越前国一宮 気比神宮
朝廷は北陸への通路の玄関口である敦賀の気比神宮を重んじるようになります。また、北部九州が朝廷の領域に組み込まれるようになったことで、出雲と北九州との交易もとだえました。
そして、出雲の首長には、大和の文化を一方的に受け入れる道しか残されていませんでした。
大和朝廷の勢力は、丹波を組み入れたことによって朝鮮半島にも伸び、出雲と新羅との直接交渉の機会は滅多になくなりました。出雲は大和朝廷支配下の一地方豪族になっていきました。四世紀半ばから、出雲の勢力は急速に衰えたのです。そして、『記紀』に、大国主命が活躍する神話の大部分を削り、皇室(王家)の支配を正当化する大国主命の国譲りの物語だけを詳しく伝えたのです。
1.気比神宮(けひじんぐう)
重文(旧国宝)大鳥居
福井県敦賀市曙町11-68
式内社(名神大)七座 越前国一宮、旧社格は官幣大社・別表神社
主祭神 伊奢沙別命(イザサワケノミコト・気比大神)
祭神 仲哀天皇(帯中津彦命)
神功皇后(息長帯姫命)
日本武尊
応神天皇(誉田別命)
玉妃(たまひめ)命
武内宿禰命 広い道路が大鳥居までまっすぐに伸びています。
本来は食物の神を祀る神社であったと思われるが、鎮座地前を都と北陸諸国を結ぶ北陸官道が通り、また敦賀が古来有数の津であったため、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として重視し、承和6年(839年)遣唐使帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『続日本後紀』)、弘安4年(1281年)弘安の役に際して奉幣を行うなどの例がある。なお、『日本書紀』において、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かったと記述するのも、当宮の鎮座と三韓征伐を前提としたものである。
大鳥居は、高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹で、正保二年建立した。明治三十四年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。
当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。 敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。 伊奢沙別命(イザサワケノミコト)の名義は不明ですが、気比(ケヒ)大神あるいはミケツ神とも呼ばれ、古くから航海の神、農業の神として北陸・敦賀地方の人々に信仰されてきた神様です。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。
本宮
本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する本宮と、周囲の四社之宮(ししゃのみや)からなる。四社之宮と呼ばれる4社は本宮の東に東殿宮(日本武尊)、東北に総社宮(応神天皇)、西北に平殿宮(玉妃命)、西に西殿宮(武内宿禰命)と並んでいる。
車祈祷所と奥が四社之宮
伊奢沙別命の名義は不明であるが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(kefi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafe)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。
その霊威のほどは、大和(奈良県)の龍田神社や広瀬神社の風神と並び称せられました。古代には朝廷から厚く崇拝され、日本の神々のなかでも重要な位置を占めたケヒ神宮には、新羅遠征のあと神功皇后が参拝したという伝承があり、歴史的には遣唐使の盛んな時代に、遣唐船の航海の無事を祈願して、しばしば朝廷が幣帛(ヘイハク)を奉じた記録も残っています。
昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。
社務所
「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、食物神です。『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。
式内社 角鹿神社
境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」、児宮(このみや)、大神下前神社がある。
角鹿神社の祭神は、都怒我阿羅斯等命(天保10年(1839年)に松尾大神を合祀)。なお、『大日本史』や『神祇志料』、大正4年の『敦賀郡誌』は、都怒我阿羅斯等命を非として、『国造本紀』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日(たけいささひ)命を充てている。
拝殿
『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。明治10年、摂社 の筆頭に定められた。
流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築にかかるもので、当宮における昭和の戦災を免れた唯一の建物である。
児宮(このみや)
児宮(このみや) – 伊弉册尊を祀る。江戸時代以来、子育て・小児の守護神として信仰されている
大神下前(おおみわしもさき)神社
末社、祭神大己貴命、武内社、
氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。
本宮の西側に神明両社と九社之宮が鎮座します。
- 天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社-天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)大神。気比大神の第七王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
- 天伊弉奈姫(あめのいさなひめ)神社-天比女若御子(あめひめのわかみこ)神。気比大神の第六王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある。縁結びの神とされる
- 天利劔神社-「あめのとつるぎじんじゃ」と読む。『延喜式神名帳』に小社として記載する。
祭神 – 天利劔(あめのとつるぎ)大神。気比大神の第五王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある - 剣神社 – 気比大神の第一王子、姫太神尊を祀る。敦賀市莇生野(あぞの)にあり、気比神宮の西方鎮守の社とされる式内論社劔神社を勧請したものという
- 金神社 – 同第二王子で、素盞嗚尊を祀る。社伝に金剛峯寺山王院本殿に祀られる気比明神は、弘仁7年(816年)に参詣した空海が、この神社の神鏡を鎮守神として遷したものという
- 林神社 – 同第三王子の林山姫神を祀る。社伝に日吉大社の末社気比社は、弘仁7年に参詣した最澄が、この神社の神鏡を勧請したものという
- 鏡神社 – 天鏡尊を祀る。祭神は気比大神の第四王子とされるが、行啓した神功皇后が奉納した宝鏡を祀ったものともされる
- 擬領(おおみやつこ)神社 – 稚武彦命を祀る。稚武彦命は、『国造本紀』によると吉備臣の祖で、角鹿国造の祖先建功狭日命の祖父である。
- 神明両社 祭神、天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)。外宮は慶長17年(1612年)に、内宮は元和元年(1615年)に勧請された。
猿田彦神社
末社、祭神猿田彦大神、氣比大神の案内をされる神といふので表参道北側にある。一般に庚申様と唱へて信仰が篤い。
芭蕉の碑
式内社 氣比(ケヒ)神社(豊岡市気比字宮代)
豊岡市気比字宮代
御祭神 「五十狹沙別命」 配祀 「神功皇后」
和銅二年(709)の創祀
(2008.10.13)
敦賀にある氣比神宮と同様に、
伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし、神功皇后を配祀する神社。気比神宮では伊奢沙別命は気比大神とし、『気比宮社記』においても「保食神」(うけもちのかみ)と称されている。一般には女神とされる。
一説には、神功皇后が敦賀から穴門(長門)へ向う途中、若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、
この地から円山川を遡り、粟鹿大神、夜夫大神、伊豆志大神、小田井縣大神を詣でた後
一時、この地で兵食を備へたという。
ある夜、越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が神功皇后に託宣して曰く
「船を以って海を渡らば須く住吉大神を御船に祀るべし」
神功皇后は住吉三神を船に祀り御食を五十狹沙別大神に奉って、
この地を気比浦と称するようになったという。
当社から北へ少しの気比川の畔に、銅鐸出土地の史跡があり銅鐸4個が見つかっています。気比(港)には、気比國があったかも知れない。ここから山を越えると丹後に抜ける道だ。 丹後王国とも関係があったのかも。神社の創建と関係があるのでしょうか。気比から丹後へ抜ける途中に畑上があります。畑上は秦神でしょうか?
2.ケヒ大神とホムタワケ命の名替え
「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命(ほむたわけのみこと)に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えます。仲哀天皇の皇太子となったホムタワケ命(応神天皇)は、武内宿禰(たけうちのすくね)を随行して敦賀国の気比大神に参拝し、禊ぎをするために仮宮を立てて滞在しました。そのとき、イザサワケ命が夢の中に現れて、「私の名を太子の名と交換しよう」と告げました。その言葉に従うと答えると、神は「明日の朝、浜辺に出ると名前を交換した印の贈り物があるだろう」と告げました。
翌朝海辺に行ってみると、そこにはイルカが打ち上げられていました。それでホムタワケ命は「神が御食の魚をくださった」といって、神の名を御食津(ミケツ)神と呼んだといいます。
このとき名前を交換して、ケヒ大神がイザサワケ命に、皇太子がホムタワケ命となったという説もあると、応神の条には記されています。
3.名前を交換した謎
三韓出兵は、『日本書紀』に記述が残る、神功皇后が行ったとされる新羅出兵で、三韓時代であるから三韓出兵といいます。その帰り道に、応神天皇は神功皇后の命令で越前の敦賀を訪問したのです。当時の天皇の名前は伊奢沙別命(イザホワケ・イザサワケ)といい、夢の中で気比(ケヒ)神と出会います。気比神は「自分の名前と交換しよう」といいます。応神は喜び、「ぜひ交換してください」といって受け入れ、応神は元の名イザホワケからホムタワケに、気比神はホムタワケからイザホワケになりました。翌朝に目が覚めた応神が海に走っていくと、海岸線いっぱいに打ち上げられたイルカがいました。名前を交換した御祝いにと、神が御子にプレゼントしたのだ。「神は私に御魚(ミケ)の魚を下さった」と感激しました。
この言い伝えには2つの謎があるといいます。第一に、名前を交換したことは何を意味するのだろうか。神話学の解釈によれば、古代では、名は霊位の籠もる実体と考えられました。このことから、名の交換は支配や服属などを意味します。要するに地方の長である気比神がヤマト王権の応神天皇に服属したことを表しているというのです。プレゼントされたイルカは、気比神から応神への服属の意を表す貢ぎ物ということになります。越前がヤマト王権に屈した歴史を背景にしているとみるものです。
二つ目の謎は、なぜ息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は越前に誉田別命(ホムタワケノミコト=応神天皇)を派遣したのかです。
越前というと、地元の出身で応神から5世代も離れている子孫でありながら、ヤマト王権の大王として迎えられた継体天皇がいます。神功皇后が命じて応神にお参りさせたことは、継体天皇が越前の出身だったことに関連するのではないか。5世代も離れているのだから、およそ応神の時代から百年以上も後の話しなのに、『日本書紀』ではわざわざ「応神の5世孫」とうたっています。継体が越から大和の大王を迎えられたという史実が、この名前の交換神話になったとみてもおかしくありません。
これらは、越前がヤマト王権に服属したのではなく、ヤマト王権が越前から大王をくださいと三顧の礼で迎えに行き、越前側がそれを受け入れたことなります。ここに気比神、神宮皇后、応神天皇が深く絡み合っている様相がみえてきます。
気比神宮は、海上交通の神として有名です。遣唐使の海上の安全もここで祈願されています。気比神官は国家から格別の庇護(ヒゴ)を受け、平安時代には従正一位勲一等という最高位を授けられました。全国の数ある一の宮のなかでも一番の好待遇です。破格の扱いを受けたのは、当時、外国との外交関係が緊張しており、場合によっては戦争になってもおかしくないという一触即発の状況だったことにも関連したのでしょう。アジアの表玄関に位置する気比神宮は、アジア諸国の外圧から日本を守る守護神としての役割を期待されていたのです。
引用:「最新日本古代史」-恵美嘉樹
4.敦賀(つるが)とツヌガアラシトの渡来
敦賀は、古代からの郡名で、越前国の南西端に位置し、敦賀湾をU字形に囲む地域で、おおむね現在の敦賀市の区域です。古くは丹生(ニフ)郡の南部(現在の南条郡を含む)を含む地域であったとされます。『和名抄』は、「都留我(つるが)」と訓じます。古代に漂着した任那の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)にちなむ「角鹿(つぬが)」の転、敦賀半島を角(つの)に見立てたことによる、「ツ(津)・ヌ(助詞ノの転)・ガ(処)」の意、「ツル(ツラの転。砂州の連なったところ)」の意などの説があります。
『今庄の歴史探訪』によると「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・弁韓(任那)人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」とあります。また、敦賀付近には新羅(しらぎ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦神社・白城神社・白鬚神社などがある。
当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、いわゆる古代三王朝の内、二王朝、即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。
継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。
敦賀はもともと角鹿(ツンガ)と呼ばれていましたが、その地名の由来は都怒我阿羅斯等の渡来によるのだという説があるそうです。この渡来伝承は『日本書紀』に書かれ、その簡単な内容は以下の通りです。
「その昔、額に角がある人が船に乗って越前国笥飯浦(敦賀)に着いた。話を聞くと日本に聖皇(崇神天皇)がいると聞き、加羅国(朝鮮半島南部に存在した国)から仕えるために来たとのこと。だが、天皇は崩御したばかりで、次の垂仁天皇に仕え、3年が過ぎて故郷へ帰ることになった。そのときに崇神天皇(名は御間城入彦五十瓊殖尊)の名を貰い、国名(任那)とした。」
という話です。この伝説に登場する都怒我阿羅斯等は実在したかどうかは分かりませんが、この話は朝鮮半島から数多くの渡来人がやって来ていたことを示すもので、敦賀に朝鮮と関係のある神社が多いことと合わせ、当時の頻繁な交流を物語っています。治世2年、任那(ミマナ)から来ていた蘇那曷叱智(ソナカシチ)が帰国したいと申し出てきました。先帝の時代に来訪して、まだ帰国していなかったそうです。天皇は彼を厚くもてなし、赤絹10匹をもたせて任那の王に送りました。ところが新羅人(シラギジン)が途中でこれを奪ってしまいました。両国の争いはこの時始まったというものです。
5.武内宿禰(たけうちのすくね)
景行天皇14年(84年)? – 仁徳天皇55年(367年)4月?)成務天皇と同年同日の生まれという。 景行天皇の時に北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。成務天皇3年(133年)に大臣となる。神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。 応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。また、甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)[*1]を行って濡れ衣を晴らした。仁徳天皇50年(362年)が『書紀』に現われる最後。
『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。また、建内宿禰とも表記される。
『公卿補任』『水鏡』は同55年(367年)、『帝王編年記』所引一書は同78年(390年)に没したといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。
『因幡国風土記』には、360歳のときに因幡国に下降し、そこで双履を残して行方知れずとなったとの記述があり、双履が残されていたとされる鳥取県鳥取市国府町には武内宿禰を祀る宇倍神社がある。他に、福井県敦賀市の気比神宮など多くの神社に祀られている。 久留米市の高良大社には、高良玉垂神として祀られている。先祖孝元天皇の曾孫(『古事記』には孫)、父は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、『古事記』は比古布都押之信命とする
母は木国造(紀伊国造)の女・影媛兄弟異母弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)
子
- 羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね) – 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖
- 巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) – 巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖
- 蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね) – 蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖
- 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね) – 平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖
- 紀角宿禰(きのつぬのすくね) – 紀臣、都奴臣、坂本臣の祖
- 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
- 怒能伊呂比売(ののいろひめ)
- 葛城襲津彦(かずらきのそつびこ) – 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖
- 若子宿禰(わくごのすくね) – 江野財臣の祖
6.越(こし)の国
日本書紀には一つの地域として越(こし)、(越洲(こしのしま)、高志(こし)、古志(こし)とも呼ばれた)が書かれています。ここでは越国と題していますが、そのころは国家の形態を成していたとは必ずしも言えないようです。
古くから交易や交流などはあったものの、ヤマト王権の勢力はまだ及ばない日本海側の地域であり、越前・敦賀の氣比神宮から船出し日本海を北上して、能登・羽咋の気多大社を経て、さらに越後・弥彦神社がある弥彦山を右手に見るまでを一つの地域として「越」と呼んでいました。
『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげました。一方の安定した西端と比較し、北端は蝦夷との戦いの辺境でした。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指しますが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明です。
ちなみに中国の越(えつ、紀元前600年頃 – 紀元前334年)という国がありました。春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国で、首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の諸民族とは異質な、百越に属する民族を主体に建設されたいわれる。南下した越族がベトナムの祖となったとされています。
まったく想像ですが、九州北部から出雲を中心としたスサノヲ一族とヤマタノオロチで登場する古志は、別の一族だったと思われます。
6.若狭彦神社
若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)は、福井県小浜市にある神社である。上社・下社の二社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)という。式内社、若狭国一宮で、旧社格は国幣中社。郡名から遠敷明神ともいう。
福井県小浜市龍前28-7
式内社(名神大)・若狭国一宮・国幣中社・別表神社主祭神 彦火火出見尊(山幸彦)創建 和銅7年(714年)本殿の様式 三間社流造
若狭最古の神社。
社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社がある。
狭彦神社は畳・敷物業の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も集める。
神門前の夫婦杉
7.若狭姫神社
福井県小浜市遠敷65-41
祭神 豊玉姫命
下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日に上社より分祀して創建された。延喜式神名帳では「若狭比古神社二座」と書かれており、名神大社に列している。上社が若狭国一宮、下社が二宮とされた。元々は上社が祭祀の中心であったが、室町時代ごろから下社に移った。現在もほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐している。
中世には社家の牟久氏が京の官人や有力御家人と結びつき、広大な社領を有した。
若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある。
巨大な千年杉
7.若狭神宮寺と鵜の瀬お水送り
当地の伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。ただし、今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。
[*1]…探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。