1. 渡来人は日本を征服したのか?

天孫降臨の謎: 『日本書紀』が封印した真実の歴史 著者: 関裕二

めざましい科学の進歩によって、現代の日本列島の住民の遺伝子のなかに、想像以上に渡来系の血が混じっていることが徐々に明らかにされている。その比率は、縄文人を1とすると、弥生時代以降に渡来した人たちは2~3に上っていたと考えれている。この数字を見れば、渡来人が先住民を圧倒したと考えるのは当然である。

そして第二に、『古事記』や『日本書紀』に記された天孫降臨神話が、大きな意味を持っているように思われる。天孫降臨からカムヤマトイワレヒコ(神日本磐余彦=神武天皇)の東征というヤマト建国に至る神話は、まさに、「海外からの侵略」を想像させるからである。

ところで、小山修三氏は遺跡の数などから先史時代の人口を試算し、縄文後期の日本列島全体の縄文人が16万3百であり、晩期に75,800に激減したこと、しかも弥生時代になると59万4900と爆発的に増加したことを指摘している。このこともあって、渡来人が土着の縄文人を駆逐したと信じられてきたわけである。
たしかに、単純にこの数字を追っていけば、縄文人は弥生時代の到来とともに、「滅亡」に近いほどの打撃を受けたかのように思えてくる。それを征服と呼ぶのも間違っていないかのようだ。しかし、ここには落とし穴があると思われる。

はたして渡来人は日本を征服したのか?

縄文晩期から弥生時代にかけて、縄文人と渡来人の接点では、しばしば縄文人による呪術的な土器が生産されている。魔よけのまじないをしていたようだ。では、彼らは何を恐れていたのだろう。

渡来人が恐ろしかったことが一つ考えられる。それは、渡来人の武力に対する恐怖だったのだろうか。しかし、武力には目に見える恐ろしさである。それには矢じりなどを作れば良かったはずである。縄文人が恐れたのは、目に見えない「なにか」であり、その正体は「病魔」ではなかろうか。

島国のなかで無菌状態のなかにあった縄文社会に、突如新たな病原菌やウイルスが持ち込まれ、抵抗力のない人々が次々に倒れていった……それが縄文晩期から弥生初期の日本列島の姿ではなかったか。
古代人は悪霊が病気を運んでくると信じていた。渡来人の到来とともに、病魔が襲ってきたのである。縄文人たちは必至に悪霊を退散させようと呪術を施したに違いないのである。ただ、病原菌やウイルスは宿主を全滅させることはない。病魔に屈しなかった人々は、ここから活発に動き出し、人口はふたたび回復基調に戻るのである。また、縄文後期の日本列島は寒冷化の時期に当たり、食糧不足も手伝っていたであろう。これに対し、弥生時代の日本列島は温暖な気候に恵まれていたのである。

崎山理氏は、縄文人といっても単一の民族ではなく、北方系のツングース語に、南方系のオーストロネシア語が日本列島のなかで重なって「縄文語」が成立し、これが日本語になった、というのである。縄文期と弥生期の遺伝子の比率を見れば、渡来人の圧倒的な優位を想像しがちだが、渡来人たちは徐々に同化していったのであり、だからこそ、縄文人のつくり上げた「日本語」は、今日に継承されていったと考えられるわけである。
『日本書紀』のなかで「神武東征」と華々しく描かれたヤマト建国も、実際には征服劇ではなかったことは、考古学的にほぼ立証されている。ヤマトは、ひとりの独裁者の征服劇によって成立したのではなく、いくつもの首長層の緩やかな連合体であった可能性は高くなる一方なのだ。

三世紀のヤマトには、前代未聞の政治と宗教の都市・纏向(まきむく)も前方後円墳も、どちらも吉備、出雲、北部九州、ヤマトという当時の巨大化した勢力圏のそれぞれの文化を持ち寄った代物だった可能性が高く、そのなかで吉備が優位性を保っていたようだが、唯一突出した存在というものがなかった。したがって、三世紀のヤマトの「大王」は、征服者でも独裁王でもなかったと考えられるようになったのである。
今だに指示されている王朝交替説は、五世紀頃、ヤマトから河内(大阪府)方面に王朝が移ったことが根拠のひとつにあげられている。三世紀の時点でヤマトが都に選ばれたのは、ヤマトが大阪方面を望む盆地で、天然の要害だったからである。河内の利点は、古代の交通の要衝・瀬戸内海に接し、流通と情報収集の拠点として最適だった、ということになろう。だからこそ、ヤマトから河内の都を遷すことに大きな意味があった。
もし仮に、多くの人が信じるように、五世紀に「河内王朝」が武力をもって「ヤマト王朝」を倒したのだとすれば、新たな政権は、都を河内に移すようなことはしなかっただろう。旧政権の遺民がヤマトで反旗ののろしを上げれば、河内王朝は太刀打ちできなかったはずである。それほど、ヤマトは西からの攻撃に強いのである。河内への王朝の移動は、「新王朝樹立の証」ではなく、ヤマト王朝の安定と発展の証に過ぎないのである。
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物部氏の謎2.鬼と童子の関係とは?

天皇で“神”の名がついた天皇と皇后が4人存在する。神武・神功・崇神・応神。そのことはすでに触れたので割愛するが、いずれも平安期に記紀の内容から名付けられた名前であり、当時には深い意味はないと思う。
消された王権・物部氏の謎: オニの系譜から解く古代史 著者: 関裕二

鬼(天皇)が神(出雲)を征伐し、神(天皇)が鬼(出雲)を祀る。まったく矛盾するかに見えるこのような現象が顕著なかたちで表されるているのが、昔話に現れる“鬼退治”説話である。
英雄による鬼退治、これが昔話の主題と思われがちだが、裏側には、鬼による鬼退治という秘密が隠されていたのである。

たとえば、桃太郎、一寸法師、酒呑童子(しゅてんどうじ)といった有名な説話のなかで、鬼を退治する英雄か、あるいはその家来のなかに、必ず童子(子ども、または子どもの身なりをした人)が含まれていることに気づかされるはずだ。
一寸法師は身丈が一寸(約3.3cm)の子ども、桃太郎は巨大な桃から生まれた小さな子、酒呑童子は討たれる側の鬼だが、征伐軍のなかにはまさかりをかついだ金太郎が入っていた。
是等の話がおとぎ話であるため、子どもに面白おかしく聞かせるために主人公たちを子どもにしたと考えるのは間違いで、じつは“童子”といえば、鬼そのものをさす場合が少なくないのである。
(中略)

出雲神には、荒魂(あらみたま)と和魂(にぎみたま)という両面性があって、前者が天皇家に祟りをもたらす神であるのに対し、後者は天皇家を守る神とされている。
この神の両面性は、神と鬼の両面性でもあるが、人間にもこの両面性があって、童子が若く生命力の溢れた荒魂であるのに対し、翁(おきな)は穏やかな和魂と考えられていた。
たとえば、ヤマトタケルはクマソ退治、東国征伐と縦横無尽の働きをするが、そのきっかけは父・景行天皇にとって手に負えぬ乱暴者であったために、宮中から外に出されたといういきさつがあった。ヤマトタケルも童子で鬼だったのである。『古事記』には、クマソを討つに際して女装してだまし討ちをしたことはよく知られてるが、童女となったとあるのは、ヤマトタケルがクマソという鬼を退治するために鬼と化したことを証明している。

■天皇と鬼

鬼退治の英雄が鬼であったことがわかり、また、この鬼を差し向けた天皇も、やはり鬼であったことになる。つまり、権力側にいようと、またその逆の立場にいようと、一般の人々から見て人を越える力を発揮するものは鬼と見なされたということなのだ。

大和岩雄氏は、『鬼と天皇』(白水社)のなかで、天皇と鬼の関係について三つの例を引いて述べている。
一、天皇に対する存在、『まつろわぬもの』としての蝦夷(えみし)や酒呑童子のような鬼
二、鬼を討つ側の天皇権力としての鬼
三、天皇権力の側にいたものが権力から追放されてなる鬼

一は権力に対立する鬼で、周辺、辺境の存在である。二は権力としての見える鬼である。この権力から追放され、周辺、辺境の存在になった者が、死後、見えない鬼(怨霊)となって二の鬼に祟るのが、三の鬼である。
このように天皇と鬼は、一見、対立関係にあるようにみえるが、一つの実体の表と裏の関係にある」
じつは大和氏が指摘するように、鬼と天皇が表裏一体の関係にあったことこそ、天皇家が今日に続いた最大の理由であったのではないかとするのが、近年いわれている説である。
(中略)
権力者がいかに天皇家を煙たく思っても、この神の一族の背後には、“無縁”の人々というとらえどころのない鬼、闇の世界が控えていたのである。したがって、天皇を倒すにはまず裏社会を壊滅させる必要があり、となれば、目に見えぬ敵を相手に戦をするような事態に陥り、収拾のつかない羽目に陥るのは必定であった(ちなみに、この闇の社会をつぶしにかかった人物は、歴史上、織田信長一人と考えられる)。
逆に被支配者“無縁”の人々から見れば、みずからの自由な活動が、“天皇”という権威を根拠にしているのだから、彼らにとって“天皇”は、かけがえのない存在なのであった。

したがって、彼らがすすんで天皇をつぶそうなどと考えるはずがなく、日本に市民革命という一神教的で独裁的な“正義”がなかったのは、あるいはこのような経緯が背景にあったからかも知れない。
いわば、“天皇”というシステムは、鏡に映した三権であり、また支配のベクトル(方向性)が天皇から始まり、一巡して天皇に戻ってくるという循環する王権システムでもあったといえよう。
つまり、日本の不思議さが“天皇”という現象に凝縮されているのは、日本の支配者がいったい誰であったのか、探れば探るほどわからなくなってくるためであった。それは天皇なのか、時の権力者なのか、あるいは無縁の人々、鬼であったのか-。

そして、このような図式はいったい、いつごろからはじまったのであろうか。
その答えの鍵を握る者こそ、八世紀に鬼のレッテルを貼られた“モノ”の一族物部氏なのだが、

【もう一つの日本】 物部氏4/4 物部氏ゆかりの神社と日本統一へ

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注連縄(しめなわ)

出雲大社 拝殿

神社の拝殿の軒や御神体には注連縄が張ってあります。神代の時代、天照大神が天の岩戸からお出になった後、岩戸に縄を張り再び中に入れぬようにした。この縄は「尻久米縄」と云われたと古事記に記され、しめなわの始まりとされている。

「社(やしろ)」・神域と現世を隔てる結界の役割を意味する。また神社の周り、あるいは神体を縄で囲い、その中を神域としたり、厄や禍を祓う結界の意味もある。御霊代(みたましろ)・依り代(よりしろ)として神がここに宿っているという印ともされる。古神道においては、神域はすなわち常世(とこよ)であり、俗世は現実社会を意味する現世(うつしよ)であり、注連縄はこの二つの世界の端境や結界を表し、場所によっては禁足地の印ともなっている。

しかしこれは、朝廷が出雲系の物部氏などの神社を封じ込めるためにあるという説があります。神楽殿のしめ縄は長さ13m、太さ8メートルで、重量は5トンで、もちろん日本一日本では向かって右側が上位であり尊いとされてきました。

しめ縄を正面から見た場合には、しめ始めは右からということ一般の神社でも同様にこの慣わしが存在しています。

しかし、唯一この慣わしに逆行している神社はここ出雲大社です。向かって左側から綯い始め右側で終わっているのです。

その理由について

”出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である”といった説もありますが定かではありません。

大神(おおみわ)神社

奈良県桜井市三輪1422
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大
大和國一宮 旧官幣大社
御祭神:大物主大神(おおものぬしのおおかみ)
配祀 大己貴神(おおなむちのかみ) 少彦名神(すくなひこなのかみ)

由緒

遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ)=大国主神が、 自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおもの ぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまりであります。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通し、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられており、我が国最古の神社であります。

大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最 高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。

石上神宮(いそのかみじんぐう)

【国宝】
石上坐布都御魂神社 名神大 旧官幣大社
奈良県天理市布留町384
御祭神 「布都御魂大神」
配祀 布留御魂大神 布都斯魂大神 宇麻志麻治命 五十瓊敷命 白河天皇 市川臣命

西暦686年(朱鳥元年)までに物部氏から改めた石上氏(いそのかみし)が本宗家の地位を得ました。同氏は守屋の兄の子孫であると称しています。

雄略朝の大連・物部目の後裔を称する石上朝臣麻呂には朝臣の姓が与えられて、西暦708年(和銅元年)に左大臣。その死にあたっては廃朝の上、従一位を贈られた。息子の石上朝臣乙麻呂は孝謙天皇の時代に中納言、乙麻呂の息子の石上朝臣宅嗣は桓武天皇の時代に大納言にまで昇った。また宅嗣は、日本初の公開図書館・芸亭の創設者としても歴史に名を残しています。

石上神宮は、飛鳥時代の豪族、物部氏の総氏神として、又大神神社(おおみわじんじゃ)と同じく日本最古の神社として有名です。元々は古来朝廷の武器庫として物部氏が守っていたようです。境内に入ると多くの鶏が放し飼いにされていました。野生化していて強そうな鶏なので、猫が目の前を通っても微動もしない不思議な光景が見れます。

元々は20年ほど前に誰かが捨てて行ったものだったそうですが 、次第にその数が増え現在に至り、神の使いとして飼われているようです。さて楼門をくぐり奥に進むと拝殿が見えます。さらにこの後ろに本殿があるのですが、禁足地であり一般に立ち入ることはできません。もともとは大神神社のように本殿はなく、拝殿からその背後の禁足地を遙拝し、禁足地には主祭神である神剣布都御魂が安置されていると伝えられてきました。明治時代に禁足地を発掘し、剣一振(素鐶頭太刀そかんとうのたち)が出土したのを期に、これを布都御魂(ふつのみたま)として、本殿が造営されました。

大神山神社(おおがみやまじんじ ゃ)

式内社 伯耆國會見郡 大神山神社
旧國幣小社
本社 鳥取県米子市尾高1025 祭神 大穴牟遅神(おおなむぢのみこと)
奥宮 鳥取県西伯郡大山町大山 祭神 大己貴命(おおなむちのみこと)
いずれも大国主命の別名
奥宮末社・下山神社(しもやまじんじゃ) 渡辺昭政(わたなべてるまさ)命

自然石を敷きつめた七百mの参道の長さ、国内最大の権現造りの社殿、幣殿の白檀の漆塗りの荘麗さと、大神山神社奥宮には三つの「日本一」があり、西日本最大級の神輿がある。

大山(だいせん)は古より神おわす山として、よって大神岳とも称され、中国地方一の霊峰とも言われ修験道を始め多くの人々の信仰を集めてきた。神体山としての大山には主神として「大己貴命(おおなむちのみこと・大国主命の別名)」が鎮座し給うとされたが、仏教の隆盛による神仏習合思想の広まりとともに、大己貴命に地蔵菩薩を祀り「大智明権現」の称号を当てて神仏混淆の神社として奉仕されるようになり、平安鎌倉期には三院百八十坊僧兵三千名とまで数えられるようになった。一方この地は冬期積雪が多く、祭事の遂行が困難なため麓に冬宮を設けて冬期にはこの冬宮で奉仕を行うようになった。明治時代になると神仏分離令により尾高の冬宮を本社とし、大山の宮から地蔵菩薩を除いて大神山神社奥宮とし、現在のような形となった。

物部神社(もののべじんじゃ)

島根県大田市川合町川合
式内社 石見国一宮  旧社格は国幣小社
御祭神 「宇摩志麻遅命」(物部氏初代)
相殿右座 饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照大神

物部氏初代の宇摩志麻遅命を主祭神とし、相殿に物部氏祖神の饒速日命、布都霊神、天御中主大神、天照皇大神を祀る。 宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮、弥彦神社と共に有名である。なぜか、11月22日でなく、11月24日に行われる。

石上神宮と表裏一体を為す神社。物部神社の御祭神「宇摩志麻遅命」はこの石東の地を平和な豊かな地域とするため、鶴に乗って御降臨されました。

その山を鶴降山といい、山頂には今も国見をされた場所と伝えられる遺跡が保存されています。
この国見をされたおり、平和な穏やかな里「安濃郡(旧 大田地方)」と名づけられました。

この鶴に乗って勝運を運んできた神にちなんで真っ赤な太陽を背負った鶴を全国で唯一この物部神社の御神紋と定められました。
当地の海辺には須佐之男命、五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命らが半島から帰国の上陸の地との伝えがある。

須佐之男命は韓神新羅神社、五十猛命は五十猛神社に鎮座し、神別れ坂で大屋津姫命、抓津姫命と親子は別れたと云う。 大屋都比売命は大田市大屋町の大屋姫命神社に鎮座、抓津姫命が見あたらないと思っていたら、物部神社の客神としておさまっていたようです。

社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、一族を率いて尾張、美濃、越国を平定した後に石見国で歿したという。宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、継体天皇8年、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。

物部神社門前から、三瓶山は、よく見える。石見国と出雲国の国境に位置する三瓶山は、「出雲国風土記」が伝える「国引神話」に登場する。 国引神話では、「佐比売山(さひめやま)」(三瓶山)は鳥取県の「火神岳」(ほのかみだけ)大山)とともに国を引き寄せた綱をつなぎ止めた杭とされています。

新羅の岬→去豆の折絶から八穂爾支豆支の御埼(やほにきづきのみさき。杵築崎)
北門(きたど)の佐伎(さき)の国→多久の折絶から狭田(さだ)の国
北門の良波(よなみ)の国→宇波の折絶から闇見(くらみ)の国
越国の都都(珠洲)の岬→三穂埼

延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。かつての社家の金子氏は「石見国造」と呼ばれ、この地の物部氏の長とされた。戦前は、出雲大社の千家・北島両家や、日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。 宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、当社の神紋は赤い太陽を背景に鶴の「日負い鶴」である。

但馬国総社気多神社:「大己貴命」(豊岡市日高町上郷)
越前国総社大神宮:「大己貴命」  福井県越前市(武生市)京町1-4-35
越中国総社気多神社:「大己貴命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063
能登国一宮 気多大社:「大己貴命」石川県羽咋市寺家町ク1
越中国総社跡 気多神社:「大己貴命と奴奈加波比売命」富山県高岡市伏木一ノ宮字大平2063

天照御魂神(あまてるみたまのかみ)

ニギハヤヒは、記紀が書かれるまでは皇祖神・天照御魂大神だったことが、多くの史料や古代からの神社の祭神・縁起・伝承が証明しています。延喜式神名帳には、「天照」を名乗る神社が、山城、大和、摂津、丹波、播磨、筑紫、対馬などに記載され、記紀編纂以前の創建で古い神社です。

女神・アマテラス(天照大御神)は、日本書紀の編者の都合により、その称号を与えられたにすぎず、実状は全然違っていたのでしょう。なぜなら、全国の天照を名のる古神社は、皆一様にその主祭神を天火明命、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊としているからなのです。

たとえば、京都府宮津市に天火明命を主祭神とする元伊勢籠神社があります。

同社の説明によると、主祭神は彦火明命(ホアカリノミコト)、亦名(またの名は)天火明命(ホアカリノミコト)・天照御魂神・天照国照彦火明命・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
とあり、相殿に豊受大神、天照大神が祀られています。伊勢神宮の内宮・外宮の祭神です。

同社の説明に、「極秘伝に依れば、同命は山城の賀茂別雷神(上賀茂神社)と異名同神であり・・・。彦火明命は天孫として、天祖から息津鏡・辺津鏡を賜わり、大和国及丹後・丹波地方に降臨されて、これらの地方を開発せられ、丹波国造の祖神であらせられます。古伝に依れば、十種神宝を將来された天照国照彦天火明櫛玉饒速日命であると云い・・・。」と(ほんとはね…と遠慮ぎみに)あります。
元伊勢籠神社については後ほどくわしく説明します。

出雲大社の創建は、奈良時代初頭の霊亀二(716)年だったことがわかっています。別の神様(スサノヲ・須佐社)を祀っていたらしいのですが、ちょうど、古事記(712年)と日本書紀(720年)の成立の中間に大神社として創建されたことになります。明治までは杵築(キヅキ)大社と呼ばれていました。

大己貴命こと、大国主が亡くなってから500年も経った後のことです。大国主命の別名として、古事記では、大穴牟遲神、葦原色許男、八千矛神、宇都志国玉神。日本書紀では、大物主神、国作大己貴命、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顕国玉神とあり、それぞれの神名から多様な性格が連想され、一つの神ではなく、複数の神々を統合したものとみられています。ともあれ、出雲大社は記紀神話に合わせて大和朝廷によって創建されたことは間違いないようです。そして、スサノオやニギハヤヒをはじめ、出雲系の神々とその偉業を一括りにして傀儡の大国主を創作し、出雲に流竄したのだともみられています。

記紀の記述に邪魔な神々を出雲に葬り、その代償として出雲大社が建てられたとみられ、当時は50mもある国内最大の建築物として、出雲大社は万の神が集まる今でも壮大なものです。

日本統一へ

出雲大社・物部神社(石見)・但馬(古丹波)気多神社・丹後(古丹波)元伊勢籠神社・越前気比神宮・越中気多神社など…わかるだけでも日本海沿岸を治めていた物部海洋王国は、大和政権によって平定され日本は統一されていきます。四道将軍や各地に残る桃太郎・大江山鬼退治伝説など。銅鐸は消え去り、朝廷から与えられた銅鏡と前方後円墳。しかし、神社は残りました。注連縄を張られ封じ込める形で。時代は各地方の祖先神かた天皇家を軸とする天つ神の神道に変わり、聖徳太子から仏教によって神社信仰を仏教を広めることで国をまとめようとしたのです。そのあとには聖武天皇が仏教による国家鎮護のため、当時の日本の各国に国分寺と国分尼寺建立を命じ、神仏はともに共存していきます。

物部氏ゆかりの神社が多い旧國

【筑前国】19
【筑後国】11【石見国】20【但馬国】12
【丹後国】11【丹波国】9【越後国】68
【伊予国】27【河内国】41【紀伊国】26
【摂津国】22【和泉国】11【伊勢国】35
【山城国】12【近江国】23【尾張国】28
【大和国】36

2009/08/28

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【もう一つの日本】物部氏3/4 もう一つの日本(ひのもと)

倭国大乱

2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船(あまのいわふね)の伝説が残る河南町や交野市の磐船(いわふね)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

神武東征

さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(クサカムラ・大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

二つの日ノ本

ニギハヤヒ亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたります。

また、ニギハヤヒが子のウマシマジノミコトを有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれています。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもあります。

「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのか?

それは、枕詞の転化であるとしています。
たとえば、明日香の枕詞は飛鳥であり、「トブトリ ノ アスカ」と呼び慣わしていたのが、時代が下るに従って、枕詞の飛鳥だけでアスカと読むようになったのと同様に、
草香(クサカ)の枕詞は日下(ヒノモト)であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが、日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。日下部(クサカベ)氏もそうです。

しだいに日下が日本(ひのもと)という字が当てられ、倭(ヤマト)国から日本という国名に変わったというのです。
『記紀』の天孫降臨コースは、アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様に、
「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」
といい、それでニニギノミコトは神様の国を離れて、日向の高千穂という場所に降り立つのですが、『先代旧事本紀』の降臨コースは全然違っています。
ところが物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によると同じような内容が記されています。

谷川健一氏によると、
「新唐書」にかかれている「日本(ヒノモト)」とは、まさにこの物部氏の王国であり、4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト政権」によって征服された過程こそが、神話にある神武東征だったのではないか」と推理しています。

「日本書紀」に書かれている「神武東征(じんむとうせい)」の物語に登場する東の美地とは、ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他ならない。
としています。

4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト王権」である神武が再び日本を襲い、物部氏の小国「日本」を征服した際に、王国のシンボルであったおびただしい銅鐸は、土中に隠され、あるいは破壊された、というのが氏の結論です(石野博信館長は時代的に50年のタイムラグがあることを指摘)。

その後、物部氏の主流はヤマトに屈服してヤマト王朝に重用されますが、なかには長髄彦ら蝦夷(エニシ)と呼ばれる同盟異族とともに、北へ東へ奔った者もいました。それについては何故か正史「日本書紀」には残されていません。ヤマト朝廷の誕生は、敗者を再び日の当たる場所=日本(ヒノモト)に登場させることはありませんでした。

饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本」の本当の名付け親であるといえるのではないか?
という想像が浮かび上がるのです。

[*1]草香江 当時の大阪湾は、旧淀川からずいぶん上流までが大きな入江でした。河内湾は河内湖、河内潟へと変化し、すなわち草香江(くさかえ)呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いて現在の大阪平野の姿ができた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、豊臣秀吉が大坂城築城の際に、淀川を大改修し、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。

[*2]…古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。
[*3]…『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命
2009/08/28

【もう一つの日本】物部氏2/4 もう一つの東征 

『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向(ヒムカ)を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂で「どこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうか」と相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。
ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。

カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。

また、高木神の命令で八咫烏(やたがらす)が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。 その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。 このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。

そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。
神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。

「記紀」は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。高句麗の建国神話も似ています。

もう一つの東征

一般には、物部氏(もののべうじ)の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。
しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船(あまのいわふね)の伝説が残る河南町や交野市の磐船(いわふね)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒ(饒速日命)に使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。

谷川健一氏は、
饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?
と見ています。

関裕二氏は、考古学の進展によって明らかにされた三世紀のヤマト建国の様子と、『日本書紀』に記された「ヤマト建国」の記事は、恐ろしいほど見事に重なってくるのである。

今日、ヤマト建国は三世紀半ばから後半の段階であったと考えられている。それは、古代ヤマトの中心・三輪山山麓に、三世紀の巨大な政治と宗教の都市・纏向(まきむく)遺跡が発見され、ほぼ同時に、ヤマトに前方後円墳が出現していたからである。

日本全国を見渡しても、同時代の纏向をしのぐ遺跡はない。しかも、纏向周辺で誕生した前方後円墳が、四世紀にかけて西日本はおろか、東北南部まで広がっていったところに大きな意味が隠されている。これが、考古学の明らかにしたヤマト建国の歴史なのだが、これに対し、『日本書紀』にはいくつもの符合が見出される。

『日本書紀』は、初代神武天皇を指して、ハツクニシラス天皇(スメラミコト)と称賛している。これは「はじめて国を治めた天皇」を意味しているのだが、不可解なことに、第十代崇神天皇にも、同様の称号を与えている。ひとつの王家に二人の初代王がいたことになり、話は矛盾する。

一般に、神武東征は、実際の歴史ではなく、ヤマト建国を神話かしたものにほかならないとされている。そして第九代までの天皇をひとくくりにし、「欠史八代」と呼んでいるのは、ヤマトの本当の初代天皇は崇神で、それ以前は歴史ではない、という考えからである。

ところが、神武東征説話には、神話として捨て置くことのできない信憑性が垣間見える。そして、神武天皇と崇神天皇という二人の「ハツクニシラス天皇」を重ねると、考古学の明かしたヤマト建国とそっくりになることに気づかされるはずである。

『日本書紀』は、神武がヤマトに君臨するはるか以前、出雲神・大物主神は、大和に住みたいといいだし、遷し祀られたといい、またヤマトを造成した神だという。また、その後、神武天皇がまだ九州にいたころ、ヤマトの地にはすでにいずこからともなくニギハヤヒなる人物が舞い降りて、土着の首長ナガスネヒコの恭順を得て、この地域を統治していたとする。神武天皇はこの話を聞き、「ヤマトこそ都にふさわしい」と確信し、東征を決意する。このニギハヤヒがヤマト最大の名門豪族物部氏の遠祖であると書かれている。

神武天皇は長髄彦(ナガスネヒコ)の抵抗にてこずるも、ニギハヤヒの子のウマシマシの王権禅譲によって、ヤマトの王位を獲得するに至るのである。

と書いている。とすればニギハヤヒこそヤマト建国の祖であり、崇神天皇以前の歴史を出雲神話と神武天皇に置き換えた可能性が高いともいえるのである。

物部氏(もののべうじ)

物部氏は、河内国の哮峰(タケルガミネ・現・大阪府交野市)に天皇家よりも前に天孫降臨したとされるニギハヤヒ・ウマシマジを祖先と伝えられる氏族とされます。邪馬台国が九州か大和、どちらにあっても、その主催者と言われる程、日本の古代を席巻していた氏族とされいます。

物部氏の特徴のひとつに広範な地方分布が挙げられます。また、物部連となった氏族は時代によって幾度も交代しながら続いているからです。さらに無姓の物部氏も含めるとその例は枚挙にいとまがないのです。石上氏等中央の物部氏族とは別に、古代東北地方などに物部氏を名乗る人物が地方官に任ぜられている記録があります。各地に多数祀られているスサノオ・ニギハヤヒ・饒速日尊の一族の物部氏、石上氏、尾張氏、海部氏等代々神官を務める式内社は国の一宮、総社、物部系神社や磐船神社は、各地にたくさんあります。

『古事記』では、ウマシマジノミコト(可美真手命)は、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。ナガスネヒコの妹のミカシギヤヒメ(三炊屋媛)・トミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・可美真手命)をもうけました。ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としています。

『日本書紀』にはこの人物について多くを語りませんが、物部系の文書『先代旧事本紀』によれば、神武天皇が即位した直後、ウマシマジノミコトは、大切な祀り事(神事)である朝廷の儀礼など、諸事を定めたといい、ヤマトの基礎を築いた人物として描かれています。

長髄彦(ながすねひこ)

ナガスネヒコは、『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族で東征に抵抗した豪族の長として登場します。。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。

不思議に思えるのは、『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、を妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

通説は、物部氏を五世紀に勃興した一族と見なします。しかしそれでは、このようなヤマト建国の立て役者である物部氏の活躍を、ほとんど無視してしまいます。しかしそれなら、なぜ『日本書紀』は、「物部氏の祖は神武天皇よりも先にヤマトに君臨していた」という話をわざわざ掲げたのでしょう。それは、「祟る神」として、本当のことを隠したら祟られるであろうと信じていたからではないでしょうか。

たとえば、天皇家の儀礼や宗教観には、物部の強い影響が残されているという指摘があります。
スサノオノミコトの遺命を受けた御子・大歳尊(以下、オオトシ)は、父の死後、北九州の筑紫から讃岐・播磨を経て河内から大和に東遷し、三輪山麓に戦闘なく日ノ本王朝・大和国を建国、饒速日(以下、ニギハヤヒ)と改名しました。大歳尊は、東海・関東から東北の飽田(秋田)辺りまで遠征、日本(ひのもと)国を拡大し、大和に帰還して没しました。とくに播磨から摂津にかけて大歳神社がたくさん建てられ、三輪山はニギハヤヒの御陵で、死して天照御魂神として各地の天照神社に祀られました。
ニギハヤヒの死後、末娘・御歳(伊須気依)姫は日向から婿養子として磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと)を迎え、磐余彦尊は初代・神武天皇として即位しました。

神武のヤマト入りを助けたことも謎めきますが、その後のウマシマジノミコトの動きも、また不可解なのです。

島根の物部神社

島根県大田市にはそのものずばりの物部神社があって、ここにはおおよそ次のような伝承が残されています。

「神武天皇のヤマト建国を助けた後、ウマシマジノミコトは尾張氏の祖の天香具山命と共に、尾張、美濃、越国を平定した。ウマシマジノミコトはさらに西に向かい、播磨、丹波を経て石見に入ると、鶴に乗って舞い降り、この地に留まった」といいます。

なぜ、石見なのかというと、近くの三瓶(さんべ)山が、ニゴハヤヒノミコトの出身地だったからといい、また、出雲を監視するためだという。物部神社のある大田市は、元々出雲国と石見国の境目に位置します。

よくわからないのは、ヤマト建国の功労者であるはずのウマシマジノミコトが、なぜ政権の中枢に留まらず、石見に向かったのか、ということです。

神武と同一人物とされる崇神天皇と垂仁天皇の時代、ヤマト朝廷がさかんに出雲いじめをしていたと 『日本書紀』が記録していることです。考古学的にも、ヤマト建国の直後、吉備や丹後・但馬・因幡などには前方後円墳がつくられているのに、出雲には巨大な前方後円墳が見当たらず、出雲が実際に衰弱していることが確かめられています。そして、出雲いじめの主役が、物部系の人物だったと記されているのだから、ウマシマジノミコトの石見入りも、信憑性を帯びてきます。

問題は、なぜヤマト建国の功労者が、出雲いじめに走ったのかということで、神話の出雲の国譲りも、単なる神話と無視できなくなってくるのです。

物部氏は、兵器や銅剣・銅鉾・銅鐸などの神具の製造・管理を主に管掌していましたが、しだいに大伴氏(おおともうじ)とならぶ有力軍事氏族へと成長していきました。連の姓(かばね)、八色の姓の改革の時に朝臣(あそみ・あそん)姓を賜ります。五世紀代の皇位継承争いにおいて軍事的な活躍を見せ、雄略朝には最高執政官を輩出するようになりました。

しかし果たして物部氏は単一氏族だったのでしょうか。祭祀に従事する氏族のことを概ね物部氏と呼ばれたのではなかろうかと思わせる程、この氏族は歴史の中心に立ち現れるのです。物部には八十氏とされる諸集団がおり、戦闘、兵器生産、軍神祭祀に従事し、物部連という組織によって統率されていたのではないでしょうか。

継体天皇の時代に九州北部で起こった磐井の乱の鎮圧を命じられたのも物部氏でした。また、後述の蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いで大きく登場します。

2009/09/08

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【もう一つの日本】物部氏1/4 もう一つの天孫降臨

饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ヒコイマスオウ)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけました。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。

『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。
フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこのみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。

別名としては、
・櫛玉命(くしたまのみこと)
・「大物主大神」
・「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
・「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
・「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
・「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)
などです。

古代、朝鮮半島の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。
『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、
「祖佐之男命(スサノオノミコト)、朝鮮新羅国王の四男・太加王」
と具体的に記しています。

この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。
『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。
「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」
これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。
確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれませんが、出雲の神を三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる 『先代旧事本紀』というのが後世に出ています。この書の真偽性を疑う学者もいますが、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。
一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ九州北部の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラス(天照大神)から十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは本来「海船(あまぶね)」を意味します。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。

これらは、アマテラス(天照大神)の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。
したがって、ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。

ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った、とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。

また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。
この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。
ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。 とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。この説でいうと邪馬台国は最初九州北部にあり、大和に移動したのかも知れません。邪馬台(ヤマト)は大和(ヤマト)と同じです。第一次が九州北部、第二次が大和とすると、邪馬台国どちらにあったかという論議は、解決できてしまいます。

関裕二氏は、纏向遺跡に集まった人々の中で、ヤマト建国の中心に立っていたと考えられているのは吉備である。それはなぜかといえば、記に唐ヤマトにもたらされた特殊器台形土器や特殊壺形土器が、宗教儀礼に用いる特殊な土器だからだ。政治を「マツリゴト」といっていた時代、吉備の果たした役割は、軽視できない。前方後円墳の原型が、弥生後期の吉備にすでに出来上がっていたこともわっかってきている。それが楯築弥生墳丘墓(岡山市)で、円墳の左右に突出部が二つくっつくという奇妙な形をしている。

一方、物部氏といえば物部守屋を思い浮かべるが、守屋が滅びたのは、現在の大阪府八尾市の周辺だ。物部氏はこの一帯を地盤にしていたが、八尾市からは、三世紀の特殊器台形土器や吉備系の祖飢餓出土している。記にからヤマトに続く通り道である河内は、必ず押さえておかなければならない要衝である。物部氏は吉備系ではないだろうか。

ヤマト朝廷が発足後間もなく出雲潰しに向かったのは、瀬戸内海と日本海の流通ルートの対立と捉えれば、その意味がはっきりとしてくる。としている。
2009/08/28

謎の巨大豪族「物部氏」

謎の巨大豪族「物部氏」

一般には、物部氏の名は、蘇我氏の「崇仏」に反旗をひるがえした物部守屋の一族だというふうに知られてきました。神祇派が物部氏で、崇仏派が蘇我氏だと教えられてきたのです。

しかし、こんなことは古代日本史が見せたごくごく一部の幕間劇の出来事にすぎず、そのずっとずっと前に、物部の祖先たちがヤマトの建国にあずかっていたはずなのです。

饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本(ひのもと)」の本当の名付け親であるといえるのではないか?<

1.『古事記』の神武東征

天皇家の初代カムヤマトイワレビコ(神武天皇)が日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話である。

『古事記』では、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)は、兄の五瀬命(イツセ)とともに、日向の高千穂でどこへ行けばもっと良く葦原中国を治められるだろうかと相談し、東へ行くことにした。舟軍を率いて日向を出発して筑紫へ向かい、豊国の宇沙(現 宇佐市)に着くと、宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が仮宮を作って食事を差し上げた。そこから移動して、岡田宮で1年過ごした。さらに進んで阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごした。

神武が九州から東征してヤマトに入った時、浪速国の白肩津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった。当時はこの辺りまで入江があった)に停泊すると、生駒山麓の孔舎衛坂(くさかえのさか)で長髄彦(ながすねびこ、以下ナガスネビコ)の抵抗に遭います。

ナガスネヒコと戦っている時に、イツセはナガスネヒコが放った矢に当たってしまった。イツセは、「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と言った。それで南の方へ回り込んだが、イツセは紀国の男之水門に着いた所で亡くなってしまった。カムヤマトイワレビコが熊野まで来た時、大熊が現われてすぐに消えた。するとカムヤマトイワレビコを始め兵士たちは皆気を失って倒れてしまった。この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が、一振りの太刀を持ってやって来ると、カムヤマトイワレビコはすぐに目が覚めた。カムヤマトイワレビコがその太刀を受け取ると、熊野の荒ぶる神は自然に切り倒されてしまい、倒れていた兵士も気絶から覚めた。

カムヤマトイワレビコはタカクラジに太刀を手に入れた経緯を尋ねた。タカクラジによれば、タカクラジの夢の中にアマテラスと高木神が現れた。二神はタケミカヅチを呼んで、「葦原中国はひどく騒然としており、私の御子たちは悩んでいる。お前は葦原中国を平定させたのだから、再び天降りなさい」と命じたが、タケミカヅチは「平定の時に使った太刀があるので、その刀を降ろしましょう」と答えた。そしてタカクラジに、「倉の屋根に穴を空けてそこから太刀を落とし入れるから、天津神の御子の元に持って行きなさい」と言った。目が覚めて自分の倉を見ると本当に太刀があったので、こうして持って来たという。その太刀はミカフツ神、またはフツノミタマと言い、現在は石上神宮に鎮座している。
また、高木神の命令で八咫烏が遣わされ、その案内で熊野から大和の宇陀に至った。
その後、登美毘古(ナガスネヒコ)と戦い、兄師木(エシキ)・弟師木(オトシキ)と戦った。そこに邇芸速日命(ニギハヤヒ)が参上し、天津神の御子としての印の品物を差し上げて仕えた。
このようにして荒ぶる神たちを服従させ、畝火の白檮原宮(畝傍山の東南の橿原の宮)で即位した。

2.『日本書紀』の神武東征

『日本書紀』では、カムヤマトイワレビコ)は45歳(数え)の時、天祖ニニギが天降ってから179万2470余年になるが、遠くの地では争い事が多く、塩土老翁(シオツツノオジ)によれば東に美しい国があるそうだから、そこへ行って都を作ろうと思うと言って、東征に出た。

ナガスネビコは、天磐船(あまのいわふね)に乗ってヤマトに降った櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、以下ニギハヤヒ)に仕え、しかも妹のミカシキヤヒメ(三炊屋媛)はニギハヤヒと結ばれ、可美真手命(うましまでのみこと、以下ウマシマデ)を生んでいます。そこでナガスネビコは、神武に「天神の子はニギハヤヒ一人だと思っていたのに、そう何人もいるのだろうか」と疑問を呈すと、ニギハヤヒが天神の子である証拠として、天の羽羽矢(蛇の呪力をもった矢)と、歩靱(カチユキ・徒歩で弓を射る時に使うヤナグイか)を持ち出してナガスネビコに見せます。

神武はその証拠を天神の子とのものであると認めるのと、ナガスネビコは、恐れ畏まったのですが、改心することはありませんでした。そのため、間を取り持つことが無理だと知ったニギハヤヒはナガスネビコを殺して神武に帰順します。
『日本書紀』は、このニギハヤヒが物部氏の遠祖であると書かれているのです。
記紀は、九州にいた天皇が大和を制圧するという点で、後の神功皇后・応神天皇母子との類似性が指摘される事がある。

3.長髄彦(ながすねひこ)

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場します。不思議に思えるのは、
『日本書紀』では、天の磐舟で、斑鳩の峰白庭山に降臨した饒速日命(ニギハヤヒノミコト)はナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)あるいはミカシキヤヒメ(三炊屋媛)、をの妻とし、仕えるようになる。トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命・物部氏の祖)をもうけました。宇摩志麻遅尊は、物部の兵を率いて、天之香山尊と共に、尾張・美濃・越を平定し、天之香山尊を、新潟県の弥彦神社に残した後、更に播磨・丹波を経て、石見国に入り、島根県大田市にある現在の物部神社で崩じられたとされています。イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。
長髄彦は、日本神話に登場する人物。『古事記』では那賀須泥毘古と表記され、また登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)、登美毘古(トミビコ)とも呼ばれる。神武東征の場面で、大和地方で東征に抵抗した豪族の長として描かれている人物。その後、八十梟帥(ヤソタケル:『古事記』では八十建と表記)や兄、磯城(シギ)を討った皇軍と再び戦うことになります。このとき、金色の鳶(とび)が飛んできて、神武天皇の弓弭に止まり、長髄彦の軍は眼がくらみ、戦うことができなくなりました。長髄彦は神武天皇に「昔、天つ神の子が天の磐船に乗って降臨した。名を櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒ)という。私の妹の三炊屋媛(ミトヤヒメ)を娶(めあ)わせて、可美真手(ウマシマデ)という子も生まれた。ゆえに私は饒速日命を君として仕えている。天つ神の子がどうして二人いようか。どうして天つ神の子であると称して人の土地を奪おうとしているのか」とその疑いを述べました。

4.もう一つの天孫降臨

古代氏族のルーツを探る場合、伝承で探るしか手段がありません。さいわい、物部氏は家記といわれる
『先代旧事本紀』というのが後世に出、これと各地に残っている伝承をあわせて探っていくと、物部氏が最初は九州にいたことが判明してくるといいます。

一番大切なのは、物部氏が神武より先に大和に来ていることです。

黒岩重吾氏は、邪馬台国は、九州からヤマトに東遷したと考えています。それは、弥生時代の近畿地方には鏡と剣と玉を祀る風習はなかったのに、九州にはそれがあった点です。鏡を副葬品として使う氏族は畿内にはなく、九州独特のものです。

九州北部遠賀川(おんががわ)流域に比定されている不弥国にいた物部氏の一部が、同じ北九州の隣国「奴国」との軋轢の中、より広い耕地を求めての旅立ちの言い伝えとされています。

物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によれば、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船(あまのいわふね)に乗って、河内国の河上の地に天降りたとあります。どのあたりかというと古来諸説ありますが、おそらく石切劔箭(いしきりつるぎや)神社(東大阪市)のあたり、生駒山の西側にある「日下(クサカ)」の地でなないか、他にも天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社があります。どちらにしろ生駒山系です。なお、天磐船といっても飛行物体ではなく、これは海の船です。
古代氏族の一つとして、また蘇我氏との神仏戦争でよく知られる物部氏は、皇祖神を除いて、天孫降臨と国見の逸話をもつ唯一の氏族です。
これらは、天照大神の命により、葦原中国を統治するため高天原から日向国の高千穂峰に降りたニニギ(瓊瓊杵尊や瓊々杵尊)の天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられます。

ニギハヤヒは、神武東征(じんむとうせい)に先立ち、河内国の河上の地に天降りているのです。
ニギハヤヒが、32の神と25の物部氏の一族を連れて大空を駆けめぐり、河内国の哮ケ峰(タケルガミネ)に天降った。
とされています。
この哮ケ峰は、どこなのか定かではありません。
また、『先代旧事本紀』は、饒速日尊を、登美の白庭の邑(とみのしらにわのむら)に埋葬したといいます。

この登美の白庭の邑も、いったいどこなのでしょう。

ところが、日本神話において、天照大神の孫のニニギが葦原中国平定を受けて、葦原中国の統治のために天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降った。
とされながら、高天原神話にはこの、大和への天孫降臨神話が見当たりません。

5.東征ルート

物部氏の足取りを先に系統づけてみたいと思います。まったくの想像です。

饒速日命を祖とする物部族の一族は、東征からすると、

    中国江南地方(越あるいは秦)脱出
      	  ↓
  	  北九州遠賀川流域
 	┏━━━━━┻━━━━┓
  (瀬戸内海)	 (山陰沿岸)
	↓		   ↓
   伊予国		出雲国・丹波国(但馬国・丹後国含む)
	↓		   ↓
   河内国		   ┣ 越国
    ↓		   ↓
紀伊国 ┫		近江国・山城国 → 尾張国
	↓		   ↓
     河内・日下の草香江
       ↓   
   大和で日本(ひのもと)を建国
     饒速日命 長髄彦の妹、登美夜毘売(三炊屋媛)と結婚
		  ↓
  日向 神武東征 × 長髄彦との戦い
	   ↓

伝説上神武天皇が納めると物部氏神武天皇に帰順 →宇摩志麻遅命 石見国に御降臨
さらに円山川沿いに20キロメートル離れた円山川河口付近の豊岡市気比(旧城崎郡気比)の地で、但馬で初めて銅鐸が発見されたが、最近、出雲加茂岩倉遺跡の銅鐸と兄弟銅鐸であることがわかりました。

粉々に破壊された久田谷銅鐸片が見つかった気多郡(日高町)の地

神武東征は、天皇家の初代神武天皇(かむやまといわれびこ)が日向(ひむか)国を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話。

この神話の解釈としては、全くの創作であるという説と、九州にあった勢力が大和に移ってきてヤマト王権を築いたという史実を神話化して伝えたものであるという説があるそうですが、信用すべき同時代の文字資料が現れない限り、神武東征を学問的に立証するのは困難であろうとされています。

弥生末期に南九州は熊襲・隼人として北部九州の倭国連合に習合されていない。

いずれにせよ、ニギハヤヒ大和へ向かう。船を使って河内まで四国の北岸を通っていったのは、どうやらすでに地域国家を形成していた吉備の勢力を避けて海運ルートで行ったからではないかと思われています。
記・紀においては、「天磐船」(アマノイワフネ)に乗り、天上から下ったとされながら、高天原神話には天孫降臨神話が見当たらないのです。

6.出雲と但馬の類似点

  • スサノヲ、オオナムチの神社が多い
  • 因幡宇部神社(武内宿禰)の伊福部氏:出石伊福部神社(出石町鍛冶屋)天香久山命を祀る。
  • 出雲意宇(おう)郡。意宇(おう):気多郡伊福(ゆう)村多々谷(たたのや)・楯縫神社、朝来市伊由(いう)の類似。付近に物部や多々良木(たたらぎ)集落。:出雲たたら製鉄
  • 物部神社(石見):物部韓国神社(城崎郡飯谷)
  • 久々比(ククヒ)神社・中嶋神社の祭神:田島守、摂社:天湯河板拳命:鳥取部=天湯河板拳命(あまのゆかわたな)
  • 楯縫郡(現在の旧平田市の大半及び旧簸川郡大社町(現・出雲市)) 出雲国風土記によれば、郡名はこの地で杵築大社(出雲大社)の神事道具として楯を造り始めたことに因むとしている。一方、古代日本語で「段丘上の平地」や「高地の端にある崖」を指すという説もある。:楯縫神社(但馬気多郡)円山川の段丘上の平地に鎮座。円山川対岸に多々谷(タタノヤ)=たたら? 井田神社 大己貴命の但馬総社「気多神社」
  • 平成12年4月、出石町袴狭遺跡から出土した木製品の船団の線刻画のある木製品(板材)が浮かび上がります。
  • 「太加王」(たかおう)→高生平野(気多郡たこうへいや)、和田山町高生田(たこうだ)

もう一つの日本(やまと) 1

もう一つの日本(やまと)

1.饒速日命(ニギハヤヒノミコト)

ニギハヤヒは、それぞれの駐留地点を中心に、水稲の栽培を始め、麦・黍・栗などの栽培を拡めたといいます。

とするとよく似た話が徐福伝説です。つまり秦の始皇帝の圧政に耐えかね、日本列島に活路を求めた人々こそが縄文人と融合して弥生人となった渡来人ではないかというのです。

さて、オオナムチ(大己貴命)は、オオクニヌシ(大国主)という別名があります。一般的には、こちらの方がよく知られているのですが、但馬郷土史研究の基礎『校補但馬考』の著者であり、日本の天気予報の創始者でも知られる桜井勉氏が偽書としている『但馬故事記』には、「彦坐王」(ひこいますおう)が、「丹波」・「但馬」の二国を賜り「大国主」の称号を得たとの記述があります。従って、オオクニヌシとは、今で言えば県知事のような職制上の称号であったのでしょう。オオナムチはスサノオから、オオクニヌシの称号をもって、「出雲」の自治権を許されたということです。同様に他の地方には、その地方のオオクニヌシ(国造のようなもの)がいたのであり、『記紀』に記される、オオクニヌシの別名が、異常に多いのもこれで説明がつきます。

『記紀』では、スクナヒコナ(少彦名)は、タカミムスビ(高御産巣日神・高皇産霊尊)の子であると言いますが、タカミムスビの別名に「高木の神」があります。
『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)といい、アメノオシホミミ[*2]の子でニニギの兄である天火明命(アメノホアカリ)と同一の神であるとしている。

『新撰姓氏録』ではニギハヤヒは、天神(高天原出身、皇統ではない)、天火明命(アメノホアカリ)は天孫(天照の系)とし両者を別とする。
『播磨国風土記』では、国作大己貴命(くにつくりおほなむち)・伊和大神(いわおほかみ)伊和神社主神=大汝命(大国主命(オオクニヌシノミコト))の子とする。

ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)[*3]は、日本の祖であり、神武はその養子だといいます。この事実を抹殺し、出雲王朝とヤマト王朝の関係を抹殺するために、『日本書紀』は、イザナギとイザナミによって創造されたのであるとしています。その証拠に、「石上神宮」(いそのかみじんぐう)と「大神神社」の古文書と十六家の系図を没収し、抹殺したという資料をつかんだとも述べています。それは、691年のことであるらしいのです。

ニギハヤヒも、父・スサノオ同様、さまざまな別名を与えられています。

フルネームは、「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」ですが、「天照国照彦命(あまてるくにてるひこんもみこと)」・「天火明命(ほあかりのみこと)」・「彦火明命(ほあかりのみこと)」は、フルネームの一部であり、ニギハヤヒ(饒速日命・邇藝速日命)のことです。
別名としては、

  • 櫛玉命(くしたまのみこと)
  • 「大物主大神」(おおものぬしのおおかみ)
  • 「布留御魂大神」(ふるのみたまおおかみ)
  • 「日本大国魂大神」(やまとおおくにたまおおかみ)
  • 「別雷命」(わけいかずつのみこと)→上賀茂神社
  • 「大歳御祖大神」(おおとしみおやおおかみ)などです。
    古代、韓国の人々は、天上界の神々は、山岳にそびえ立つ高木から降臨すると信じていました。「高木の神」とは、きわめて朝鮮的な神です。スクナヒコナとタカミムスビの関係は、どうでしょうか。『富士宮下文書』は、スクナヒコナは、タカミムスビの曽孫(ただし養子である)であるとし、「祖佐之男命、朝鮮新羅国王の四男・太加王」

    と具体的に記しています。

    この「太加王」(たかおう)説の真偽のほどは、諸説あり定かではありませんが、スクナヒコナとタカミムスビとの関係の深さはわかります。タカミムスビは、実在した人物ではなく、観念的な神でしょうが、スクナヒコナに代表される「昔(ソク)」族とスサノオの親密ぶりを、伺い知ることができます。

    スサノオが、「出雲」に侵攻して以来、「統一奴国」の本拠地は「出雲」であったはずです。従って、「統一奴国」の国土経営は、「出雲」に政庁をおいて繰り広げられていました。「出雲」のオオクニヌシであったオオナムチは、「統一奴国」の総理大臣的な存在であったのでしょう。その上に君臨していた人物、「牛頭天王」ことスサノオであり、文字通り、天皇です。

    しかし、スポンサーであったスクナヒコナの死により、この法則は崩れ始めました。朝鮮半島での基盤を失ったのです。さらに、オオナムチに、追い打ちをかける衝撃の事件が起こりました。スサノオの死です。

    『記紀』には、去っていったスクナヒコナのことを、オオナムチが嘆いていると、海を照らして神がやって来たと記しています。この神は、「大和」の三諸山に住みたいと言い、三輪山の神だといいますが、この物語こそ、スサノオ尊の死を暗示していると思われます。

    『日本書紀』は、この神は次のように述べたとしています。

    「もし私がいなかったら、お前はどうしてこの国を治めることができたろうか。私があるからこそ、お前は大きな国を造る手柄を立てることができたのだ。」

    これはスサノオが死に際して、オオナムチに述べた最後の言葉です。そして、スサノオは、自らを三諸山に祀るように、オオナムチに依頼したのでしょう。もちろん、「大和」の三諸山ではなく、オオナムチが国土経営を成功させたのは、「出雲」です。そこに、おおよそ関係がないと思われる、三輪山の神が、どうして入り込んでくるのでしょうか。つじつまを合わせるために他ならないのです。

    確かに、「ヤマト」は勢力範囲であったかもしれありませんが、三輪山の神に比定するにはかなり無理があります。

    三諸山は三諸山でも、「出雲」の三室山すなわち、八雲山ではないでしょうか。そこは、スサノオが住居を定めていた場所であり、出雲発祥の地であるからです。

    2.日本の名付け親

    2世紀後半の北九州で起きた「倭国大乱」の頃には、すでに河内・大和を中心とした地域に勢力が確立していきました。生駒山周辺には、天磐船の伝説が残る河南町や交野市の磐船(イワフネ)神社、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社など、物部氏ゆかりの神社が数多く、それ以上に谷川健一氏が注目するのは、この河内平野一体から多数の銅鐸が出土し、石切劔箭神社に近い鬼虎川(キトラ)遺跡から、弥生中期のものと見られる銅鐸製作の跡が見つかっている点です。

    さて、手がかりになるのが、神武東征で軍勢が日向から大阪湾の白肩之津(枚方市・上方では「し」が「ひ」に変化して発音されることが多く、「ひらかた」となった)に上陸して生駒山の西側にある孔舎衛坂(くさえさか)[*1]の戦いで、ニギハヤヒに使えた土地の豪族である長髄彦(ナガスネヒコ)に負かされたという。孔舎衛坂は河内国草香邑(大阪府東大阪市日下町))の地だろうとされています。この場所は、ニギハヤヒが神武東征に先立ち、河内国の河上の地に天降りた場所です。「日下」「ヒノシタ」と書いてなぜ「クサカ」と読むのでしょう?

    それは、枕詞の転化であるとしています。
    たとえば、明日香の枕詞は飛鳥であり、「トブトリ ノ アスカ」と呼び慣わしていたのが、時代が下るに従って、枕詞の飛鳥だけでアスカと読むようになったのと同様に、草香の枕詞は日下であり、元々「ヒノモト ノ クサカ」と呼んでいたものが日下だけでクサカと呼ぶようになったということです。
    しだいに日本(ひのもと)という字が当てられ、倭国から日本という国名に変わったというのです。

    『記紀』の天孫降臨コースは、アマテラスオオミカミという一番えらい神様が、(自分の孫の)ニニギノミコトという神様に、
    「この稲の穂と、神の三つの宝の鏡・曲玉・剣をもって地上に降りていきなさい。そして、日本の国(葦原中国)がもっといい国になるように頑張ってきなさい。」
    といい、それでニニギノミコトは神様の国を離れて、筑紫の日向の高千穂という場所に降り立つのですが、『先代旧事本紀』の降臨コースは全然違っています。

    ところが物部氏に伝わる氏族伝承を中心とした『先代旧事本紀』によると同じような内容が記されています。

    谷川健一氏によると、

    「新唐書」にかかれている「日本(ヒノモト)」とは、まさにこの物部氏の王国であり、4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト政権」によって征服された過程こそが、神話にある神武東征だったのではないかと推理しています。

    「日本書紀」に書かれている「神武東征(じんむとうせい)」の物語に登場する東の美地とは、ニギハヤヒが建てて消えた銅鐸文化の国、すなわち物部氏の「日本(ひのもと)」に他ならない。
    としています。
    4世紀に入ってきた新たな勢力「倭=ヤマト王権」である神武が再び日本を襲い、物部氏の小国「日本」を征服した際に、王国のシンボルであったおびただしい銅鐸は、土中に隠され、あるいは破壊された、というのが氏の結論です(石野博信館長は時代的に50年のタイムラグがあることを指摘)

    その後、物部氏の主流はヤマトに屈服してヤマト王朝に重用されますが、なかには長髄彦蝦夷(エニシ)と呼ばれる同盟異族とともに、北へ東へ奔った者もいました。それについては何故か正史「日本書紀」には残されていません。ヤマト朝廷の誕生は、敗者を再び日の当たる場所=日本(ヒノモト)に登場させることはありませんでした。
    饒速日命=物部氏こそが、我が国、「日本」の本当の名付け親であるといえるのではないか?

    という想像が浮かび上がるのです。

    3.二つの日ノ本

    ニギハヤヒ亡き後、末娘・伊須氣余理姫命は、日向から従兄弟の狭野(伊波礼昆古)命を婿養子に迎え、大和国王を継いだ。初代・神武天皇でスサノオ尊の孫にあたります。

    また、ニギハヤヒが子のウマシマジノミコトを有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれています。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。

    [*1]草香江 当時の大阪湾は、旧淀川からずいぶん上流までが大きな入江でした。河内湾は河内湖、河内潟へと変化し、すなわち草香江(くさかえ)呼ばれていた。草香江は淀川・大和川の2つの大河川が流入してくる反面、排水口は上町台地北方の1箇所のみであり、しばしば洪水を起こしていた。4世紀後期もしくは5世紀初期のオオササギ王(仁徳天皇)は上町台地上の難波に宮殿を置いたが、草香江の水害を解消するため難波の堀江という排水路を築いて現在の大阪平野の姿ができた。その後、河内湖の干拓・開発が急速に進んでいき、湖から湿地へと変わったが、完全に陸域化したのは、豊臣秀吉が大坂城築城の際に、淀川を大改修し、江戸時代の大和川付け替え工事以降のことである。

    [*2]…古事記では正勝吾勝勝速日天忍穂耳命、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命、日本書紀では天忍穂耳命、先代旧事本紀では正哉吾勝々速日天押穂耳尊と表記する。葦原中国平定の際、天降って中つ国を治めるようアマテラスから命令されるが、下界は物騒だとして途中で引き返してしまう。タケミカヅチらによって大国主から国譲りがされ、再びオシホミミに降臨の命が下るが、オシホミミはその間に生まれた息子のニニギに行かせるようにと進言し、ニニギが天下ることとなった(天孫降臨)。

    [*3]…『日本書紀で』は饒速日命、『古事記』では邇藝速日命