神子畑選鉱場跡とムーセ旧居

[catlist categorypage=”yes”] 兵庫県朝来市佐嚢(神子畑)

東洋一の生産高を誇った 神子畑選鉱場跡 800年頃に鉱山として開拓された神子畑は15世紀頃から採鉱が盛んになり、その後、明治政府の管理から一時は皇室財産として宮内省の管轄にもなりました。


明治29(1896)年に三菱へ払い下げられ、大正8(1919)年には大規模な選鉱場が建設されました。

山を隔て6キロメートル離れた明延鉱山(養父市大屋町)から運ばれてきた鉱石をその比重や浮力を利用して亜鉛、銅、錫に選鉱。
東洋一の生産高を誇りました。
山の斜面を活かした巨大な建物がありましたが、現在は一部取り壊されています。

明治時代は神子畑鉱山として栄えていたが、枯渇により採掘は明延鉱山に移り、選鉱所だけが残った。明延からは明神電車(通称、一円電車)で鉱石が搬送された。神子畑から生野までは、初期は馬車道、その後は馬車鉄道・電気鉄道・トラックなどで精鉱が輸送された。

神子畑選鉱所は、明延鉱山で採掘された鉱石を選り分けたのち、生野製錬所へ送る役割を担っていました。明延鉱山からは、明神電車(通称、一円電車)という軌道で鉱石が搬送されていました。
生野鉱山にあった明治期の洋館「ムーセ旧居」(県指定文化財)も、選鉱設備の近くに移築されました。

ムーセ旧居

日曜なのに閉館で入ることはできなかった。

ムーセ旧居は、明治4年12月ごろから翌年以降にかけて生野鉱山に建設されたであろう五棟の外国人宿舎のひとつであり、そのうちの一番館(二階建て)と二番館(平屋建て)は、生野鉱山から少し離れた白口にあったものである。後に神子畑に移築されたのが二番館であり、現在のムーセ旧居である。

鉱山開発に携わったフランス人技師たちのうち、ムーセやコワニエたち幹部妻帯者の居住宿舎として使用されていたとのことである。

神子畑鉱山の開発にともない、明治20年にこの地に移設され、事務舎、診療所として利用され、これまで、ムーセ旧居の名称で親しまれてきた。平成4年に県指定重要有形文化財(建築物)の登録を受けた。

その後、建物の老朽化が進み、また国道429号バイパス計画により、県補助を受け当初位置より北西側に移築復元したものである。

コロニアルスタイル(植民地様式)と呼ばれる特徴を持ち、七間四方の四周には、ベランダをめぐらし、外壁の四隅には石を積み上げたように見せるコーナー・ストーンの技法が使われている。

今回の修復では、神子畑に移設後のスタイルに復元したが、付属の管理棟は、生野鉱山時代の写真を元に復元整備をしたものである。

暖炉が発見された炉石を元に、3箇所を復元したが、暖炉飾りには明治時代後半の神戸の異人館の形状を参考にして復元整備をしたところである。

設計者は、明治政府が招聘したお雇い外国人技師のJ・レスカスであったという記録も残っており、明治初年の建築文化を知る上で貴重な遺産となっている。

なお、建築年度は、明治5年頃とされているが、コワニエの来日、生野鉱山入りが慶応4年、ムーセの生野鉱山入りが明治4年12月であり、生野町の西福寺、金蔵寺に入居し生活をしていたが、より快適な生活を保障する必要から、明治5年以後の比較的早い時期に建築されたものと思われる。また、屋根瓦に菊花のご紋章があり、明治22年から7年間、宮内省財産(御料局生野支庁)となったことの名残でもある。

いずれにしても、明治初年の建物であり、神戸の異人館等と比較しても、より早い時期に建てられたものであり、その意味からも貴重な建物といえる。

-朝来市-

 

かつての神子畑選鉱場

日本最古の鋳鉄橋 神子畑鋳鉄橋

[catlist categorypage=”yes”] 兵庫県朝来市佐嚢(神子畑)

国指定重要文化財
鋳鉄一連アーチ橋

他に4箇所架けられていたが現存するのは羽淵鋳鉄橋(L=18mの2連のアーチ橋・兵庫県朝来市羽淵)と神子畑鋳鉄橋の2つだけとなっている。 近代の橋梁として初めて1977年6月27日に重要文化財に指定されている。老朽化のため1982年には一年かけて永久保存を目的として修繕が行われた。2007年に近代化産業遺産に認定された。

本橋は、日本に現存している鉄製の橋としては3番目に古い。ただ、最も古い大阪の心斎橋は錬鉄製、東京の弾正橋は鋳鉄と錬鉄の混成であり、全鋳鉄製としては最も古い。橋の近くには駐車場があり、橋や鉱山の説明板も整備されている。近くには、遊歩道もあり橋の上を歩くこともできる。

諸元

施工年 1883年4月-1885年3月
橋長 上流側15.969m、下流側15.997m
最大支間 14.2m
幅員 3.727m
高さ 3.81m
構造形式:鋳鉄製単径間アーチ橋

神社・歴史マップ

これは参拝した但馬・丹後・因幡などのGoogleによる神社マップです。順次更新しています。

天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)は、日本神話に登場する神の分類です。
天津神は高天原にいる、または高天原から天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされています。ただし、高天原から天降ったスサノオの子孫である大国主などは国津神とされています。
国神系(国津神)の御祭神の神社は、式内社のように古社である場合が多いようです。

■ピンのカラー

赤…天孫系(天津神)
青…国神系(国津神)
黄…天日槍系
紫…天津神・国津神合祀と思われる。また自然神や郷村の祖神など区分が不明なもの

より大きな地図で 但馬・丹後の式内社 を表示

神社の格式と但馬国の神社数

「神社人データベース」によると、神社の数は、全国およそ8万8,000社以上に上ると言われ、仏教系寺院よりも数が多く、日本で最も多い文化建造物のひとつとなります。その内、有人神社(神職者が常駐している社)は、2万社程度とも言われておりますが、実態は定かではありません。

文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」に掲載されている各都道府県別の神社の数になり、その数、8万8,585社となりますが、摂社末社を含めれば、20~30万社に上るとも言われ、神社人DBでも、ほぼ登録を終えた東京都(2,309社)や沖縄県(59社)が、それ以上の数に達していることから、約1.3~1.5倍程度のボリュームが実際には見込まれるのではないかと考えています。

ただ、非常に興味深いのが、神社の数の少ない都道府県は、

・和歌山県:熊野神社
・香川県:金刀比羅宮
・三重県:伊勢神宮
・宮崎県:高千穂
・島根県:出雲大社

といった有名な神社が存在する地域に集中しているというのがあります。これは、神社の特性として、勧請システム(他地域に引っ張ってくる)により、信仰エリアの拡大を図っていることから、オリジナルの神社が強いエリアというのは、逆に、他の信仰が入りにくいのではと考えることもできます。それは、神社が多い地域にも同様の事が伺え、新潟県、兵庫県、愛知県、福岡県といった米所として有名な産業地域若しくは、交易の中心地といった文化よりも産業発展が著しい地域の方がその数が多いという傾向を強めております。それは、こうした土地が、人と情報の流動性が激しいことの表れとみることも可能ではないかと考えられるのです。

兵庫県は全国でも神社が多い地域で、新潟県に次いで第二位。
神社数(文化庁文化部宗務課「宗教年鑑」より)

三千社以上は

新潟県 4,933
兵庫県 4,243
愛知県 3,885
福岡県 3,806
岐阜県 3,440
千葉県 3,391
福島県 3,170
静岡県 3,070

の順です。

ただし、神社の数の少ない都道府県として島根県をあげていますが、日本最古の社格と呼ばれる「延喜式神名帳」(延喜年間(901~923)に編纂されたため延喜式と称され、平安期は延喜式神明帳)の式内社では、
大和國:286座 大128小158
出雲国:187座 大2小185
となりますから、やはり島根県は格式の高い神社が多いことになります。

神名帳は、単なる当時の神社総数目録を意味するのではなく、当時、律令制における一機関である神祇官(じんぎかん)が、神社を統括するようになり、彼らが、由緒正しき霊威ある神社を認定するとの趣向で編纂されたものとなります。そのため、ここに掲載されるということは、当時として、非常に格式が高い神社と認められたことになります(この制度を官社制度と言います)。具体的には、この式内社は、大枠2種、官幣(かんぺい)社、国幣(くにべつ)社に分類され、更に、それぞれ大小に区分される計4種の神社に選別されます。

官幣社:朝廷管理(現在で言うところの中央政府管理)
=官幣大社:198社304座/官幣小社 :375社433座
国幣社:各国国司管理(現在で言うところの各都道府県庁管理)
=国幣大社:155社188座/国幣小社:2133社2207座

この場合の大小は、当時の社勢の違いによるものとされておりました。また、官幣社が、中央直轄系となるため、京都を中心とした畿内に集中し、国幣社は、逆に、全て畿外(地方)に指定されています。更には、これら式内社の中から、特にその霊験が著しく高いという意味を込めて、「名神」のタイトルを賜る神社もあり、その全てが大社であったことから、「名神大社」と呼ばれる神社もありました。因に、この時に、「神宮」の称号を付されていたのが、伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮の三社のみであり、こちらもかなり別格扱いされていたということが分かります。ただ、そんな官社制度も律令制が崩壊後、中央の基準から外れることとなり、明治時代に改めて、官幣社/国幣社を用いた社格制度が復活するようになります。しかし、そのタイトルは同じでも、意味は、相当異なるため、こちらの場合には、やはり「式内社」と表記された上で、実際の社格が表示されるなどの違いがあるため、十分な注意が必要です。

「延喜式神名帳」には、全国で大492座、小2640座が指定されています。相甞祭(あいなめさい)の官幣を受ける大社69座は、多い順に大和31、摂津15、山城11、河内8、紀伊4座です。

新甞祭(にいなめさい)の官幣を受ける大社(官幣大社)304座は、京中3、大和128、山城53、摂津26、河内23、伊勢14、紀伊8、近江5、播磨3、阿波2、和泉、伊豆、武蔵、安房、下総、常陸、若狭、丹後、安芸がそれぞれ1座です。大和朝廷の勢力範囲の拡大経過と見ることができるでしょう。

かつての「延喜式神名帳」の旧国別でも、但馬国の式内社数の多さに驚きます。

但馬国は131座(大18小113)が指定されており、全国的にも数では上位に当たり、しかも大の位の神社数が多いのが特徴です。但馬国を旧郡名の朝來(アサコ)郡、養父(ヤブ)郡、出石(イズシ)郡、気多(ケタ)郡、城崎(キノサキ)郡、美含(ミグミ)郡、二方(フタカタ)郡、七美(ヒツミ)郡の8つに分けると、出石郡が9座2社、気多郡は4座4社置かれ、次いで養父郡が3座2社、朝来郡、城崎郡が各1座1社ずつとなっています。

大小合わせて131座というのは、例えば

大和國:286座 大128 小158
伊勢國:253座 大14 小235
出雲国:187座 大2 小185
近江国:155座 大13 小142
※但馬国:131座 大18 小113
越前國:126座 大8 小118

近隣で比べると、

丹波国:71座 大5 小66
丹後國:65座 大7 小58
若狭国:42座 大3 小14
因幡國:50座 大1 小49
播磨国:50座 大7 小43

となっているので遙かに引き離していることがわかります。それは大和朝廷の勢力範囲が強く、但馬が古くから重要視されていたことを示しています。

桜井勉 校補但馬考

朝来(あさご)郡

此地ニ朝來山トイウフ名所アリ、取リテ郡ノ名トセリ、俗ニハ、此郡ニイマス栗鹿ノ神、國中ノ一宮ユヘ、諸ノ神タチ、朝コトニ来タリマミエ玉フ、故に、朝來郡ト名ツケシト云ハ、憶説ナラン、スヘテ、郡郷ノ名ハ、其地名ヲ取テ名ツクルヤ、古(故)実ナリ、

倭名類聚抄 郷八
山口 桑市 伊田 賀都(かつ) 東河(とが) 朝来 栗賀(あわが) 磯部
村数七十九
延喜式神名帳曰九座 大一座、小八座
栗賀神社(名神大) 朝来石部(あさごのいそべ) 刀我石部(とがのいそべ) 兵主神社 赤渕 伊由 倭文(しとり) 足鹿 佐嚢(さな)

養父(やぶ)郡

倭名類聚抄 郷十
糸井 石禾(いさわ) 養父 軽部 大屋 三方 遠屋 養耆(やぎ) 浅間 遠佐(おさ)
延喜式神名帳曰三十座 大三座、小二十七座
夜夫坐(やぶにいます)五座(名神大二座、小三座) 宇留波 水谷(名神大) 浅間 屋岡 伊久刀 楯縫 兵主神社 男坂 伊伎都比古阿流知命神社二座 井上(いのへ)二座 手谷 坂盖(さかき) 保奈麻 葛(たづ) 大輿比 桐原 盈岡(みつおか) 更杵村大兵主神社 御井 名草 杜内 和奈美 夜伎村坐山(やきむらにすの)

出石(いずし)郡

倭名類聚抄 郷七
小坂 安美(あみ) 出石 室野 埴野 高橋 資母
村数七十八

延喜式神名帳曰二十三座 大九座、小十四座
伊豆志座神社八座(並名神大) 御出石神社(名神大) 桐野神社 諸杉神社 須流神社 佐々伎神社 日出神社 須義神社 小野神社 手谷神社 中島神社 大生部兵主神社 阿牟加神社 比遅神社 石部神社 小坂神社

気多(けた)郡

倭名類聚抄 郷八
太多 三方 楽前(ささのくま) 高田 日置 高生(たかふ) 狭沼(さの) 賀陽(かや)
村数七十四(佐野含む)

延喜式神名帳曰二十一座 大四座、小十七座
多麻良伎神社 気多神社 葦田神社 三野神社 売布神社 鷹貫神社 久斗寸兵主神社 日置神社 楯縫神社 井田神社 思徃(おもひやり)神社 御井神社 高負神社 佐久神社 神門(かんと)神社 伊智神社 須谷(藤井)神社 山神社(名神大) 戸(と)神社(名神大) 雷(いかづち)神社(名神大) [木蜀]椒(ほそき)神社(名神大)

城崎郡

倭名類聚抄 郷六
新田10 城崎14(佐野含む) 三江 奈佐 田結 餘部

延喜式神名帳曰二十一座、大一座、小二十座
物部神社 久麻神社 穴目杵(あなめき)神社 女代神社 輿佐伎神社 布久比神社 耳井神社 桃島神社 兵主神社 深坂(ふかさか)神社 兵主神社二座 気比神社 久流比神社 重浪(しぎなみ)神社 縣神社 酒垂神社 西刀(にしと)神社 海神社(名神大)

美含(みぐみ)郡

風土記(古老伝)
郷十三、神社五所
倭名類聚抄 郷六

佐須 竹野(たかの) 香住 美含(みぐみ) 長井 餘部
村数 佐須二十 竹野二十九 香住八 長井十一 餘部二

延喜式神名帳曰十二座 井小
佐受神社 鷹野神社 伊伎佐神社三座
法庭(のりば)神社 美伊神社 椋橋(たらはし)神社
阿故谷神社 桑原神社 色来(いろく)神社 丹生(にふ)神社

二方(ふたがた)郡

倭名類聚抄 郷九 村数五十四
久斗7 二方5 田公(たきみ)7 大庭7 八太(はだ)11 陽口? 刀岐? 熊野? 温泉(ゆ)16

延喜式神名帳曰五座井小
二方神社 大家神社 大歳神社 面沼(めぬ)神社 須加(すか)神社

七美(しつみ)郡

倭名類聚抄 郷五 村数七十三
兎束(うつか)14 七美14 小代20 射添(いそふ)13 駅家12
延喜式神名帳曰十座 井小
多他神社 小代神社二座 志都美神社二座 伊曾布神社 等余(とよ)神社 高坂神社 黒野神社 春木神社

旧城崎郡の式内社めぐり

6時に豊岡市上佐野の雷神社をめざし出発。早朝は涼しく快適です。詳しい説明は丹国拾遺抄(ギャラリー)に神社毎に記すとして、まずは巡った式内社を順番にあげておきます。

気多郡狭沼郷

雷(いかづち)神社 「奧津彦命、奧津姫命、火結神」
名神大 兵庫県豊岡市上佐野稲場542-2

城崎郡城崎郷

深坂(みさか)神社 「寄日方命」 式内社 兵庫県豊岡市三坂字見手山76-1
豊岡藩主京極家御陵地
家老石束家墓地

嘉麻土(かまど)神社 「奥津日子命」 式外社 豊岡市上陰イナバ395-1

奈佐郷(豊岡市五荘地区)

久麻(くま)神社 「熊野忍隅命」 式内社 兵庫県豊岡市大字福田大門196
布久比(ふくひ)神社「岩衝別命」 式内社 兵庫県豊岡市栃江一ノ宮60
九龍神社 式外社 兵庫県豊岡市栃江

城崎郡田結郷大濱庄

小江神社(おえ)「豐玉彦命」式内社 兵庫県豊岡市江野1452
※天然記念物に指定された高さ三十米、目通り四米の大ケヤキがあり、樹齢三〇〇年と推定される。

美含郡竹野郷(豊岡市竹野町)

桑原神社(くわばら)「仁布命」式内社 兵庫県豊岡市竹野町桑野本字稲蔵
※県下一の大イチョウ
桑原神社(くわばら)「稻倉魂神、大己貴命」式内社 兵庫県豊岡市竹野町森本苗原463-1
色来神社(いろく)「國狹槌命」式内社 兵庫県豊岡市竹野町林宮ノ谷1236-1
阿古谷神社・森神社「大山祇命、八幡大神」式内社 兵庫県豊岡市竹野町轟字轟356-1
鷹野神社(たかの)「武甕槌神 配 天穗日命、天滿大自在天神 合 須佐之男命、建御雷命、伊波比主命、五男三女神」式内社 
兵庫県豊岡市竹野町竹野馬場町84-1

城崎郡田結郷気比庄

西刀神社(せと)「西刀宿袮」式内社 兵庫県豊岡市瀬戸字岡746
桃島神社(ももしま)「大加牟豆美命」式内社 兵庫県豊岡市城崎町桃島宮脇1339-1

城崎郡田結郷灘

久流比神社(くるひ)「闇御津羽神」式内社 兵庫県豊岡市城崎町来日ロ587-2

以上13社

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旧豊岡藩主京極家家廟・石束家墓地

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豊岡市三坂字宝林谷


「大石りく生家 石束(いしづか)家墓地」案内表示

ガード下と市道北に2カ所立てられているが、車ではガードをくぐってすぐ右折すると線路側にかなりのスペースで停められる。但し私有地なのか知らないのでしばらく勝手に停めさえてもらった。ただし、石束(いしづか)家は、豊田町の豊岡陣屋の武家屋敷にあったので、大石りく生家というのが意味が不明だ。


豊岡藩の陣屋移築門  京極家廟


旧豊岡藩主京極家廟・墓地


京極家累代の墓

 

豊岡といえば赤穂浪士大石内蔵助妻大石りくの生誕地としても有名だ。
式内社深坂神社をたずねるついでに、豊岡藩主京極家墓地と豊岡藩主京極家墓地を訪れた。ここにかつては京極家菩提寺の瑞泰寺(廃寺)が建てられていたことと京極家と 石束家墓地があることは、歴史好きの私でさえ初めて来たぐらいで、地元の人でもあまり知られていない。

理玖は豊岡城(神武山)東麓の豊岡市京町にあった石束家の屋敷で生まれたのではないかとされている。三坂町は真反対だ。現在、京町の約50メートル南側に「大石陸女生誕之地」の碑が建立されています。当時は城山(神武山)のふもとに陣屋、それをとりまくように家老級の屋敷があり、東側の広い範囲を石束本家が占めていました。

「豊岡市観光協会」参考文献: 瀬戸谷晧著 『忠臣蔵を生きた女―内蔵助の妻理玖とその周辺』 北星社 2005年

略史(ウィキペディア)

寛文8年(1668年)丹後国田辺藩(舞鶴)より京極高盛が3万5千石にて転封となった。この際、京極氏は城主大名から無城大名に降格となった。陣屋の建設にあたり幕府より金2千両が与えられた。

4代高寛は享保11年(1726年)僅か10歳で没した。このため6歳の弟高永が1万5千石に減封の上、家名相続を許された。減封に伴い藩士を大幅に除籍し、また残った藩士の禄も削減した。また、享保12年(1727年)には江戸藩邸が全焼する不幸にも見舞われた。高永は藩政を立て直すべく、勝手方に倉持左膳を起用し藩政改革に当たらせた。彼の政策に反対した筆頭家老石束源五右衛門が藩を去るという事件が起きた。

次の6代藩主高品の代になっても藩主・改革派と守旧派の確執が続き、重臣の脱藩や永蟄居などが相次いだ。

7代高有は文政6年(1823年)藩営の産物会所を開設し柳行李流通の独占を図り財政の再建に努めた。しかし、文政8年(1825年)には豊岡町民による産物会所や金銀売買商屋敷の打ち壊しに遭っている。

8代高行は天保4年(1833年)藩校「稽古堂」を開いた。

明治4年(1871年)廃藩置県により豊岡県となる。その後、兵庫県に編入された。 豊岡藩主家は明治17年(1884年)子爵となり、華族に列した。

  

京極家家廟                     京極家家紋

なお、京極家筆頭家老の石束家より元禄赤穂事件で著名な大石良雄(内蔵助)の妻・理玖(りく)が出ており、討ち入り前夜、豊岡へ返された。なお、その後の理玖は三男大三郎の広島藩仕官に伴い広島に移り、そこで余生を送った。のち、石束家も5代藩主・高永の時代に上記の通り藩政改革に反対し藩を去っている。

明治維新の後、東京の藩主家11代当主である高光(9代高厚の孫)は杞陽の号を持つ俳人として昭和期に活躍した。

現在の豊岡藩主家の当主は12代目(京極高知から数えて15代目、丹後田辺藩初代藩主高三から数えて14代目)の高晴であり、2009年6月15日に靖国神社宮司に就任した。

京極家墓所

  

  

石束家墓地

京極家墓所から少し登ると石束家ほか立派な墓が並んでいる。

  

理玖の遺髪塚
豊岡市日撫(香林会館敷地内)

父毎公(つねとも)は宝永6年(1709)ころに職を退くとともに日撫(ひなど)の正福寺に居住するようになり、理玖と子どもたちも広島に移るまでの4年間、一緒に住んだのではとされています。

大石内蔵助 りく 次男 祖錬元快禅師 大石吉之進墓地
豊岡市三坂町大門山墓地 旧興国寺

二方郡から消えた三郷

[wc_skillbar title=”二方郡から消えた三郷” percentage=”100″ color=”#007bbb”] [catlist id=588] 延喜式神名帳に、二方郡は五座(小)で、温泉郷は二方郡(新温泉町)だが、元の浜坂町に二方神社(指杭)、大家神社(二日市)、大歳神社(居組)の三座で、旧温泉町(温泉郷)の式内社は竹田の面沼(めぬま・メヌ)神社・宮脇の須賀神社の二座であり鳥取県境に近い。七美郡式内社春木神社に列しているので、太古、春来は七美郡射添郷であったのだろうが中古に温泉郷となっている。

校補但馬考に、此の郡(二方郡)は、上古に一国なり。公事本紀曰く二方造(ふたかたのみやつこ)、志賀高穴穂朝(しがのたかあなのみかど)ノ御世、出雲国造ノ同租 遷狛一奴命ノ孫 美尼布命(みちふのみこと)を国造に定め賜うとあり。その後一郡として、但馬に合わせられしは、何時にかありけん。古書に見えず。

倭名類聚抄に載る郷は、久斗、二方、田公、大庭、八太、陽口、刀岐、熊野、温泉(ゆ)、以上九村、村数五十四。

久斗郷 二方郷 田公郷 大庭郷 八太郷 熊野郷 温泉(ゆ)郷の七郷で、八太郷は荘園で八太庄、今は畑と一字に書いたとあるが固定している。八田小学校がある岸田側上流地区だ。宮脇に式内社の須賀神社がある。

熊野郷は不明だと記され、陽口、刀岐の二郷は、倭妙抄に和訓なし。その地も考えがたし。故に論せず。惣じて此の郡中諸郷の土地、その村入り交じりて正しからず。古代の境を失なえるに似たり、とある。

八太郷は今の十一村。井土、千原、鐘尾、千谷、宮脇、内山、越坂、海上、前村、石橋、岸田。

温泉(ゆ・ゆせん)郷は、今の十六村。湯村、熊谷、伊角、檜尾、春木、哥長、柤岡、細田、多子、塩山、中辻、丹土、切畑、飯野、相岡。と記す。

田公郷は中世期、八木氏から分かれた日下部一族田公氏の修理太夫家が地頭長井出羽入道祐収めた領地。今の村数七。栃谷、七釜、古市、新市、用土、今岡、金屋。

久斗郷、二方郷、田公郷、大庭郷は旧浜坂町内と分かる。その次に八太、陽口、刀岐、熊野、温泉と記されているから、八太郷は旧温泉町の西端、温泉(ゆ)郷は東端だから、倭名類聚抄では八太に続いて陽口、刀岐、熊野で温泉で終わるから、故意に順番を間違えたとは考えにくく、他の旧浜坂町内は余地がないから、八太郷と温泉(ゆ)郷の中間でなければおかしいことになる。

湯村のすぐ北の細田までが温泉郷。八太郷の井土は岸田川が北へ流れを変える今の竹田のすぐ北で、井土、千原、鐘尾と順に記され、現在もその地名が残る。井土のすぐ隣は田公郷金屋である。この狭い領域に消えた熊野郷や、しかも陽口、刀岐、熊野の三郷の余地はない。陽口、刀岐、熊野の三郷はどこに消えてしまったのだろう。

他にないかと捜してみた。二方、七美郡の郷は久斗7、二方7、田公、大庭が各7、村数が多いのは、二方郡温泉郷16、春木峠を越えて七美郡西部の郷では、射添郷13、小代郷20だが、倭名類聚抄には、陽口、刀岐、熊野の三郷は二方郡となっているので、山陰道の難所の一つである春来峠を越えた七美郡ではまずないだろう。

春来峠から湯村温泉の式内社


式内社 面沼神社 新温泉町竹田
旧八太郷社
二方郡総社だった古社
面沼は「めぬま神社」だが延喜式神名帳には「面沼メヌ」とふってある。

御祭神 倉稻魂命 美尼布命 天穗日命
配祀 保食命 稚産靈命
合祀 天神地祇 伊弉諾命 伊弉册命 素盞嗚

国道9号と岸田川を浜坂へ行く県道47号線交差点北。車で行くには旧道へ。

玄松子さんによれば、
鎮座地の字は、米持(めじ)といい、
当社の鎮座する山麓の丘は面治山と呼ばれており、米持大明神とも、面治(めじ)大明神とも称していた。
しかしながら、延喜式に「面沼」と誤記された結果明治三年六月に、面沼神社と改称したらしい。

  
雪深い温泉町の拝殿・本殿は老朽化が激しいこともあるのだろう。覆屋で包まれているのが特徴。


八幡神社 新温泉町湯

全但バス湯村営業所の道を挟んだ反対側。井筒屋さんの前といった方が分かりやすいかも。


拝殿

国道9号を鳥取方面へゆく。大きな峠が数カ所あるが、なかでも春来峠は最大の難所のひとつで、昭和50年12月にバイパストンネル(春来トンネル:全長1,696m)ができるまでは、村岡町和田から丸味・春来峠を越えて湯村温泉に通じる山陰と山陰と山陽・京阪神をつなぐ国道9号の峠として、日に4000台の車が越えたと言われる兵庫県を代表する峠の一つだった。子ども時代にバスに乗ってこの峠を越え標高さのあるくねくねとカーブの続く坂道を通った記憶があるが、何十年ぶりに今回は新温泉町歌長(湯谷)から春来の神社を訪ねるために通ってみた。国道だった二車線道路は現在は兵庫県道561号湯谷和田線となっている。

柤岡へつながる道が県道上にほぼ平行に走る。車ではそば屋さん「てっぺん」のあるところから入る。県道入口から「てっぺん」という案内板があちこちにあるので目印になる。


町営春来バス停と春来集落の中心部


五社大明神(春木神社)

春来小学校脇に参道があった。春来小学校は平成22年閉校。
さて、春木神社という名称はなくなり、「五社大明神」と呼ばれていてる。ここではないかと思ったが、年の為に畑仕事から帰りのような通りかかった地元のご老人に聞いたところ、春来の神社はここだけで、子どもの頃から五社大明神と呼んでいたといわれた。
五社とは祭神 天照皇大神、伊弉諾命、伊弉册命、大己貴命、少彦名命のことである。一説に「波比岐命、天穂日命」との説がある。


参道

五社大明神は、春来地区の柤岡へつながる道から石段が続く最高部に鎮座する。


社殿 日中は明るいが境内は木々に囲まれてうす暗い。でどうしても逆光になってしまう。

湯村温泉の中心部を流れ岸田川に合流する春来川は、この春来字湯谷を発する。春来から尾根伝いに柤岡(けびおか)へ、また村岡側の隣の丸味から柤岡へ道(県道265)がつながる。照来(てらぎ)は照来小学校や郵便局などがあり高原地帯で集落も多く、太古は山陰道ではなかったかと思われる。春来神社以外に式内社はないので照来地区の信仰も集めていたのであろう。


春来峠頂上付近 標高:431m

子ども時代に観光バスに乗ってこの峠を越えた記憶はこの辺りだと思う。くねくねと狭いカーブを幾重にも登っていくのが、すごく印象に残っている。


丸味集落の下から村岡方面

和田線は右にカーブしているが、長楽寺・但馬大仏への新しい立派な橋がかかっている方から帰る。ここから先は大仏が完成した時に来たことがある。


長楽寺 但馬大仏

神社の詳細は、「丹国拾遺集」にまとめることにする。

【地名地誌】 幻の地名 気多郡手邊(テナベ・タナベ・テヘン)

気多郡手邊(辺・てなべ・たなべ)

兵庫県豊岡市日高町の府市場・府中新の辺りは、府市場の人に聞くと、昭和30年代までは手辺(てへん)と言っていたそうだ。手辺は現在のどこに当たるのか?

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