丹後(京都府北部)の秦氏系神社 2/2

三井寺HP  連載 > 新羅神社考 > 京都府の新羅神社(2)

京都府の新羅神社(2)

更に、北にある多久神社の北西八百m程の所の矢田の集落の西端に矢田神社がある。この北方、弥栄町との境の山上には太田南古墳群があり、平成二年(一九九〇)から六年にかけての発掘調査で、後漢時代の鏡などが出土している。平成六年の発掘では青龍三年(二三五)の年号入りの青銅鏡が発見された。年号が刻まれた鏡としては日本最古のものである(青龍三年は中国・魏の年号で、邪馬台国の女王卑弥呼が景初三年〈二三九〉に魏に朝貢した際に皇帝から下賜された鏡の可能性が強いといわれている)。

また、竹野郡網野町には銚子山古墳(弥栄町の太田古墳から五~六㎞の距離)がある。全長一九八mの前方後円墳で、日本海側に存在する古墳としては最大のもの(五世紀前半の築造)である。

丹後半島は海人族が住んでいたと思われる。その海人族は九州の豊後(大分)国とつながりが深く、いくつかの共通性が見られる。和歌山県に古代の怡土(いと)国(福岡県)に因む地名が多いのと同様であるが、これは九州にあった国の氏族が、丹後や紀伊地方へ移住した痕跡ではあるまいか。あま、大野、やさか、竹野、矢田、はた、等。

「ひじのまない」については、丹後は「比治の真名井」、豊後では国東半島の近くの速水郡日出(ひじ)町に「真那井(まない)」がある。また、丹後の伊根町の漁師の家と同じ構造の家が、豊後の南、海部(あまべ)郡に見られる。海部氏(海人族)が九州から中部地方に至る間に広く分布していたことの証拠である。なお、海部郡は紀伊や尾張にもあり、阿曇(あずみ)の海人として朝鮮半島や江南の古代海人と関係が深い。

(二)溝谷神社

溝谷神社のある場所は外(との)村といわれ、溝谷の集落から車で約十分ほど。両側は山に囲まれた谷間のようなところの道である。道路の脇にはわずかであるが田んぼが見られる。(中略)

境内地の奥にある七十~八十段の石段を登った最も高い場所に、杉や楠木の林に囲まれた神社の本殿がある。祭神は新羅(しらぎ)大明神(須佐之男命)、奈具大明神(豊宇気能売命)、天照皇大神の三神で、旧溝谷村三部落の氏神である。本殿と拝殿よりなるが、本殿は瓦屋根の覆屋内に保護されている。拝殿は入母屋造、正面は格子戸、側面は板で覆われている。本殿の扉には菊の紋章と桐の紋が彫ってあり、周辺には高欄つきの回縁がついている。古いがりっぱな建物である。(中略)

当神社の創建年代については、当神社の火災により古文書が焼失し往古の由緒は不明であるが、延喜式(九二七年)記載の神社であることや、崇神天皇の時代の四道将軍の派遣と関係があること、新羅牛頭山の素盞鳴命を祭ったということ、四道将軍の子・大矢田ノ宿禰が新羅征伐の帰途、海が荒れて新羅大明神を奉じたこと、神功皇后が新羅よりの帰途、着船したこと、などから考えれば、当社は古代から存在し、かつ新羅系渡来人と深いつながりがあったことが判る。

溝谷神社に掲げてある『溝谷神社由緒記』には次のように記載されている。

「当社は延喜式所載の古社にして、社説によれば、人皇第十代崇神天皇秋十月、将軍丹波道主命、当国へ派遣せられ、土形の里に国府を定め居住あり。或時、神夢の教あり、眞名井ノト(トはウラ又はキタとも云ふ)のヒツキ谷に山岐神(やまのかみ)あり、素盞鳴尊の孫、粟の御子を以って三寶荒神とし斎き奉らば、天下泰平ならんと。道主命、神教に従ひ丹波国眞名井ノトヒツキ山の麓の水口に粟の御子を以て三寶荒神と崇め奉る。其の御粟の御子は水口の下に新宮を建てて斎き奉る。因て、水の流るゝ所を溝谷庄と云ふ。溝谷村、字溝谷を旧名外(との)邑と云ひしは眞名井名ノトと云ふ字を外の字に誤りて云ひしものなりと。その後丹波道主命の子、大矢田ノ宿禰は、成務・仲哀・神功皇后の三朝に仕えて、神功皇后三韓征伐に従ひ、新羅に止まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年八十艘の貢を献ず。

其の後帰朝の時、風涛激浪山をなし航海の術無きに苦しみしに、素盞鳴尊の御神徳を仰ぎ奉り、吾今度無事帰朝せば、新羅大明神を奉崇せんと心中に祈願を結びければ、激浪忽ち変じて蒼々たる畳海となりて無恙帰朝しけれぱ、直ちに当社を改築せられ、新羅大明神と崇め奉る。因て今に至るも崇め奉して諸民の崇敬する所なり」

「従って当社の創祀は丹波道主命の勧請によるもので、新羅(しらぎ)将軍大矢田宿禰の改築祭祀されたと伝えられ、今でも航海の神として海辺の崇敬篤く、現在絵馬堂にある模型船は間人漁師の寄進したものである」

溝谷神社の由緒についての記載は、他にも見られる。『竹野郡誌』によれば、各文献の記述を次のように記載している。

溝谷神社村社字ヒツイ鎮座
『延喜式』溝谷(みぞたに)神社
『丹哥府志』溝谷神社は今新羅大明神と称す
『丹哥舊事記』
溝谷神社 溝谷庄外村
祭神 新羅大明神 素盞鳴命
延喜式小社牛頭天皇新羅国より皈朝有けるを祭りし神号なり、勧請の年暦いつよりと言事を知らず

京都府の新羅神社(3)

出石族とか出石人といわれている天日槍族が、但馬から(京丹後市)熊野・竹野地方を含めた地域に拡がって大きな勢力を張っていたものであろうか。

山陰地方に四道将軍の一人、丹波道主命が遣わされたことは、丹後地方が早くから大和朝廷と政治的に密接に結びついていたことが考えられる。大和朝廷の全国統一の過程で、丹後地方をはじめ山陰地方に重点が置かれたことは、逆にこの地方に大和朝廷に対抗するほどの勢力を持った豪族が政治、経済に強大な権力を持って存在していたことを意味し、丹後地方に雄大な前方後円墳が残された所以を示すものである(『弥栄町史』)。

三、その他の新羅(しらぎ)神社について


大宮売(め)神社の古代祭祀の地

当地方を訪ねるに際し、弥栄町の隣町に当る中郡大宮町字周枳(すき)の大宮売(め)神社(周枳の宮―祭神天鈿女(あめのうずめの)命・豊受大神)の宮司・島谷氏に教示を受けた。島谷氏によれば、「丹後には新羅大明神を奉祭していた社はあちこちにあったのではないかと思われます。……当地方の地名や伝承等からみると、古代朝鮮との係りを強く感じざるを得ません。……」。丹後地方は、古代渡来系(特に新羅系)の人々を中心とした文化が栄えた土地であったようである。

島谷氏の話によれば、大宮売神社のある土地の周枳というのは、スキ国=新羅国(※1)の意であり、竹野郡の間人から竹野川沿の中郡大宮町にかけては、弥生時代には竹野川文化圏を形成しており、古代に渡来した人達の文化が栄えた地域であった。いわゆる出石族・出雲族が居住していた。そしてこの一帯にはキのつく地名(内記、周枳)や、荒・新(安羅)などの地名が多い。周枳は又主木・周木にも通じ、古書には主木殿ありといわれている。

当地方からは弥生時代後期の遺跡が多く発見され、大宮売神社でも明治十二年に二の鳥居の下から壷や曲玉・勾玉が発見されたが、これらの品は祭事の跡(三世紀頃)を物語っている。大宮売の神は巫女(シャーマン)であり、曲玉や勾玉は木の枝につけて祈祀の道具とした。大宮は大国の意である。大宮売神社の周囲は濠となっていた。

大宮売神社のある大宮町は竹野川に沿って古くから開拓された地域であり、竹野川の丘陵地帯には多くの古墳が発見されている。大宮売神社には境内とその周辺から弥生時代から中世にかけての複合遺跡があり、大宮売神社遺跡といわれ、神社の周辺には左坂古墳群(九十三基)、外尾古墳群(二十四基)、新戸(しんと)古墳、宮ノ守古墳群、平太郎古墳群などがある。

大宮売神社の祭神は天鈿女命・豊受大神であるが、これは五穀豊穣を願う、いわゆる祖神である。そして当地の式内社は全部豊受神(天女の一人が豊受の神)、大宮女は八神の一座、機織と酒造り(風土記には比治の真奈井、奈具社)の神であり、丹波道主命米の稲作は天女が降り、奈具の社にとどまったことから、稲作民族が定住したことを意味し、これが祖神となった。なお、豊受神は九州から来たという説もある。
出羽弘明(東京リース株式会社・常務取締役)

周枳(すき)というのは白村江(はくすきのえ)の戦いで有名なスキで村のこと、朝鮮語で村とか城のことだそうである。隠岐国に周吉(すき)郡がある。ス・キど分離すれば、ソの村とか国のこととなる。このあたりはスとかソあるいはシと呼んだのだろうと思われる。(丹後の地名)

■周枳井溝

周枳村(現在の大宮町周枳)は、竹野川より土地が高く、谷も浅いため水が少なく、やむを得ず畑にしている農地が多くありました。
「なんとか竹野川の上流から水が引けないものか」と言う農民たちの願いが、時の宮津藩の役人の耳に入り、藩主京極守高の時(1660年代)に竹野川から取水し、谷内から周枳に至る用水路づくりが始められました。
工事は10年の歳月を費やし、寛文11年(1671)完成しました。
周枳の人々はこの用水路のことを「井溝」と呼んで大切にしてきました。
周枳の井溝は、近年コンクリート製の水路として整備され、その大部分は、国道バイパスや府営ほ場整備事業により水路の場所が変わっており、現在は、集落周辺にかつての水路の場所を認めることができます。
集落周辺では、防火用水の水源となったり、「井溝」に洗い場が設けられ、野菜の洗浄などにも利用されています。(京丹後市)

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

若狭(福井県嶺南部)の秦氏系神社(1)

気比神社(越前国一宮)

当地には、実在された最初の天皇といわれている応神天皇(四世紀後半)ゆかりの神社がある。

気比(けひ)神宮といわれ、「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。

祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇 ・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。 境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」がある。 『福井県神社誌』によれば、祭神は仲哀天皇・大山祇命・神功皇后・日本武尊・素佐之男尊の五神である。 境内社に神明宮・常宮社・稲荷神社・金比羅社等がある。 垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。

『書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、 大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、 応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとあ る。すると、応神の元の名前は去来沙別であり、天日槍ということになる。 即ち、新羅・加羅系の人であったということになるのである。
気比神宮寺にある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の伝承は、 頭に角をもつ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったという。 阿羅斯等とは、新羅・加羅では「貴」の敬称であったといわれ、 都怒我阿羅斯等も角鹿へ貴人が相次いだことを意味しているものであろう。 更に、額に角有(お)ひたる人は武人を形象化したものであるという説もある。

祭神である伊奢沙別命は、新羅の王子天日槍であり、 都怒我阿羅斯等でもあると共に、応神天皇もこの一族を神として崇めていたことが知られる。 気比神社の御田植祭や寅神祭は、農耕技術の伝来や海上安全の神を祭ったものである。

敦賀市の気比神社

敦賀市は日本列島のほぼ中央に位置するが、敦賀湾に面した静かな天然の良港として栄えた。 南は近江や畿内に接し、東は鉢伏山、栃の木峠、木の芽峠、大黒山などを境に今庄町に接している。 敦賀の名称は渡来人都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものである。

「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、 敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、 信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)

また、敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、 例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社 ・白城(しらき)神社・白鬚神社などがある(『今庄の歴史探訪』)。

古来敦賀は北陸道や西近江路の入口に位置し、『延喜式』には「越前国……海路。漕二敦賀津一。……至二大津一……。」とある。 従って、越前地方は敦賀を介し近江地方と密接なつながりをもち、日本海の産物を琵琶湖経由で、 畿内の京都や奈良などの都に送っていたことがわかる。
出羽弘明氏(東京リース株式会社・常務取締役)

福井県美浜町菅浜に鎮座する「須可麻(すかま)神社」
敦賀半島の西側にも、新羅系の有名な神社がある。菅浜(すがはま)は、元々は須可麻神社の須可麻であったものが菅窯→菅浜と変わったようである。スカとは古代朝鮮語で「村」を意味するという。
丹後街道から敦賀半島に入り車で十分位。先へ進めば丹生や白木の集落である。敦賀半島の西海岸は若狭湾に面している。
当社は式内社で、祭神は正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれる。
「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へもってきた」(『美浜ひろいある記』)といわれている。
社伝によれば式内社の古社といわれ、『若狭国神階記』に「菅竈明神」とある。明治四十一年世永神社、素盞鳴命を祀る広嶺社・志波荒神を祀る塩竈社の三社を合併。金達寿『日本の中の朝鮮文化』には「若狭文化財散歩」の文章が引用されている。「・・・・・・菅浜の南の砂浜は神功皇后の子・応神天皇が太子のとき、こゝの浜でみそぎをされ敦賀へ移られたと伝えられ新羅人が漂流して土着したとも伝える。菅竈が菅浜に転じ、焼窯の神様で須恵器などを造った帰化人の集団が丘陵に住み着いたところでもあるという。・・・・・・」

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

若狭(福井県嶺南部)の秦氏系神社

[catlist categorypage=”yes”] 気比神社(越前国一宮)

当地には、実在された最初の天皇といわれている応神天皇(四世紀後半)ゆかりの神社がある。

気比(けひ)神宮といわれ、「新羅神社」と呼ばれてはいないが、 『記紀』に記載の最古の新羅系渡来人「天日槍」の伝承がある神社である。敦賀市曙町の「気比の松原」の近くにある延喜式の式内社である。

祭神は伊奢沙別命(いざさわけ)・仲哀天皇 ・神功皇后・日本武尊・応神天皇・玉姫尊・武内宿禰の七神。 境内には式内社「角鹿(つぬが)神社」がある。 『福井県神社誌』によれば、祭神は仲哀天皇・大山祇命・神功皇后・日本武尊・素佐之男尊の五神である。 境内社に神明宮・常宮社・稲荷神社・金比羅社等がある。 垂仁天皇(三世紀後半頃)三年に渡来した「新羅の王子・ 天日槍(あめのひぼこ)を 伊奢(いざ)さわけのみこと沙別命として祭った」といわれている。

『書紀』によれば、応神天皇は角鹿の笥飯大神と名前を交換し、 大神を去来沙別(いざさわけ)の神とし、 応神は誉田別(ほむだわけ)尊としたとあ る。すると、応神の元の名前は去来沙別であり、天日槍ということになる。 即ち、新羅・加羅系の人であったということになるのである。
気比神宮寺にある「都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)」の伝承は、 頭に角をもつ神が一族と共に角鹿湊へ渡来、角鹿神社の祭神となったという。 阿羅斯等とは、新羅・加羅では「貴」の敬称であったといわれ、 都怒我阿羅斯等も角鹿へ貴人が相次いだことを意味しているものであろう。 更に、額に角有(お)ひたる人は武人を形象化したものであるという説もある。

祭神である伊奢沙別命は、新羅の王子天日槍であり、 都怒我阿羅斯等でもあると共に、応神天皇もこの一族を神として崇めていたことが知られる。 気比神社の御田植祭や寅神祭は、農耕技術の伝来や海上安全の神を祭ったものである。

敦賀市の気比神社

敦賀市は日本列島のほぼ中央に位置するが、敦賀湾に面した静かな天然の良港として栄えた。 南は近江や畿内に接し、東は鉢伏山、栃の木峠、木の芽峠、大黒山などを境に今庄町に接している。 敦賀の名称は渡来人都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)の渡来伝承によるものである。

「上古敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人等の多く此地に渡来し、 敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、 信露貴神社亦共一に属す」(『今庄の歴史探訪』)

また、敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、 例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社 ・白城(しらき)神社・白鬚神社などがある(『今庄の歴史探訪』)。

古来敦賀は北陸道や西近江路の入口に位置し、『延喜式』には「越前国……海路。漕二敦賀津一。……至二大津一……。」とある。 従って、越前地方は敦賀を介し近江地方と密接なつながりをもち、日本海の産物を琵琶湖経由で、 畿内の京都や奈良などの都に送っていたことがわかる。
出羽弘明氏(東京リース株式会社・常務取締役)

福井県美浜町菅浜に鎮座する「須可麻(すかま)神社」
敦賀半島の西側にも、新羅系の有名な神社がある。菅浜(すがはま)は、元々は須可麻神社の須可麻であったものが菅窯→菅浜と変わったようである。スカとは古代朝鮮語で「村」を意味するという。
丹後街道から敦賀半島に入り車で十分位。先へ進めば丹生や白木の集落である。敦賀半島の西海岸は若狭湾に面している。
当社は式内社で、祭神は正五位「菅竈由良度美(すがかまゆらどみ)」天之日槍七世の孫、即ち菅竈明神といわれる。
「新羅からの帰化人である由良度美は叔父の比多可と夫婦になって菅浜に住んだとの記録があり、其の子孫になるのが息長帯比売命(後の神功皇后)である。それ以前にも垂仁天皇の三年に新羅の皇子『天之日矛』が菅浜に上陸して矛や小刀、胆狭浅(いささ)の太刀などを日本へもってきた」(『美浜ひろいある記』)といわれている。
社伝によれば式内社の古社といわれ、『若狭国神階記』に「菅竈明神」とある。明治四十一年世永神社、素盞鳴命を祀る広嶺社・志波荒神を祀る塩竈社の三社を合併。金達寿『日本の中の朝鮮文化』には「若狭文化財散歩」の文章が引用されている。「・・・・・・菅浜の南の砂浜は神功皇后の子・応神天皇が太子のとき、こゝの浜でみそぎをされ敦賀へ移られたと伝えられ新羅人が漂流して土着したとも伝える。菅竈が菅浜に転じ、焼窯の神様で須恵器などを造った帰化人の集団が丘陵に住み着いたところでもあるという。・・・・・・」

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

丹後(京都府北部)の秦氏系神社 1/2

[catlist categorypage=”yes”] 京都府の新羅神社(1)

京都府には北部から南部まで新羅の神々が祭られている。北部では丹後地方、南部は山城地方の宇治市である。南部の京都盆地には「新羅牛頭(ごず)山に座す素盞鳴尊」を祀る八坂神社や新羅系渡来人秦氏とつながりの深い上賀茂神社・下鴨神社がある。

丹後地方は古来、大陸や半島との往来が頻繁にあり、弥生時代には王国があったといわれている。特に弥栄(やさか)町の新羅明神(溝谷神社)は渡来の人々(特に新羅系、或いは秦氏系の氏族)が祭ったといわれる。丹後地方は但馬の出石郡に隣接しているが、出石郡は地理的には丹後の一部であり、新羅の渡来人、天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に濃い。

一、古代の丹後地方

丹後地方は但馬の出石郡(現豊岡市)に隣接しているが、出石郡は地理的には丹後の一部であり、新羅の渡来人、天日槍(あめのひぼこ)と縁の深い土地である。また、京都府の太秦や園部町から続く丹波地方も新羅系渡来人の痕跡が非常に濃い。

丹後地方の東側には舞鶴市や宮津市があり、それらの街を包み込むように若狭湾が広がっている。若狭湾に沿った地域は新羅系渡来人である天日槍や都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)など伝承と共に、伊奨諾(いざなぎ)、伊奨冊(いざなみ)神話から始まり、山幸彦(天火明命(あめほあかり))の天降り伝承をもつ冠島や海人(あまべ)族の系図をもつ籠(この)神社(丹後一宮・元伊勢)などがある。

丹後半島は京都府の中で唯一、日本海に面している。縄文から弥生時代にかけての丹後地方は、朝鮮半島と一帯となった連合国家を形成していたと考えられる。当地方の海岸には今でもハングル文字のビンや缶などがたくさん漂着している。半島から流れる海流に乗れば、容易に日本海沿岸に到達できる。

丹後は元々は丹波国であったが、和銅六年(七一三)に分離し、丹波後国、丹後国となった。『和名抄』に、タニハノミチシノリ(田庭道後)とあり、南の大和からみて北側の奥にあるという表現であり、蝦夷に対するような意味であったのかも知れない。

丹波は中国産地の東端にあり、山陰地方の玄関口に当る。平均六百mの高地である。丹波は“たには”といわれ、豊受大神(穀物神)が初めてこの国に鎮座して神饌米を供したことから田庭と書かれたという。また、丹波・谷端とも書かれていたようである。古代の「たには」国は、丹後、丹波、若狭、但馬を含む大国であり、日本海を往来した海人族が大陸文明を取り入れた先進地域を形成していた。古代の「たには」は大和の国より古く、また出雲に匹敵する王国であった(拙者註:むしろ丹波の中心地は丹後(日本海側)だった)。

丹後半島は古代の伝承や説話が多く残っており、古代遺跡も多い。特に天孫降臨と類を同じくする渡来人の漂着神話や伝承は多い。そして、数多く存在する神社は、弥生時代から古墳時代にかけての古代祭祀遺跡や古墳をその境内にもっているものも多い。伝説で有名な神社には、秦の始皇帝の命で不老不死の薬を探しに来た徐福を祭る新井崎神社(与謝郡伊根町)、浦島と乙姫伝説(『日本書紀』雄略天皇二十二年)が伝わる宇良(浦島)神社(与謝郡伊根町)、更に、羽衣伝説で有名な乙女神社(中郡峰山町)や、矢田、波弥、名木、枳(からたち)の各神社(中郡峰山町)がある。

更に、彦火火出見尊(山幸彦)を祭神とする元伊勢の籠(この)神社(宮津市大垣―雄略天皇が天照大神を伊勢に祀る前には当地に祭られていたという)。天の橋立は当神社の参道である。元伊勢といわれる籠神社の参道は天の橋立であるが、神代の昔、天にあった伊奨諾大神が、地上の籠(この)宮の磐座(いわくら)(太古の斎場)に祭られた女神伊奨冊大神のもとへ通うため、天から大きな長い梯子(はしご)を地上に立てて通われたが、或る夜梯子が倒れてしまい天の橋立となったといわれている。伊奨諾のイザは磯の男、即ち磯(海岸)へ辿り着いた男ということである。アイヌ語では露岩の意味である。渡来伝承の一つと考えられる。

大国主命が沼河姫と共に当地に住んだ時、姫が病に罹った時、少名彦命が治したという伝説に基づく小虫神社、大虫神社(与謝野町加悦(かや)町)。この加悦町は伽耶を意味し、朝鮮半島の人(高天原といわれる)の渡来してきた町である。

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

全国的に有名な山城 竹田城


兵庫県朝来市竹田 国史蹟(昭和18年)

JR播但線竹田駅の西方、古城山(標高353.7m)の山頂部
中世山城で全国的にも有名な竹田城は、山陰道と播但道が分岐する交通の要所にそびえ立ち三方が見渡せる。

竹田城門

【竹田城趾の概要】

縄張りが虎が臥せているように見えることから別名「虎臥城(とらふすじょう・こがじょう)」と呼ばれる。
また城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ。

天守台と高見殿(本丸)

標高353.7メートルの古城山(虎臥山)の山頂に築かれ、縄張りは、南北約400メートル、東西約100メートル。
春は東に立雲峡の紅葉を望み、夏は天空に輝く幾千の星を眺め、秋は雲海に浮かび上がる舟の上で、冬は一面雪景色の中で、古城の累々たる石垣群の威容は、名物ともなっている。


南千畳

竹田城の縄張りは、中央の最高峰を天守台とし、周囲に高見殿(本丸)、平殿、奥殿、天守台北西部に花殿を配し、二の丸、三の丸、南二の丸が連郭式に配され、さらに鳥が両翼を広げたように、その南北の端をそれぞれ南千畳、北千畳が置かれている。廃城から約400年を経ているが、石垣がほぼそのままの状態で残っており、現存する山城として日本屈指の規模となっている。


北千畳

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(56番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。
天と地と(1990年公開の映画)- 城をセットとして春日山城を再現した上、ロケ地として使われた。
魔界転生(2003年公開の映画)- 城をセットとして原城再現した上、ロケ地として使われた。

歴史・沿革


二の丸

但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設された。 築城は1431年(永享3年)、完成は嘉吉年間(1441 – 43年)と伝えられる。当初は土塁造りの城郭であったが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となった。

修復には13年の年月を要し、賦役のため農民は「田に松が生えた」ほどの困窮に陥ったり、村中が夜逃げするところもあったと伝えられる。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。

山名氏のもとでは山名四天王の太田垣氏が配された。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に撃退した。しかし、羽柴秀吉による、1569年(永禄12年)および1577年(天正5年)の但馬征伐により落城。1580年(天正8年)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえた。

その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となるが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となる。

最後の城主である赤松広秀(斎村政広)は関ヶ原の戦いでは西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。


三の丸と櫓
安土城、姫路城と同じ穴太流(あのうりゅう)石積み
石垣は、織田信長がしばしば採である用した安土城と同じ技術穴太流(あのうりゅう)石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。山城としての美しさとともに、その縄張り(平面構成)の見事さは全国でも屈指の城郭といえるでしょう。

歴代城主
太田垣光景(1443年(嘉吉3年)~1465年(寛正6年))
太田垣景近(1465年(寛正6年)~1479年(文明11年))
太田垣宗朝(1479年(文明11年)~1521年(大永元年))
太田垣宗寿(1521年(大永元年)~1538年(天文7年))
太田垣朝延(1538年(天文7年)~1570年(元亀元年))
太田垣輝延(1570年(元亀元年)~1577年(天正5年)?)
城代・羽柴小一郎長秀(秀長)(1578年(天正6年)~1580年(天正8年))
桑山重晴(1580年(天正8年)~1585年(天正13年))
赤松広秀(斎村政広)(1585年(天正13年)~1600年(慶長5年))

【斎村 政広(さいむら まさひろ)】

永禄5年(1562年)- 慶長5年10月28日(1600年12月3日)

安土桃山時代の武将。父は赤松政秀、母は赤松晴政の娘。はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広通・広秀・広英といった。播磨国龍野城、のち但馬国竹田城を居城とした。通称を弥三郎。官名は従五位下左兵衛佐。室は宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の妹)。子に次郎右衛門、善右衛門。

1570年に父、その後、兄赤松広貞も相次いで早逝したため家督を継承した。政広の家系の赤松氏は、血統上は本家である赤松義祐の家系(七条流)よりも、むしろ本流の赤松氏であった。織田信長の命を受けた羽柴秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となった。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬竹田城2万2000石を与えられた。その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、また、儒学者藤原惺窩に教えを受けるなど、文学人としての一面もあった。姜沆とも交友を持ち、彼の帰国も支援している。
不運な最後

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、細川藤孝の居城である丹後田辺城を攻めた(田辺城の戦い)。しかし、関ヶ原で西軍が敗れると東軍に寝返って、西軍に与した宮部長房の居城・因幡鳥取城を攻めた。しかし、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。ただし、この焼き討ちは政広に寝返り促し、鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策(焦土戦術)であり、実行した政広一人に罪を擦り付けたとする説が強い。また西軍から東軍に寝返った大名では唯一の死亡者である。

因みに斎村姓は、父の政秀の死後、一時避難をしていた才村(又は佐江村)に由来する。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
水嶋 元 『残月―竹田城最後の城主、赤松広英』東洋出版(拙者の小学校の恩師です)
火坂 雅志『壮心の夢 』(文春文庫)
和田山町観光協会

人気ブログランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

秦氏などの渡来人と日本の文化

秦氏については以前にも
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_94.html
などで触れたが、渡来人と日本の文化の発展について考えてみる。
ただし、ここでは渡来人とは歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多いので、それ以前に日本列島の先住民である旧石器人や縄文人を除外して定義している。
言うまでもなく、日本列島がアジア大陸から切り離されるまでに日本民族として孤立したものではなく、人類のルーツはみな同じであって、いつごろから先住民がいたかなどは大きすぎる課題でありここではテーマではない。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』(奈良県)は次の三つピークを挙げている。

◎第一波 四世紀末から五世紀初め 応神天皇期

高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。
『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。
後に有力な豪族となる東(倭)漢氏(やまとのあやうじ)の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文氏(かわちのふみうじ)の祖・王仁(ワニ)、秦氏(はたうじ)の祖・弓月(ゆづき)君がいる。

●疑問点

この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。

しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。

宇佐八幡

この神は、北九州の豪族宇佐氏の守護神だったが、応神天皇が八幡神であるとされている。

◎第二波 五世紀後期 雄略天皇期

高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。

倭の五王最後の武王=雄略天皇にいたっては、使持節都督倭・新羅・任那・加羅(伽耶)・秦韓・慕韓(馬韓)六国諸軍事安東大将軍と、いかにも長々しく威厳に満ちたもので日本列島から朝鮮半島までをも支配していたかのような響がある。

ただしこれを言葉通りに受け止めてはいけない。高句麗の南下を食い止めているヤマトの王権に対する、宋側からのご褒美であり、一種の名誉職と言った方がいいかも知れない。しかし、実験を伴わなかったヤマトの王家が、宋から認められたことによって(もっとも実際に活躍していたのは物部氏を中心とする周囲の豪族だっただろうが)増長していった疑いが強い。

雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てた。

須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。

この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。

◎第三波 七世紀中ごろ 孝徳天皇~天智天皇

唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期。

以上、ピーク(集中渡来の時期として)の三つとして記されているが、この他に、
古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと考えられている。彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約3500年前から存在。約6000年前からとする説もある。)、いわゆる弥生時代に繋がっていく。

渡来および帰化系氏族のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。

また一説には五胡十六国時代に前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある(弥生時代の到来)。いずれの説も今後の検証の必要がある。

縄文時代に、山(火山)、瀧、岩、森、などを自然神として磐座(いはくら / いわくら)や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。のちに社を建て、土地の祖先や豪族など人物神を神としても祀るようになったのは、渡来人の秦氏族などは賀茂氏系神社(松尾大社、上賀茂神社、伏見稲荷神社、八幡社など、建築技術や専門職(テクノクラート)によるものと考えられる。

繰り返しになるが、日本列島がアジア大陸から切り離され列島となった。元々日本列島に移動してきた人類は北方、南方、半島、南西島嶼部などから移動してきて、日本民族として形成されたものである。いつごろから先住民がいたかなどは考古学史料に求めれるしかない。

渡来人とは歴史用語として、すでに日本列島に定住していた旧石器人や縄文人からみた4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多いので、それ以前に日本列島の先住民である旧石器人や縄文人を除外してそれ以降に定義している。

しかも定住者は帰化人となって同化し日本民族となる。

◎第四波 戦前~戦後

日韓併合時、半島から働きやって来た人々はいたが、戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。むしろ日本内地では国民徴用令により徴兵・学徒動員などは全国民に課せられていた。

当時は朝鮮・台湾も日本人国籍であって、強制連行されたというのは誤解であり、戦後すぐに朝鮮半島などを放棄するものとなり、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、 北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している。
現在、在日韓国・朝鮮人の総数は約61万人だが、日本国籍が認められなくなった際に、帰国を促しても自由意志もしくは帰る宛がないなどの事情により帰国しなかった人々である。その内、戦時徴用で日本人として日本列島に働きにやってきたとされる正確な人数は245人にすぎない(外務省)。また戦後、密航などでやって来た人々も含まれる。

このような事情はあるものの、日本国内に永住するのであれば、今日帰化は書類上の手続きにより取得できる。当然日本国籍を取得し日本国憲法を遵守することが自然であるのだ。移民国家アメリカなどでは、むしろ国籍を取得するには一定期間を経てアメリカ国民として徴兵の義務(今は志願、奨学金制度)と参政権を得るためにはアメリカ国家に忠誠を誓うことが義務づけられていて、むしろそうした移民国家の方が厳しいのである。
外国人地方参政権とは、法治国家で採用している国はごく少なくあまり類のないおかしな法案である。しかも、年々減少している在日韓国朝鮮特別永住者よりも、年々増加する中国人に対して歯止めが利かなくなる恐れが問題なのである。中国人は帰化しても華人としてチャイナタウンを形成しその国の国民という意識は薄く、持たないケースが多いからである。
強制連行、従軍慰安婦、南京大虐殺等はすべて朝日新聞のでっち上げである。いまだ一切謝罪しない。

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

生野城(古城山=いくのじょう)と生野平城

[catlist categorypage=”yes”] 足利三代将軍義満の時代、幕府最高の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した管領職があり、斯波・細川・畠山の三氏が任命され、これを三管領家(さんかんりょうけ)と呼んでいた。また、京都の政治を受け持って軍事と警察権をおこなう侍所頭人(武士のトップ)に、赤松・一色・山名・京極の四家を定めこれを四職(ししき/ししょく)といい、合わせて「三管四職」と呼ばれ、それぞれに勢力をもっていた。

応永三十四年(1427)十月、四職のひとりである播磨守護赤松満祐(みつすけ)が、父義則の三十五回忌の法要仏事を赤松家の菩提寺である京都東山龍徳寺で行っていた。その時、将軍義持の使者として、南禅寺の長老が来て一通の書状を手渡した。その文面は赤松満祐の領地播磨国を足利将軍の直轄地として、そこの代官職を分家筋にあたる赤松持貞に代えるという思いがけないものであった。これにはいろいろ原因があるとされるが、つまりは満祐は将軍義持に嫌われており、その間に立って持貞がうまく将軍に取り入っていたことのよるものと伝えられている。

この意外な書状を読んだ満祐は、たとえ父が死んだといっても播磨国は祖父円心以来立派に治めてきた土地であるから、領地を取り上げられることは許してもらいたいとたびたび願ったのですが、ついに聞き入れてもらえなかった。そこで満祐も仕方なくこれに従うことを伝え、その日の仏事を住ませたのち自分の屋敷に帰り、決心して多くの財宝を召使いの者に分けた与え、屋敷には火をかけ焼き払い、夜にまぎれて本国の播磨へ引き上げてしまった。

これを知った将軍義持はたいそう怒って、「播磨一国を取り上げてもまだ備前・美作の二国があるにもかかわらず、このような反抗は許し難い。残る一国も他の赤松家に与え、満祐を討伐せよ。」

ということになって、その命令が山名時熈(ときひろ)と一色義貫(よしつら)に下ったのだ。しかし、一色は様子を見るために出発しなかったようだ。

生野城

山名時熈は将軍義持の命に従い、すぐに京都から本国の但馬に帰り、赤松満祐討伐のため、播但の要衝である生野を選び、その北にそびえる標高六百mの山上(古城山)に城を築きました。「銀山旧記」という古文書によりますと、「ここ二十間(約36m)四方の居所を構え、尾崎尾崎に物見をつけ、厳重の要害なり。」と書かれている。これから考えてみますと山上に“館(たて)”といわれるような建物を造り、その尾根続きの要所には見張所も構えていたものと思われます。こうした陣をしいて敵方の様子をうかがっていたわけで、時に応永三十四年(1427)の十一月も末頃のことといわれている。

一方播磨国に引き上げた赤松満祐は、一族を集めて本拠の白旗城に立てこもり、戦いの体制を整えながらも、今一度将軍義持にあてて、「自分の所領地は播磨一国でいいから、先祖から受け継いだ土地として相続させてもらいたい。そしてこの度の軽率な行動は深くお詫びするから許してほしい。」という書状を送ったのですが、将軍義持は承知しなかった。

ところが、翌年に突如持貞と義持側室との密通に関する告発があり、持貞は切腹に追い込まれた。満祐は諸大名の取りなしを受けて赦免された。

今まで将軍義持のお気に入りであった分家筋の赤松持貞がおごりにふけって良よからぬことをしていたことがわかり、将軍義持は大へん怒って持貞に切腹を命じ、それまで憎んでいた満祐に対して心機一転その謀反の罪を許すことになりました。また、管領畠山氏のすすめで、満祐もとりあえず家臣を名代として京都へ送り幕府にあやまり、自分も十二月中ごろに上洛して、謀反の罪を詫びましたので、ことは無事に治まり、満祐は父の後を継ぎ播磨国を治めることができ、とにかく落ち着いたのです。

こうしたことで、生野城砦にいた山名時熈は、かねがね尊敬していた黒川村大明寺の月庵和尚の墓に参って、新しく香華を供えたと伝えられている。山城跡は“御主殿”とも“古城山”とも呼ばれ、その雄大な姿は生野小学校校歌にも取り入れて歌われ、生野銀山発祥の地として郷土史に輝いているのです。

生野平城

生野にはもうひとつ、生野平城といって平地に築かれた城がありました。これについても「銀山旧記」に書いてあるのを見ると、但馬守護の山名祐豊が天文十一年(1542)二月に築いたものと伝えられ、城の構えは掻き上げ掘に石垣をめぐらし、内堀もつくられている。そしてこれに三階の天守閣をつくり、隅々には矢倉(櫓)をつけたとあり、相当立派な城であったと思われます。

この平城の「追手(表口)」は、その当時二本の柳の木があった北国町であり、「搦め手(裏口)」は井口です。現在の町で見ると、追手に当たるところは生野小学校校庭の端あたりで、搦め手の井口というのは口銀谷の五区鉱業所社宅のある付近を指すように考えられます。そして、侍屋敷、町々の家屋、寺社もあって栄えたと書かれている。この区域をまとめてみると、生野小学校校庭の「生野義挙趾碑」あたりから南、生野郵便局あたりの間が城の内であったことになります。

この平城は敵にそなえて造られたものでありますが、それと同時に生野銀山を確保するための重要な目的を持っていた。そこで城塞というより「鉱政庁」といった方がよいくらいで、軍兵などは置かず、鉱山の経営に重点を置いて、侍たちがその役務を果たしており、城の本陣という館で山名祐豊が監督し指図していたといわれます。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ

↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。

丹後国分寺跡と丹後国府推定地

古代丹波

かつては丹波(たにわ)が丹波・但馬・丹後に分立するまで丹波の中心は日本海に面した丹後半島地域だった。水稲稲作が人口拡大を進めるまでは、人びとは海上ルートを利用して交易をしながら、安全な丘陵や谷あいに集団で暮らし始めた。丹後に日本海側最大の巨大な三大前方後円墳などが多く造られた背景は何だったのだろう。

記紀は、実際の初代天皇といわれている崇神天皇と皇子の垂仁天皇と四道将軍の派遣、丹後からの妃の婚姻関係や天日槍と但馬、出雲大社建設など日本海とのかかわりで占めるように記されている。

古墳時代には竹野川流域を中心に繁栄しており、独自の王国が存在したとする説もある。弥栄町丹波という地名が残る。7世紀に令制国として丹波国が成立したときは、丹波郡(後の中郡)がその中心地であった説もある。

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、丹後国が置かれた。

丹波から丹後へ降格?

丹波国が令制国として成立した当初には、丹波郡・丹波郷を有して丹波国の中心であったとみられる北部の地域が丹波国として残されず、逆に丹後国として分離されてしまったのは、丹波国の中心が北部の丹波郡から、より都に近い丹波国南部(丹後分国後の丹波国の地域)へと移動していたためと考えられている。南部の桑田郡(亀岡)は国分寺・国分尼寺が建立され、奈良時代には丹波国の中心地となっていたことが知られる。

また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備を備前、備中、備後とするような分割)とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる
籠神社(与佐宮)が元伊勢といわれるように、元丹波なのだが、そういう国名は例がなく、朝廷からの位置関係で分割された場合は吉備のように前・中・後とつけられているのに習ったのだろう。
い。

丹後国府

国府は、和名類聚抄および拾芥抄では、加佐郡。現在の舞鶴市内と思われる。
ただし、「易林本」の節用集では、与謝郡とある。現在の宮津市府中と推定される。
和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。
承平年間 (931年 – 938年) 、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。
拾芥抄(しゅうがいしょう)は、中世日本にて出された類書(百科事典)。
今日では鎌倉時代中期には原型が成立し、暦応年間に洞院公賢がそれを増補・校訂したと考えられている。
「節用集」(せつようしゅう)とは、室町時代に成立した国語辞書の名称で、当時の書き言葉を語頭のイロハ順に分け、天地・時節・草木・人倫など12前後の意義部門別に多少の注記をほどこして示すのが特徴である。江戸時代に流布した節用集の基となったのが、『節用集(易林本)』である。易林本とは西本願寺の平井休与易林(号は夢梅)が編集したので、多くの節用集の中で特異な存在で区別するために呼ばれる通称である。

  

地元の但馬国府が何かの事情で三度ほど同じ気多郡の近隣地に移転したことが分かっており、一説には出石(はかざ)もその前には国府ではなかったかという節もある。同様に丹後国府も天災等で加佐郡から与謝郡の現在地に移転したことは不思議はない。しかし、加佐郡からいまだに国府跡・国分寺跡と思われる遺跡が見つかっていないので分からないが、平安時代より前の奈良時代の律令制が制定されたころから、山陰道の丹後への支道が与謝郡加悦から籠神社へ通じていたようだし、加佐郡は七道から外れている。宮津市国分・府中という地名からも、記録的に和名類聚抄および拾芥抄が「易林本」の節用集よりも古いといえ、奈良時代に宮津に国府・国分寺が置かれていたのは間違いない。平安時代には国府が何かの事情で加佐郡に移った可能性があるが、以降の鎌倉時代中期からの記録では与謝郡となっているから、丹後の位置からも、丹後支道に入っていないし、都からの交通の利便からいっても、丹後の東端にあたる加佐郡(舞鶴)よりも、中央の与謝郡に国府・国分寺を置いた方が自然だ。


ふるさとミュージアム丹後(京都府立丹後郷土資料館)
京都府宮津市字国分小字天王山 611-1

丹後・丹波の歴史や文化の展示を行っている。1970年に創設された丹後で最も伝統ある資料館。考古展示・歴史展示・民俗展示に分かれている。

宮津湾に面して天橋立の西側に阿蘇海という内海が広がる絶好の景色を見下ろす丘に位置する。寺跡には、寺域全域、金堂、筆跡、礎石が残るのみであるが、しかし、国分寺はのち荒れるにまかせられ、創建当時の様子を知る資料は、軒瓦が二点残されているだけであり、礎石などものちの再建時に移動されており、寺域などほとんど分かっていないのが実情である。現在の史跡は、天平国分寺跡ではなく、鎌倉時代に再建された建武国分寺跡だそうです。


国宝「天橋立図」 雪舟等楊 室町時代(16世紀) 京都国立博物館所蔵

画面に作者を明示するような落款・印章の類はないものの、全体の筆法や構図、図中に書き込まれた地名の文字の書体などから、雪舟(1420~1506頃)筆とみなされている作品である。
図にはほぼ中央に天橋立の白砂青松と智恩寺が表され、その上方に阿蘇海をはさんで寺社の林立する府中の町並み、さらにその背後には巨大な山塊と成相寺の伽藍が配されている。一方、橋立の下方には宮津湾がひろがり、またそれを囲むように栗田(くんだ)半島の山並みがその下端になだらかに横たわっている。広大な空間を感じさせる、開放感たっぷりの構成である。
この図が実際の景観に基づいて描かれているのは確かだが、実景そのままを絵画化したというものではなく、成相寺の建つ山を極端に屹立(きつりつ)させてみたり、府中の町並みを横に引き伸ばすなどの変更が見て取れる。またかなり高い位置から橋立とその周辺を捉えているが、このように見える場所も実際は存在しない。近年の指摘によれば、こうした実景との違いは、雪舟が中国画の学習で培った山水画の画面構成法をもとにして実景部分を再構成したためであるという。とくにこの図の俯瞰(ふかん)的な構成法は、おそらく中国の景勝地を描いた西湖図などのそれを強く意識した結果なのであろう。
筆遣いはいたって荒々しく、まさに一気呵成に仕上げた感があるが、かえってそれが図に独特の躍動感、力強さをもたらしている。寸法の違う21枚もの小紙を不規則に貼り合わせた紙に描かれていることや、描き直しの跡が認められることなどからみて、本来は完成画(本絵)ではなく、下絵であった可能性が高い。もしかすると、すでにみた荒々しい筆さばきもそのあたりに原因があるのかもしれない。(京都国立博物館所蔵)


旧永島家住宅

旧永島家住宅は、京丹後市丹後町徳光にあった農家の母屋で、天保11年(1840)に建てられました。永島家は、江戸時代に宮津藩の大庄屋を務めました。
この建物は、丹後地方の民家の特徴である「平入り広間型三間取り」が「整型四間取り」へ変化した初期の建物です。
屋根が茅葺きで、室内の天井は鉄砲梁など大庄屋らしく整えられています。
(ふるさとミュージアム丹後)

人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
↑ それぞれクリックして応援していただけると嬉しいです。↓ブログ気持ち玉もよろしく。

2 生野義挙への動き

生野義挙(生野の変)への前夜

文久3年(1863年)8月、吉村寅太郎、松本奎堂、藤本鉄石ら尊攘派浪士の天誅組は孝明天皇の大和行幸の魁たらんと欲し、前侍従中山忠光を擁して大和国へ入り、8月17日に五条代官所を襲撃して挙兵した。代官所を占拠した天誅組は「御政府」を称して、五条天領を天朝直轄地と定めた(天誅組の変)。
また、この義挙は大和で挙兵した天誅組に呼応してのものだったが、ともに天領であり代官所の占拠といい、山間部での挙兵といい、ともに共通するところが多い。

その直後の8月18日、政局は一変する。会津藩と薩摩藩が結んで孝明天皇を動かし、大和行幸の延期と長州藩の御門警護を解任してしまう(八月十八日の政変)。情勢が不利になった長州藩は京都を退去し、三条実美ら攘夷派公卿7人も追放された(七卿落ち)。

そのころ三田尻の招賢閣に、筑前の平野国臣と但馬の北垣晋太郎(但馬の青谿書院出身)が逗留し、但馬義兵を呼びかけていた。長州藩は自重したが、河上弥市(南八郎)は奇兵隊第2代総監の職を投げ打ち、隊士13人を引き連れて但馬へ向った(長州藩内の内紛である教法寺事件の責任のため、奇兵隊初代総監の高杉晋作は謹慎中であった。同じ大組士の家に生まれた河上は高杉の幼少のころからの親友であった)。

変事を知らない平野は19日に五条に到着して、天誅組首脳と会って意気投合するが、その直後に京で政局が一変してしまったことを知る。平野は巻き返しを図るべく大和国を去った。

8月19日に七卿と同じく京を落ちた美玉三平は、21日に但馬に入り、本多素行と会い、養父市場で止宿した。翌日能座村建屋(たきのや)の北垣晋太郎に会い、23日に湯島の鯰江伝左衛門方に止宿。このとき初めて天誅組の大和挙兵を知らされる。

8月24日 平野國臣、新撰組に襲われる。
五條から帰京した平野は木屋町の山中成太郎宅を仮住まいにしていたが、ここを新撰組に踏み込まれていた。幸い留守であったのでこの時は難を逃れたが、24日には三条木屋町の古東領左衛門宅にいるところを襲撃された。このとき古東が平野を逃がし、自ら縛に就いた。

8月26日、新撰組から難を逃れた平野は、阿波の浪士長曽我部太七郎を伴って、但馬に向かった。

9月1日、京に入った北垣晋太郎(国道 のちの京都府知事)は、長州藩士野村和作、因州の有志らと会見する。そのときに野村から天誅組に呼応し、生野で挙兵の提唱をされる。

9月2日 但馬入りをした平野はまず、能座村の北垣晋太郎を訪ねるが、北垣は上京のために不在であった。その日はここで泊まることとし、翌日、円山川を下り、湯島(今の城崎温泉)の旅館三木屋片岡平八郎方で止宿した。

なぜ但馬生野で挙兵したのか

こういう状況下で農兵組立を画策、実現の運動を進めていたのが、養父郡高田村の大庄屋中島太郎兵衛、弟の黒田与一郎、建屋村(養父市)の北垣晋太郎(後の国道)、膳所藩浪士で養父市場明暗寺出張僧の本多素行らであった。しかし、この計画は容易に具体化されなかった。

生野天領では豪農の北垣晋太郎が農兵を募って海防にあたるべしとする「農兵論」を唱え、生野代官の川上猪太郎がこの動きに好意的なこともあって、攘夷の気風が強かった。薩摩脱藩の美玉三平(寺田屋事件で逃亡)は北垣と連携し、農兵の組織化を図っていた。

なぜ生野において挙兵されたかであるが、上記の農兵の存在の他に銀山による幕府の経済要所の占領、京からも近く、山間部でしかも代官所は周囲を高い塀で囲まれ、銀山町周囲には播磨口、但馬口など7つの番所が配置されており、ある種、砦のような様相であり、天領を浪士に占拠される幕府の精神的ダメージと、諸藩への倒幕の起爆剤としての働きかけが期待された。

第一回農兵組立て会議

9月5日、養父明神別当所普賢寺(今の社務所)において、第一回目の農兵組立て会議が行われた。この会議の場所が普賢寺となったのは養父市場に居住し、代官とも交流のあった本多素行がこの農兵組立ての発起人の一人だったからである。美玉、北垣らの画策が功を奏し、生野代官も農兵に賛同したため、代官所からは小川愛之助、木村松三郎が出席した。

また、会議には生野代官の呼びかけにより支配村の代表的な豪農や村役人24,5名が集まった。この会議では各村に2,3名の農兵周旋方が指名された。中には百姓に武芸の稽古をさせたところで何の役にもたたず、百姓の気性を荒立て、また、農業の妨げになるだけなどといった反対意見も出ていたが、当会議を前に生野代官川上猪太郎は農兵周旋方を有力な百姓に命じていたために、会議は一応のまとまりを見せる形となっていた。また、この会議が行われた日に美玉三平は湯島に平野が来ていることを知った。

一方、京にいる北垣はこの日、長州の野村和作と会見し、「但馬の国は1年かけて農兵を訓練し、兵器を備え、明年秋ごろに隣国の有志と気脈を通じて挙兵すれば、近畿、中国を動かすことが出来る。この機に長州も大挙を発せられれば事は成就する。大和の天誅組は一時、楠公の赤阪城退去の例に習ってもらうのが得策である。」と京へ向かう前に美玉や但馬の同志と話あった意見を述べたが、これに対して野村は「久坂(玄瑞)、寺島(忠三郎)も兵庫から潜行して(七卿落ちから別れて)、今京に来ている。君が告げる意見書も同志らと拝見した。実に得策とは思うが、今日の勢は1日も早く大和の義挙を助けないといけない。長州人や諸藩の同志も行って、兵器なども供給して便宜をはかりたい。」と意見した。また、「平野國臣はその為に但馬に向かったので、あなたも急いで但馬に帰り、平野を助けて、大和の応援を謀ってくれ。」と告げられている。

美玉三平、平野國臣と会見する

美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月8日 美玉三平、平野國臣と会見する。美玉は6日から7日にかけて高田村の中島太郎兵衛宅で平野の来訪を待っていたが、平野は現れず8日は中島宅が銀山役人の宿所となるため、田路彦衛門方に泊まり、平野を待つことにした。美玉の日記「渓間日乗」にはこう記されている。「昼飯も過ぎたる彦右衛門迎ひに参れり。(中略)夜入前 美肴を出したるは余り快からず。以後右の如くなるを戒む、飯を喫し過ぎたるに國臣来たれり、又、酒肴を出して夜半まで談じ 國臣も大いに欣びたり。(大略)大和五条の話を聞けり。」とある。

翌日には中島宅に移り、農兵組立てについて考察した。
9月11日 美玉、平野養父明神に参拝する。
8日に美玉と再開した平野は、農兵組立てについて談義し、10日には湯島に帰るはずであった幕吏が彼の止宿先でもある三木屋にまで探索に来ているとのことで、養父市場に留まることになった。11日には養父神社で祭礼があり、身辺は決して安全とはいえないが、平野は美玉、本多らと正午ごろに参拝に出かけ、二時ごろから境内で行われた相撲を観戦したという。

9月13日 北垣晋太郎、但馬に戻る。
この日は第二回目の農兵組立て会議が行われる予定であったが、京より北垣が帰り竹田町の太田六衛門方に来ていたので、急遽会議は取りやめにし、平野、美玉、本多、中島が集まり、京の情勢の徴収をした。北垣は長州の野村和作が説いた大和義挙に呼応して兵を挙げることの必要を語った。

第二回農兵組立て会議

9月19日、13日に予定されていた2回目の農兵組立て会議が、高田村の中島太郎兵衛宅で行われた。前回と同じく、生野代官所役人も参加し、今回において農兵組立ての意見はまとまり、会議は解散となった。表向きはそうみせかけ、役人が帰ったあと、用意されていた中島宅の別室でいよいよ挙兵の決行策を協議し、この会議には平野も参加した。農兵召集に関しては表向きの会議に代官所側が出席していたので問題はないであろう。会議の結果、10月10日を期して長州にいる七卿の一人を大将として、生野にて挙兵することに決まった。

平野は長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、生野での挙兵を計画。但馬に入った平野らは9月19日に豪農中島太郎兵衛の家で同志と会合を開き、10月10日をもって挙兵と定め、平野は未だ大和で戦っている天誅組と呼応すべく画策。但馬国の志士北垣晋太郎(のち国道・京都府3代知事・のち内務次官、北海道庁長官)と連携して、生野天領での挙兵を計画した。さてここで、いよいよ生野で倒幕の兵を挙げる事となる。

生野義挙への動き

9月20日 会議の翌日、早速平野は長州にいる七卿の中から一人を総帥として迎えるため、長州に向かう。26日に広島に着き、後発の北垣晋太郎と合流し三田尻に向かった。
9月27日 吉村寅太郎戦死。
大和の東吉野村で戦っていた天誅組は、24日土佐の那須信吾ら6人の決死隊が彦根藩の陣に切込みを駆けるうちに、主将中山忠光は鷲家口を脱出、天誅組三総裁の藤本鉄石、松本奎堂は25日紀州藩勢との戦いにより戦死、吉村寅太郎は27日に藤堂藩勢40人の銃手に囲まれて銃殺され、事実上天誅組は壊滅した。

[catlist ID = 35] 参考資料
【但馬史研究 第20号 H9.3】「生野義挙の中枢 平野国臣」池谷 春雄氏
幕末史蹟研究会
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』