「瀬戸の岩戸」を切り開いた国造り伝承は縄文海進だった

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黄沼前海(キノサキノウミ)

縄文時代の豊岡盆地 Mutsu Nakanishi さんより
縄文時代の豊岡盆地 (Mutsu Nakanishi さんよりお借りしました)

天日槍(あめのひぼこ)

天日槍(あめのひぼこ、以下ヒボコ)は、但馬国一の宮・出石(いずし)神社のご祭神で、但馬に住んでいる人なら知らない人はまずいないだろう。(以下、ヒボコ)

ヒボコは、出石神社由緒略記には、その当時「黄沼前海きのさきのうみ」という入江湖だった円山川の河口をふさいでいた瀬戸の岩戸を切り開いて干拓し、豊岡盆地を耕地にしたと記されている。

”国造りにまつわるお話”

アメノヒボコは但馬国を得た後、豊岡(とよおか)周辺を中心とした円山川まるやまがわ流域を開拓したらしい。そして亡くなった後は、出石神社いずしじんじゃの祭神として祭られることになった。

但馬一宮の出石神社は、出石町宮内にある。この場所は出石町の中心部よりも少し北にあたり、此隅山このすみやまからのびる尾根が出石川の右岸に至り、左岸にも山が迫って、懐のような地形になっている。神社はその奥の一段高い場所に建っている。

このあたりから下流は、たいへん洪水が多い場所である。2004年におきた台風23号による豊岡市の大水害は記憶に新しいところだが、出石神社のあたりを発掘してみると、低湿地にたまる粘土や腐植物層と、洪水でたまった砂の層が厚く積み重なっている所が多い。

そんな場所であるから、古代、この地を開拓した人々は、非常な苦労を強いられたことだろう。『出石神社由来記』には、アメノヒボコが「瀬戸の岩戸」を切り開いて、湖だった豊岡周辺を耕地にしたと記されているという。そのアメノヒボコは、神となって今も自分が開拓した平野をにらんでいるのだ。

去年の伝説紀行に登場したアメノヒボコノミコトは、但馬の国造りをした神様(人物?)でもあった。けれども但馬地方には、ほかにも国造りにまつわるお話がいくつか伝えられている。各々の村にも、古くから語り継がれた土地造りの神様の伝説があったのだ。

太古、人々がまだ自然の脅威と向かい合っていたころから、それを克服して自分たちの望む土地を開拓するまでの長い時間の中で生まれてきたのが、そのような神様たちの伝説なのだろう。「五社明神の国造り」や「粟鹿山(あわがやま)」の伝説は、そんな古い記憶をとどめた伝説のように思える。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

また、豊岡市の小田井懸神社に伝わる五社明神の国造りも、土地を治める五人の神様が円山川のものすごく大きな河口の岩を切り開いて開削したと伝える。

小田井懸神社 「五社明神の国造り」 (豊岡市小田井)

大昔、まだ豊岡とよおかのあたりが、一面にどろの海だったころのことです。

人々は十分な土地がなくて、住むのにも耕すのにも困っていました。そのうえ悪いけものが多く、田畑をあらしたり、子供をおそったりするので、人々はたいへん苦しんでいました。この土地を治める五人の神様は、そのようすを見て、なんとかしてもっと広く、住みよい所にしたいものだと考えました。

そこで神様たちは、床尾山とこのおさんに登って、どろの海を見わたしてみました。すると、来日口くるひぐちのあたりに、ものすごく大きな岩があって水をせき止めています。

「あの大岩が、水をせき止めているのだな」
「あれを切り開けば、どろ水は海へ流れるにちがいない」
「そうすれば、もっと広い土地ができるだろう」
「それはよい考えだ。どろの海がなくなれば、たくさんの人が安心して暮らせる」

神様たちはさっそく相談して、大岩を切り開くことにしました。

大岩を断ち割り、切り開くと、どろ海の水はごうごうと音を立てて、海の方へ流れ始めました。神様たちはたいそう喜んで、そのようすを見ていました。

ところが、水が少なくなり始めたどろ海のまん中から、とつぜんおそろしい大蛇だいじゃが頭を出して、ものすごいうなり声を上げながら、切り開かれた岩へ泳ぎはじめました。そして、来日口に横たわって水の流れをせき止めてしまったのです。

神様たちはおどろきました。

「この大蛇は、どろの海の主にちがいない」
「これを追いはらわねば、いつまでたっても水はなくならないぞ」

神様たちがそろって、大蛇を追いはらおうとすると、大蛇はすぐにどろにもぐってにげてしまいます。あきらめてひきあげると、大蛇はまたあらわれて、水をせき止めてしまいます。神様たちはたいそうおこりました。

すきをみて大蛇に飛びかかり、神様たちは、とうとう大蛇を岸に引きずり上げてしまいました。そして頭と尻尾しっぽをつかんで、まっぷたつに引きちぎろうとしましたが、大蛇もそうはさせまいと大暴れします。それどころか、太くて長い体を神様たちに巻き付けて、しめころそうとするのでした。

五人の神様と大蛇は、上になったり下になったりしながら、長い間戦いました。大蛇が転がるたびに、地面は地震じしんのようにゆれます。けれども五人が力をあわせ、死にものぐるいでたたかいましたので、大蛇もしだいにつかれてきました。そこで神様たちが、大蛇の頭と尻尾にとびかかって、えいっと力をこめて引っ張りますと、さしもの大蛇も真っ二つになってしまいました。

こうして、どろの海の水は全部日本海へと流れ出し、後には豊かな広い土地が残りました。そしてどろの海のまわりにはびこっていた悪いけものたちも、みなにげ出してしまいましたので、人々はたいへん喜び、それからは安心して暮らせるようになったということです。
このできごとをお祝いして、毎年八月に、わらで大蛇の姿をした太いつなをつくり、村人みんなでひっぱってちぎるというお祭りが、行われるようになったということです。

兵庫県歴史博物館 ひょうご伝説紀行 - 神と仏 ‐

『国司文書 但馬故事記』(第四巻・城崎郡故事記)には、こう記されている。

人皇17代仁徳天皇10年秋8月、水先主命みずさきぬしのみことの子・海部直命あまべのあたえのみことをもって、城崎郡司きのさきぐんじ兼海部直あまべのあたえと為す。

海部直命は諸田の水害を憂い、御子みこ・西刀宿祢命せとのすくねのみことに命じて、西戸水門せとすいもんを浚渫しゅんせつせしむ。

故に御田多生さわなるゆえ、功有るという。海部直命は水先主命を深坂丘に葬る。(式内深坂神社)

*浚渫…港湾・河川・運河などの底面を浚(さら)って土砂などを取り去る土木工事のこと

縄文海進と日本列島の誕生

「縄文海進」とは、約7000年前ころ(縄文時代に含まれる)に氷河時代が終わると、氷が溶けて海水面が上がり、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られた。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作った。大陸から日本列島が離れて現在とほぼ同じ地形になる。

気温が上昇し、暖流が日本海に流れこんだので、いままで針葉樹が多かった日本列島にクリやドングリなど食べられる実をつける広葉樹が増えた。やがて山々が実り、豊かな植物採集の場になったのである。

最終氷期の最寒冷期後、約19000年前から始まった海面上昇は、河川が上流から運んでくる土砂の堆積による沖積層より速かったので、日本では最終氷期に大河によって海岸から奥深くまで浸食された河谷には海が入り込んでいた。

各地にある国生みや入り江開削の神話・伝承は、地球温暖化による縄文海進が神懸かり的な現象と見えて伝わったのではないでしょうか。

兵庫県北部最大の河川である円山川まるやまがわが日本海に注ぐ河口から国府平野以北の円山川流域は水面下であった。『国史文書別記・但馬郷名記抄』によれば、その頃の豊岡盆地と国府平野部は、「黄沼前海きのさきのうみ」といわれる入り江(潟湖)であった。豊岡市塩津や大磯おおぞという地名や、円山川の支流大浜川一帯は森津から江野まで入江で、小江神社のある江野も古くは小江といった。田結郷大浜荘といった。奈佐も古くは渚郷が奈佐郷となったもので入江の渚からきているのだろう。東岸も同様で、「黄沼前郷は古くは黄沼海なり。昔は塩津大磯より下(しも)、三島に至る一帯は入江なり。 黄沼は泥の水たまりなり。故に黄沼というなり。

この章ではくわしく触れないが、平安期に編纂された『国史文書別記 但馬郷名記抄』城崎郡をみると、当時の地形の名残が読み取れる。

新墾田にいはりた郷(新田郷) 江岸(今の江本)・志保津(今の塩津)・清明島

黄沼前郷(のち城崎郷・豊岡旧市街地) 黄沼島

田結郷 大浜・赤石島・鴨居島・結浦島・鳥島(としま・今の戸島)・三島・小島(おしま)・小江(今の江野)・渚浦・干磯(ひのそ)浜・打水浦・大渓島(今の湯島?)・茂々島(今の桃島)・戸浦など

出石郡出石郷 出島(のち伊豆・嶋)

城崎郡・出石郡の円山川およびその支流域には、ずいぶん島や入江がついた地名が多く見受けられる。なかには現在のどこに相当するのか見当がつかない地名もある。平安期にはこうした島・入江があったのか、昔の地名がまだ残っていたのか、平安時代にも、平安海進という、8世紀から12世紀にかけて発生した大規模な海水準の上昇(海進現象)があったようだ。ロットネスト海進とも呼ばれているが、日本における当該時期が平安時代と重なるためにこの名称が用いられている。

2012年1月6日

日本は小さな島国なのか

はじめに

日本列島を北を上にした現在の地図で見ると、大陸から太平洋に離れた小さい島国にみえる。


(大陸からみた日本列島)

ところが、ひっくり返してみると視点が大きく変わってくる。中国や朝鮮半島、シベリアのカムチャッカ半島以南から続く千島列島や樺太(ロシア名サハリン)から、北海道・本州・四国・九州、そして台湾までのトカラ列島まで、長い日本列島は太平洋に鍋の蓋のように見える。小さい島国どころか、北海道・本州・四国・九州だけみても、ヨーロッパで比較するとでデンマークからイタリア半島までにほぼ匹敵するほど細長く、国土面積でもイギリスやドイツ、イタリアより大きく決して小国ではない。西ヨーロッパの先進諸国を大国とすれば日本も物理的大きさでも大国の中に入るのである。日本は思っている以上に「大きい」のである。

小さな島国だとそう思い込んでいる人が多い。原因は学校で教えられる「日本は小さな東洋の島国」だと習い、地図帳に採用されているメルカトル図法にある。地球は丸いので世界地図を平面的に表現するのがむずかしい。そこで採用されているのがメルカトル図法。メルカトル図法の大きな特徴は角度が正しい、すなわち十分狭い範囲だけを見ると形が正しい事である。しかし、緯度によって縮尺が変化し、赤道から高緯度に向かうにつれ距離や面積が拡大されることになる。北極圏に近いグリーンランドやシベリアや南極大陸が実際より17倍も拡大されている。カナダやアメリカ合衆国も実際よりも大きく描かれているのだ。

逆さ地図を見ると、九州北部から出雲・但馬・丹後・若狭(合わせて古代丹波)から北陸、越、津軽半島・北海道、樺太までの日本海沿岸が大陸との表玄関であり、平成10年舞鶴市浦入遺跡群から約5300前の丸木舟を発掘されたことや平成13年の指定で豊岡市出石町袴狭(はかざ)で見つかった船団やサメ・サケ・飛びはねるカツオの群れ、動物を描いた線刻画の木片から、古代丹後・但馬と大陸は強大な船団で往来していたことが分かったのである。大きなロマンが浮かび上がってきた。古代丹波こそ、大陸とヤマト(大和)を結ぶ国際ターミナルだったのである。

たとえば、『国司文書・但馬故事記』は『校補但馬考』桜井勉氏は偽書と決めつけている。多くの研究者にはそうではないとする人もいるのである。むしろ『校補但馬考』にも、ところどころ間違っている私見が含まれているが、明治のまだ十分な史料・発見も乏しい時代、氏が但馬史を調べあげた苦労は偉業である。しかし、大学で教えている考古学者や歴史家は、そうした過去の大先生がいっているのだからと、古い解釈をそのまま教えることが正しいと思うのか迷惑この上ない。ネットや凝り固まった歴史認識ではない自由な研究家により「本当にそうなんだろうか」と自ら調べてみることができる時代になってきた。どこかの大新聞が長い間、「従軍慰安婦」「南京大虐殺」など捏造記事をくりかえし書いていても、大クオリティペーパーだと信じ込んでいる時代が続いている。真面目で秀才な人ほど、学校で習うことに嘘はないと疑うことをせず、NHKは嘘は言わないと信じ込んでいるのと同じではないか?

歴史は古いままのものでも、暗記することではない。新しい事実を知り、現在に生かすのは楽しいことなのだ。温故知新、不易流行。歴史も過去にはそう思われていた説が、新しい発見、技術など進歩していくものなのである。したがって、『但馬史のパラドックス(逆説) 但馬国誕生ものがたり』とした。自分もこれまでの史料・文献は大いに活かし、おかしなことは最新の歴史の発見・研究を知り、間違っていたことはたえず修正しています。

INDEX

第一章 但馬人はどこから来たのか
[catlist id=582] 第ニ章 天火明命と但馬の始まり
[catlist id=589] 第三章 彦座王と大丹波平定
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山名氏と九日市城・正法寺城

宿南保氏『但馬の中世史』「山名氏にとって九日市ここのかいち城とは」の項で、九日市の居館を九日市城と呼んでいる。豊岡盆地の中心部の近い場所だけでも城といわれるものは正法寺城・木崎きのさき(城崎、のち豊岡)城・妙楽寺城・九日市城がある。

正法寺城は山王山で、今は日吉神社となっている。文献に初めて登場するのは、『伊達文書』で、延元元年(1366)六月、北朝方の伊達真信らが南朝方のひとつの拠点「木崎性法寺」を攻撃している。この性法寺は正法寺のことであろうとされる。

また『蔭涼軒日録』によると、長享二年(1489)九月、「但馬のこと、一国ことごとく垣屋に依る」とありながら、「垣屋衆およそ三千員ばかりあり、総衆は又次郎(山名俊豊)をもって主となす、垣屋孫四郎(続成つぐなり)いまだ定まらず」、また「朝来郡(太田垣)衆は又四郎殿を主と為すを欲する也。垣屋いまだこれに与せず」とある。
播磨攻めに失敗した山名政豊が居住していた所が「正法寺」であり、木崎城から18町余り隔たるところに所在するという(木崎城から18町というが、実際は日吉神社から神武山山頂までは約600m。1町は109.09091メートルなので×18町は1,963mだから合わないが、神武山で間違ってはいないだろう)。

寛永年間(1624~44)に著されたと思われる『豊岡細見抄』には、、山王権現宮(日吉神社)について、「今、領主京極家の産宮とす。往古はこの山真言宗性法寺という小寺あり。天正年間、社領没収の後、寺坊荒廃して退転せり。寛文年中、京極家丹後田辺(今の西舞鶴)より御入国の後、この寺跡の鎮守を尊敬ありて(中略)、今豊岡町の本居神とす。」と記されている。

拙者は、山王権現宮を祀ったとされる京極氏が治めていた丹後の宮津にも日吉山王宮があり、京極氏が日吉神社を信奉していたのは間違いないと思うし、天正年間に正法寺は消滅したので、寺跡のあとに日吉神社を建立し京極氏も守護神として大切に祀ったのだが、日本は長い間神仏習合であったから、それ以前の山名氏の頃からすでに正法寺の境内に、現在より小規模で山王権現宮も祀られていたとしても考えられなくもないと思っている。現在地名として残っている正法寺区はこの神武山にあった正法寺の寺領であろう。

但馬山名氏は、本州の6分の1を領する六分一殿と称された。その中心は山名宗全であり、出石であった。その権力はのちに京都を焼き尽くす応仁の乱の西方大将になってしまう。

因幡山名氏が鳥取城へ移るまでの本城があった鳥取市布施の布勢天神山城にも日吉神社(布勢の山王さん)があり、時氏が近江(日枝神社)から勧請したとされる。政豊は時氏の未子で但馬・伯耆守護時義から4代あと、持豊(宗全)の孫であるが、山名氏も守護である各国の城に日吉神社(山王権現)を祀っていたのではないだろうか。京極氏が丹後から豊岡へ入国するよりも以前から正法寺と共に祀られていたのではないかと思うし、今はJR山陰線で分断されているが線路以西も正法寺であり、かつてはこの寺領は広大であったように思われる。

京極氏入国以前の山名氏の頃から正法寺に現在より小規模で山王権現宮も祀られていたのではないかと思っていたら、宿南保氏『但馬の中世史』にこのように記されている。

「木崎性法寺」は、現在の日吉神社鎮座の丘である。同神社はもと山王権現と称され、その地にあった正法寺の寺域内鎮守であった。承応年中(1652~55)に同寺が退転したことにより、跡地全域が社地となったものである。

(中略)

標高40m余のこの丘には、南北朝期の特色を示す尾根郭跡が残っている。それは神社本殿の裏側、豊岡駅方向に面する斜面である。(中略)

当時から正法寺伽藍は城郭を兼ねていたものであったことがわかろう。この位置は(奈佐方面から)九日市へ通じる道を抑えるに重要な場所である。

天正8年(1580)、豊臣秀吉の家臣、宮部継潤が山名氏討伐後に城主として入城し、木崎(城崎きのさき)(城)を豊岡(城)と改めた。木崎城はのちの豊岡城で神武山にあった。しかし神武山と呼ばれるようになったのはまだ新しく、明治五年(1873)に神武天皇遥拝所が設置されたことに由来する。明治五年までは神武山は豊岡と呼ばれていたのか、天正8年以降は豊岡城となり、豊岡は町名であると同時に城山も豊岡なのか分からないが、城崎から豊岡という町名となり、その城は豊岡城となったのである。木崎という地名は往古も存在しない。古語は黄沼前キノサキと書いたが城崎きのさきとは読めないので城崎と書かず、間違ってか故意か木崎とも書いたのだろう。

『豊岡市史』によると、山名氏は「戦時には此隅山このすみやま城を本城としつつ、平時には九日市の居館を守護の在所と定めて政務の中心とした」としている。九日市の詰城は妙楽寺城なのか、木崎城なのか、三開山城なのか、あるいは此隅山城なのか?また、正法寺城は単独の城だったのか?

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』には、こう記されている。
この城崎庄域に木崎城がいつごろ築城されたのかは明らかではない。「木崎城」の文献的初見は、長享二年(1489)九月の『蔭涼軒日録』に、但馬守護山名政豊が播磨攻めに失敗して帰但した際、あくまで播磨進攻を主張する垣屋氏を筆頭とする26人の国人らが政豊を廃し、備後守俊豊を擁立しようとして、政豊・田公たぎみ肥後守の立てこもる木崎城を包囲している。また「木崎城は田公新左衛門が築城した」とも記されている。木崎城の所在については不明とされてきたが、『豊岡市史・上巻』では「神武山から正法寺のあった山王山一帯」に所在したといい、『兵庫県の中世城館・荘園遺跡』では豊岡城と木崎城を別扱いしている。

西尾孝昌氏『豊岡市の城郭形成Ⅰ』でも、山王山の正法寺城跡と神武山の豊岡(木崎)城跡は別々に記されている。今では山王山と神武山の間に道が通り分断されているが、ゆるい坂が上下しており、両山は同じ丘陵地の西と東にある同じ城域だったのではないか?と考えられるのである。

妙楽寺城は標高70mの見手山丘陵で妙楽寺から但馬文教府にかけて、東西約400m、南北約600mの大規模な城郭であった。

さて、最後の九日市城は、城というよりは山名氏の在所で、守護所と考えられている。所在地は不明確であるが、九日市上ノ町に「御屋敷」「丁崎」という字名がある。円山川左岸の堤防上を通る国道312号線から豊岡駅へ通じる交差点から九日市中ノ町にかかるあたりで、「御屋敷」は山名時義の居所と伝え、「丁崎」は「庁先」のことで但馬守護が事務を執った居館跡に関係する場所ではないかとされている。

しかし、宿南保氏は『但馬の中世史』で、「筆者は、あくまで山名氏の本拠地は此隅山城であったと考えている。(中略)『大乗院寺社雑事記』に、政豊の動静について、「九日市ト云在所ニ在之」と記している。「在所」とは城下町に対して村部を指す対比語である。この表現から当時本城ではないところに居住していたことを表現していると解釈しているのである。

山名持豊(宗全)は、室町幕府の四職のひとりとしてほとんどが京都に居住していたので但馬守護代に垣屋氏、太田垣氏らが任ぜられているため、実際に木崎城の城主は垣屋氏であった。木崎(豊岡)城と旧円山川に挟まれた街道を南北に宵田町・京町という。京町いうのは何であろう?京極氏から京町と呼ばれるようになったのだろうが、ひょっとして四職として幕府の侍所頭人を任じられた持豊(宗全)は幕府のある京都に住んでいたから、京殿などと呼ばれていたのではなかろうか?!但馬に引責後、京から家来や文化を連れて京風にしたからなのか?宵田町は山名家の筆頭家老、遠江入道(熙忠ひろただ)(豊岡市の「垣屋系図」では隆国)の次男で宵田城主となった垣屋越中守熙知ひろともが但馬守護代として実質的に但馬を掌握していたのだろう。宵田殿の居館があったことによるものだろうし、応仁の乱以降、山名氏は出石へ追いやられ(権威はあった)、但馬の中央部である木崎城(豊岡城)周辺を制圧して但馬の戦国大名となったのである。

これまでの資料からは、明徳二年の山梨の内紛において時熈らが妙楽寺城に立て籠もっている。また長享二年には政豊が木崎城に立て籠もっていることを考えると、木崎城もその候補となろう。また九日市の対岸であるが、かつて南北朝期に立て籠もった三開山城も詰城かもしれない。出石の此隅山城は、垣屋氏が山名氏との対立で楽々前城から垣屋氏起源の鶴ヶ峰城へ移したように、但馬山名氏の起源の本城であり、出石神社の祭祀権を掌握して地域支配を図るためには不可欠の城であろう。

とにかく、祇園祭が台風の影響で心配されたが、小雨の中無事に巡行が行われた。かつて祇園祭が最初に中止となったのは応仁の乱だというからすごい話であるが、ふと西の総大将で西陣の地名ともなった山名宗全について思い出してみた。

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丹波道主命と大丹波王国

地図:国土交通省

但馬・丹後は、方言も山陰や若狭に近いが、兵庫県・京都府であり、関西(近畿)でもある。瀬戸内の山陽地方と中国山地を隔てて北にあるので山陰という。かといって、日本海側は交通も不便であり、過疎化が進み人口も減少傾向にある。

しかしである。結果的に自然や寺社などが残っていることは財産でもあるのだ。そもそも三丹が国として誕生したはるか昔から江戸末期に黒船が来航するまでの日本誕生から長い間、日本海側が表日本だったのであるのに比べれば、日本列島の太平洋側が表玄関になったのは、幕末からわずか200年に過ぎない。

丹波たんばの国は、律令制以前の古代は、丹後たんご但馬たじまも丹波であった。

とくに但馬・丹後は、なかでも近い豊岡市と京丹後市などの地域は、文化・方言等がよく似た地域で、府県の違いはあるにも関わらず、共通の生活圏でもある。

『国司文書 但馬故事記』にそのヒントが隠されている。

郡ごとに八巻に分けられれるが、ほとんどの冒頭はこれにはじまる。

天照國照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖、高皇産霊神より、十種瑞宝を授かり、妃の天道姫命とともに、坂戸天物部命等十数名を率い、天磐船に乗り、田庭の真名井原に降り、豊受姫命より五穀養桑の種子を獲て、射狭那子嶽に就き、真名井を掘り、稲の水種や五穀の陸種をつくるべく植え、その秋、稲の穂が一面に充ちた。(中略)故にこの処を田庭と云う。丹波の号、ここに始まる。その後、天火明命は谿間(但馬)を開く。(中略)

のち、人皇10代崇神天皇の御世、先帝の皇子、彦坐命が丹波・多遅麻・二方の三国を賜い、大国主となる。

伴とし子さんは著書「ヤマト政権誕生と大丹波王国」で、

国宝『海部氏系図』(元伊勢籠神社)の中で、地名に限り言及すると、「孫 健振根宿祢たけふりねのすくね」のところに、「若狭木津高向宮わかさこづたかむくのみや」という地名が記されている。このことから、古代の地域国家を名づけて大丹波王国(=丹後王国)としたが、若狭国もその勢力範囲であったと考えられる。(中略)

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『但馬故事記』から読み解く但馬国府の所在地

但馬国府の所在地は、但馬史の長年の謎とされている。

日本後紀にほんこうき』延暦23(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」と書かれていることから、少なくとも2ヶ所の但馬国府移転が考えられる。遷された理由や、どこからどこへ遷したのかについては、記述がないため分からないので今後も発掘調査にかかっているが、所在地については、近年の国道312号バイパス発掘調査により、その移転先は、豊岡市役所日高振興局(旧日高町役場)の西にある祢布にょうヶ森遺跡から国道312号バイパスまであると考えられている。「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるから、この発見は、移転後の第二次、第三次国府だとされている。
ではなぜ、祢布ヶ森遺跡が但馬国府と考えられるようになったのか。

川岸遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市日高町松岡(JR山陰線東側市道建設時)
・川岸遺跡出土(昭和59年)
人形、斎串、馬形、木製品、須恵器、土師器など

都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)
兵庫県豊岡市水上字深田他(国道312号バイパス建設工事発掘調査)(平成6年)
・深田遺跡出土
木簡、木製品、墨書土器、金属製品、須恵器、
土師器など
(一部兵庫県指定文化財。平成6年度指定 兵庫県立考古博物館蔵)

祢布ヶ森遺跡
(国道312号バイパス袮布交差点西北から豊岡市日高総合支所まで)
・祢布ヶ森遺跡出土
水田面から深さ25cmの所で平安時代の遺構を確認。木簡、木製品、祭祀具、墨書土器、須恵器、土師器など。さらに南北20mにわたって濠を発見し、中からは自然木や木製品、建築部材などたくさんの木に混じって木簡203点が出土した。木簡203点が出土(県内最多)した。日本で初めて中国最古の詩集『詩経』の一部を書いたもの、城埼郡(原文のママ)から茜を送った際の付札、「弘仁四年(813)の年号を書いたものなど祢布ヶ森遺跡では、これまでに16点の木簡が出土しているので、今回のものと合わせて219点の木管が出土したことになる。

県内で見つかっている木簡は約870点あるが、市内で見つかった木簡は、袴狭はかざ遺跡(出石)の76点但馬国分寺跡(日高)の42点など、約440点。県内の木簡の約半数が豊岡で出土していることになる。全国60ヶ所余りに置かれた国府跡でも、点数では栃木県の下野国府に次いで全国で2番目に多い出土となる。

長く続いていた国府推定地をめぐる論争は、以下の川岸遺跡・深田遺跡2ヶ所の発掘調査で、国衙と思われる官衙跡が見つかりほぼ断定されてきた。

祢布ヶ森但馬国府は条里制に収まっていた

但馬国府は少なくとも三回移転が行われていることがわかっている。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もあった。
『日高町史』には
但馬史説・国府村誌説・日置郷説・八丁路説・八丁路南説・国司館移設説が記されている。

詳細は『日高町史』をご覧いただくとして、国分寺と国府は、まず距離的に近い場所に遷されるのが通例である。国分寺と国分尼寺は当初から移転がなかったことはそれぞれ礎石が残っていることから確定しており、国衙はその付近が濃厚だということになる。国分寺と国分尼寺のあった水上(正確には山本字法花寺。奈良の法華寺を総国分尼寺とする。正式には法華滅罪之寺という、日高東中前の礎石の所在地も山本字法花寺。法花寺は古くは法華寺と書いた。現在の法華寺と天河森神社所在地は移転)は隣接区で、その2ヶ所を底辺とする二等辺三角形の頂点に国府があったものだと考えると、その三角形の頂点にあたるのが深田遺跡付近で、この国分寺、国分尼寺に近い地点に国府(国衙)が最初に建設されたと見るのが妥当であろう。

国府と国衙

府とは、『国司文書・但馬故事記』に府と記されているように政務を執る施設のことで、すでに全国に国府が置かれる以前の多遅麻国造のころから国の政治を掌る場所を「府」と呼んでいたようだ(国府と国衙を同一視する説もあり)。通常、国府とは令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市をいい、国司が政務を執る施設(国庁)を国衙(国の役所)というそうだ。


2011.資料:2011.5.22 「第45回 但馬歴史講演会」但馬史研究会
「祢布ヶ森ニョウガモリ遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡孝彰氏資料より

最初の国府は国府(郷)にあった

 

『国司文書・但馬故事記』(抜粋)に、

人皇12代景行天皇32年夏6月、伊香色男命の子、物部大売布命は、日本武尊に従い、東夷を征伐せしことを賞し、その功により摂津の川奈辺(旧川辺郡)・多遅麻の気多・黄沼前(城崎)の三県を賜う。
大売布命は多遅麻に下り、気多の射楯宮に在り。多遅麻物部氏の祖なり。
人皇15代神功皇后立朝の2年5月21日、気多の大県主物部大売布命薨(殯)モガリす。寿158歳(79歳)。射楯(今の国分寺石立)丘に殯す。(式内売布神社)
物部連大売布命の子、物部多遅麻連公武を以て、多遅麻国造と為し、府を気立(のち気多と記す)県高田邑(今の久斗)に置く。
人皇16代仁徳天皇元年4月、物部多遅麻連公武の子、物部多遅麻毘古を以て、多遅麻国造と為し、府を日置郷に遷す。物部連多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武を射楯丘に葬る。
2年春3月、物部多遅麻毘古は、物部多遅麻連公武の霊を気多神社に合祀す。
人皇18代反正天皇3年春3月、物部連多遅麻毘古の子、物部連多遅麻公を以て多遅麻国造と為す。多遅麻公は多遅麻毘古を射楯丘に葬る。
人皇21代雄略天皇3年秋7月、黒田大連を以て多遅麻国造と為し、府を国府村に移す。

人皇42代文武天皇庚子4年春3月、二方国を廃し、但馬国に合し、八郡と為す。
朝来・養父・出石・気多・城崎・美含・七美・二方これなり。
府を国府邑に置き、これをツカサドる。従五位下・櫟井イチイ臣春日麿を以って、但馬守タジマノカミと為す。
櫟井臣春日麿は孝昭天皇の皇子、天帯彦国押人命の孫、彦姥津命五世の孫・大使主命オホオミノミコトの裔なり。

とあるから、律令制度による最初の但馬国府は国府村(官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)辺り)で間違いないだろう。

大宝3年春3月、国司櫟井臣春日麿はその祖大使主命オオオミノミコトを市ノ丘に祀る。
5月市場を設け、貨物を交易す。しかして商長首宗麿命アキオサノオビトムネマロノミコトを祀る。(式内 伊智神社の現在地 豊岡市日高町府市場935)

「国司櫟井臣イチイノオミ春日麿はその祖大使主命を市ノ丘に祀る。」とあるから、式内 伊智神社の現在地は豊岡市日高町府市場935であるが、遷座される前は国府所在地に近い市が開かれた市ノ丘という丘の場所であったであろう。

『国司文書・但馬故事記』に見る限り、第一次但馬国府は国府村内ということになる。しかも美努(三野)ミノ神社は国府村に祀ったとしている。美努は今の野々庄だ。今の所在地が遷座されたものではないものとすると、当時の国府村はいまの府市場から野々庄までを指したのかもしれない。

『但馬国司文書別記・第一巻・気多郡郷名記抄』に、太多タダ郷・三方郷・佐々前ササクマ郷・高田郷・日置郷・高生タコウ郷・国府・狭沼サノ郷・賀陽カヤ郷とある。

国府は国府所在地なので、あえて「郷」は付けないのだろう。
国府内の村名は山本(古くは八上ヤカミ)・土居ヒヂイ村・伊智村・堀部・美努ミノ・熊野・柴垣・池上イキノエ上石アゲシ
同時期の『但馬郷名記抄』には美努とあり、美努は式内三野神社から今の野々庄である。気多郡郷名記抄に国府村は記載がないにも関わらず、美努村としないで国府村と記されている。それは、どういうことなのだろう。国府村が戸数増加により分村し美努村が分かれたのか。

『但馬故事記』註解の吾郷清彦氏は、それぞれの但馬国史文書編纂時期を調べているが、『但馬故事記』・『但馬郷名記抄』は、ともに天延3年に完成している。しかし、最初に編纂された第一巻・気多郡故事記から第八巻完成まで、起稿 弘仁5年(814)-脱稿 天延2年(974)で160年という長い年月をかけているわけである。その長い年月の間に国府村・美努村と変遷があったのかもしれない。しかし、国府の郷にあって国府村とするには、国府所在地だったからで、何んらかの根拠があったからではないか。伊智村は市場を意味する。

『和名抄』にはいまの地名である府市場に近い国府市場コウノイチバとなっている。国府に近いに違いないが、国衙(国府が置かれていた区画)の所在地ではない。山本は元は国府郷に入っていたことが、国府所在地のヒントだといえないだろうか。国分寺はいまの国分寺区、国分尼寺は今の水上ミノカミ区(正確には山本字法花寺)で国分寺と国分尼寺はともに礎石が残っており、場所は確定されるので、国衙は2つを底辺に二等辺三角形の頂点だと考えられる。それらに近い場所であるはずだから、発掘調査で水上字深田から川岸遺跡の松岡辺りのJR山陰本線西周辺である可能性が高くなった。第一次国府はその近い位置に置かれたとすれば、深田遺跡は高田郷であり、松岡は当時日置郷にあるからおかしいことになるが、深田遺跡とは隣接地である。『日本後紀』延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がその唯一の記録である。中央から地方に派遣された任官が中央に報告しないと『日本後紀』に記録されるはずはない。第一次但馬国府は、高田郷には近いかも知れないが、高田郷の水上・国分寺・祢布あたりではなく国府(郷)であった。そうでないと、「高田郷に遷す」と、わざわざ書かないだろう。高田郷ではない国府(郷)でなければならない。

以下、私個人の推察

以上、調査を元に地図にしてみた。

縄文時代、人々は山間部で狩猟や木の実や果実を採集して暮らしていた。縄文海進からやがて平地が現れる。稲作が伝わり計画的農業には水の多い平地が適している。田んぼの作業に近い場所に定住するようになり、村が生まれ人口が増え郷へ発展し物々交換で往来する。なぜ、縄文以前の旧石器時代に人々は高い山岳地帯に暮らしていたのだろう。但馬で人類の遺構として古いものは、新温泉町の鳥取県境の畑ヶ平遺跡など豪雪地帯の山岳であるのに、他に但馬の古い遺跡は鉢伏や神鍋などで見つかるのだ。

平地に住めばいいのに何で不便で寒い山岳地帯に人類は最初に住んだのかと不思議なことだと思っていた。不思議でもなく理由があるはずだ。

当時の縄文海進のころは海抜は高くおそらく今の高地部まで海水が近かったのだろう。新温泉町でも海であった貝殻の化石が見つかるし、今より気温は高く、日本列島は細かい島々に分かれていたのではないか。高所を好んだのではなく、地勢により必然的にそこしか陸地がなかった。

奈良時代に律令制が全国的に整備されものが国と国府(国衙)・国分寺・国分尼寺で、また、国府は水運に便利な円山川に近い平地からやや高い高田郷へ遷ったとすれば、それは何を理由にしたのだろう。台風など天災による水害に見舞われたのか、火災なのか、あるいは不便だったからからかやむを得ない事情が起きたことに他ならない。

官衙跡とされる深田遺跡(水上)、川岸遺跡(松岡)は、ともに隣接地なので同一のもとも考えられるが、水上ミノカミという地名の通り、縄文期までは円山川下流域は黄沼前海キノサキノウミという入江で、国府から以北の円山川流域は海抜が0mに近い地点である。丹後の国庁跡、丹波国庁推定地、鳥取県の因幡国庁跡や伯耆国庁跡、島根県の出雲国庁跡も見に行ったが、例えば因幡国庁も千代川下流域の旧鳥取市内ではなく旧国府町に置かれた。出雲国庁も松江の宍道湖周辺ではなく、やや内陸部である。それは河口に近いところは川から運ばれてきた土砂が堆積して平野部を形成する沖積地であり、松江、鳥取、豊岡、宮津にしても、中世以降、戦国時代に城を築き発展した城下町である点だ。豊岡と旧日高町との地勢や国庁の配置が酷似している。

気多郡(旧日高町のほぼ全域)は、すぐ北は城崎郡、東は出石郡、南は養父郡、朝来郡で、西は蘇武岳を越えると七美郡、美含郡、二方郡、また山陰道につながり、但馬国八郡のどまん中である。国府を置くには最適地だ。しかし、それは大水による水害かあるいは地震による地盤沈下と倒壊なのか、移転せざるを得ない止むに止まれぬ大きな事情が起きたからではないかと思っていたのである。

また、興味深い事実を知った。平安期にも縄文海進のような平安海進があったというのだ。8世紀から12世紀にかけて発生した大規模な海水準の上昇(海進現象)と減少を繰り返していた。ロットネスト海進とも呼ばれているが、日本における当該時期が平安時代と重なるためにこの名称が用いられている。ローズ・フェアブリッジ教授の海水準曲線によると、8世紀初頭(日本の奈良時代初期)の海水面は、現在の海水面より約1メートル低かった。10世紀初頭には現在の海水面まで上昇した。11世紀前半には現在の海水面より約50センチメートル低くなった。12世紀初頭に現在の海水面より約50センチメートル高くなった。

8世紀初頭は現在の海水面より約1メートル低かったが、10世紀初頭には現在の海水面まで上昇しているのだ。高田郷に移転したのが、延暦23(804)年であるから、この平安海進の時期に符合するのだ。第二次但馬国府は高田郷

さて、但馬国府は何かの理由で最低一回は移転されている。おそらく国府平野が海抜0メートルに近い低湿地であったことが原因だったのではないかと思う。国衙が河川の大きな水害に遭ったのだ。祢布ケ森遺跡で大量の木簡などが発掘された、水害を免れるより高い場所の高田郷の祢布(市役所日高振興局周辺)である。

ところが、『国司文書・但馬故事記』は、律令以前の府を克明に記してあり貴重であるが、人皇50代桓武天皇御代に関する記述は、。『日本後紀』にある延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」がまったく記されず、こう記してある。

人皇50代桓武天皇延暦3年冬12月 本国、大毅外従六位上、川人部広井、私物を集めて、公用に供す。勅して外従五位下を賜う。
4年春2月 外従五位下、川人部広井、本姓を改め、高田臣を賜う。

国の正書『日本後紀』に但馬国府移転が記載されるというのは国の重要事項なのに、但馬国府の国学の任官であるはずの執筆者等にとっては、知っていながらさしたる重大事でなかったのだろうかと不思議である。

(続いて、)人皇52代嵯峨天皇大同5年夏5月11日 兵士300人を以て健児と為し、健児一人ごとに馬子二人を置く。
弘仁3年春正月 従五位下、良峰朝臣安世を但馬介と為し、国学寮をして但馬故事記を撰ましむ。これを国司文書と云う。

国衙移転という大事業の時期なのに、軍団は簡素化され、歴史書を編纂し始めると、いたって平穏な印象である。

また、深田遺跡は水上ミノカミといって、出石町にも水上ムナガイという同じ漢字の地名がある。いずれも黄沼前海が入り込んだ低湿地帯のそばであったと思われる岸辺だった。水上字深田という地名からみて、沖積土壌で地盤も軟弱な地盤であったことは推察できる。この田園地帯は北へ進むほど海抜0メートルに近い場所である。国府には郷名はそもそもない。国府は国府でありあえて郷名は必要ないからだが、中世以降は、国府、または国府郷と郷名で記されている場合もある。

国府の国衙を置くとすれば水害に遭わないように少しでも海抜が高い場所を選んだはずで、以降に挙げた但馬国司文書但馬故事記に国府村に移すとあるので、今の野々庄から堀辺りに府が置かれたことはあった。唯一の公式文書『日本後紀』にある延暦3(804)年正月の条に、「但馬国府を気多郡高田郷に遷す」とあるので、国府郷から高田郷に遷すと記したのだから他の郷からである。国府村ではなく国府(郷)で一番水害の起きにくい標高の高い場所の深田遺跡で、ここはぎりぎり国府(郷)の南端であり、すぐ西隣は高田郷、南は日置郷に隣接している3つの郷の境に当たる。『日高町史』にある八丁路説・八丁路南説はこの条里制の東西道に当たるし、すぐ南は日置郷で日置郷説にも近い。

条里制が布かれた頃は、すっかり水位が下がって国府平野も安定していたのかどうか分からないが、国衙もその条里の正方形の一画に組み入れられ計画されたものだとすれば、その当時は、すっかり平野ができていたのだろうか。私は大きな水害に見舞われたのではないかと推察する。同一場所に再建するのは不可能であったか、また、より安心できる標高の高い場所で地盤もしっかりしている高田郷の祢布ケ森付近に遷したのではないかと考えている。

『国司文書・但馬故事記』を見ると、延暦3年(784)には、かなり中央集権からその土地の人々に権限を移譲していったのがが分かる。弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介タジマノスケと為し、とあり、但馬守は国司で、介はその次官であるので、「弘仁3年(812)春正月 従五位下・良峰朝臣安世を以って但馬介」とあり、この頃すでに国司は任地に赴かず、次官の介を派遣していたようだ。実務上の最高位は次官の介であった。
この3点の年月は10年以内で、中央集権機能は簡素化されていったのだろう。

 

彦座王と丹波の鬼退治

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『但馬故事記』の崇神天皇の御代は、丹波青葉山にいた賊に陸耳の御笠を彦座命たちが丹波(丹後・但馬と丹波北部に限られる)の首長とともに退治した話のみが長く詳細に記されている。現代語風に訳してみる。

第十代崇神崇神天皇の十年秋、丹波青葉山にいた賊に陸耳くがみみの御笠みかさがいました。土蜘蛛つちぐもの匹女ひきめなどの盗賊を集めて人々の物を略奪していました。その仲間の土蜘蛛が多遅麻・狂の久流山にいて、あちこちに出没しては人びとに害を及ぼしていました。それは酷い有様でした。

丹波国造の倭得玉命やまとのえたまのみことと多遅麻国造の天日楢杵命あめのひならきのみことは、崇神天皇にそのことを伝えました。天皇は開化天皇の皇子・彦坐命に命じて、これを討つようにいわれました。
彦坐命は、御子の将軍・丹波道主命たにはのみちぬしのみこととともに丹波に下り、

多遅麻朝来直たぢまあさごのあたえの上祖 天刀米命あめのとめのみこと(天砺米命)
〃 若倭部連わかやまとのべのむらじの上祖 武額明命たけぬかがのみこと
〃 竹野別たかののわけの上祖 当芸利彦命たぎりひこのみこと
丹波六人部連むとべのむらじの上祖 武刀米命たけのとめのみこと(武砺米命・今の福知山市六人部むとべ)
丹波国造 倭得玉命やまとのえたまのみこと
大伴宿祢命おおとものすくねのみことの上祖 天靭負部命あめのゆきえべのみこと
佐伯宿祢命の上祖 国靭負部命くにのゆきえべのみこと
多遅麻黄沼前県主きのさきのあがたぬし 穴目杵命あなめきのみことの子・来日足尼命くるいのすくねのみことら

を率いて、丹波と若狭との国境に至りました。

陸耳・土蜘蛛匹女は南に向かい、蟻道ありじ川(福知山市大江町有路)にて土蜘蛛匹女を殺しました。その血が流れて、染みて紅色になりました。それでこの地を血原といいます(のち福知山市大江町千原)。

陸耳らは力が尽き、まさに降参しようとした際に、丹波国造倭得玉命は下流からこれを追い、楯を並べて河を守り、イナゴのように矢を放ちました。賊党は矢に当たり水に溺れ死にする者が多くいました。

それでこの地を河守といい、王軍がいた所を縦原といいます。(福知山市大江町河守・蓼原)

さらに賊を追って由良の湊に至りました。竹野の海で戦い、陸耳たちは大敗してまた逃げて行きました。(由良の湊は由良川河口、竹野の海は久美浜湾)

王軍はこれを追い、多遅麻の黄沼前きのさきの海(円山川河口)に逃げました。

その時に狂の土蜘蛛は陸耳に加わり、賊の勢いは再び増しました。(狂は豊岡市来日)

王軍の船は岸に当たり穴が空いてしまいました。さすがに王軍は士気を失いました。

その時に、水前大神が現れて告げました。

「天神・地神の擁護が有る。すぐに美保大神と八千矛大神を祀りなさい」と。

彦坐命はそのお告げを聞いて両神をまつりました。すると風はおさまり、波が穏やかになりました。それでこの地を安来浦といいます。(兵庫県美方郡香美町安木)安来に坐す大国主大神・玉櫛入彦大神はこの神です。(國主神社 祭神大国主命 美方郡香美町香住区安木)

再び王軍の士気は大いに高まりました。するとにわかに鯨波ときが起こり、無数のアワビが浮かび出て、その船の穴を塞ぎました。それで鯨波島ときしまといい(いま鳥加計島)、アワビが浮かび出たところを鮑島といいます(のち青島)。船が直ったところを舟生港といいます(のち舟を丹に誤りて丹生港。いまの柴山。式内丹生神社 祭神:丹生津彦命)。

その時天より神の剣が武額明命の船に降りてきました。武額明命はこれを彦坐命に献上しました。それで神ノ浦といいます(神ノ浦山)。またその地を名づけて、幸魂谷といいます(のち佐古谷)。

陸耳・土蜘蛛たちは島の陰に潜みました。それで屈居ノ浦といいます。来日足尼命(宿祢)は土蜘蛛に迫り、刺し殺しました。その地を多派礼波奈といいます。

王軍は陸耳を御崎の海に攻撃しました。その時、彦坐命の甲冑が鳴り、輝きを発しました。故にその地を鎧浦と云う。(兵庫県美方郡香美町鎧)

当芸利彦命は進んで陸耳に迫り、これを刺し殺しました。それでその地を勢刺いきさしの御崎といいます。また勇割の御崎と云う。(伊伎佐御碕、式内伊伎佐神社:兵庫県美方郡香美町余部)

彦坐命は、賊の滅ぶのをもって美保大神(美保神社:松江市美保関町)・杵築大神(出雲国一宮 出雲大社:出雲市大社町)の加護のお陰とし、戦功のお礼参りをするために出雲に行きました。二神に詣で、伯耆を過ぎ、因幡青屋崎(いまの鳥取市青谷町)、加露港に入り、順風を待ちました。

順風になって田尻沖を過ぎると、たちまち暴風が起こり、船は揺れました。それでその地を振動浦いふりうらといいます。

二方国、雪ノ白浜に入り、将兵を休ませました。それでその地を諸寄もろよせといいます(兵庫県美方郡新温泉町諸寄)。多遅麻の舟生港に寄り、順風を待ちました。その時、磯辺より世にまれな大アワビが多数浮かび出て、白石島を廻りました。この時、大アワビは、海神の御船と化して導き、丹波国与佐浦に到着できました。

11月3日、天皇のおられる都に凱旋し、将兵の戦功と戦中の奇談を奉じました。天皇はその功を賞め、丹波・多遅麻・二方の三国を彦坐命に与え大国主としました。

12月7日、彦坐命は諸将を率いて。多遅麻粟賀の県に下り、粟賀に宮を建てここに住まいました。(名神大 粟鹿神社)

アワビは塩ケ渕に放ちました。水が枯れたのち、枚田の高い山の麓の穴渕に放ちました(のち式内赤淵神社に祀ると云う)。

彦坐命は再び天皇の仰せで諸将を率いて山陰の諸国を巡察し、その平定につとめました。

天皇は、姓を日下部足尼(宿祢)くさかべのすくね*1と与え、諸国に日下部を定めて、彦坐命に与えました。しばらくして、彦坐命は宮に帰り、諸将を各地に置き、守りとしました。

各地の諸将は、みな粟賀宮に朝見して、徳をよろこびました。朝来あさごの名はここに始まります。


*1日下部氏 『日下部系図』は、その子孫が日下部表米別命-日下部荒島宿祢-養父の軽部・建屋・朝倉・八木・宿南・田公、朝来の太田垣などとする。

『但馬故事記』は、彦坐命-(2代省略)-息長宿祢命-大多牟阪命(朝来県主)-船穂足尼命(多遅麻国造)-当勝別命(朝来県主)-(丹波六人部武刀米命の子・武田背命:朝来県主)-

日下部の上祖・表米別命(当勝別命の子・朝来県主)-賀津米別命(朝来県主)-伊由臣彦命(朝来県主)-(律令制発足・県を郡へ)-(武刀米命の裔朝来直命:朝来郡司)・・・荒島宿祢(朝来大領、養父郡故事記には郡司とある?)-荒島宿祢の子・乙主(一に磯主)(朝来大領)-荒島宿祢の孫・安樹(朝来大領・父磯継は養父大領)-荒島安樹の玄孫・荒島国守(朝来大領)

[養父郡]多遅麻国造 船穂足尼命の9世孫 日下部宿祢(養父郡司)・・・朝来郡司荒島宿祢の子・磯継(養父郡司)・・・荒島宿祢利実(養父郡司)

・・・は他の家系の人が任じられているので省略した。

但馬国府は条里制に収まっていた?!

20111.5.22 「第45回 但馬歴史後援会」但馬史研究会
「祢布ヶ森(ニョウガモリ)遺跡を考える」 但馬国府・国分寺館 前岡 孝彰氏

見つかった施設・遺構から、大型建物跡などが確認されている。かなり大きな役所跡だった。
また、全国的にみても多数の木簡が見つかっており、当時の役人の業務が分かる。


祢布ヶ森遺跡と周辺の遺跡 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

但馬国府の推定と発掘

全国的にも国府(国衙)はさまざまな理由によって官庁を移転している例があります。国府と密接な関係を有していた国分寺。その寺地選定の要件は、「衆の帰集を労するを欲せず」とされているように、交通至便の地が望まれました。国庁内にあった仏舎の発展延長でもあるので、国府から飛び離れた地点に建立されることはまずありませんでした。実際、国府から五町乃至二町位隔たって建設されたものが多いようです。

『日高町史』によれば、古くから日高町国分寺区は、但馬国分寺跡だとの伝承を持つ位置が存在し、但馬の他所から移ってきたような大変化も伝承もなく、遺跡も存在しているのは、但馬では他にはありません。つまり、国分寺と国府は、まず距離的に密着しているのが通例ですし、この国分寺の近くに国府が最初から建設されたと見るのが妥当です。

次ぎに、高田郷に国分寺という地名は、和妙抄には存在せず、江戸時代には国保村と書かれています。和妙抄は高田(タカダ)郷は「多加多」と記され、夏栗、久斗、祢布、石立、国保(国分寺)、水上が含まれるとされています。国府が国保と記されていたとも考えられます。

『兵庫県史』は、「但馬に気多郡団が知られるが、出石軍団は知られないこと、天平九年の『但馬国正税帳』によると、但馬国府から因幡へ伝達するのに気多郡の主帳を使っています。ふつう国府のある郡には軍団が置かれるし、また文書の逓送には、国府に近い郡の役人を使うのが自然」と述べています。

したがって、但馬国府は、出石神社が古くから出石郡に鎮座することから、はじめ出石郡に置かれていたのではないかする見解が一部にありますが、上述の発見からも否定する意見が濃いようです。
『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記されています。別の場所から高田郷へ移されたと記しています。移転月日まで判明している資料的な裏付けがある希有な例だといわれています。高田郷とは祢布ヶ森を含む現在の旧日高町中心部なので、どこからか祢布ヶ森へ移されたことは間違いないようです。

総じて移転原因と見られるのは洪水のようです。都市計画に当たって広大な平野が選定されても、高水位対策の配慮が足りないとその機能が発揮できません。
役所跡と判断する理由

塀で囲まれた中に大きな建物群が規則性を持って配置されていたこと

庶民は使わない高級な食器である青磁や白磁、三彩などが見つかったこと

但馬各郡の役所で作成されたと思われる戸籍や税に関する木簡が見つかったことなどがあげられる。
水運のために国府津と呼ばれる港が設けられることも多く、平安時代にはさらに総社気多神社が建てられた。国府という地名は、全国にあるが、国府跡の所在地が判明しているところは数少なく、その意味でも但馬国府・国分寺跡は貴重です。

国府の規模は大国以外は六町域をとるものが多くありました。但馬国は上国・近国とされていますが、貢租の額を詳しく分析してみると、但馬国は中国の実態しかない国だったようです。

2008年6月21日、中国最古の詩集「詩経(しきょう)」に触れた木簡が国内で初めて出土しました。同時に二百二点の木簡が見つかり、一つの遺跡では県内最多、全国でも二、三番目の数だそうで。810~816年に但馬国司だったのは桓武天皇の皇子で、五百井女王の親類にあたる良岑安世(よしみねのやすよ)。漢詩に秀で、後に漢詩集「経国集」を編集しており、詩経木簡との関連が注目されています。なかにはまだ若い(だろう?)役人が九九の計算を練習して間違えていたり、同じ文字を繰り返し練習したものなど、さまざまな内容のものがありました。

第一次国府推定地は、以前から5カ所も6カ所もありました。
但馬史説
国府村誌説
日置郷説
八丁路説
八丁路南説
国司館移設説

なかでも国府説では、明治中期に設定された国府村という行政体の名前から、国府はこの地にあったに違いないとするものです。国府には船所が設置されていたので、おそらくその河流沿いではあるというものです。国府の市場は「こうの市」と記載されています。国府は「こう」ともいいました。また近くに伊智神社が鎮座しており、伊智は市のことで、市場に関係する神社です。また、中世末期、「府中」と呼ばれていた域内には律令制に所縁ありそうな「堀」「土居」などの地名があります。

川岸遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市日高町松岡
第1次但馬国府か?(昭和59年)
都から但馬に派遣された役人「国司」の顔を書いたと思われる人形が出土し、幻の但馬国府がぐっと身近になりました。

深田遺跡(官衙跡)

兵庫県豊岡市水上字深田他(兵庫県指定重要有形文化財 平成6年度指定 兵庫県立考古博物館所蔵)は、周辺に国分僧寺、国分尼寺などがあり、延暦23年(804)に気多郡高田郷に移したと『日本書紀』に記されている但馬国府跡推定地の一つと考えられています。

祢布ヶ森遺跡

但馬国府は『日本後記』延暦二十三年(804)に、「但馬の国冶を気多郡高田郷に移す」と記録されています。遷された原因やどこから遷したのかについては記述がないため分からありませんが、移転後の所在地については、近年の発掘調査で博物館に隣接する祢布ヶ森(にょうがもり)遺跡であると考えられるようになりました。

日置郷説は、かつて上郷は日置郷にあり、惣社の近くに国府があったというものです。ところが、鎌倉時代には惣社気多神社は、下郷に鎮座していることになっているのでつじつまが合いません。

八丁路説は、伊福(鶴岡)に「八丁」という小字があり、太平洋戦争末期まで鶴岡橋の下流左岸に渡し船がありました。八丁とは区間の長さを示す言葉ではなく八条の転化であり、条里地割りの呼称ではないかといいます。

また、『日本後記』は、上記の通り明瞭に第一次国府の移転を宣言してありますが、果たして国府全体が本当に移転したかです。「国衙」「国庁」あるいは「国府」とも言わず、「国治」を移すと表現していることは、やはりそれなりの意味があって、行政機関のあるものを移転したことを示すものではないだろうか、という考察です。いくつかの新庁舎が建設された類のものではないか、だからこそ、旧国府村でも、円山川沿いに、国府と関係するらしい小字名が伝承されてきたのではないかというものです。

前岡さんは個人的な考察として、国府地区から祢布ヶ森へ移転したのではなく、12世紀以降の遺物はほとんど出土しないので、祢布ヶ森から国府地区へ移転したのではないかと想像すると語る。
祢布ヶ森遺跡の位置と、これまでの発掘調査箇所 S=1:2,000 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

条里と条里(青線)の間は218m(2町)で左の条里以西からは遺跡が見つかっていない。
祢布ヶ森遺跡・但馬国分寺周辺の条里復元図 「第45回 但馬歴史後援会」資料から

天平13年(741)造営開始から天平勝宝年間(750年代)に一応の完成をみた但馬国分寺は条里制に東西は一致しているものの、条里からはずれているが、延暦23年(804)に移転してきた但馬国府(祢布ヶ森)は、律令制による条里制の区画にすっぽりと合致しており、条里制が布かれた後に条里制を反映したものかということが想定されるということが興味深い。
気多郡の条里が施行されたのは、8世紀後半~末であろう。

国庁は、中央の正殿とその左右にある脇殿や、周りを囲む塀などで構成され、「コ」や「品」字の型に計画的に配置されている。規模の違いは国の等級が在る程度反映されているようです。40mほどのものから100mを超える大規模なものもある。但馬国府は正殿らしき遺構から脇殿まで約100m。

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秦氏などの渡来人と日本の文化

秦氏については以前にも
http://koujiyama.at.webry.info/201002/article_94.html
などで触れたが、渡来人と日本の文化の発展について考えてみる。
ただし、ここでは渡来人とは歴史用語としては、4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多いので、それ以前に日本列島の先住民である旧石器人や縄文人を除外して定義している。
言うまでもなく、日本列島がアジア大陸から切り離されるまでに日本民族として孤立したものではなく、人類のルーツはみな同じであって、いつごろから先住民がいたかなどは大きすぎる課題でありここではテーマではない。
郷土歴史家で有名な宿南保氏は、『但馬史研究 第31号』「糸井造と池田古墳長持型石棺の主」の投稿で次のように記しています。
渡来人は朝鮮半島の情勢変化に伴い、ある程度まとまった集団を形成して来航する場合が多いと見て、その集中渡来の時期として、『川西町史』(奈良県)は次の三つピークを挙げている。

◎第一波 四世紀末から五世紀初め 応神天皇期

高句麗が「広開土王」の名をもつ好太王に率いられて南方に領土を拡大したことにより、主に朝鮮半島南部の人びとが五世紀前半にかけて渡来したもので、『日本書紀』では応神天皇のころにそれに関する記事が見られる。
『日本書紀』応神天皇七年九月の条に、「高麗人・任那人・新羅人、並びに来朝り。時に武内宿禰に命じて、諸々の韓人等を領ゐて池を作らしむ。因りて、池を名づけて韓人池(からひといけ)と号ふ」とある。
後に有力な豪族となる東(倭)漢氏(やまとのあやうじ)の祖・阿知使(あちのおみ)主や西文氏(かわちのふみうじ)の祖・王仁(ワニ)、秦氏(はたうじ)の祖・弓月(ゆづき)君がいる。

●疑問点

この時伝えられたとされるものや渡来談話を見ると、本来この時代にはないものがあるので、次に紹介する第二波の渡来に関係した氏族が、自分たちの始原を古いものであると示すために作った説話がかなり混じっている可能性がある。

しかし第二波の渡来人を「今来(いまき・新しくやって来たの意)の漢人」と呼び、東漢氏や西文氏、秦氏が支配下においていることから、やはり五世紀後半以前に日本列島に渡来し、ヤマト王権のもとに組織されていたグループがあったものとされている。その人たちの出身地は、東漢氏や西文氏の場合は朝鮮半島南部の伽耶(加羅)(『日本書紀』では任那)、秦氏は新羅と考えられている。

宇佐八幡

この神は、北九州の豪族宇佐氏の守護神だったが、応神天皇が八幡神であるとされている。

◎第二波 五世紀後期 雄略天皇期

高句麗が百済の漢城(現ソウル)とう都を陥落させたことにより圧迫を受けた多くの人びとの渡来が顕著な時期で、『記・紀』にいう雄略天皇の治世に当たる。

倭の五王最後の武王=雄略天皇にいたっては、使持節都督倭・新羅・任那・加羅(伽耶)・秦韓・慕韓(馬韓)六国諸軍事安東大将軍と、いかにも長々しく威厳に満ちたもので日本列島から朝鮮半島までをも支配していたかのような響がある。

ただしこれを言葉通りに受け止めてはいけない。高句麗の南下を食い止めているヤマトの王権に対する、宋側からのご褒美であり、一種の名誉職と言った方がいいかも知れない。しかし、実験を伴わなかったヤマトの王家が、宋から認められたことによって(もっとも実際に活躍していたのは物部氏を中心とする周囲の豪族だっただろうが)増長していった疑いが強い。

雄略天皇の頃には、当時の国の内外の事情から、多数の渡来人があったことは事実で、とりわけ秦氏族は、先に見たように絹織物の技に秀でており、後の律令国家建設のために大いに役立ったと思われる。朝廷によって厚遇されていたことがうかがわれるのも、以上の技能を高く買われてのことだと考えられている。彼らは畿内の豪族として専門職の地位を与えられていた。こうして深草の秦氏族は、和銅4年(711年)稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして神威赫々たる大神社を建てた。

須恵器や鞍(くら)といった生活や武具関係の工業技術を持った人びとが多く、ヤマト王権は東漢氏(やまとのあやうじ)や西文氏(かわちのふみうじ)等の渡来氏族の支配下に置き、部民制をとり陶部(すえつくりべ)や鞍作部(くらつくりべ)という職業部を組織し、労働と製品を確保する体制をとった。

この他、呉国(宋)から手工業者・漢織(あやはとり)・呉織(くれはとり)らを招き、また、分散していた秦民(秦氏の民)の統率を強化して養蚕業を奨励したことも知られる。

◎第三波 七世紀中ごろ 孝徳天皇~天智天皇

唐が勢力を拡大し、それと組んだ新羅が強大化することで、高句麗・百済が相次いで滅亡し、白村江(はくすきえ)の戦いで敗れ、王族も含む各種の階層の人びとがわが国に政治亡命してきた時期。

以上、ピーク(集中渡来の時期として)の三つとして記されているが、この他に、
古くは縄文時代の終わり、約2500年前頃よりアジア大陸から、春秋時代やその後の戦国時代にかけての混乱と戦災を避けて日本に渡ってきたと考えられている。彼らが最初に水稲を持ち込み(陸稲は約3500年前から存在。約6000年前からとする説もある。)、いわゆる弥生時代に繋がっていく。

渡来および帰化系氏族のうち約3分の1の多数を占める「秦氏」の項によれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して朝鮮半島の百済から帰化したという記録があるが、加羅(伽耶)または新羅から来たのではないかとも考えられている(新羅は古く辰韓=秦韓と呼ばれ秦の遺民が住み着いたとの伝承がある)。

また一説には五胡十六国時代に前秦の王族ないし貴族が戦乱の中、朝鮮半島経由で日本にたどり着いたと言う説もある(弥生時代の到来)。いずれの説も今後の検証の必要がある。

縄文時代に、山(火山)、瀧、岩、森、などを自然神として磐座(いはくら / いわくら)や神の住む場所である禁足地(俗に神体山)などで行われた祭事の際に臨時に建てた神籬(ひもろぎ)などの祭壇であり、元々は常設のものではなかった。のちに社を建て、土地の祖先や豪族など人物神を神としても祀るようになったのは、渡来人の秦氏族などは賀茂氏系神社(松尾大社、上賀茂神社、伏見稲荷神社、八幡社など、建築技術や専門職(テクノクラート)によるものと考えられる。

繰り返しになるが、日本列島がアジア大陸から切り離され列島となった。元々日本列島に移動してきた人類は北方、南方、半島、南西島嶼部などから移動してきて、日本民族として形成されたものである。いつごろから先住民がいたかなどは考古学史料に求めれるしかない。

渡来人とは歴史用語として、すでに日本列島に定住していた旧石器人や縄文人からみた4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多いので、それ以前に日本列島の先住民である旧石器人や縄文人を除外してそれ以降に定義している。

しかも定住者は帰化人となって同化し日本民族となる。

◎第四波 戦前~戦後

日韓併合時、半島から働きやって来た人々はいたが、戦前(昭和14年に日本内地に住んでいた朝鮮人は約100万人で、終戦直前(昭和20年)には約200万人となった。増加した100万人のうち、70万人は自分から進んで内地に職を求めてきた個別渡航者と、その間の出生によるものである。残りの30万人は大部分、工鉱業、土木事業の募集に応じてきたもので、戦時中の国民徴用令による徴用労務者はごく少数である。むしろ日本内地では国民徴用令により徴兵・学徒動員などは全国民に課せられていた。

当時は朝鮮・台湾も日本人国籍であって、強制連行されたというのは誤解であり、戦後すぐに朝鮮半島などを放棄するものとなり、終戦後、昭和20年8月から翌年3月まで、希望者が政府の配給、個別引揚げで合計140万人が帰還したほか、 北朝鮮へは昭和21年3月、連合国の指令に基づく北朝鮮引揚計画で350人が帰還するなど、終戦時までに在日していたもののうち75%が帰還している。
現在、在日韓国・朝鮮人の総数は約61万人だが、日本国籍が認められなくなった際に、帰国を促しても自由意志もしくは帰る宛がないなどの事情により帰国しなかった人々である。その内、戦時徴用で日本人として日本列島に働きにやってきたとされる正確な人数は245人にすぎない(外務省)。また戦後、密航などでやって来た人々も含まれる。

このような事情はあるものの、日本国内に永住するのであれば、今日帰化は書類上の手続きにより取得できる。当然日本国籍を取得し日本国憲法を遵守することが自然であるのだ。移民国家アメリカなどでは、むしろ国籍を取得するには一定期間を経てアメリカ国民として徴兵の義務(今は志願、奨学金制度)と参政権を得るためにはアメリカ国家に忠誠を誓うことが義務づけられていて、むしろそうした移民国家の方が厳しいのである。
外国人地方参政権とは、法治国家で採用している国はごく少なくあまり類のないおかしな法案である。しかも、年々減少している在日韓国朝鮮特別永住者よりも、年々増加する中国人に対して歯止めが利かなくなる恐れが問題なのである。中国人は帰化しても華人としてチャイナタウンを形成しその国の国民という意識は薄く、持たないケースが多いからである。
強制連行、従軍慰安婦、南京大虐殺等はすべて朝日新聞のでっち上げである。いまだ一切謝罪しない。

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