三大杜氏 但馬杜氏(たじまとうじ)

酒のメッカ、灘五郷をかかえる兵庫県は、全国的に有名な最高級酒米「山田錦」をはじめとする酒米どころです。また丹波杜氏、但馬杜氏という酒の二大技能集団があります。

丹波杜氏は灘に近いので灘では丹波杜氏がほとんどです。
南部杜氏、新潟の越後杜氏、丹波杜氏と並んで「日本四大杜氏」(人数的には丹波杜氏の代わりに能登杜氏で四大杜氏とも呼ばれる)といわれる但馬杜氏は、南部、越後両杜氏組合に次いで全国で3番目の規模を誇ります。主に伏見などの近畿一円、中国、四国、東海地方で活躍しています。但馬人気質であるねばり強さ、山廃、吟醸等あらゆる製法を器用にこなし、毎年新酒鑑評会において優秀な成績を上げています。但馬杜氏は但馬牛と夢千代日記で知られ、日本一の湯村温泉がある雪深い美方郡が中心で、その半数は温泉町が占めています。

県内の杜氏組合は、丹波、但馬、南但の3団体。丹波ではメーカーに籍を置く「社員杜氏」が増え、40人中12人を占める。一方、但馬は93人全員が季節限定。2004年、城崎郡の組合は但馬杜氏組合の傘下に入り、出石郡の組合は解散した。(神戸新聞)残りは村岡町、美方町、浜坂町の順になると思います。(温泉町以外は正確なデータがないので、検索してわかる範囲を下記の杜氏一覧表にしてみました)

春から秋までは農家に従事して、毎年米の刈り入れが終わる10月に蔵入りし、翌年の3月まで約6~7ヶ月の間蔵元で寝泊まりして行われます。毎年但馬杜氏組合などで相互に研鑽を高め合いながら、良い酒を造ろうとする心意気が日本酒の伝統文化を支えています。しかしながら全国的に高齢化が進み、30年前には300名以上いた杜氏(親父、おやっさんと呼ばれる)の数も200名を切るまでに減ってしまいました。

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豊岡杞柳細工と豊岡かばん

籐バスケット【大正10年頃】豊岡鞄協会ページ

杞柳細工は、但馬の地で生まれ、但馬の風土に育まれて今日に至った伝統ある地場産業です。行李柳(コリヤナギ)を材料にし、強靱でしなやかな風合い、柳の持つ柔らかさと粘りを生かしながら、杞柳細工は、職人の手によってひとつひとつ編み上げていきます。伝統の技と人のぬくもりを感じさせてくれます。飯ごおり、バスケット、買い物かご、マガジンラック、果物かご、花篭など種類も多く、素朴さと上品さで根強い人気があります。柳行李、小行李、柳・籐籠の三部門が国の伝統的工芸品に指定されています。

起源は西暦27年、日本に帰化し但馬の国を開いたといわれる、新羅国の王子天日槍命(あめのひぼこのみこと)が杞柳製造技術が伝えられたとの伝承があり、奈良・正倉院の「柳筥」は豊岡から献上されたものであるといわれています(実際には当時、新羅はまだ存在していないので百済か伽耶だ)。
正親町天皇時代にも、垂柳ではあるが、「絲を垂すること一丈にあまれり、此の種養父、気多に多し」とあり「京都には、六角、堀河、ことに名高きは正親町殿の別館の柳なり。これを一年天覧を賜る」とあります。また「一種行李柳いうものであり、一根数茎を生し、亭々として枝なし、恰もメドキノアツマリ生きるがごとし。高きものは、7~8尺にすぎず、短きものは、2~3尺、土人刈りて水に浸し、皮をはぎ、これを編み、大小の器となる」と昔の人は言っています。

このように、既に豊岡でも古来より作っていたことが判ります。また、1473年の、「応仁記」には、「九日市場」が開かれ、商品として売買されている記述があり、この時期から、おそらく地場産業として家内手工業的な杞柳産業に発展したことが予想されます。杞柳製品の中で、現在のような柳行李は、豊岡市森津の人・成田広吉が江戸で武家奉公しているとき門前にあった柳の木の細枝を用いて飯行李を作った経験を生かし、帰郷後、荒れ地を開いて柳を栽培し、柳行李を製造したのが最初と言われています。

兵庫県の豊岡盆地は日本海岸から15キロの内陸にありながら、海面との高低差は約2メートルにすぎません。このため但馬地方を北流する円山川は、豊岡盆地に入って淀み、蛇行して流れ、荒原(あわら)と呼ばれる湿地帯を随所に形成しましました。この荒原地帯には杞柳の原料となる「コウリヤナギ」が多く自生していましました。

行李を編む時に使用する麻糸は、但馬麻苧として全国に知られて多く生産されており、行李に使う縁竹も多くあった。杞柳材料が地元で容易に手に入った当地方は、冬期には積雪で農業等ができず、また耕地が狭小で新田開発の余地が少ないことなどの自然制約によって生み出された余剰労働力がありましました。この農民余剰労働力が、副業として生計の助けになる杞柳製品作りが盛んになりましました。
「行李」は本来は中国語で、他国への「使者」を指したのが、いつの間にか、「旅人」や「旅」を指すようになり、さらには、「旅の荷物」のことを言うようになったようです。現代中国語の『行李』はその「旅の荷物」義を引き継いだものです。

一方、日本語の「行李」もほぼこの変遷をたどったようですが、日本語ではさらに、「旅の荷物を入れる箱」に転じましました。行李(こうり)とは、竹や柳、籐などを編んでつくられた軽くて通気性がよく、蓋付きの箱で、旅行用の荷物入れや衣類の収納に用いられた道具。半舁(はんがい)ともいいます。飛脚行李(飛脚が郵便物を入れて運んだもの)、 薬屋行李(薬品類の行商に用いられたもの)、弁当行李などもありましました。

もともと、大日本帝国陸軍の「行李」は、戦場に携行する弾薬、糧秣、器具その他を運ぶ追随部隊の名称。大行李(だいこうり)と小行李(しょうこうり)とがありましました。

円山川の荒れ地に自生する「コリヤナギ」で籠を編むことから始まり江戸時代、京極伊勢守高盛が豊岡に地を移してから柳の栽培と加工技術を保護し、販売にも力を入れたため産業として成立し、全国に豊岡の柳ごおりの名を広めましました。
また、杞柳産業の発展には、江戸時代に京極藩の保護奨励によるところが大きいです。
1668年、京極藩伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まりとされています。その後、京極藩は三万石から一万五千石に減知となり、藩財政が困窮しその一助にと、1763年に「触書八ヶ条」を布告し、杞柳製品の専売をはかりましました。取引の活発化に伴い、大阪問屋との間に軋轢が生じ、積極的に藩財政の立て直しを図るため、1822年に地元で骨柳問屋の設立を許し、上方筋への直売りを禁じて、柳行李の専売性を強化した、さらに、骨柳師に対して、縁かけ・藤引きなどの一切の杞柳製法の秘密保持、原材料jの移出禁止を行った。この方針はやがて1823年の産物会所設立に発展していきましました。

宵田町に設立されたこの産物会所は、現在の組合指導的な役割を持ち、柳行李の生産者、商人達への資金援助、原料の斡旋、製造販売指導などを行っていましました。

一方、播州印南部魚崎村網干屋与衛地2名柳行李播州陸出運送の特権を与えて、大阪までの運送にあたらせ、荷物の分散、個数の減少も防ぎましました。

1829年、独自の立場で新たな市場開発を狙い、物産会所より分離した大阪登骨柳物産会所を設けましました。これは藩政改革の一環として、大阪市場依存を排して全国の消費地と直結をはかったものと思われます。その後、中町の船屋良平が、骨柳引合いのため、参勤上府に従い、江戸で市場の開拓に従事したり、幕末には、大骨柳屋・飯骨柳屋・仲買・縁掛屋などの生産・販売機構も整い、全国的名声の基礎を築きましました。

明治4年頃の行李の生産高は約18万個で、その内飯行李が全体の75%を占め、次が荷行李の17%あまり、以下帳行李、文庫、上下行李の順になっていましました。

豊岡は東京・大阪等の大消費地から遠く離れており、製品の出荷に大きなハンディーがありましました。当時、陸上輸送手段の駄馬賃は割り高でしたが、柳行李は容量は大きいが軽いため、また、大きな行李の中にだんだんと小さい行李をつめ込む入子方式が可能だったので割安につき、遠隔地にあるにも関わらず、一度に大量な製品を出荷することを可能にしましました。

柳行李は、通気性・容量性・耐久性に優れており、生活の向上に伴い衣料などの保存容器としての実用性が高く評価されましました。さらに、交通手段の発達とともに、人の往来が頻繁となり、網掛けをすれば直ちに運搬道具ともなる柳行李の運搬性の利点が認められ、庶民的共感を呼び需要が増大していきましました。

皇太子殿下の徳仁親王(浩宮様)が学習院初等科に入園されたとき、入園をお祝いして、兵庫県の豊岡市が柳ごおりのバスケットをお贈りしたことがありますが、このバスケットを非常にお気に召され、いつもご愛用されたとのことです。当時の皇太子殿下の徳仁親王のご愛称から「なるちゃんバッグ」と呼ばれましました。2001年12月1日は皇太子妃の雅子さまに女のお子様がお生まれになった日として、日本全国がお祝い一色に包まれたことは記憶に新しいところです。皇太子殿下のお子さまのご誕生に合わせて、同じように雅子様にお贈りしましました。親子2代でご使用されることになり、大変名誉なことですと関係者は語っています。

かばん産業のおこり

兵庫県の豊岡市は、但馬柳行李(こうり)の産地として知られており、杞柳製品の生産量としては全国一で、鞄の生産も全国の6-7割を占めています。

明治14年、八木長衛門が第2回内国勧業博覧会に2尺3入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したと伝えられており、また明治35年の第5回内国勧業博覧会出典目録には遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が見られる。

この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じであったが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていた。このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、一般杞柳製品技術が応用されたものであり、また、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因と言われています。

交通手段の発達にとまなう内外旅行者の増加により、携帯運搬用の容器の需要が起こり、それに応じるさまざまな工夫発明がなされた。明治39年、服部清三郎の「鞄型柳行李」、明治42年、宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案が相次いだ。「バスケット籠」は底編みをし、立てりを差し、引き籐を巻き上げて合い口を付けてまとめた籠と思われます。この携帯に便利な鞄型、バスケット型の小型篭の多くは輸出されました。

杞柳産業を基盤に大正末期から昭和にかけてファイバー鞄が製造され始め、柳行李の販売網に乗って急速に伸び、昭和10年頃には鞄(かばん)産業は当地の主産業となりましました。生産高は日本において8割を占め 「日本一」 の伝統産業となっています。
昭和11年に開催されたベルリンオリンピックの選手団のかばんとして、豊岡のファイバー鞄が採用されるなど、この頃には、「ファイバー鞄」が、豊岡かばんの主流を占めるようになった。
引用-豊岡鞄協会ページ、その他

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「但馬牛」の系統の基礎となった「周助ツル」

前田 周助
寛政9年生まれ。
兵庫県美方郡香美町小代区水間に生まれました。
但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となった。

但馬牛の改良に人生をかけ、優良な系統牛「周助ツル」を作り出した。今の「但馬牛」の系統の基礎となりました。前田周助の幼年は、「牛飼い坊主」といわれたほどの牛好きでした。長じてますます牛を愛し、鑑識力に優れ、資財をなげうって、数々の良牛を買い求め続けました。  彼の評判を伝え聞いた兵庫県養父市吉井に住む大博労(だいばくろう)孫左衛門が、はるばる前田家をたずね、その牛を一目見て優秀なのに驚きました。孫左衛門の啓発と援助によって、当時但馬唯一の牛市場であった養父市場に進出しました。周助の取り扱う牛は値段が高いのにかかわらず、飛ぶように売れたので、周助の名とともに小代牛(おじろぎゅう)の名声はますます高くなりました。

弘化年間、村岡藩主の助力を得て、村岡に臨時の牛市場を開設しました。小代牛の基礎と販路の見通しをつけた周助は、いよいよ念願とする良牛の固定化に向かって動き出しました。しかし、これが至難の業で系統牛となる良い牛の中の良い牛を探し求めて数年間、東へ西へと走り回りました。その間に多額の借金をつくり、家族から見放されてもひるみませんでした。

100年に一度かもしれないという良牛、香美町村岡区の三歳メス牛を手に入れ、飼料の吟味から一切の手入れ、特に繁殖には長年の経験を結集して努力した結果、年々続いて良い子牛を産み、遺伝力も優れており、ここに「周助ツル」の開祖ができあがりました。

また、但馬牛を飼う但馬の人々は、牛を家族の一員として一つ屋根の下で共に寝起きして、雪深いきびしい風土に生き、温和で姿美しい但馬牛を大切に育ててきました。

但馬牛(たじまうし)

但馬牛(たじまうし)は、兵庫県産の和牛で黒毛和種の一種。肉質が良く、様々な銘柄牛の素牛や種雄牛として知られています。別名として、但馬牛(たじまぎゅう)や、但馬ビーフと呼ばれることもあります。

古来より但馬地方で飼われており、古事記には「天日槍(あめのひぼこ)が朝鮮から牛を伴って日本に渡来し、但馬出石に住みついた」と記されています。続日本紀では「耕運、輓運、食用に適する」と記され「国牛十図」にも但馬牛の優れた体型、特徴、性質が記されています。戦国時代、豊臣秀吉が大阪城築城の際にも、優れた役能力に「1日士分」を与え誉め讃えたといわれています。

江戸時代以前は、主に田畑を耕したり、輸送の役牛として用いられていました。長命連産で繁殖力が強いため、但馬では生産がさかんに行われており、養父市場(現・養父市)などに牛市が立ち、畿内やその周辺へと取引されていました。小型で力強く、飼料の利用性がよい但馬牛は人気が高かったようです。養父神社は農業の神として知られ、延喜式には養父市場では五十猛命を牛取引の神様とするとあり、神の前で取引・取り決めをするのは古来からの風習で、決して裏切らない事の証でした。五十猛命の父神が素盞嗚尊(スサノオノミコト)とされ牛頭天王とされています。
但馬牛の特徴
それは、優れた肉質と、その強力な遺伝力にあります。
1.資質が抜群によいこと。
毛はやわらかく密生し、骨細で、皮は薄く弾力とゆとりがあって、品位に富み、体のしまりがよい。
2.遺伝力が非常に強いこと。
このため「但馬牛」は全国の和牛改良に広く活用されています。
3.肉質、肉の歩留まりがよいこと。
肉の味が良く、骨が細く、皮下脂肪が少ない。
4.長命連産で飼料の利用性がよいこと。
山野草を好み、古来から「但馬牛は山で育て、草で飼う」といわれています。
明治時代に牛肉を食べる文化が広まると、神戸ビーフとして注目されるようになりました。神戸ビーフの名は、神戸の居留地に住む外国人たちが神戸で手に入れた牛が非常においしかったからとも、横浜などの居留地の外国人たちが生産量の多い関西方面から入手した牛が神戸を経由していたためとも言われていますが、いずれの場合も但馬牛とされています。
明治時代には、品種改良のために、イギリス原産の短角種デボン種、スイス原産のブラウンスイス種などの外国種との雑種生産が行われましたが、肉質悪化、使役能力の低下などが見られるようになったため、雑種交配は短期間で中止されました。

1898年(明治31年)には戸籍にあたる牛籍簿で血統の管理が行われるようになり、1911年(明治44年)以降は外国種の血統の入った牛が排除されました。また、他地域の品種との交配も行わず、限られた雄牛の精子のみを受精させることで血統の純化、改良が進められ、蔓(つる)と呼ばれる系統がつくられています。あつた蔓、ふき蔓、よし蔓の3つの代表的な蔓牛があります。

但馬牛は、資質・肉質が良いため、松阪牛(三重県)、神戸ビーフ(兵庫県)、近江牛(滋賀県)の素牛となっています。また、佐賀牛(佐賀県)、前沢牛(岩手県)、飛騨牛(岐阜県)などのように、但馬牛の血統を入れることで牛の品種改良が行われていることも多いのです。

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日本の技術輸出の第1号 上垣 守国 「養蚕秘録」

養父市蔵垣に生まれた上垣守国は、当時、粗悪な繭しか生産できなかった三丹地方の養蚕の品質改良に取り組み、養蚕技術を広める。著書「養蚕秘録」は翻訳され、日本の技術輸出の第1号となる。

1770年(明和7年)、若干18歳の時に奥州の福島に赴き、蚕種(蚕の卵)を購入し研究したことに始まる。やがて守国は、増やした蚕種三丹地方に広め、餌の桑園の技術指導なども熱心に実行し、養蚕業の隆盛に大きな功績を残した。

長年の養蚕研究の集大成として48歳の時に発行したのが、「養蚕秘録」(全3巻)である。翌年には京都、大阪、江戸でも発行され、その技術は全国に広まった。オランダの王室通訳官であったホフマンによって、フランス語に訳され、ヨーロッパの養蚕技術にも影響を与えたとされ、伝染病で壊滅状態のフランス養蚕を救った。「日本の技術輸出第1号」ともいわれている。

正垣半兵衛

養父市大屋町
新しい蚕種を但馬各地に普及。
小倉寛一郎
養父市大屋町
養蚕製糸業の近代化に努力。大屋町で明治期に工場開設。
養蚕業は三丹地方にグンゼなど、群馬、長野岡谷と並ぶ一大製糸産業地域となり、近代化殖産事業として対米輸出始動の役割を果たした。

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日本の政治と教育の基盤を作った但馬人

東大初代総理 加藤 弘之
天保7年6月23日生まれ。ドイツ文学の先駆者。幕府政治の改革を唱え、近代政治の基盤をつくりました。
日本で最初の博士号を取得。東京大学初代綜理をはじめ、官界学界の多数の官職を歴任。
文部大丞・元老員議官・貴族員議員・宮中顧問官・学士院院長・枢密顧問官。
初代東京大学総長 1836年~1916年

出石藩主、兵学師範の家に生まれる。弘道館に学び17歳の時父親と共に出府。「書物も自分で書き写さなければならぬ」と、貧困と戦いながら勉学に励んだ。
特にドイツ学を極め、明治三年から八年まで明治天皇の進講役を務め、欧米の政体制度やドイツ語の講議をおこなっている。福沢諭吉とも親しかったが、好対照に幕府の御用学者としての権威主義的色彩を強く持つようになり、「政府はまず学校を多く建て、人材を育成して議会をつくるにふさわしい文明国にしなければならない」と、日本の大学制度の基礎づくりに貢献した。
1881年(明治14)、帝国大学の初代総長に就任。また官界学界の多数の官職を歴任し、明治の総帥として頂点を極めた。
浜尾 新(はまお あらた)
江戸詰めの豊岡藩士・濱尾嘉平治の子として生まれる。
1869年: 藩費遊学制度により慶應義塾および大学南校に学ぶ。
1872年(明治5年): 文部省に出仕、大学南校の中監事となる。
1873年(明治6年) – 1874年(明治7年): ヨーロッパに留学。
1874年(明治7年): 開成学校校長心得
1877年(明治10年)4月: 東京大学創立にあたり、法理文三学部綜理補として同郷の法理文3学部綜理(のちに東京大学総理)加藤弘之を補佐。1885年(明治18年): 学術制度取調のためヨーロッパに派遣される。東京美術大学(現芸大)を創立に際し、校長を拝命。幹事は岡倉天心。
1890年(明治23年): 文部省専門学務局長として、東京農林学校(農商務省主管)の帝国大学への合併を推進。東京大学第三代総長として東京大学のために尽くした。
1897年(明治30年)11月6日:蜂須賀茂韶に代わり第2次松方内閣の文部大臣となる。
1905年(明治38年)12月:東京帝国大学の第8代総長となる。
1924年(大正13年)1月13日: 枢密院議長。
1925年(大正14年)9月25日:東京府(現在の東京都)で死去。
彼の故郷中村の地に記念館として静思堂が建てられています。伊福部神社向かい。
天気予報の創始者 桜井 勉
天保14年9月13日生まれ。博学多才の行政家。出石藩弘道館長。徳島・山梨・台湾新竹県知事。「校補但馬考」著者・・・但馬郷土史研究の基礎。地租改正や気象測候所の創設、現在の兵庫県が誕生したのも大久保利通への桜井勉の進言によるといわれています。天気予報の創始者 1843年~1931年
出石藩士儒官の家に生まれる。英才教育を受け8歳で早くも弘道館に入学。その後、九州・江戸・伊勢へと有名な学者を尋ねて学問を深めた。
一時、出石に戻るが、国の役所や知事、衆議院議員などを務める。内務省地理局長時代には、時の内務卿、大久保利通や、その後の内務卿、伊藤博文に気象通報の創始人として、我が国初めての天気予報の創始者で、測候所を設立しました。
晩年は出石に戻り、郷土をこよなく愛し、地方自治、産業奨励、教育振興にも多くの功績を残した。

憲政の神様 斎藤隆夫

兵庫県豊岡市出石町中村生まれ
明治22年(1889)1月、21歳の冬に、わずかな旅費を懐に東京に向けて徒歩で出発しました。当時、東京へ行くことは想像もできないくらい大事件であった時代です。汽車や船を使わず、東京まで歩き通しました。
同郷の大先輩、桜井勉が当時内務省の地理局長(後に徳島県知事)になっていましたので、書生としておいてもらうことになりました。
明治27年(1894)7月、早稲田専門学校(今の早稲田大学)の首席優等で卒業。
同年判検事試験(現司法試験)に不合格も、翌年1895年(明治28年)弁護士試験(現司法試験)に合格(この年の弁護士試験合格者は1500名余中33名であった)。
明治31年(1898)より神田小川町に弁護士を開業。
明治34年(1901)、アメリカ留学を決めサンフランシスコへ上陸。エール大学法律大学院で公法、政治学を勉強。渡米2年目の明治36年、肺を病み入院、合計3回の手術を受けたが完治せず、勉学を断念し帰国しました。
42歳で衆議院議員となり、「憲政の神様」といわれ、2.26事件直後の粛軍演説で有名。
斎藤隆夫の演説には定評がありました。彼の国会における名演説は3つあるといわれています。
その前に大正14年(1925)の普通選挙法に対する賛成演説があり、
その1つめは昭和11年(1936)5月7日の「粛軍演説」であり、
また、2つめは国家総動員法制定前の1938年(昭和13年)2月24日、「国家総動員法案に関する質問演説」を行った。
その3つめは1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)」です。

卓越した弁舌・演説力を武器に満州事変後の軍部の政治介入を批判し、たびたび帝国議会で演説を行って抵抗しました。
彼の演説は原稿を持ってしたことがありません。原稿は演説の数日前に脱稿し、庭を散歩しながら、また鎌倉の浜辺で完全に暗記してから演説したといいます。

支那事変処理に関する質問演説で懲罰委員会にかけられたとき、彼は懲罰をかけられる理由が見つからないと逆にその理由を問いただしました。委員会では彼の勝利で終わりました。その時、アメリカでは雑誌などで賞賛し、斎藤を「日本のマーク・アントニー」と呼びました。マーク・アントニーとは暗殺されたシーザーの屍の上で弔辞を読んだローマ切っての雄弁家のことです。

1940(昭和15)年2月2日、の「支那事変処理に関する質問演説(反軍演説)で、 「演説中小会派より二、三の野次が現われたれども、その他は静粛にして時々拍手が起こった」と、演説中の議場は静かであったことを記しているが、  「唯徒に聖戦の美名に隠れて、いわく国民主義、道義外交、共存共栄、世界の平和等、雲をつかむような文字を並べ立てて国家百年の大計を誤るようなことがあれば、政治家は死してもその罪を滅し得ない。 この事変の目的はどこにあるかわからない。」の直後の罵声・怒号で、斎藤の演説がかき消された様子が分かる。
反軍演説が軍部とこれと連携する議会、政友会「革新派」(中島派)の反発を招き、3月7日に議員の圧倒的多数の投票により衆議院議員を除名されてしまいました。しかし、1942年(昭和17年)総選挙では軍部を始めとする権力からの選挙妨害をはねのけ、翼賛選挙で非推薦ながら兵庫県5区から最高点で再当選を果たし、衆議院議員に返り咲きます。

第二次世界大戦後の1945年(昭和20年)11月、日本進歩党の創立に発起人として参画、翌年の公職追放令によって進歩党274人のうち260人が公職追放される中、斎藤は追放を逃れ、総務委員として党を代表する立場となり、翌1946年第1次吉田茂内閣の国務大臣(就任当時無任所大臣、後に初代行政調査部〈現総務省行政評価局・行政管理局〉総裁)として初入閣しました。

1947年3月には民主党の創立に参加、同年6月再び片山内閣の行政調査部総裁として入閣、民主党の政権への策動に反発し、1948年3月一部同志とともに離党し、日本自由党と合体して民主自由党(のち自由民主党=自民党)の創立に参加、翌年、心臓病と肋膜炎を併発し死去。享年80でした。

『ネズミの殿様』とのあだ名で国民から親しまれ、愛され、尊敬された政治家であり、その影響力は尾崎行雄、犬養毅に並ぶと言っても過言ではないほどであった。あだ名の由来は、小柄で、イェール大学に通っていた時に肋膜炎を再発し肋骨を7本抜いた影響で演説の際、上半身を揺らせる癖があったことによる。

  
明治館(旧郡役所)
館内では桜井勉をはじめ、出石の偉人展を常設しています。

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【たんごる】 丹後田辺城(舞鶴城)

丹後田辺城(舞鶴城)

田辺城門
京都府舞鶴市

  

室町幕府の成立によって一色満範が丹後国守護職となり舞鶴を含む加佐郡も一色家の統治下に置かれた。以後、丹後国は一色家が守護を努める領国として代々続く。室町時代後期の応仁の乱において但馬他守護山名氏が率いる西軍に属した一色氏は没落し、丹波の細川氏や若狭武田氏の攻撃をたびたび受けるようになり、家臣の下剋上もあって国内は混乱する。

戦国時代末期の1575年、織田信長から丹波・丹後進攻の命を受けた家臣の明智光秀と細川藤孝らに侵攻され、旧守護職の一色義道は殺され、一色氏は完全に没落した。信長の命により丹波国は明智光秀、丹後国は細川藤孝の領地となり、田辺(舞鶴)が本拠地となった。(明智光秀は丹波国を与えられ、亀山(亀岡)を本拠地とした)。細川家の手によって舞鶴は開発され、本能寺の変後も細川家の所領は安堵され、そのまま統治した。

1600年(慶長5年)に勃発した関ヶ原の戦いで、細川家は徳川家康率いる東軍に与した。細川藤孝は当時は小城であった宮津城から、大規模な水堀もあり、守りやすい本城の田辺城(舞鶴城)に移り籠城(田辺城の戦い)。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていました。西軍の派遣部隊と対戦したが、藤孝の死によって歌道秘訣が絶えるのを恐れた後陽成天皇の勅命により、包囲軍は田辺城から撤退しました。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられています。

しかし、関ヶ原の戦い時には、ふたたび舞鶴城に戻り、留守中の息子の代理を務めました。戦後細川家は、九州の豊前中津藩(福岡県東部)に転封され、かわって信濃国飯田より、京極高知(きょうごくたかとも)が田辺城に入城しました。

さらに寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後熊本藩の大藩に転封される。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至りました。細川護煕元首相が有名です。


内部 天守閣跡


丹後田辺藩(舞鶴藩)藩祖・京極高三

京極高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功により、丹後一国を与えられ宮津藩(丹後藩)を立藩しました。加佐郡(舞鶴)も当初は宮津藩の一部でした。後に京極高知の子らにより丹後は三分割され、京極高三が加佐郡に田辺藩(舞鶴藩)3万5,000石を立藩しました。これが、一般には舞鶴市の始まりとされています。

京極高三は宮津城の築城にともない廃城(一国一城令)となっていた田辺城(舞鶴城)の再構築や、城下町の整備などを行い、その後の舞鶴発展の礎を築きました。のちに京極氏は但馬豊岡藩へ移封となりましたが、その後は京極高三の娘婿である牧野富成が丹後田辺藩を継ぎ、牧野氏3万5,000石の城下町として幕末まで栄え続けました。

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茶すり山古墳 (朝来市和田山町筒江)


【国指定史跡】 兵庫県朝来市和田山町筒江

北近畿豊岡自動車道和田山ICと道の駅あさごの手前南側にあります(古墳に行くには乗らずに並行する下の道から)。
茶すり山古墳は、5世紀前半に築造された円墳で、全国で六番目の大きさです。弥生前期後半の城の山古墳、弥生中頃の船宮古墳、中期末から後期初頭の但馬初の方形貼石墓の粟鹿遺跡など、古墳時代の有力な首長墓が、和田山町とその周辺に集中し、連続的に造られていることは日本国家形成期の周辺地域の歴史を考える上で重要な史料です。

5世紀前半に築造された円墳で、直径は90mを測り、円墳では近畿地方最大の古墳と言われています。全国でも第4位という大古墳です。そして兵庫県下でも最大の木棺を埋葬していました。墳丘の一部は壊されていましたが、幸いにも埋葬部は無傷で、見つかった二つの木棺からは、大量の副葬品が出土しました。

北近畿豊岡自動車道の建設に伴って発掘調査がおこなわれ、頂上部に埋葬された2基の木棺から、畿内以外では初めてとなる「三角板革綴襟付短甲(さんかくばんかわとじえりつきたんこう)」をはじめ、多数の鉄製品、銅鏡、玉類などの副葬品が出土しました。同じ朝来市和田山町にある、城ノ山(じょうのやま)古墳、但馬最大の前方後円墳である池田古墳などに後続する、5世紀前半の但馬地域の王墓と考えられています。なお古墳は、道路の設計を変更して保存されています。
副葬品は、道の駅但馬のまほろば埋蔵文化財センターに展示してあります。

 

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『日本人の歴史教科書』

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日本人の歴史教科書
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あめのひぼこ 9 越前国一宮 気比神宮

越前国一宮 気比神宮

朝廷は北陸への通路の玄関口である敦賀の気比神宮を重んじるようになります。また、北部九州が朝廷の領域に組み込まれるようになったことで、出雲と北九州との交易もとだえました。
そして、出雲の首長には、大和の文化を一方的に受け入れる道しか残されていませんでした。
大和朝廷の勢力は、丹波を組み入れたことによって朝鮮半島にも伸び、出雲と新羅との直接交渉の機会は滅多になくなりました。出雲は大和朝廷支配下の一地方豪族になっていきました。四世紀半ばから、出雲の勢力は急速に衰えたのです。そして、『記紀』に、大国主命が活躍する神話の大部分を削り、皇室(王家)の支配を正当化する大国主命の国譲りの物語だけを詳しく伝えたのです。

1.気比神宮(けひじんぐう)


重文(旧国宝)大鳥居

福井県敦賀市曙町11-68

式内社(名神大)七座 越前国一宮、旧社格は官幣大社・別表神社

主祭神 伊奢沙別命(イザサワケノミコト・気比大神)
祭神 仲哀天皇(帯中津彦命)
神功皇后(息長帯姫命)
日本武尊
応神天皇(誉田別命)
玉妃(たまひめ)命

武内宿禰命 広い道路が大鳥居までまっすぐに伸びています。
本来は食物の神を祀る神社であったと思われるが、鎮座地前を都と北陸諸国を結ぶ北陸官道が通り、また敦賀が古来有数の津であったため、海陸交通の要衝を扼する神として崇敬された。特に朝廷は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として重視し、承和6年(839年)遣唐使帰還に際して当宮に安全を祈願したり(『続日本後紀』)、弘安4年(1281年)弘安の役に際して奉幣を行うなどの例がある。なお、『日本書紀』において、神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から穴門国へ向かったと記述するのも、当宮の鎮座と三韓征伐を前提としたものである。

大鳥居は、高さ三十六尺柱門二十四尺、木造両部型本朱漆、寛永年間旧神領地佐度国鳥居ケ原から伐採奉納した榁樹で、正保二年建立した。明治三十四年国宝に指定され、現在は国の重要文化財である。正面の扁額は有栖川宮威仁親王の御染筆である。

  

当宮が史上に姿を現すのは『日本書紀』神功皇后摂政13年条の、皇后が誉田別命と武内宿禰を参拝せしめた記事であるが、かなり古くから鎮座していたのは確かであり、『気比宮社記』によれば、神代よりの鎮座で、当宮に行幸した仲哀天皇が自ら神前に三韓征伐を祈願し、征伐にあたっても皇后に玉妃命・武内宿禰を伴って当宮に戦勝を祈願させ、その時気比大神が玉妃命に神懸かりして勝利を予言したという。「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。 敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。 伊奢沙別命(イザサワケノミコト)の名義は不明ですが、気比(ケヒ)大神あるいはミケツ神とも呼ばれ、古くから航海の神、農業の神として北陸・敦賀地方の人々に信仰されてきた神様です。
垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。


本宮

本殿は、主祭神に仲哀天皇・神功皇后を合祀する本宮と、周囲の四社之宮(ししゃのみや)からなる。四社之宮と呼ばれる4社は本宮の東に東殿宮(日本武尊)、東北に総社宮(応神天皇)、西北に平殿宮(玉妃命)、西に西殿宮(武内宿禰命)と並んでいる。

車祈祷所と奥が四社之宮

伊奢沙別命の名義は不明であるが、「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。なお、「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えるが、西郷信綱は、この「魚(な)」と「名(な)」を交換したという説話全体が、「けひ(kefi)」という語の発生を、交換を意味する「かへ(kafe)」という語に求める1つの起源説話であろうとする。

その霊威のほどは、大和(奈良県)の龍田神社や広瀬神社の風神と並び称せられました。古代には朝廷から厚く崇拝され、日本の神々のなかでも重要な位置を占めたケヒ神宮には、新羅遠征のあと神功皇后が参拝したという伝承があり、歴史的には遣唐使の盛んな時代に、遣唐船の航海の無事を祈願して、しばしば朝廷が幣帛(ヘイハク)を奉じた記録も残っています。
昭和五十七年氣比神宮御造営奉賛会が結成され「昭和の大造営」に着手、以来、本殿改修、幣殿、儀式殿、廻廊の新設成り、旧国宝大鳥居の改修工事を行ない、平成の御世に至って御大典記念氣比の社造成、四社の宮再建、駐車場設備により大社の面目を一新して今日に至る。


社務所

「気比(けひ)」は「食(け)の霊(ひ)」という意味で、食物神です。『古事記』でも「御食津大神(みけつおおかみ)」と称されており、古代敦賀から朝廷に贄(にえ)を貢納したために「御食国の神」という意味で「けひ大神」と呼ばれたようで、後世の社伝ではあるが、『気比宮社記』においても「保食神」と称されている。


式内社 角鹿神社

境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」、児宮(このみや)、大神下前神社がある。
角鹿神社の祭神は、都怒我阿羅斯等命(天保10年(1839年)に松尾大神を合祀)。なお、『大日本史』や『神祇志料』、大正4年の『敦賀郡誌』は、都怒我阿羅斯等命を非として、『国造本紀』に載せる角鹿国造の祖先、建功狭日(たけいささひ)命を充てている。


拝殿

『気比宮社記』によれば、崇神天皇の御代に都怒我阿羅斯等命が、この地に到来して朝廷に貢ぎ物をしたのを賞せられて「角鹿国の政所」とされたので、後世これを崇めて祠を建てたという。この神社の祭祀は祭神の後裔とされる角鹿姓神職が預かる定めで、江戸時代以降明治初年までは島家が担当した。明治10年、摂社 の筆頭に定められた。
流造銅板葺。嘉永4年(1851年)の改築にかかるもので、当宮における昭和の戦災を免れた唯一の建物である。


児宮(このみや)

児宮(このみや) – 伊弉册尊を祀る。江戸時代以来、子育て・小児の守護神として信仰されている


大神下前(おおみわしもさき)神社
末社、祭神大己貴命、武内社、

氣比大神四守護神の一つとしてもと天筒山麓に鎮座されていたのを明治年間現在の地に移転、稲荷神社と金刀比羅神社を合祀し、特に海運業者の信仰が篤い。


本宮の西側に神明両社と九社之宮が鎮座します。

  • 天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)神社-天伊弉奈彦(あめのいざなひこ)大神。気比大神の第七王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 天伊弉奈姫(あめのいさなひめ)神社-天比女若御子(あめひめのわかみこ)神。気比大神の第六王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある。縁結びの神とされる
  • 天利劔神社-「あめのとつるぎじんじゃ」と読む。『延喜式神名帳』に小社として記載する。
    祭神 – 天利劔(あめのとつるぎ)大神。気比大神の第五王子とされ、『続日本後紀』にも「気比大神之御子」とある
  • 剣神社 – 気比大神の第一王子、姫太神尊を祀る。敦賀市莇生野(あぞの)にあり、気比神宮の西方鎮守の社とされる式内論社劔神社を勧請したものという
  • 金神社 – 同第二王子で、素盞嗚尊を祀る。社伝に金剛峯寺山王院本殿に祀られる気比明神は、弘仁7年(816年)に参詣した空海が、この神社の神鏡を鎮守神として遷したものという
  • 林神社 – 同第三王子の林山姫神を祀る。社伝に日吉大社の末社気比社は、弘仁7年に参詣した最澄が、この神社の神鏡を勧請したものという
  • 鏡神社 – 天鏡尊を祀る。祭神は気比大神の第四王子とされるが、行啓した神功皇后が奉納した宝鏡を祀ったものともされる
  • 擬領(おおみやつこ)神社 – 稚武彦命を祀る。稚武彦命は、『国造本紀』によると吉備臣の祖で、角鹿国造の祖先建功狭日命の祖父である。
  • 神明両社 祭神、天照皇大神(内宮)、豊受大神(外宮)。外宮は慶長17年(1612年)に、内宮は元和元年(1615年)に勧請された。


猿田彦神社

末社、祭神猿田彦大神、氣比大神の案内をされる神といふので表参道北側にある。一般に庚申様と唱へて信仰が篤い。


芭蕉の碑

式内社 氣比(ケヒ)神社(豊岡市気比字宮代)

豊岡市気比字宮代
御祭神 「五十狹沙別命」 配祀 「神功皇后」
和銅二年(709)の創祀

(2008.10.13)

敦賀にある氣比神宮と同様に、
伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし、神功皇后を配祀する神社。気比神宮では伊奢沙別命は気比大神とし、『気比宮社記』においても「保食神」(うけもちのかみ)と称されている。一般には女神とされる。

一説には、神功皇后が敦賀から穴門(長門)へ向う途中、若狭、加佐、與佐、竹野の海を経て、
この地から円山川を遡り、粟鹿大神、夜夫大神、伊豆志大神、小田井縣大神を詣でた後
一時、この地で兵食を備へたという。

ある夜、越前筍飯の宮に坐す五十狹沙別大神が神功皇后に託宣して曰く

「船を以って海を渡らば須く住吉大神を御船に祀るべし」

神功皇后は住吉三神を船に祀り御食を五十狹沙別大神に奉って、
この地を気比浦と称するようになったという。
当社から北へ少しの気比川の畔に、銅鐸出土地の史跡があり銅鐸4個が見つかっています。気比(港)には、気比國があったかも知れない。ここから山を越えると丹後に抜ける道だ。 丹後王国とも関係があったのかも。神社の創建と関係があるのでしょうか。気比から丹後へ抜ける途中に畑上があります。畑上は秦神でしょうか?

2.ケヒ大神とホムタワケ命の名替え

「御食津大神」の名は『古事記』において、大神が誉田別命(ほむたわけのみこと)に「御食(みけ)の魚(な)」を奉ったので、その返礼として奉られたとの起源を伝えます。仲哀天皇の皇太子となったホムタワケ命(応神天皇)は、武内宿禰(たけうちのすくね)を随行して敦賀国の気比大神に参拝し、禊ぎをするために仮宮を立てて滞在しました。そのとき、イザサワケ命が夢の中に現れて、「私の名を太子の名と交換しよう」と告げました。その言葉に従うと答えると、神は「明日の朝、浜辺に出ると名前を交換した印の贈り物があるだろう」と告げました。
翌朝海辺に行ってみると、そこにはイルカが打ち上げられていました。それでホムタワケ命は「神が御食の魚をくださった」といって、神の名を御食津(ミケツ)神と呼んだといいます。
このとき名前を交換して、ケヒ大神がイザサワケ命に、皇太子がホムタワケ命となったという説もあると、応神の条には記されています。

3.名前を交換した謎

三韓出兵は、『日本書紀』に記述が残る、神功皇后が行ったとされる新羅出兵で、三韓時代であるから三韓出兵といいます。その帰り道に、応神天皇は神功皇后の命令で越前の敦賀を訪問したのです。当時の天皇の名前は伊奢沙別命(イザホワケ・イザサワケ)といい、夢の中で気比(ケヒ)神と出会います。気比神は「自分の名前と交換しよう」といいます。応神は喜び、「ぜひ交換してください」といって受け入れ、応神は元の名イザホワケからホムタワケに、気比神はホムタワケからイザホワケになりました。翌朝に目が覚めた応神が海に走っていくと、海岸線いっぱいに打ち上げられたイルカがいました。名前を交換した御祝いにと、神が御子にプレゼントしたのだ。「神は私に御魚(ミケ)の魚を下さった」と感激しました。

この言い伝えには2つの謎があるといいます。第一に、名前を交換したことは何を意味するのだろうか。神話学の解釈によれば、古代では、名は霊位の籠もる実体と考えられました。このことから、名の交換は支配や服属などを意味します。要するに地方の長である気比神がヤマト王権の応神天皇に服属したことを表しているというのです。プレゼントされたイルカは、気比神から応神への服属の意を表す貢ぎ物ということになります。越前がヤマト王権に屈した歴史を背景にしているとみるものです。

二つ目の謎は、なぜ息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は越前に誉田別命(ホムタワケノミコト=応神天皇)を派遣したのかです。
越前というと、地元の出身で応神から5世代も離れている子孫でありながら、ヤマト王権の大王として迎えられた継体天皇がいます。神功皇后が命じて応神にお参りさせたことは、継体天皇が越前の出身だったことに関連するのではないか。5世代も離れているのだから、およそ応神の時代から百年以上も後の話しなのに、『日本書紀』ではわざわざ「応神の5世孫」とうたっています。継体が越から大和の大王を迎えられたという史実が、この名前の交換神話になったとみてもおかしくありません。

これらは、越前がヤマト王権に服属したのではなく、ヤマト王権が越前から大王をくださいと三顧の礼で迎えに行き、越前側がそれを受け入れたことなります。ここに気比神、神宮皇后、応神天皇が深く絡み合っている様相がみえてきます。
気比神宮は、海上交通の神として有名です。遣唐使の海上の安全もここで祈願されています。気比神官は国家から格別の庇護(ヒゴ)を受け、平安時代には従正一位勲一等という最高位を授けられました。全国の数ある一の宮のなかでも一番の好待遇です。破格の扱いを受けたのは、当時、外国との外交関係が緊張しており、場合によっては戦争になってもおかしくないという一触即発の状況だったことにも関連したのでしょう。アジアの表玄関に位置する気比神宮は、アジア諸国の外圧から日本を守る守護神としての役割を期待されていたのです。

引用:「最新日本古代史」-恵美嘉樹

4.敦賀(つるが)とツヌガアラシトの渡来

敦賀は、古代からの郡名で、越前国の南西端に位置し、敦賀湾をU字形に囲む地域で、おおむね現在の敦賀市の区域です。古くは丹生(ニフ)郡の南部(現在の南条郡を含む)を含む地域であったとされます。『和名抄』は、「都留我(つるが)」と訓じます。古代に漂着した任那の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)にちなむ「角鹿(つぬが)」の転、敦賀半島を角(つの)に見立てたことによる、「ツ(津)・ヌ(助詞ノの転)・ガ(処)」の意、「ツル(ツラの転。砂州の連なったところ)」の意などの説があります。

『今庄の歴史探訪』によると「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・弁韓(任那)人等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す」とあります。また、敦賀付近には新羅(しらぎ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦神社・白城神社・白鬚神社などがある。

当地方は応神天皇や継体天皇とのつながりが強い地方であり、いわゆる古代三王朝の内、二王朝、即ち応神王朝(応神―武烈)・継体王朝(継体―現在)が、越前・若狭地方と関係している。両王朝共に新羅・加羅等と係わりが深かったであろう。

継体天皇は近江で生まれたが、越前で育っており、越前・若狭・近江などを含んだ地域は一つの文化圏といえる。この時代、敦賀と大和の間を結ぶ重要な交通路である琵琶湖西岸には三尾氏、東岸には息長氏が勢力をもっていた。

敦賀はもともと角鹿(ツンガ)と呼ばれていましたが、その地名の由来は都怒我阿羅斯等の渡来によるのだという説があるそうです。この渡来伝承は『日本書紀』に書かれ、その簡単な内容は以下の通りです。

「その昔、額に角がある人が船に乗って越前国笥飯浦(敦賀)に着いた。話を聞くと日本に聖皇(崇神天皇)がいると聞き、加羅国(朝鮮半島南部に存在した国)から仕えるために来たとのこと。だが、天皇は崩御したばかりで、次の垂仁天皇に仕え、3年が過ぎて故郷へ帰ることになった。そのときに崇神天皇(名は御間城入彦五十瓊殖尊)の名を貰い、国名(任那)とした。」
という話です。この伝説に登場する都怒我阿羅斯等は実在したかどうかは分かりませんが、この話は朝鮮半島から数多くの渡来人がやって来ていたことを示すもので、敦賀に朝鮮と関係のある神社が多いことと合わせ、当時の頻繁な交流を物語っています。治世2年、任那(ミマナ)から来ていた蘇那曷叱智(ソナカシチ)が帰国したいと申し出てきました。先帝の時代に来訪して、まだ帰国していなかったそうです。天皇は彼を厚くもてなし、赤絹10匹をもたせて任那の王に送りました。ところが新羅人(シラギジン)が途中でこれを奪ってしまいました。両国の争いはこの時始まったというものです。

5.武内宿禰(たけうちのすくね)

景行天皇14年(84年)? – 仁徳天皇55年(367年)4月?)成務天皇と同年同日の生まれという。 景行天皇の時に北陸・東国を視察し、蝦夷の征討を進言。成務天皇3年(133年)に大臣となる。神功皇后の朝鮮出兵を決定づけ、忍熊皇子らの反乱鎮圧にも功があった。 応神天皇の時、渡来人を率いて韓人池を造る。また、甘美内宿禰から謀反の讒言を受けたが、探湯(くかたち)[*1]を行って濡れ衣を晴らした。仁徳天皇50年(362年)が『書紀』に現われる最後。

『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。紀・巨勢・平群・葛城・蘇我などの中央諸豪族の祖とされるが詳細は不明。また、建内宿禰とも表記される。

『公卿補任』『水鏡』は同55年(367年)、『帝王編年記』所引一書は同78年(390年)に没したといい、年齢についても280歳・295歳・306歳・312歳・360歳などの諸説がある。

『因幡国風土記』には、360歳のときに因幡国に下降し、そこで双履を残して行方知れずとなったとの記述があり、双履が残されていたとされる鳥取県鳥取市国府町には武内宿禰を祀る宇倍神社がある。他に、福井県敦賀市の気比神宮など多くの神社に祀られている。 久留米市の高良大社には、高良玉垂神として祀られている。先祖孝元天皇の曾孫(『古事記』には孫)、父は屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおこころのみこと)、『古事記』は比古布都押之信命とする
母は木国造(紀伊国造)の女・影媛兄弟異母弟に甘美内宿禰(うましうちのすくね)

  • 羽田矢代宿禰(はたのやしろのすくね) – 波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部臣の祖
  • 巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね) – 巨勢臣、雀部臣、軽部臣の祖
  • 蘇我石川宿禰(そがのいしかわのすくね) – 蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣の祖
  • 平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね) – 平群臣、佐和良臣、馬御織連の祖
  • 紀角宿禰(きのつぬのすくね) – 紀臣、都奴臣、坂本臣の祖
  • 久米能摩伊刀比売(くめのまいとひめ)
  • 怒能伊呂比売(ののいろひめ)
  • 葛城襲津彦(かずらきのそつびこ) – 玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣の祖
  • 若子宿禰(わくごのすくね) – 江野財臣の祖

    6.越(こし)の国

    日本書紀には一つの地域として越(こし)、(越洲(こしのしま)、高志(こし)、古志(こし)とも呼ばれた)が書かれています。ここでは越国と題していますが、そのころは国家の形態を成していたとは必ずしも言えないようです。

    古くから交易や交流などはあったものの、ヤマト王権の勢力はまだ及ばない日本海側の地域であり、越前・敦賀の氣比神宮から船出し日本海を北上して、能登・羽咋の気多大社を経て、さらに越後・弥彦神社がある弥彦山を右手に見るまでを一つの地域として「越」と呼んでいました。

    『日本書紀』によれば、658年水軍180隻を率いて蝦夷を討ち、さらに「粛慎」を平らげました。一方の安定した西端と比較し、北端は蝦夷との戦いの辺境でした。粛慎は本来満州東部に住むツングース系民族を指しますが、『日本書紀』がどのような意味でこの語を使用しているのか不明です。
    ちなみに中国の越(えつ、紀元前600年頃 – 紀元前334年)という国がありました。春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国で、首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の諸民族とは異質な、百越に属する民族を主体に建設されたいわれる。南下した越族がベトナムの祖となったとされています。

    まったく想像ですが、九州北部から出雲を中心としたスサノヲ一族とヤマタノオロチで登場する古志は、別の一族だったと思われます。

    6.若狭彦神社

    若狭彦神社(わかさひこじんじゃ)は、福井県小浜市にある神社である。上社・下社の二社からなり、上社を若狭彦神社、下社を若狭姫神社(わかさひめじんじゃ)という。式内社、若狭国一宮で、旧社格は国幣中社。郡名から遠敷明神ともいう。


    福井県小浜市龍前28-7
    式内社(名神大)・若狭国一宮・国幣中社・別表神社主祭神 彦火火出見尊(山幸彦)創建 和銅7年(714年)本殿の様式 三間社流造


    若狭最古の神社。

    社伝では、二神は遠敷郡下根来村白石の里に示現したといい、その姿は唐人のようであったという。和銅7年(714年)9月10日に両神が示現した白石の里に上社・若狭彦神社が創建された。翌霊亀元年(715年)9月10日に現在地に遷座した。白石の前鎮座地には、若狭彦神社境外社の白石神社がある。


    狭彦神社は畳・敷物業の神ともされ、現在はインテリア関係者の信仰も集める。


    神門前の夫婦杉

7.若狭姫神社

福井県小浜市遠敷65-41
祭神 豊玉姫命

  

下社・若狭姫神社は、養老5年(721年)2月10日に上社より分祀して創建された。延喜式神名帳では「若狭比古神社二座」と書かれており、名神大社に列している。上社が若狭国一宮、下社が二宮とされた。元々は上社が祭祀の中心であったが、室町時代ごろから下社に移った。現在もほとんどの祭事は下社・若狭姫神社で行われており、神職も下社にのみ常駐している。
中世には社家の牟久氏が京の官人や有力御家人と結びつき、広大な社領を有した。

若狭姫神社は安産・育児に霊験があるとされ、境内には子種石と呼ばれる陰陽石や、乳神様とよばれる大銀杏などがある。

  
巨大な千年杉

7.若狭神宮寺と鵜の瀬お水送り

  

当地の伝承では、ある年、奈良市の東大寺二月堂の修二会で神名帳を読んで全国の神を招いたが、遠敷明神は漁で忙しかったため遅刻してしまった。そのお詫びとして、遠敷明神は二月堂の本尊である十一面観音にお供えの閼伽水を送ると約束したという。白石から下った所にある鵜ノ瀬と呼ばれる淵は、二月堂の若狭井に通じているとされている。旧暦2月には、鵜の瀬で二月堂に水を送る「お水送り神事」が行われる。その水を受けとる祭事が二月堂の「お水取り」である。ただし、今日では、元は当社の神宮寺であった若狭神宮寺が主体となって行われている。

[*1]…探湯(くかたち、くかだち、くがたち)は、古代日本で行われていた神明裁判のこと。ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)である。探湯・誓湯とも書く。