平安1 王朝国家体制

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

平安時代

概要

目次

  1. 概 要
  2. 王朝国家体制
  3. 長岡京遷都
  4. 平安京遷都
  5. 摂関政治
  6. 蝦夷戦争
 平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。

794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。
平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。

また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場などがあります。

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王朝国家体制

 律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。
王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。

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長岡京遷都

 784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。
具体的には、

  • 新王朝創設を中国思想によって位置づける
  • 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する
  • 平城京に根強い仏教勢力を排除する
  • 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる
  • 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった
  • 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する
  • 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。

平安京遷都

 しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。
また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。
しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。
現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。

道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。

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摂関政治

 摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。
九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。
冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。
この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。

こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。

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蝦夷(えみし)戦争

 平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。
古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』他
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平安京紫(きょうむらさき)#9d5b8b最初のページ戻る次へ
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たじまる-平安1 王朝国家体制

平安時代

目次

  1. 概 要
  2. 王朝国家体制
  3. 長岡京遷都
  4. 平安京遷都
  5. 摂関政治
  6. 蝦夷戦争

平安時代(へいあんじだい、794年-1185年/1192年頃)とは、794年に桓武(かんむ)天皇が平安京(京都)に都(首都)を移してから、鎌倉幕府の成立までの約390年間を指す日本の歴史の時代区分の一つ。 王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられるが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています(日本文学史研究においては「中古」という表現も用いられています)。

794年、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上の唯一の中心だったことから平安時代と称します。平氏政権が成立した11世紀後期からは、中世に移行したと考えてよいようです。

平安の初期から中期は、先進文化たる中国の文化政治体制の模倣から、次第に日本の固有なものへの関心が芽生えてくる時代でした。大化改新以来の律令制も、形式的には維持されましたが、土地の私有がさらに進み、徐々に荘園を基盤とする藤原氏など中心とする摂関体制というあらたな政治的枠組みへと組み替えられていきました。なかでも醍醐天皇(在位897~930)・村上天皇(在位946~967)の治世は「延喜・天暦の治」と称される政治上・文化上の画期となり、国風化もすすみました。

また、平仮名・片仮名の発明により、日本語の表記が容易になったことによる、和歌・日記・物語文学の隆盛、官衣束帯の登場(官服の国風化)、寝殿造の登場などがあります。

王朝国家体制

律令制による中央集権国家を形成した大和朝廷ですが、と現実の乖離(かいり)が大きくなっていき、9世紀末~10世紀初頭ごろ、政府は税収を確保するため、律令制の基本だった人別支配体制を改め、土地を対象に課税する支配体制へと大きく方針転換しきました。この方針転換は、民間の有力者に権限を委譲してこれを現地赴任の筆頭国司(受領)が統括することにより新たな支配体制を構築するものであり、これを王朝国家体制といいます。

王朝国家体制期は、通常古代の末期に位置づけられますが、分権的な中世の萌芽期と位置づけることも可能であり、古代から中世への過渡期と理解されています。この時代は奈良末期の宝亀元年(770年)の女帝の称徳天皇は、皇太子を生めないまま崩御し、奈良時代を通じて続いてきた天武天皇系の皇統に代わって、継承順で繰り上がっ天智天皇系の孫である白壁王(光仁天皇)が、60歳前後という高齢ながら即位しました。未だ天武系の皇族の影響があるなか、新しい皇統の権威は安定したものではありませんでした。773(宝亀四)年、光仁天皇と渡来系氏族出身の女性高野新笠との間に生まれた山部親王(桓武天皇)が皇太子となりました。

781(天応元)年、病が重くなった光仁天皇は、皇位を皇太子山部親王に譲り、桓武天皇が即位しました。桓武天皇は新王朝の創始を強く意識し、自らの主導による諸改革を進めていきました。桓武の改革は律令制の再編成を企図したものであり、その一つは新都の造営であり、もう一つは東北の対蝦夷戦争でした。また、母方につながる渡来系氏族の重視や、親近の有力貴族の娘を多く後宮に迎える環として桓武は平城京から長岡京、さらには平安京への遷都(794年)を断行しました。以後、時の権力者となった桓武天皇の影響により、現在まで天武系の皇族は皇位に即いていないのです。奈良時代は天武系の、平安時代は桓武天皇に続く天智系の時代であったといえます。王朝国家体制の下では、国家から土地経営や人民支配の権限を委譲された有力百姓(田堵・名主)層の成長が見られ、彼らの統制の必要からこの権限委譲と並行して、国家から軍事警察権を委譲された軍事貴族層や武芸専門の下級官人層もまた、武士として成長していきました。国家権限の委譲とこれによる中央集権の過大な負担の軽減により、中央政界では政治が安定し、官職が特定の家業を担う家系に世襲される家職化が進み、貴族の最上位では摂関家が確立し、中流貴族に固定した階層は中央においては家業の専門技能によって公務を担う技能官人として行政実務を、地方においては受領となって地方行政を担った(平安貴族)。この時期は摂関家による摂関政治が展開し、特定の権門が独占的に徴税権を得る荘園が、時代の節目ごとに段階的に増加し、受領が徴税権を担う公領と勢力を二分していきました。

11世紀後期からは上皇が治天の君(事実上の君主)となって政務に当たる院政が開始された。院政の開始をもって中世の開始とする見解が有力であります。院政期には荘園の一円領域的な集積と国衙領(公領)の徴税単位化が進み、荘園公領制と呼ばれる体制へ移行することとなる。12世紀中期頃には貴族社会内部の紛争が武力で解決されるようになり、そのために動員された武士の地位が急速に上昇した。こうした中で最初の武家政権である平氏政権が登場しますが、この時期の社会矛盾を一手に引き受けたため、程なくして同時多発的に全国に拡大した内乱により崩壊してしまいます。平氏政権の崩壊とともに、中央政府である朝廷とは別個に、内乱を収拾して東国の支配権を得た鎌倉幕府が登場し、平安時代は幕を下ろしました。

長岡京遷都

784(延暦三)年、桓武天皇は大和国(奈良県)の平城京から淀川に面して水陸交通の恵まれた山背国(京都府)の長岡京へ都を遷しました。奈良時代後期に皇位継承をめぐって起きた政治的混乱を乗り越え、天武系から天智系にかわった新しい皇統の基盤を築くとともに、南都平城京で大きかった寺院の勢力を排除することが大きな理由として挙げられています。また、奈良時代に首都平城京と副都難波京の二つの都を維持してきたこれまでの複都体制を削減して一本化するという意味も認められています。
具体的には、

  • 新王朝創設を中国思想によって位置づける
  • 天武系の皇統の都平城京を拠点とする反桓武天皇勢力を排除する
  • 平城京に根強い仏教勢力を排除する
  • 平城京と難波京の複都制を一本化して緊縮政策をとる
  • 平城京よりも水陸交通の便に恵まれた要衝の地を選択する-平城京は大きな川から離れている為、大量輸送できる大きな船が使えず、食料など効率的に運ぶことが困難であった
  • 山城国の秦氏など渡来系有力氏族の経済力と血縁関係に依存する
  • 光仁天皇の没(781年)による平城京のけがれを忌避するなどのことが挙げられますが、やはりこれまでの天武系皇統の都平城京から移ることによって新王朝の基盤を確立しようとする桓武天皇の目論見と、それを支えた藤原種継ら貴族層の意向という政治的契機といえるでしょう。

平安京遷都

しかしそれから僅か10年後の延暦13年(794年)、桓武天皇は改めて山背(やましろ)国北部に遷都し平安京が成立しました。新京はそれまでの都の名称は全てその場所の地名を採っていたのに比べると、「平安京」という名称には桓武天皇の深い想いがこめられているといわなければなりません。天皇のみならず万民にとって、平安京は永遠の平和を願う都であるという願いが込められていました。

また、その様式には強く唐風の物があり、奈良とは異なっていました。平安京は後世においては音読みの「へいあんきょう」と読みますが、当初は「たいらのみやこ」と訓読みしました。「山背(やましろ)」の国名は「山城」の字に改められましました。この再遷都は、長岡京で興った藤原種継暗殺から早良親王廃太子、皇太后(高野新笠)・皇后(藤原乙牟漏)ら一連の騒動を忌避するためや、長岡京の造営がなかなか進まなかったことが影響しているとみられていますが、平安遷都は、前時代の旧弊を一掃し、天皇の権威を高め、国家の安定を図ろうとする政治的意図が大きかったと考えられています。平安京は、現在の京都市中心部にあたる、山背国葛野(かどの)・愛宕(あたご)両郡にまたがる地に建設され、東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画された都城でした。都の北端中央に大内裏(だいだいり)を設け、そこから市街の中心に朱雀大路(すざくおおじ)を通して左右に左京・右京(東側が左京、西側が右京である)を置くという平面プランは基本的に平城京を踏襲し、隋・唐の長安城に倣うものですが、城壁は存在しませんでした。この地の選定は中国から伝わった風水に基づく北に玄武(げんぶ)(山)、南に朱雀(すざく)(水)、東に青龍(せいりゅう)(河)、西に白虎(びゃっこ)(道)を配するという「四神相応」の考え方を元に行われたといわれています。この四神としては、北の船岡山、南の巨椋池、東の鴨川、西の山陰道が擬せられていたといわれています。都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備しました。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込びました。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給されます。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにしました。また、長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にぞれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとしました。そして長岡京で認めなかった仏教寺院の建立を認めます。仏教の知識と能力に優れ、政治権力とは無縁の僧である空海たちを迎え、東寺と西寺の力で災害や疫病から都を守ろうと考えました。

しかし、平安京は、東を鴨川、西を桂川(葛野川(かどのがわ))という二本の大河に挟まれていたため、両者の合流点付近には「鳥羽(とば)の津」が設けられ、平安京の水の玄関口としての役割を果たしていました。一方、この両河川は大雨の際にはしばしば氾濫(はんらん)し、都の人々を悩ませました。

現在の京都御所は、平安宮の内裏(だいり)とはまったく場所が異なっており、鎌倉時代末期の光厳天皇(北朝初代)が里内裏とした土御門東洞院殿(つちみかどひがしのとういんどの)(土御門内裏)が、現在の京都御所の前身です。その後、室町時代・戦国時代の天皇は火災などによる一時的な避難を除き、土御門内裏から離れることはなくなりました。やがて、土御門内裏は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった天下人たちによって拡張され、その周囲には公家町が形成されて、独自の宮廷空間が創出され、近世の京都御所ができあがったのです。平安京の範囲は、現在の京都市街より小さく、朱雀大路は現在の千本通にあたり、JR山陰本線(嵯峨野線)二条駅と梅小路機関車館の南北に通るラインです。北限の一条大路は現在の今出川通と丸太町通の中間にある一条通、南限の九条大路は現在のJR京都駅のやや南の九条通、東限の東京極大路は現在の寺町通にあたり、西限の西京極大路の推定地は現在のJR嵯峨野線太秦(うずまさ)駅と阪急京都線西京極駅を南北に結んだ葛野大路ラインです。

京内は東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120m)四方の「町」に分けられていました。東西方向に並ぶ町を4列集めたもの(北辺の2列は除く)を「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は「右京五条三坊十四町」のように呼ばれました。

道路の幅は小路でも4丈(約12m)、大路では8丈(約24m)以上ありました。現存する京都市内の道路は、ほとんどの場所でこれよりずっと狭くなっています。朱雀大路に至っては28丈(約84m)もの幅がありました。また、堀川小路と西堀川小路には並行して川(堀川、西堀川)が流れていました。

摂関政治

摂関政治とは、平安時代に藤原氏(藤原北家)の良房流一族が、代々摂政や関白あるいは内覧となって、天皇の代理者、又は天皇の補佐者として政治の実権を独占し続けた政治形態であります。平安時代初期、礼的な秩序を大切にした嵯峨天皇・太上天皇の時代には、皇位継承をめぐる皇族間の争いやそれと結びついた貴族間の勢力争いは影を潜めて、平和が続き文化の華が開きました。しかし、嵯峨天皇が没するとすぐに承和の変が起こり、菅原道真左遷事件などの出来事、再び皇位継承をめぐる争いとともに藤原北家による他氏排斥時間が相次ぐようになり、藤原良房・元経たちによって、摂関政治への道が開かれていきました。

九世紀の藤原北家台頭への道は、藤原冬嗣(ふゆつぐ)が、810年、平城天皇の筆頭秘書官(又は官房長官)と言うべき蔵人頭(新設官庁である蔵人所の長官)に就任し、一大法令群である『弘仁格式』『内裏式』『日本後記』などの編纂にあたるなどし、この功績により左大臣にまで昇りました。これで次世代における藤原北家台頭の足がかりができた。その後を受けて藤原北家には藤原良房・基経といった有能な政治家が相次いで輩出し、天皇の外戚としての立場をかてとして摂政あるいは関白となって政治の実権を握り、藤原北家が正解において絶対的な地位を築くことに成功し、摂関政治への道を開いたのです。

冬嗣の子藤原良房は、857年に太政大臣へ、866年には摂政へと、いずれも人臣として初めて就任した。良房の採った政治手法は大きく二つあります。一つは、他の有力貴族を失脚させることで、藤原北家への対抗心を削ぐこと(他氏排斥)。二つ目は、天皇家に娘を嫁がせ子を産ませ、天皇の外祖父として権力を握ることでした。前者の他氏排斥としては、842年の承和の変において伴・橘両氏及び藤原式家を、次いで866年の応天門の変において伴・紀両氏を失脚させている。後者としては、文徳天皇に娘を嫁がせ、その結果清和天皇が誕生し、天皇の外祖父として確固たる政治基盤を築いている。

この、娘を天皇家に嫁がせる手法は、藤原北家の伝統となり、天皇の代理者・補佐者としての地位の源泉ともなっていきました。良房の死後、養子の藤原基経はすぐに摂政へ就任し、884年に急遽年配の光孝天皇が即位した際には、事実上の関白に就任した。それまでは幼少の天皇の代理者たる摂政として権限を行使してきたが、ついに成人の天皇の補佐者(事実上の権限代行者)たる関白の地位も手中にしたことになる。ただし、良房・基経の時代には太政大臣と摂政・関白の間に明確な職掌の差があったわけではなく(藤原良房の摂政就任は清和天皇の成人後である)、基経は関白に相当する権限を太政大臣あるいは摂政の立場で行使していた可能性もあります。藤原基経が没すると、後継者の時平がまだ若かったこともあり、宇多天皇はようやく制約を受けずに政治に取り組めるようになります。やがて左大臣藤原時平と右大臣菅原道真との二頭立てによる政治体制を築きますが、901年に道真は、醍醐天皇によって太宰府へ左遷へ陥れた(昌泰の変)。時平が背後にあって、道真が娘婿のとき世親王の即位を図ったという名目で彼を排斥したと考えられています。

菅原道真は、宇多天皇の信任を得て学者としては異例の昇進を遂げていたから、その出世を快く思わない貴族や学者たちも多く、政治的基盤はそう強くありませんでした。宇多太上天皇はこの左遷を聞いて醍醐天皇を諫めようとしたところ、固く門を閉ざされてしまい、結局道真を救うことはできませんでした。藤原時平は非常に有能な政治家として手腕を発揮していったが、摂政・関白に就任する前に39歳の若さで没し、のちその子孫も多く若死したので、道真の怨霊の仕業とする説話が生まれました。時平の後を継いだ弟の忠平は、政治に優れた手腕を発揮し、924(延長二)年に摂政、936(承平六)年には太政大臣、941(天慶四)年、関白になりました。 こうして外戚化を進める藤原北家に対抗できる氏族はいなくなり、摂関家を中心とした貴族の家格が形成され、平安貴族社会が成熟していきました。冷泉天皇が即位して実頼が関白に就いてからは、恒常的に摂政・関白が置かれるようになり、本格的な摂関政治が実現し、忠平の子孫が摂関家になっていきました。

こうした中央政界における動向の一方で、地方社会においては、各地に土着したもと国司や在地で成長した領主たちの武士化が起こりつつありました。939(天慶二)に起こった平将門の乱では、常陸・下野・上野などの国府を攻め落として関東をほぼ制圧し、新皇と称して東国国家の形成を図り、同時期に、伊予国司であった藤原純友も瀬戸内海の海賊を率いて反乱を起こし、伊予国府や太宰府を攻め落として大きな衝撃を与えました。承平・天慶の乱とも呼ばれる東西の乱は、中央から派遣された武士や地方武士たちの軍事力で制圧されましたが、武士たちが摂関家とも結びつきながら治安をめぐって政治的・社会的に進出していく方向を示す事件でもあったといえます。

蝦夷(えみし)戦争

平安京遷都と並んで、東北の蝦夷(えみし)と呼ばれた東北地方に住む内民化していない人々を服属させるための軍事的な征東政策が進められました。

古代において東北地方は、七世紀半ば以降着々と律令国家の勢力下がすすめられました。出羽では秋田城を中心としながら、太平洋側では、神亀元(724)年、多賀城(宮城県多賀城市)を造営し、陸奥国府が置かれました。各地に行政拠点として城柵を配置して、東国(関東)から移住させた柵戸によって開拓が進められていました。古代国家の蝦夷対策は、決して軍事一辺倒ではなく、一方で帰順した蝦夷に対しては禄を給うなどの優遇策をとりながら、他方で帰順しない蝦夷に対しては軍事的制裁を行うという「アメとムチ」の二面をもっていました。すでに光仁天皇の時代から、東北地方には不穏な状況があり軍勢が派遣されていましたが、多賀城陥落による軍事的制圧など38年間にわたって戦争が続いていました。桓武天皇は、坂上田村麻呂が征夷大将軍となり、延暦21(802)年、立派な胆沢城(岩手県水沢市)を築き、ついに蝦夷の族長 阿弖流為(あてるい)は五百余人を率いて坂上田村麻呂に帰順しました。

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たじまる 飛鳥-6 文字(漢字)の導入

文字(漢字)の導入

日本語の歴史

上代(飛鳥時代以前)

縄文時代の日本にはまだ固有の文字は存在していなかったとされるのは、その頃の遺物には現在まで文字らしい形跡が見つからないためでです。日本で文字が現れたのは、象形文字ではない中国から伝わった漢字の音を借用して漢字を使い書き表したのが最初で、5世紀頃、稲荷山古墳から発見された刀剣に「雄略天皇」に推定される名が刻まれています。これも万葉仮名の一種とされています。記された文字遺物がいくつか見つかっています。この頃盛んであった朝鮮半島諸国との関係から、政治制度や文化の移入に伴って、漢字の移入・使用がおこなわれるようになり、そこには渡来氏族が大きく関わっていたと考えられています。

漢文に送り仮名を付けて中国語発音である「音」を日本語の発音で漢字を「訓読」するようになり、日本語の文として読もうと、言葉の違いを認識し埋めていく工夫がされました。したがって、中国語発音以前に日本語は別の言葉だったといえるでしょう。(そもそもこれが訓読みと音読みが同居するややこしさ、よくいえば多彩な日本語のベースといえる。)

古代(飛鳥時代)

七世紀頃には『古事記』や『万葉集』を見ると、漢字のみを使って実に様々に工夫されています。『風土記』では人名や地名を漢字で書き表す際にさまざまな当て字が用いられており、「万葉仮名」と呼ばれる漢字の音を借りてその義(漢字本来の意味)に拘らずに一音節の表現のために用いるのが万葉仮名の特徴です。万葉集を一種の頂点とするのでこう呼ばれています。『古事記』には呉音が、『日本書紀』α群には漢音が反映されています。それらは「真仮名」、借字ともいいます。万葉仮名の自体をその字源によって分類すると「記紀」・「万葉」を通じてその数は973に達します。使用が確かめられる最古のものは、大阪市中央区の難波宮跡において発掘された652年以前の木簡です。

中古(平安時代)

平安時代に至ると、万葉仮名をもとにして、日本語固有の文字である平仮名片仮名が生み出されました。平仮名が生まれたことによって、例えば和歌のように一音一音を書き表すことが確実に行えるようになりました。こうした表現力を背景に物語り文学や日記文学などが大きく開花した。一方で片仮名は、仏典や漢籍など、漢文を読む際の補助的な文字として用いられたのが始まりとされています。

中世

「歌学」を中心に、古典、特に和歌を正しく理解し、あるいは実作するようになりました。既にこの頃は、平安時代とは日本語の音や文法などが様変わりしてしまっており、「てにをは」、「仮名遣い」などの違いが問題視されています。

近世(江戸時代)

国学をはじめ諸学が隆盛を見るようになります。古典の理解という域を超えて、前後の語句や意味によって様々に変化する「活用」の考え方が生まれ、現代の文法にも用いられています。

近代

西洋の文物や考え方が大量に移入され、これらを表すための新しい日本語が必要になりました。主に漢語の造語能力を活かした新しい漢語が生み出されたり、音の面では、多くの外来語を書き表すための表記方法が工夫(例:ファ、チャなど小文字表記?)されました。さらに母語としての言葉を習い教えるための体系的な国語科教育が整備されました。

戦後、政府は複雑な当用漢字を簡素化することを行いました。片仮名、平仮名も漢字を簡略化していましたが、それは意味を持たない発音を意味する文字であり、語彙を含む漢字そのものではありません。ゐ(wi)、ゑ(we)も消えました。

例えば、國→国、縣→県、濱→浜、驛→駅などです。それらは新字体と呼ばれ、古い自体を旧字体と呼び、今日ではほとんど使用されることはありません。それは中国も同様で、繁体字と呼ばれ、簡体字と新字体はそれぞれの国で独自に簡化したため字体が異なるものが多く、同じ漢字文化圏でも読めない場合があります。
また、中国では日本のカナや韓国のハングル文字に相当する文字が作られてこなかった経過から、外来語を発音で漢字に当てはめることで対応してきました。とくに国名など外来語は戦前日本でも行われていましたが、日本では片仮名で表すことがほぼ一般化しています。

現在、日本語を日常に使用している人は、世界中に一億二千万ほどといわれています。意外にも世界の言語の中でも多い方から10位以内に入るのだそうです。しかし、日本語は世界でも独自なもので、どのような系統に属すのかは、いまだに不明とされています。
参考『日本語の歴史』 近藤 泰弘  放送大学客員教授・青山学院大学教授

月本 雅幸  放送大学客員教授・東京大学大学院教授

杉原克己 放送大学助教授 より

言語と方言

方言とは、あるひとつの言語における変種のことです。同じ文法を用いる言語でも、語彙・発音(訛り・アクセントなど)・文法・表記法のいずれかもしくはいくつかの面で差異が見られる場合は方言といいます。同一国家内では、方言話者同士が会話する場合は、ある特定の方言そのもの、あるいはその方言を元にして新しく作られた標準語を使用してきました。

しかし、言語学から「同語族・同語派・同語群の同系統の別の言語」なのか、「同一言語の中の方言」なのかを客観的に区別する方法はなく、言語と方言の違いは極めて曖昧です。国境の有無などのような政治的な条件や正書法の有無などを根拠に両者の区別が議論されることもあり、「言語とは、軍隊を持った方言のことだ」というたとえさえ存在しますが、例外は多々存在します。

日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きいものです。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられますが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの 2つです。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第一拍の高低を弁別します。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いですが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国の一部、九州北東部、沖縄県の一部に分布しており、京阪式アクセントは北陸地方、近畿地方、四国の大部分に分布しています。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっています。

但馬弁日本の方言政策明治時代以降、日本では学校教育の中で標準語を押し進め、方言および日本で話されていた他の言語を廃する政策がとられました。方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になりました。東北弁と琉球語(琉球方言)が全く意志疎通ができないように、これは単なる方言といっていいのか、まったく異なった言語であるといっていいかです。文法が同じであり、中国語同様に漢字で書くと意思疎通が比較的容易です。

標準語がなかった頃は、どのように会話していたのでしょう。時代劇を観ていると、例えば幕末に、薩摩藩士と長州藩士、土佐藩士、江戸弁の幕府方や会津藩士、京都弁の公家などが当時どの程度スムーズに聴き取れていたのかは分かりませんが、漢字による文書を通じて理解できたでしょうから方言・武士など階級による言葉の差はあったものの理解し得たといえます。

現在では、テレビ・ラジオにおける標準語使用の影響により殆どの者が標準語を話せるようになった一方、その土地の方言を話せる人口はかつてと比べて確実に減っています(例えば近畿方言(関西弁)のように比較的方言が保たれていても、さらに細分化された地域性が失われる傾向もある)。特に若者の間でその傾向が著しいようです。方言アクセントは、多くの地域で若者においても保持されていますが、語彙は、世代を下るに従ってはっきり失われる傾向にあります。また、あえて、最近では若者の間で各地の方言を生かした会話を楽しんでいる場合もみられます。

日本語は系統において様々に議論があるものの、比較言語学的にいずれかの日本以外の他言語と共通の語族に属すことは証明されておらず、孤立言語とされています。ただし琉球諸島の言葉を、別の言語である琉球語とする考えがあり、その論をとれば日本語の同系言語が存在することになります。その場合、それぞれがさらに多数の方言に分類することができるため、これらすべてをまとめ一語族として日本語族と称し、日本語派と琉球語派に分類しています。

民族論

沖縄県や奄美諸島の住民と、その他の日本人との文化などの違いを抽出して、別民族(琉球民族)とみなす場合は、別言語といえます。

印象論

世界にはお互いに意志疎通が可能でも(すなわち音韻の違いが小規模且つ規則的でも)別言語とされている例も、意志疎通が不可能でも同言語とされている例もあり、聞き取れるか否か、或いは音韻関係がどの程度厳密かといったことは、言語か方言かを分類する決定的な根拠とは必ずしもなりえないとしています。

  • 言語とみなす場合、「琉球語はまったく聞き取れない。だから琉球語は日本語ではない」あるいは「琉球語は日本語とは異なる多くの言語学的特徴を持っている。だから琉球語は独自の言語と見なすのが妥当」。
  • 方言とみなす場合、「本土方言と琉球方言の音韻変化と文法には明確な関係とがある。さらに、日本各地の方言でよそ者に理解不能なのは琉球方言に限ったことではない。だから琉球方言だけを独自の言語と見なすことはできない」。
    政治論
    政治的に国家を背景として同一言語の方言であるとするものです。しかし、世界には複数の言語を有する国が多いし、また同一民族、同一言語とされるが複数の国家に分かれている事例もあるのでこれは絶対的な基準とはならないとしています。
  • 「琉球語」は「琉球民族」という意識・概念と密接な関係にあり、「琉球語」と言うこと自体が政治的・民族的(文化集団)な立場の表明となる。
  • 「方言」であると言うことが、例えば琉球王国をはじめとした独自の歴史・文化を軽視するような政治的立場の表明となる。
  • 沖縄県や奄美諸島に住む人々も本土に住む人々と同じ日本民族である。よって琉球語という呼称は正しくない。
  • 民族と言語も必ずしも一致するものではない、そもそも沖縄県や奄美諸島に住む人々を大和民族に含めて良いのかも疑問である、よって独自の言語とすることが妥当。
  • 琉球語か琉球方言かの論争は、民族や国家の根本問題とも関わり、冷静・学問的な論議が必要である。

    それに対して、アイヌ語は、アイヌ民族の言語で、話者はアイヌ民族の主たる居住地域である日本・北海道、樺太(サハリン)、千島列島(クリル諸島)に分布します。日本語と同様、「孤立した言語」とされています。それは、地理的に近い位置で話されてきたにもかかわらず、日本語との間には、語彙の借用を除いてそれほど共通点が見いだせないからです。専門家の間では、アイヌ語を、日本語の基盤となったいくつかの言語の内の一つから発展した言語とする見方が一般的ですが、現段階ではアイヌ語は特定の語族に属さないとされています。

    基本的な文型はSOV(主語・目的語・動詞)の順で、この点では日本語と同じですが、形態論的には膠着語である日本語と異なり、抱合語というイヌイット(カナダ北部グリーンランドなど)やアメリカ先住民族らの言語(エスキモー諸語、インディアン諸語など)の間でしか見られない、アジアでは珍しい分類に属するとされています。しかし、現在、アイヌ語を継承しているアイヌは非常に少なく、近いうちに消滅してしまうことが懸念されている言語の一つです。千島列島では既に消滅し、樺太でもおそらく消滅していて、残る北海道の話者も平均年齢が既に80を越え、数も10人以下となっています。

    本州以南にも、アイヌ語を起源とする地名が、かつて多数住んでいたアイヌの痕跡として残っているという説があります。この説は、北海道から東北地方北部(太平洋側は仙台付近、日本海側は秋田県・山形県・新潟県)にかけての多数の地形を実地に検分して共通点を調べあげた山田秀三の業績によって、学界に広く受け入れられました。

    琉球語(琉球方言)を独立した言語とみなすか方言とみなすかについては大きく意見が分かれます。言語学的には言語と方言を客観的に区別することができず、両者の区別は政治・宗教・民族などの歴史的・社会的要因によって一種の慣習として定まってきます。同様に次の例があります。

    主にセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナで話されるセルボクロアチア語は、十数年前までひとつの旧ユーゴスラビアという共和国の言語で、各国・各地方の言葉は、使用する文字に違いはあっても同じ言葉であり、方言関係にあります。しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在は、セルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると主張がそれぞれの国家民族でされるようになりました。

    また、中国語の各方言はヨーロッパ各国の公用語ほどの違いがあり、北京語と広東語では意思疎通が難しいですが、表意文字である漢字で書くと書き言葉が同じであるため意思疎通が比較的容易です。さらに同系の標準語である普通話(プートンフア)があるために、方言関係にあるとされています。中国の大陸部やシンガポールの中国語(華語)は表記に簡体字を使い、台湾、香港、マカオの中国語は繁体字を使っており、発音表記にもそれぞれラテン文字と注音符号という別体系の文字を使うなど、一部が異なった正書法が使われていますが、別の言語との扱いは一般にはされていません。また、キルギス共和国には、中国から移住した、キリル文字で書き、アラビア語やロシア語から借用語の多いドンガン語を話す人たちがいますが、国も文字も語彙も違っていても、方言だとみなす人がいます。

    一方ドイツ語は、大きく北部方言(低地ドイツ語)と標準語を擁する南部方言(高地ドイツ語)に分けられ、互いに通じないほど違います。しかし、北部方言もドイツ語であるとされています。ところが、このドイツ語の北部方言ときわめて近い関係(方言の変化が連続的なので、明確な境界は存在しない)にあるオランダの言葉は、国が異なりオランダ語として、別の言語とされています。ドイツ語北部方言とオランダ語では会話が可能でありながら、同じ国ながらドイツ語北部方言と同南部方言では会話が困難だという奇妙な現象が起こります。

    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

飛鳥-5 文字(漢字)の導入

文字(漢字)の導入

3.秦氏(はたうじ)

4・5世紀の渡来人で代表的な集団といえば秦(はた)氏と漢(あや)氏(ともに個人名ではなく、集団名・一族名を指している)です。彼ら渡来人たちは優れた技術と能力を持ち、日本の国づくりを根底で支えたと言えます。

日本書紀によると応神天皇14年に弓月君(ゆづきのきみ:新撰姓氏録では融通王)が朝鮮半島の百済から百二十県の人を率いて帰化し秦氏の基となったというが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。また一説には五胡十六国時代にテイ族の苻氏が建てた前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある。この説に基づくと弓月君が秦の(初代の)皇帝から五世の孫とする記述に反せず、「秦」つながりで渡来した人々が勝手に「秦」を名乗り始めたと考えてもさほど矛盾はないが、根拠は少なく今後検証の必要がある。その後、大和のみならず、山背国葛野郡(現在の京都市右京区太秦)、同紀伊郡(現在の京都市伏見区深草)や、河内国讃良郡(現在の大阪府寝屋川市太秦)など各地に土着し、土木や養蚕、機織などの技術を発揮して栄えた。山背国からは丹波国桑田郡(現在の京都府亀岡市)にも進出し、湿地帯の開拓などを行った。

山背国太秦は秦河勝が建立した広隆寺があり、この地の古墳は6世紀頃のものであり、年代はさほど遡らないことが推定される。秦氏が現在の桂川に灌漑工事として葛野大堰を築いた点から山背国太秦の起点は6世紀頃と推定される。よって、河内国太秦は古くから本拠地として重視していたが、6世紀ごろには山背国太秦に移ったと考えられる。

桂川中流域、鴨川下流域を支配下におき、その発展に大きく寄与した。山背国愛宕郡(現在の京都市左京区、北区)の鴨川上流域を本拠地とした賀茂氏と関係が深かったとされる。秦氏は松尾大社、伏見稲荷大社などを氏神として祀り、それらは賀茂氏の創建した賀茂神社とならび、山背国でももっとも創建年代の古い神社となっています。弓月君は127県の3万~4万人の人夫とともに九州に渡来しました。「秦」と書くように、弓月君は秦の始皇帝の子孫とみることもありますがその根拠はありません。土木技術や農業技術などに長けていた秦(はた)氏は、灌漑設備も整えて土地の開墾を進んで行いましました。また、養蚕、機織、酒造、金工などももたらしました。ヤマト王権(ヤマト朝廷)のもとでは財政担当の役人として仕えていましました。

本拠地は京都山背太秦(うずまさ)がに分かっていますが、河内国讃良郡太秦にも「太秦」と同名の地名があり、これを検討すると、河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5~6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土(太秦古墳群)しています。

後に太秦(うずまさ:京都市)に移り住みましました。中央での活躍と共に、秦氏の子孫たちは尾張・美濃や備中・筑前に至るまで、全国規模で勢力を伸ばしていきましました。

しかし、秦氏の朝鮮半島の新羅から来たのも、元はといえば中国の秦から朝鮮半島沿いに日本列島にたどりついた過程でしょう。弓月君の祖先も秦からやってきたと考えます。畑という地名
畑(はたけ)だから畑と名付けたとするのが自然ですが、どこかしこにもある畑をわざわざ畑と名づけては区別がつきません。「徐」姓は名乗ってはいけない秦(シン)氏は、日本語読みに改めハタと名乗り畑と字を替えた。秦庄(ハタノショウ)などはそのまま畑ではなく秦氏の庄。
蛭子(エビス)

波多野氏

波多野氏(はたのし)は丹波の戦国大名です。

波多野氏と秦氏が関係あるかどうかは分かりません。しかし、出身地が秦氏の中心地太秦(うずまさ)に近い丹波であること、但馬に深い日下部氏を祖としている説があることで、気になるところです。

波多野氏出自については諸説あります。一説に相模波多野庄(神奈川県秦野市)に住んだ藤原秀郷の後裔の波多野義通を祖とする。また一説には因幡国八上郡田公氏の族とする。義通の妹は河内源氏の源義朝の妻となり、次男の朝長(源頼朝の兄)をもうけたとされています。さらに一説には桓武平氏系の三浦氏の出自とも、丹波の豪族・日下部氏の庶流ともいわれますが、前歴にはかなり不明な点が多いようです。

波多野秀長の代に応仁の乱で細川勝元方に属し、その戦功により丹波多紀郡を与えられたのが丹波に勢力を扶植した始まりで、政元にも仕えて以後、波多野一族はこの地を中心に丹波一円へ勢力を伸ばしました。

秀長の子で英君といわれる波多野稙通は永正12年(1515年)、朝治山に八上城を築城し、ここを本拠として守護代である内藤氏を討ち、さらに細川氏の勢力を駆逐して、戦国大名として独立を果たしました。

日下部(くさかべ)氏は、日本の古代から続く氏族。

日下部氏の後裔に、但馬・養父郡から分かれた戦国大名の越前朝倉氏がいます。
起源にはいくつかの説があります。

  • 開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔。(『古事記』、『大日本史』)
  • 孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔。(『朝倉始末記』)松尾大社京都府京都市西京区嵐山宮町秦忌寸都理(はたのいみきとり)が大山咋神(おおやまぐいのかみ)と中津島姫命(なかつしまひめのみこと)を御神体として、701年(大宝元年)に創建したいわれています。社の由緒書によれば、「太古この地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇した」とあるので、松尾大社の前身となる場がこの地域にあったと言えます。朝鮮半島より渡来してこの地に居住した秦氏は松尾山の山霊を現在の社地に遷し、これを総氏神として仰いだ。そして、新しい文化・技術をつかってこの地方一帯を開拓していきましました。平安京に遷都した後は都城を鎮護する神として崇められましました。松尾大社はお酒の神様として全国に知られています。また、中津島姫命は市杵島姫命(いつきしまひめのみこと:伊都岐島神)の別名で、市杵島姫命は厳島神社の祭神でもあります。(厳島神社の祭神は市杵島姫命、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の三女神)。木島神社
    京都市太秦森ケ東町

    太秦周辺には蛇塚古墳や天塚古墳など秦氏と関係がある古墳があります。

    京都太秦地区を拠点としていた秦氏に関係のある神社として、「天之御中主神(あめのみなかぬしのみこと)」ほか3神を祀った木島(このしま)神社があります。正しくは木島坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社ですが、境内地にある摂社養蚕(こがい)神社から通称蚕の社(かいこのやしろ)と呼ばれています。秦氏が養蚕や機織りの技術を広めたことからここに祀られています。

    ここには日本で唯一の三柱の鳥居があります。どのような意味を持つのかは不明だが、キリスト教との関わりがあるという説もあります。

    4.東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)
    東漢氏(やまとのあやうじ-倭漢氏)は、応神天皇の時代に百済(出身地は加羅諸国の安羅か)から17県の民とともに渡来して帰化した阿知使主(あちのおみ-阿智王)を祖とする氏族(東漢氏という個人名ではない)。東漢氏は飛鳥の檜前(桧隈:ひのくま-奈良県高市郡明日香村)に居住して、ヤマト王権(大和朝廷)のもとで文書記録、外交、財政などを担当しました。また、製鉄、機織や土器(須恵器:すえき)生産技術などももたらしました。初め直(あたえ)姓、のちに連(むらじ)姓・忌寸(いみき)姓を賜り、六~七世紀には政治・軍事面でも活躍しました。坂上田村麻呂らはこの一族。漢部(綾部)や錦部や統率しましました。「機織部=はとりべ」は機織(はたお)りの転で服部は同じ。雄略天皇の時、漢部は呉織(くれはとり)とともに中国から渡来したとされる機織りの職人。

    平安時代になると、東漢氏は高祖などの漢の皇帝を祖とするとしていたが事実ではありません。秦氏は秦の始皇帝の子孫としたので、互いに対抗意識をもっていたのかもしれません。

    明日香 稲淵地区に龍福寺があります。ここにある石塔は、原形を止めてはいませんが、もとは朝鮮式の五重の石塔(日本最古の銘文入り層塔)と思われています。台の部分には「天平勝宝三年(751年)」「竹野王」の文字が彫られています。この地域が渡来人と深く関わっていたことがわかります。

    5世紀後半頃、今来漢人(いまきのあやひと-新たに来た渡来人という意味をもつ)を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか:=阿知使主の子の都加使主つかのおみと同一人物)に管轄させたという記述があります。東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)、鞍作(くらつくり)、金作(かなつくり)の諸氏を配下にし、製鉄、武器生産、機織りなどを行いましました。蘇我氏はこの技術集団と密接につながることで朝廷の中での権力を大きくしていきましました。

    西文氏(かわちのふみうじ)は応神天皇の時代に渡来した王仁(わに)を祖とする集団で、古事記・日本書紀によると王仁は日本に「論語」「千字文」を伝え、日本に文字をもたらしたとされます。西文氏は河内を本拠地として、文筆や出納などで朝廷に仕えていましました。

    参照:飛鳥の扉 asuka-tobira.com/奈良文化財研究所

    5.葛城氏(かつらぎうじ)

    葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ)4世紀後半~5世紀前半頃?)は、武内宿禰の子の一人で、大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されている。編年がほぼ正しく同時代史料が元となったと考えられる百済三書のひとつ、百済記にその名が見えるので、実在の可能性が高い。

    しかし、葛城氏が6世紀の氏姓制度成立以前において、「葛城」が本来的なウヂ名として存在したかについては疑問があり、ここでは従来の「葛城氏」の呼称を用いて便宜を図ることとする。

    始祖・襲津彦の伝承

    『紀氏家牒』によれば、襲津彦は「大倭国葛城県長柄里(ながらのさと。現在の御所市名柄)」に居住したといい、この地と周辺が彼の本拠であったと思われる。

    襲津彦の伝承は、『日本書紀』の神功皇后摂政紀・応神天皇紀・仁徳天皇紀に記される。何れも将軍・使人として朝鮮半島に派遣された内容であるが、中でも特に留意されるのは、襲津彦の新羅征討を記す神功皇后摂政62年条であろう。本文はわずかだが、その分注には『百済記』を引用し、壬午年に新羅征討に遣わされた「沙至比跪(さちひく)」なる人物が美女に心を奪われ、誤って加羅を滅ぼすという逸話が紹介される。従来、この「沙至比跪」と襲津彦を同一人とし、『書紀』紀年を修正して干支2運繰り下げて、壬午年を382年と解釈すると、襲津彦は4世紀末に実在した人物であり、朝鮮から俘虜を連れ帰った武将として伝承化されている可能性などが指摘されてきた。

    しかし「沙至比跪」の逸話が史実と見なせるかには疑問の余地があり、これを考慮すると、『書紀』の襲津彦像は総じて没個性的で、各々の記事間にも脈絡がほとんどない。このことから、襲津彦は特定の実在人物ではなく、4・5世紀に対朝鮮外交や軍事に携わった葛城地方の豪族たちの姿が象徴・伝説化された英雄であったと見る説もある。

    大王と葛城氏の両頭政権

    葛城氏の特徴として、5世紀の大王家との継続的な婚姻関係が挙げられる。記紀によれば、襲津彦の娘の磐之媛(いわのひめ)は仁徳天皇の皇后となり、履中・反正・允恭の3天皇を生み、葦田宿禰の娘の黒媛は履中天皇の妃となり、市辺押磐皇子などを生んだ。押磐皇子の妃で、顕宗天皇・仁賢天皇の母である?媛(はえひめ、?は草冠+夷)は、蟻臣の娘とされる。さらに円大臣の娘の韓媛は雄略天皇の妃として、清寧天皇を設けているから、仁徳より仁賢に至る9天皇のうち、安康天皇を除いた8天皇が葛城氏の娘を后妃か母としていることになる。このような婚姻関係の形成は、葛城氏と大王家の政治的連携が、婚姻策によって保たれていたことを意味しよう。
    しかも葛城氏は、大王家の支配から相対的に自立しうる私的な軍事的・経済的基盤を維持していた。先の襲津彦伝承に見たような対朝鮮外交を通して、葛城地方に定住することになった多くの渡来系集団が、葛城氏の配下で鍛冶生産(武器・武具などの金属器)を始めとする様々な手工業に従事し、葛城氏の経済力の強化に貢献したとみられる。渡来人の高い生産性に支えられた葛城氏の実力は極めて巨大で、大王家のそれと肩を並べるほどであり、両者の微妙なバランスの上に、当時のヤマト政権が成立していたのであろう。 当時の王権基盤は未熟な段階にあり、大王の地位が各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったことを考慮すれば、直木孝次郎の説くように、5世紀のヤマト政権はまさに「大王と葛城氏の両頭政権」であったと表現出来る。

    衰退と滅亡

    だがこのような両頭政権には、一度両者間の協調関係に亀裂が生じると、次第に崩壊してしまうという脆弱性を内在していた。『書紀』によれば、允恭天皇5年(416年)7月に地震があったが(最古の地震記事である)、玉田宿禰は先に先帝反正の殯宮大夫に任じられていたにもかかわらず、職務を怠って葛城で酒宴を開いていたことが露顕した。玉田は武内宿禰の墓(御所市宮山古墳か)に逃げたものの、天皇に召し出されて武装したまま参上。これに激怒した天皇は兵卒を発し、玉田を捕えて誅殺させたのである。この事件を直接の契機として、大王家と葛城氏の関係は破綻したとみられる。同時にヤマト政権の朝鮮における軍事的影響力は衰え、対朝鮮政策は苦境に陥った。

    高尾張邑に土蜘蛛がいて、身の丈が短く、手足が長かった。侏儒に似ていた。皇軍は葛の網を作って、覆いとらえてこれを殺した。そこでその邑を葛城とした。

    要するに、高木と葛のつるで覆い尽くされたような原野が広がっていたのであろう。

    神と人の間の葛城

    『神武紀』

    磯城邑に磯城の八十梟師がいます。葛城邑に赤銅の八十梟師がいます。
    『神武紀』の言葉の対応から見ると、葛城=赤銅と。それほどの銅を産出したのだろうか。

    『神武紀』

    椎根津彦を倭国造とした。また剣根という者を葛城国造とした。

    『神武紀』から見える事は、葛城は銅が産出する地であること。銅鐸の製造の痕跡は出ていないが、銅鐸祭祀の氏族が住んでいたのかも知れない。銅鐸は長柄から出土している。銅鐸祭祀氏族を鴨氏の源流と云ってもいいのかも知れない。朝町の大穴持神社の鎮座する山から五百家付近には銅を採取した痕跡が残っていると云う。幕府直轄領であった。現在、山は堺屋太一氏の実家の所有と云う。

    剣根を葛城国造とした記事があるが、国造の制度はもっと後世のものであり、要は葛城のボスを追認したと云う意味であって、記紀を作成した王権の見栄だろう。
    以下、剣根について若干。

    葛木出石姫と伊加里姫

    天村雲命に娶られた伊加里姫は井氷鹿の名で『神武記』に登場します。
    「吉野河の河尻・・より幸行せば尾生ひたる人、井より出で来たりき。その井に光ありき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神、名は井氷鹿(ヰヒカ)と謂ふ」と答へ白しき。こは吉野首等の祖なり。」とあります。吉野には井光神社(イカリ)が鎮座しています。

    では何故、この神が當麻(タギマ)の長尾神社の祭神になっているのでしょうか。長尾街道は吉野・壺坂から当地をで竹内街道と交差、更に北上してから西に折れ、堺につながる街道です。このことから吉野への関心からの勧請と云う説があります。ここでは違う説を建てます。イカリの神は丹後ににに鎮座していました。これは、大三元さんのサイトで分析されている『丹後風土記残欠』に紹介されていました。「伊加里姫社」の祭神だそうです。  現在は舞鶴市公文名の笠水神社となっているようです。

    天村雲命と伊加里姫との間に葛木出石姫が誕生しています。この姫の名は日本海から葛城への流れを現す神と思われます。葛木出石姫の出石は但馬の出石でしょう。かの出石神社には天日矛命の将来した八前の神宝が祭られています。出石神社の神主家は大和から神宝の検収におもむいた長尾市の子孫です。現在も長尾家です。出石から葛城にやって来た長尾市の子孫が葛城の長尾氏となり、この家の娘が葛木出石姫といえそうです。

    ここに葛城の勢力と丹後、但馬の勢力との連携の姿が見えるようです。系譜の中に倭宿禰命の名も見えます。椎根津彦のこと。長尾市は倭直の祖でもあり、伊加里姫の子に倭宿禰命がいるのもそう云うこと。

    神々のこと 難波の比売碁曾神社

    珂是古とは物部阿遅古のことで、宗像神を祭った水沼君の祖のこと。先の小郡市の媛社神社には棚機神社、磐船神社の扁額がかかっており、媛社神を棚機神と見ていることになります。

    タナバタ、日本の棚機、大陸の七夕、本来違うものだったものが習合したものであるとか諸説あるようです。伝承の発生や伝達の時が早いのか遅いのかの程度の差で、タナバタの言葉から見て元々は同じものだったのでしょう。
    タナバタ伝承、これは織布技術が織姫(織工女)とともに渡来してきたということ。
    もう一つの磐船神社の名、これは物部阿遅古が祖神を祭ったのでしょう。祭神は饒速日尊。

    こうして見ますと、肥前の媛社神社の神は宗像神の御子神と言えます。ここに下照姫の事が思い起こされます。ヒメコソと云えば、摂津国東生郡(鶴橋)に比売許曽神社が鎮座、この社の近くにも磐船伝承が残っており、肥前国とのつながりを示しているようです。

    『古事記』応神記に「天の日矛の渡来譚と難波の比売碁曾神社の話があり、阿加流比売神が坐します。」とあります。阿加流比売神は摂津国住吉郡(平野区)の赤留比売命神社に祀られており、下照比売神と阿加流比売神とは復層気味。この女神達、織姫でもあり、太陽の女神でもあり、天照大御神にも似ている所があります。」

    神々のこと 二上神社

    大和国當麻は當麻物部の拠点、二上神社の祭神に豊布津神の名が見えます。鹿島神宮の武甕槌神のこととされていますが、元々は物部の神だったのでしょう。饒速日神の降りられた哮峯は二上山のこととは蟹守神社宮司さんの説。これは當麻物部の哮峯ということ。余談ですが交野物部の哮峯は磐船神社付近となりましょうか。

    蟹守宮司の祭神の「天忍人命」とは『古語拾遺』では、掃守連の遠祖で、箒を作り産屋に近づく蟹を掃ったとあり、現在では産婆の神になっています。

    天忍人命は、天村雲命の日向での御子神とされており、當麻が日向とか丹後とつながっていることを示しているようです。対馬の志々伎神社や伊予の高忍日売神社の祭神。

    この高忍日売神ですが、忍はオシで照の意があるとすれば、高照姫に通じ、鴨の女神と云うこと。

    葛城の垂見宿禰と但馬

    但馬(タジマ)の地名は葛城の當麻(タギマ)郷[*1]として大和盆地に現れます。
    『古事記』開化天皇記に「開化天皇は葛城の垂見宿禰の女、ワシヒメを娶して生みましし御子、建豊波豆羅和気。一柱。」

    「建豊波豆羅和気王は、道守臣・忍海部造・御名部造・稲羽(因幡)の忍海部・丹波の竹野別・依網(よさみ)の阿毘古等の祖なり。」との記載があります。

    これについて、門脇禎二著『葛城と古代国家』によりますと、建豊波豆羅和気王が祖とされている葛城の忍海部、河内の依網の阿毘古(よさみのあびひこ)、丹波の竹野別(たにはのたけののわけ)、稲羽(因幡)の忍海部(おしぬびめ)の諸氏は葛城から日本海側への一つのルートにのっていて、神戸の垂水から加古川沿いに北上、由良川を下って氷上(ひかみ)から丹後へつながるルートを想定されています。初期の葛城に拠点を置いた豪族の勢力の動向を示していると云うことです。

    『日本書紀』垂仁天皇八十八年に、但馬に拠点を持つ天日槍(アメノヒボコ)の末裔の清日子(スガヒコ)や多遲麻毛理(田道間守)は、大和へ出てきていることになっています。ヒボコが持ってきた宝物を見たいと云うことになって、「天日槍の曽孫の清彦(清日子)が自ら神宝を捧げ献上した。」との記事があります。『紀』では清彦の子が田道間守となっており、彼は非時(ときじく)の香美を探す旅に出るのです。清彦以降の天日槍の後裔は大和に居住したのでしょう。香芝市の畑、また川西町の糸井神社などが考えられます。

    『古事記』では、清日子は當摩之咩斐(タギマノメヒ)を娶り、菅竃由良度美(スガカマユラドミ)をもうけています。當摩之咩斐(タギマノメヒ)は當麻の出でしょう。菅竃由良度美は葛城の高額比賣命の母親。即ち息長帶比賣命の祖母と云うことになります。

    葛城の高額比賣命の高額、まさに香芝市の畑に比定されています。ヒボコの末裔の居住に相応しい所。

    『常陸国風土記』には行方郡に當麻(タギマ=当麻)郷が出てきます。道路が凸凹でたぎたぎしかったから、即ち「悪し路」のこと。また『古事記』で倭建命の最後のシーンで、当芸(峠)の野に来た時、「吾が足え歩かず、たぎたぎしくなりぬ。」と云われたとあり、足をひく、高かったり低かったりとの注釈があります。當麻の道もそのような道だったのかも知れません。
    [*1]…當摩は佐賀の邪馬台国説あり。
    葦田神社の「足いたの伝承」と似ています。

    6.倭文(しとり)神社

    いずれも機織の神である建葉槌命(タケハツチ。天羽雷命・天羽槌雄・武羽槌雄などとも)を祀る神社。
    建葉槌命を祖神とする倭文氏によって祀られたもの。その本源は奈良県葛城市(旧當麻町)の葛木倭文坐天羽雷命神社とされている。

    延喜式神名帳には以下の社名が見える。

    葛木倭文座天羽雷命神社(かつらきしとりにいますあめのはいかづちのみことじんじゃ)
    奈良県葛城市(旧當麻町)の二上山山麓にある神社である。式内大社で、旧社格は村社。単に倭文神社(しずりじんじゃ)とも呼ばれる。

    天羽雷命(あまはいかづちのみこと)を主祭神とし、右殿に摂社・掃守神社(天忍人命)、左殿に摂社・二上神社(大国魂命)を配祀する。
    天羽雷命は各地に機織や裁縫の技術を伝えた倭文氏の祖神で、当社は日本各地にある倭文神社の根本の神社とされる。

    • 伊勢国鈴鹿郡 倭文神社(現 加佐登神社(三重県鈴鹿市加佐登町)に合祀)
    • 駿河国富士郡 倭文神社(静岡県富士宮市星山)
    • 伊豆国田方郡 倭文神社(現 鍬戸神社(静岡県三島市長伏字石原)ほか論社複数)
    • 常陸国久慈郡 静神社(しずじんじゃ)(茨城県那珂市)鹿島神宮に次ぐ常陸二の宮
    • 甲斐国巨摩郡 倭文神社(山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮)
    • 上野郡那波郡倭文郷 倭文神社(群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東)
    • 丹後国加佐郡 倭文神社(京都府舞鶴市今田津ノ上)
    • 丹後国与謝郡 倭文神社(京都府与謝郡野田川町三河内)
    • 但馬郡朝来郡 倭文神社(兵庫県朝来市生野町円山)
    • 因幡国高草郡 倭文神社(鳥取県鳥取市大字倭文字家ノ上)
    • 伯耆国河村郡 倭文神社(鳥取県東伯郡湯梨浜町宮内)
    • 伯耆国久米郡 倭文神社(鳥取県倉吉市志津)
      他に以下の倭文神社も著名である。
    • 倭文神社(岩手県遠野市)
    • 倭文神社(奈良県奈良市)
    • 美作国久米郡倭文郷倭文神社(岡山県津山市油木北)
    • 淡路国三原郡倭文郷倭文神社(兵庫県南あわじ市倭文)。
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    7.日下部氏(くさかべうじ)

    古事記には、次のとおり記されている。

    「この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部(かつらぎべ)を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部(みぶべ)を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。」

    とあります。それぞれの部が何の職務かわかりませんが、大日下王は別名「大草香皇子」なので大阪草香邑で、波多は秦で渡来系ですから、崇神・垂仁から続く半島との繋がりを明確に正当化しているのでしょうか。
    日下部氏は開化天皇の皇子、彦坐主王の後裔で、但馬国造家の後裔や越前朝倉氏であると記されています。いずれにしても、日下部氏は、古事記や日本紀といった神話をはじめ、丹後や肥前、豊後、播磨などの風土記にもその名が見える一方、平城京跡や佐賀県唐津市の「中原遺跡」などから日下部の名を記した木簡が出土していることから8世紀初頭には、全国的に展開していたことはほぼ間違いないようです。

    天孫族説では、天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊(アメニギシクニニギシアマツヒコホノニニギノミコト)と木之花佐久夜卑売(コノハナサクヤヒメ)の間に生まれた火須勢理命(ホノスセリノミコト)を祖としています。

    火須勢理命は日本書紀における海幸彦、弟は山幸彦。
    天神説では、天照大御神(アマテラスオオミカミ)の孫である天照国照彦火櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)(元伊勢籠神社)を祖とする。地祇族説では、近畿から九州にかけて分布していたと思われる先住民族・隼人(ハヤト・ハヤヒト)を祖とする。隼人は九州南部の阿多・大隈・日向・薩摩などの地に居住していたとされる人々の呼称。「古事記」では木之花佐久夜卑売の御子神、火照命が隼人阿多君の祖とする。「日本書紀」では火須勢理命は隼人等が始祖と註がある。

    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

    3.百済王

    百済王(クダラノコニキシ)氏は、百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする日本の氏族。百済を氏・姓(本姓)とし、持統朝に王(こにきし)姓を賜ったとされています。
    当初より主たる者に従五位下以上が与えられ、中下級官人にとどまる者が多い帰化人のうち別格の地位にありました。

    平安時代は、初期とくに桓武天皇の母(高野新笠)が百済系和氏であったため、「百済王等者朕之外戚也。」(同二月二七日条)と厚遇を受けました。女子を桓武天皇・嵯峨天皇の後宮に入れ、天皇と私的なつながりを結んで繁栄を得ました。本貫地、河内国交野(カタノ)への天皇遊猟の記事は桓武朝以降、国史に多数見られます。

    百済王氏の本拠地は当初難波にありましたが、その後北河内交野郡中宮郷(現・大阪府枚方市中宮)に本拠を移し、この地に百済王の祀廟と百済寺を建立しました。百済寺は中世に焼失しましたが、百済王神社は今も大阪府枚方市に残ります。奈良時代末期には俊哲が陸奥鎮守将軍征夷副使などに任じ、武鏡は出羽守となるなど、敬福(きょうふく)以来東北地方の経営と征夷事業に関わり、平安時代中期まで中級貴族として存続しました。8世紀に敬福が、陸奥守として黄金を発見し、東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍しました。大阪府枚方市に残る百済王神社はその百済王氏の氏神を祭る神社です。この他、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社はいくつもあります。また奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残ります。飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)
    大阪府羽曳野市飛鳥1023番地

    式内社(名神大社)で、旧社格は村社。

    素盞嗚命が祭神

    創建の年代は不詳であるが、奈良時代よりも前とみられる。
    5世紀に渡来した百済王族・昆伎王の子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)氏族の居住地。

    『日本の神々3』によると、延喜式神名帳の河内国安宿郡の名神大社。当地は古墳時代に飛鳥戸と呼ばれた。
    出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男
    出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』-

たじまる 飛鳥3

大化改新

目 次

  1. 大化の改新
  2. 「日本」という国号
  3. 天皇という称号
  4. ヤマト政権の地方官制
  5. 白村江の戦い

大化の改新

622年に聖徳太子が没し、ついで628年には推古天皇も逝去しました。その皇位継承をめぐる対立に乗じて、蘇我氏はさらに勢力を拡大していきます。その過程で太子の一家も滅ぼされてしまいました。蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)でありました。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにしました。

孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握りました。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させました(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たりました(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、その父で大臣の蘇我蝦夷(えびす・えみし)を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼしました(乙巳の変(いっしのへん)。こうして蘇我氏は急速に没落、新たに即位した孝徳天皇は中大兄皇子を中心に、律令制度に基礎を置く「大化の改新」が断行されます。ちなみに「大化」は日本において初めて立てられた年号です。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月に新しい難波宮(大阪市)で改新の詔を宣して、着々と中央集権的な統一国家が形づくられていくのです。(大化の改新

その後も、これまでの蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めました。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとあります。
しかし、改新の詔はのちの律令などによって文章が様々に装飾されているので、そのまま信じることはできませんが、人口・土地の調査を行い、地方行政区画の「郡」を設置するなど、中央集権化を進める諸政策が打ち出されていきました。

663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなりました。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置きました。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進みました。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移されました。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれています。
仏教もこれを契機として、保護と統制が時代が下がるにつれて強まります。「大宝律令」(701年完成)の「僧尼令」は、唐の「道僧格」等に倣ったもので、全体は二十七条からなり、各条ごとに違反した場合の罰則が付けられています。重いものは教団追放、あるいは還俗、軽いものは苦使(掃除や建物の修理などの肉体労働)となっています。

ところで、国家にとって仏教界の統制が重要な問題の一つになったということは、裏返せば、その大きさと力が無視できない、放ってはおけないものになってきたということなのです。ある記録によれば、例えば寺院の数は、推古天皇三十二年(624)に46であったものが、持統天皇六年(692)には545に達したとされます。約七十年の間に約十二倍に増加しているのです。
それらの中には、百済大寺(大安寺)のような官寺もありますが、ほとんどは各氏族が祖先崇拝の念にもとづき、一族の繁栄と仏神の加護を祈って建てた氏寺(うじでら)でした。
しかし、斉明天皇六年(660)、詔によって大規模な任王般若会が行われたころから、諸寺は次第に護国的な役割を伴わせ持つようになります。天武九年(680)、初めて『金光明教』の講説を行うことが宮中および諸寺に求められました。これによって奈良仏教の鎮護国家的な性格は、決定的に重要な特徴となったと推測されます。舎利塔中心から金堂中心へと伽藍配置の変化もみられます。

「日本」という国号

この時代前後に「倭国(倭:ヤマト)」から「日本」へ国号を変えたとされています。日本列島が中国や朝鮮半島に対して東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられています。
建国は、紀元前660年2月11日とされていわれていますが、「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられています。具体的には、天武天皇治世(673年-686年)において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されています。

7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期でした。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられていますが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説です。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至りましたが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説です。

8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されています。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できます。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としています。

天皇という称号

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていました。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称しました。

「天皇」号をはじめて採用したのは、推古天皇という説も根強いですが、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とされていますが、近年の研究では、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されたことにより、それまでの「大王」から「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力です。天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなります。伝統的に「てんおう」と訓じられていました。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされています。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一されました。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」「大日本帝国皇帝」が多く用いられていました。完全に「天皇」で統一されていたのではないようです。

ヤマト政権の地方官制

天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こりました。672年(弘文元)壬申の乱が起こりました。この戦いは、日本古代最大の内乱であり、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となりました。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めました。

即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指します。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにしました。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもありました。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めました。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大しました。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革しました。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行いました。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達されました。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を一人も置きませんでした。

外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により、新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶しました。
「天武天皇 九つの偉業」

  1. 1. 天皇号の創始
  2. 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置
  3. 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
  4. 4. 践祚大嘗祭の制定
  5. 5. 宮都の選定と設計
  6. 6. 八色の姓の制定
  7. 7. 飛鳥浄御原令の制定
  8. 8. 三種の神器の制定
  9. 9. 伊勢の遷宮の制定・開始

672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移しました。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行いました。

681年(天武10年)には、律令の編纂を開始しました。5年後の686年(朱鳥元年)に天武天皇は没しました。8年後の689年(持統3年)に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定されます。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられています。

人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始されます。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となりました。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施しました。

694年(持統8年)には藤原京に都を定めました。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定されました。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成しました。これをもって、一応の古代国家成立とみます。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われました。
701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされています。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えました。

このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されています。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されています。

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。戦いは唐・新羅連合軍の勝利に終わりました。大陸に超大国唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、その後の倭国(日本)にも大きく影響しました。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多いですが、中国・朝鮮側では「白江」と表記されます。

668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進しました。また、東国に柵を造りました。白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来しました。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されています。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていました。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになりましたが、日本はこれを認めませんでした。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれました。

737年には新羅征討が議論に上りますが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなりませんでした。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備しています(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったのですが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなりました。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされています。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しています。

飛鳥-3 「日本」という国号

歴史。その真実から何かを学び、成長していく。

大化改新

目 次

  1. 大化の改新
  2. 「日本」という国号
  3. 天皇という称号
  4. ヤマト政権の地方官制
  5. 白村江の戦い

大化の改新

622年に聖徳太子が没し、ついで628年には推古天皇も逝去しました。その皇位継承をめぐる対立に乗じて、蘇我氏はさらに勢力を拡大していきます。その過程で太子の一家も滅ぼされてしまいました。蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿(いるか)の専横ぶりが目立ったと日本書紀には記されています。推古天皇没後、皇位継承候補となったのは舒明天皇(田村皇子)と山背大兄王(聖徳太子の子)でありました。蝦夷は推古の遺言を元に舒明を擁立するが、同族境部摩理勢は山背大兄を推したため、蝦夷に滅ぼされる。舒明の没後は、大后である宝皇女が皇極天皇として即位した。さらに蝦夷・入鹿の専横は激しくなり、蘇我蝦夷が自ら国政を執り、紫の冠を私用したことや643年聖徳太子の子山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治をほしいままにしました。

孝徳天皇没後は、中大兄皇子が政治の実権を握りました。中大兄皇子は何らかの理由により皇位にはつかず、母である皇極上皇を、再度即位(重祚)させました(斉明天皇)。斉明天皇没後も数年の間、皇位につかず皇太子の地位で政務に当たりました(天皇の位につかず政務を執ることを称制という)。

皇極天皇4年(645年)、中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌子(中臣鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、その父で大臣の蘇我蝦夷(えびす・えみし)を自殺に追いやり、半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼしました(乙巳の変(いっしのへん)。こうして蘇我氏は急速に没落、新たに即位した孝徳天皇は中大兄皇子を中心に、律令制度に基礎を置く「大化の改新」が断行されます。ちなみに「大化」は日本において初めて立てられた年号です。日本書紀の記述によると、翌年(646年)正月に新しい難波宮(大阪市)で改新の詔を宣して、着々と中央集権的な統一国家が形づくられていくのです。(大化の改新

その後も、これまでの蘇我氏の大臣一人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の三人に改めました。東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとあります。
しかし、改新の詔はのちの律令などによって文章が様々に装飾されているので、そのまま信じることはできませんが、人口・土地の調査を行い、地方行政区画の「郡」を設置するなど、中央集権化を進める諸政策が打ち出されていきました。

663年、百済復興に助力するため朝鮮半島へ出兵しましたが、白村江(はくすきのえ)の戦いで新羅・唐連合軍に大敗しました。そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなりました。664年(天智2年)筑紫に大宰府を守る水城を造り、対馬・隠岐・筑紫に防人や烽を置きました。666年(天智5年)には、百済人二千余人を東国へ移すなど、防衛施設の整備が進みました。667年(天智6年)都城も防衛しやすい近江大津宮に移されました。そのほか、大和に高安城、讃岐に屋島城、対馬に金田城が築かれています。
仏教もこれを契機として、保護と統制が時代が下がるにつれて強まります。「大宝律令」(701年完成)の「僧尼令」は、唐の「道僧格」等に倣ったもので、全体は二十七条からなり、各条ごとに違反した場合の罰則が付けられています。重いものは教団追放、あるいは還俗、軽いものは苦使(掃除や建物の修理などの肉体労働)となっています。

ところで、国家にとって仏教界の統制が重要な問題の一つになったということは、裏返せば、その大きさと力が無視できない、放ってはおけないものになってきたということなのです。ある記録によれば、例えば寺院の数は、推古天皇三十二年(624)に46であったものが、持統天皇六年(692)には545に達したとされます。約七十年の間に約十二倍に増加しているのです。
それらの中には、百済大寺(大安寺)のような官寺もありますが、ほとんどは各氏族が祖先崇拝の念にもとづき、一族の繁栄と仏神の加護を祈って建てた氏寺(うじでら)でした。
しかし、斉明天皇六年(660)、詔によって大規模な任王般若会が行われたころから、諸寺は次第に護国的な役割を伴わせ持つようになります。天武九年(680)、初めて『金光明教』の講説を行うことが宮中および諸寺に求められました。これによって奈良仏教の鎮護国家的な性格は、決定的に重要な特徴となったと推測されます。舎利塔中心から金堂中心へと伽藍配置の変化もみられます。
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「日本」という国号

 この時代前後に「倭国(倭:ヤマト)」から「日本」へ国号を変えたとされています。日本列島が中国や朝鮮半島に対して東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられています。
建国は、紀元前660年2月11日とされていわれていますが、「日本」という国号が成立した時期は、7世紀後半から8世紀当初までの間と考えられています。具体的には、天武天皇治世(673年-686年)において成立したとする説と、701年(大宝元年)の大宝律令成立前後に成立したとする説が有力視されています。
7世紀後半は唐が対外志向を強め、これに脅威をおぼえた唐周辺諸国が、国力増強のために国制整備を進めた時期でした。倭国もまた660年の百済復興戦争で唐・新羅に敗北し、国際的な孤立へと追い込まれ、以後、倭国は律令制の導入などにより精力的な国制整備に取り組んだ。この取り組みを大きく推進したのが天武天皇だった。天皇中心の国制整備を進める天武治世期において天皇号が生まれたと現在考えられていますが、「日本」国号の成立を天皇号の成立と同時期と見るのが、前者説です。その後、天武が推し進めた国制整備は701年の大宝律令成立をもって一つの到達点に至りましたが、大宝律令の成立を「日本」国号の成立と密接なものとする見方に立つのが、後者説です。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」から遣使のあったことが記されています。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にもこの時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(大周)へ伝えられたことが確認できます。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても、「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としています。

天皇という称号

天皇という称号が生じる以前、倭国(「日本」に定まる以前の国名)では天皇に当たる地位を、国内では大王あるいは天王と呼び、対外的には「倭王」「倭国王」「大倭王」等と称されていました。古くはすべらぎ(須米良伎)、すめらぎ(須賣良伎)、すめろぎ(須賣漏岐)、すめらみこと(須明樂美御德)、すめみまのみこと(皇御孫命)などと称しました。
「天皇」号をはじめて採用したのは、推古天皇という説も根強いですが、7世紀後半の天武天皇の時代、すなわち前述の唐の高宗皇帝の用例の直後とされていますが、近年の研究では、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見されたことにより、それまでの「大王」から「天皇」号が成立したのは天武天皇の時代(7世紀後半)以降との説が有力です。天武天皇が事実上の初代天皇だったこととなります。伝統的に「てんおう」と訓じられていました。明治期、連声により「てんのう」に変化したとされています。大日本帝国憲法(明治憲法)において、はじめて天皇の呼称は「天皇」に統一されました。ただし、外交文書などではその後も「日本国皇帝」「大日本帝国皇帝」が多く用いられていました。完全に「天皇」で統一されていたのではないようです。
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ヤマト政権の地方官制

天智天皇が没すると、天智の弟である大海人皇子(後の天武天皇)と、息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で、争いが起こりました。672年(弘文元)壬申の乱が起こりました。この戦いは、日本古代最大の内乱であり、地方豪族の力も得て、最終的には大海人が勝利、即位し、天武天皇となりました。天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めました。
即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ律令国家の確立を目指します。官僚機構の整備として宮仕えするものはまず大舎人としその後才能を斟酌して官職を与えるようにしました。しかし、同時にこの大舎人の門戸は官人のみならず庶民にも門戸を開いていたものでもありました。また、官人の勤務評定や官位の昇進に関して考選法を定めました。さらに八色の姓を制定して朝廷の身分秩序を確立し、新冠位制を施行して冠位賦与を親王にまで拡大しました。豪族の弱体化策として豪族に与えられていた部曲(かきべ)を廃止し、食封制度も改革しました。さらに、一貫した皇族だけの皇親政治を行いました。これに対応して行政機構も太政官と大弁官が並立し、上層官僚貴族には実質的な権力を伴わない納言の官職が与えられ、天皇の命令は主に大弁官を通じて地方に伝達されました。また、天武天皇は皇親政治を徹底するためにその治世中、大臣を一人も置きませんでした。
外交面においては新羅の朝鮮半島統一(676年)により、新羅使の来朝を受け遣新羅使を派遣、新羅との国交保持のため新羅と対立していた唐との国交を断絶しました。
「天武天皇 九つの偉業」

  1. 1. 天皇号の創始
  2. 2. 陰陽寮・占星台(天文台)の設置
  3. 3. 「古事記」「日本書紀」の編纂勅命
  4. 4. 践祚大嘗祭の制定
  5. 5. 宮都の選定と設計
  6. 6. 八色の姓の制定
  7. 7. 飛鳥浄御原令の制定
  8. 8. 三種の神器の制定
  9. 9. 伊勢の遷宮の制定・開始

672年の末に宮を飛鳥浄御原宮に移しました。官人登用の法、甲子の宣の廃止、貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行いました。

681年(天武10年)には、律令の編纂を開始しました。5年後の686年(朱鳥元年)に天武天皇は没しました。8年後の689年(持統3年)に諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定されます。律は編纂されず、唐律をそのまま用いたのではないかと考えられています。

人民支配のための本格的な戸籍づくりも開始されます。690年(持統4年)には、庚寅年籍が造られ、「六年一造」の造籍の出発点となりました。692年(持統6年)には、畿内に班田大夫を派遣し、公地公民制を基礎とした班田収授法を実施しました。

694年(持統8年)には藤原京に都を定めました。唐の律令制度を基本に、律と令にもとづいた政治を実施するために、700年(文武4年)に王臣に令文を読習させ、律条を撰定する作業に取りかかり、翌年の701年(文武5年)に大宝律令が制定されました。これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による支配体制が完成しました。これをもって、一応の古代国家成立とみます。702年には、大宝令にもとづいた最初の造籍が行われました。
701年前後に国号が倭・倭国から日本へ改められたとされています。以後、日本列島の中心的な政治勢力が倭を自称することは絶えました。

このときの国号改称について、新唐書(『唐書』)、旧唐書(『舊唐書』)に「倭という名称をきらって日本へ改称した」という内容の記述が残されています。また、両書には「元々小国だった日本が倭国を併合した」という内容の記述もあり、これは天武天皇が弘文天皇の近江朝廷を滅亡させた壬申の乱を表していると一般的には理解されています。

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦いです。戦いは唐・新羅連合軍の勝利に終わりました。大陸に超大国唐が出現し、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、その後の倭国(日本)にも大きく影響しました。日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多いですが、中国・朝鮮側では「白江」と表記されます。
668年(天智7年)に皇太子中大兄皇子が即位して、天智天皇となります。670年(天智9年)全国的な戸籍(庚午年籍)をつくり人民を把握する国内政策も推進しました。また、東国に柵を造りました。白村江の戦いののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来しました。しかし、日本は国力を充実させた新羅を「蕃国」として位置づけ、従属国として扱おうとしたため、ときに緊張が生まれた。これにより、遣唐使のルートも幾度か変更されています。新羅は、半島統一を阻害する要因であった唐を牽制するため、8世紀初頭までは日本に従うかたちをとっていました。渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、やがて対等外交を主張するようになりましたが、日本はこれを認めませんでした。両国の関係悪化は具体化し、新羅は日本の侵攻に備えて築城(723年、毛伐郡城)し、日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれました。
737年には新羅征討が議論に上りますが、藤原武智麻呂ら4兄弟が相次いで没したため、この時には現実のものとはならなりませんでした。755年、安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に、藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備しています(仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。このように衝突には至らなかったのですが、新羅の大国意識の高揚により、新羅使も779年を最後に途絶えることとなりました。こうした一方で、新羅は民間交易に力を入れ、唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされています。8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えましたが、新羅商人の活動はむしろ活発化しています。
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飛鳥曙色(あけぼのいろ)#f19072最初のページ戻る次へ
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たじまる 飛鳥1

飛鳥時代

概 要

目 次

  1. 推古天皇
  2. 大和(やまと)国
  3. 「氏(ウヂ)」と「姓(カバネ)」
  4. 地方官制のはじまり
    1. 日本語の歴史
    2. 言語と方言

飛鳥時代(あすかじだい)は、古墳時代の終末期と重なりますが、6世紀の終わり頃から8世紀初頭にかけて飛鳥に宮・都が置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つです。以前は、古墳時代と合わせて大和時代とされていた時期がありましたが、今日では古墳時代と飛鳥時代に分けて捉えるのが一般的です。推古朝に飛鳥文化、天武・持統朝に白鳳文化が華開いた時代でもあります。

また、この頃には文字の発生と記録を残すことが行われるようになりました。つまり「有史時代」の誕生です。日本の歴史の飛鳥時代の始まりはいつなのか諸説ありますが、推古天皇の即位を基準にするのが一般的です。日本に伝来した仏教文化が本格的に華開いた時代であり、これを飛鳥文化といいます。現在の奈良県高市郡明日香村付近に相当する「飛鳥」の地に宮・都が置かれていたとされることに由来します。

推古天皇(すいこてんのう)

推古天皇は、欽明天皇15年(554年)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代の天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)~推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。初の女帝です。

第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)。別名は、『古事記』では豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、『日本書紀』では豊御食炊屋姫尊(とよみけかしぎやひめ)。菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)ら二男五女をもうけました。用明元年夏5月(586年)、殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后は寵臣三輪逆に助けられたましが、逆の方は殺されるはめとなってしまいました。

天皇号を初めて用いた日本の君主であり、「天皇」は現在、日本皇帝の一般的な呼称として定着しています。ただし、1998年の飛鳥池遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっています。『古事記』ではこの天皇までを記しています。

やがて時代は移り、ヤマト王権が諸国を統治する時代に入ります。統一日本の誕生です。崇峻天皇5年(593年)4月10日、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として万機を摂行させました。女性天皇が祭祀の責務を行い行政の責務を男性摂政が行う共同統治で、卑弥呼が立つと乱れていた国内が治まったとされるのと似ています。

推古天皇は頭脳明晰な人で、皇太子と大臣馬子の勢力のバランスをとり、豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。在位中は蘇我氏の最盛期であるが、帝は外戚で重臣の馬子に対しても、国家の利益を損じてまで譲歩した事がなかったとされています。公正な女帝の治世のもと、聖徳太子はその才能を十分に発揮し、冠位十二階(603年)・十七条憲法(604年)を次々に制定して、法令・組織の整備を進めました。推古天皇15年(607年)、小野妹子を隋に派遣しました(遣隋使)。中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、過去にもたびたび使節が派遣されていましたが、初めて日本の独立性を強調する目的で使節が派遣されました。

翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。また、推古天皇二年に出された、三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、斑鳩に法隆寺を建立させたりした。

推古天皇28年(620年)、聖徳太子と蘇我馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上しましたが、2年後には太子が49歳で薨去し、4年後、蘇我馬子も亡くなってしまいました。長年国政を任せてきた重臣を次々に失った女帝の心境は、老いが深まるにつれ寂寥なものであったに違いありません。

推古天皇36年3月7日(628年4月15日)、75歳で小墾田宮において崩御。死の前日に、女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子を枕元に呼び、謹しんで物事を明察するように諭し、さらに聖徳太子の子山背大兄王にも、他人の意見を納れるように誡めただけで、後継者の指名は避けたようです。わが国にも仏教が伝わると、ヤマトの豪族にならって但馬の豪族たちも次第に寺院を築きはじめます。これは、海人族(=物部氏?)の勢力下を平定し、統一国家に組み入れていく過程ではないかと思われます。やがて、ヤマトから但馬を管理する人が派遣され、ヤマト朝廷の直接の地方支配が始まるとともに、古墳時代も終わりを迎えます。弥生時代の日本列島の人口は5万9千人でしたが、この頃、約十倍の450万人になったと推定されています。

大和(やまと)国

大和(やまと)・倭(やまと)は、狭義では奈良県の南部、次いで奈良県全部、広義では日本全体を指します。

ここでは律令制下の奈良県の地域を指す国名として検討します。

大和(やまと)国は、夜麻登(『古事記』、『万葉集』)、夜萬止(『和名抄』)、耶魔等・夜麻等・野麻登・山門・大日本など(『日本書紀』)、日本(『日本書紀』、『万葉集』)、倭(『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』)、大養徳(『続日本紀』)、和(『万葉集』、『続日本紀』)、大倭(『古事記』、『日本書紀』)、大和(『続日本後紀』、『和名抄』、『万葉集』)などと多様に書かれています。

その語源については、

(1) 「ヤマ(山)・ト(門)」で山間地帯への入り口の意、
(2) 「ヤマ(山)・ト(処)」で山国の意、
(3) 山の神が居られるところ、
(4) 大物主神が鎮座する三輪山あたりの土地の意

とする説があります。
大和には備後、但馬、吉備、筑紫、長門というように二〇数か所の国号地名がある。古代における中部及び西日本と、大和との文化交流を示すもので、出雲国の文化が大和に移入したことも考えられる(『書紀』垂仁記三十二年七月の条)。大字出雲付近には野見宿禰にちなむ出雲伝説があり、いわゆる出雲人形の製産地でもあった。京都伏見の伏見人形の製作技術も大和から移したと伝えています。

大和三山
耳成山 (みみなしやま)
畝傍山 (うねびやま)
天香具山 (あまのかぐやま)

まほろば

『古事記』は、倭建命が薨去される前に
「倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
と歌ったと記しています(『日本書紀』景行紀17年3月条には「まほろば」ではなく「まほらま」とあります)。

この「まほろば」は、『日本国語大辞典』(小学館)によれば、「まほら」に同じ(『万葉集』巻5・800、巻18・4089には「まほら」とあります)とあり、「まほら」の「ら」は接尾語で、その意味は「すぐれたよい所。ひいでた国土」とあります。

欽明天皇と蘇我氏のヤマト王権による中央の支配体制についてです。
職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)などがあります。君主につかえる家来の地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)などがあります。その他の姓(カバネ)としては、百済滅亡後に亡命してきた百済王族に与えられた王(こにきし)などがあります。姓(カバネ)の中では、臣、連が一番格式が高いとされ、最も有力な者には更に大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)の姓(カバネ)が与えられました。まず蘇我稲目が就いた大臣(おおおみ・オオマヘツキミ)という職位は、稲目から馬子・蝦夷(えみし)という蘇我氏本宗家の三名、実質的には入鹿(いるか)を含めた四名に受け継がれていったもので、「大臣」は「臣」の代表であるとともに、合議体を主宰したり、ヤマト政権を代表して外交の責任者となったりしました。
また、この頃までに「氏(ウヂ)」という、支配者層に特有の政治組織と、「姓(カバネ)」という、政治的地位や職位に応じた族姓表象が成立し、ヤマト政権を構成する支配者層が再編成されました。
これらのうち、後に畿内と呼ばれることになる内国(ウチツクニ)を基盤とした有力氏族は、大王の御前に侍る有力者という意味で、「マヘツキミ(臣・卿・大夫)」と呼ばれました。
マヘツキミ層氏族の代表者は、国政を審議する臨時の合議体に参議したり、合議の結果を大王に奏上し、大王の決定を合議体に宣下したり、また大王の側近に侍奉(じぶ)したりすることによって、ヤマト政権の各職能を分掌しました。

一方、五世紀末の雄略朝から六世紀前半の欽明朝にかけて、朝鮮半島からの人々の渡来がさらに活発になり、大陸の新しい文化と技術が伝えられました。渡来人は、「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田・須恵器・錦の技術などを伝えました。鉄の国内生産がようやく本格化したことは、朝鮮半島への鉄の依存度が低くなったことを意味し、中国王朝の冊封体制から離脱する重要な背景となりました。原始共同体においては、氏族や部族が社会の単位となっていました。氏姓制度の基盤は、血縁集団としての同族にありましたが、それが国家の政治制度として編成し直されました。同族のなかの特定の者が、臣(おみ)、 連(むらじ)、伴造(とものみやつこ)、国造(くにのみやつこ)、百八十部(ももあまりやそのとも)、県主(あがたぬし)などの地位をあたえられ、それに応ずる氏姓を賜ったところに特色があります。各姓(かばね)は以下の通りです。臣(おみ)葛城氏(かつらぎ)、平群氏(へぐり)、巨勢氏(こせ)、春日氏(かすが)、蘇我氏(そが)のように、ヤマト(奈良盆地周辺)の地名を氏(ウヂ)の名とし、かつては王家と並ぶ立場にあり、ヤマト王権においても最高の地位を占めた豪族で。連(むらじ)大伴氏、物部氏、中臣氏(なかとみ)、忌部氏(いんべ)、土師氏(はじ)のように、ヤマト王権での職務を氏(ウヂ)の名とし、王家に従属する官人としての立場にあり、ヤマト王権の成立に重要な役割をはたした豪族。

伴造(とものみやつこ)

連(むらじ)とも重なり合いますが、おもにそのもとでヤマト王権の各部司を分掌した豪族である。秦氏(はた)、東漢氏(やまとのあや)、西文氏(かわちのあや)などの代表的な帰化氏族、それに弓削氏(ゆげ)、矢集氏(やずめ)、服部氏(はとり)、犬養氏(いぬかい)、舂米氏(つきしね)、倭文氏(しとり)などの氏(ウヂ)がある。連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、公(きみ)などの姓(カバネ)を称しました。

百八十部(ももあまりやそのとも)

さらにその下位にあり、部(べ)を直接に指揮する多くの伴(とも)をさす。首(おびと)、史(ふひと)、村主(すくり)、勝(すくり)などの姓(カバネ)を称した。

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国造(くにのみやつこ)

代表的な地方豪族をさし、一面ではヤマト王権の地方官に組みこまれ、また在地の部民(べみん)を率(ひき)いる地方的伴造の地位にある者もあった。国造には、君(きみ)、直(あたい)の姓(カバネ)が多く、中には臣(おみ)を称するものもあった。
9世紀成立の全国135の国造の設置時期・任命された者らの記録「国造本紀」(「先代旧事本紀」巻10)があります。

大化の改新(7世紀後半)以降も存続した国造の例

  • 出雲国造 – 天穂日の十一世孫。出雲大社の最高神職として、現人神のように信仰を集めた。南北朝時代に千家・北島の両家に分裂したが、現在も出雲大社社家として存続。
  • 紀伊国造 – 日前神宮・国懸神宮社家。平安時代前期と江戸時代中期に後嗣を欠いたことがあったが、女系相続により辛うじて家を維持した。現在は藤原姓。
  • 阿尺国造(安積国造) – 福島県郡山市・安積(あさか)国造神社社家の安藤家。安積国造家の末裔であるとして安積姓を名乗る。
  • 石背国造 福島県須賀川市・石背国造神社 (いわせくにつこじんじゃ)
  • 武蔵国造 埼玉県さいたま市大宮区高鼻町・武蔵国一宮氷川神社。武蔵国造は出雲国造と同族とされる。
  • 但島国造(たじま=但遅麻国造)粟鹿神社社家 – 日下部家
  • 二方国造(ふたかた・但馬北西部=美方郡(旧二方郡・旧美含郡)) 出雲国造の同祖
  • 丹波国造 – 京都府宮津市・籠神社(このじんじゃ)社家の海部家。現宮司は第82代丹波国造を称する。
    凡河内国造
  • 賀陽国造 岡山県および備中国にかつて存在した国府所在地とされる郡。吉備津神社の主神、大吉備津彦命はまたの名を四道将軍 彦五十狭芹彦命
  • 沼田国造 – 沼田神社社家。古代には、現在の広島県三原市の沼田(ぬた)地域を支配していた。
  • 因幡国造 – 宇倍神社の神主であった伊福部氏は因幡国造を名乗っていたが、実際の国造は因幡氏(因幡国造氏)であり、伊福部氏はこの一族から分れた支流に当る。9世紀の国造なので、ヤマト政権成立時(4世紀はじめ)から9世紀頃は定かではありませんが、但島(但馬)国造は粟鹿神社社家 – 日下部家とあり、付近に池田古墳の規模(近畿で前方後円墳で4番目の大きさ)や城の山・茶すり山古墳などが集中していることからも、池田古墳は但馬国造の墓であろうとされています。但馬国造の設置は朝来郡内に置かれたのでしょう。

律令国が整備される前の行政区分は判明しませんが、但馬・丹後はその後丹波から分割された律令国なので、8世紀の但馬成立後の9世紀にも二方国造が記されており、但馬北西部(美方郡(旧二方郡・旧七美郡)は、同じ但馬でも広範なために二人の国造が置かれていたのかもわかりません。出雲国造の同祖とあるので、因幡から出雲の勢力範囲(今でも鳥取に近い生活圏)にあった可能性が高いと推測できます。県主(あがたぬし)これより古く、かつ小範囲の族長をさすものと思われる。いずれも地名を氏(ウヂ)の名とする。このように、氏姓制度とは、連―伴造―伴(百八十部)という、王のもとでヤマト王権を構成し、職務を分掌し世襲する、いわゆる「負名氏」(なおいのうじ)を主体として生まれました。そののち、臣のように、元々は王とならぶ地位にあった豪族にも及びました。部民などの私有民氏姓は元来はヤマト王権を構成する臣・連・伴造・国造などの支配階級が称したものである(王とその一族を除く)。しかし、6世紀には一般の民にも及んだ。これらの一般の民は、朝廷すなわち、天皇、后妃(こうひ)、皇子らの宮、さらに臣、連らの豪族に領有・支配されていた。そのため、一般の民の中から、朝廷に出仕して、職務の名を負う品部(しなべ)、王名、宮号を負う名代(なしろ)・子代(こしろ)、屯倉(みやけ)の耕作民である田部(たべ)などが必然的に生まれた。彼らは先進的な部民共同体の中で戸を単位に編成され、6世紀には籍帳に登載されて、正式に氏姓をもちました。これに対し、地方豪族の支配下にあった民部(かきべ)は、在地の族長を介して、共同体のまま部(べ)に編入し、族長をへて貢納させる形のものが多くありました。そのため、地方豪族の支配下にあった一般の民にまで6世紀の段階で氏姓が及んでいたかどうかは定かではありません。

ヤマト政権は、百済の二十に部司の制度を摂取して、渡来人を部(べ)に組織しました。錦(にしこり)部・衣縫(きぬぬい)部・鍛冶(かぬち)部・陶(すえつくり)部・鞍(くらつくり)部・馬飼(うまかい)部などの宮廷工房的な伴(とも)が新たに組織され、王権の政治機構が再編されたのです。これらの伴は、伴造の統率の下、百八十部として配置された下級氏族、その下部にあった渡来系技術者としての品部(しなべ)によって構成されました。

姓(カバネ)の制度は、壬申の乱(672年)の後、天武天皇が制定した八色の姓によって有名無実化されていき、臣、連ですら序列の6、7番目に位置づけられ、その地位は、実質上、無意味化していきましたので、代わって、天皇への忠誠心がある有能な人材には新たに作られた真人(まひと)・朝臣(あそん)・宿禰(すくね)・忌寸(いみき)の姓(カバネ)が与えられました。しかしながら、奈良時代を過ぎるとほとんどの氏族の姓(カバネ)が朝臣(あそん)になってしまい、八色の姓も甚だ形式的なものに変質してしまいます。
一般の公民については、670年(天智9)の庚午年籍、690年(持統4)の庚寅年籍によって、すべて戸籍に登載されることとなり、部姓を主とする氏姓制度が完成されることとなりました。しかしながら、現存する702年の大宝2年籍に、氏姓を記入されていない者、国造族、県主族などと記された者がかなり存在するため、このとき、まだ無姓の者、族姓の者が多数いたことが伺(うかが)えます。
※氏姓は平安期(10世紀)に取って代わることになる苗字(名字)とは異なります。貴族では家名、武士では名字(みようじ)が生ずるようになります。

地方官制のはじまり

地方官制(ちほうかんせい)は、701年(大宝元)に制定された大宝律令で国・郡・里の三段階の行政組織に編成されたのが公的には最初のようです。

4世紀~6世紀頃?、『古事記』成務段に、「大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めたまい、また国々の堺(境)、及び大県(おおあがた)小県(おあがた)の県主(あがたぬし)を定めたまう。」とあります。
『日本書紀』成務紀には、4年「今より以降国郡に長を立て、県邑に首を置かむ。即ち当国の幹了しき者を取りて、其の国郡の首長に任ぜよ。」5年「国郡に造長を立て、県邑に稲置を置く。」「則ち山河を隔(さか)いて国郡を分ち、阡陌に随ひて、邑里を定む。」(阡陌は南北・東西の道の意)しかし、成務天皇は13代で、応神(15代)仁徳(16代)や倭の五王よりも遡る4世紀のことで、時代でいうと古墳時代の前期にあたります。この時代に全国的に国造・県主を配置したとは考えがたく、記事そのものは『日本書紀』の潤色であると考えられています。また成務天皇自体の実在性が疑われています。しかし、この記事が、初期ヤマト政権において、服属させた周辺の豪族を県主(アガタヌシ)として把握し、県主によって支配される領域を県(アガタ)と呼んでいたことを伝えていると考えることはできるそうです。

郡(コホリ・コオリ、あがた)

6世紀後半~7世紀中?、『日本書紀』安閑天皇二年(535)5月に屯倉(みやけ)の大量設置の記事がみられますが、これらの屯倉の名前の多くが、現存する地名と一致し、その実在を確認できます。また、同年八月の条に、犬養部の設置記事がみられますが、現存する屯倉の地名と犬養という地名との近接例も多いことから、屯倉の守衛に番犬が用いられた(番犬を飼養していたのが犬養氏)のだということが明らかになっており、屯倉や犬養部の設置時期も安閑天皇の頃(6世紀前半頃)に始まったと推察されています。

この屯倉がある程度発達・広域展開した段階で、屯倉を拠点として、直接的に地方を把握・管轄した単位が県(コホリ)であり、のちに律令制における郡(コホリ)へと発展していったと考えられています。
県(アガタ)と県(コホリ)との違いは、前者が在地首長の支配力に依存し、間接的に地方を把握するものであったのに対し、後者は直接的に地方の把握・支配の体系を作り出そうとしていたのでしょう。

地方の行政組織が全国的規模で動き出したのは天武朝においてであったと思われます。その基礎となる戸(コ)は、正丁(セイテイ)成年男子を三丁ないし四丁含むような編成を編戸(へんこ)といい、一戸一兵士という、軍団の兵士を選ぶ基礎単位になりました。註:県は縣、郡は群が旧使用漢字
参考:ウィキペディア