DNA研究による日本民族

DNA研究の進展

長いあいだ、日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人であるとする埴原和郎氏らの二重構造説が占めていた。しかし、少なくとも、従来の時代的概念としての「縄文人/弥生人」という単純な図式では説明できないとする説が台頭し、今日では埴原氏の二重構造説には多くの批判がある。

他方、日本人が重層構造であることは人類学者・考古学者の間では支持する意見が強く、また、分子人類学的なDNA解析(ハプログループによる地域的分布の解析)もあくまで生物学的データであり、文化的な交流や、実際の移動の実態および移動の理由などについては、今後も文化人類学、歴史学、考古学など周辺諸科学の総合的な調査が求められる。

1980年代からのミトコンドリアDNA研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった(ミトコンドリア・イブ)。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、また民族集団の系統も推定できるようになった。ただし、ミトコンドリアDNAは、形態の生成に関与しない遺伝子であり、DNAタイプ(ハプロタイプ)と形質的特徴(骨格、体格、顔、皮膚など)とは必ずしも対応しないとされている。

つまり簡単にいえば、DNA解析はあくまでもその手法による分類であり、文化的な交流やどのように移動していったはそれだけでは分からないのであるが、この母系をたどるミトコンドリアDNAに対して、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半から研究が急速に進展した。

ヒトのY染色体のDNA型はAからRの18系統があり、
これらは
アフリカ限定のA系統とB系統
出アフリカのC系統、DE系統、FR系統
に2つに大きく分けられる。

崎谷満氏の分析によれば、これら5系統のうち、世界の多くの地域ではせいぜい2系統しか見られないが、日本人にはC,DE,FRの出アフリカ3系統すべてが見られ、従来の予想に反して日本人の遺伝子は多様であることが分かったのだ。日本人は、D2系統とO2b系統を中心に、多様な系統が混じり合っていることが分かった。

これは、日本列島への渡来人は、一時期に集中して起こった訳ではなく、幾つかの渡来の波があったことを示し、また、そのルーツに関しても、黄河流域~山東半島、揚子江流域からの南方ルート、満州~朝鮮半島から、樺太など北方ルートの3つがあり、渡来の規模とともに今なお議論の対象となっている(最近の遺伝子研究ではおおむね渡来人は北東アジア起源が有力)。

縄文人は海洋民族

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縄文人は海洋民族

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『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、

 文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

日本各地から出土する異物は、太平洋諸島、沖縄列島、日本列島周辺で活躍する海洋民族の存在を示し、それが1万数千年といわれる縄文文化の一翼を担ってきた。
この時代の船は、縄文時代前期(6千年前)の千葉県加茂遺跡や福井県の鳥浜遺跡を始め、多くの遺跡から出土しており、その殆どが長さ6m以上、直径80cm以上の丸太をくり抜いた丸木船である。そして彼らの行動範囲が予想以上に広いことも分かってきた。

その証拠として近年、朝鮮半島南部から縄文遺跡が相次いで発見され、縄文時代の人たちはこの地まで進出していたことが明らかになった。

3千年前頃から縄文人たちは、九州あたりを出て朝鮮半島南部までの海を越えていたことがわかってきた。(中略)対馬からほど近い慶尚南道や釜山広域市で、最近相次いで日本列島から縄文時代の人々が渡っていたことを示す痕跡が見つかっている。
東三洞貝塚では大量の縄文土器と九州産の黒曜石が出土した。朝鮮半島には独自の土器があり、縄文土器は縄文人がやって来た確かな証拠品といえる。朝鮮半島で特に貴重であった黒曜石を携え、縄文人たちは交易にやって来たのではないかと考えられる。(はるかな旅4)

だが、あの重い縄文土器を小さな丸木船に大量の乗せたうえでの渡航は考えられない。長期にわたり縄文時代の人たちが半島南部で生活し、土器を作っていたからこそ大量の土器が発見されたのであろう。さらに九州産の黒曜石が発見されたことから、彼らは消耗品である黒曜石を供給するため、定期的に往来していたに違いない。

今まで「大勢の渡来人が日本へとやって来た」とされた時代があった。逆に、かなりの日本人が半島へと進出していたのだ。半島南部から発見された多くの遺跡や縄文土器、弥生土器がこのことを証明している。

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』 長浜浩明氏で、「倭人は朝鮮半島にも住んでいた」で、このあと、新羅・百済、加羅のち任那日本府も、縄文時代から続く倭がつくった小国家であったことにつながっていく。韓国人が聞くと発狂しそうだが、朝鮮から日本へもたらされた独産物や文化はない。

三国志・韓の条「韓は帯方郡の南にあり、東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。三種あり、一に馬韓といい、ニに辰韓といい、三に弁韓という。

実は縄文時代から多くの人々が日本から半島南部に移り住み往来していた。かなりの韓国人のDNAが縄文・弥生時代の日本人と相同であり、半島から出土する多くの縄文土器・弥生土器がこのことを裏付けている。

「韓国」とはシナの植民地名であり、朝鮮が南北に分断され北朝鮮と大韓民国「韓国」となった。朝鮮半島ではなく韓半島というべきとして迫り、一部のノー天気な歴史学者やメディアは「韓半島」と云うが、それはかつてシナが蔑視して周辺を蔑んで倭や韓と呼んでいたのに朝鮮から韓国に戻して喜んでいることを知っているのだろうか?要するにシナの属国だと宣言しているのであるから。まあそうなりつつあるのは皮肉だ。

日本民族は世界最古の発明家

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日本民族は世界最古の発明家

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[catlist id=582]長い間、日本では稲作は弥生時代に朝鮮半島からやってきた渡来人がもたらしたと思い込まされてきた。

『日本人のルーツの謎を解く』長浜浩明氏は、こう述べている。

 日本では長らく昭和24年(1949)、群馬県の岩宿遺跡の発見で、旧石器時代から人々が住んでいたことが証明された。そしてこの約3万年前の地層から磨製石斧が見つかった。これまで磨製石器が登場するのは約1万年前の新石器時代からというのが定説だった。

その後、日本各地で3~4万年前の刃の部分だけが研磨された局部磨製石斧が発見されてきた。世界最古の発明といえる。また狩猟用の「落とし穴」が約2万7千年前の箱根山西麓遺跡群などから発見されているが、これも世界に類を見ない発明だった。

文明の先進性を測る尺度の一つである土器について見ると、平成十年(1998)、青森県大平山元I遺跡から1万6千年前の土器が出土した。それまでの世界最古の土器は約8千年前というから、エジプトやメソポタミアはもちろん、中国人が自称する偉大なる中国民族より何千年も前から日本列島の人々は土器を作っていた。世界の四大文明より数千年も早い9千5百年前の九州の上野原遺跡からは、弥生土器と見間違う約7千5百年前の土器も発掘されている。つまり縄文時代の人たちは世界の最先端を走っていた。

また木造建築の先進性の証拠として、1万2千年前から弥生時代まで続いた富山県の桜町遺跡から、精巧な木組みを用いた4千5百年前の高床式建物が出土した。この事実から、高床式建物は稲作と共に渡来人がもたらした、なる説も誤りであったことが確定した。そして約35cmを単位とする尺度があったとも考えられ、奈良の法隆寺や東大寺の技術的基礎はこの時代から育まれていたのである。

平成12年(2000)、北海道の垣の島B遺跡から漆器が発見された。これは朝鮮など問題外であり、中国より2千年も早い世界最古の漆器だった。

使われた漆は日本固有種であり、縄文時代の人たちはこの分野でも世界の最先端を走っていた。発明の古さと、縄文時代の行動範囲が朝鮮半島から大陸までに及ぶことから、文明の基本、土器、漆器などの技術は、日本から彼の地へと伝えられた可能性も否定出来ない。年代からして逆はありえない。

(中略)

文字のない時代、日本に天文学があったかは不明だが、約8千年前の三宅島や本土の縄文遺跡から、伊豆諸島の神津島産黒曜石が発見されている。約6千年前の八丈島の縄文遺跡からもこの黒曜石が発掘されているから、この時代の人たちは見えない島を目指して黒潮を乗り切る航海術を持っていたことになる。星や太陽の運行を理解していなければ外洋を乗り切り、見えない目的地に到達することは不可能だから、当時の人々は天文学の知識を持ち、使いこなしていたに違いない。また太陽進行を意識して造られたストーン・サークルや日時計を思わせる遺跡も、各地で発掘されている。縄文人は農業も行っていたから何らかの暦を使っていたに違いない。

ものづくりのアイデアで定評ある器用な日本人。その起源は縄文時代から日本民族にあったのだ。

日本民族のルーツに関する論議は江戸時代から行われてきた。そして明治以降、日本に招聘された欧米の学者が、考古学や人類学を持ち込むことでルーツ研究が盛んになり、この時の彼らの判断が今日まで影響している。
例えば、米国の動物学者で東京帝大教授として招聘され、大森貝塚を発見したことで有名なエドワード・モースは、「本土には本土人ともアイヌ人とも違う人々・縄文人が住んでおり、彼らは今の日本人の祖先とはいえない。記紀の“国生み”“天孫降臨”“神武東征”などが、天皇の祖先が渡来し、先住民を征服したことを物語っている」と主張したという。
またモースらは、縄文土器と弥生土器を作った人々は連続していないとし、この説が大正期以降に定着した。つまり「日本人の先祖は縄文人ではなく渡来人である」なる説は、明治・大正期のお雇い外国人によってレールが敷かれたというのだ。

(中略)

縄文研究で知られる小山修三・国立民族博物館教授(当時)は、「縄文人はおしゃれで、髪を結い上げ、アクセサリーを着け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器・土器・織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。
聖なる広場を中心に計画的に造られた都市があり、人口は500人を超えてたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食糧の交換ネットワークが有り、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。
先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアミニズム的な世界観を持っていた。」(『縄文への道』NHKブックス1996)

中国の歴史を調べてみると、この時期は、春秋戦国時代の終わり頃で、秦の始皇帝が、西方から東方へと侵略し、多くの国を滅ぼしていた頃です。滅ぼされた国の上流階級の人々は、ほとんど皆殺しにされたようで、その難から逃れた人々が、一斉に、外洋航海に出たのではないかと推定できます。
北九州や山口を中心とする弥生人骨を分析すると、縄文人とはかけ離れ、中国の山東半島の人骨とかなり似ているとの結果がでている。 彼らのルーツを求めて、朝鮮半島南部の慶尚南道金海と南部の勅島(ヌクド)の人骨、中国は山東省の漢代の人骨を対象に調査されました。ところが、朝鮮半島2ヶ所の人骨には土井ヶ浜の人たちと同じ形質は認められず、中国山東省の人骨は、極めてよく似た形質を持っていることが確認されました。弥生人のルーツはやはり中国だったという説が有力になりました。彼らは元々日本列島に住んでいた人々ではなく、稲作の盛んな江南からやってきたのではないかという説が裏付けされたのです。

また、魏志倭人伝に書かれているように、中国を訪問した倭人は「呉の太伯の子孫である。」と言っているが、この国は、春秋戦国時代に江南地方にあった国である。春秋戦国時代の呉はBC473年に滅亡している。

弥生時代以前から稲作はあった

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弥生時代以前から水田稲作はあった

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これまでの固定観念を覆す新たなる大発見

近年、日本海側の山口県から青森県に至る広域で、これまでの歴史学をひっくり返す新たな発見が起きている。青森の三内丸山遺跡の発見(1992)や、島根県雲南市の加茂岩倉遺跡(H8・1996)では、これまでの全国で見つかった総数を出雲一か所で上回るような大量の銅剣・銅鐸が見つかったり、鳥取県米子市淀江町の伯耆・妻木晩田遺跡群(H10・1998)は、発掘当初国内最大級と注目された吉野ヶ里遺跡を5倍も上回る規模とされ、また同じく鳥取県鳥取市青谷町では、因幡・青谷上寺地遺跡は弥生時代後期の100人分を超える人骨が見つかった。日本で初めて弥生人の脳が3人分発見され、また110点に殺傷痕が見られ、倭国騒乱のようすを示す大発見である。これまでの考古学の常識を覆す発見が相次いでいる。

縄文時代から弥生時代に変化し、弥生時代は、水稲耕作による稲作の技術をもつ集団が列島以外から北部九州に移住することによって始まった時代であるとされてきた。縄文晩期から日本民族によって水田稲作は始まっていたことがわかってきた。稲作=水田稲作という図式でいえば、縄文晩期を除けば弥生時代に始まったとされた定説が年代が縄文晩期に遡っただけと言えるかも知れない。しかし、稲作は水田稲作とするのは正しくない。アジアには、例えば焼き畑のように、水田ではない環境で栽培されているイネがいたるところにある。

縄文人は山麓で原始的な狩猟採集をして、入江や海岸部では魚介類を食して暮らしていたと小中学校で教わってきた。ところが近年全国で見つかった新たな遺跡が、これまでの定説を覆していることは既に前項で述べてきた。

現在までに島根県や鹿児島県など全国で30ケ所を上回る縄文遺跡から、縄文前期(6,000~5,000年前)のプラントオパールによる稲作の痕跡がコンスタントに見つかってきていることから、日本の米作りは太古6千年前も縄文前期から途切れることなく現在まで連綿として続いていることがわかってきた。

日本には野生のイネがないことが、プラントオパール分析法んびよる稲作確定の根拠となっている。稲作を含む縄文農耕は、ほぼ確実な情勢となった。

ムラとクニの誕生

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集落(ムラ)の誕生
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集落(ムラ)の誕生

第一章 縄文期の章で触れたが、日本民族には複数のDNAがあるように、陸続きだったころから少しずつ北方や朝鮮半島、あるいは南方から海を渡ってやって来た人々がいた。やがて日本列島は大陸と離れ、長い年月の間に縄文人というオリジナルな文化を持った日本民族を形成したのだ。弥生時代においても少しは渡来人はいただろう。しかし、それまでと同様、当時の縄文総人口に比べてごく少数であった。朝鮮半島から、あるいは秦氏や呉に滅ぼされた越人が江南から大量にボートピープルがやって来て稲作などをもたらし村ができていったのが弥生時代だという説は、縄文晩期から水田稲作やクリなどを栽培していた遺構が発見されてきたことで覆されている。

“日本人が渡来人達によって稲作や文字・技術がもたらされた”
この史観がシナや朝鮮半島にどこか敬意や遠慮をする観念をいだいてマインドコントロールされてきたのではないだろうかと思う。

縄文晩期には佐賀県唐津市の菜畑遺跡で現時点では日本最古の灌漑施設を伴う水田遺構が見つかった。北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。

弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がみつかっています。

弥生時代中期前半には、北九州一帯の人口が急増し、「邑(ムラ)」単位から共同体になり、いくつかの共同体がさらに地域国家が形成されるようになります。「ムラ」は群れ(ムレ)から派生したといわれています。初めて王が生まれたのは、九州北部の奴国と伊都国の2カ所とみられています。最初の弥生人が列島に降りたってから約900年後の紀元前50年ごろのようです。

最初の王になったのはその最初の弥生人の子孫かというと、どうもそうではないようです。弥生の王は、農具はもたらしましたが、自衛のために武装するという発送はあまりなかった。しかし、弥生の王は、青銅器の武器で身を飾っっていたことが墓の発掘調査から浮かび上がります。第一次弥生人が運んできたものは、ほとんどが朝鮮半島製なのに対して、王の手元には鏡など中国製の物品が目立ちます。

5.王の誕生

弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、

「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」

しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。

血筋など関係のない実力主義社会なのであるから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。

リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。

首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。

環濠集落

弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。

しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。

一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。

これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。

また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。

弥生文化のルーツは朝鮮や中国亡命人たちではない

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きる。現在の日本列島の地形ができあがった。新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。稲作も水田稲作になったのもこの時期ではないだろうか。

半島から伝わったのではなく、新羅や百済、加羅は倭人が先住人を巻き込んで築いた小国がもととなっている。つまり、百済や新羅から伝わったのではなく、倭が半島南部を開拓したので逆さまなのである。

これは倭国(日本)も朝鮮半島も、まだ「クニ」と言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が東シナ海沿岸の半島南部や九州、西日本に伝わった時代は大差がないと考えられる。縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいる。弥生時代は700年かけて先住の縄文人と少数の渡来人がゆっくり日本列島に広がっていき、水稲耕作と道具いう食文化を通じた緩やかな統合だったのです。

最初の日本人はどこから来たのか

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最初にやって来た但馬人はどのようにやって来たのだろう。そもそも、われわれの日本人の祖先はどのように日本列島にやってきたのであろうか。

約100万年前から、地球は氷河期時代に入っていた。現在より10度も気温の低い寒冷な時期がくり返し訪れた。海に流れ込むはずの水が陸地で凍りついてしまうため、海面は今より100mも下がったため日本列島は何回かアジア大陸と地続きになることがあり、日本海も大きな湖となってしまうこともあったようだ。しかし、太平洋の暖かい海流にふれる日本列島は、氷河期にも厚い氷に覆われることなく、草原には植物が茂っていたので、マンモスやナウマンゾウ、ヘラジカなどが大陸から移ってきた。それらの動物を追って、シベリア南部から、数万年前についに日本列島という住みやすい場所を発見したのが最初かも知れない。

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。兵庫県にも旧石器時代の遺跡は多いが、北部但馬・丹波は少ない。

長い間、歴史学者の多くの人は、日本は中国や朝鮮半島から漢字や文化が伝わったとするのが定説となっていた。秦氏は秦の子孫で、日本列島に大量移動して水稲稲作や道具・神社などの建築技術をテクノクラート(技術集団)が縄文人と融合したのが弥生人だと、まるでゲルマン民族大移動を思わせる。

ところが、そうした価値観に浸っていない科学的な研究や新たな発見により歴史は覆ろうとしている。縄文時代からすでに 水田稲作は行われていたのではないかといわれている。近年になって縄文末期に属する岡山県総社市の南溝手遺跡の土器片中からプラント・オパールが発見されたことにより、紀元前約3500年前から陸稲(熱帯ジャポニカ)による稲作が行われていたことが判明し、また水稲による温帯ジャポニカについても縄文晩期には導入されていましたことも判明しつつある。稲作も弥生時代の始まりもはっきりと定義できない状態になってきた。近年の放射性炭素年代測定により弥生時代の始まりが少なくとも紀元前10世紀まで遡る可能性が出てきているのだ。

青森県三内丸山遺跡をはじめとする近年の発掘調査の結果により、縄文文化は想像以上に高度な文化をもっていたことが判明し、縄文観を根本から見直さなければならなくなった。世界四大文明と呼び、日本はそれより新しいとされてきた。しかし、日本文明をそれらに並ぶ文明として位置づけなくてはならない可能性も出てきたのである。縄文人がすでにコメをつくっていたこともほぼ確実となり、弥生時代の始まりを単に「稲作の開始」と定義することができなくなりつつあるのだ。

日本が縄文文化を営んでいる頃、中国大陸をはじめ世界の多くの地域ではすでに本格的な農耕社会が構築されていた。しかし、縄文人はコメを手に入れてから千年以上ものあいだ、農耕生活に移行しなかった。それにはわけがあった。日本列島は豊かな温帯林に包まれ、周囲を海に囲まれ海の幸が豊富で、なお山海の幸にも恵まれていたため、縄文人の食生活は安定し、食うに困るような状況になかた。ヤマブドウでワインを作っていた形跡も見つかっている。縄文人たちは竪穴住居で火を囲み、質素な暮らしをしていたとわれわれが想像していた固定観念が覆ろうとしているのだ。縄文人は好きなときに豊富な山海の食べ物とワインを嗜むグルメなのであった。いや山ではぶどう・木の実、山菜を、海や湖でハマグリ、アワビ、アサリ、シジミなどの貝や魚が取り放題なのだから、現代より豊かであるといえる。採取を基礎とする社会で日本列島ほど安定した社会は世界史上稀であった。そのため、水田稲作を取り入れる必要がなかったというのが、縄文人が水田稲作に興味を示さなかった理由だと思われている。

しかし、縄文晩期になると再び寒冷化が起こり、環境が変化して自然の生産力が低下しました。このような時期に大陸から水田稲作と金属器の高度な技術が入り、それを契機として、縄文人も重い腰を上げて稲作に着手することになったのではないだろうか。

では縄文晩期において縄文人の食糧事情が極度に悪化したかというと、そうではないようです。縄文晩期の貝塚に鳥獣の個体が増える形跡はないし、そのころの縄文人の骨や歯に、成長が止まるような生涯は観察されていません。寒冷化によって自然界の生産力が低下したとはいえ、縄文人の食糧事情が極度に悪化したことはないといえます。

すると、縄文人は自然環境が変化するなか、余裕をもって農耕社会に移行していったと考えられます。縄文人が稲作を始めたのは紀元前五世紀ごろでしたが、その移行の速度は極めて速かったのです。それまでに蓄積した知恵と技術をもって、急速に水田を開拓しました。縄文時代から弥生時代への移行は数百年のうちに本州北端まで伝搬し、西日本と東日本でほぼ同時であったことが明らかにされています。

参考:兵庫県立考古博物館遺跡データ、但馬考古学研究会

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2010年2月19日

日本人はどこから来たのか

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日本人はどこから来たのか

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最初の日本人

現在までに、日本列島全域で5,000カ所を超える遺跡が確認されている。これらの遺跡のほとんどが約3万年前から12000年前の後期旧石器時代に残されたものである。地球的規模でみても、古くから人類がいたことがわかってきた。人類と人(ヒト)の区別は難しいが、猿人が石器を使い始めたのが大体200万年前と考えられており、我々現代人と同じグループの、代表としてはクロマニョン人と上洞人など新人類が登場したのが、20万年前くらいと考えられている。

道具については、猿人のころから石で石を叩いて、割れて尖った石を道具として使っていたようで、石で出来た道具である石器を使っていた時代のことを石器時代と言う。石器時代は石器の発達に応じて旧石器時代・新石器時代に分けられ、旧石器時代は200万年前から紀元前8千~紀元前6千年くらいまで、それ以降は新石器時代といい、旧石器時代との違いは、旧石器時代は前出のとおり石を叩いて作る打製石器を使っていたのであるが、これだと思う通りの形のはならないので、割れた石を磨くことで思い通りの形に仕上げて使うようになる。これを磨製石器と言い、これが使われていることが新石器時代の特徴である。

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日本人はどこから来たのか 5/8 同時期に伝わった鉄器と青銅器

中国では、殷代には既に鉄器が発見されているが、中国戦国時代が青銅器時代から鉄器時代への移行期と言われている。本格的な鉄器の普及は前漢時代とされる。中国戦国時代の記録を見ると秦は、高度に精錬された青銅器武器を使っていた。日本では対照的に縄文時代末期から弥生時代に青銅器と鉄器がほぼ同時に流入している。

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏

28 鉄器の出現

日本は、鉄器の出現は、縄文時代末期です。福岡県曲り田遺跡出土の鉄片(板状鉄斧の頭部といわれます)は、水稲耕作とともに伝播したと考えられ、縄文時代末期に用いられたとみられます。また、熊本県斎藤山遺跡は弥生時代全期を主体とする貝塚で、夜臼式と板付I式の混在する貝層から、鉄斧が出土しています。

中期には、石製工具の消失や木製農具の製作法の変化などがみられ、何れも鉄器の使用を想定しなければ理解できないことから、鉄器が普及していたことがうかがえます。
鉄器普及が顕在化するのは、福岡県立岩堀田遺跡の例のように、中期後半のことで、この時期に、「王」制が確立する段階を迎えました。生産力の発展段階においても時代を画する重要な時期となっています。

つまり、中期中頃、あるいは中期後半に当たる福岡県の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡では、青銅器武器や前漢鏡・ガラス製品などがみられるものの、鉄器はみられません。しかし中期後半の福岡県立岩堀田遺跡では、鉄製武器と前漢鏡・ガラス製品の組合せとなっており、武器を中心に、青銅器から鉄器へと材質が転換していきます。

後期に入ると鉄製農工具が激増します。長崎県原ノ辻・カラカミ遺跡、福岡県大南遺跡などで多量に検出されるように、摩耗・破損した鉄器は再使用されることなく廃棄されています。それは潤沢な供給を抜きにしては考えられません。

それらの検出遺構は、中期後半には墓だったものが、後期には住居跡や包含層へと変化している点からも普及ぶりが分かります。

鉄器の場合、初期の例を除いて形態的な特徴から、多くは国内生産と考えられます。つまり、前期初頭~中期前半は船載品の工具(手斧、刀子など)が主体をなし、前期末よりヤリガンナ、鏃(ヤジリ)、刀子など小鉄器が、中期前葉より斧など工具が国内生産されました。そして中期中葉に武器、中期後葉に鍬(クワ)などの農具の生産が開始されます。

29 青銅器の鉄器の普及

弥生時代は、水田稲作の時代でもあり、また金属器の時代でもあります。前期末には、船載された武器を主体とする青銅器と、国内生産された工具を中心とする鉄器が出現します。

中期前半には、剣・矛(枝がないほこ)・戈(クヮ・ほこ)の他に腕輪や多紐細文鏡などが加わります。そして、この頃までに青銅器の国産化が始まります。つまり、中期前半で基本的に姿を消す細形銅矛の鋳型が佐賀県惣座遺跡・吉野ヶ里遺跡の二遺跡で検出され、また佐賀県姉遺跡出土の中期初頭~中頃の銅剣鋳型は、朝鮮半島に例を欠く中細形銅剣で、さらに前期末の福岡県有田遺跡の細形銅剣などに国産の可能性が指摘されます。

中期後半以降、中国からの船載の銅鏡や鉄製素環頭刀などが見られるものの、青銅器・鉄器の多くは国内生産されます。

中期後半になると、副葬品は、青銅製武器が姿を消し、鉄製武器が銅鏡とともに主役になります。前期末に日本に流入した青銅器武器は、副葬されなくなったこの時期に、祭器・儀器に変質して大型になり、祭祀遺構に埋納され、それまでの実用的性格が祭祀用的性格に変質します。

一方、鉄器は、国内生産が開始された時点から工具を中心とした実用品で、墳墓には埋納されません。中期後半には、福岡県立岩堀田遺跡に象徴されるように、余剰を掌握した「王」が出現し、鉄器武器を独占するようになりますし、その一部が墓に副葬されます。

金属器は当初、朝鮮半島南部から流入しますが、中期後半かやや先行する頃、甕棺墓副葬の前環鏡や鉄製素環頭刀、ガラス器などにみられるように中国の影響が出始め、以降、対馬を除き船載品は圧倒的に中国製となります。

中期後半は、それまで朝鮮を主体としていた外的影響力が、漢(中国)に転換する時期であり、その最大の契機は、前漢武帝の四郡設置(前108年)による朝鮮半島の直接経営と、それに続く鉄製武器の輸出解禁(前82年)です。

ガラス製品や一部の鉄製武器など中国製品が登場する中期中頃や、前漢鏡や鉄製素環頭刀・ガラス璧など圧倒的な中国製品の世界となる中期後半は、漢帝国の影響を受けたものです。

30 銅鏡と鉄器の東遷

弥生時代の青銅器鋳造遺跡は、福岡県春日市須玖岡本遺跡を中心とする春日丘陵一帯、大阪府茨木市東奈良遺跡を中心とする一帯が知られています。特に春日丘陵は、弥生時代最大の青銅器生産拠点で、鏡・剣・矛・戈・鐸など多種類の青銅器を鋳造するほか、ガラス勾玉を製作し、さらに鉄器の生産も行っています。ことに中広銅矛は独占生産しています。

高倉洋彰氏(1943~、西南学院大学教授)は、銅鏡・鉄器が当選していく状況を、およそ次のように述べています(『日本金属器出現期の研究』などの内容から要約)。

○中期後半の遺跡の出土鏡はすべて前漢鏡で、そのほとんどは筑前にあり、特に糸島・福岡の良平屋に集中している。

○次に、後期前半の遺跡の出土鏡(前漢鏡系の鏡と後漢鏡)は、面数は糸島平野が圧倒するが、遺跡数では佐賀平野の伸びが目立つ。この時期までは、例え破片であっても、副葬時には完形であったと判断されるものばかりである。

○停滞期をはさんで後期後半から終末、一部古墳時代初頭にかけて、再び後漢鏡が副葬されるが、一変してその分布は西日本に波及する。注目すべきは完鏡で、後期前半とほぼ同じ範囲の対馬・壱岐・佐賀県・福岡県にしか分布していない。

一方、破鏡や破片の鏡は、大分県や西日本一帯に拡大分布している。北部九州の一部に分布する完鏡に対し、鏡片が漢鏡の分布範囲を押し広げている。

○このような漢鏡の分布圏の変遷は、細形銅矛(玄界灘沿岸の諸平野に集中)→中細銅矛(細形銅矛分布圏が拡大)→中広銅矛(山陰地方、瀬戸内海沿岸から四国西南部まで拡大)と同じ方向性で、また銅剣やほう製鏡も同様。弥生時代青銅器の初源はすべて朝鮮半島や中国大陸に由来することから、自然な流れであるといえる。

○弥生時代、北部九州を中心に普及する鉄製武器は、鉄製農具と相前後して東遷する。鉄剣は後期後半~終末に瀬戸内・近畿では実態として古墳時代以降にみられる遺物である。

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日本人はどこから来たのか? 4/5 倭人の根拠地

『日本古代史入門』 著者: 佐藤裕一氏によると、

14 倭人の根拠地:朝鮮半島南部と北部九州

朝鮮半島南部と北部九州にいた「原倭人」は、早くから雑穀を栽培しており、ある程度の航海民的な性格をもち、稲作などをいち早く取り入れやすい条件をもっていました。ごく初期の稲作遺跡が、主に朝鮮半島南部(京畿道欽岩里遺跡出土炭化米で陸稲の可能性あり。紀元前1260±70~紀元前670±100など)と北部九州にみられます。

また、半島南部と北部九州から、耳飾り、釣り針、稲作遺跡・磨製石器、支石墓、管玉、合口式甕棺、漢代の銅鏡・銅矛・銅剣、広形銅矛、巴形銅器など、共通の遺物が出土しています。

共通の遺物の出土は、北部九州の文化が朝鮮半島南部へ伝わったとか、半島南部の文化が北部九州へ伝わったと考えるより、両地域にまたがって同じ民族の人々が居住していた、それが「倭人」である、と考えた方が上手く説明できるように思われます。

従来、弥生文化は、水稲栽培、金属器や弥生土器の使用などによって特徴づけられていましたが、水稲耕作と弥生土器の使用とは、分けて考える必要があります。

主に九州で水稲耕作が始まるのは今から3000年程度前で、その頃以降を「稲作時代」「稲作文化時代」と呼ぶことができます。そして、それから2400~2300年程度前まで、縄文晩期の土器が主に用いられる時代が続き、その後、弥生時代の土器が主に用いられるようになります。

この期間の変遷は、半島南部と北部九州の「原倭人」が、稲作などの文化を持った人々を受容し、融合して、「倭人」となっていく過程でもありました。

朝鮮半島南部には、かなり後の時代まで、倭人が住んでいたとみられますが、やがて白村江の戦い(663年)で、唐・新羅連合軍に敗れ、半島における足がかりを失います。

以上

したがって、江南から対馬海流に乗って漂流し、朝鮮半島南部・済州島、壱岐・対馬・北部九州などに漂着し、水田稲作とそれぞれ小さな村が連合して漁業を行い、やがて大規模な佐賀県の吉野ヶ里遺跡や福岡県の板付遺跡、さらに日本海沿岸に出雲国家連合やタニワ国家連合(中心は現丹後付近、但馬・丹波・若狭)から、越国家連合(越前、加賀、越中、越後)にかけて銅鏡・銅矛・銅剣、方形墓などを形成した時期だろう。

徐福伝承は中国の秦時代の人物で常世の国に薬をさがしにやって来たと言われているが、全国各地にあるが浦島伝説は徐福ではないかと思われ、とくに佐賀、丹後は多い。つまり秦氏でもあり、建築技術をもったテクノアラート(職人技術集団)であったと考えると、高床建築、銅鏡・銅矛・銅剣を製造できる人びとです。

倭人とは、東シナ海から日本海沿岸、あるいは瀬戸内海から紀国へ居住して弥生人という、縄文人と融合して独自の日本民族を形づくった製銅技術、織物技術、但馬牛の牧畜などをもっていたとすれば、それを弥生人と言うこともできる。

銅鐸が消える頃にあるいは消した勢力として、やや遅れて現れたのが新羅からやって来たとする天日槍(あめのひぼこ)で、記紀であえて「天日槍は新羅からやってきた王子」とするのは、その頃すでにそうした倭人が住んでいて、鉄の産地・伽耶(任那)から製鉄に必要な大量の森林を求めて銅に替わる製鉄集団が天日槍とされる集団ではないだろうか。「記紀」が記された頃の半島南部は馬韓は百済・弁韓は伽耶・任那、辰韓は新羅という統一国家からだったからなのであって、同じ原倭人が、鉄と森林を求めて当時の鉄の大産地・伽耶・任那からやって来たとも考えられる。

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