【たんごる】 丹後半島最北端 経ヶ岬


経ヶ岬

丹後半島最北端の経ヶ岬から西へ、丹後半島の背骨を流れきる丹後最長の竹野(たかの)流域は、丹後四町(大宮町、峰山町、弥栄町、丹後町)を経て、日本海に流れ込む全長28kmにも及ぶ丹後一の長流です。縄文から弥生へ、さらに古墳時代へと数多くの遺跡・古墳を今に残しています。「タニハのクニ」、古丹波(丹後)の文化を生み出した中心であったと考えられています。峰山町丹波は、古代の丹波国(のち丹後国)丹波郡丹波郷にあたり、古丹波(丹後)地方の中心地と考えられ、丹波の國名の起源となったのは、峰山町丹波にあるという説もあります。周辺地域は丹後地方有数の古墳・遺跡の密集地となっています。

航空自衛隊第35警戒隊
航空自衛隊入間基地の分屯基地。
分屯基地司令は、第35警戒隊長が兼務。
部隊は、庁舎地区とレーダー地区に分かれ、レーダー地区は庁舎地区から約5.5キロ離れた岳山(標高451m)の頂上に位置しています。 隣接サイトとの密接な連携のもと、日本海正面の空の防衛。監視業務では、暗い室内の中で、隊員が24時間体制で、レーダースコープの画面に映しだされた航跡を追い続けている。
ミサイル防衛に関連して、経ヶ岬を含め全国で同じ型のレーダーサイト7箇所が、探知・追跡、通信機能が改修される計画となっている。

沿革

1942(昭和17)年 旧海軍監視所設置
1948(昭和23)年06月 米軍レーダー基地開設
1957(昭和32)年12月 東部訓練航空警戒隊 第9083部隊展開
1958(昭和33)年12月 航空自衛隊へ移管
1961(昭和36)年07月 第35警戒群へ改編
1967(昭和42)年12月 岳山にレーダー及び運用室移設
1992(平成04)年04月 庁舎地区へ運用室移設
1994(平成06)年04月 基地体育館完成
2000(平成12)年03月 場外離着陸場完成 第35警戒隊に改編
資料:京都平和委員会

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池田古墳現地説明会


主催:兵庫県立考古博物館 池田古墳現地説明会に行って来ました。 H21/3/1

寒模様ですが大勢のファンが集まっておられました。 長らくアーチ型の橋が架けられていましたが、橋を撤去し盛土の道路にこのたび橋をつけかえるため、発掘調査が行われました。
築造時期は古墳時代中期前半(5世紀前半)とされており、若水古墳(朝来市山東町)、城ノ山古墳(朝来市和田山町)に続き、茶すり山古墳(朝来市和田山町)に先行する但馬の王墓である。 三段築成で楯形の周濠を従えている。但馬で発見された古墳では珍しく、大量の埴輪や葺石が装飾に使われています。

【概要】

全長約141mと但馬最大、兵庫県内では4番目の規模を誇る前方後円墳。方形部分が北東、後円部が南西を向いて海抜100mのなだらかな斜面に円山川を見下ろすように設けられている。但馬国王の墳墓ではないかと見られる。

兵庫県立考古博物館(播磨町)によると、鳥形埴輪は高さ三十五-四十五センチ、幅三十-三十五センチ。損傷が少ない良好な状態で、ほぼ完全に復元できる見通し。これは極めて珍しいという。 七体のうち一体がひなのいる子持ち鳥形埴輪。親鳥部分が高さ四十五センチ、幅三十センチ。親鳥部分の台座にひさしのような部分があり、近くから出土した四体の幼鳥(幅約十センチ)が置かれていたらしい。

2月20日新聞発表によると、今回の調査では、大きく2つの成果がありました。ひとつは、「渡土堤(わたりどて)」の全容が明らかになったこと。もうひとつは、「水鳥形埴輪(はにわ)」が8体出土し、その置かれていた状態を明らかにすることができたことです。水鳥をかたどった「鳥形埴輪(はにわ)」の今回の発見は、古代人の死生観解明につながると考える専門家もいます。風土記などにはヤマトタケルが白鳥になったとの伝説が記されており、祭事に使われたとみられる埴輪は死者の霊を運ぶ象徴だったとも考えられています。
-産経新聞-

下段と上段の間にテラスと呼ばれる幅約1.8mの平坦部があり、円筒埴輪がずらりと並べられています。
前方部の西側と東側に葺き石が2段に置かれたままの状態で見つかっています。
鳥形埴輪は、墳丘を囲む堀「周濠(しゅうごう)」から七体(さらに計1個)の八体が出土。渡土堤から墳丘の裾にかけてほぼ等間隔に並べられていたが、長い間に周濠に転落し埋没したとみられる。

渡土堤は河原石と砕いた山石がブロックではっきりと別れています。これは各村毎に分担が分けられていたのだろうということです。古墳築造に但馬の人々が駆り出されていたことが伝わります。

【たじまる】 井東勇先生宅跡


兵庫県豊岡市日高町八代

かわいいアーチ型の窓が目を引きます。
新しい道ができるまでは旧道からは高い場所で気がつかなかったのですが、ドライブ中に変わったデザインの建物がふと目に留まり、寺院かな?と訪ねてみました。
今まで町内に住んでいてまったく知りませんでした。


玄関にはダイコンやネズミが描かれています。

表側に 「領徳碑」 兵庫県知事 阪井時忠
裏に書かれた内容(一部文字が読めませんでした)
井東勇先生は明治二十四年四月十五日医師逸太郎氏の嫡子として生まれ

県立豊岡中学校を卒し 大正五年三月金沢医学専門学校卒業 二年間附属病院 研究後この地にて医院開業 今日まで 十有余年 八代地区は元より奈佐地区民の医療に精魂を尽くされて  村医 校医 町医 城崎郡医師副会長を歴任されました

先生は温厚至誠刻苦勉励人 権勢おもねず営利に走らず 常に病人を看い 鋭意地区の診療にあたられ 「医は仁術なり」を身をもって示されました
人心軽薄功利に走る現世情に 人の道を教えられた先生の仁徳を仰ぎ その功績を永久に讃えるため 関係地区の善意によって この碑を建立する

昭和四十四年四月十五日
県立豊岡高等学校教諭 細川泰翆書

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【たじまる】 井東勇先生宅跡

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兵庫県豊岡市日高町八代

かわいいアーチ型の窓が目を引きます。
新しい道ができるまでは旧道からは高い場所で気がつかなかったのですが、ドライブ中に変わったデザインの建物がふと目に留まり、寺院かな?と訪ねてみました。
今まで町内に住んでいてまったく知りませんでした。

玄関にはダイコンやネズミが描かれています。

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124554051591116431725_itoiin4表側に 「領徳碑」 兵庫県知事 阪井時忠
裏に書かれた内容(一部文字が読めませんでした)
井東勇先生は明治二十四年四月十五日医師逸太郎氏の嫡子として生まれ
県立豊岡中学校を卒し 大正五年三月金沢医学専門学校卒業 二年間附属病院 研究後この地にて医院開業 今日まで 十有余年 八代地区は元より奈佐地区民の医療に精魂を尽くされ□て  村医 校医 町医 城崎郡医師副会長を歴任されました
先生は温厚至誠刻苦勉励人 権勢おもねず営利に走らず 常に病人を看い 鋭意地区の診療にあたられ 「医は仁術なり」を身をもって示されました
人心軽薄功利に走る現世情に 人の道を教えられた先生の仁徳を仰ぎ その功績を永久に讃えるため 関係地区の善意によって この碑を建立する
昭和四十四年四月十五日
県立豊岡高等学校教諭 細川泰翆書

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桂小五郎最大の危機 久畑関所跡

  
旧久畑関所跡 豊岡市但東町久畑

旧京街道

旧山陰道(支道)の石畳が往時を偲ぶ。ここから但馬と丹波の境である登尾峠を越えると夜久野に出る。
元治元年7月、桂小五郎は蛤御門の変で、対馬藩邸出入りで知っていた出石出身の商人・広戸甚助に彼の生国但馬へ遁れ、時の到るのを待つことを告げたところ、甚助は快く受け、その夜直ちに幕府方から逃れるために変装して、船頭姿となり甚助と共にひそかに京の都を出を脱出、京街道の諸藩の関所をくくり抜けながら、もう少しで出石城下に入る但東町久畑にある京街道(現在の国道426号線)の久畑関所で、船頭を名乗る男(小五郎)が厳しい取り調べを受けていました。


数年前まで木の関所門があったが撤去された。(残念です)

しかし、出石藩は幕府寄りの藩であり、長州人逮捕の命令が出ていたほどで、調べに当たったのは出石藩の役人、長岡市兵衛と高岡十左衛門。同藩は蛤御門の変で出陣しており、その知らせを受け、都からの脱出者を警戒していました。都の方向から来た船頭は、居組村(現在の浜坂町)生まれの卯右衛門と名乗りました。だが、言葉に但馬なまりが少しもない。「大坂に長くいたからだ」と言うが、上方なまりもない。疑うほどに、船頭の顔が武士のように見えてくる。

そこへ「はぐれたと思ったら先に来ていたのか」と、一人の男が駆け込んできました。出石出身の商人、広戸甚助でした。甚助は「卯右衛門は自分が雇っている船頭で、上方から連れてきた。まさか自分のような道楽者に謀反人の知人などいるわけがないでしょう」とおどけて答えました。甚助と顔見知りだった長岡らはこの言葉を信じ、船頭を解放しました。

しかし、船頭の正体はやはり長州藩士、桂小五郎(後の木戸孝允)だったのです。その後しばらく出石と城崎温泉に潜伏。倒幕を果たし、西郷隆盛、大久保利通とともに「維新の三傑」と呼ばれるようになりました。

後に木戸の子孫もこの関所跡を訪れ、感慨に浸ったというほど、人生最大の危機だったのです。もし甚助の助けがなかったら…。ここで歴史が“動いた”かもしれない。

  
一宮神社

式内社ではないから比較的新しい神社だろう。
どういう謂われで一の宮と呼ばれるようになったのかわからないけれど、
久畑関所そばにあるから、江戸時代に出石藩主が、京街道を出石領内に入る最初の守り神として建立したのではということは十分想像できます。
一宮神社には「兵庫県指定天然記念物」に指定されている大ケヤキ
(樹高35m幹周り7m)があります。

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【たじまる】 明治近代化遺産 桃観トンネルと余部橋梁掛け替え工事

桃観トンネル

  
桃観トンネル久谷側

山陰線久谷・余部間には、山陰線で最も長い桃観トンネル (全長1,991m) があります。余部鉄橋と並ぶ最大の難工事で、そのトンネルの東西の坑口上部に山陰線建設当時の逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平の筆による石額が掲げられています。
久谷側は「萬方惟慶(すべての人がこれを喜ぶ)」
余部側は「惟徳岡小(この徳は少なくない)」
と刻されています。
初期の鉄道工事には、記念すべきトンネルの両端を煉瓦や石で装飾し、石額を掲げていました。桃観トンネルも明治43年に完成し、山陰線の記念すべきトンネルとしてトンネルの両端に石額が掲げられています。山陰線の歴史を語る文化的遺産です。
・建立年月日 明治43年
・碑文 碑面 久谷側「萬方惟慶」
余部側は「惟徳岡小」
・揮毫 逓信大臣兼鉄道院総裁 後藤新平
・建立者 鉄道院 米子建設事務所


桃観トンネル余部側

余部橋梁

特急はまかぜ(画像:JR西日本)
特急はまかぜ(画像:JR西日本)

余部橋梁(りょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部(あまるべ)、JR西日本山陰本線の鎧駅~餘部駅間にある鉄橋(単線鉄道橋)。一般に余部鉄橋と呼ばれています。地名は「余部」であり、当橋りょうの正式名称も「余部橋りょう」なのに対し、駅名が「餘部」のため、一般的に地元で使用される「余部」と、観光客や一部の鉄道ファンの間で使用される「餘部」が併用されています(同じ兵庫県内に姫新線の余部駅があるため、それと区別するためでもある)。

明治後年、京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道が福知山から舞鶴までの鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきました。すでに開通した山陰西線と山陰東線は浜坂・香住間を残すのみとなりました。餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、山陰西線と東線が開通し、山陰本線が全通しました。


餘部橋梁は現在コンクリート橋に掛け替え工事中です。橋脚はほぼ姿を現しました。

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【たじまる】 明治近代化遺産 余部橋梁(りょう)

特急はまかぜ(画像:JR西日本)

余部橋梁(りょう)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部(あまるべ)、JR西日本山陰本線の鎧駅~餘部駅間にある鉄橋(単線鉄道橋)。一般に余部鉄橋と呼ばれています。地名は「余部」であり、当橋りょうの正式名称も「余部橋りょう」なのに対し、駅名が「餘部」のため、一般的に地元で使用される「余部」と、観光客や一部の鉄道ファンの間で使用される「餘部」が併用されています(同じ兵庫県内に姫新線の余部駅があるため、それと区別するためでもある)。

  

明治後年、京都鉄道が京都から福知山、そして阪鶴鉄道が福知山から舞鶴までの鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきました。すでに開通した山陰西線と山陰東線は浜坂・香住間を残すのみとなりました。餘部(あまるべ)鉄橋(日本一の高さ)と桃観トンネル(山陰本線最長)などの難工事の末、山陰西線と東線が開通し、山陰本線が全通しました。

餘部橋梁は現在コンクリート橋に掛け替え工事中です。橋脚はほぼ姿を現しました。

 

コンクリート橋が完成した余部橋梁

兵庫県美方郡香住区余部


鉄骨の旧橋梁が一部保存で残されている

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明治時代近代化遺産 達徳会館


旧豊岡中学校本館(現・達徳会館 -達徳会:豊岡高校の同窓会)
兵庫県豊岡市京町

1896年(明治29年)に、当時の本館として建設された建物。木造2階建てで、当時の流行であった擬洋風で建設されており、明治時代の近代化遺産として豊岡市指定文化財に指定されている。老朽化が烈しく現在は利用されていません。数年前に28期生同窓会が百年記念館であったとき以来、拝見しましたが外壁のペンキが剥がれかけており寂しい感じです。補修が必要です。


旧豊岡中学校本館でしたが、公売されかけたとき、校友会「達徳会」により救われたことがきっかけで保存され現在地に。現在はこの名称で呼ばれている。玄関には旧制豊岡中学、旧制豊岡女学校の校章が掲げられている。


和魂碑

達徳会館と校舎の間。豊高が火災に遭った年に1年で、プレハブ校舎が1年半、新校舎は2年後半からで、和魂ホールも建て替えられ、火災から免れた建物は今は達徳会館と木造建築とこの和魂碑が当時の面影を残しています。
グループ毎の卒業写真では、和魂碑をバックに人気が高いスポットです(でした)。

  
達徳会館奥にある木造平屋建て現存する唯一の和建築。
茶道部が使用していたが、今は不明です。

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【たじまる】 明治時代近代化遺産 達徳会館


2016.12


旧豊岡中学校本館(現・達徳会館 -達徳会:豊岡高校の同窓会)
兵庫県豊岡市京町
1896年(明治29年)に、当時の本館として建設された建物。木造2階建てで、当時の流行であった擬洋風で建設されており、明治時代の近代化遺産として豊岡市指定文化財に指定されている。老朽化が烈しく現在は利用されていません。数年前に28期生同窓会が百年記念館であったとき以来、拝見しましたが外壁のペンキが剥がれかけており寂しい感じです。補修が必要です。

旧豊岡中学校本館でしたが、公売されかけたとき、校友会「達徳会」により救われたことがきっかけで保存され現在地に。現在はこの名称で呼ばれている。玄関には旧制豊岡中学、旧制豊岡女学校の校章が掲げられている。

和魂碑
達徳会館と校舎の間。豊高が火災に遭った年に1年で、プレハブ校舎が1年半、新校舎は2年後半からで、和魂ホールも建て替えられ、火災から免れた建物は今は達徳会館と木造建築とこの和魂碑が当時の面影を残しています。
グループ毎の卒業写真では、和魂碑をバックに人気が高いスポットです(でした)。

達徳会館奥にある木造平屋建て現存する唯一の和建築。
茶道部が使用していたが、今は不明です。

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