たじまる 飛鳥3

大化改新

目 次

  1. 大化の改新
  2. 「日本」という国号
  3. 天皇という称号
  4. ヤマト政権の地方官制
  5. 白村江の戦い

大化の改新

622年に聖徳太子が没し、ついで628年には推古天皇も逝去しました。その皇位継承をめぐる対立に乗じて、蘇我氏はさらに勢力を拡大していきます。その過程で太子の一家も滅ぼされてしまいました。蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)でありました。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにしました。

孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握りました。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させました(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たりました(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、その父で大臣の蘇我蝦夷(えびす・えみし)を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼしました(乙巳の変(いっしのへん)。こうして蘇我氏は急速に没落、新たに即位した孝徳天皇は中大兄皇子を中心に、律令制度に基礎を置く「大化の改新」が断行されます。ちなみに「大化」は日本において初めて立てられた年号です。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月に新しい難波宮(大阪市)で改新の詔を宣して、着々と中央集権的な統一国家が形づくられていくのです。(大化の改新

その後も、これまでの蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めました。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとあります。
しかし、改新の詔はのちの律令などによって文章が様々に装飾されているので、そのまま信じることはできませんが、人口・土地の調査を行い、地方行政区画の「郡」を設置するなど、中央集権化を進める諸政策が打ち出されていきました。

663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなりました。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置きました。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進みました。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移されました。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれています。
仏教もこれを契機として、保護と統制が時代が下がるにつれて強まります。「大宝律令」(701年完成)の「僧尼令」は、唐の「道僧格」等に倣ったもので、全体は二十七条からなり、各条ごとに違反した場合の罰則が付けられています。重いものは教団追放、あるいは還俗、軽いものは苦使(掃除や建物の修理などの肉体労働)となっています。

ところで、国家にとって仏教界の統制が重要な問題の一つになったということは、裏返せば、その大きさと力が無視できない、放ってはおけないものになってきたということなのです。ある記録によれば、例えば寺院の数は、推古天皇三十二年(624)に46であったものが、持統天皇六年(692)には545に達したとされます。約七十年の間に約十二倍に増加しているのです。
それらの中には、百済大寺(大安寺)のような官寺もありますが、ほとんどは各氏族が祖先崇拝の念にもとづき、一族の繁栄と仏神の加護を祈って建てた氏寺(うじでら)でした。
しかし、斉明天皇六年(660)、詔によって大規模な任王般若会が行われたころから、諸寺は次第に護国的な役割を伴わせ持つようになります。天武九年(680)、初めて『金光明教』の講説を行うことが宮中および諸寺に求められました。これによって奈良仏教の鎮護国家的な性格は、決定的に重要な特徴となったと推測されます。舎利塔中心から金堂中心へと伽藍配置の変化もみられます。

「日本」という国号

この時代前後に「倭国(倭:ヤマト)」から「日本」へ国号を変えたとされています。日本列島が中国や朝鮮半島に対して東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられています。
建国は、紀元前660年2月11日とされていわれていますが、「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられています。具体的には、天武天皇治世(673年-686年)において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されています。

7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期でした。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられていますが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説です。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至りましたが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説です。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されています。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できます。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としています。

天皇という称号

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていました。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称しました。

「天皇」号をはじめて採用したのは、推古天皇という説も根強いですが、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とされていますが、近年の研究では、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されたことにより、それまでの「大王」から「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力です。天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなります。伝統的に「てんおう」と訓じられていました。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされています。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一されました。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」「大日本帝国皇帝」が多く用いられていました。完全に「天皇」で統一されていたのではないようです。

ヤマト政権の地方官制

天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こりました。672年(弘文元)壬申の乱が起こりました。この戦いは、日本古代最大の内乱であり、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となりました。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めました。

即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指します。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにしました。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもありました。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めました。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大しました。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革しました。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行いました。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達されました。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を一人も置きませんでした。

外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により、新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶しました。
「天武天皇 九つの偉業」

  1. 1. 天皇号の創始
  2. 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置
  3. 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
  4. 4. 践祚大嘗祭の制定
  5. 5. 宮都の選定と設計
  6. 6. 八色の姓の制定
  7. 7. 飛鳥浄御原令の制定
  8. 8. 三種の神器の制定
  9. 9. 伊勢の遷宮の制定・開始

672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移しました。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行いました。

681年(天武10年)には、律令の編纂を開始しました。5年後の686年(朱鳥元年)に天武天皇は没しました。8年後の689年(持統3年)に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定されます。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられています。

人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始されます。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となりました。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施しました。

694年(持統8年)には藤原京に都を定めました。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定されました。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成しました。これをもって、一応の古代国家成立とみます。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われました。
701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされています。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えました。

このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されています。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されています。

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。戦いは唐・新羅連合軍の勝利に終わりました。大陸に超大国唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、その後の倭国(日本)にも大きく影響しました。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多いですが、中国・朝鮮側では「白江」と表記されます。

668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進しました。また、東国に柵を造りました。白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来しました。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されています。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていました。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになりましたが、日本はこれを認めませんでした。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれました。

737年には新羅征討が議論に上りますが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなりませんでした。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備しています(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったのですが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなりました。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされています。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しています。

飛鳥2 聖徳太子と仏教

聖徳太子と仏教

目 次

  1. 聖徳太子
  2. 仏教はいつ日本に伝来したのか
  3. 崇仏か廃仏か
  4. 物部氏と蘇我氏の対立

聖徳太子は、歴史上最もよく知られた日本人の一人です。しかし実は、その生涯に関しても事績に関しても、不明な点が多い人物です。関係資料も、かなり時代を経て成立し、信憑性に疑問を抱かせるものが大半です。このことから、太子の存在それ自体を否定する研究者もいるほどなのです。

しかし、太子を架空の存在と見ることにはやはり無理があると思われ、信憑性の高い記事を取り上げたいと思います。『日本書紀』等によると、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)から推古天皇30年2月22日(622年4月8日)(同29年2月5日説あり-『日本書紀』))は、飛鳥時代の皇族とされる人物です。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)とされています。また、『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるといいます。敏達(びたつ)天皇3年(574年)、聖徳太子は橘豊日皇子と穴穂部間人皇女との間に生まれましました。橘豊日皇子は蘇我稲目の娘堅塩媛(きたしひめ)を母とし、穴穂部間人皇女の母は同じく稲目の娘小姉君(おあねのきみ)であり、聖徳太子の父母ともに蘇我氏の出で、しかも両人の母は姉妹でした。太子がいかに濃厚に蘇我氏の血を受け継いでいたかです。本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説があります。ただし、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力です。別名、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれましました。

『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記されています。『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されています。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ、一般的な呼称となっていましたが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もあります。幼少時から聡明で仏法を尊んだと言われ、様々な逸話、伝説が残されています。用明天皇元年(585年)、敏達天皇崩御を受け、父・橘豊日皇子が即位しました(用明天皇)。この頃、仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていましました。用明天皇2年(587年)、用明天皇は崩御しました。皇位を巡って争いになり、馬子は、豊御食炊屋姫(敏達天皇の皇后)の詔を得て、守屋が推す穴穂部皇子を誅殺し、諸豪族、諸皇子を集めて守屋討伐の大軍を起こしました。厩戸皇子もこの軍に加わった。討伐軍は河内国渋川郡の守屋の館を攻めましたが、軍事氏族である物部氏の兵は精強で、稲城を築き、頑強に抵抗しました。討伐軍は三度撃退されましました。これを見た厩戸皇子は、白膠の木を切って四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努める、と誓った。討伐軍は物部軍を攻め立て、守屋は迹見赤檮(とみのいちい)に射殺されましました。軍衆は逃げ散り、大豪族であった物部氏は没落しました。

戦後、馬子は泊瀬部皇子を皇位につけました(崇峻天皇)。しかし政治の実権は馬子が持ち、これに不満な崇峻天皇は馬子と対立しました。崇峻天皇5年(592年)、馬子は東漢駒(やまとのあやのこま)に崇峻天皇を暗殺させた。その後、馬子は豊御食炊屋姫を擁立して皇位につけた(推古天皇)。天皇家史上初の女帝です。厩戸皇子は皇太子となり、推古天皇元年(593年)4月10日に、摂政となり、馬子と共に天皇を補佐しました。

太子は自ら仏教の学習・研究を深めるとともに、中央集権的な諸政策を次々と打ち出していきました。

  • 崇峻元年(588年)、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。
  • 592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てた。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりましました。
  • 推古天皇元年(593年)、四天王寺造立を開始。
    推古天皇2年(594年)、三宝興隆の詔を下す。臣・連らは競って仏事を建立したという。
  • 595年、高句麗僧慧慈(えじ)が渡来し、太子の師となる。「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝えた。
  • (推古十二年(604年)、冠位十二階を制定。聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築く。607年、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、「隋の皇帝に日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)をおくります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れて、国家の政治・文化の向上に努めましました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しましました。国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていましました。国造(くにのみやつこ)とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。推古天皇8年(600年)、新羅征討の軍を出し、調を貢ぐことを約束させます。推古天皇9年(601年)、斑鳩宮を造営しました。推古天皇10年(602年)、再び新羅征討の軍を起こしました。

    同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めましたが、渡海準備中に来目皇子が死去しました(新羅の刺客に暗殺されたという説がある)。後任には異母弟・当麻皇子が任命されましたが、妻の死を理由に都へ引き揚げ、結局、遠征は中止となった。この新羅遠征計画は天皇の軍事力強化が狙いで、渡海遠征自体は目的ではなかったという説もあります。推古天皇11年(603年)12月5日、いわゆる冠位十二階を定めました。氏姓制によらず才能によって人材を登用し、天皇の中央集権を強める目的であったと言われています。

    推古天皇12年(604年)4月3日、「夏四月 丙寅朔戊辰 皇太子親肇作憲法十七條」(『日本書紀』)いわゆる十七条憲法を制定しました。豪族たちに臣下としての心構えを示し、天皇に従い、仏法を敬うことを強調しています(津田左右吉などはこれを「後世における偽作である」としている)。

    推古天皇13年(605年)、斑鳩(いかるが)宮へ移り住みました。

    日本書紀によると裴世清が携えた書には「皇帝問倭皇」(「皇帝 倭皇に問ふ」)とあります。これに対する返書には「東天皇敬白西皇帝」(「東の天皇 西の皇帝に敬まひて白すとあり、隋が「倭皇」とした箇所を「天皇」としています。

    推古天皇15年(607年)、小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)」の上表文(国書)を送ります。留学生・留学僧を隋に留学させて隋の文化を大いに取り入れ、国家の政治・文化の向上に努めました。620年(推古二十八年)には、聖徳太子は蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記しました。

    国造制が、遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていました。国造とは、王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、ヤマト政権の地方官的な性格をもつものです。

    厩戸皇子は仏教を厚く信仰し、推古天皇23年(615年)までに三経義疏を著しました。

    推古天皇28年(620年)、厩戸皇子は馬子と議して『国記』、『天皇記』などを選びました。

    厩戸皇子は当時最大の豪族である蘇我馬子と協調して政治を行ない、隋の進んだ文化をとりいれて天皇の中央集権を強化し、新羅遠征計画を通じて天皇の軍事力を強化し、遣隋使を派遣して外交を推し進めて隋の進んだ文化、制度を輸入しました。仏教の興隆につとめ、『国記』、『天皇記』の編纂を通して天皇の地位を高めるなど大きな功績をあげました。

    推古天皇30年(622年)、斑鳩宮で倒れた厩戸皇子の回復を祈りながらの厩戸皇子妃・膳大郎女が2月21日に没し、その後を追うようにして翌22日、厩戸皇子は亡くなりました。

    全体的に見て太子の政治理念が仏教を基範としたものあることは確かでしょう。
    憲法十七条第十条一節には
    我必ずしも聖にあらず、彼必ずしも愚にあらず。共に是れ凡夫のみ。
    と述べています。第二条には儒家、第十条には道家の影響も認められます。これらは太子の思想の根幹に大乗仏教的な人間観・世界観があることを明瞭に示していると思われます。事実上絶大な権力を握る蘇我氏を抑え、調整を図りながら、摂政として現実の日本を理想的な中央集権国家(仏国土、浄土)に作り上げようと務めた太子は、宗教的視点に立つ、日本における明確な現世否定論の最初の表明という意味でも歴史上注目されます。

聖徳太子

聖徳太子の中国に対する姿勢は、小野妹子に託した煬帝への国書、「日出ずる処の天子、書を没する処の天子に致す、恙無きや」(『隋書倭国伝』)に表れています。これは当時の外交姿勢としては大変な意思表示です。国家関係は、先例が大きくものを言いますから、聖徳太子の外交姿勢によって、日本は朝貢国にならずに済み、その後も長くことになります。

仏教はいつ日本に伝来したのか

その時期は、必ずしも明確ではないようです。
おそらく、遅くとも六世紀初めころから日本に伝来し始めました。しかし本格的な学習・研究が開始されるのは、聖徳太子の時代です。奈良時代までに伝承した仏教についての史料は、天平十九年(747)の「寺院縁起流記資材帳」です。また、東大寺の智憬(ちけい)が書いた文書によれば、仏教の学派は三論・法性・華厳・律・成実・倶舎の六宗に分けられます。後代の「南都六宗」は、この区分を源とするものです(ただし、法性宗は法相宗とされるのが一般的)。仏教公伝(ぶっきょうこうでん)といって、国家間の公的な交渉として仏教が伝えられることをいいますが、日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済の聖明王が倭(古代日本)へ「釈迦仏金銅像一躰、幡蓋(ばんがい)若干、経論若干巻」を奉献したときを仏教公伝とするのが一般的であり、単に仏教伝来と呼ぶこともありますが、公伝以前に、すでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、「公伝」と称されることが多いのです。しかし、その年が何年かははっきりしていません。『日本書紀』は欽明天皇十三年(552年、壬申)10月として上記の百済の聖明王のことを記していますが、『上宮聖徳法王帝説』や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』においては、欽明天皇の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとあります。しかし書紀での欽明天皇治世(540年 – 571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられています。ところが、中国や韓国の史料等にもとづいて算定すると、西暦の549年、または548年がその年に当たることになります。いずれにしろ、国家レベルにおける仏教の伝来が、六世紀半ばであることに間違いはないようです。

ちなみに、平安後期に成立した歴史書『扶桑略記』によれば、継体天皇十六年(522)、漢人の司馬達止が来朝し、大和国坂田原に草堂を結んで仏像を安置し、礼拝したと記しています。この記事や当時の日本と百済などとの密接な関係から考えると、少なくとも「公伝」の数十年以前から民間レベルで仏教が日本に伝えられていた可能性はかなり高いと思われます。敏達(びたつ)天皇六年(577)、新羅との戦争で敗死した聖明王の後を継いだ百済の威徳王は、日本の使者に託して、経論若干と律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工、合わせて六人[*1]を送りました。その二年後には、新羅も貢ぎ物とともに仏像を献上しました。また584年、蘇我氏の当主、馬子は、ある帰化人から弥勒の石像と、佐伯連(さえきのむらじ)が所有していた仏像一体を請い受けて祀りました。日本にわたり還俗していた高句麗のヘビョン(慧便(えびん))は敏達天皇六年(584)、蘇我馬子が建てた精舎に迎えられ、師として司馬達等の娘、嶋と二人の女性を得度させ、法会を行いました。嶋は出家して善信尼と称した、と『日本書紀』は伝えています。

これらの記事を全面的に信じることはできませんが、とくに百済のバックアップのもとで、六世紀後半、貴族僧を中心に、仏教が日本の社会に定着し始めていたことは間違いありません。中でも、経論や僧尼とともに様々な技術者が韓半島から渡来していること、日本最初の出家者が中国からの渡来人の血を引くこと、出家の儀式が高麗僧の主導で行われたらしいこと、および、その出家者が女性であったことなどは注目で、初期の日本仏教は、韓半島の諸国の仏教に大きく依存しながら形成されていきました。崇峻元年(588年)には、蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始めました。592年、蘇我馬子は東漢駒を遣い崇峻天皇を暗殺すると、女帝推古天皇を立てました。厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ摂政となりました。四天王寺聖徳太子建立七大寺の一つ、四天王寺が建てられます。『日本書紀』によれば推古天皇元年(593年)に造立が開始されています。蘇我氏と物部氏の戦いにおいて、蘇我氏側である聖徳太子は戦いに勝利すれば、寺院を建てると四天王に誓願を立てた。見事勝利したので、摂津国難波に日本最古の官寺として四天王寺(大阪市天王寺区)を建てました。

法隆寺

推古天皇十二年(604年)には、冠位十二階を制定し、聖徳太子が憲法十七条をつくり、仏教の興隆に力を注ぐなど、天皇中心の理想の国家体制づくりの礎を築きました。百済の僧イルラ(日羅)が帝の要請によって来日しました。聖徳太子は彼を神人と敬い、救世観音(ぐぜかんのん)の再来と尊んだと言います。同じく百済の三論宗の学僧カンルク(観勒)は、推古十年(602)に来日し、三年後には僧正に任じられています。
法隆寺は聖徳太子こと厩戸王ゆかりの寺院であり、創建は同じく聖徳太子ゆかりの寺院である大阪の四天王寺より約20年後の607年とされていますが、確証はありません。金堂、五重塔などがある西院と、夢殿などのある東院に分かれます。西院伽藍は現存する世界最古の木造建築物群です。

崇仏か廃仏か

『日本書紀』によれば、上記の聖明王から仏像などの奉献があったとき、欽明天皇は百済王からの伝来を受けて、特に仏像の見事さに感銘し、「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。仏を信奉すべきかどうか」と群臣に対し意見を求めました。

これに対して、有力氏族の蘇我稲目は「諸国で尊崇されているものを日本だけが退ける理由はありません」と受容を勧めたのに対し、物部尾輿・中臣鎌子らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神(となりぐみのかみ)を拝せば、国神たちがお怒りになるでしょう」と反対したといいます(崇仏・廃仏論争)。
しかし、推古天皇が仏教を取り入れたときに、縄文以来続いている神道を傷つけてはいけない、と言って、これまでの文明の上に積み重ねたことです。中西輝政京都大学教授は『堆積の文明』と呼んでいますが、何でも上に積み重ねていって、排斥しないのです。
すでに日本人の、文明を堆積していく伝統的な姿勢があったわけです。ここが他宗教や異宗派を排斥してきた諸外国とは異なる特色です。例えば中国は、易姓革命です。前野王朝の歴史も次の王朝になれば残りません。すべて、次の政権が自分たちの都合のいい歴史に書き換えられてきました。したがって、それまでの文明が次の時代には残らないわけです。この意見の対立は、実際には蘇我氏を代表とする国際派と、物部氏を代表とする民族派の争いを反映したもので、外交政策などが深く関連していたと見られています。事態は結局、蘇我氏優勢のうちに推移し、百済との関係が強化されるとともに、仏教も公式に(といっても現実には蘇我氏ら崇仏派氏族の宗教として)受容されることとなったのです。

ところで、物部尾輿の発言のなかで注意されることは、仏が「蕃神」と表現されていることです。これをどう解釈するかは簡単ではないようです。別の文献に「客神(まろうどがみ)」とか「仏神(ほとけがみ)」「今来の神(いまきのかみ)」といった語で仏を表す例が見えることと照らし合わせても、新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、これらの神といわば同列の存在と把握されたことは想像に難くないのは、これらは一般的な倭人にとって仏が「国神」と異質な存在としてではなく、それらと同じ「神」の範疇に属する存在として理解されていたようです。神と同じく仏の性格は、ないがしろにされれば、怒ったり崇ったりする存在として理解していたことです。日本における仏は、当初は蕃(となりぐに)からやってきて住み着いた氏神であり、性格的にはありのままの人間の延長線上に位置づけられながら、人間以上の力を持ち、人間に恐れられる存在でした。例えばユダヤ教やキリスト教、イスラム教における、超越的・絶対的な存在ではないのです。

受容の過程が以上のように紆余曲折を経たこともあり、神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、主として7世紀以降に進められることとなります。

物部氏と蘇我氏の対立

史実の上で、物部氏が最も大きく登場するのは、蘇我馬子(ソガノウマコ)と物部守屋(モノノベノモリヤ)の戦いです。宣化天皇の死後、欽明天皇になると物部尾輿(モノノベノオコシ)が最高位の大連(オオムラジ)になります。

『日本書紀』によると、欽明天皇の時代、538年(宣化三年)に百済の聖明王が釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り仏教が公伝されると、587年(用明二年)天皇の仏教帰依について物部守屋と蘇我馬子が対立しました。意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可しました。しかし、直後に疫病が流行したことをもって、物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上しました。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したといいます。物部守屋は蘇我氏の寺を襲い、仏像は川に投げ入れ、寺は焼いてしまいます。そして3人の尼を鞭で打ったとされています。しかし、それ以後疫病が流行し、用明天皇が崩御されてしまいました。これにより姻戚関係から皇后や皇子を支持基盤にもつ蘇我氏が有利になり、また天皇が生前、「仏教を敬うように」といった詔があったこともあり、先代の敏達天皇の皇后、額田部皇女(ぬかたべのひめみこ:用明天皇の姉。後の推古天皇)の命により、蘇我氏及び連合軍は物部守屋に攻め込むのです。ただし、近年では物部氏の居住跡から氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、物部氏を単純な廃仏派として分類することは難しく、個々の氏族の崇拝の問題でなく、国家祭祀の対立であったとする見方もあります。いずれにしても、蘇我稲目・物部尾興の死後は蘇我馬子、物部守屋(もののべのもりや)に代替わりしました。

当初、物部守屋は有利でしたが、守屋は河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の本拠地で戦死してしまいました。後の聖徳太子は蘇我氏側につき、物部氏を滅ぼしました。物部氏を滅ぼして以降約半世紀の間、蘇我氏が大臣として権力を握ります。

蘇我氏

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族です。

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね。たけのうちのすくね)を祖としていますが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目からで、それ以前に関してはよく分かっていません。

河内の石川 (現在の大阪府の石川流域、人によっては詳細に南河内郡河南町一須賀あたり)、あるいは葛城県蘇我里(現在の奈良県橿原市曽我町あたり)を本拠にした土着の豪族、または(系譜に現れる名前などから)その地に定住した渡来人であった、などの説がありますがいずれも定かではありません。『新撰姓氏録』は蘇我氏を皇別(歴代天皇から分かれた氏族)に分類しています。蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられています。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされています。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察されています。

6世紀後半には今の奈良県高市郡近辺を勢力下においていたと思われています。蘇我氏が政治の実権を掌握した時代から、その地域に集中的に天皇の宮がおかれるようになったことからもそれがうかがえられます。『日本書紀』 は、明らかに出雲の神々を「鬼」=祟りとみなしています。大己貴命の幸魂は大物主神といい、出雲からヤマトに移され三輪山(奈良県櫻井市)で祀られるが、大物主神はヤマト朝廷がもっとも丁重に祭った神であった。いわば、ヤマトにおける出雲神の代表格であり、その大物主神の 「物」 が 「鬼」 の 「モノ」 であるところが重要である。(奈良時代以前、「鬼」は「オニ」とは読まずに「モノ」といっていた)。 物部とは道具ではなく鬼を鎮める部という意味ではないか、と考えられる。銅鐸はその祭祀を行う道具だったのではないかと考えられる。なぜ物部氏亡き後、蘇我入鹿が出雲神スサノオとかかわりを持っていたのだろう。スサノオの祀る出雲大社の真裏の摂社が「素鵞(そが)社」と呼ばれていたのはなぜだろう。
『日本書紀』 は、舎人(とねり)親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統(じとう)天皇の時代までを扱う。蘇我氏満智-韓子—-高麗伊香色謎命=孝元天皇

彦太忍信命

武内宿禰

蘇我氏

百済(346年[1] – 660年)

蘇我氏(そがのうじ、宗賀、宗我)は、古墳時代から飛鳥時代(6世紀 – 7世紀前半)に勢力を持っていた氏族。姓は臣(おみ)で、代々大臣(おおおみ)を出していた有力豪族。

『古事記』や『日本書紀』では神功皇后の三韓征伐などで活躍した武内宿禰(たけしうちのすくね・たけのうちのすくね)を祖としているが、具体的な活動が記述されるのは6世紀中頃の蘇我稲目(そが・の・いなめ)からで、それ以前に関してはよく分かっていない。

蘇我氏自身の出自はともかく、渡来系の氏族と深い関係にあったのは確かなようで、王権の職業奴属民としての役割を担っていた渡来人の品部の集団などが持つ当時の先進技術が蘇我氏の台頭の一助になったと考えられている。また、仏教が伝来した際にそれをいち早く取り入れたのも蘇我氏であったとされる。これは、朝廷の祭祀を任されていた連姓の物部氏、中臣氏を牽制する為の目的も有ったと推察される。

飛鳥寺

奈良県高市郡明日香村にある寺院である。蘇我氏の氏寺で、日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興った寺という意味)の後身である。この寺にはいくつもの呼び名がある。すなわち蘇我馬子が建立した寺院の法号は「法興寺」または「元興寺」(がんごうじ)であり、法興寺中金堂跡に現在建つ小寺院の公称は「安居院」(あんごいん)だが「飛鳥寺」の呼称は江戸時代の紀行文などにも見え、「飛鳥寺式伽藍配置」など学術用語にも使われている。

百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む数千の百済人が倭国に亡命し、王族・貴族をはじめ技能を持った民も登用されて朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、百済の王統を伝えることになる。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社である。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもある。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

王興寺址(忠清南道窮岩面新里の蔚城山山腹)

藤原不比等

天智天皇の寵臣藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。「興福寺縁起」、「大鏡」、「公卿補任」、「尊卑分脈」などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は淡海公。
藤原鎌足の子で、不比等の子孫のみが文武天皇の698年に藤原姓を名乗る事を許され、太政官の官職に就くことができ、不比等以外の鎌足の子は、鎌足の元の中臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当する事と明確に分けられたため、不比等が実質的な藤原氏の祖と言っても良い。
不比等という名前は「他に比べることができるものがいない程優れている」というような意味である。

大宝律令の編纂にも関与、その後、養老律令の編纂作業に取りかかるが720年に病死、作業は中途する。

参考:「仏教の思想」国際仏教学大学院大学教授 木村 清孝
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たじまる 飛鳥1

飛鳥時代

概 要

目 次

  1. 推古天皇
  2. 大和(やまと)国
  3. 「氏(ウヂ)」と「姓(カバネ)」
  4. 地方官制のはじまり
    1. 日本語の歴史
    2. 言語と方言

飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終末期と重なりますが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つです。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期がありましたが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的です。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもあります。

また、この頃には文字の発生と記録を残すことが行われるようになりました。つまり「有史時代」の誕生です。日本の歴史の飛鳥時代の始まりはいつなのか諸説ありますが、推古天皇の即位を基準にするのが一般的です。日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代であり、これを飛鳥文化といいます。現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来します。

推古天皇(すいこてんのう)

推古天皇は、欽明天皇15年(554年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝です。

第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。別名は、『古事記』では豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、『日本書紀』では豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめ)。菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけました。用明元年夏5月(586年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたましが、逆の方は殺されるはめとなってしまいました。

天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着しています。ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっています。『古事記』ではこの天皇までを記しています。

やがて時代は移り、ヤマト王権が諸国を統治する時代に入ります。統一日本の誕生です。崇峻天皇5年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させました。女性天皇が祭祀の責務を行い行政の責務を男性摂政が行う共同統治で、卑弥呼が立つと乱れていた国内が治まったとされるのと似ています。

推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかったとされています。公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣しました(遣隋使)。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていましたが、初めて日本の独立性を強調する目的で使節が派遣されました。

翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。

推古天皇28年(620年)、聖徳太子と蘇我馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上しましたが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなってしまいました。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いありません。

推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようです。わが国にも仏教が伝わると、ヤマトの豪族にならって但馬の豪族たちも次第に寺院を築きはじめます。これは、海人族(=物部氏?)の勢力下を平定し、統一国家に組み入れていく過程ではないかと思われます。やがて、ヤマトから但馬を管理する人が派遣され、ヤマト朝廷の直接の地方支配が始まるとともに、古墳時代も終わりを迎えます。弥生時代の日本列島の人口は5万9千人でしたが、この頃、約十倍の450万人になったと推定されています。

大和(やまと)国

大和(やまと)・倭(やまと)は、狭義では奈良県の南部、次いで奈良県全部、広義では日本全体を指します。

ここでは律令制下の奈良県の地域を指す国名として検討します。

大和(やまと)国は、夜麻登(『古事記』、『万葉集』)、夜萬止(『和名抄』)、耶魔等・夜麻等・野麻登・山門・大日本など(『日本書紀』)、日本(『日本書紀』、『万葉集』)、倭(『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』)、大養徳(『続日本紀』)、和(『万葉集』、『続日本紀』)、大倭(『古事記』、『日本書紀』)、大和(『続日本後紀』、『和名抄』、『万葉集』)などと多様に書かれています。

その語源については、

(1) 「ヤマ(山)・ト(門)」で山間地帯への入り口の意、
(2) 「ヤマ(山)・ト(処)」で山国の意、
(3) 山の神が居られるところ、
(4) 大物主神が鎮座する三輪山あたりの土地の意

とする説があります。
大和には備後、但馬、吉備、筑紫、長門というように二〇数か所の国号地名がある。古代における中部及び西日本と、大和との文化交流を示すもので、出雲国の文化が大和に移入したことも考えられる(『書紀』垂仁記三十二年七月の条)。大字出雲付近には野見宿禰にちなむ出雲伝説があり、いわゆる出雲人形の製産地でもあった。京都伏見の伏見人形の製作技術も大和から移したと伝えています。

大和三山
耳成山 (みみなしやま)
畝傍山 (うねびやま)
天香具山 (あまのかぐやま)

まほろば

『古事記』は、倭建命が薨去される前に
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
と歌ったと記しています(『日本書紀』景行紀17年3月条には「まほろば」ではなく「まほらま」とあります)。

この「まほろば」は、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「まほら」に同じ(『万葉集』巻5・800、巻18・4089には「まほら」とあります)とあり、「まほら」の「ら」は接尾語で、その意味は「すぐれたよい所。ひいでた国土」とあります。

欽明天皇と蘇我氏のヤマト王権による中央の支配体制についてです。
職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)などがあります。君主につかえる家来の地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)などがあります。その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがあります。姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられました。まず蘇我稲目が就いた大臣(おおおみ・オオマヘツキミ)という職位は、稲目から馬子・蝦夷(えみし)という蘇我氏本宗家の三名、実質的には入鹿(いるか)を含めた四名に受け継がれていったもので、「大臣」は「臣」の代表であるとともに、合議体を主宰したり、ヤマト政権を代表して外交の責任者となったりしました。
また、この頃までに「氏(ウヂ)」という、支配者層に特有の政治組織と、「姓(カバネ)」という、政治的地位や職位に応じた族姓表象が成立し、ヤマト政権を構成する支配者層が再編成されました。
これらのうち、後に畿内と呼ばれることになる内国(ウチツクニ)を基盤とした有力氏族は、大王の御前に侍る有力者という意味で、「マヘツキミ(臣・卿・大夫)」と呼ばれました。
マヘツキミ層氏族の代表者は、国政を審議する臨時の合議体に参議したり、合議の結果を大王に奏上し、大王の決定を合議体に宣下したり、また大王の側近に侍奉(じぶ)したりすることによって、ヤマト政権の各職能を分掌しました。

一方、五世紀末の雄略朝から六世紀前半の欽明朝にかけて、朝鮮半島からの人々の渡来がさらに活発になり、大陸の新しい文化と技術が伝えられました。渡来人は、「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田・須恵器・錦の技術などを伝えました。鉄の国内生産がようやく本格化したことは、朝鮮半島への鉄の依存度が低くなったことを意味し、中国王朝の冊封体制から離脱する重要な背景となりました。原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となっていました。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にありましたが、それが国家の政治制度として編成し直されました。同族のなかの特定の者が、臣(おみ)、 連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主(あがたぬし)などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色があります。各姓(かばね)は以下の通りです。臣(おみ)葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏(ウヂ)の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族で。連(むらじ)大伴氏、物部氏、中臣氏(なかとみ)、忌部氏(いんべ)、土師氏(はじ)のように、ヤマト王権での職務を氏(ウヂ)の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。

伴造(とものみやつこ)

連(むらじ)とも重なり合いますが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)などの代表的な帰化氏族、それに弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏(ウヂ)がある。連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(カバネ)を称しました。

百八十部(ももあまりやそのとも)

さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。

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国造(くにのみやつこ)

代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民(べみん)を率(ひき)いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓(カバネ)が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
9世紀成立の全国135の国造の設置時期・任命された者らの記録「国造本紀」(「先代旧事本紀」巻10)があります。

大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造の例

  • 出雲国造 – 天穂日の十一世孫。出雲大社の最高神職として、現人神のように信仰を集めた。南北朝時代に千家・北島の両家に分裂したが、現在も出雲大社社家として存続。
  • 紀伊国造 – 日前神宮・国懸神宮社家。平安時代前期と江戸時代中期に後嗣を欠いたことがあったが、女系相続により辛うじて家を維持した。現在は藤原姓。
  • 阿尺国造(安積国造) – 福島県郡山市・安積(あさか)国造神社社家の安藤家。安積国造家の末裔であるとして安積姓を名乗る。
  • 石背国造 福島県須賀川市・石背国造神社 (いわせくにつこじんじゃ)
  • 武蔵国造 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町・武蔵国一宮氷川神社。武蔵国造は出雲国造と同族とされる。
  • 但島国造(たじま=但遅麻国造)粟鹿神社社家 – 日下部家
  • 二方国造(ふたかた・但馬北西部=美方郡(旧二方郡・旧美含郡)) 出雲国造の同祖
  • 丹波国造 – 京都府宮津市・籠神社(このじんじゃ)社家の海部家。現宮司は第82代丹波国造を称する。
    凡河内国造
  • 賀陽国造 岡山県および備中国にかつて存在した国府所在地とされる郡。吉備津神社の主神、大吉備津彦命はまたの名を四道将軍 彦五十狭芹彦命
  • 沼田国造 – 沼田神社社家。古代には、現在の広島県三原市の沼田(ぬた)地域を支配していた。
  • 因幡国造 – 宇倍神社の神主であった伊福部氏は因幡国造を名乗っていたが、実際の国造は因幡氏(因幡国造氏)であり、伊福部氏はこの一族から分れた支流に当る。9世紀の国造なので、ヤマト政権成立時(4世紀はじめ)から9世紀頃は定かではありませんが、但島(但馬)国造は粟鹿神社社家 – 日下部家とあり、付近に池田古墳の規模(近畿で前方後円墳で4番目の大きさ)や城の山・茶すり山古墳などが集中していることからも、池田古墳は但馬国造の墓であろうとされています。但馬国造の設置は朝来郡内に置かれたのでしょう。

律令国が整備される前の行政区分は判明しませんが、但馬・丹後はその後丹波から分割された律令国なので、8世紀の但馬成立後の9世紀にも二方国造が記されており、但馬北西部(美方郡(旧二方郡・旧七美郡)は、同じ但馬でも広範なために二人の国造が置かれていたのかもわかりません。出雲国造の同祖とあるので、因幡から出雲の勢力範囲(今でも鳥取に近い生活圏)にあった可能性が高いと推測できます。県主(あがたぬし)これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏(ウヂ)の名とする。このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれました。そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及びました。部民などの私有民氏姓は元来はヤマト王権を構成する臣・連・伴造・国造などの支配階級が称したものである(王とその一族を除く)。しかし、6世紀には一般の民にも及んだ。これらの一般の民は、朝廷すなわち、天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、さらに臣、連らの豪族に領有・支配されていた。そのため、一般の民の中から、朝廷に出仕して、職務の名を負う品部(しなべ)、王名、宮号を負う名代(なしろ)・子代(こしろ)、屯倉(みやけ)の耕作民である田部(たべ)などが必然的に生まれた。彼らは先進的な部民共同体の中で戸を単位に編成され、6世紀には籍帳に登載されて、正式に氏姓をもちました。これに対し、地方豪族の支配下にあった民部(かきべ)は、在地の族長を介して、共同体のまま部(べ)に編入し、族長をへて貢納させる形のものが多くありました。そのため、地方豪族の支配下にあった一般の民にまで6世紀の段階で氏姓が及んでいたかどうかは定かではありません。

ヤマト政権は、百済の二十に部司の制度を摂取して、渡来人を部(べ)に組織しました。錦(にしこり)部・衣縫(きぬぬい)部・鍛冶(かぬち)部・陶(すえつくり)部・鞍(くらつくり)部・馬飼(うまかい)部などの宮廷工房的な伴(とも)が新たに組織され、王権の政治機構が再編されたのです。これらの伴は、伴造の統率の下、百八十部として配置された下級氏族、その下部にあった渡来系技術者としての品部(しなべ)によって構成されました。

姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化していきましたので、代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられました。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの氏族の姓(カバネ)が朝臣(あそん)になってしまい、八色の姓も甚だ形式的なものに変質してしまいます。
一般の公民については、670年(天智9)の庚午年籍、690年(持統4)の庚寅年籍によって、すべて戸籍に登載されることとなり、部姓を主とする氏姓制度が完成されることとなりました。しかしながら、現存する702年の大宝2年籍に、氏姓を記入されていない者、国造族、県主族などと記された者がかなり存在するため、このとき、まだ無姓の者、族姓の者が多数いたことが伺(うかが)えます。
※氏姓は平安期(10世紀)に取って代わることになる苗字(名字)とは異なります。貴族では家名、武士では名字(みようじ)が生ずるようになります。

地方官制のはじまり

地方官制(ちほうかんせい)は、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されたのが公的には最初のようです。

4世紀~6世紀頃?、『古事記』成務段に、「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺(境)、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」とあります。
『日本書紀』成務紀には、4年「今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む。」(阡陌は南北・東西の道の意)しかし、成務天皇は13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたります。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の潤色であると考えられています。また成務天皇自体の実在性が疑われています。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主(アガタヌシ)として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできるそうです。

郡(コホリ・コオリ、あがた)

6世紀後半~7世紀中?、『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉(みやけ)の大量設置の記事がみられますが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できます。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられますが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)のだということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察されています。

この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられています。
県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたのでしょう。

地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは天武朝においてであったと思われます。その基礎となる戸(コ)は、正丁(セイテイ)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になりました。註:県は縣、郡は群が旧使用漢字
参考:ウィキペディア

100年の夢、氷ノ山越え3

●蘇武トンネルまもなく完成

時代は鉄道から自動車時代となって久しい。京都を起点として山口県まで結ぶ日本で3番目に長い国道9号が完成した。そして京都府宮津市から鳥取県米子市までを、日高町の清水豊町長が音頭を取って宮津市から米子市までの関係市町が国道482号昇格期成同盟を結成。そして国道に昇格し、難所として行き止まりだった下記の3ケ所が繋がるのである。このルートこそ、大正時代に故藤本俊郎が夢見た壮大なロマン、但馬鉄道計画そのものであり、完成するとかつて旧山陰道の最短ルートであった氷ノ山越えが百年の時を越えて復活することになる。冬季除雪もほとんどなく、国道9号の関宮町から若桜町を抜けるルートとしても期待が大きい。また、若桜、美方、関宮3町ともスキー場があり、トンネルを利用すれば30分単位での移動が可能となるし、蘇武トンネル開通によって神鍋高原も結ばれ、全く違うルートを利用してきた関西の主なスキー場の移動が、短時間でできるようになるのだ。

100年の夢、氷ノ山越え2

●氷ノ山越えと山陰本線計画

明治後期に鉄道敷設がさかんになると、舞鶴の軍港と大阪を結ぶ計画の阪鶴鉄道(現JR福知山線)が福知山まで完成。また、山陽鉄道(現JR山陽本線)、さらに姫路から和田山までを結ぶ播但鉄道(現JR播但線)が完成した。さらに京都から福知山そして福知山から舞鶴まで鉄道がつながると、舞鶴の軍港と鳥取の陸軍師団を結ぶ山陰鉄道敷設計画が持ち上がってきたのだ。豊岡駅から国鉄宮津線(現北近畿丹後鉄道)、鳥取までは、内陸部の八鹿駅から若桜へ抜けるルートである。鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町までは敷設でき(旧国鉄若桜線、現若桜鉄道)ていたが、氷ノ山を貫く大トンネル工事は、当時のトンネル技術では困難なことから、明治42年頃には和田山から城崎まで北進していた鉄道から、余部鉄橋も難工事ではあったが海岸ルートに決まったのが、現在のJR山陰本線である。

100年の夢、氷ノ山越え1

●旧山陰道の最短ルート

氷ノ山トンネル 神戸新聞連載「100年の夢」の記事に、「戦国時代末期の天正三(一五七五)年、薩摩藩主島津家久の叔父中書家久は京や伊勢の神社仏閣にもうで、帰路山陰路をとった。六月十五日の日記の記述に「やなせ(山東町梁瀬)」「たかた(和田山町高田)」を通り「八木殿の町(八鹿町八木)に着」とある。翌日は「ひほの山(氷ノ山)」を越えて「つくよね(若桜町舂米)」に至っている。」とあり、氷ノ山越えは山陰道の最短ルートであり、兵庫県では関宮町大久保から現在の国道9号線の旧道とほぼ同じである。

若桜町舂米は、氷ノ山1,510Mの麓で、因幡・但馬・播磨・美作の四ケ国で最も標高の高い集落ながら、かなりの大きな戸数であることが、かつて峠の宿場町として栄えていたことを物語っている。

100年の夢、氷ノ山越え3

●氷ノ山越えと但馬鉄道計画
またそれは別に大正初期に宮津から若桜までの当初の山陰本線最短ルートを実現させようと考えた、とんでもない人物が、「大正の大風呂敷」と言われた我が日高町(当時日高村)だった故藤本俊郎村長である。彼はすでに営業されていた出石軽便鉄道(現存せず)の株主の一人であり、さらに江原駅から村岡へ抜ける鉄道敷設を計画して、江原駅を東西南北を走る交通の要所にしたいという構想である。実際に近隣町村の猛反対にも遭いながら、国会議員の支援も取り付け、軽便鉄道敷設工事は日高町十戸あたりまで完成していく。また丹後山田から加悦まで鉄道は延びており、出石鉄道まで延長するという計画で、藤本村長は旗振り役となり自らも事業家として私財を投げ売り夢見た計画だった。ところが大正の世界的な大恐慌が始まると、敷設工事は不可能となり工事は頓挫してしまう。
そしてその大ロマン但馬鉄道計画の面影を今に伝えているのが、京都府野田川町の北近畿丹後鉄道(旧JR宮津線)丹後山田駅を起点として、加悦町加悦までを走る野田川鉄道と、鳥取県郡家町こおげ駅を起点として若桜町わかさ駅を終点とする若桜鉄道(旧JR若桜線)である。
-参考 日高町史-