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集落(ムラ)の誕生
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集落(ムラ)の誕生
第一章 縄文期の章で触れたが、日本民族には複数のDNAがあるように、陸続きだったころから少しずつ北方や朝鮮半島、あるいは南方から海を渡ってやって来た人々がいた。やがて日本列島は大陸と離れ、長い年月の間に縄文人というオリジナルな文化を持った日本民族を形成したのだ。弥生時代においても少しは渡来人はいただろう。しかし、それまでと同様、当時の縄文総人口に比べてごく少数であった。朝鮮半島から、あるいは秦氏や呉に滅ぼされた越人が江南から大量にボートピープルがやって来て稲作などをもたらし村ができていったのが弥生時代だという説は、縄文晩期から水田稲作やクリなどを栽培していた遺構が発見されてきたことで覆されている。
“日本人が渡来人達によって稲作や文字・技術がもたらされた”
この史観がシナや朝鮮半島にどこか敬意や遠慮をする観念をいだいてマインドコントロールされてきたのではないだろうかと思う。
縄文晩期には佐賀県唐津市の菜畑遺跡で現時点では日本最古の灌漑施設を伴う水田遺構が見つかった。北部九州において環濠集落と水田稲作の本格的な開始という形で始まり、青銅・鉄の技術が加わり、さらには中国との交流が活発化する中で、充実していきました。次第に北陸・中部・関東・東北へと広まり、多様な弥生社会が成立していきます。
弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものとして、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がみつかっています。
弥生時代中期前半には、北九州一帯の人口が急増し、「邑(ムラ)」単位から共同体になり、いくつかの共同体がさらに地域国家が形成されるようになります。「ムラ」は群れ(ムレ)から派生したといわれています。初めて王が生まれたのは、九州北部の奴国と伊都国の2カ所とみられています。最初の弥生人が列島に降りたってから約900年後の紀元前50年ごろのようです。
最初の王になったのはその最初の弥生人の子孫かというと、どうもそうではないようです。弥生の王は、農具はもたらしましたが、自衛のために武装するという発送はあまりなかった。しかし、弥生の王は、青銅器の武器で身を飾っっていたことが墓の発掘調査から浮かび上がります。第一次弥生人が運んできたものは、ほとんどが朝鮮半島製なのに対して、王の手元には鏡など中国製の物品が目立ちます。
5.王の誕生
弥生時代には日本史上初めての王が誕生しました。かつての定説は、
「効率的な水田稲作によってたくさんのコメが余るようになり、富が一部に集まるようになった。その富を巡って争いが起きて支配者が生まれた。支配者はさらに民衆や他の集落から富を強権的に奪い合う。こうした弥生時代は戦争の時代だった。」
しかし、現実には弥生の農耕は豊富な余剰が出るほど生産性が高くなかったことが考古学の研究でわかっています。むしろ余剰が出ないほど生産性が低いため、強い意志と実行力のある人をリーダーにしないと共倒れしてしまう恐れがありました。
血筋など関係のない実力主義社会なのであるから、5、6世代と世襲を続ける王家は存在しませんでした。王といっても、後の時代の天皇やヨーロッパの王とはだいぶ印象が異なります。
リーダー、つまり王の最も重要な仕事は、安定したコメの集を維持することに尽きます。天下を取ろうという領土拡大への野望を持つ人物が就いたのではありませんでした。
首長から選ばれた王は、組織を統合するだけでなく、ムラの神々を統合する役割も果たしていきました。中国は当時、漢の時代。周囲の国々を侵略することによって空前の大帝国を築きました。「漢書地理志(魏志倭人伝)」には、倭人は百余国に分かれ、その一部である奴国と伊都国が漢の植民地である朝鮮半島の楽浪郡の朝貢したことが記録されています。力こそ正義という価値観を持つ漢帝国にあこがれた人物が日本で王となったのです。倭人伝には、対馬国(長崎県対馬)、一支国(長崎県壱岐)、末慮国(佐賀県唐津市)、伊都(イト)国(福岡県前原市~福岡市西区)、早良(サワラ)国(福岡市早良区)、奴国、投馬国などが記載されています。
環濠集落
弥生時代は、前代(縄文時代以前)とはうってかわって、集落・地域間の戦争が頻発した時代であったとする意見もあります。集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落などは、集落間の争いがあったことの証拠とされ、また、武器の傷をうけたような痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在なども、戦乱の裏づけとして理解されてきました。
しかし、近年ではこうした一面的な理解に対する反論も多く、未だ定説となるに至っていません。環濠は雨水や動物の進入を避けるためのもので、高地性集落は、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって、水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われており、未だ決着はついていません。
一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めているようです。
これに対して、受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠として扱うことが可能です。例えば、額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっていますが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、争いによる受傷者である可能性は極めて高いとされます。
また、人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されていて、これらは武器による受傷人骨であることが明らかです。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではありませんが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦闘が頻繁に起こったことは確実といえます。
また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半~中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められることが特徴的です。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされます。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられています。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少します。
弥生文化のルーツは朝鮮や中国亡命人たちではない
縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下が起きる。現在の日本列島の地形ができあがった。新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。稲作も水田稲作になったのもこの時期ではないだろうか。
半島から伝わったのではなく、新羅や百済、加羅は倭人が先住人を巻き込んで築いた小国がもととなっている。つまり、百済や新羅から伝わったのではなく、倭が半島南部を開拓したので逆さまなのである。
これは倭国(日本)も朝鮮半島も、まだ「クニ」と言うべき集合体が形成されておらず、国境も存在しないわけなので、縄文時代でも朝鮮半島を含む大陸と日本列島は自由に往来していたことが分かってきており、同じ中国を起源とする人々や文明が東シナ海沿岸の半島南部や九州、西日本に伝わった時代は大差がないと考えられる。縄文の土器と弥生の土器が同時期に存在していた集落や、縄文村と弥生村が隣同士で仲良く共存していた発見が相次いでいる。弥生時代は700年かけて先住の縄文人と少数の渡来人がゆっくり日本列島に広がっていき、水稲耕作と道具いう食文化を通じた緩やかな統合だったのです。