国道482号 酷道小代行き止まりを辿る

このブログタイトルである祢布(にょう)交差点は、当店が位置する場所に近く、国道312号と482号の交差するクロスロード。その東西に通るのが国道482号です。

実は但馬に生まれ旧美方町に行くのはよく憶えてないのですが初めてではないだろうか。
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国道9号鳥取方面 村岡区和田交差点

県道4号分岐交差点

(帰りに撮ったので日が暮れかけている)

国道9号小代口交差点(482号分岐点)

香美町小代地区(旧美方町)へ
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小代区石寺

 

この先通行止めの標識現る

中心部を抜ければいよいよ国道から酷道へすすむ

小代区秋岡

さらに道が急に細くなった

さらにこの先通行止めの標識

長く進むと工事休工中との看板

香美町の大川 矢田川源流部の渓谷を酷道が併走する

若桜方面→

90度近い急斜面と渓谷が続く。心細くなりそうなほどの酷道を3kmほどでようやく行き止まり

小代渓谷へここから約4kmで鳥取県境を越えて氷ノ山・若桜町春米

台風23号まではまだだいぶ先の小代渓谷まで行けたようだが、工事も休工中のまま。

いつになったら鳥取若桜まで通行できるだろう。

かつて大正時代に藤本日高村長が夢見た但馬鉄道計画(丹後宮津(加悦鉄道)から鳥取(若桜鉄道経由)までつなげた)を、国道482号昇格につなげた今年他界された故清水豊前日高町長・豊岡市長のことを偲びつつ引き返した。

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JR山陰本線最大の難所に開通したトンネル

桃観とうかんトンネル

JR山陰線最大の難所に開通したトンネル

  
桃観トンネル(浜坂久谷側)

山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、

後藤新平の筆による石額

そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所

山陰線の中で最大の難所だった香美町香住区余部~新温泉町久谷を結ぶトンネルで、1911年(明治44)に完成しました。山陰線のトンネルの中で1番長く(全長1,991m)、約4年間の年月をかけ、当時としては巨費の61万円が投じられました。

この工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)で、難所工事であったため殉職者や病死した人もいました。その人々の名は桃観トンネル西口近くにある久谷八幡神社の中に『鉄道工事中 職斃病没者 招魂碑』と刻まれた石碑に刻まれています。

工事は西より東に向って上り勾配を利用して、掘削は久谷側の西口から始まりました。空気圧搾機や削岩機で掘削を進め、新鮮な空気を供給して作業を行うという、当時の技術の中でも最も近代的な工法が採用され、山陰西線(鳥取~香住)において、機械掘削の初めての試みとなりました。

煉瓦で造られたトンネルの出入り口には、山陰線の開通記念として、当時の逓信(ていしん)大臣兼鉄道院総裁だった後藤新平の筆による石額が掲げられています。久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」、余部側は「惟徳罔小(この徳は少なくない)」と刻されています。実際このような石額を掲げたトンネルは全国においても数例しかありません。

=但馬の百科事典より=

工事にあたった多くは朝鮮人労働者(当時の新聞は韓人、あるいは朝鮮人と表記している)ということで、強制連行され不当な待遇であったかのように叫ぶ人たちがいた。しかし、考えていただきたいのは、工事期間の1906(明治39)から1911年(明治44)ころは朝鮮併合で貧富の差が激しかった併合前の朝鮮から、日本国民として一旗揚げようと日本に渡ってきた朝鮮労働者も多くいたのである。アメリカのゴールドラッシュのように学歴も素性も分からない外地の朝鮮人にとって必然的に鉱山や土木工事など肉体労働者が多かった。

従って戦時中には国家総動員法によって、日本国民は日本人・朝鮮人・台湾人の区別なく徴兵・徴用はあったが、終戦から多くは日本政府の補助で帰国している。

朝日新聞

戦時中の徴用令によって日本に渡航し、昭和34年の時点で日本に残っていた朝鮮人は、当時登録されていた在日朝鮮人約61万人のうちわずか245人だったことが外務省が証明されている。朝鮮総連などが使う強制労働などという言葉すら造語である。明治に強制労働など行われなかったし、朝鮮半島と台湾は日本であり、むしろ朝鮮人としてではなく同じ日本人殉職者として差別なく石碑に刻まれていたことがそれを示していると思う。

桃観トンネル(余部側)

気多郡高生郷とは

高生郷とは

高生郷(タカフ、たこう)とは、かつて但馬國氣多郡(現在の豊岡市日高町及び豊岡市中筋地区、佐野地区、竹野町椒地区)にあった郷名で私が生まれ住んでいる場所です。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

諸本集成 倭名類聚抄』外篇 日本地理志料/京都大学には、読みは多加布。神名式(延喜式)、気多郡高負神社。姓氏録に高生宿祢の出自。宿祢の文には同祖の王仁の孫、河浪古の首、天平神護元年紀、河内国の人馬を伴い、武生の辺に居す。弘安太田文には気多郡高生郷田百七町、公文矢部の尼。

但馬考では、

宵田 河合道記曰く豊岡より三里、馬駅なり。先ずは豊岡の馬を大方ここにて そうじて、姫路までの街道、馬は多し。自由なり。
今この辺の田地を高生代と云う。俗に(北の)日置郷と合わす謂われなり。太田文には、村数は地下(じげ)、岩中、宵田、江原の4村とあります。

「日高町史」には、その日置村と高田村が合併して日高町になったと記しています。

高田郷はその高生郷の西に隣接し、『日本後紀』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府の存在が考えられます。
移転後の所在地については、近年の発掘調査により、但馬国府国分寺館に隣接する祢布(にょう)ヶ森遺跡(豊岡市役所日高総合支所(旧日高町役場)の付近)であると考えられるようになりました。

7世紀に丹波国が成立したときの領域は、現在の京都府の中部と北部(現在の丹後)、兵庫県の北部(但馬)および中部の東辺(兵庫県丹波地域)に及んでいました。年号は不明ですが北西部を但馬国、その後、和銅6年(713年)4月3日に北部5郡を丹後国として分離して成立したとする説もありますが確証はありません。『日本書紀』天武天皇4年(675年)条に国名がみえるので、この頃成立したと推定されています。後世まで長く続く領域が定まりました。

古丹波王國とは

丹波・丹後・但馬は、大古は同じ丹波に属し、総称して三丹、丹但、北近畿などという呼び方もありますが、これまでは勝手に「丹国」と名づけていました。

このブログは、「丹国ものがたり」のホームページからブログへ移転更新するためのブログです。

鳥取城久松山と仁風閣(鳥取県鳥取市)

[catlist categorypage=”yes”] 鳥取県鳥取市東町

鳥取城(久松公園)

鳥取城(とっとりじょう)は、鳥取県鳥取市にある山城跡で、江戸時代には鳥取藩池田氏の治下に入り、近世城郭に整備されました。現在は天守台、復元城門、石垣、堀、井戸等を残しています。

この城は但馬山名氏ともゆかりがあり、戦国時代中頃の天文年間に因幡の守護である山名誠通が久松山の自然地形を利用した山城として築城したとされてきました。

『ウィキペディア(Wikipedia)』によると、

近年の研究では誠通の因幡山名氏と対立する但馬山名氏(山名祐豊)の付城として成立した可能性が支持されている。正式に城主が確認されるのは、元亀年間の武田高信からである。

ということで、久松山頂に築城したのは、山名氏か武田高信かははっきり分かっていないらしい。

高信は誠通の滅亡後、但馬山名氏の分家として再興された因幡山名氏の家臣であったが、しだいに力をつけ、永禄年間には鳥取城を拠点とした。湯所口の戦い以降、守護家に対して優勢になった高信は天神山城を攻撃し、因幡守護の山名豊数を鹿野城に逃亡させ、名目上の守護・山名豊弘を擁立し、下剋上を果たした。高信はその後も主筋の山名豊国(豊数の弟)としばしば対立し、安芸の毛利氏と誼を通じるようになる。


久松山と仁風閣

正面

日本三大義挙 生野義挙

[wc_button type=”primary” url=”http://webplantmedia.com” title=”Visit Site” target=”self” position=”float”]生野義挙(生野の変)[/wc_button]

江戸時代後期の文久3年(1863年)10月、但馬国生野(兵庫県生野町)において尊皇攘夷派が挙兵した事件が起きた。「生野の乱」、「生野義挙」とも言う。
この静かな農村地帯であった但馬で、幕末にそのような大事件があったことは、くわしくは知らなかったので、調べてみることにした。


生野代官所跡

《概 要》

生野義挙(生野の変)は、平野国臣、長州藩士野村和作、鳥取藩士松田正人らとともに但馬で声望の高い北垣と結び、公卿沢宣嘉を主将に迎える生野での挙兵を計画した。あっけなく失敗したが、この挙兵は天誅組の挙兵とともに明治維新の導火線となったと評価されている。幕末の文久3年(1863年)8月17日に吉村寅太郎をはじめとする尊皇攘夷派浪士の一団(天誅組)が公卿中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件である大和義挙(天誅組の変)、元治元年12月15日(1865年1月12日)に高杉晋作が長州藩俗論派打倒のために功山寺(下関市長府)で起こしたクーデター回天義挙(功山寺挙兵)とともに日本三大義挙といわれる。

世界最古の天皇を仰ぐ独立国家『日本』宣言

五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

『日本書紀』    720   神代~持統
続日本紀      797   文武~桓武
日本後紀      840   桓武~淳和
続日本後紀     869   仁明
日本文徳天皇実録  879   文徳
日本三代実録    901   清和~光孝

書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあ てているのも特徴です。

これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。

確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。

大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。

『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。

『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。

『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。 なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。

対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。
まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。

記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。

紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

『風土記』


『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵(見学しましたが撮影禁止なので)

『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもの。『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものとは思われないが、参考にしたふしがあるのは、「一書曰く」と諸説を併記していることだ。『風土記』は、国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。他と区別するため「古風土記」ともいう。

『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

郡郷の名(好字を用いて)
産物
土地の肥沃の状態
地名の起源
伝えられている旧聞異事
が挙げられています。

完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記が唯一ほぼ写本で残り、総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、巻末条から成る。各郡の条には現存する他の風土記にはない神社リストがある。神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられ、社格順に並べられていると推察される(島根郡を除く)。

他には「播磨国風土記」、「肥前国風土記」、「常陸国風土記」、「豊後国風土記」が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

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『古事記』にみる天皇の日本統一への思い

日本最古の歴史書『古事記』にみる天皇の日本統一への思い


[youtube http://www.youtube.com/watch?v=N85-qJFuW2w&hl=ja_JP&fs=1&] 1/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた!』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年

捏造と反日のNHKですが、大阪放送局製作はわりとまともだと思っている。

日本の思想とは、日本列島の上に日本語で展開されてきた思想です。原初的な意識を含め思想というなら、その意識のはじまりがどのような様子だったかを探ることは容易なことではありません。無文字文化をさぐる方法はないのです。五世紀まで文字を持たなかったこの列島のすがたは、まずは他者すなわち中国の書物に記載されるというかたちで、はじめて文字(漢字)に残されることで最初にあらわれました。他者を通してしかその起源をうかがうことができなかったことは、今に至るまで深く関わる問題です。

わたしたちは史書として、『古事記』をもって最古の思想作品としています。原始の日本のようすは、ようやく八世紀にあらわれた『古事記』『日本書紀』あるいは『万葉集』といったテキストによるしかありません。その成立にはさまざまの説がありますが、日本という自己意識の最古のものの名残という点は異論の余地はないようです。

大化の改新後のあらたな国家建設と大和朝廷の集権化のなかで、国の歴史を残そうとする試みが繰り返されてきました。その一端として、『日本書紀』620年の推古紀の箇所では、聖徳太子と蘇我馬子が「共に議(はか)りて」天皇記および国記、また臣下の豪族の「本記」を記録したと伝えます。『記紀』はそうした自己認識への継続した努力のなかから生まれたものでした。

『古事記』と『日本書紀』

『古事記』と『日本書紀』(以下、『記紀』)は、七世紀後半、天武天皇の命によって編纂されました。『古事記』成立の背景は、漢文体で書かれた序文から知ることができます。それによれば、当時、天皇の系譜・事蹟そして神話などを記した『帝紀』(帝皇日継(すめらみことのひつぎ))と『旧辞』(先代旧辞(さきつよのふること))という書物があり、諸氏族の伝承に誤りが多いので正し、これらを稗田阿礼(ひえだのあれ)に二十九年間かけて、誦習(しょうしゅう)(古典などを繰り返して勉強すること)を命じたのが『古事記』全三巻です。

その後元明天皇の711年(和銅四年)、太安万侶(おおのやすまろ)が四ヶ月かけて阿礼の誦習していたものを筆録させ、これを完成し、翌712年に献上したことを伝えます。

一方、皇族をはじめ多くの編纂者が、『帝紀』『旧辞』以外にも中国・朝鮮の書なども使い、三十九年かけて編纂したのが、前三十巻と系図一巻から成る大著『日本書紀』です。『古事記』が献上された八年後の720年(養老四年)には『日本書紀』が作られました。『日本書紀』は「一曰く」として、本文のほかに多くの別伝が併記されています。神代は二巻にまとめられ、以降は編年ごとに記事が並べられ、時代が下るほど詳しく書かれています。

なぜわずか数年後に『日本書紀』を編纂したのだろうか?

ではどうして、同じ時代に『記紀』という二つの異なった歴史書が編纂されたのでしょうか。

それは二つの書物の違いから想像できます。『記紀』が編纂された七世紀、天平文化が華開く直前です。すでに日本は外国との交流が盛んで、外交に通用する正史をもつ必要がありました。当時の東アジアにおける共通言語は漢語(中国語)であり、正史たる『日本書紀』は漢語によって綴られました。また『日本書紀』は中国の正史の編纂方法を採用し、公式の記録としての性格が強いことからも、広く海外に向けて書かれたものだと考えられます。

それに対し、日本語の要素を生かして音訓混合の独特な文章で天皇家の歴史を綴ったのが『古事記』です。編纂当時、まだ仮名は成立していなかったため、漢語だけでは日本語の音を伝えることはできませんでした。そのため『古事記』の本文は非常に難解なものになり、後世に『古事記』を本格的に研究した江戸時代の国学者・本居宣長ですら、『古事記』を読み解くのに実に三十五年の歳月を費やします。

ところで本居は全四十四巻から成る古事記研究書の『古事記伝』を著し、『日本書紀』には古代日本人の心情が表れていないことを述べ、『古事記』を最上の書と評価しました。

歴史物語の形式をとり、文学的要素の強い『古事記』は、天皇家による統治の由来を周知させ伝承するために記したテキストで、氏族の系譜について『日本書紀』よりも詳しく記されています。当時の日本人の世界観・価値観・宗教観を物語る貴重な資料であり、これがおよそ千三百年前間伝承されてきたことには大きな意義があります。

天皇は地方豪族の治める諸国を日本に統一する思いがこめられて『古事記』を編纂させました。そしてようやく日本は外交へ進んでいったのです。

[youtube http://www.youtube.com/watch?v=EqfNzkaOxtg&hl=ja_JP&fs=1&] 4/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年  heiankyoalienさん
[youtube http://www.youtube.com/watch?v=qz5V61iOKMk&hl=ja_JP&fs=1&] 5/5 NHK大阪 『その時歴史は動いた』 「古事記」はなぜ作られた? 2008年 heiankyoalienさん

『古事記』にみる天皇の日本統一への思いを、NHKは敗戦という一点にどうしても導く道具として利用したと付け加えねばならない後味の悪い締め方をするのが決まりだ。そこで止まってしまう。
その責任転嫁から脱却できない限りNHKや朝日は、日本を明るくしない。

逆に言えばNHKや朝日が報道を正せば、日本は明るくなる。

そんな簡単なことを難しくインテリぶってその異常な思想停止をくり返してきた。日本史のはじまりを戦争へと結びつける思考とは何か。世界に誇れる長い歴史を愛する多くの普通の日本国民に、自らの使命と存在価値がいま改めて問われていることをいまだ覚醒できていないばかりかその責任を放棄して誰かが悪いと押しつけ続けている。人のせいにすれば結局自らに跳ね返ってくる。それでは日本の日本人による日本人のための公共放送であるからだ。

NHKや朝日など反日思想よりも、もっと大切な守らなければならない日本がたくさんある。稗田阿礼が二十九年間かけて誦習し太安万侶が四ヶ月かけて筆録させ、北畠親房が天皇家の南北朝分裂からこの国の道を救おうとし、本居宣長が三十五年もかけて解読し光を当てた。いまだ研究され続ける偉大なる最初の古代長大歴史ロマンである『古事記』・・・。たった45分の番組で片づけられないにせよ、その先人たちの国を思う努力に尊敬の念を抱かずにはいられない。進むべき方向がわからなくなるとき、日本人の矜持(自信と誇り)、プライド。国の原点を思い返してみることも必要な気がする。

引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之
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城崎(きのさき)という地名の由来

城崎(きのさき)の由来

『城崎町史』(1988年)は、豊岡市で出土した木簡に「絹前…」または「縄前…」とも読める文字があることから、「絹前」=キヌサキ説の可能性に触れている。

また一節では、太古、海の入江だった豊岡盆地が紀元前二万年ごろから隆起と海の後退によって次第に陸化、当時円山川河口から日高町水上(ミノカミ)あたりまで沼地状になった一帯を「黄沼前の海(きぬさきのうみ)」と呼んだ。同様に出石町出石川流域にも水上(ムナガエ)という地名がある。

太古はこの付近までが黄沼前(キノサキ)という入江だった。

しかし、いずれも現在の城崎温泉が城崎というようになった事実をどこにも記してはいない。江戸までは湯嶋と呼ばれていてのである。つまり今の豊岡市街地が城崎郷であって、城崎であった。

昭和になってどこの市町村もこぞって「市町村史」を編纂した。しかし本当なのかという部分は在り得るのだ。

戦後それどころではなかった当時は、誰もそんなゆとりはなかったし、日の目を見なかった地域の歴史研究。ブームによって急遽、郷土の史料を編纂するにあたり、数少ない郷土歴史研究家の存在は貴重だった。そのなかでそうした方々の苦労と叡智に敬意を抱くし、それを批判するのではなく、新たな発見や歴史認識等を踏まえて、検証していくことこそ、後の時代の我々の恩義につなぐものであると思うのである。

ではさっそく。城崎は城崎温泉そのものではない。

かつて「城崎」という地名は、旧城崎郡と城崎郷(豊岡市街地中心部)の呼び名だった。温泉地帯は城崎郡湯島と呼ばれていた。

奈良時代から平安時代にかけて、古代の日本国家は、地方行政の単位として国-郡-里(郷)を設けたが、但馬国は八郡に分けられた。当時の但馬国城崎郡は、今日の豊岡市市街地(旧豊岡町)と城崎町を合わせた地域とほぼ重なっている。

城崎の名が現われる最古の記録は奈良・平城京跡から出土した木簡(古代、紙と同じように木片に文字を墨書したもの)で、奈良時代の神護景雲三年(769)の年号が入っており「城崎郡」と書かれている。このほか古代には、「木前」「木埼」「木崎」などと表現されていた。

平安時代の承平年間(931~37)に成立した、わが国初の百科事典『和名抄』は、それぞれの地名に万葉仮名で和訓を付けており、城崎を「岐乃佐木」または「木乃佐木」と万葉仮名で読ませている。城崎郡内の新田(にった)、城崎、三江(みえ)、奈佐(なさ)、田結(たい)の五郷と余戸(あまるべ)が記されている。余戸は現在の香住町余部とは無関係で、所在地は不明。他の五郷は、現在にも生きているおなじみの地名だ。

城崎温泉は、湯嶋、湯島と云われ、古くは城崎郡田結郷湯島と云われていた。とくに田結郷は広範囲で近世には、田結郷をさらに大濱庄、下鶴井庄、灘、気比庄に分れていた。
気比庄は気比、田結、湯嶋、桃島、小島、瀬戸、津居山の七村。

「但馬考」に、湯嶋 この湯の名、古書にあらわれるのは、古今集を始めとす。順の「倭妙抄」には、他の二方の温泉(ユノ)郷を載せしたしは、但馬の湯とのみ云うには、まぎらわしき方もあれど…考えるに、此の地の名、上古は大渓(オオタニ)と云しを、温泉あるゆえ、俗に湯嶋と唱えて、終わりに古名を失えり。

「但馬考」に、「城崎温泉」という呼び名が現れるのは、

温泉

(香川修徳の)一本堂薬選籍編曰く、但州城崎温泉、三敷座(座敷)ありて、…此邦諸州(日本全国)、温泉極めて多し。而して但州城崎新湯を最第一とす。(香川修徳は)新湯を一の湯、二の湯と分けて、二つありとした。

新湯に続いて、中湯、上湯、御所湯、曼陀羅湯、他一か所を記している。

引用:校補「但馬考」、豊岡市教育委員会、与謝野町

たじまる 奈良7

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

『日本書紀』

『日本書紀』は国史で、「六国史」の最初に記されました。続日本紀に「日本紀を修す」とあり、「書」の文字はない。「日本紀」が正式名だったと言うのが通説です。

  • 『日本書紀』     720   神代~持統
  • 続日本紀     797   文武~桓武
  • 日本後紀     840   桓武~淳和
  • 続日本後紀    869   仁明
  • 日本文徳天皇実録 879   文徳
  • 日本三代実録   901   清和~光孝書紀の内容は、神代から40代(41代:後述)持統天皇までを30巻にわけ、それぞれの天皇記は『古事記』に比べてかなり多く記述されているのが特徴です。第3巻以降は編年体で記録され、うち9巻を推古から持統天皇までにあてているのも特徴です。これは『古事記』が天皇統治の正当性を主張しているのに対し、『日本書紀』は律令制の必然性を説明していると直木孝次郎氏は指摘しています。確かに『古事記』に比べれば、『日本書紀』の方がその編纂ポリシーに、律令国家の成立史を述べたような政治的な意図が見え隠れしているような気がしないでもありません。『日本書紀』自体には、『古事記』の序のような、その成立に関する説明はありません。『続日本記』養老4年(720)5月21日の記事によると、舎人(とねり)親王が天皇の命令をうけて編纂してきたことが見えるだけです。大がかりな「国史編纂局」が設けられ、大勢が携わって完成したと推測できますが、実際の編纂担当者としては「紀朝臣清人・三宅臣藤麻呂」の名が同じく続日本紀に見えるだけです。編纂者として名前が確実なのは舎人親王だけと前述したが、藤原不比等が中心的な役割を担っていたとする説や、太安万侶も加わっていたとする見解もあり、いずれにしても多数のスタッフを抱え、長い年月をかけて完成されたことは疑いがありません。しか、ある部分は『古事記』と同歩調で編纂された可能性もあるのではないでしょうか。『古事記』同様、「帝紀」「旧辞」がその根本資料となっていますが、各国造に命じた『風土記』など多くの資料を収集し、その原文を尊重しているのが『日本書紀』における特徴です。諸氏や地方に散逸していた物語や伝承、朝廷の記録、個人の手記や覚え書き、寺院の由緒書き、百済関係の記録、中国の史書など、実に多くの資料が編纂されていますが、たぶんに中国(唐)や新羅の国書を意識した(或いはまねた)ような印象もあり、半島・大陸に対しての優位性を示すのも、編纂目的の一つだったのかもしれません。

    そしてそれは、日本国内の臣下達に対する大和朝廷の権威付けにも使用されたような気がするのです。『古事記』がいわば天武天皇の編纂ポリシーに沿った形でほぼ一つの説で貫かれているのに対して、『日本書紀』は巻数が多く、多くの原資料が付記され、「一書に曰く」と諸説を併記しています。国内資料のみならず、朝鮮資料や漢籍を用い、当時の対外関係記事を掲載しているのも『古事記』にはない特徴です。特に、漢籍が当時の日本に渡ってきて『日本書紀』の編集に使われたので、書紀の編纂者達は、半島・大陸の宮廷人が読めるように、『古事記』のように平易な文字・漢語・表現を使わず、もっぱら漢文調の文体で『日本書紀』を仕上げたのだとされています。『日本書紀』では、天照大神の子孫が葦原中国(地上の国)を治めるべきだと主張し、何人かの神々を送り、出雲国の王、大国主命に国譲りを迫り、遂に大国主命は大きな宮殿(出雲大社)を建てる事を条件に、天照大神の子孫に国を譲ったとされています。しかし現実には、ヤマトの王であった天皇家の祖先が、近隣の諸国を滅ぼすか併呑しながら日本を統一したと思われるのですが、『日本書紀』の編者は、その事実を隠蔽し、大国主命が天照大神の子孫にこの国を託したからこそ、天皇家のみがこの国を治めるという正当性があるということを、事実として後世に残そうとしたようです。そして、天皇家に滅ぼされた国王たちをすべて大国主命と呼び、彼らの逸話をまとめたのが出雲神話ではないかと言われています。
    このように『記紀』は、どちらも天皇の命令をうけて7世紀末から8世紀の初期に作られた歴史書であるとともに、内容はともに神代から始められているために、推古天皇までが重複しているのです。

    『日本書紀』

    2.『日本書紀』の意図は独立国家『日本』宣言

    では、なぜわずか8年の間隔で、同じ時代をとりあげる歴史書を2種類も編纂したのでしょう。また同じ時代をとりあげつつ内容には違いがあるのはなぜでしょうか。『古事記』が「記」で『日本書紀』が「紀」であることの字の持つ意味の違い、『古事記』の文体が「音訓交用」と「訓録」で『日本書紀』が漢文であるという文体の違い。2種類の歴史書がわずかの間に作られた背景はいったい何なのでしょう。
    なぜ、『日本書紀』が中心になっていったのでしょうか。

    この時代は、国号を倭国から日本国へ、君主号を大王から天皇へと変更し、中国をモデルにした律令制定も行われて、中央集権的国家体制を急ピッチで整備していました。歴史書編纂が活発に行われた背景には、このような社会の情勢が大きく変化しつつある時代に歴史書に期待されていた機能があり、『古事記』は、天皇や関係者に見せるためのいわば内部的な本で、『日本書紀』は外国、特に中国を意識して作られた国史(正史)です。こうして見ると『古事記』は『日本書紀』を作るための雛型本であったと思われています。『古事記』は成立直後からほぼ歴史の表面から姿を隠し、一方『日本書紀』は成立直後から官人に読まれ、平安時代に入っても官人の教養として重要な意味を持ったことは注目すべきです。
    対して、『日本書紀』を作った最大の目的は、対中国や朝鮮に対する独立の意思表示であり、国体(天皇制)の確立なのです。

    古来権力者が残した記録には自らの正当性を主張している点が多く、都合の悪いことは覆い隠す、というのは常套手段です。ストーリーに一貫性がなく、書記に書かれている事を全て真実だと思いこむのも問題ですが、まるっきり嘘八百を書き連ねている訳でもありません。

    まるっきり天皇が都合良く創作して書かせたのであれば、わざわざ恥になるような記録まで詳細に書かせる意図が分かりませんし、『日本書紀』は「一曰く」として諸説も併記され、客観的に書かれています。したがって、少なくともその頃には中国王朝・朝鮮王朝のような、独裁的な絶対君主の王権ではなくて、すでに合議的(連合的)な政権を形成していたのではないでしょうか。
    記紀が史実に基づかないとしても国家のあり方の真実を伝えようとしたものであるならば、そのすべてを記紀編纂者の作為として片づけるには、それなりの根拠がなくてはなりません。

    大和に本拠を構える大和朝廷が、正史を編纂するにあたり、なぜわざわざ国家を統一する力が、九州に天孫が降臨した物語や出雲の伝説を記録したのだろう。それは単に編纂者の作為ではなく、ヤマト王権の起源が九州にあり、国家統一の動きが九州から起こったという伝説が史実として語り継がれていたからだと考えるのが自然でしょう。九州から大和へ民族移動があり、ヤマト王権の基礎が固まったという伝承は、記紀が編纂された七世紀までに、史実としてすでに伝承されていたと考える方が自然です。記紀には歴代天皇の埋葬に関する記事がありますが、編纂時にはすでに陵墓が存在していたと思われます。もし記紀に虚偽の天皇が記載されていたなら、陵墓も後世に造作されたことになり、わざわざ記紀のためにそんなことをするとは考えられないからです。

    何が真実で何が虚構か、また書紀に書かている裏側に思いをめぐらし、それらを新たな発掘資料に照らし合わせて、体系的に組み上げていく作業を通して、独立国家『日本』を周辺国に宣言した編纂の意図が見えてくるのだろうと思います。
    紫式部は、その漢字の教養のゆえに「日本紀の御局(みつぼね)」と人からいわれたと『紫式部日記』に書いています。『日本書紀』はその成立直後から、官僚の教養・学習の対象となりました(官学)。それに対して『古事記』は、一部の神道家を除いて一般の目には余り触れることがありませんでした。

    『風土記』


    『出雲国風土記』写本 画像:島根県立古代出雲歴史館蔵

    『風土記』は、『日本書紀』が編纂される7年前の713年に、元明天皇が各国の国司に命じて、各国の土壌の良し悪しや特産品、地名の由来となった神話などを報告させたもので、おそらくは『日本書紀』編纂の資料とされた日本初の国勢調査というべきものと思われます。国が定めた正式名称ではなく一般的にそう呼ばれています。
    『続日本紀』の和銅6年5月甲子(2日)の条が風土記編纂の官命であると見られており、記すべき内容として、

    1. 郡郷の名(好字を用いて)
    2. 産物
    3. 土地の肥沃の状態
    4. 地名の起源
    5. 伝えられている旧聞異事

    が挙げられています。

    完全に現存するものはありませんが、出雲国風土記がほぼ完本で残り、播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記が一部欠損して残っています。現在では、後世の書物に引用されている逸文からその一部がうかがわれるのみです。ただし逸文とされるものの中にも本当に奈良時代の風土記の記述であるか疑問が持たれているものも存在します。

    引用:『日本の思想』東京理科大学教授 清水 正之

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