高天原神話2/2 天の岩戸(岩屋)

天の岩戸(岩屋)

アマテラスオオミカミも最初はスサノオノミコトを寛容な気持ちで受け入れていたのですが、スサノオノミコトがあまりにも好き勝手なふるまいをするので、怒ってしまいとうとう天の岩戸(あまのいわと)に隠れてしまいました。 高天原(たかまがはら)はすっかり暗くなり、地上にも日が照らなくなってしまいました。 これは今でいう日食の現象だともいわれています。 高天原(たかまがはら)では何とか元の明るさを取り戻すために、アマテラスオオミカミの気を引こうと、岩戸(いわと)の前で飲めや歌えの大宴会を開きました。アマテラスオオミカミは外があまりにもにぎやかで楽しそうなので、岩戸(いわと)の隙間からそっと外をうかがったところ、力のある神様が思いっ切り岩戸(いわと)を開け放しました。 このときに岩戸(いわと)の前で、アメノウヅメノミコトが踊ったのが神楽(かぐら)のはじまりという説もあります。 こうして高天原(たかまがはら)と地上は元の明るさを取り戻したのですが、スサノオノミコトはとうとう高天原(たかまがはら)を追い出されてしまいました。

伊勢神宮(いせじんぐう) 皇大神宮(こうたいじんぐう)

三重県伊勢市五十鈴川上
式内社
主祭神 天照坐皇大御神

神社本庁の本宗(ほんそう)とされ、正式名称は神宮。ほかの神宮と区別する場合には伊勢の神宮と呼ぶ。神階が無く、また明治時代から戦前までの国家神道における近代社格制度で別格とされたため、格付けはされない。

月讀宮(つきよみのみや)
内宮(皇大神宮)別宮
三重県伊勢市中村町
式内社(大)
主祭神 月讀尊(ツクヨミノミコト)

廣峯神社(ひろみねじんじゃ)
兵庫県姫路市広嶺山52
県社・別表神社 主祭神 素戔嗚尊 五十猛命
全国にある牛頭天王の総本宮 須佐神社(すさじんじゃ)
島根県出雲市佐田町須佐730
式内社 旧社格は国幣小社。出雲國神仏霊場第十八番。
須佐之男命を主祭神とし、妻の稲田比売命、稲田比売命の両親の足摩槌命・手摩槌命を配祀

『出雲国風土記』に、須佐之男命が各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めたとの記述がある。

須佐之男命を主祭神とするその他の旧官国幣社および別表神社

八坂神社(京都府京都市東山区)
津島神社(愛知県津島市)
氷川神社(埼玉県さいたま市大宮区)
八重垣神社(島根県松江市)

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高天原神話1/2 アマテラスとスサノオ

乱暴なスサノオノミコト

イザナギ・イザナミはさまざまな神々を生み出していったが、火の神カグツチを出産した際にイザナミは火傷で死ぬ。愛する妻を失ったイザナギはその怒りから迦具土(加具土)神を十拳剣で切り殺した(この剣に付着し、したたり落ちた血からまた神々が生まれる)。イザナギはイザナミをさがしに黄泉の国へと赴くが、黄泉の国のイザナミは既に変わり果てた姿になっていた。これにおののいたイザナギは逃げた。イザナギは黄泉のケガレを清めるために禊ぎをした。

黄泉の国(よみのくに)から戻ったイザナギノミコトはこのときもさまざまな神々が生まれました。最後に左の目からアマテラスオオミカミ(日の神、高天原を支配)を、右の目からツクヨミノミコト(月の神、夜を支配)を、そして鼻からスサノオノミコト海を支配)を産みました。

神様だから男でも、どこからでも、子どもを産めるんですね。 スサノオノミコトは海を守る神様なのに泣いてばかりいたので、怒ったイザナギノミコトはスサノオノミコトを海から追い出しました。 そこで人恋しくなったスサノオノミコトは、高天原(たかまがはら)に住む姉のアマテラスオオミカミを訪ねたのですが、ここでもせっかく耕した田を荒らしたり、機織り小屋(はたおりごや)に馬を投げ込んだりして、高天原(たかまがはら)では彼の乱暴ぶりにことごとく手を焼いていました。

最後に生まれたアマテラス・ツクヨミ・スサノオは三貴子(三貴神)と呼ばれ、イザナギによって世界の支配を命じられました。

『古事記』

『古事記』では、父イザナギが海原を支配するようにスサノオに命じたところ、スサノオは母イザナミがいる根の国(黄泉の国)へ行きたいと泣き叫び、天地に甚大な被害を与えた。イザナギは怒って「それならばこの国に住んではいけない」としてスサノオを追放した。

スサノオは、姉のアマテラスにいってから根の国へ行こうと思って、アマテラスが治める高天原へと登っていく。アマテラスはスサノオが高天原を奪いに来たのだと思い、弓矢を携えてスサノオを迎えた。

スサノオはアマテラスの疑いを解くために、2人でウケヒ(宇気比、誓約)をしようといった。二神は天の安河を挟んで誓約を行った。まず、アマテラスがスサノオの持っている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の3柱の女神(宗像三女神)が生まれた。この女神は宗像の民が信仰しており、宗像大社にまつられている。

多紀理毘売命(タキリビメ) – 別名:奥津島比売命(オキツシマヒメ)。沖つ宮にまつられる。
市寸島比売命(イチキシマヒメ) – 別名:狭依毘売命(サヨリビメ)。中つ宮にまつられる。
多岐都比売命(タキツヒメ) – 辺つ宮にまつられる。

次に、スサノオが、アマテラスが持っていた「八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠」受け取ってそれを噛み砕き、吹き出した息の霧から以下の5柱の男神が生まれた。

左のみづらに巻いている玉から 正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミ)
右のみづらに巻いている玉から天之菩卑能命(アメノホヒ)
かづらに巻いている玉から天津日子根命(アマツヒコネ)
左手に巻いている玉から活津日子根命(イクツヒコネ)
右手に巻いている玉から熊野久須毘命(クマノクスビ)

アマテラスは、後に生まれた男神は自分の物から生まれたから自分の子として引き取って養い、先に生まれた女神はスサノオの物から生まれたからスサノオの子だと宣言した。スサノオは自分の心が潔白だから私の子は優しい女神だったといい、アマテラスはスサノオを許した。

『日本書紀』

『日本書紀』の本文では、スサノオは五人の男神を産み、彼の心が清いことを証明している。

第一と第三の一書では男神なら勝ちとし、物実を交換せずに子を生んでいる。すなわち、アマテラスは十拳剣から女神を生み、スサノオは自分の勾玉から男神を生んでスサノオが勝ったとする(第三の一書ではスサノオは6柱の男神を生んでいる)。

第二の一書では、男神なら勝ちとしている他は『古事記』と同じだが、どちらをどちらの子としたかについては書かれていない。『古事記』と同じ(物実の持ち主の子とする)ならばアマテラスの勝ちとなる。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=YU6BDHadXQU&hl=ja_JP&fs=1&] 3/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた!』 「古事記」神話は何を伝える? 2008年

『古事記』と『日本書紀』を併せて『記紀』といいますが、風土記は記紀神話とは違い、その土地ならではの神話を伝えています。 『出雲国風土記』でも、大和の史官たちの手の入らない古代出雲人が伝承してきた純粋なものとして、出雲地方の言い伝えを正確に残しています。

たとえば、記紀神話で描かれるスサノオノミコトの「ヤマタノオロチ退治」やオオクニヌシノカミの「国譲り」は、『出雲国風土記』には記載されず、逆に「国引き神話」は、『出雲国風土記』だけに記された神話なのです。

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1.天地開闢(てんちかびゃく)3/5 国の誕生・神々の誕生

イザナギノミコトとイザナミノミコト

はるかな昔のことです。どろどろした固まりだった宇宙は、天と地に分かれ、神様たちが住んでいる天を、「高天原(たかまがはら)」といいました。

あるとき、神様たちが高天原から見下ろしてみますと、下界はまだ生まれたばかりで、ぜんぜん固まっていません。海の上を、何かどろどろ、ふわふわとした、くらげのようなものがただよっているというありさまでした。
「このままではいけない」

国産み

そう話し合った高天原のえらい神様たちは、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男女の神様に、天沼矛(あめのぬぼこ)という大きな槍(やり)をあたえ、下界をしっかりと固めて、国造りをするようにと命じました。そこで二人は、高天原から地上へとつながる天浮橋(あめのうきはし)の上に立って、槍の先で、どろどろとした下界をかきまぜました。

「こおろ、こおろ、こおろ」

したたりおちた塩からできたおのころ島におりました。イザナギノミコトとイザナミノミコトはそこで結婚し、イザナギノミコトとイザナミノミコトという男女の神様を生みました。

これが国のはじまりです。

かきまぜるたびに、大きな音がひびいてきます。二人が天沼矛(あめのぬぼこ)をすうっと引き上げると、槍の先からぽたぽたと落ちたしずくは、みるみるうちに固まってひとつの島ができあがりました。ひとりでに固まってできあがったので、この島のことを「おのころ島」といいます。

イザナギとイザナミは、さっそくおのころ島へとおりてゆきました。
二人の神様は、おのころ島の上にりっぱな御殿(ごてん)を建てて、そこで結婚(けっこん)の儀式(ぎしき)をしました。こうして、最初に生まれたのが淡路島(あわじしま)で、その後、四国や、九州や、本州や、そのほかのたくさんの島々が生まれました。

「大八洲(おほやしまぐに)」

淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
愛比売(えひめ):伊予国
飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
大宣都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
建依別(たけよりわけ):土佐国
隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
筑紫島(つくしのしま):九州
胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
白日別(しらひわけ):筑紫国
豊日別(とよひわけ):豊国
建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
建日別(たけひわけ):熊曽国
伊伎島(いきのしま):壱岐島
別名は天比登都柱(あめひとつばしら)
津島(つしま):対馬島
別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
佐度島(さどのしま):佐渡島
大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州
別名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
島産み

二神は続けて6島を産む。

吉備児島(きびのこじま):児島半島 別名は建日方別(たけひかたわけ)
小豆島(あづきじま):小豆島 別名は大野手比売(おほのでひめ)
大島(おほしま):周防大島 別名は大多麻流別(おほたまるわけ)
女島(ひめじま):姫島 別名は天一根(あめひとつね)
知訶島(ちかのしま):五島列島 別名は天之忍男(あめのおしを)
両児島(ふたごのしま):男女群島 別名は天両屋(あめふたや)

神々の誕生

イザナギノミコトとイザナミノミコトはさらに、海や川、山、雨、風、田などの神々を産みました。 ところが、最後に火の神を産んだイザナミノミコトは、わが子の火でからだを焼かれ、黄泉の国(よみのくに)へ行ってしまったのです。 これが生者と死者のはじまりです。

イザナギノミコトはイザナミノミコトを黄泉の国(よみのくに)へ迎えに行ったのですが、死者となったイザナミノミコトを連れ戻すことはできませんでした。 別れ際にイザナミノミコトは1日に1,000人を殺すと言い、イザナギノミコトはそれならば1日に1,500人産もうと言いました。 その時から日本の人口は増えていったのです。

島ができあがると、妻のイザナミは、それぞれの島を治める神様を生みました。それに続いて、石や土の神様、家の神様、風の神様、川や海の神様、山の神様と、たくさんの神様が生まれてきましたが、火の神様を生んだとき、イザナミは大やけどをしてしまいました。

大やけどに苦しみながら、イザナミはなおも、粘土(ねんど)の神様や、水の神様、鉱山の神様などを生みました。無理を重ねたイザナミの体は、みるみるうちに弱ってゆきます。イザナギはけんめいに看病(かんびょう)をしましたが、そのかいもなく、イザナミはとうとう亡くなってしまいました。

「愛するおまえの命を、一人の子の命とひきかえにしてしまった」

イザナギは、イザナミのなきがらにとりすがって、ぽろぽろとなみだを流して泣きました。そしてイザナミを、出雲(いずも)の国と伯耆(ほうき)の国の境にある比婆山(ひばやま)にほうむりました。イザナギは、妻に大やけどをおわせた火の神のことを、どうしても許すことができず、とうとう、剣で切り殺してしまいました。

イザナミが亡くなってからしばらくの間、イザナギは一人で悲しんでいましたが、どうしてもがまんすることができなくなりました。そこで、死者の国まで妻をむかえに行こうと思いたちました。死者の国は、黄泉(よみ)の国といって、深い地の底にあるのです。
イザナギは、地の底へと続く長い暗い道を下りて行きました。ようやく黄泉の国に着くと、イザナギはとびらの前に立ち、イザナミに、自分といっしょに地上へ帰ってくれるよう、優しく呼びかけました。

「ああ、愛する妻よ、私とおまえの国造りは、まだ終わっていないのだよ。どうかいっしょに帰っておくれ」

ところが中からは、イザナミの悲しそうな声が帰ってきました。

「どうしてもっと早く来てくれなかったの。私は、もう黄泉の国の食べ物を食べてしまいました。ですから、地上へはもどれないのです。けれども愛するあなたのためですから、地上へ帰ってもよいかどうか、黄泉の国の神様にたずねてみましょう。それまで、私の姿を決してのぞかないでくださいね」

そう言われて、イナザギはじっと待っていましたが、いつまでたっても妻からは返事がありません。とうとう待ちくたびれたイザナギは、小さな火をともして、妻を探すために黄泉の国へと入っていったのです。

黄泉の国は、どこまでも真っ暗なやみが続いています。うす暗い灯りをもって、目をこらしていたイザナギは、思わず「あっ」とさけんで立ちつくしました。何とそこには、くさりかけてうじ虫がいっぱいたかっている、イザナミの体が横たわっていたのです。おまけにその体には、おそろしい雷神(らいじん)たちがとりついています。

「あれほどのぞかないでと言ったのに、あなたは私にはじをかかせましたね」

自分のみにくい姿をのぞかれてしまったイザナミは、かみの毛を逆立ててすさまじくおこりました。

「イザナギをつかまえて、殺しておしまい」

イザナミがそう命令するや、黄泉醜女(よもつしこめ)という悪霊(あくりょう)たちが、イザナギをつかまえようと、あちらからもこちらからもわき出るように現れました。

イザナギは地上へ続く黄泉平坂(よもつひらさか)に向かって、必死に逃げました。イザナミと黄泉醜女たちは、すさまじい勢いでせまってきます。イザナギはけんめいに走りながら、かみに結んでいたかざりを放り投げました。するとかみかざりからはたちまち野ブドウの木が育って、たくさんの実がなりました。それを見た黄泉醜女たちは立ち止まって、実を食べ始めましたので、そのすきに、イザナギはどんどん走りました。けれどもしばらくすると、また悪霊たちが追いついてきます。イザナギは、こんどはかみにさしていたくしを放り投げました。すると、そこからはたけのこが次々に生え、黄泉醜女たちはまた立ち止まって、食べ始めました。

こうしてけんめいに逃げるイザナギの行く手に、ようやく地上の世界が見えてきました。しかし黄泉醜女たちは群れをなして追いついてきます。イザナギは片手に持った剣を後手にふり回して防ぎながら、ようやく坂のふもとまでたどり着くと、そこに生えていた桃(もも)の木になっていた実を三つもぎとって、黄泉醜女たちに投げつけました。すると、桃の実がもっている不思議な霊力(れいりょく)におそれをなした黄泉醜女たちは、みんな逃げ散ってしまいました。

けれどもイザナミは、まだ恐ろしい顔でせまってきます。ついにイザナギは、黄泉平坂に、千人がかりでないと動かせないような大岩を引っ張ってきて、それで黄泉の国と地上の世界の間をふさいでしまったのです。

こうして二人は別れ別れになり、地上の世界と黄泉の国とは、永久に行き来できない石のとびらでふさがれてしまったのです。けれどそれからというもの、亡くなる人よりも生まれる人の方が多くなり、地上の人は次第に増えるようになったのだそうです。

伊弉諾神宮(いざなぎじんぐう)

兵庫県淡路市(旧津名郡一宮町)多賀
式内社(名神大)、淡路国一宮で、旧社格は官幣大社
日本神話の国産みに登場する伊弉諾尊、伊弉冉尊を祀る。

社団法人島根県観光連盟・島根県観光振興課
引用:兵庫県立歴史博物館「ひょうご歴史ステーション」

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1.天地開闢(てんちかいびゃく)1/5 世界の始まり

現在、日本神話と呼ばれる伝承は、そのほとんどが『古事記』、『日本書紀』および地方各国の『風土記』にみられる記述をもとにしています。高天原の神々を中心とする神話がその大半を占めていますが、その一方で出典となる文献は決して多くはありません。

本来、日本各地にはそれぞれの形で何らかの信仰や伝承があったと思われ、その代表として出雲(神話)が登場しますが、ヤマト王権の支配が広がるにつれて、そのいずれもが国津神(くにつかみ)または「奉ろわぬ神」(祟る神)という形に変えられて、「高天原神話」の中に統合されるに至ったと考えられています。

また、後世までヤマト王権などの日本の中央権力の支配を受けなかったアイヌや琉球にはそれぞれ独自色の強い神話が存在します。自分達の世界がどのようにして生まれたか。このことは古代人にとっても大きな問題でした。『古事記』、『日本書紀』の最初の部分は世界誕生のころの物語となっていますが、『古事記』と『日本書紀』との間で、物語の内容は相当に異なります。

さらに、『日本書紀』の中でも、「本書」といわれる部分の他に「一書」と呼ばれる異説の部分があります。これはヤマト王権が各国の伝承・特産などを調べ『風土記』として提出させたのですが、このようにして、神々の誕生の神話は1つに定まっていないので、公平に一書として併記しているのは、すでに当時、日本は民主国家的であったということをすさしているとも思えます。

『古事記』(和銅5年(712年)は一般に一つのストーリーとなっている歴史書で、『日本書紀』(養老4年(720年)に完成)は、対外向け正史といわれていていますが、特に有名な出雲神話・日向神話(天孫降臨)は古事記以外の伝承も記載しました。

0.世界の始まり(天地開闢(てんちかいびゃく))

『古事記』によれば、世界のはじまった直後は次のようであった。『古事記』の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めたときであり、天地がいかに創造されたかを語ってはいないが、一般的には、日本神話における天地開闢のシーンといえば、近代以降は『古事記』のこのシーンが想起される。

『日本書紀』

『日本書紀』における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られる。続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。

卷第一 神代上(かみのよのかみのまき)
第一段、天地のはじめ及び神々の化成した話(天地開闢)
本書によれば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神が生まれるのである。

第二段、世界起源神話の続き
天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが神となる。

■考 証

田辺広氏『日本国の夜明け: 邪馬台国・神武東征・出雲』には、

世に出雲神話としてよく知られているものに、須佐之男命の八俣の大蛇退治、大国主命の因幡の白兎の話であるが、いずれも記紀に著された神話で風土記にはまったく見えない。そこで是等は記紀の中でつくられたもので、たとえば、前者は「高天原による出雲平定を神話化し、正当化したものである。あとに続く国譲りの先駆的役割を果たすために作られたと見るべきであろう」とある。

しかし一方で、萩原千鶴氏は「記によれば、天から追われた須佐之男命は出雲の国の肥の河上、名は鳥髪の地に降ったとあるが、それは出雲国風土記が斐伊川の水源としてあげる鳥上山に一致する。記の出雲神話の地理は、出雲国風土記の記載によく適合しており、単なる中央の机上の製作とは思われない」という。

大国主命が主人公として出る神話は、稲羽素兎神話、根の国神話、八千矛神話、国作神話、国譲神話があり、記紀の出雲神話は、その神代の巻の約三分の一を占める。

(中略)

私の意見は、萩原説に賛成である。神話に書いてある細々とした説話は荒唐無稽で、事実としては信ずるに足りなくても問題ではない。史実として取り上げるべきことは、出雲の古代にスサノオという偉大な統率者と、その子孫にオオクニヌシという立派な後継者がいたことである。スサノオのオロチ退治も斐伊川の上流にいた、たぶん金属加工(たたら製鉄)を行って勢力を伸ばした豪族がいて、それを占拠した事実を神話・伝説化したものであろう。そして亡ぼしたのは大和の朝廷軍であったのか、東部の意宇の主であったのかは確たる証拠がないかぎりわからない。

それより問題は、記紀の編者、あるいはそのバックにある大和朝廷は、なぜ抵抗勢力であり、同族でもない出雲の神話をこのようにたくさんのページを割いて載せたのかということである。勝利者であれば、むしろ出雲神話は抹殺すればよいのではないか。(中略)

記紀の方から見れば、出雲の伝承に多くのページを割かねばならないにしても、それをどのように日向神話の中に入れ込むか、旧辞の編者というか太朝臣安万侶の考えというか、難しいところだが、次のように大雑把に言えると思う。

いろいろからみ合って天孫族の神と出雲の神が出現するが、ある一線を引いたと思う。それは陰陽(影と光)の別である。地域的には山陽と山陰、太陽と月、天と地、地上と地下、現世と冥土(黄泉国)、天津神と国津神、勝者と敗者、征服者と被征服者の別である。具体的には政権と宗教界という形で現在まで続いている。もちろん、のちの仏教その他の宗教を除いた神道の世界のことである。

神武東征の謎: 「出雲神話」の裏に隠された真相 著者: 関裕二

神武天皇をめぐっては、いくつもの誤解がある。
神武天皇が圧倒的な武力をもってヤマトを制圧した古代最大の英雄、という思いこみはその最たるものであろう。

(中略)
『日本書紀』を丹念に読んでいくと、神武東征はけっして神武軍の「一方的な勝利」ではなかったことがわかる。

ようやくの思いで大和に到着し、しかも、力ずくで王権を獲得したのではなく、相手が勝手に政権を放り投げてきたのである。これは「推理」ではなく、『日本書記』にそう書いていることだ。それにもかかわらず、神武天皇が偉大な勇者、武力に秀でた強い天皇と思われるに至ったのは、尋常小学校の教科書の記述が神武天皇の武功のみをクローズアップしたからに他ならない。もちろん、このような教科書の記述は、明治政府の意向でもあったろう。

(中略)
一方、神武天皇にまつわるもう一つの誤解は、神武東征は「神話」にすぎなかった、というのものである。

(中略)
(それは)戦前の偏った教育に対する反動に他ならなかった。史学者たちは「神の子・神武」という図式を比定するばかりか、神武天皇という存在そのものを疑ってかかるようになっていたのである。

たしかに、『日本書紀』や『古事記』は、神武天皇が今から二千数百年前の人物であったとしているのだから、これをそのまま素直に信じるわけにはいかない。考古学的に見ても、大和に「国」らしきものが誕生するのは、それから千年後のことになる。したがって、『日本書紀』や『古事記』の神武天皇にまつわる記述は疑わしい。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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