日本の侵入
1592年4月、朝鮮半島南端の水軍基地釜山鎮の兵士たちは、目の前の海面を埋め尽くすような日本軍船の大軍を発見して驚愕しました(文禄の役)。豊臣秀吉の命令を受けた日本軍十数万の侵入です。この事件は、朝鮮王朝が滅亡の淵にたたされた、王朝開始以来最大の危機でした。朝鮮王朝はすでにその危機を察知し、その前年、外交使節(通信史)二人が秀吉と会見させて情勢を探らせていましたが、その時点では差し迫った危機的状況にはないと判断していました。この間に準備を進めていた秀吉は、明を侵攻するための通路を開く(仮道征明)という理由で朝鮮に軍を進める決定をしました。佐賀県唐津の北方、玄界灘に面した名護屋の地に設営された本営(名護屋城)に諸大名の軍勢を集め、一挙に軍を進めていきました。
防備の整わない朝鮮に対して日本軍は釜山鎮と東莱府城を攻め落とし、さらに要衝蔚山(ウツザン)などを撃破して進撃を続けました。翌月には加藤清正と小西行長の舞台が首都漢城(ソウル)に突入し、さらに北上して小西行長隊は平壌をも占領下におきました。加藤清正隊はかん鏡道の北端まで軍を進め、こうして朝鮮半島の広い地域が日本軍に踏破されていきました。
国家軍が壊滅するなか、慶尚道など各地で儒者を中心として朱子学の義を奉じた義兵が立ち上がり、抵抗運動の先頭に立ちました。朝鮮政府の要請に応じて明の救援軍が駆けつけると日本軍は後退を始め、1593年初めには平壌から撤退していきました。このころになると朝鮮政府も陣容を建て直し、明軍と協力しながら反撃に転じます。
日本軍は1593年4月には漢城を引き上げて大部分が日本に撤兵し、いったん戦争は終結するに思われました。しかし、明の使節を招じて大坂で行われた講和交渉は失敗に終わり、秀吉は1597年、全国の大名に対して再度、朝鮮への侵攻を命令しました(慶長の役)。今回は朝鮮側の防衛体制も整い、明の救援軍も早くから投入されたうえ、日本軍自体に嫌戦気分も高かったため、戦闘は全土に広がらず、南部地方に留まりました。李舜臣(リシュンシン)の率いる朝鮮水軍が全羅道南部(半島西南)の海戦で大勝利をあげ、秀吉の死去したこともあって日本軍はさしたる戦果もあげないまま、ようやく1598年11月に完全撤退を完了しました。この足かけ七年にわたる戦争は朝鮮に大きな被害を与えました。土地が荒れ果てただけでなく、多くの人々が死傷しました。
捕虜として日本に連れ去られた人々も数万に上りました。そのなかには、多くの陶工が含まれており、佐賀県の有田など各地で陶磁器生産に従事して日本の陶磁器産業の基礎を築きました。また、松山に連れてこられた儒学者姜沆(きょうこう)がその学識によって日本の人々に大きな影響を与えるなど、この戦争によって朝鮮から日本に伝わったものは少なくありません。一方、戦争のさなか、王宮である景福宮などが焼失し、漢城は荒廃してしまいました。
清の侵入
救援に駆けつけた明の被害も甚大でした。多大な軍事費負担が圧力となって国力の衰退を招き、明軍が朝鮮半島に進駐している間に、北京の東北(現在の中国東北地方)では、女真人の勢力が台頭してきました。交通ルートの結節点を抑えていた女真人は交易によって多大の利潤を上げ、大きな軍事力も蓄えていました。ヌルハチは諸勢力を糾合して後金(のちの清)を建国して明に圧迫を加えてきました。後金は明と戦いながら朝鮮にも軍を進め、服属を迫ってきました。宣祖の後を継いだ光海君は、明と後金との間で慎重な外交政策をとっていましたが、1619年、今度は明の要請で参戦し、後金軍に大敗してしまいました。これ以後、光海君は後金との衝突を回避する政策をとるようになります。
1623年、光海君の後を継いだ仁祖は、明と協力しつつ後金と対決する方向へと政策を転換しました。1627年、後金軍が朝鮮半島に侵入してきましたが、和議が成立し、朝鮮と後金は兄弟関係を結ぶことで事態は沈静化しました。しかし、その後も朝鮮が明との協力関係を継続していたため、1636年、ホンタイジの率いる後金がこの年に国号を清と改め、大軍が再度攻撃してきました。漢城を占領され、抵抗した仁祖も翌年初めに降伏し、朝鮮は清の冊封を受ける臣属国となりました。また、ついに1644年、首都北京が清の攻撃で陥落し、300年近く続いた明王朝は崩壊してしまいました。
朝鮮の対外関係
16世紀末から17世紀前半にかけての戦乱が終息すると、朝鮮は中国・日本と平和で安定した関係を結びました。
朝鮮王朝は早くから、外交関係を重視していました。通訳養成所として司訳院を設置し、漢学(中国語)・倭学(日本語)・女真学(満州語)・蒙学(蒙古語)の教育が行われました。卒業生は合格すると訳官として政府に採用され、外交の第一線に立ちました。
朝鮮政府にとって最大の外交相手は柵封を受けた清で、1637年以来、歴代の国王は藩属国の君主として清皇帝から「朝鮮国王」に柵封され、元号も清皇帝の名を使っていました。漢城から燕京(北京)には毎年多くの朝貢使節が派遣され、その回数は500回ほどになります。国境の鴨緑江の江界には開市とよばれる交易場が設けられ、牛・毛皮・薬用人参などの取引が行われました。
豊臣秀吉の侵攻を受けた日本との関係は複雑です。朝鮮政府はとりたてて江戸幕府との交流を望んでいたわけではありませんでしたが、両国の間にあって古くから仲介貿易を経済基盤としてきた対馬の人々の多大な努力により、政治関係・経済関係とも戦前に復することになりました。1607年、宣祖は、徳川家康から送られてきたとされる手紙(国書)に対する回答の伝達と、戦乱のときに捕虜として日本に拉致された人々を調査して帰国させることを名目として、外交使節を派遣しました。のちに1631年、国書は対馬が偽造したものであることが判明し、大事件となりましたが、江戸幕府は対馬の責任を不問に付し、両国の関係は継続しました。1636年以降は、台頭の外交である「交隣」を取り結ぶために使節は「通信使」を称するようになりました。派遣された外交使節は、1811年の最終回までに約200年間で12回ありました。一方で、日本側の外交は対馬に委任されており、江戸幕府の外交使節は一度も漢城に派遣されることはありませんでした。
東莱に設けられた倭館には対馬の役人が常駐して交易を行っていました。倭館は広さ約10万坪、常駐する人員は400人以上にのぼりました。1609年、朝鮮政府は対馬の大名宗義智に交易権を認める権利を締結し、年間に往来する交易船の数などを規定して、この締結は1872年まで機能しました。朝鮮は薬用人参・米・木綿など、日本は銀・銅などを主要商品としており、その取扱高は長崎の出島貿易を凌駕するものでした。銀は中国に再輸出され、清の銀本位体制を支えるとともに、貿易の決済手段としても使われ、遠く西アジアからヨーロッパにまで運ばれていきました。
新たな時代の到来
18世紀末になると、北京経由で朝鮮にも天主教(カトリック)が入ってきました。正祖政権はこれを邪教として禁止し信者を弾圧しました。この政策は19世紀にも継続され、多くの殉教者が出ました。いよいよ朝鮮にも西洋との接触が本格化してきたのです。
正祖のあとを受けて1800年、純祖が第23代国王に即位します。わずか十歳で、政治の実権は母である正祖妃がにぎりました。純祖が15歳を過ぎて自立し、国王として動き始めたころ、母の父である老論時派に属する金祖淳が僻派を倒して主導権を握り、出身氏族である安東金氏一門が国王の外戚として政権の要職を占めていきました。このような政治形態を世道(勢道)政治といいます。純祖以降もあいついで王妃を出した安東金氏一門は権力の座を保持しました。
しかし、このような世道政治による権力集中に不満を募らせた地方有力者たちが、貧しさにあえぐ農民たちを巻き込んで、ついには1811年、平安道博川で政治に対決する反乱が起こりました。政府はこれを基盤を揺るがす重大事と受け止め、大軍を送って翌年壊滅させました。
これ以後も、さまざまな不満が暴動となって噴出してきます。漢城でも米価をつり上げた商人が襲われる事件が起きます。1862年、慶尚道晋州で起きた反乱は三南(忠清・全羅・慶尚)一帯に広がりました。この年の干支をとって壬戌民乱といいます。やがて済州島など各地に広がり、朝鮮は騒然としたなかで「開国」前夜を迎えていました。この動きは、さまざまな身分・職業をもつ人々が参加し、社会の矛盾とそれに根ざす不満が多様化していました。
社会変動と国家財政
日本・清軍の侵入をへて、17世紀の韓国朝鮮社会は深刻な状態にありました。農地が荒廃し、農民が死亡したり逃亡したりしてノン尊社会は大きな変動期を迎えていました。その影響を受けたのが、農業生産物からの税収に頼っていた政府の財政運営でした。それに加えて、戦乱による支配機構の混乱によって農地・農民の把握が困難となり、財政は危機的状況を迎えていました。
王朝創設以来、国家財政は、主として農民たちが生産物に賦課される田税で、大豆で収めるものでした。政府では税制改革が必要不可欠だと認識されるようになり、その第一歩が大同法の実施でした。邑ごとに収める貢納を、農地の広さに応じて定率制で米・銭を納入するようにしたもので、地代のようなものです。
しかし、建国以来はじめての大税制改革となる大同法は大きな抵抗があり、全国的に施行されるには100年という時間が必要でした。
経済の変動
水利施設の発達と農業技術の改良により、17世紀半ばには早くも戦乱の痛手から立ち直り、農業生産力は戦前の水準をこえはじめました。なかでも水稲耕作の発展が顕著で、田植え法が全国に広まり、南部の二毛作の普及とあいまって食糧供給が安定しました。綿花・麻・薬用人参・たばこなど商品作物の栽培も活発となり、それらを利用する農村手工業もおこって、綿布・麻布などが広く流通し、中国・日本にまで輸出される国際商品となりました。
大同法は漢城を中心とする流通経済に大きな刺激を与えましたが、農業発展も全国の商業に変化をもたらしました。地方住民が必要物資を入手する場として場市(市場)が各地に出現し、五日ごとに開かれる定期市になって、しだいに地域ごとにネットワークを形成していきました。
商品流通が活発化すると、交通の要衝や漢城には旅閣・客主とよばれる中間業者があらわれました。商品の委託販売や倉庫業をおこないながら、行商人などに宿泊施設も提供していました。貨幣もしだいに銅銭「常平通宝」が広く流通するようになり、貴金属の高額貨幣は、丁銀など、倭館貿易を通じて日本から流入した銀貨が流通しました。また大量の取引や遠隔地の取引には手形の一種である「於音」が用いられました。
常設店舗「市塵(してん)」は、漢城のほかに平壌、開城(ケソン)、水原(スウォン)のみにありました。漢城の市塵は、景福宮前の大路との交差点から東大門(トンデモン)までの両側と、一部は南大門(ナンデモン)に向かう幹線道路にも店舗を並べました。市塵はさまざまな国家義務を負担することを条件として認可を得て、特定商品を専売品として独占販売する権利を持つ商人組合でした。
身分と社会
人々は法律的には良民と賤民の二つに分けられ、良民男子は軍役など国家に対する義務を負担する一方、科挙受験の権利を持っていました。賤民の大部分は主人に所有される奴ひで、15世紀後半には良民を主人とする私奴ひが、全人口の80~90%を占めたという証言があるほど奴ひの人口が多かったのです。
伝統と歴史に根ざした序列があり、法的身分とも連動していました。地域によって違いがあるものの、おおむね最上位に士大夫の族として士族があり、以下、一般良民で官位・官職をもつ者、郷吏、一般良民、賤民という序列が成立していました。漢城には代々、科挙の雑科を通じて通訳・医師などの技術官僚となる家系の人々がおり、中人とよばれました。士族は、儒学を身につけることで立派な人物と認められ、科挙に合格し、官僚(両班)になって国家経営を担っていく母体と考えられていました。
人口の多くを占めていた一般良民(常民)は、賤民とともに農業などの生産活動を行っていました。良民と賤民の間の壁は低く、身分を超えて結婚する人々も多くありました。そのことが良民の数を急速に増大させていきました。
社会の変容
17世紀になると、急速に賤民数が減少して良民が増加します。18世紀になると、士族と同様に役を免除される人々が増加します。同じ父方祖先から出発したと考える人々(氏族)は強い血縁関係をもち、始祖の本拠地である本貫と、姓を同じくする意識が士族層以外の身分層にも広がり、18世紀末には、住民たちの大多数が本貫と姓をもつようになり、なかには族譜のなかに入り込んで士族の末裔を称する者まで出るようになります。人々は社会のなかで生き抜いていくため、自分の基盤を固めるつながりを模索して、氏族にたどりついたといえるでしょう。(例:金海金氏)
出典: 『韓国朝鮮の歴史と社会』東京大学教授 吉田 光男