。
兵庫県は広域な県域のアクセスとして神戸と但馬・播磨を1時間以内で結ぶ構想で、但馬空港が完成した。しかし、播磨学研都市に空港を建設する計画は棚上げとなっている。
地元日高町商工会青年部では、かつて創部35年特別事業「鹿児島へサーブ!!」としてチャーター利用を企画・実施した。同時間帯にサーブ2機がターミナルに並んだ。これは定期便以外の空港利用で活性化促進を目指したものであったが、当時運輸省(国交省)の航空運輸法では定期路線以外にチャーターを運行することは前例がなく、運輸省・県・日本エアコミュータ等の協力により実現した画期的なもので当時注目を浴びた。

但馬~伊丹線は離島との路線を除けば国内線最短の空路であり、しばしば搭乗実績目的の俗にマイル修行僧と呼ばれる人々が利用することでも知られ、年々増加の傾向にある。伊丹から但馬まで搭乗し、すぐ折り返しの便で伊丹に戻る行為は俗に「但馬修行」と呼ばれることがある。

ターミナル右側にはYS-11(11A-500R型/YS-11の103号機)およびエアロコマンダー式680FL型の退役機が展示されており、2006年9月現在、主翼の真下まで近づいて見学できる。

但馬空港のホームページがリニューアルされたことに伴い、空港ライブカメラが設置された。

>但馬空港ライブカメラ 但馬空港の現在の様子(携帯電話向け)

空港から最も近い市街地にあるJR西日本豊岡駅と新大阪駅・大阪駅間には特急「北近畿」が所要時間約2時間40分、片道5130円(乗車券・特急料金込)で運行しており競合関係にある。他の交通機関との競合

また高速バスは全但バスが豊岡市街と大阪梅田間を所要時間約2時間50分、片道運賃3350円で運行しており競合関係にある。

2006年7月には北近畿豊岡自動車道が和田山インターチェンジまで開通し、豊岡市街から大阪梅田まで自動車での移動時間が約20分から30分程度短縮された。また、引き続き和田山インターチェンジから養父市八鹿町の間に和田山八鹿道路の建設が進んでおり2011年頃開通の予定となっている。これらの道路整備に伴い全但バスも豊岡市街・大阪梅田間が従来3時間超であったものが時間短縮されており、高速バスの競争力強化にともない行政当局も但馬空港の利用者減が懸念されている。

このため、伊丹で乗り継ぎをする事で東京や福岡、出雲、仙台、松山、山形など全国から短時間で訪れることができるようになるという利用価値を見出そうと必死の努力が続けられている。

また、「鳥取豊岡宮津自動車道」は、鳥取市から豊岡市を経て宮津市に至る延長120kmの地域高規格道路で、平成6年に計画路線として指定を受けた。このうち、兵庫県内は約46kmで、香住道路(L=6.2km)は平成17年3月に開通し、余部道路(L=5.3km)及び東浜居組道路(L=3.5kmうち兵庫県1.9km)の2路線が整備中である。

国道178号の兵庫県と鳥取県の県境部は、通称「七坂八峠」と呼ばれ、急なカーブが連続し、特に冬季には交通の難所となっていた。そのため、この峠の改良は地元住民の悲願となっていた。

鳥取豊岡宮津自動車道の整備により、鳥取東部、但馬、京都北部の3地方生活圏の交流、連携が強まるとともに、鳥取空港、但馬空港や重要港湾である舞鶴港、鳥取港など交通拠点へアクセスしやすくなり、地域の生活が支えられる。

さらに、北近畿豊岡自動車道、中国横断自動車道姫路鳥取線、京都縦貫自動車道、山陰自動車道と連結することにより全国的な広域ネットワークを形成する。

但馬の人物 斎藤隆夫

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
伝説先史縄文弥生出雲銅鐸日槍古墳飛鳥奈良平安鎌倉室町戦国近世近代現代地方鉄道写真SITEMAP
近代憲法色(けんぽういろ)#543f32最初のページ戻る次へ

斎藤隆夫


概 要

目次

  1. 生い立ち
  2. 政治家としての軌道
  3. 粛軍演説
  4. 太平洋戦争突入

1.生い立ち

斎藤隆夫の生地・兵庫県豊岡市出石町中村は、出石川の支流、奥山川が地区の東を流れる高台にある旧室埴村字中村で出石藩のお膝元です。彼は斎藤八郎右衛門の次男として明治3年(1870)8月18日、父が45歳、母が41歳の時生まれました。1人の兄と4人の姉の末っ子でした。8歳になり福住小学校に入学しましたが、まだ卒業しない12歳の頃、「なんとしても勉強したい」という一念から、京都の学校で学ぶことになりました。ところが、彼の期待していた学校生活とは異なり、1年も経たず家へ帰ってきました。その後、農作業を手伝っていましたが、家出同然に京都へ行って帰ってくるなど、苦悩の日々を過ごしています。

明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。

明治24年(1891)の夏、桜井勉が故郷の出石に隠居することとなり、斎藤隆夫は念願の早稲田専門学校(今の早稲田大学)の行政科に入学しました。明治27年(1894)7月、首席優等で卒業しました。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強すました。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
帰国後は鎌倉で静養し、合計7回の手術を受け完治。健康が回復した明治38年(1905)、弁護士を再開し、明治43年(1910)に結婚しました。

▲ページTOPへ


2.政治家としての軌道

1912年(明治45年・大正元年)、第11回総選挙がおこなわれることになりました。この時、南但馬の国会議員は養父郡糸井の佐藤文平が出ていましたが引退することになり、後継者について原六郎と語り、原と旧知の間柄であった斎藤隆夫に白羽の矢をたてました。
立憲国民党より総選挙に出馬。そして、初挑戦ながら当選を果たしました。当選順位は定員11人中最下位でした。政界へのスタートを切ったのです。斎藤隆夫は初当選以来、連続3回当選しましたが、4回目に落選してしまいました。しかし、このことは但馬の土地に何の関係も実績もない人物が、金権選挙をする実態を見た但馬の青年層たちを政治に目覚めさせるという大きな効果がありました。その後、彼らは純粋に斎藤を応援するようになり、斎藤隆夫の政治的基盤を確立する契機となりました。
「政党は国民中心でなくてはならない。公約したことは、その実現をどこまでもはからなくてはならない。」大正15年(1926)、彼は憲政会総務となり活躍します。昭和12年(1937)7月、支那事変がおこり、国家総動員法が公布、国を挙げて戦時体制へとすべてが動いていました。そのような時代の中、昭和15年(1940)2月、斎藤隆夫は「支那事変を中心とした質問演説」の中で「聖戦などといってもそれは空虚な偽善である」と決めつけました。この演説は「聖戦を冒涜するものだ」と陸軍の反感をかい、懲罰委員会にかけられるという大事件に発展し、離党。除名処分後、昭和17年(1942)総選挙がおこなわれ、斎藤隆夫は最高得点で当選を果たしました。昭和20年(1945)終戦をむかえ、日本が大きく変わりました。マッカーサーの指令で解散した衆議院の選挙が昭和22年(1947)4月におこなわれ、彼は最高得点で当選。入閣要請があり、一度は断ったが同志の強いすすめから入閣しています。以後、1949年(昭和24年)まで衆議院議員当選13回。生涯を通じて落選は1回であった。第二次世界大戦前は立憲国民党・立憲同志会・憲政会・立憲民政党と非政友会系政党に属した。普通選挙法導入前には衆議院本会議で「普通選挙賛成演説」を行った。この間、浜口内閣では内務政務次官、第2次若槻内閣では内閣法制局長官を歴任している。▲ページTOPへ

3.粛軍演説

斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。

  • その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説であり、
  • その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
  • また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
  • その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
    彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。
    1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、
    「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、
    「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。
    この事変の目的はどこにあるかわからない。」
    の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
    反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(にち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。■斎藤隆夫記念館「静思堂」斎藤隆夫記念館「静思堂」は生地・豊岡市出石町中村に斎藤隆夫の威徳を偲ぶため建てられた。「静思」とは大局から日本を見つめ、我を見つめることを忘れなかった斎藤隆夫の思想につながる「大観静思」からとられたという。建物のスタイルは非常にユニークで、兵庫県緑の建築賞に選ばれている。施設は研究会、講演会、茶会、コンサートまであらゆる文化活動に利用されている。

    兵庫県豊岡市出石町中村 TEL.0796-52-5643

    ▲ページTOPへ


4.太平洋戦争突入

 五・一五事件の後、後継首相に指名されたのは政友会総裁ではなく、海軍の穏健派とされていた斎藤実前朝鮮総督でした。斎藤内閣以降、総理となったのはほとんどが軍人・官僚の出身者で、政党から入閣する者はあってもその数は少なく重要ポストは与えられませんでした。軍部は事実上組閣を左右しました。
日中戦争の勃発は、国内における物資、人員の統制と動員を必要不可欠にしていきました。近衛内閣は総力戦体制確立のために、37(昭和12)年十月に企画院を創設した他、38(昭和13)年には国家総動員法と電力国家管理法を成立させました。こうした近衛の姿勢を最も強く支持していたのは社会大衆党でした。また近衛は1938(昭和13)年を通じて既成政党を排除し、無産政党や革新閣僚などこれまでは議会外であった勢力を糾合して新党を作ろうとしましたが、日中戦争解決の機を見いだし得ず、近衛内閣が解散したため、一時沈静化しました。
近衛の後任には、平沼騏一郎が首相になりました。アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告し、ソ連はノモンハン事件で決定的敗北を被りました。こうして日米、日ソの関係は行き詰まり、この内閣は一貫して日独伊防共協定の強化に活路を目指しました。しかし英米との関係を重視する海軍の一貫した反対のために膠着状態に陥っていました。
ところが39(昭和14)年8月、突如として独ソ不可侵条約が締結されたため、平沼首相は「欧州情勢は複雑怪奇」という文句を残し、内閣は総辞職しました。
1940(しょうわ15)年春、ドイツの電撃的なヨーロッパ大陸での勝利(オランダ・フランスの敗北)のため、速やかな日独伊三国同盟締結と力の真空が生じた南方への進出をパッケージとした政策の変更を望む声が強まりました。ヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、言論の場としての議会はさらに機能が低下して、1940年2月に軍部批判の演説をした斎藤隆夫は同僚議員によって議会から除名されてしまいました。代わって各派の議員によって聖戦貫徹議員同盟が組織され、政党の解消を主張し始めました。彼らが期待した近衛文麿が新体制運動の乗り出すと、近衛の運動に合流すべく各政党は次々と解党していきました。
10月12日に近衛首相を総裁とする大政翼賛会が発足すると議員は翼賛会の議会局に属しました。
本土決戦を控えてさらに強固の国内体制を作る必要があるとして45年3月には翼賛政治会(翼政会)が解散して大日本政治会(日政)が結成されました。しかし日政に結集した議員は353名で、他に護国同志会、翼賛議員同志会、無所属などに分かれ完全な一元化はできませんでした。
第二次近衛内閣は、松岡洋右が外相となり、40(昭和15)年9月に三国同盟を締結させると、翌41(昭和16)年4月には日ソ中立条約を成立。ドイツ、ソ連との関係をもって初めて対米交渉が可能になると考えていました。
しかし40年の北部仏印進駐、次いで41年南部仏印進駐により、日米関係は決定的に悪化します。特に後者では、在米資産の凍結及び石油の輸出禁止処置がとられ、日本は逆に窮地に追い込まれてしまいました。
41(昭和16)年9月、戦争を主とし外交を従とする「帝国国策遂行要領」に異論を唱えたのは、他ならぬ昭和天皇でした。御前会議の前日、天皇は杉山元参謀総長らに厳しい質問をあびせ叱責しました。また9月6日の御前会議でも自ら質問の立とうとされました。しかし近衛首相と木戸幸一内大臣が、天皇と軍部との直接対立を懸念した結果、原嘉道枢密院議長が天皇の質問を代行しました。それでもなお昭和天皇は、明治天皇が日露戦争を前に平和を願って詠んだ歌を詠み上げ、自ら平和への意志を明確にされました。
にもかかわらず会議の結論は変わりませんでした。日米開戦をめぐる最終段階の十月、近衛内閣は総辞職します。開戦への自信はなく和平の見込みもなければ、例によって内閣を投げ出す以外の術はありませんでした。後任は東条英機陸相に決まりました。東条は陸軍官僚制をエリート軍人として上りつめ、政治性に富んだ人間ではありませんが、与えられた課題をきちんとこなすタイプでした。官僚としては誠に優秀だっったのです。東条にとっては一たび内閣と軍部との交渉により開戦への一致が見られれば、あとはひたすら開戦へむけて事務処理を勧めていくだけでした。そこに抜かりがない限り、「立憲君主」たる昭和天皇が異論を挟む余地はありませんでした。
東条は、優秀な官僚はかくもあらんとばかり、天皇にきめ細かく長い時間をかけて戦争と政治の情報を上奏したのです。さらに戦争事務の遂行上、東条は首相の他、陸相、内相、軍需相はおろか、挙げ句の果てに参謀総長まで兼務するに至りました。また議会も42(昭和17)年の翼賛選挙により一応押さえ込むのに成功します。
東条のリーダーシップは、戦局が有利な限り発揮され続けますが、敗北が重なり、43(昭和18)年夏からの戦況の悪化を受けて、皇族や重臣の間で東条内閣打倒工作が開始されます。44(昭和19)年になると議会にも東条批判が見られるようになり、サイパンにおける敗北を契機に東条内閣は総辞職します。
それでも三年余りの間、東条内閣はよく持ったといえるでしょう。続く小磯国昭は和戦の好機をつかめず、45(昭和20)年4月、鈴木貫太郎内閣と交替します。木戸内大臣は終戦へ向けて個別拝謁を始めます。有名なのは二月の近衛上奏文で、近衛は満州事変以来の戦争戦略はすべて革新的軍人と共産主義の共謀によるもので、革命とならぬよう注意すべしと述べています。一種の陰謀史観です。開戦直前まで革新派の計画に乗ぜられた自分は、今こそ革命を防止するために立ち上がるというのがその主張でした。これには吉田茂らが深く関与していました。
鈴木内閣が終戦を決定するまでには、なお四ヵ月を要しました。空襲ただならぬ状況の中で、重臣始め宮中グループ、帝国議会、そして内閣と軍部もまた、いかなる形での戦争終結をはかるか、決め手を欠いていたからでした。広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦という最終段階においてなお、8月10日のポツダム宣言の受諾をめぐって二分されました。国の存亡をかけた危機状況において、天皇の判断が求められた結果、終戦の決定がなされました。8月14日の御前会議において決定に変わりないことを確認します。ここに戦争は終わりました。
さて敗戦からの復興に当たって、実は日本は首相への人材を見事に育んでいたことがわかります。戦争中は東条の後に適格者なしと言われ、また二・二六事件以降、近衛以外はアドホックな人材の起用が続きました。これに対して、戦後は戦時中に避けられていた人々が次から次へと政権の座に就きました。幣原喜重郎、吉田茂、芦田均、鳩山一郎など、彼らがいたからこそ、間接占領が可能となったのです。彼らはいずれも十五年戦争期の大半を、権力から遠く離れて、抑圧されて生活を送っていました。もはや軍人の時代でも華族の時代でもありませんでした。▲ページTOPへ参考:『但馬の百科事典』フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
近代憲法色(けんぽういろ)#543f32最初のページ戻る次へ
Copyright(C)2002.4.29-2009 ketajin21 All Rights Reserved.

近代-6 舞鶴

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

舞鶴(まいづる)

日本海に面し、東西に分かれた舞鶴湾(若狭湾)のリアス式海岸を臨む都市舞鶴は、天然の良港です。北近畿を代表する国際港湾都市であり、行政・経済面において中心的な立場を担っています。市内東部にある軍港のほか、造船や硝子といった重厚長大産業都市として発展し、舞鶴都市圏を形成しています。

古代~近世まで

舞鶴の地に人が住み始めたのは約1万年前だと言われています。その後、弥生時代になると由良川流域など広範囲で稲作が営まれました。古代に国造が分立した時代には、舞鶴は丹波(丹国)の領土に入っていた。ヤマト王権が勢力圏を拡大すると、奈良時代に丹国は丹波国と丹後国に分割され、舞鶴は丹後国加佐郡に入れられました。

平安時代にまとめられた「和名抄」「延喜式」とも、国府は加佐郡、現在の舞鶴市内と思われます。ただし、易林本の節用集では、与謝郡とあり、現在の宮津市府中と推定されます。最初は加佐郡に置かれ、のちに与謝郡に遷されたのではないかとも思われます。与謝郡には丹後一の宮である籠神社、国分寺跡などがあって、山陰道の支道が通り駅家が置かれており、古代の政治、文化の中心がここにあったことは確実で、府中という地名から想像しても、丹後国府がこの地に営まれたことは間違いないようです。

南北朝時代には、醍醐寺の荘園が置かれました。室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり、田辺(舞鶴)を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれました。以後、丹後国は一色家の領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において西軍に属した一色氏は没落し、細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱します。

戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落しました。信長の命により丹後国は細川藤孝の領地となり、舞鶴が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治しました。
1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与しました。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。西軍の派遣部隊と対戦したが、後陽成天皇の勅命により、城を敵明け渡した(詳細については細川藤孝の項目を参照)。戦後細川家は、九州の豊前小倉藩に転封されました。

舞鶴藩

京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。

京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。[くわしくはこちら]
▲ページTOPへ

明治から第二次世界大戦まで

明治維新翌年の1869年(明治2年)に版籍奉還が行われ、その後、紀伊田辺藩との同一藩名を解消するため太政官より田辺藩の名称変更を命じられ、同年6月に田辺城の雅号・舞鶴城に因んで舞鶴藩に改称しました。1871年(明治4年)には廃藩置県により、西舞鶴は舞鶴県の県庁所在地となったが、同年10月には豊岡県に編入され、1876年(明治9年)に京都府へと編入されました。1873年(明治6年)には舞鶴藩の家老であった河村真六によって、舞鶴藩の藩校であり多くの学者を輩出した明倫館が明倫小学校として開校し、1889年(明治22年)に市町村制が導入されると加佐郡舞鶴町(西舞鶴)が誕生しました。その後1901年(明治34年)10月には、舞鶴湾が日本海有数の軍事的要地として東舞鶴に舞鶴鎮守府が設置され、初代長官には東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。それに合わせ東舞鶴の浜村などでは大規模宅地開発が計画され、京都市に模して碁盤目状の市街地が形成され(南北に一条から九条、東西に軍艦の名前が使われる)、多くの海軍官署が設置されました。(現在でも舞鶴市内いたる所に海軍の遺跡が存在します。)

軍都として順調に発展を遂げた舞鶴でしたが、1923年(大正12年)2月のワシントン海軍軍縮条約締結に伴い、舞鶴鎮守府は海軍要港部に格下げされ、同時に海軍工廠も工作部に縮小され、一時期人口が減少、市況は沈滞しました。同年9月には関東大震災で被災した横須賀市にあった海軍機関科士官を養成する海軍機関学校が移設されることになり、1936年(昭和11年)7月には、再び舞鶴要港部が鎮守府に格上げされると、活況を呈し、人口はピークに達しました。

1943年(昭和18年)になるといよいよ戦局が激化すると、舞鶴鎮守府は日本海軍の重要拠点として強化される事となり、東舞鶴市(東舞鶴地区)だけではなく、旧舞鶴市(西舞鶴地区)にも海軍諸施設が多数立地するようになりました。また舞鶴海軍工廠では艦船を中心に蛟龍などの特殊兵器も生産するなど軍需生産拠点としても機能強化が図られ、両市が一体となって大軍港都を建設することを海軍が強く要請します。旧舞鶴市側は難色を示しますが、市役所の位置など諸条件を提示、東舞鶴市も了承したことから、「時局ノ要請二応ジ大軍港都市建設ノ為」すべて京都府知事に一任し、舞鶴市海軍記念日にあたる同年5月27日に東西舞鶴両市は合併しました。市役所は東舞鶴市中舞鶴支所に置かれることとなり、人口は15万人を超え、日本海側有数の大都市として重要な地位を占めるに至りました。

戦線が激化するにつれ、舞鶴は後方支援都市として軍需産業が勃興し、人口も増加しましたが、1945年(昭和20年)7月29日、突如としてアメリカ軍が来襲、海軍工廠を中心に舞鶴を空襲しました。また翌日も舞鶴港を中心に大規模な空襲に見舞われ、多数の死傷者を出しました。

1945年(昭和20年)8月15日、終戦。終戦後はアメリカ進駐軍舞鶴分遣隊が駐屯、舞鶴港が政府の在外邦人引き揚げ港に指定され、大陸からの引き揚げの拠点となりました。1945年(昭和20年)から13年に渡って66万人余りの引揚者が舞鶴に降り立ち、懐かしの母国の土を踏みしめました。その頃の岸壁の母は有名です。現在は、当時の引揚桟橋があった平に、舞鶴引揚記念館が建てられています。

戦中からの東西分離運動

舞鶴は日本海側唯一の軍事都市として、軍事施設が両舞鶴市に跨がるように設置されるなり、軍都一括管理の重要性が増しました。そこで1943年(昭和18年)に海軍は東西両舞鶴市に合併を要請し、それを受けて(旧)舞鶴市と東舞鶴市が1943年5月27日に合併。新しい舞鶴市が誕生しました。当時の人口は154,953人。

しかし、前述のように、城下町・商業都市として発展し、加佐郡の中心都市と自負する(旧)舞鶴市(西舞鶴)と、鎮守府が設置され、軍需都市として発展した旧東舞鶴市(東舞鶴)では、住民気質が全く異なり、舞鶴市東西分離運動が活発化しました。同時期、戦時体制下に軍により進められた市町村合併の見直しを認める法改正があり、1949年(昭和24年)11月に西舞鶴地区より東西分離要請書が提出されるに至りました。1950年(昭和25年)3月には西舞鶴地区にて住民投票が行われ、賛成7,046票、反対6,070票、棄権4,483票と賛成多数で舞鶴市をふたたび東西に分割する案が決議されました。京都府議会は「京都北部の中心都市としてだけでなく、府下の唯一の大港湾都市建設に万進すべき」との決議を採択し、東西分離案を否決しました。舞鶴は(かつて明治の廃藩置県までは田辺と呼ばれていました)東西を分ける五老岳が峙えているため、市街地も東西で分かれて発展しています。東舞鶴はかつて1901年に舞鶴鎮守府が設置され、軍港として計画して造られ軍需都市で、旧軍港や造船などを中心とする重工業地区でもあります。一方、西舞鶴は古代から丹国の中心として発展したかつての城下町で、国や京都府の行政機関や工業団地が集中する商工業地区です。このように同じ舞鶴市ながら違った顔を持っており、旧舞鶴市と東舞鶴市以来の「東西舞鶴の張り合い気質」が今でも残っているとされています。

西舞鶴の市街地のさらに西側に位置する由良川を境に、天橋立で有名な宮津市などと接し、東舞鶴の東は福井県に接しています。西南部は福知山市、南部は綾部市に接しています。
市内をJR舞鶴線・小浜線が横断し、市西部には北近畿タンゴ鉄道宮津線が走っています。また舞鶴若狭自動車道があります。現在、東舞鶴駅と西舞鶴駅では駅前再開発が行われています。
日本海側気候に属し、冬季は北西の季節風の影響で気温が低く、雨や雪が多くなりやすいですが(代表的な格言:「弁当忘れても傘忘れるな」=北近畿共通)、盆地に位置する地域と比べると夏と冬の気温の差が比較的小さく、過ごしやすい気候でもあります。舞鶴市の年間平均気温は14.3℃、年間降水量1786.3mmは、全国152気象台の平均値に近い数値です。

現 在

1957年(昭和32年)に舞鶴市と関係の深かった加佐郡加佐町を編入して現在の舞鶴市が形成され、国政調査において初めて人口が10万人を超え、京都府内では京都市に次ぐ規模の都市になり、北近畿の中核都市としての地位を確立しました(舞鶴都市圏)。しかし、近年の人口は減少傾向が止まらず、現在では京都府南部の宇治市・亀岡市に追い抜かれています。

現在でも日本海最大の海上自衛隊舞鶴地方総監部(1952年設置)や第八管区海上保安本部(1948年設置)と海上保安学校(保安大学校は広島県呉市)があり、国防拠点都市としての性格と、舞鶴港が1951年(昭和27年)に重要港湾に指定、また1995年(平成7年)には日本海側港湾では初めてFAZ(輸入促進地域)の指定を受けるなど、中国や韓国、ロシアなど定期コンテナ航路を有する国際貿易港を持つ交流・物流都市としての性格、また中丹広域振興局や近畿財務局などが立地する行政都市として発展を続けています。

平成20年4月、海上自衛隊所属である南極観測船「しらせ」がユニバーサル造船にて新造され、進水式が執り行われました。

舞鶴鎮守府(まいづるちんじゅふ)

対ロシアの戦略上、日本海軍は日本海側へ海軍の軍事拠点を設置する事が悲願となっており、1889年(明治22年)に、湾口が狭く、防御に適しており、また湾内は波静かで多くの艦船が停泊できるなど軍港としては格好の地形であった舞鶴湾に白羽の矢をたて、舞鶴に鎮守府を設置する事が閣議決定されました。

しかしながら、呉、佐世保の整備が優先され、舞鶴の軍港建設費用には日清戦争によって清国から支払われた賠償金があてられる事になりました。舞鶴は山地が多いため、敷地開削工事には莫大な費用を要しましたが、1899年(明治32年)末には、土地造成工事がほぼ出来上がりました。これに並行して鎮守府諸施設の工事が始まり、1901年(明治34年)10月1日に舞鶴鎮守府が開庁、初代司令長官は当時海軍中将であった東郷平八郎が就任しました(東郷が生み出したとされる肉じゃがは、一説には東舞鶴が発祥地とされる)。

  • 1904年(明治37年):日露戦争勃発。鉄道舞鶴線開通。
  • 1923年(大正12年):ワシントン海軍軍縮条約により要港部に格下げ。同時に海軍工廠も工作部に格下げ。
  • 1936年(昭和11年):舞鶴海軍工作部が海軍工廠に昇格。
  • 1939年(昭和14年):鎮守府に格上げ。
  • 1943年(昭和18年):倉谷に第二造兵部を設置。
  • 1945年(昭和20年):太平洋戦争終戦。大陸からの引き揚げの拠点となりました。

周辺の名所・文化施設・祭事

赤れんが博物館(旧兵器廠魚形水雷庫)(国重要文化財


舞鶴赤レンガ倉庫群(国重要文化財および近代化産業遺産)

  1. * 舞鶴赤レンガ倉庫群(12棟の煉瓦倉庫群)7棟は海上自衛隊舞鶴総監部、近畿財務局、舞鶴倉庫などの倉庫として使用している。このような手付かずのものは、全国的に見て大変貴重で、近代化遺産として、映画やテレビドラマのロケに使用される事が数多い。
  1. o 赤れんが博物館
  2. o 舞鶴市政記念館
  3. o まいづる智恵蔵
  • 海軍記念館
  • * 赤れんがフェスタ(10月)
  • * 舞鶴引揚記念館

海上自衛隊護衛艦隊

護衛艦隊(ごえいかんたい、JMSDF Fleet Escort Force)とは、日本の海上自衛隊自衛艦隊に属する護衛艦[*1]によって編成された艦隊。潜水艦部隊や掃海部隊、航空部隊と共に、日本の海上防衛を担っています。

護衛艦隊は日本の自衛艦隊の中核となる艦隊で、司令部は横須賀基地(船越地区)におかれています。海将が務める護衛艦隊司令官が、総数47隻の護衛艦と多数の補助艦艇よりなる護衛艦隊を指揮し、これらの練度管理にあたります。2008年(平成20年)3月に護衛艦部隊の大規模な改編が行われ、それまでの12個護衛隊を8個護衛隊(DDH中心4個とDDG中心4個)に再編され、また6つの地方隊直轄護衛隊はすべて解隊されて地方隊直轄であった護衛隊は護衛艦隊に新編、編入されました。2008年現在では、4個護衛隊群(Escort Flotilla)が編成され有事に備えており、海将補が群司令を務めます。各護衛隊群は4隻ずつ、2つの護衛隊(Escort Squadron)より構成され、搭載するヘリコプター8機が含まれる。護衛隊の1つはヘリコプター搭載護衛艦(DDH)が旗艦となりミサイル護衛艦(DDG)1隻を含むDDHグループと呼ばれ、別の護衛隊はミサイル護衛艦1隻を含むDDGグループと呼ばれる。護衛艦隊の編成

  • 護衛艦隊
  • 護衛艦隊司令部
  • 護衛艦隊旗艦(DDG-170さわかぜ)
  • (機動運用部隊)
  • 第1護衛隊群(司令部:横須賀基地長浦地区)
    • 第1護衛隊 旗艦DDH-143 しらね、DDG-172 しまかぜ、DD-101 むらさめ、DD-108 あけぼの
    • 第5護衛隊 DDG-173 こんごう、DD-107 いかづち、DD-114 すずなみ、DD-157 さわぎり
  • 第2護衛隊群(司令部:佐世保基地)
    • 第2護衛隊 旗艦DDH-144 くらま、DDG-178 あしがら、DD-153 ゆうぎり、DD-154 あまぎり
    • 第6護衛隊 DDG-176 ちょうかい、DD-102 はるさめ、DD-110 たかなみ、DD-111 おおなみ
  • 第3護衛隊群(司令部:舞鶴基地)
    • 第3護衛隊、旗艦DDH-141 はるな[*2]、DDG-177 あたご[*3]、DD-112 まきなみ[*4]、DD-156 せとぎり
    • 第7護衛隊 DDG-175 みょうこう、DD-103 ゆうだち、DD-104 きりさめ、DD-109 ありあけ
  • 第4護衛隊群(司令部:呉基地)
    • 第4護衛隊 旗艦DDH-142 ひえい、DDG-171 はたかぜ、DD-155 はまぎり、DD-158 うみぎり
    • 第8護衛隊 DDG-174 きりしま、DD-105 いなづま、DD-106 さみだれ、DD-113 さざなみ

各護衛隊群の気質

各護衛隊群の気質の違いは以下の通り

  • 第1護衛隊群:「広報の1群」と呼ばれ、広報活動に従事することが多い。最新鋭艦の配備が早いことでも知られる。
  • 第2護衛隊群:「訓練の2群」と呼ばれ、練度の高さに定評がある。また地元九州出身者が多く、生活環境が比較的安定しているため士気も高い。韓国、中国と国境を接する精鋭部隊である。
  • 第3護衛隊群:「書類の3群」と呼ばれ、東郷平八郎元帥の伝統からか、上級指揮官クラスがさらに昇進するための登竜門と言われる。荒海の日本海を乗り越え、北朝鮮、ロシアとは正面から相対する最前線部隊である。
  • 第4護衛隊群:「だめだしの4群」と呼ばれ、温暖な瀬戸内海で戦略予備的な位置にある。
  • (地方配備部隊)
  • 第11護衛隊(横須賀基地)
    • DD-122はつゆき、DD-123しらゆき、DD-125さわゆき
  • 第12護衛隊(呉基地)
    • DD-129やまゆき、DD-130まつゆき、DD-131せとゆき
  • 第13護衛隊(佐世保基地)
    • DD-127いそゆき、DD-128はるゆき、DD-132あさゆき
  • 第14護衛隊(舞鶴基地)
    • DD-124みねゆき、DD-126はまゆき、DE-229あぶくま[*5]
  • 第15護衛隊(大湊基地)
    • DE-227ゆうばり、DE-228ゆうべつ、DE-230じんつう、DE-233ちくま
  • 第16護衛隊(佐世保基地)
    • DE-231おおよど、DE-232せんだい、DE-234とね
  • 海上訓練指導隊群
  • 第1海上補給隊
  • 第1輸送隊
  • 第1海上訓練支援隊
    • 訓練支援艦「くろべ」、「てんりゅう」

▲ページTOPへ

海上自衛隊舞鶴地方隊

地方隊とは、海上自衛隊に置かれて、主として担当の区域(警備区)の防衛・警備及び自衛艦隊の支援に当たることを目的としている部隊です。機動運用が行われる外戦の基幹部隊である自衛艦隊の隷下ではありません。旧海軍の鎮守府、陸上自衛隊の方面隊に相当するものです。

  • 横須賀地方隊
  • 舞鶴地方隊
  • 大湊地方隊
  • 佐世保地方隊
  • 呉地方隊の5つが置かれています。舞鶴地方隊(JMSDF Maizuru District)は海上自衛隊の地方隊の一つ。主要部隊は京都府舞鶴市にある舞鶴基地に配備されています。 第44掃海隊及び第2ミサイル艇隊が配備されています。日本海中部海域の沿岸防備を担っています。
    1901年(明治34年)10月1日、海軍舞鶴鎮守府が置かれる。
    1952年(昭和27年):保安庁警備隊発足と同時に舞鶴地方隊が新編される。新編時の舞鶴地方隊には、舞鶴地方総監部、舞鶴、新潟各航路啓開隊が新編される。

    1999年(平成11年):舞鶴警備区内で不審船事案が発生する。防衛庁設置法に基づく「調査・研究」として、舞鶴地方隊の護衛艦「あぶくま」(DE-229)が、舞鶴基地を主たる母港とする護衛艦隊第3護衛隊群の「はるな」及び「みょうこう」とともに出動したが、「あぶくま」は地方隊配備護衛艦であって比較的低速だったため、充分に活躍できなかった(能登半島沖不審船事件)。2001年(平成13年)3月22日:舞鶴市長浜地区に舞鶴飛行場が完成し、今まで館山航空基地から飛来していた哨戒ヘリSH-60Jも舞鶴に常駐とする事ができるようになった。DE型護衛艦[*2]が配備され、日本海側の警備を担当することが主任務です。 北朝鮮への工作船の暗躍などに備えるためミサイル艇、高速警備艇の配備や特別警備隊なども順次配備され、島根県・山口県県境から秋田県・青森県県境までという広大な守備範囲を持ち、日本海側唯一の海上自衛隊の基地として増強が図られています。機動運用が行われる上記の自衛艦隊と異なり、警備区内での運用が中心であることからから旧型のDD護衛艦や、あぶくま型護衛艦などの小型のDE護衛艦や、さらに小型で高速のミサイル艇などを運用しています。

    編制

    • 舞鶴地方総監部(舞鶴基地:京都府舞鶴市)
      • 第44掃海隊
        • 掃海艇「あわしま」 はつしま型
        • 掃海艇「とびしま」 うわじま型
        • 掃海艇「ながしま」 うわじま型
      • 舞鶴警備隊
        • 舞鶴陸警隊
        • 舞鶴港務隊
        • 舞鶴水中処分隊
          • 「水中処分母船1号」
        • 新潟基地分遣隊(新潟基地:新潟県新潟市)
        • 第2ミサイル艇隊
          • ミサイル艇PG-824「はやぶさ」 はやぶさ型
          • ミサイル艇 PG-828「うみたか」 はやぶさ型
          • 輸送艦「のと」
          • 多用途支援艦「ひうち」
      • 第23航空隊(平成20年3月26日舞鶴航空基地隊から新編)
      • 舞鶴教育隊
        • 1939年(昭和14年)4月に海軍舞鶴第1海兵団が編成される。1952年(昭和27年)12月27日に舞鶴練習隊が新編される。1957年(昭和32年)5月10日に舞鶴教育隊となる。
      • 舞鶴弾薬整備補給所
      • 舞鶴造修補給所
      • 舞鶴基地業務隊
      • 舞鶴衛生隊
      • 舞鶴音楽隊

    第八管区海上保安本部

    海上保安庁は、海上の安全及び治安の確保を図ることを任務とする行政機関であり、国土交通省の外局となっています。主に、海難救助・交通安全・防災及び環境保全・治安維持が任務の内訳となりますが、現実には海洋権益の保全(領海警備・海洋調査)をも任務としています。

    諸外国では沿岸警備隊(コーストガード)、国境警備隊等と呼ばれる準軍事組織に相当し、戦争の際は軍隊の一部として参戦することが国際法では認められていますが、日本はこれを否定しています。有事の際に防衛大臣の指揮下に組み込まれる可能性はありますが、自衛隊には編入されず常に警察任務と海難救助に徹することが目的とされています。英称は1948年の開庁以来 Maritime Safety Agency of Japan(略称:MSA または JMSA 「日本国海上保安庁」の直訳)を用いてきました。しかし、諸外国の船員等の間で「海上警備機関か海事サービス機関か不明瞭」との声が多かったため、2000年から Japan Coast Guard(略称: JCG 「日本国沿岸警備隊」の意)に改められました。第八管区海上保安本部とは、海上保安庁の管区海上保安本部の一つで、北近畿と山陰地方の日本海沿岸、列びに京都府・福井県・兵庫県・鳥取県・島根県・竹島を管轄範囲とします。略称は八管。英語表記は8th Regional Coast Guard Headquarters。本部は京都府舞鶴市字下福井にあり、下部組織として4つの海上保安部、6つの海上保安署、航空基地1カ所、情報通信管理センター1箇所を有します。

    第八管区は、山口県・島根県境から石川県・福井県境までの広い海岸線に特徴を持っており、日本海でも山陰地方の沖合には、日本以外にも中華人民共和国・大韓民国・朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」と記述)・ロシアの多くの船が行き交っています。第八管区管内では、日本海中部海域不審船事件やナホトカ号重油流出事故などが発生しており、その反省から警備業務、海難救助業務、災害防除業務を拡充しています。その他、日本海最大の好漁場である「大和堆」等における大韓民国の不法漁民による排他的経済水域内の密漁の摘発、北朝鮮工作員の不法入国や北朝鮮工作員や暴力団による麻薬・偽紙幣の密輸の阻止、海上自衛隊舞鶴基地周辺海域や若狭湾の原子力関連施設群、島根原子力発電所の警備業務、韓国が不法占拠を行っている竹島周辺海域で、韓国海洋警察庁による日本漁船拿捕を阻止するための警戒等も大きな仕事であります。組織第八管区海上保安本部

    • 第八管区海上保安本部(京都府舞鶴市)
      • 敦賀海上保安部(福井県敦賀市)
        • 小浜海上保安署(福井県小浜市)
        • 福井海上保安署(福井県坂井市)
      • 舞鶴海上保安部(京都府舞鶴市)
        • 宮津海上保安署(京都府宮津市)
        • 香住海上保安署(兵庫県美方郡香美町)
      • 境海上保安部(鳥取県境港市)
        • 鳥取海上保安署(鳥取県鳥取市)
        • 隠岐海上保安署(島根県隠岐郡隠岐の島町)
      • 浜田海上保安部(島根県浜田市)
      • 第八管区情報通信管理センター(京都府舞鶴市)
      • 美保航空基地(鳥取県境港市)
      • 舞鶴海上保安航空支援センター(京都府舞鶴市)

    海上保安庁は、1948年(昭和23年)、芦田内閣の下で設立されました。これは第二次世界大戦後、それまで日本周辺海域における法秩序の維持にあたってきた日本海軍が掃海部隊を除いて解体され、日本の海上における救難・治安の維持および海上交通を担当する世界初の海上警察・救難総合機関として、運輸省(現国土交通省)外局に設立されたものです。

    1952年(昭和27年)には第3次吉田内閣の下、より軍事組織に近い海上警備隊が海上保安庁附属機関として組織されましたが、これはまもなく警備隊として分離され、後の海上自衛隊となりました。保安庁創設に際して、治安組織の一元化の見地から、海上保安庁も海上公安局に改組されて、保安庁の下に置かれることになっていました(保安庁法及び海上公安局法)。ところが、海上保安庁側の猛反発により結局、保安庁法の海上公安局に関する規定及び海上公安局法は施行されないまま、それに代わる自衛隊法の制定によって廃止となります。そのため、海上保安庁は改組を免れてそのまま存続することとなりました。

    海上保安庁は、戦後にアメリカ沿岸警備隊をモデルに誕生した組織であり、一方の海上自衛隊地方隊は、独立した沿岸警備組織がなかった戦前に沿岸警備を行っていた「海軍鎮守府」の伝統を受け継いだ組織である。創立時から、それぞれの職域が大きく重複していた。近年、不審船事件の発生などを受けて海上保安庁の体制が拡充しており、地方隊と海上保安庁との線引きが曖昧になってきている。海上警備任務では、日本近海で続発した不審船事件のうち能登半島沖不審船事件では、自衛艦隊の護衛艦隊の第3護衛隊群所属護衛艦と共に舞鶴地方隊所属護衛艦も出動したが速力不足で十分な活躍はできなかった。

    脚注

    • [*1]…護衛艦(ごえいかん)とは、日本の海上自衛隊が保有する自衛艦の分類の1つ。国際法上は、自衛艦旗を掲揚し、自衛官が運用しているため、軍艦として見なされる。
    • [*2]…ヘリコプター搭載護衛艦 Helicopter Defense Destroyer(略称:DDH)。はるな型・しらね型はヘリコプター搭載駆逐艦、最新のひゅうが型はヘリ空母に相当する。対潜・対空の各種武装も持つが、主な任務は回転翼機の母艦として補給や整備などを行う事である。181 ひゅうが(はるな後継艦・艤装中)。
    • [*3]…対空誘導弾(ミサイル)護衛艦 Guided Missile Defense Destroyer(略称:DDG)。他国ではミサイル駆逐艦や大型のこんごう型やあたご型はミサイル巡洋艦に分類される。主な任務は航空機やそこから発射されるミサイルを長射程の艦対空ミサイルで撃墜して、自艦のみならず艦隊を守る事である。その他、近年では弾道ミサイルの監視任務に就くケースが増え、弾道ミサイル迎撃能力を持たせる事も計画されている。あたごはイージス艦、イージスシステムを搭載した艦艇。アメリカ国外では、
      日本がこんごう型護衛艦(ベースライン5)4隻(DDG-175 みょうこう 所属:第3護衛隊群・第7護衛隊 母港:舞鶴)、およびベースライン7(2007年1月現在最新のもの)があたご型護衛艦2隻(DDG-177 あたご 所属:第3護衛隊群・第3護衛隊 母港:舞鶴、DDG-178 あしがら 所属:第2護衛隊群・第2護衛隊 母港:佐世保)、
      スペインがアルバロ・デ・バサン級フリゲート5隻を建造し、また韓国が世宗大王級駆逐艦3隻の建造を計画しているが、これらはいずれもアーレイバーク級をベースとしたイージス・システムを装備する。また、アルバロ・デ・バサン級をベースとしてノルウェーが建造を進めているフリチョフ・ナンセン級フリゲートにおいては、SPY-1Fレーダーを使用した、簡易型のイージス・システムが装備される。
    • こんごう型護衛艦…日本の海上自衛隊に配備された初のイージス艦(イージスシステム搭載護衛艦)。アメリカ海軍以外が初めて保有したイージス艦でもある。後継艦であるあたご型護衛艦が就役するまでは、海上自衛隊が保有する戦闘艦の中で最大の排水量を持っていた。1隻あたりの価格は約1223億円。
    • あたご型護衛艦…こんごう型護衛艦とは異なり最初からステルス性を考慮した設計が行われており、艦体や上部構造物側面の傾斜がそのために最適化されている。煙突の角の丸みが廃されており、ヘリコプター格納庫も複雑な形態になっている。マスト形状がはしご状の組み合わせで構成される在来型のラティスマストから、5000トン型護衛艦予想図にも取り入れられている日本独自の設計のステルス性能を高めた平面構成マストへ変更されている。さらに煙突の形状の変更や舷梯を上構内への収納型にすることによりステルス性能の強化が図られている。予算規模は14DDGと呼ばれていた1番艦「あたご」が1,453億円で、15DDGと呼ばれていた2番艦「あしがら」が1,389億円。
    • [*4]…汎用護衛艦 Defense Destroyer(略称:DD)他国では駆逐艦、フリゲートに分類される場合が多い艦種。潜水艦を探知・攻撃する事を主たる任務とするほか、一定の対空・対水上攻撃力を有する。かつては地方隊用の乙型護衛艦と区別するため「甲型護衛艦」とも呼ばれた。なお、DDA、DDKという艦種がかつて存在したが現在は廃止されており、それらも全てDDに統合されている。
    • [*5]…護衛艦 Destroyer Escoat(略称:DE) 、アメリカ海軍が船団護衛用に生み出した護衛駆逐艦に該当する艦種。護衛艦隊に所属するが事態対処においては各地方隊で運用され、おもに沿海域における対潜水艦哨戒、迎撃を任務とする。予算削減のため1993年以降は新造艦が建造されていない。2桁番号の護衛隊において旧式化したはつゆき型護衛艦と併用されている。
      映画「亡国のイージス」 主役艦の護衛艦「いそかぜ」の役を務めた。弾道ミサイル探知1998年にみょうこう(舞鶴)が、北朝鮮によるミサイル発射実験で発射されたテポドン1号の探知・追尾に成功した。2006年の発射実験では、日本海に展開していたこんごう(佐世保)とみょうこうがテポドン2号とみられる噴射熱の探知・追尾を行った。これらは実戦で初めて弾道ミサイルの探知・追尾に成功した例となった。
      ▲ページTOPへ参考:ウィキペディア、舞鶴市

近代-5

[catlist ID = 294 orderby=title order=asc]

日露戦争

[catlist ID = 38 orderby=title order=asc]
目 次

  1. 日露の対立
  2. 日露戦争
  3. 日本海海戦
  4. 講和へ
  5. 東郷 平八郎と肉じゃが
  6. 日本の台湾統治

1.日露の対立

大韓帝国成立後、朝鮮における日本の勢力は後退し、ロシアの勢力が強まりました。日本はロシアと妥協しながら経済的優位を確保しつつ、韓国に対する支配の強化と中国東北の満州への経済的進出を試みました。

近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。
ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、満州全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図り、さらに韓国への進出を試みました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

2.日露戦争

日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日 – 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争。

ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。

各国の思惑と戦費調達

南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。


日本海海戦

日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。旅順攻略、奉天会戦へ。戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

講和へ

ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。

さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。

ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。

しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。

当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がりました。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もあります。

その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになりました。

3.東郷 平八郎と肉じゃが

弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

肉じゃが

1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。
海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。

  • 1. 油入れ送気
  • 2. 3分後生牛肉入れ
  • 3. 7分後砂糖入れ
  • 4. 10分後醤油入れ
  • 5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
  • 6. 31分後玉葱入れ
  • 7. 34分後終了

発祥の地論争
京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
根拠は、

  • 舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
  • 呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。としています。
    なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    日露戦争

    日露戦争

    1.日露の対立

    大韓帝国成立後、朝鮮における日本の勢力は後退し、ロシアの勢力が強まりました。日本はロシアと妥協しながら経済的優位を確保しつつ、韓国に対する支配の強化と中国東北の満州への経済的進出を試みました。

    近代国家の建設を急ぐ日本では、朝鮮半島を自国の独占的な勢力下におく必要があるとの意見が大勢を占めていました。朝鮮を属国としていた清との日清戦争に勝利し、朝鮮半島への影響力を排除したものの、中国への進出を目論むロシア、フランス、ドイツからの三国干渉によって、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還されました。世論においてはロシアとの戦争も辞さずという強硬な意見も出ましたが、当時の日本には列強諸国と戦えるだけの力は無く、政府内では伊藤博文ら戦争回避派が主流を占めました。
    ところがロシアは露清密約を結び、日本が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借し、旅順に旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を配置するなど、満洲への進出を押し進めていきました。

    1900年にロシアは清で発生した義和団事変(義和団事件)の混乱収拾を名目に満州へ侵攻し、満州全土を占領下に置きました。ロシアは満洲の植民地化を既定事実化しようとしましたが、日英米がこれに抗議しロシアは撤兵を約束しました。ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わず駐留軍の増強を図り、さらに韓国への進出を試みました。ロシアの南下が自国の権益と衝突すると考えたイギリスは危機感を募らせ、1902年に長年固守していた孤立政策(栄光ある孤立)を捨て、日本との同盟に踏み切りました(日英同盟)。

    1903年8月からの日露交渉において、日本側は朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案、いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案しましたが、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州総督のエヴゲーニイ・アレクセーエフらは、朝鮮半島でも増えつつあったロシアの利権を妨害される恐れのある妥協案に興味を示しませんでしました。常識的に考えれば、強大なロシアが日本との戦争を恐れる理由は何もありませんでした。

    2.日露戦争

    日露戦争は、1904年(明治37年)2月6日 – 1905年(明治38年)9月5日)、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争。

    ロシア帝国は、不凍港を求めて南下政策を採用し、バルカン半島における大きな地歩を獲得しました。ロシアの影響力の増大を警戒するドイツ帝国の宰相ビスマルクは列強の代表を集めてベルリン会議を主催し、露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約の破棄とベルリン条約の締結に成功しました。これによって、バルカン半島での南下政策を断念し、進出の矛先を極東地域に向けることになりました。各国の思惑と戦費調達南アジアおよび清に権益を持つイギリスは、日英同盟に基づき日本への軍事、経済的支援を行いました。露仏同盟を結びロシアへ資本を投下していたフランスと、ヴィルヘルム2世とニコライ2世とが縁戚関係にあるドイツは心情的にはロシア側でしたが具体的な支援は行っていません。

    日本銀行副総裁高橋是清は日本の勝算を低く見積もる当時の国際世論の下で戦費調達に非常に苦心しました。開戦とともに日本の既発の外債は暴落しており、初回に計画された1000万ポンドの外債発行もまったく引き受け手が現れない状況でしました。是清はまず渡米しますが、アメリカの銀行家からはまったく相手にされず、次いで渡英して、額面100ポンドに対して発行価格を93ポンドまで値下げし、日本の関税収入を抵当とする好条件で、イギリスの銀行家たちと1ヶ月以上交渉の末、ようやくロンドンでの500万ポンドの外債発行に成功することができました。

    直後、再度渡米して、帝政ロシアを敵視するアメリカ・ロスチャイルド家のユダヤ人銀行家ジェイコブ・シフと接触し、残額500万ポンドの外債引き受けおよび追加融資を獲得しました。一転、1904年5月に鴨緑江の渡河作戦でロシアを圧倒して日本が勝利すると、国際市場で日本外債は急騰し、第2次から第4次の外債発行により、合計で10億円超の資金を調達できました(当時の国家予算は約7億円)。

    日本海海戦

    日露戦争の戦闘は、1904年2月8日、旅順港に配備されていたロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)に対する日本海軍駆逐艦の奇襲攻撃に始まりました。同日、日本陸軍先遣部隊の第12師団木越旅団が朝鮮の仁川に上陸。旅順攻略、奉天会戦へ。戦争の決着をつけたのは海戦でしました。バルト海沿岸を本拠地とするロシアのバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)は、旅順(旅順陥落の後はウラジオストク)へ向けてリエパヤ港を出発し地球を半周する航海を続け、1905年5月27日-5月28日の日本海海戦において日本軍連合艦隊と激突しました。

    連合艦隊は、東郷平八郎司令長官の優れた戦術、二人の参謀(秋山真之、佐藤鉄太郎)による見事な作戦、上村彦之丞将軍率いる第二艦隊(巡洋艦を中心とした艦隊)による追撃、鈴木貫太郎の駆逐隊による魚雷攻撃作戦、下瀬火薬(世界最強火薬)、伊集院信管、新型無線機、世界初の斉射戦術、世界最高水準の高速艦隊運動などによって、欧州最強と言われたバルチック艦隊を圧倒、これを殲滅(せんめつ)しました。

    なお、当日、日本軍連合艦隊には、4名のイギリス観戦武官が同船しており、元来イギリスの戦法であるT字戦法に関しての補佐・指導を行いました。バルチック艦隊の司令部は司令長官を含めてまるごと日本軍の捕虜となるほど、連合艦隊の一方的な圧勝で、世界のマスコミの予想に反する結果に、列強諸国を驚愕させ、ロシアの脅威に怯える国々を熱狂させました。この結果、日本側の制海権が確定しました。日露戦争の終結直前の段階で日本軍は樺太攻略作戦を実施し、全島を占領しました。この占領が後の講和条約で南樺太の日本への割譲をもたらすこととなります。

    講和へ

    ロシアでは、相次ぐ敗北と、それを含めた帝政に対する民衆の不満が増大し、1905年1月9日には血の日曜日事件が発生していました。日本軍の明石元二郎大佐による革命運動への支援工作がこれに拍車をかけました。日本も、当時の乏しい国力を戦争で使い果たしていました。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和しました。

    日本は19か月の戦争期間中に戦費17億円を投入しました。戦費のほとんどは戦時国債によって調達されました。当時の日本軍の常備兵力20万人に対して、総動員兵力は109万人に達しました。戦死傷者は38万人、うち死亡者8万7,983人に及びました。

    さらに、白米を主食としていた陸軍の野戦糧食の不備により、脚気患者が25万人、病死者は2万7,800人に上りました。これは当時の陸軍軍医総監だった森鴎外(森林太郎)の責任も大きかったのでしました。日清・日露戦争は脚気との闘いでしました。麦飯を混ぜていた海軍では脚気の死者はほとんどなかったそうです。ロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで、相互の勢力圏を確定することができました。こうして日本は朝鮮半島の権益を確保できた上、新たに東清鉄道の一部である南満州鉄道の獲得など満洲(中国東北部)における権益を得ることとなり、またロシアに勝利したことは、列強諸国の日本に対する評価を高め、明治維新以来の課題であった不平等条約改正の達成に大きく寄与しました。

    また、日露戦争の影響を受けて、ロシアの植民地であった地域やアジアで特に独立・革命運動が高まり、清朝における孫文の辛亥革命、オスマン帝国における青年トルコ革命、カージャール朝における立憲革命や、仏領インドシナにおけるファン・ボイ・チャウの東遊運動、英領インド帝国におけるインド国民会議カルカッタ大会等に影響を与えています。

    日露戦争において日本の国際的地位が高まった後、1911年(明治44年)、第二次桂太郎内閣の外相小村寿太郎は日米修好通商条約を改訂した日米通商航海条約に関税自主権を盛り込んだ修正条項に調印、ここに、安政年間に日本と諸外国との間で結ばれた不平等条約の改正が達成さました。

    しかし、アメリカはポーツマス条約の仲介によって漁夫の利を得、満洲に自らも進出することを企んでいましたが、思惑とは逆に日英露三国により中国権益から締め出されてしまう結果となりました。以後もアメリカは「機会均等」を掲げて中国進出を意図しましたが、結局上手くいかず、対日感情が悪化します。これは日英同盟の解消や軍縮の要求などにつながり、黄禍論の高まりと共に、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立の第一歩となりました。

    当時の大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約締結に至る日露の和平交渉への貢献が評価され、1906年のノーベル平和賞を受賞しました。第二次世界大戦(太平洋戦争)の第32代大統領フランクリン・ルーズベルトは彼の従兄弟に当たる。

    ここに諸列強と並ぶ帝国主義国家にのし上がりました。大国ロシアに対して戦勝を記録したことは、諸外国にも反響を与えたが、嘉永年間以来の黒船の衝撃と、その後目指した西欧列強に並ぶ近代国家づくりの目標は一応達成されたとする説もあります。

    その後第一次世界大戦の講和により完成したベルサイユ体制の世界で、1920年(大正9年)に設立された国際連盟に常任理事国として参加し、日本は明治維新から約50年という速さで列強国のひとつに数えられることになりました。

    3.東郷 平八郎と肉じゃが

    弘化4年12月22日(1848年1月27日)-昭和9年(1934年)5月30日は、日本の武士・薩摩藩士、大日本帝国海軍軍人。階級位階勲等爵位は元帥海軍大将・従一位・大勲位・功一級・侯爵。明治時代の日本海軍の司令官として日清・日露戦争の勝利に大きく貢献し、日本の国際的地位を引き上げました。
    薩摩藩士として薩英戦争に従軍し、戊辰戦争では新潟・函館に転戦して阿波沖海戦や箱館戦争、宮古湾海戦で戦いました。大政奉還、明治の世の中になると海軍士官として明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学。明治27年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め、豊島沖海戦(イギリス船籍の高陞号撃沈事件)、黄海海戦、威海衛海戦で活躍しました。

    日清戦争後一時病床に伏すも、明治32年に佐世保鎮守府司令長官となり、明治34年(1901年)には新設の舞鶴鎮守府初代司令長官に就任しました。来る対露戦を想定してロシアのウラジオストック軍港に対峙する形で設置された重要ポストでしました。日本海海戦での勝利により海軍大将に昇進。タイム誌の1926年11月8日号において、日本人としては初のカバーパーソンとなりました。

    肉じゃが

    1870年から1878年までイギリスのポーツマス市に留学していた東郷平八郎が留学先で食べたビーフシチューの味を非常に気に入り、日本へ帰国後、艦上食として作らせようとしました。しかし、ワインもドミグラスソースも無く、そもそも命じられた料理長はビーフシチューなど知らず、東郷の話からイメージして醤油と砂糖を使って作ったのが始まりと言われています。

    肉は西日本では牛肉、東日本では豚肉を使うのが一般的。日本海軍が発祥で、栄養価が高く、栄養バランスもよく、またカレーライスと同じ素材を使うために補給の都合がよく、水兵の食事として全国的に導入されました。ただし牛肉やじゃがいもという当時の日本人には馴染みの薄い食材を使うせいか、一般社会の食卓には定着しませんでした(牛鍋は外食、牛肉の大和煮は缶詰料理であり、ともに家庭料理ではない)。肉じゃがが戦後の空白の時代を経て家庭食として再登場するのは昭和30年代の後半であり、また実際に定番メニューとして定着したのは早くても昭和40年代の後半とされています。

    海軍経理学校で1938年に刊行された海軍厨業管理教科書(舞鶴総監部保管)にはレシピが次のように紹介されています。

    • 1. 油入れ送気
    • 2. 3分後生牛肉入れ
    • 3. 7分後砂糖入れ
    • 4. 10分後醤油入れ
    • 5. 14分後こんにゃく、馬鈴薯入れ
    • 6. 31分後玉葱入れ
    • 7. 34分後終了発祥の地論争京都府舞鶴市が1995年10月に「肉じゃが発祥の地」を宣言。1998年3月に広島県呉市も「肉じゃが発祥の地?」(最初に宣言した舞鶴市に配慮して”?”をつけた)として名乗りを上げました。
      根拠は、
    • 舞鶴市:東郷平八郎が初めて司令長官として赴任したのが舞鶴鎮守府であり、現存する最古の肉じゃがのレシピが舞鶴鎮守府所属艦艇で炊烹員をしていた故人から舞鶴総監部に寄贈されたものである。
    • 呉市:舞鶴赴任より10年前に呉鎮守府の参謀長として赴任している。としています。
      なお、海軍カレーは、日露戦争当時、主に農家出身の兵士たちに白米を食べさせることとなった帝国海軍・横須賀鎮守府が、調理が手軽で肉と野菜の両方がとれるバランスのよい食事としてカレーライスを採用。海軍当局は1908年発行の海軍割烹術参考書に掲載し、その普及につとめた。江戸時代後期から明治に西洋の食文化が日本へ入ると、カレーも紹介され、当時インドを支配していた大英帝国の海軍を模範とした大日本帝國海軍は、そこから軍隊食を取り入れた。英国海軍はシチューに使う牛乳が日持ちしないため、牛乳の代わりに日持ちのよい香辛料であるカレーパウダーを入れたビーフシチューとパンを糧食にしていた。しかし、日本人はシチューやパンに馴染めなかったため、カレー味のシチューに小麦粉でとろみ付けし、ライスにかけたところ好評を得てカレーライスが誕生したのである。よって、インド風カレーとは一線を画すものであり、小麦粉のねっとりとしたルーに多数の具を加味し、日本米との絶妙なコンビネーションを遂げるよう工夫されている(ただしイギリスにおいても、元来カレーはライスと併せるものであり、パンとあわせるのはあくまで軍隊食である)。現在神奈川県横須賀市が「海軍カレー」で街おこしを行なっています。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    たじまる 近代-4

    tajimaru_b歴史。その真実から何かを学び、成長していく。
    [catlist ID = 294 orderby=title order=asc]

    日清戦争

    目 次

    1. 清国の半植民地化と滅亡
    2. 朝鮮をめぐる日清の抗争
    3. 日清戦争の経緯
    4. 日清戦争
    5. 下関条約
    6. 日清戦争と三国干渉
    7. 辛亥革命
    8. 三国干渉とその後
    19世紀なかばから東アジアの中国・日本・朝鮮は、相次いで欧米列強による開国を迫られていました。

    アヘン戦争、清仏戦争(1884年 – 1885年)、日清戦争(1894年 – 1895年)、義和団の乱(19世紀末 – 20世紀初頭)といった事件が起こっていき、帝国主義列強に侵略されていくことになります。イギリスに香港島を割譲、九竜・新界租借地、威海衛租借地を与え、ロシアに旅順大連租借地(後に日本が譲渡され関東州租借地)や東清鉄道利権を与え、ドイツに膠州湾(こうしゅうわん)租借地を、フランスに広州湾租借地を与えた他、日本に台湾を割譲しました。上海に共同租界やフランス租界が設置され、半植民地となっていきます。

    ▲ページTOPへ


    1.清国の半植民地化と滅亡

    19世紀の中国は、清の支配が衰え、繁栄が翳(かげ)った時代です。清朝は、大規模な社会動乱、経済停滞、食糧の供給を逼迫させる人口の爆発的増加などに苦しんでいた。これらの理由に関しては様々な説明がなされるが、基本的な見解は、清は、この世紀の間ずっと、従来の官僚組織、経済システムでは対処しきれない人口問題と自然災害に直面したということである。19世紀の中国にとっての主要な問題の一つはどのようにして外国と付き合うかということでした。

    伝統的に、中国は東アジアにおいて覇権を握っており、中華思想に基づいて、歴代王朝の皇帝が『天下』を支配し、冊封体制の下で東アジアの国際秩序を維持するものと考えていた。しかし、18世紀後半になると、ヨーロッパ諸国が産業革命と海運業によりアジアに進出していった。イギリス商人は18世紀末にヨーロッパの対中国貿易競争に勝ち残って、中国の開港地広州で茶貿易を推進した。

    まず1872年、日本の琉球併合により冊封国琉球を事実上失った。琉球につづいて、1884年、インドシナ半島の植民地化を進めるフランスに対しベトナム宗主権を維持しようと清仏戦争(- 1885年)が起きたが、これによってもう一つの朝貢国越南(ベトナム)がフランスの支配下に入りました。アジアの盟主の地位が激しく揺らいだ。続く1894年、朝鮮で東学党の乱(甲午農民戦争)が起こり清が宗主国として介入すると、朝鮮支配を狙う日本も対抗して出兵して日清戦争(- 1895年)に発展したが、清の敗北に終わり、下関条約によって台湾割譲と朝鮮が自主国であることを承認させられ、冊封国朝鮮に対する影響力も失った。

    ウイグルでは、ヤクブ・ベクが清朝に反旗を翻した(ヤクブ・ベクの乱)。その中で、ロシアが1871年中央アジアからウイグルに派兵しイリ地方を占領した。漢人官僚の左宗棠の努力により、ヤクブ・ベクの乱は鎮圧され、最終的には、曾国藩の息子である曾紀沢の手によって1881年にはロシアとの間で不平等なイリ条約を締結し、イリ地方をロシアに割譲することになった。

    ▲ページTOPへ


    2.朝鮮をめぐる日清の抗争

    日本は、朝鮮の開国後、その近代化を助けるべく軍隊の制度改革を援助しました。ところが1882(明治15)年、改革に取り残され、冷遇された事に不満を持った一部の朝鮮軍人の暴動が起きました(壬午事変)。清はこれに数千の軍隊を派遣し、ただちに暴動を鎮圧し、日本の影響力を弱めました。
    1884(明治17)年には、日本の明治維新に倣って近代化を進めようとした金玉均らのクーデターが起きましたが、このときも清の軍隊がこれを鎮圧しました(甲申事変)。
    朝鮮における清朝との勢力争いに二度敗北した日本は、清との戦争を予想して急速に軍備を拡張し、ほぼ対等な軍事力を蓄えるようになりました。

    ▲ページTOPへ


    3.日清戦争の経緯

    大久保らが実権を握った日本は、1875年に江華島事件を起こして圧力をかけ、1876年に不平等条約である日米修好通商条約を参考に作られた日朝修好条規(江華条約)を締結し、朝鮮半島を開国させた。朝鮮は当時清国の冊封国であったが、この条約では冊封を近代的な意味での属国・保護国とは見做さなかったため、朝鮮は独立国として扱われました。
    李氏朝鮮との国交問題が暗礁に乗り上げている中、朝鮮の宗主国である清との国交締結を優先にすべきとの考えから、1871年9月13日(明治4年7月29日)に、日本と清の間で「日清修好条規結」が結ばれました。日本側大使は大蔵卿伊達宗城、清側大使は直隷総督李鴻章であった。平等条約でしたが、その内容は両国がともに欧米から押し付けられていた不平等条約の内容を相互に認め合うという極めて特異な内容であった。日清戦争勃発まではその効力が続いていました。
    その後、日本と清国の間で領土問題(台湾出兵参照)が発生し、日本の強硬な態度に驚いた清国は朝鮮に国書の受け入れ交渉をするよう指示しました。ここで交渉は再開されるはずであったが、1872年(明治5年)5月外務省官吏・相良正樹は、交渉が進展しない事にしびれを切らし、それまで外出を禁じられていた草梁倭館(対馬藩の朝鮮駐在事務所)を出て、東莱府へ出向き、府使との会見を求めた(倭館欄出)。
    さらに同年9月、それまで対馬藩が管理していた草梁倭館を日本公館と改名し外務省に直接管理させることにしました。これは草梁倭館は、朝鮮政府が対馬藩の為に建て使用を認めた施設だったこと、対馬藩は日本と朝鮮に両属の立場にあったからである。 この日本側の措置に東莱府使は激怒して、10月には日本公館への食糧等の供給を停止、日本人商人による貿易活動の停止を行いました。日本側の感情を逆撫でする効果は十分にあり、「征韓論」が巻き起こるに至りました。

    1875年(明治8年)9月20日、日本側が測量等のために朝鮮側の官僚と面会しようとして武装端艇でその陣営近くまで遡航し、さらに朝鮮側に断ることなく奥(ソウル方面)へと進もうとして江華島付近でで砲台から砲撃されたと記されていました。軍船が他国の河川を無断で遡航することは国際法違反であり、この場合さらに首都方面に行こうとしたことから、日本軍の行動は挑発だったと考えられています。
    朝鮮からの砲撃の翌日、今度は日本側が艦砲射撃を行ったうえで、陸戦隊と海兵隊を上陸させて第2砲台を放火し、3日目には第1砲台も放火し、朝鮮側の35名を殺害しています。一方日本側の死傷者は雲揚の2名でした。
    この事件が朝鮮政府に与えた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対をおさえて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されました。
    江華島事件後の朝鮮では、急進的欧米化を進めようとする親日的な開化派(独立党)と、漸進的改革を進めようとする親清的な守旧派(事大党)との対立が激しくなっていった。それとともに、開化派を支援する日本と守旧派を支援する清との対立も表面化してきました。
    1882年7月23日に壬午事変が起こり、清と日本の軍隊が朝鮮の首都である漢城に駐留することになりました。日本の朝鮮駐留軍より清の駐留軍の方が勢力が強く、それを背景に守旧派が勢力を拡大していった。巻き返しを図った開化派は、日本の協力を背景に1884年にクーデターを起こし、一時政権を掌握した(甲申事変)。しかし、清の駐留軍が鎮圧に乗り出したため、日本軍は退却、クーデターは失敗しました。

    1885年に日本と清とは天津条約を締結、両国は軍を撤退させ、今後朝鮮に出兵する際にはお互いに事前通告することがさだめられました。
    1886年8月1日に長崎事件が起こった。清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に日本政府の許可なく上陸。長崎市内で暴動を起こし、警官隊と激しく衝突、双方に死傷者を出す騒ぎとなりました。この事件によって日本国民の対清感情は著しく悪化しました。
    甲午農民戦争の停戦後、朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したが、どちらも受け入れなかった。それどころか、日本は朝鮮の内政改革を求め、朝鮮政府や清がこれを拒否すると、7月23日に王宮を占拠して、親日政府を組織させた。清がこれに対して抗議して、対立が激化しました。

    日本は開戦に備えてイギリスの支持を得ようと条約改正の交渉を行い、7月16日に調印に成功した(日英通商航海条約)。この直後から日本政府は開戦に向けての作戦行動を開始し、7月25日豊島沖の海戦で、日清戦争が始まりました。なお、宣戦布告は8月1日です。なお、日本政府の強引な開戦工作に対して、明治天皇は「これは朕の戦争に非ず。大臣の戦争なり」との怒りを発していました。

    日本政府が、国民に伝えた宣戦の理由(清国ニ対スル宣戦ノ詔勅)の要旨は次のようなものでした。

    「そもそも、朝鮮は日本と日朝修好条規を締結して開国した独立の一国である。それにもかかわらず、清国は朝鮮を属邦と称して、内政干渉し、朝鮮を救うとの名目で出兵した。日本は済物浦条約に基づき、出兵して変に備えさせて、朝鮮での争いを永久になくし、東洋全局の平和を維持しようと思い、清国に協同して事に従おうと提案したが、清国は様々な言い訳をしてこれを拒否した。日本は朝鮮の独立を保つため朝鮮に改革を勧めて朝鮮もこれを肯諾した。しかし、清国はそれを妨害し、朝鮮に大軍を送り、また朝鮮沖で日本の軍艦を攻撃した(豊島沖海戦)。日本が朝鮮の治安の責任を負い、独立国とさせた朝鮮の地位と天津条約とを否定し、日本の権利・利益を損傷し、そして東洋の平和を保障させない清国の計画は明白である。清国は平和を犠牲にして非望を遂げようとするものである。事が既にここに至れば、日本は宣戦せざるを得なくなった。戦争を早期に終結し、平和を回復させたいと思う。」
    7月25日の豊島沖海戦の後、陸上でも7月29日成歓で日本軍は清国軍を破りました。9月14日からの平壌の陸戦、9月17日の黄海海戦で日本軍が勝利し、その後朝鮮半島をほぼ制圧しました。10月に入り、日本軍の第1軍が朝鮮と清との国境である鴨緑江を渡り、第2軍も遼東半島に上陸を開始しました。11月には日本軍が遼東半島の旅順・大連を占領しました。1895年2月、清の北洋艦隊の基地である威海衛を日本軍が攻略し、3月には遼東半島を制圧、日本軍は台湾占領に向かいました。

    ▲ページTOPへ


    4.日清戦争

     日清戦争は、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)4月にかけて行われた主に李氏朝鮮をめぐる日本と、1860年代から洋務運動による近代化を進める清朝(中国)との間で行われた、日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。中国では甲午戦争、第一次中日戦争、英語:First Sino-Japanese War)。

    日本での正式名称は明治二十七八年戦役(めいじにじゅうしちはちねん せんえき)。日本の戦費総額は日本円で3億円、死者1.3万人。この戦争期間は10か月であった。
    大日本帝国と清国殿戦争で、支持勢力として、日本側は李氏朝鮮 独立党(開化派)、清国側は李氏朝鮮 事大党(保守派)。
    1894年(明治27年)、朝鮮南部に甲午農民戦争とよばれる暴動が起きました。農民軍は、外国人と腐敗した役人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどでした。わずかな兵力しか持たない朝鮮王朝は、清に鎮圧のための出兵を求めましたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まりました。

    戦場は朝鮮の他、満州南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利しました。日本の勝因としては、新兵器の装備に加え、軍隊の規律・訓練に勝っていた事があげられますが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがあります。

    ▲ページTOPへ


    5.下関条約

    1895(明治28)年3月下旬からアメリカの仲介で、日本側が伊藤博文と陸奥宗光、清国側が李鴻章を全権に下関で講和会議が開かれました。3月24日に李鴻章が日本人暴漢に狙撃される事件が起こり、このため3月30日に停戦に合意しました。4月17日 日清講和条約が調印され、5月8日に清の芝罘で批准書の交換を行いました。

    条約の主な内容は次の通り

    • 1. 清は朝鮮が独立国であることを認める。
    • 2. 清は遼東半島・台湾・澎湖諸島を日本に譲渡する。
    • 3. 清は賠償金2億両(テール:約3億円)を金で支払う。
      清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の約3倍に当たる賠償金3億円あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本に譲り渡しました。このほかにもイギリスが清に要求して、まだ実現していなかった工場を建てる特権が含まれており、イギリスの立場を日本が代弁していた様子があります。
      当時ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを要求した(三国干渉)。日本政府には、列強三か国に対抗する力は無かったため、これを受け入れ、その代償として清から2億両を金で得た。以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金で八幡製鉄所を建てるなど国力充実をはかった。
      また同年には、日英通商航海条約を結び、イギリスに日本国内での治外法権の撤廃(領事裁判権の撤廃)を認めさせます。

      ▲ページTOPへ


    6.日清戦争と三国干渉

    日清戦争は、欧米流の近代国家として出発した日本と伝統的な中華秩序との対決でした。結果としてこの戦争により日本も諸列強の仲間入りをし、欧米列強に認められることとなりました。他方、「眠れる獅子」とよばれてその底力を恐れられていた清は、世界の予想に反して新興の日本にもろくも敗れ、古代から続いた東アジアの秩序は崩壊しました。
    「眠れる獅子」と畏れられた清が、新興国日本に敗北する様子を見た欧州列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、満洲からモンゴル・トルキスタンをロシア、長江流域をイギリス、山東省をドイツ、広東省・広西省をフランスが勢力圏としました。同じく、イギリスは香港の九龍半島と威海衛、フランスが広州湾、ドイツが青島(膠州湾租借地)、ロシアが旅順と大連を租借地として、それぞれ要塞を築いて東アジアの拠点としました。アメリカは南北戦争による国内の混乱から出遅れたため、中国市場は全ての国に平等に開かれるべきだとして、門戸開放宣言を発しました。これに対し康有為・梁啓超ら若い知識人が日本の明治維新にならって、清も立憲君主制を取り国政の本格的な近代化を目指す変法自強運動を唱えはじめた。彼ら変法派は光緒帝と結んで1898年一時的に政権を奪取することに成功する(戊戌の変法)が、西太后率いる保守派の反撃にあって打倒された(戊戌の政変)。その後、西太后は愛新覚羅載儁(保慶帝)を皇帝として擁立するも、保慶帝の父が義和団の指導者であるため強い反発をうけ、3日で廃されました。

    1899年、反西洋・反キリスト教を掲げる義和団が蜂起し、「扶清滅洋」をスローガンにかかげて外国人を攻撃しつつ北京に進出しました。翌1900年西太后はこれに乗せられて列強に宣戦布告したが、八カ国連合軍に北京を占領され、外国軍隊の北京進駐を認める北京議定書を結ばされた。こうして清の半植民地化はますます進みました。

    その後、義和団の乱の影響もあって清朝政府はついに近代化改革に踏み切り、科挙を廃止し、六部を解体再編し、憲法発布・国会開設を約束し、軍機処を廃止して内閣を置きました。しかし、清朝は求心力を失いつつあり、孫文らの革命勢力が次第に清朝打倒運動を広げていた。1911年、武昌での武力蜂起をきっかけに辛亥革命が起こり、清は完全な内部崩壊を迎えました。

    翌1912年1月1日、南京に中華民国が樹立した。清朝最後の皇帝、宣統帝(溥儀)は2月12日、正式に退位し、ここに清は完全に滅亡しました。

    戦争後、欧米列強各国は清の弱体化を見て取り、諸列強の中国大陸の植民地化の動きが加速され、中国分割に乗り出した。ロシアは旅順と大連、ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借した。

    下関条約の結果、清の朝鮮に対する宗主権は否定され、ここに東アジアの国際秩序であった冊封体制は終焉を迎えることになりました(李氏朝鮮は1897年(明治30年)大韓帝国として独立)。
    しかし、ロシアは満州(中国東北部)への進出を狙っていたため、遼東半島が日本領になることに激しく反発しました。このため、ドイツ・フランスとともに遼東半島を清に返還することを4月23日日本政府に要求しました(三国干渉)。独力で3国に対抗する力を持たない日本は、やむを得ず代償として3000万両と引き替えに、返還させられました。

    結果、国民に屈辱感を与え、中国の故事「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」を合い言葉に、官民挙げてロシアに対抗するための国力の充実に努めるようになりました。
    以後、日本はロシアを仮想敵国として、清から得た賠償金および利子3億6千万円を、日清戦争戦費(2億2247万円)の3割(7900万円)の補填と、次のより大規模な戦争のための軍備拡張費(2億円)とし、その他八幡製鉄所の建設と鉄道・電信事業の拡充および台湾の植民地経営など、国力充実と対外拡張のために使用しました。

    加えて、1897年(明治30年)の金本位制施行の源泉となり、戦果は経済的にも影響を与えました。

    台湾では、清朝の役人と台湾人達を先導して台湾民主国を建国、日本軍と乙未戦争を戦ったが日本軍の優秀な装備と圧倒的兵力の前に敗北しました。最終的に清朝の役人は資金を持ち逃げし、日本は台湾を併合し統治を開始しました。
    ▲ページTOPへ


    2.辛亥革命(しんがいかくめい)

     1911(明治44)年に起こった辛亥革命は、日本の東アジア政策に大きな影響を与えました。日本はいくつかの選択肢が考えられました。

    • 清朝を援助して満蒙権益を強化する
    • 革命派を援助して権益強化を図る
      しかし、日本は権益強化の視点にとらわれすぎたために、何を選択すべきかの政策判断を明確に下すことを躊躇せざるをえませんでした。
      辛亥革命そのものは、袁世凱が臨時大総統となり、中華民国の成立という一つの着地点を1912(明治45)年に迎えます。しかし、翌13(大正2)年には第二革命が勃発し、袁一派と国民党との対立は激しさを増し、中国の保全を願うイギリスのプレゼンスがある限り、日本も国民党も袁世凱に付け入ることはできませんでした。
      この状況を一気に変えたのは、またしても1914(大正3)年の第一次世界大戦でした。ヨーロッパ各国を本土で釘付けにし、そのためヨーロッパ各国はアジアを留守にせざるをえず、戦前よりはるかに日本の動向を気にかける有様となりました。日本にとってはまさに「大正の天佑」、千載一遇のチャンス到来と思われました。
      時の第二次大隈内閣は、外相加藤高明の強力な指導の下、東アジア情勢を変えるべく参戦しました。1915(大正4)年1月の中国に対する21ヶ条要求の主な内容としては、山東省のドイツ権益の譲渡、満蒙権益の強化、中国沿岸部の不割譲宣言などがあります。
      しかし、ポイントはあくまでも満蒙権益の強化に絞られました。明文化を求める日本とさらなる譲歩を恐れる中国との間に摩擦が続いたものの、最終的に半年後、中国は日本の要求を受け入れました。後発帝国主義国家日本のやや強引なこの外交手法は、中国そしてアメリカの強い批判を浴び、後まで日本の悪いイメージを残す結果となってしまいました。
      戦争は革命を育みました。1917(大正6)年、ロシアに十月革命が勃発。帝政を打倒したボルシェヴィキ政権は、帝国主義戦争を悪と見なし、直ちに講和の姿勢を示しました。帝政ロシアから一挙に共産主義ロシアへの大転換の前に、日本はまたもなす術を持ちませんでした。ここで二十世紀への遺産として残された恐露論は、緩和されるどころか、共産主義という「赤色」イデオロギーによって一層強化されることになりました。
      寺内内閣はロシアへの対抗上、日中提携強化を図り、西原借款という巨額の借款供与に踏み切りました。またボルシェヴィキ政権がアジアへ進出するのを抑止するため、1918(大正7)年にはシベリア出兵に踏み切りましたが、この二つの政策はいずれも失敗を運命付けられていました。▲ページTOPへ

      フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
      ▲ページTOPへ

    近代憲法色(けんぽういろ)#543f32戻る次へ

    たじまる 鎌倉-3

    鎌倉時代

    鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

    5.国衙から守護へ

    やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

    守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

    通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

    設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

    平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

    なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

    1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

    鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

    鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

    そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

    その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

    6.但馬国司

    ■守護

    • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
    • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
    • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
    • 1285年~1321年 太田政頼
    • ?~1333年 – 太田氏
    • 1336年 今川頼貞
    • 1336年~1338年 桃井盛義
    • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
    • 1340年~1351年 今川頼貞
    • 1361年~1365年 仁木頼勝
    • 1366年~1372年 長氏
    • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
    • 960年頃 源経基
    • 1010年頃 源頼光
    • 1110年頃 平正盛
    • 平経正
    • 1130年頃 平忠盛
    • 1182年 平重衡(権守)
    • 矢沢頼康
      柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
      戸田氏西 美濃大垣藩主
      山口弘豊 常陸牛久藩主
      浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
      遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
    • ? 源満頼
    • 1224年 平有親
    • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
    • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
    • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

      7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

      その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。 聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

      この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

      地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

      ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

      8.安達親長

      安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

      源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

      9.源頼光と頼光寺

      3.頼光寺(らいこうじ)

      曹洞宗 但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

      頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
      気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

      10.太田氏の繁栄と滅亡

      むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

      ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

      その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

      昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

      前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

      このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

      昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

      以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

      武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

      11.大岡山と進美寺

      東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。 古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

      日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

      山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

      『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

      大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

      山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

      大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

      進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

      但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

      しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

      大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

      12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


      十二所神社 豊岡市日高町松岡

      承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

      雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

      「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」
      といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、
      「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

      と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

      この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

      今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

      出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

    たじまる 鎌倉-2

    歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

    鎌倉時代

    鎌倉時代(1185年頃-1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つ。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したことからこう呼ばれる。武士階級による政権が本格的に実力を発揮し始めた時代である。

    5.国衙から守護へ

    やがて、国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する時代に入ります。 鎌倉期の守護は、1180年(治承4)、源頼朝が挙兵し、鎌倉へ入った後、諸国に置いた守護人に始まるとされています。

    守護は、鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。1185(文治元)年、後白河上皇は、平家を壇ノ浦で壊滅させた源義経の軍事的才能に着目し、頼朝の対抗者に仕立てました。しかしこの企ては京都へ軍を送った頼朝により一撃され、頼朝に逃亡した義経を探索することを名目に、守護・地頭を全国に配置しました。現在では同年十一月の守護地頭設置をもって、鎌倉幕府の成立と見なす研究者が多くなっています。

    通常、守護は、京都か鎌倉に常駐していて、任国には代官を置いて事務を執務させました。

    設立当時の守護の主な任務は、在国の地頭の監督で、鎌倉時代は守護人奉行(しゅごにんぶぎょう)といい、室町時代は守護職(しゅごしき)といいました。のちに守護大名と発展し、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきました。

    平安時代後期において、国内の治安維持などのために、国司が有力な在地武士を国守護人(守護人)に任命したとする見解があり、これによれば平安後期の国守護人が鎌倉期守護の起源と考えられています。

    なお、諸国ごとに設置する職を守護、荘園・国衙領に設置する職を地頭として区別され始めたのは、1190年前後とされています。だが、当初の頼朝政権の実質支配権が及んだ地域は日本のほぼ東側半分に限定されていたと考えられており、畿内以西の地域では後鳥羽天皇を中心とした朝廷や寺社の抵抗が根強く、後鳥羽天皇(退位後は院政を行う)の命令によって守護職の廃止が命じられたり、天皇のお気に入りであった信濃源氏の大内惟義(平賀朝雅の実兄)が畿内周辺7ヶ国の守護に補任されるなどの干渉政策が行われ続けた。こうした干渉を排除出来るようになるのは、承久の乱以後のことです。

    1185年に、源頼朝は大江広元の献策を受け容れて弟の源義経の追討を目的に全国に守護・地頭を設置します。守護は一国に1人ずつ配置され、謀反人の殺害など大犯三ヶ条や国内の御家人の統率が役割の役職で、地頭は公領や荘園ごとに設置され、年貢の徴収や土地管理などが役割でした。

    鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

    鎌倉時代における守護の権能は御成敗式目に規定があり、大犯三ヶ条の検断(御家人の義務である鎌倉・京都での大番役の催促、謀反人の捜索逮捕、殺害人の捜索逮捕)および大番役の指揮監督という軍事・警察面に限定され、国司の権限である国衙行政・国衙領支配に関与することは禁じられていました。

    そして守護や地頭は、守護大名として、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していきます。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期~16世紀初頭ごろには、一部は戦国大名となり、一部は没落していきました。

    その後、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚(せんそ)(天子の位を受け継ぐことであり、それは先帝の崩御あるいは譲位によって行われる)、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に両朝が合一するまでの期間を南北朝時代と指し、室町時代の初期に当たる。この間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張しました。

    6.但馬国司

    ■守護

    • 1185年~?  小野時広(惣追捕使)
    • 1197(建久8)~1221(承久3)年 安達親長 のち出雲兼任
    • 1221年~1223年 常陸坊(太田)昌明
    • 1285年~1321年 太田政頼
    • ?~1333年 – 太田氏
    • 1336年 今川頼貞
    • 1336年~1338年 桃井盛義
    • 1338年~? 吉良貞家 但馬・因幡兼任
    • 1340年~1351年 今川頼貞
    • 1361年~1365年 仁木頼勝
    • 1366年~1372年 長氏
    • 1372年~以降1536年まで 山名氏■国司但馬守
    • 960年頃 源経基
    • 1010年頃 源頼光
    • 1110年頃 平正盛
    • 平経正
    • 1130年頃 平忠盛
    • 1182年 平重衡(権守)
    • 矢沢頼康
      柳生宗矩 剣術家、のち大和国柳生藩主
      戸田氏西 美濃大垣藩主
      山口弘豊 常陸牛久藩主
      浅野長晟 安芸国広島藩初代藩主
      遠藤慶隆 美濃八幡藩初代藩主但馬介
    • ? 源満頼
    • 1224年 平有親
    • 714(霊亀元)年 安部安麻呂
    • 737(天平九)年 大津連船人(おおつむらじふねひと)
    • 741(天平十三))年 陽胡史真身(やこのゑびとまみ) 記録の上では、最初に但馬国司に任じられたのは、霊亀元年(714)、安部安麻呂で、国司制がほぼ形を成してきた頃でした。その後約三十年近くの間は判明しない。天平九年(737)になって、大津連船人(おおつむらじふねひと)の名前があります。

    7.陽胡史真身(やこのゑびとまみ)

    その次に見えるのが、陽胡史真身(やこのゑびとまみ)です。天平勝宝二年(750)、壬生使主宇太麻呂、但馬守に任ず。陽胡氏は、隋陽(火偏)帝の後、達率楊侯阿子王より出たといわれ、亡命した帰化系の氏族であった。彼が但馬守に任じられたのは、天平十三年(741)で、二期の間但馬国司を勤めています。

    聖武天皇が奈良に大仏を造ろうとした時に、国民の協力を呼びかけ、高額の募財に応じた人々には、現在の位階に関わりなく、外従五位下に任じようといいました。『東大寺要録“起草章”』の『造寺校本知識記』に、大口献金者の名前が十人記され、陽胡史真身は、その6人目に記されています。外従五位上に任じられたばかりなのに、ただちに従五位下に昇進しています。そればかりか、翌天平勝宝元年には、四人の子息がそれぞれ一千貫を寄進し、一足飛びに外従五位下に昇進しています。恐らく真身が四人のこの名義で献金したものでしょう。

    この頃、律令制の位階を氏姓の尊卑で内位と外位とに分けていました。中央の官人に与えるのが内位で、従五位下に任じられたというのは内位に進んだということです。さまざまな貴族的特権を手に入れることが出来る。地方豪族や中央下級官にとっては、憧れの地位でしました。また、勲十二等にも叙せられています。真身はもともと法律専門の文官畑の出身者らしく見えるが、時には軍役にも駆り出されたのだろうか。

    地方官の給与だけでは、このような寄進が不可能と思われるような莫大な金額を調達しています。何らかの抜け道がなければ手に出来ない金額です。法律を拡大解釈したり、法律の盲点をついたり、逆用したりして、蓄財を果たすのが、当時の国司のやり方でした。法律畑出身の真身にとっては、まさに法律とは金儲けさせてくれるものだったろう。

    ではどのように行ったのだろう。大化改新によって、制度的には土地は国有化し、私有地はなくなった筈であります。戸籍に基づいて豪族だろうと一農民だろうと同じように口分田を受けることになっています。従五位下を手にすると、百町歩開墾の権利を手に出来る。但馬国司という地位を利用して、百町歩開墾を行ったとしたら、郡司たちが開墾に精力を注ぎ制限面積を超えた場合でも、国司として黙認し、その余剰分を蓄えたのではなかったのでしょうか。

    8.安達親長

    安達親長は、のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。安達氏は、鎌倉幕府の有力御家人の氏族。祖の藤九郎盛長は、平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。 豊岡市日高町赤崎にある進美寺で、建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」(進美寺文書 県指定重要文化財)が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文です。

    源平合戦の直前まで、但馬は平家一門による知行国で、当時の世情の激変がしのばれます。承久の乱に際して、れっきとした鎌倉武士でありながら、後鳥羽上皇に味方したため、地位を追われ、代わって太田昌明が守護となりました。

    9.源頼光と頼光寺

    頼光寺(らいこうじ)
    曹洞宗

    但馬、伊予、摂津(970年)の受領を歴任する。左馬権頭となって正四位下になり、後一条天皇の即位に際して昇殿を許される。受領として蓄えた財により一条邸を持ち、たびたび道長に多大な進物をしてこれに尽くした。道長の権勢の発展につれて、その側近である頼光も武門の名将「朝家の守護」と呼ばれるようになり、同じく摂関家に仕え、武勇に優れた弟の頼信と共に後の源氏の興隆の礎を築く。

    頼光寺は、豊岡市日高町上郷の山側にあります。平安中期の武将で、 大江山の鬼退治の伝説でも有名な源頼光(みなもと・よりみつ 948年(天暦2年)~1021年(治安元年))が1000年(長保2年)前後、但馬守に任じられました。豊岡市日高町上郷の頼光寺は、その邸宅跡と伝えられています。金葉和歌集に頼光夫妻が国府館で口ずさんだという「朝まだき空櫨(からろ)の音の聞こゆるは蓼刈る舟の過ぐるなりけり」の連歌が紹介されています。
    気多神社は、かつては頼光寺のご領地に鎮座していたそうです。

    10.太田氏の繁栄と滅亡

    むかし、比叡山の西塔谷というところに、常陸坊昌明という荒法師がいました。武芸に通じた荒法師として、この人の右に出るものはありませんでしました。

    ところが、文治元年(1185)のこと。後鳥羽上皇は、源頼朝に叔父の行家や弟の義経を捕らえるように命じる。常陸坊はこのとき比叡山を下り、行家を討つ仲間に入った。行家は捕らえられ、この手柄によって常陸坊昌明は、摂津の葉室荘と但馬の大田荘(豊岡市但東町)を賜り、大田荘に移って、それからは大田昌明と名乗ることになりました。

    その範囲は今の出石郡全体にあたるといわれていますが、昌明は何を考えたのか、この大田荘の一番奥の但東町木村の大将軍に館をつくったのです。そのころは、まだこの土地を大将軍とは呼ばなかったそうですが、文治五年、源頼朝が奥州の征伐をしたとき、はるばるこの遠征に従軍した昌明は、凱旋して自分で征夷大将軍といって自慢していたので、いつの間にか「大将軍の親方さま」と呼ばれるようになって、この地名が生まれたと伝えられています。

    昌明は、晩年に出城の築城にとりかかりました。亀が城の川上に仏清寺、川下に岩吹城を築き、一族や重臣を城主にして守らせました。また館を堀之内の台地に新築し、ここを代々の館としました。本城の亀が城を中心にして、仏清、岩吹の二城と、姫の段、堀の内などの館は、うまくつながって結ばれており、どの地点に立ってもすべての地点が必ず見渡せるようになっています。

    前但馬守護安達親長の子息の所領を没収して、進美寺に寄進したりしたこともありましたが、進美寺領に対して、干渉も行い始めました。たまりかねた進美寺では、本寺である比叡山延暦寺に保護を申し入れ、寺領を保全しようとしました。進美寺は末寺の中でも但馬随一の有力な寺院でした。延暦寺が但馬を寺院知行国としている限り、進美寺を厚く保護してやらねばならない。座主の令旨を昌明に伝えて、みだりに国衙や守護所が、進美寺領を違乱することがないようにいさめたり、六波羅探題に訴え出ました。

    このように昌明は、国衙がある気多郡に所領を持ちたいような行動をたびたび行っています。進美寺領や荘園が多かった気多郡は、なかなか奪えなかったのだろうか。

    昌明が亡くなった後も、太田氏は代々但馬守護職の地位にあり、一族は但馬各地の地頭になって栄えました。その様子は四代政頼が鎌倉の命により差し出した「但馬太田文」にうかがえます。また六代守延は検非違使に任ぜられ、京に上り、後醍醐天皇の第六子恒良親王をお預かりすることになります。しかし、元弘二年後醍醐天皇が隠岐の島を出て、太田氏の古い親戚にあたる名和氏をたより、船上山に幸されたと聞くと、守延も官軍に味方します。そして山陰の兵と合流し、親王をいただいて京都に攻め上がりましたが、敗走の途中、壮烈な戦死を遂げたと伝えられます。

    以後主を失い、残された一族は百姓になり、太田荘に住んだそうです。

    武士の時代、出石郡は、朝廷直轄領であり但馬の重要な拠点となっていたことが伺われます。

    11.大岡山と進美寺

    東にそびえる須留岐山は、その名の通り剣のような男らしい山ですが、大岡山は、気多郡の西になだらかな稜線をした山です。『三大実録』(868)に正六位上大岡神は左長神・七美神・菅神と共に神階が進んで、従五位下となっている事から知られるように、古くから大岡山は山そのものが神様だと信じられています。

    古代の日本人は、風雪や雨や雷など頭上に生起する自然現象に、すべて畏敬の眼で接し、そこに神の存在を信じていました。とりわけ米作りの生活が展開すると、秋の実りを保証してくれるのも神のなせる技との思いが強められます。神が天井から降臨し給う聖域は、集落の近くにあり、樹木が生い茂ったうっそうとした高い山だとか、あるいはなだらかな山容をした美しい山だと信じられていました。大岡山は、まさに大きな丘のような山として、そのまるっぽい姿は、神が天降り給うと信じるのにうってつけの山であったわけだし、つるぎ(剣)の尖りにも似た須留岐山は、神が降り来る山の目印とも感じられていたことだろう。このような神の山は「カンナビヤマ」とも呼ばれていました。神鍋山も「カンナビヤマ」のひとつであったものと思います。

    日高町の南東に位置する須留岐山は、山の尾根を西へ行くと進美寺山(シンメイジヤマ)は、円山川と支流浅間川の分水嶺であったと同時に古代律令制時代に制定された養父郡と気多郡の郡界線でもあった。進美寺は、705年、行基が開き738(天平十年)、十三間四面の伽藍と四十二坊の別院が建立されたものと伝えられています。

    山中のわずかばかりの平地にそのような伽藍が造営されていたとは、そのまま信じることはできないが、但馬に仏教が伝播してくる一つの契機であるとすれば、進美寺の開創が但馬のどこよりも古いものと考えたとき、但馬国分寺が政府によって造営された官寺であったのに対し、全くこれと異なった基準で政府ではなく川人部広井や日置部是雄のような地方在住の有力豪族によって造営されています私寺だったのであります。

    『但馬国太田文』によると、但馬八郡で寺の多い郡でもせいぜい六ヵ寺なのに対し、気多郡には十七ヵ寺と、ずば抜けて多い。当時の農民の生活の場を避けるように、平野部に建立されないで人里離れて奥まった山間いに建立されていました。『但馬国太田文』が記された1285年(弘安八年)においては、伽藍があり、堂塔の美を競っていたようです。

    大岡山は大岡神として神社が建てられていましたが、757(天平元年)に寺院が建てられました。開基は気多郷の住人、忍海公永の子、賢者仙人だとされています。忍海部広庭と同じ人物だろうといわれています。その際に地主神である大岡神を慰めるために大岡社を建てています。客人神として加賀白山神社から白山神社があるが、天台宗の寺院では必ずといってよい程、客人神として祀られています。現在こそ真言宗だが、当初は天台宗でした。進美寺も同じく天台宗です。

    山名時氏が守護となった頃の気多郡の武士はどのような人たちだったのだろう。

    大岡寺文書によると、観応二年(1351)山城守光氏が太多荘内に得久名と名付ける田地を所持しています。他には、太田彦次郎…太田荘の太田を姓にしていますから太田荘の有力者でしょう。太田垣通泰、垣屋修理進。太田垣は、但馬生え抜きの氏族、日下部氏の名が流れで、朝来郡で優勢な人で、応仁の乱の功によって、山名時熙が備後守を復した時、最初に送り込んだ守護代です。朝来郡だけでなく気多郡にも領有権を保持していました。垣屋修理進は、垣屋系図には見えないが、おそらく垣屋の主流につながる人でしょう。

    進美寺で、鎌倉時代はじめの建久8年(1197)10月4日から「五輪宝塔三百基造立供養」が行われました。願主は但馬国守護・源(安達)親長で、五輪宝塔造立祈願文には「鎌倉殿(将軍源頼朝)の仰せにより、全国8万4000基の五輪宝塔を造立するにあたり、但馬国の300基を進美寺で開眼供養を行う。それは源平内乱で数十万に及ぶ戦没者を慰め怨を転じて親となそうとする趣意からである」とあり、法句経の経文を引用し怨親平等の思想を説いた名文であります。

    但馬国の守護所はどこに置かれていたのだろうか。出石町付近だとの考えもあります。それは但東町太田荘の地頭は、越前々司後室だが、この人は北条時広の未亡人だと考えられる地位の高い人だから、在京者で、その実務を執り行うのは、守護関係の人ではないかと推定されます。また、太田氏の所領が出石郡に集中していますからです。

    しかし、国衙がある気多郡に守護所が設置されてもいいはずです。但馬国の場合、国衙の機能は鎌倉時代を通して活発に発揮されていました。国衙に国司が赴任していなくても、留守所が置かれ、京都の指令を忠実に行政面に施行しようとしていました。公式的には目代と在庁官人で構成されていました。この在庁官人の中に、ある時期には進美寺の僧が関係していたらしい。このころ御家人といっても、文字について教養のないものが多くいた時代であります。ましてや農民層に至っては文化的な教養などは無縁であったからです。

    大将野荘(現在の野々庄)57町二反余は『但馬国太田文』によると、畠荘宇治安楽院領、領家円満院宮とあります。円満院は、京都岡崎にあり、相次いで皇族が入院される寺格の高い寺で、国衙近辺の地に荘園があり、その中に守護所が設置されていた可能性も推定できます。

    12.承久の乱と雅成親王(まさなりしんのう)


    十二所神社 豊岡市日高町松岡

    承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権(治天の君)との二頭政治が続いていましたが、この乱の結果、幕府が優勢となり、朝廷の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになります。

    首謀者である後鳥羽上皇は隠岐の島へ、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流されました。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流されました。後鳥羽上皇の皇子の六条宮(雅成親王)、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位しました(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになります。

    雅成親王は、後鳥羽上皇の第四皇子で、配流先は豊岡市高屋とされています。但馬守護太田昌明の監視を受ける身となりました。妃の幸姫が夫君の跡を慕って、懐妊の身にもかかわらず、三十余里の道程を歩み続けて、気多郡松岡村の里まで辿り着かれました。妃は急に産気づかれて皇子を分娩されましたが、侍女をとある農家に立ち寄らせて、親王の配所までの道のりを聞かせたところ、その家の老婆が意地悪く、

    「配所高屋までは、九日通る九日市、十日通る豊岡、その先は人を取る一日市で、合わせて二十日はかかりましょう」

    といったので、これを聞かれた妃は泣き崩れて、

    「これ以上三日も歩けば気力は尽きてしまうのに、二十日もまだ歩けとは、到底生きる望みはありません」

    と申されて、生まれたばかりの王子を石の上に寝かせ、せめて守り袋を王子の身許へ添え遣わされた上で、「死後南風になって高屋に達しましょう」といわれて、蓼川に入水され、侍女もこれに従いました。この事を聞き知った村の若者は、この老婆を火あぶりにしました。

    この後毎年この頃になると、決まったように洪水が起きて、村人が苦しんだので、これを妃のたたりとなして、その霊を慰めんがため、妃の霊を産土神として十二所神社に祀ったといいます。

    今でも松岡地区で旧暦三月十四日、「婆焼き祭り」が行われます。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他