【但馬の歴史】(22) 日下部氏族(1)

但馬の古代豪族、日下部(くさかべ)氏
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)
出石神社と並ぶ但馬国の一宮、粟鹿神社の社家は、古代に神部氏が務め、その後日下部系図に見える日下部宿禰であった 。
越前国を拠点とした朝倉氏はこの出自。応仁の乱では山名持豊(宗全)率いる西軍に、越前朝倉氏は西軍から細川勝元率いる東軍に属した。

■参考略系図 (但馬国造)
開化天皇━彦坐王━若筒木王━船穂足尼━豊忍別乃君━島根尼君━太尼古尼君・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・(日下部君/国造)  (養父太郎)
・・表米王━━荒嶋・・貞祢┳利実━用樹━蕃在━親泰━┓
┃                         ┃
┗安樹━公基                    ┃

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┣則方━則国━家貞
┃   (日下部)
┗広佐━佐清┳清季━┳清国(小和田)
┃(三方)  ┣季平        ┏俊経
┣清泰   ┣季貞(山本)  ┏俊直━┻長家
┃     ┗家清     ┃
┃(軽部)           ┣俊村━━━━━━━━┓
┣俊通━┳俊家━━━╋光家━┳光広        ┃
┃    ┗俊真   ┗家村 ┣家高(大谷)      ┃
┃(朝倉)  (八木)     ┣家恒(釜田)      ┃
┗宗高━┳高清┳安高    ┗光綱━安元      ┃
┗高綱┗信高    (太田垣)(田公)     ┃

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛

┃(石和田)
┃┏光村━光高━光時┳光茂
┗╋光忠┳光春    ┗光秀・・・・氏秀
┗俊高┗光保┳保喜━光喜━光氏━光継━光朝━光景
(建屋)    ┗保俊━保久


┗景光
土佐守? 新左衛門
┏景近━┳宗朝━┳朝定
┃    ┃    ┃加賀守 土佐守 土佐守━╋景安

┗宗近  ┗宗寿━━朝延━┳輝延
┣信喬
┗宗喬

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【但馬の歴史】(8) 山名氏(3) 応永の乱と山名氏後退

応永の乱(おうえいのらん)と山名氏後退
 応永の乱(おうえいのらん)は、室町時代の応永6年(1399年)に、周防国・長門国・石見国の守護大名の大内義弘が室町幕府に対して反乱を起こして堺に篭城して滅ぼされた事件です。
 室町幕府の将軍は有力守護大名の連合に擁立されており、その権力は弱体なものでした。三代将軍足利義満はその強化を図りました。花の御所を造営して権勢を示し、直轄軍である奉公衆を増強して将軍権力を強化しました。また、義満は有力守護大名の弱体化を図り、康暦元年(1379年)、細川氏と斯波氏の対立を利用して管領細川頼之を失脚させ(康暦の政変)、康応元年(1389年)には土岐康行を挑発して挙兵に追い込み、これを下します(土岐康行の乱)。
明徳の乱
 そして、明徳2年(1391年)、義満は、11カ国の守護となり『六分の一殿』と呼ばれた大勢力の山名氏の分裂をけしかけ、山名時熙と氏幸の兄弟を一族の氏清と満幸に討たせて没落させました。さらに、氏清と満幸を挑発して挙兵に追い込み滅ぼしました。これによって、山名氏は3カ国を残すのみとなってしまいました(明徳の乱)。
 山名氏が大きく勢力を後退させたのち、にわかに勢力を伸張したのは大内義弘でした。明徳の乱で義弘は九州探題今川了俊に従軍して九州の南朝方と多年にわたり戦い、豊前守護職を加えられました。また南北朝合一を斡旋して功績があり、足利氏一門の待遇を受けるまでになりました。義弘は明徳の乱に山名氏清勢を撃退する抜群の功を挙げ、和泉・紀伊両国の守護職に任じられ、一躍六ヶ国の守護職を兼帯しました。さらに領内の博多と堺の両港による貿易で富を築くと、その勢力を背景として南北朝統一の根回しを行い、その実現によって得意絶頂を迎えました。
 義弘は本拠が大陸と近い地理を活かして朝鮮との貿易を営み巨万の富を蓄えていきました。義弘は朝鮮の要請に従って倭寇の禁圧に努力して朝鮮国王から称賛されており、義弘は使者を朝鮮に送って祖先が百済皇子であることから、朝鮮国内の土地を賜ることを願うなど朝鮮との強いつながりを持っていました。
 周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の6カ国の守護を兼ね貿易により財力を有する強大な大内氏の存在は将軍専制権力の確立を目指す義満の警戒を誘いました。
応永の乱
 有力守護大名の弱体化を策する義満は、大内義弘の存在を目障りに思うようになり、両者の間には次第に緊張がみなぎるようになりました。ついに義満打倒を決した義弘は、鎌倉公方足利満兼、美濃の土岐氏、近江の京極氏らと結び、これに旧南朝方諸将も加担しました。さらに、山名氏清の子宮田時清が丹波で呼応しました。かくして、応永六年(1399)、堺に拠った義弘は義満打倒の兵を挙げたのです(応永の乱)。
 乱は幕府軍の勝利に帰し、これにより義満を頂点に戴く幕府体制が確立されました。応永の乱に際して、但馬兵を率いた山名時熙(ときひろ)は丹波に出兵して宮田時清を撃退。さらに堺の合戦において被官の大田垣式部入道が目覚ましい活躍をみせ、時熙は備後守護を与えられました。
 垣屋氏は山名氏の上洛に従って西上した土屋一族で、時熙に味方した垣屋弾正は、乱戦のなかで危うく命を落としかけた時熙を助けて壮烈な討死を遂げました。弾正は明徳の乱を引き起こした張本人は時熙であり、世間の目も時熙に辛辣でした。ここは誰かが勇戦して討死、山名氏の名誉回復を図るべしとして、死装束をして合戦に臨んだと伝えられています。果たして、弾正の壮烈な討死によって、時熙はおおいに名誉を回復することができたのでした。この弾正の功によって垣屋氏は、没落した土屋氏に代わって一躍山名氏家中に重きをなすようになりました。
 一方、応永の乱で活躍した太田垣氏は、乱後、但馬守護代に抜擢されました。その後、時熙が備後守護に補任されると大田垣氏が備後守護代に任じられ、但馬守護代には垣屋氏が任じられました。こうして、垣屋氏・大田垣氏は山名氏の双璧に台頭、のちに八木氏、田結庄氏を加えて山名四天王と称されることになります。
山名氏の再興
 その後、時熙は室町幕府内における地位を確立するとともに、但馬・因幡・伯耆に加えて、備前・石見・安芸守護職を山名氏一族で有するに至りました。時熙は将軍義満、義持に仕え、山名氏の勢力を回復していったのです。正長元年(1428)、義持が病死したとき、すでに嫡男の義量は亡くなっていたため、つぎの将軍を籤引きで選ぶことになりました。この件にもっとも深く関与したのは三宝院満済と管領畠山満家、そして山名時熙でした。
 このころになって、山名氏は、その国をもとに伯耆山名・因幡山名・但馬山名の三国に分かれた形をとりますが、その主流はやはり但馬山名でした。この時熈のころ、その帰依を受けた大機禅師により、此隅城下に多くの寺院が創建されました。
 神美村長谷の大安寺、倉見の宝勝寺、森尾の盛重寺がそれです。また宮内に宗鏡寺や願成寺が建てられたのもこの頃だと考えられます。そのほか宮内の惣持寺にも篤い信仰を寄せており、時熈の一面がうかがわれます。これらの寺院はその後山名氏の保護の元に栄えますが、山名が亡ぶとともに衰え、現在ではなくなったものもあります。
「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家家伝
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【但馬の歴史】(7) 山名氏(2) 山名時氏 六分一殿

山名氏


家紋:二つ引両
清和源氏新田氏流

山名氏 守護大名に成長


14世紀後半の主な守護大名 図: 『日本人の歴史教科書』

室町幕府は、地方の守護に、国内の荘園や公領の年貢の半分を取り立てる権限を与え、守護の力を強めて全国の武士をまとめようとしました。守護は荘園や公領を自分の領地に組み入れ、地元の武士を家来にしました。さらに、国司の権限も吸収して、それぞれの国を支配する守護大名に成長しました。

1337(建武四)年、山名時氏の一連の軍功に対して、尊氏は伯耆守護に補任することで報いました。かくして、山名時氏は、山名氏発展の端緒をつかんだのです。
1341(暦応四)年、室町幕府の重臣で出雲・隠岐両国の守護職塩冶(えんや)高貞が尊氏に謀反を起こし、領国の出雲に走るという事件が起りました。時氏は嫡男の師義とともに高貞を追撃すると出雲において高貞を誅しました。その功績によって、山名時氏は、伯耆・因幡・出雲・隠岐を支配下におきました。
1363(貞治2)年、将軍義詮からの誘いもあって幕府に帰参し、義詮から切り取った領国の安堵を条件に、伯耆国・因幡国・丹波国・丹後国・美作国の五カ国の守護職補任を認められ、子供たちを各国の守護とし、自身は丹波守護となりました。

山名氏はこののち幕政で重きをなすことになるが、その基礎は時氏によって作られた。二代将軍足利義詮の時代に、出雲国・隠岐国の守護職に補任されました。高貞の謀反は、幕府執事高師直(こうのうじなお)が高貞の妻に想いを寄せたことが原因といわれますが、真相は不明です。

その後、出雲・隠岐守護職は塩冶高貞と同族である佐々木高氏(道誉)が任じられました。そして、時氏は貞和二年(1345)に将軍を補佐する管領には細川氏、斯波氏、畠山氏の三管とよばれる有力守護大名が交替で、幕府を警護する武士の筆頭である侍所の頭人(所司)に任じられ、山名氏は赤松・一色・京極氏と並んで四職の一に数えられる幕府重臣へと成り上がりました

南北朝時代と但馬

このころの但馬は、古くからの守護太田氏が亡び、幕府から新しい守護も任命されましたが、南北朝の争乱で実権はなく有名無実のありさまでした。古くからの豪族で出石氏や太田氏の支族もありましたが、南北朝に分かれての戦いが但馬でも繰り返され、土地の武士たちも、その時々に応じて実力のある側について左右するありさまでした。
そのうちにとなりの因幡・伯耆をもつ新しい勢力の山名氏の力が次第に伸び、大きな合戦もないまま、但馬の豪族はこれに従い、完全に山名氏の支配下に置かれたようです。
1336(延元元)年、南軍の楠木正成が湊川の合戦で敗れて、南軍の勢力が弱まる前後から、但馬の武士の多くは北軍に味方しましたが、それでもまだ南軍に味方するものもあって、津居山城や、気比の高城(いずれも豊岡市)には、北軍の今川頼貞が攻めてきて、これを落としています。
その翌年の1337(延元二)年に、南軍の総大将、新田義貞は、越前(福井県)に潜んでいましたが、とくに弟の秋田義宗を但馬の豊岡盆地中央部東縁の三開山に派遣して、但馬の南軍の全体の指揮に当たらせ、山陰地方の南軍と連絡を取るようにさせて、越前と但馬の両方から、京都に攻め入る作戦を立てていました。ところが、足利尊氏は、そうさせては一大事と、弟の直義にこれを討つように命じました。直義は家来の小俣来金を但馬に攻め入らせました。

観応の擾乱と守護職安堵

擾乱は師直の敗北、さらに直義の死によって終息しましたが、幕府内部の抗争により時代はさらに混乱の度を深めていきました。はじめ山名時氏は北朝の尊氏に味方していましたが、のちに時氏の長子、山名師義は、観応の擾乱では父時氏とともに直義方で戦い南朝に転じ、直義が謀殺されたときは任国の伯耆に戻っていました。
時氏は義詮方の重鎮である出雲守護職佐々木道誉をたのんで尊氏方への復帰を画策しましたが、道誉の態度はすげなく、腹をくくった時氏・師義らは出雲に侵攻すると出雲と隠岐を制圧しました。山名氏の勢力拡大に貢献しました。

やがて尊氏の弟直義と執事師直の対立から、幕府は直義派と師直=尊氏派とに二分され、1350(観応元)年、観応の擾乱が勃発しました。
一時、山名時氏、師義の父子が三開山城に入り、自分で但馬の守護だと称していたといわれていますが、山陰地方に大勢力を築いた時氏らは、南朝方と呼応して1353(文和二)年には京に攻め入り、京を一時は支配下におきました。

その山名が足利方に追われる身となって、因幡に逃げている間の1358(延文三)年に再び、三開山城の麓の篠岡で、南北両軍が戦っています。

そして、直義の養子である直冬に通じて義詮方と対抗しました。以後、直冬党として幕府と対立を続けましたが、1363(貞治二)年、安芸・備後で直冬が敗れて勢力を失うと、周防の大内氏につづいて幕府に帰順しました。帰順の条件は、因幡・伯耆・丹波・丹後・美作五ケ国の守護職を安堵するというもので、「多くの所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかれけれ」と不満の声が高かったと伝えられています。いずれにしろ、幕府の内訌、南北朝の動乱という難しい時代を、山名時氏はよく泳ぎきったのです。

山名時氏の5人息子と「六分一殿」

時氏の父は山名政氏、母は上杉重房の娘。子に山名師義、山名氏清、山名義理、山名時義、山名氏冬など、 嫡男の師義を頭に多くの男子があり、子供らの代になると山名氏の守護領国はさらに拡大されることになりました。時氏死後は、師義が家督を継ぎましたが、わずか5年で師義も死去する。49歳の若さでした。
1363(貞和2)年、時氏が北朝に帰順すると、将軍義詮の政策もあって山名氏が優遇され、師義も丹後・伯耆の守護に任じられました。いつごろからか定かではありませんが、但馬国もこの頃守護になったと思われます。
1370(応安三)年、山名時氏(ときうじ)は師義(もろよし)に家督を譲ると翌年に死去、山名氏の惣領となった師義は、1372年~1376年、但馬と丹後の守護職を継承、あとは弟氏清らに分け与えました。
1376(永和二)年、弟時義も若年より父時氏に従って兄師義らとともに行動、いちはやく上洛を果たして幕府の要職の地位にありました。師義死去のときは伯耆守護でしたが、家督を継いだ時義は但馬守護職にも任じ、さらに、備後・隠岐の守護職も兼帯しました。
山名時氏が没すると山名一族は大きく躍進、

惣領の師義丹後国・伯耆国
次男の義理紀伊国
三男の氏冬因幡国
四男の氏清丹波国・山城国・和泉国
五男の時義美作国・但馬国・備後国

の守護となりました。
その後、師義の子の満幸は新たに播磨国の守護職も得ています。

但馬を手に入れて守護となった時義は、本拠を宮内(豊岡市出石町)において此隅城(このすみじょう)を築きました。但馬の本拠をここに定めたのは、天日槍(あめのひぼこ)の昔から但馬の中心地で、但馬一の宮の出石神社があり、歴史的な中心地だったからだと考えられます。
時義は父時氏が亡くなったあと、わずか5年で師義も死去し、時義は惣領職を継いで山名の宗本家となり、山名一族の勢力も強大になりました。「明徳記」という本には「山名伊予守時義但馬に在国して京都の御成敗にも応ぜず雅意(自分の心)に任せて振る舞い…」とあるほどでした。時義は多く京都に住んでいたようで、守護代として但馬に送っていた記録もあります。城崎城(のちの豊岡城)主に上野国時代以来の重臣、垣屋氏を城代にあてているので、垣屋氏ではないかと思います。
時義は風流な戦国の武将だったらしく、此隅城の北の神美村長谷の荒原に咲くカキツバタの美しい眺めが好きで、有名な三河の八橋になぞらえて楽しんだと伝えられますが、病気にかかって若くして亡くなりました。
そのあとを継いだ時熈(ときひろ)のころには、山名一族の勢力はさらに大きく伸びて、全国六十余州のうち、十一ヶ国の守護をかね世に「六分一殿」と呼ばれました。

山名家臣団

四職:侍所頭人 但馬国守護 山名氏
重臣(四天王):垣屋氏(気多郡)、太田垣氏(朝来郡)、八木氏(養父郡)、田結庄氏(城崎郡)
山名一族 磯部氏(夜久野城主)、海老名氏、宮田氏、犬橋氏、村尾氏、馬来氏
守護代 荻野氏、小林氏〈一部関東公方家収録〉、高山氏、土屋(垣屋)氏、古志氏、内藤氏、蓮池氏、大葦氏、入沢氏、石原氏
日下部氏族 八木氏(養父郡)、太田垣氏(朝来郡竹田城主)、田公氏(二方郡)、宿南氏(養父郡宿南城主)、七美氏、朝倉氏(養父郡朝倉庄)、長氏(美含郡訓谷城主)、奈佐氏(城崎郡奈佐庄)、山本氏、西村氏(気多郡水生城)、
但馬国人 三上氏、田結庄氏(城崎郡田結郷)、佐々木氏(養父郡浅間城主)、丹生氏(美含郡養山城主)、塩冶氏(美含郡無南垣城主)、高岡氏、野間氏、小野木氏、篠部氏(美含郡)、福富氏(朝来郡高生田城主)、上道氏(東河城主)
因幡国人 伊田氏、武田氏、草刈氏、中村氏、加陽(かや)氏、佐治氏、吉岡氏、福田氏、毛利氏
伯耆国人 金持氏、南条氏、小鴨氏、山田氏、相見氏
首藤一族 備後山内氏、多賀山氏、湯川氏、懸田氏、滑氏、河北氏
宮一族 宮氏、有地氏、久代氏、小奴可氏、高尾氏
杉原一族 本郷氏、木梨氏、目崎氏、三谷氏
波多野一族 広沢氏、江田氏、和智氏、上村氏、尾越氏、安田氏、上原氏
備後国人 三吉氏、有福氏、長谷部氏、馬屋原氏、吉原氏、上山氏、渡辺氏、宮地氏

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【但馬の歴史】(6) 山名氏(1) 山名(やまな)氏の起源

 
二つ引両/桐に笹「武家列伝」さん

概 要

国府(国衙)・群家(郡衙)が権力を維持していた時代から、旧豪族であった武士が実権支配する守護大名の時代に入ります。荘園・公領に在住する民衆は、村落を形成し、自立を指向していきました。このような村落を惣村といいます。畿内では惣村の形成が著しく、民衆の団結・自立の傾向が強かったのでう。東北・関東・九州ではより広い荘園・公領単位でのゆるやかな村落が形成され、これを郷村と呼ぶこともあります。これら惣村・郷村は高い自治能力を醸成していき、荘園領主から直接、年貢納入を請け負う地下請(じげうけ)が行われることもありました。 守護大名の権限強化と惣村・郷村の自立とによって、荘園は次第に解体への道を進んでいくこととなりました。
山名時氏は「六分一殿」とまで勢力を馳せ、山名宗全は応仁の乱の西軍総大将として有名。

山名氏の起源

山名氏は清和源氏の名門・新田氏の一族とされ、新田氏の祖である新田義重の長男、三郎義範(または太郎とも)が本宗を継承せずに上野国多胡郡(八幡荘)山名郷(現在の群馬県高崎市山名町周辺)に住して山名三郎と名乗ったことから、山名氏を称して山名氏の祖(山名氏初代)となったとされます。
義範は『平家物語』にみえる山名次郎範義、『源平盛衰記』に山名太郎義範と記されている人物と同一人であろうとされています。さらに『東鑑』にも山名冠者義範の名が見えます。義範は源平の争乱期にあって源氏方として活躍、「平氏追討源氏受領六人」の一人として伊豆守に任じられました。

源姓山名氏の場合、鎌倉幕府草創期に初代義範が活躍したものの、以後、歴史の表面にはほとんどあらわれてきませんでした。おそらく、里見・大井田・大島氏らの新田一族諸氏とともに新田氏を惣領として仰ぎ、多胡郡の領地経営に汗を流していたのでしょう。

鎌倉時代には、早くから源頼朝に従いて御家人となります(異説では岩松氏と共に足利一門ともいわれるが、それが間違いとも誤りともされますが、真偽の程は謎のままである)。源氏将軍家が三代で断絶してのちの幕府政治は、執権北条氏が次第に実権を掌握していきました。鎌倉時代中期を過ぎるころになると、北条得宗家の専制政治が行われるようになり、幕府創業に活躍した御家人の多くが滅亡あるいは没落していきました。源氏一門では足利氏が勢力を保つばかりで、山名氏の惣領新田氏は衰退を余儀なくされていきました。

山名時氏は「初め元弘より以往は、ただ、民百姓の如くにして、上野の山名という所より出侍しかば、渡世の悲しさも、身の程も知りにき」と言っています。つまり足利と縁が生じ五ヶ国の守護に栄進したが、それ以前は関東の地にあって農作業に明け暮れている身分だったのである。素直に自分の前歴を告白しています。

しかし、今川貞世(了俊)の著した『難太平記』によれば、民百姓の暮らしをしていたとされていますが、山名氏は鎌倉幕府成立時からの御家人であり、かつ上杉氏と姻戚関係を結んでいることから低い身分とは考えがたく、この記述は、今川貞世がライバルである山名氏を貶めたものと考えられます。

モンゴル帝国と元寇の襲来

13世紀初め、モンゴル(蒙古)の高原にチンギス・ハンがモンゴル帝国を建てました。モンゴル帝国は無敵の騎馬軍団を各地に侵攻させ、またたくまに西アジアから中国まで、ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領土を築きました。この動きにヨーロッパ人もおびえ、モンゴル人を恐れました。モンゴル帝国5代目の皇帝、フビライ・ハンは、大都(北京)という都をつくり。国号を中国にならってと称しました。

フビライは東アジアへの支配を拡大し、独立を保っていた日本も征服しようと企てました。フビライは、まず日本にたびたび使者を送って、服属するように求めました。しかし、朝廷と鎌倉幕府と一致してこれをはねつけました。幕府は執権の北条時宗を中心に、元の襲来に備えました。
元軍は、1274(文永11)年と、7年後の1281(弘安4)年の2回にわたって、大船団を仕立てて日本を襲いました。日本側は略奪と残虐な暴行の被害を受け、新奇な兵器にも悩まされました。
しかし、鎌倉武士はこれを国難として受け止めよく戦いました。また、2回とも元軍は、のちに「神風」とよばれた暴風雨におそわれ敗退しました。こうして日本は、独立を保つことができました。この2度にわたる元軍の襲来を元寇といいます。

鎌倉幕府の衰え

元寇との戦いで、幕府を支える御家人は、多くの犠牲を払いました。しかし、外敵との戦いだったので新しいと地を獲得することなく、幕府は十分な恩賞となる土地を与えることができませんでした。そのため幕府は御家人たちの信頼を失うことになりました。

また、御家人たちは兄弟による分割相続のくり返しで、領地がしだいに狭くなり、生活の基盤が弱まりました。そのうえ商工業の発達とともに、武士も貨幣(銅銭)を使うことが多くなり、領地を質に入れたり、売ったりする者もあらわれました。幕府は御家人を救うために徳政令を出して、領地をただで取り戻させようとしました。しかしそうなると、御家人に金を貸すものがいなくなって、かえって御家人を苦しめる結果になりました。こうして鎌倉幕府の支配は、陰りを見せ始めました。

鎌倉幕府滅亡と山名氏

鎌倉幕府の支配が揺らぎ始めると、北条氏はいっそう権力を集中しようとして、かえって御家人の反発を強めました。
14世紀に即位した後醍醐天皇は、天皇自らが政治を行う天皇親政を理想とし、その実現のために倒幕の計画を進めました。はじめは計画が漏れてしまい二度も失敗し、後醍醐天皇は隠岐(島根県)に流されました。後醍醐天皇の皇子の護良親王(もりよししんのう)や河内(大阪府)の豪族だった楠木正成らは、近畿地方の新興武士などを結集して幕府と粘り強く戦いました。
やがて後醍醐天皇が隠岐から脱出すると形勢は一変しました。幕府軍からは御家人の脱落が続き、足利尊氏が幕府にそむいて京都の六波羅探題を滅ぼしました。ついで新田義貞も朝廷方につき、大軍を率いて鎌倉を攻め、ついに1333(元弘三)年、ついに鎌倉幕府は滅亡しました。

建武の新政

後醍醐天皇は京都に戻ると、公家と武家を統一した天皇の親政を目標として、新しい政治を始めました。幕府滅亡の翌年、年号を建武と改めたので、建武の新政といいます。
しかし、建武の新政は公家を重んじた改革で、武家の実力を生かす仕組みがありませんでした。また、倒幕をめぐる戦乱でうばわれた領地を元の持ち主に返すこととしましたが、はるか昔に失った領地まで取り返そうとする動きが出て混乱を招き、方針を交代せざるを得なくなりました。そのため、早くも政治への不満を多く生み出すこととなりました。
そうした中、足利尊氏が幕府を再興しようと兵を挙げ、建武の新政はわずか2年あまりでくずれてしましました。

山名氏が大きく飛躍するきっかけとなったのは、元弘・建武の争乱でありました。ときの当主山名政氏と嫡男時氏は惣領新田義貞に従って行動したようです。
倒幕の功労者である新田義貞が勇躍して上洛すると、山名時氏ら山名一族もそれに従ったようです。ところが、新政の施策は武士らの反発をかい、一方の倒幕の功労者である足利尊氏に武士の期待が寄せられました。

やがて、北条氏残党による中先代の乱が起ると、尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下向、乱を鎮圧すると鎌倉に居坐ってしまいました。後醍醐天皇は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍を発し、尊氏は箱根竹の下において官軍を迎え撃ちました。この戦いにおいて、山名政氏・時氏父子は義貞を離れて尊氏に味方して奮戦、尊氏方の勝利に大きく貢献しました。かくして、山名氏は新政に叛旗を翻した尊氏に従って上洛、尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に奔ると、それに従って尊氏の信頼をかちとりました。九州で再起をはたした尊氏が上洛の軍を起こすと、山名時氏は一方の将として従軍、湊川の合戦、新田義貞軍との戦いに活躍しました。

南北朝の争乱

1336(建武3)年、足利尊氏は京都に新しい天皇を立て、建武式目を定めました。これは幕府を京都に開くなど武家政治再興の方針を明らかにしたものでしたが、一方、後醍醐天皇は吉野(奈良県)に逃れ、ここに二つの朝廷が並び立つ状態が生まれました。
吉野におかれた朝廷を南朝、京都の朝廷を北朝といい、この両朝はそれぞれ各地の武士に呼びかけて、約60年間も全国にわたる戦いを続けました。これを南北朝時代といいます。
足利尊氏は、1338(暦応元)年、北朝の天皇から征夷大将軍に任じられ、幕府を開きました。のちに尊氏の孫の義満が京都の室町に邸宅を建て、そこで政治を行ったので、この幕府を室町幕府とよび、足利氏が将軍だった時代を室町時代といいます。室町幕府は、北朝によって承認されていたので、しばらく南朝と対立しました。

勘合貿易と倭寇

14世紀後半に、中国では漢民族の反乱によって元が北方に追われ、が建国されました。
明は日本に倭寇の取締りを求めてきました。倭寇とは、このころ朝鮮半島や中国沿岸に出没していた海賊集団のことです。彼らには日本人のほかに朝鮮人も多く含まれていました。
義満はさっそくこれに応じて倭寇を禁止し、明との貿易(日明貿易)を始めました。この貿易は、倭寇と区別するために合い札の証明書(勘合)を使ったので、勘合貿易とよばれます。日本は刀剣・銅・硫黄・蒔絵などを輸入して、室町幕府の重要な財源としました。しかし、幕府の力が衰えると、守護大名の大内氏が貿易の実権を握りました。
16世紀の中ごろ、勘合貿易が停止すると、ふたたび倭寇がさかんになりましたが、その構成員はほとんどが中国人でした。朝鮮半島から中国沿岸を荒らし回ったため、明は国力を弱めました。

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
「日本人の歴史教科書」自由社
武家家伝さん
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他

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