岩倉使節団と征韓論 学校で教えてくれなかった近現代史(27)

東アジアが欧米列強に植民地化されていくなかにあって、日本が植民地化を免れたのは何故だろう。
江戸時代後期に、たびたび日本へ来航して鎖国を行う日本に通商や国交を求める諸外国に対し、江戸幕府は1859年(安政6年)に安政五カ国条約(アメリカ、ロシア、オランダ、イギリス、フランスとの通商条約)を結びました。五カ国条約は関税自主権が無く、領事裁判権を認めたほか、片務的最恵国待遇条款を承認する(一説には一般の日本人の海外渡航を認める気がなかった幕府側からの要請とする説もある)内容でしました。この条約が尊皇攘夷運動を活性化させることになり、これが討幕運動につながることになったのです。

岩倉使節団

1871(明治4)年、廃藩置県のあと、新政府として正式に条約締結国を訪問し、あわせて条約改正の予備交渉を行うために、全権大使岩倉具視を代表とする、大久保利通、木戸孝允らの使節団が、アメリカとヨーロッパに派遣されました。使節団は留学生を含め総勢110人からなっていました。
使節団は、2年近く欧米文化を実地に学び取った結果、欧米と日本との文明の進歩の差はおよそ40年と見積もるにいたりました。そして何よりも近代産業の確立(富国)を優先して欧米に追いつくべきだと考えるようになりました。

征韓論

こうした状況下の1873(明治6)年、明治政府は日本の開国のすすめを拒絶してきた朝鮮の態度を無礼だとして、氏族の間に、武力を背景に朝鮮を開国を迫る「征韓論」がわき起こってきました。明治政府首脳部で組織された岩倉使節団が欧米歴訪中に、武力で朝鮮を開国しようとする主張でした。ただし、征韓論の中心的人物であった西郷自身の主張は出兵ではなく開国を勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴く、むしろ「遣韓論」と言うべき考えであったとも言われています。

「征韓論」は、すでに18世紀末、仙台藩の林子平は海国兵談で海防論を説き、幕末には経済学者佐藤信淵は土地国有化と海外進出を行う絶対主義国家を論じ、国学や水戸学の一部や吉田松陰らの立場から、古代日本が朝鮮半島に支配権を持っていたと『古事記』・『日本書紀』に記述されていると唱えられており、こうしたことを論拠として朝鮮進出を唱え、尊王攘夷運動の政治的主張にも取り入れられました。

吉田松陰は幽囚録で蝦夷地開拓とともにカムチャッカ半島、朝鮮、台湾、満州等への侵略統治論を展開していました。それらの主張は、尊王攘夷運動と明治初期の薩長藩閥政府にも少なからぬ影響を与え、朝鮮との国交交渉が進展しない明治政府内で武力による開国を迫るいわゆる征韓論が台頭していました。

そもそも、維新後、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府発足の通告と国交を望む交渉を行いましたが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に朝鮮側にたびたび拒否されていました。朝鮮では国王の父の大院君が政を摂し、鎖国攘夷の策をとり、意気大いにあがっていました。
日本は、平和のうちにことをおさめようと努めたのですが、朝鮮は頑としてこれに応じることなく、1873(明治6)になってからは排日の風がますます強まっていました。ここに、日本国内において武力で朝鮮を開国しようとする征韓論が沸騰したのです。

政府の分裂と西南戦争

廃藩で失業した士族たちは、全国民に徴兵令が施行されていたので、武士の誇りを傷つけられたとして不満を高めていました。彼らが期待をかけたのは、その留守を守るために組織された留守政府の首脳であった西郷隆盛でした。

西郷は政府にあって近代国家をつくる改革を進めながらも、士族たちの精神も重要だと考え、彼らの社会的な役割と名誉を守ってやらなければならないと考えていました。西郷は自分が使節として朝鮮 に行くことを協力に主張し、板垣退助・江藤新平など参議も同意して、政府の決定を取り付けました。西郷自身は戦争覚悟の交渉によって朝鮮に門戸を開かせようと考えていました。西郷・板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによってなされた使節を朝鮮に派遣することを閣議決定しました。

しかし、当時西洋の政治を学ぶために欧米各国を視察していた岩倉使節団の岩倉具視・大久保利通達が、それを知って急いで同年9月に帰国しました。繁栄していた欧米列強を目の当たりにした、岩倉・大久保らをはじめ、太政大臣の三条実美は、まずは国力充実を図ることが先として、万が一朝鮮と交戦状態になれば、欧米の干渉を招くとし、本来の目的である東アジアの大同団結を損ねるのみならず莫大な戦費が必要となること等も鑑みこの決定に反対し、決定が取り消されました。

当時の日本には朝鮮や清、ひいてはロシアとの関係が険悪になる(その帰結として戦争を遂行する)だけの国力が備わっていないという戦略的判断、外遊組(岩倉使節団)との約束を無視し、危険な外交的博打に手を染めようとしている残留組(留守政府)に対する感情的反発、朝鮮半島問題よりも先に片付けるべき外交案件が存在するという日本の国際的立場(清との琉球帰属問題、ロシアとの樺太、千島列島の領有権問題、イギリスとの小笠原諸島領有権問題、不平等条約改正)などから猛烈に反対、費用の問題なども絡めて征韓の不利を説き延期を訴えました。
これを明治六年政変(征韓論政変)といいます。これに怒った西郷と板垣退助、江藤新平ら、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞しました。これが1874年の佐賀の乱から1877年の西南戦争に至る不平士族の乱や自由民権運動の起点となりました。
また大久保達はこれ以降、政治の実権を握る事になったが、いわゆる「征韓論」に対しては大久保らも、交渉決裂に際して朝鮮半島での武力行使の方針自体には反対ではありませんでした。
1876(明治9)年、政府は旧藩に肩代わりして士族に給付していた禄を、一時金の給付と引き替えにうち切りました(秩禄処分)。これを不満とした各地の士族が、政府に反対する兵を挙げましたが、次々に鎮圧されました。
西郷は鹿児島に帰って私学校を開いていましたが、不満を持つ全国の士族たちは西郷を指導者として兵を挙げましたが、徴兵された平民からなる政府軍に敗れました(西南戦争)。
これ以降、士族たちの武力による抵抗はあとを絶ちました。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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近隣諸国との国境画定 学校で教えてくれなかった近現代史(25)

近隣諸国との国境は、どのようにして画定していったのでしょうか。

北方の領土画定


画像:『日本人の歴史教科書』自由社

明治維新を成し遂げ、近代国民国家の建設をめざす日本は、近隣諸国との間の国境を定める必要がありました。国境を画定しなければ、住民の生命や財産を保証したり、国民としての平等な権利を住民に与えたりする範囲を明確に定めることができないからです。

北方の樺太(サハリン)および千島列島にはアイヌ民族が住んでいました。間宮林蔵の探検以来、日本人が居住していました。その後、ロシア人が移住を始め、ロシアは樺太が日本人とロシア人の雑居の地であると日本人に認めさせました。両者の間では紛争がたびたび起こりました

江戸時代は北海道を指す「蝦夷地」に対して、「北蝦夷」と呼ばれていました。のちに明治政府が北海道開拓使を設置するにあたり、北蝦夷地を樺太と改称、日本語に樺太の地名が定着しました。

1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。

イギリスは、もし日本がロシアと戦争すれば、樺太はおろか北海道まで奪われるだろうと明治政府に警告してきました。新政府はロシアとの衝突を避けるために、 1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。

その他の記録

1700年(元禄13年) – 松前藩は千島列島に居住するアイヌの戸籍(松前島郷帳)を作成し、幕府に提出 この郷帳には北海道からカムチャツカ半島までが記載されている。
1711年 – ロシアの囚人兵らがカムチャツカ半島から千島列島に侵攻 占守島ではアイヌとの交戦があったが、やがて降伏した。1713年には幌筵島が占領された。
1750年代 – ロシア人が得撫島に度々現れ、さらには北海道・霧多布にまで現れ交易を求める ロシア人の所持していた地図には国後島までがロシアの色で塗られ、これに対し松前藩の役人は抗議している。
1754年(宝暦4年) – 松前藩は国後場所を開き、国後島を直轄した
1766年(明和3年) – ロシア人が得撫島に居住を始め、現地のアイヌを使役しラッコ猟を行うようになる
1770年(明和7年) – 択捉島のアイヌがロシア人の目を避けて得撫島沖でラッコ猟を行っていたところをロシア人に発見され、逃亡したアイヌが襲撃される事件が起きる
1771年(明和8年) – アイヌが得撫島のロシア人を襲撃し、同島から追い出す 同年にはハンガリー人のアウリツィウス・アウグスト・ベニヨフスキーがロシア帝国による千島列島南下(南下政策)を警告、次第に幕府や学者は「北方」に対する国防を唱えるようになる
1786年(天明6年) – 幕府が最上徳内を派遣し、調査を実施
1798年(寛政10年) – 幕府による北方視察が大規模に実施された
1801年(享和元年) – 富山元十郎と深山宇平太を得撫島に派遣し、領有宣言を意味する「天長地久大日本属島」の標柱を建てる。 この頃、蝦夷地の経営を強化していた日本とロシアの間で、樺太とともに国境画定が問題化してくる。得撫島には既に17人のロシア人が居住していたが、幕府は積極的な退去政策を行わなかった。
1855(安政元)年、日本とロシア帝国は日露和親条約(下田条約)を結び、択捉島と得撫島の間を国境線とした。樺太については国境を定めることが出来ず、日露混住の地とされました。
1856(安政2)年にクリミア戦争が終結すると、ロシアの樺太開発が本格化し、日露の紛争が頻発するようになった。箱館奉行小出秀実は、樺太での国境画定が急務と考え、北緯48度を国境とすること、あるいは、ウルップ島からオネコタン島までの千島列島と交換に樺太をロシア領とすることを建言した。幕府は小出の建言等により、ほぼ北緯48度にある久春内(現:イリンスキー)で国境を確定することとし、
1867年石川利政・小出秀実をペテルブルグに派遣し、樺太国境確定交渉を行った。しかし、樺太国境画定は不調に終り、樺太は是迄通りとされた(日露間樺太島仮規則)。
1869(明治2)年、蝦夷地を北海道と改称。このとき国後島・択捉島の行政区分をあわせて「千島国」とし五郡を置いた。国後島・択捉島などいわゆる4島は北海道の一部としており、千島列島はウルップ島以北であるからである。
1874(明治7)年3月、樺太全島をロシア領とし、その代わりにウルップ島以北の諸島を日本が領有することなど、樺太放棄論に基づく訓令を携えて、特命全権大使榎本武揚はサンクトペテルブルクに赴いた。榎本とスツレモーホフ(Stremoukhov)ロシア外務省アジア局長、アレクサンドル・ゴルチャコフロシア外相との間で交渉が進められた。
1875(明治8)年5月7日に日本とロシア帝国との間で「樺太・千島交換条約」を結び、国境を確定しました。その内容は、日本が樺太の全土をロシアに譲り、そのかわりに千島列島(クリル諸島)を日本領にするものでした。
太平洋方面では、小笠原諸島を日本領とし、1876(明治9)年、各国の承認を得ました。すでに英国船がここにも英国旗を立てていましたが、アメリカが反対し日本領となりました。

台湾出兵と琉球

日本は清との国交樹立のため、1871(明治4)年、日清修好条約を結びました。これは、国際法の原理に基づく、領国対等の関係を定めた条約でした。
同年、琉球の宮古島の島民66人が宮古島から首里へ年貢を輸送し、帰途についた琉球御用船が台風による暴風で遭難、台湾に漂着し、54人が殺害される事件が起きました。当時、琉球は日本と清の両方に従属していました。日本は清国に対して事件の賠償などを求めますが、清国政府は「化外の民(管轄外)」として拒否しました。こうなると外交交渉の経験が少なく、国際慣習を知らない明治政府はどうしようもなく、事件はその後3年間も放置されることとなってしまいました。

そこで日本政府は、台湾の住民を罰するのは日本の義務であるとして、1874(明治7)年、長官に大隈重信、陸軍中将の西郷従道を事務局長に任命して全権が与えられました。政府内部やイギリス公使パークスやアメリカなどからは出兵への反対意見もあった。特に木戸孝允は征韓論を否定しておきながら、同じ海外である台湾に出兵するのは矛盾であるとして反対の態度を崩さず、4月18日参議の辞表を提出して下野してしまいました。そのため、政府は一旦は派兵の延期を決定するが、長崎に待機していた西郷率いる征討軍3000名(薩摩藩・藩士編成をした政府軍)はこれを無視して出兵を決断(台湾出兵)、5月2日に西郷の命を受けた谷干城・赤松則良が率いる主力軍が、江戸幕府から引き継いだ小さな軍艦2隻で長崎を出航すると政府もこれを追認、5月6日に台湾南部に上陸すると台湾先住民と小競り合いを行う。5月22日に西郷の命令を受けて本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を制圧して現地の占領を続けました。

この衝突は、近代国民国家の観念をまだ十分に理解していない清と、日本の考え方の違いから起こった事件でした。清との協議の結果、問題は解決しましたが、清はこれにより、琉球島民を日本国民と認めました。翌1875年琉球に対し、清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
1879年、琉球を日本領土とし、沖縄県を設置しました(琉球処分)が、それに反対する清との1880年北京での交渉において日本は沖縄本島を日本領とし八重山諸島と宮古島を中国領とする案(分島改約案)を提示したが、清は元来二島の領有は望まず、冊封関係維持のため二島を琉球に返還し琉球王国再興を求めており、分島にたいする琉球人の反対もあり清は調印に至らなかった。 このため、帰属問題が解決したのは日清戦争で日本が勝利した後のことでした。
日本はこうして、近隣諸国との間の国境をほぼ画定させることに成功しました。

引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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逃げの小五郎 学校で教えてくれなかった近現代史(16)

禁門の変(蛤御門の変)

蛤御門の銃弾跡

「禁門」とは「禁裏の御門」の略した呼び方です。蛤御門(はまぐりごもん)の名前の由来は、天明の大火(1788年1月30日)の際、それまで閉じられていた門が初めて開門されたので、焼けて口を開ける蛤に例えられた為です。蛤御門は現在の京都御苑の西側に位置し、天明の大火以前は新在家御門と呼ばれていました。
尊皇攘夷論を掲げて京都での政局に関わっていた長州藩は、1863年(文久3年)に会津藩と薩摩藩が協力した八月十八日の政変(七卿落ち)で京都を追放されていました。7月18日、長州藩の攻撃が始まったころ、河原町の長州藩邸は加賀藩によって包囲されていました。しかし、加賀兵が踏み込んだとき、そこの桂小五郎の姿はありませんでした。桂はすでに対馬藩邸に逃れていました。

同日夜、対馬藩が長州藩の同情藩として断定され、幕軍が藩邸を取り巻き始めたため、御池通りを西へ油小路を北に向かい御所の西にある因幡藩邸へ向かいました。伏見方面で砲声が轟き、幕府対長州の激闘が始まりました。その中を因幡藩邸へ向かいました。
因幡藩邸に潜んでいると、夜明け前になって御所の中立売御門を目指して進軍する長州軍の一隊が藩邸前を通っていきました。それに遅れて桂は堺町御門向けて出ていきました。鷹司邸が炎上し長州軍は敗走します。その混乱の中、桂は朔平門(ざくへいもん)当たりへと戦場を見察して回りました。この戦いで鷹司邸に発した火災は、河原町の長州藩邸の出火とともに、三日間に及ぶ大火の原因となりました。

京都御所 蛤御門 2009/1/28

夜陰に乗じて、桂は天王山へ向かいますが、伏見付近に至ったとき、天王山へ退いていた長州軍の総指揮官であった真木和泉らが自決し、兵が四散したことを聞き京の町へ引き返しました。
7月19日午前七時頃、御所へ到着 長州藩は天皇の側近だった三条実美(さねとみ)らの公卿とともに、幕府を倒し、天皇による政治を復活させる企て(王政復古)を着々と進めていました。この勢力はかなり大きな流れとなり、幕府の存在を脅かすようになりました。これに対して巻き返しを図りたい公武合体派の会津藩と薩摩藩は密かに兵を集め、文久三年(1863)八月十八日、武力によるクーデターを起こしました。これを「八・十八の政変」といいます。

堺町御門

公武合体派は御所を囲む兵を集め、長州藩の堺町御門警備を解任し、京都からの退出を命じ、関与した公卿と長州へ向かいました(七卿落ち)。
長州藩(山口県)は公武合体に敗れ京都から退去、さらに池田屋事件をきっかけに元治元年(1864年)7月に起こった蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)に敗れ、小五郎は幕府に追われる身となってしまうのです。

小五郎と幾松

京都には彼を捨て身で守った幾松という女性がいました。幾松はひいき芸者の一人でした。三条大橋の下に隠れながら幾松が差し入れに食事を運んだ話もあります。
この政変によって長州藩兵が内裏や禁裏に向けて発砲した事等を理由に幕府は長州藩を朝敵として、第一次長州征伐を行うことになります。戦闘の後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走、会津勢も長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃した。この二箇所から上がった火で京都市街は「どんどん焼け」と呼ばれる大火に見舞われ、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。
このとき小五郎は、藩主と三条実美らの復権を求めて活動し、再び天皇に忠義を尽くしたいと何度も願い出ましたがそれが聞き入れられることはありませんでした。しかしこれもかなわず、燃える鷹司邸を背に一人獅子奮迅の戦いで切り抜け、三本木の吉田屋という料亭で桂小五郎と逢瀬を重ねていた幾松や対馬藩士大島友之允の助けを借りながら潜伏していました。しかし、会津藩などによる長州藩士の残党狩りが盛んになって京都での潜伏生活すら無理と分かってくると、三条大橋下に潜伏したり商人・広戸甚助の手引きで京を脱出し但馬出石に潜伏します。
一方、会津藩をはじめとする公武合体派は、京から尊壤派の志士たちを徹底的に排除しようと、新選組や見廻組を使って浪士狩りを行いました。ちなみに新選組は、この八・一八の政変の時に出陣し堺町御門の警備に当たった時に京都守護職松平容保から「新選組」という名前をもらい、正式に市中取締りの任に就きました。禁門の変では御所を囲むようにして幕府軍に北から備前藩・因幡藩・出石藩、東には尾張藩・篠山藩・桑名藩・見廻組・大垣藩・彦根藩、淀に宮津藩、丹波口には亀山(亀岡)藩、小浜藩、南は園部藩・鯖江藩、禁裏(御所)薩摩藩・筑前藩・会津藩・桑名藩などが布陣していました。

参考資料:京都時代MAP 幕末・維新編 光村推古書院
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日本海軍誕生 学校で教えてくれなかった近現代史(14)

尊攘派の蹉跌

この頃、京都へ尊王攘夷派の志士が集い、「天誅」と称して反対派を暗殺するなど、治安が極端に悪化。尊攘派の擡頭により朝廷・幕府政治の混乱が起きていることを憂えた孝明天皇の意をくみ、中川宮朝彦親王は極秘に会津藩・薩摩藩に長州藩の追放を命ずる。文久3年8月18日、宮廷の御門を制圧した会津・薩摩は、長州藩兵および三条ら7人の公卿を長州への撤退させるクーデタを決行し(八月十八日の政変、七卿落ち)、長州藩系の尊攘勢力の一掃に成功しました。

いっぽう幕権強化・雄藩連合などの様々な思惑を孕みつつ、文久3年12月に徳川慶喜・松平春嶽・松平容保・伊達宗城(宇和島藩主)・島津久光による参預会議が開催され、神奈川鎖港談判、長州藩の処置、大坂港の防備強化などの議題が話し合われましたが、将軍後見職の徳川慶喜の非協力的態度に春嶽・久光らが反撥して帰国したため、早くも翌年3月には崩壊。参預会議体制はわずか数ヶ月しか持ちませんでした。この後、朝廷から禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮に任ぜられた慶喜は、京都守護職松平容保(会津藩主)・京都所司代松平定敬(桑名藩主)兄弟らとともに、江戸の幕閣から半ば独立した動きをみせることとなります(一会桑体制)。

この頃、各地で尊攘過激派による実力行使の動きが見られたが、いずれも失敗に終わっています。文久3年(1863年)8月大和では公卿中山忠光、吉村寅太郎・池内蔵太(土佐藩士)、松本奎堂(三河刈谷藩士)、藤本鉄石(岡山藩士)、さらには河内の大地主水郡善之祐らも加わった天誅組の変が勃発し、続いて但馬では沢宣嘉(前年京都から追放された七卿の一人)・平野国臣(福岡藩士)らによる生野の変が連鎖的に発生しました。これらの事件は倒幕を目的とした最初の軍事的行動として、後世から見た歴史的な意味は大きいものの、この時点では無残な結末となりました。また土佐藩では武市瑞山が率いる土佐勤王党(前年に藩執政吉田東洋を暗殺)が弾圧され尊攘勢力は次第に後退していきました。さらに水戸藩では元治元年(1864年)3月、藤田小四郎・武田耕雲斎ら天狗党が筑波山で挙兵。水戸藩の要請を受けた幕府軍の追撃により壊滅させられる事件も発生しました(→天狗党の乱)。

このような状況下、前年の八月十八日の政変以降影響力を減退していた尊王攘夷派の中心・長州藩では、京都への進発論が沸騰。折から京都治安維持に当たっていた会津藩預かりの新撰組が、池田屋事件で長州藩など尊攘派の志士数人を殺害したため、火に油を注ぐこととなり、ついに長州藩兵は上京します。京都守備に当たっていた幕府や会津・薩摩軍と激突し、御所周辺を巻き込んだ合戦が行われました(→禁門の変)。この戦で、一敗地にまみれた長州藩は逆賊となり京から追放され、幕府から征伐軍が派遣されることとなります。さらに同じ頃、前年の下関における外国船砲撃の報復として、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ4国の極東艦隊が連合して下関を攻撃。装備に劣る長州はここでも敗れ、長州藩は窮地に陥りました(四国艦隊下関砲撃事件)。

[*1]…一会桑政権(いちかいそうせいけん)は、幕末の政治動向の中心地京都において、禁裏御守衛総督兼摂海防禦指揮・一橋慶喜、京都守護職・松平容保(会津藩主)、京都所司代・松平定敬(桑名藩主)三者により構成された体制。

[*2]…天狗党の乱(てんぐとうのらん)とは、1864年5月2日(元治元年3月27日)に起きた、水戸藩士藤田小四郎ら尊皇攘夷過激派による筑波山での挙兵と、その後これに関連して各地で発生した争乱のことである(1865年1月14日(元治元年12月17日)に主導者投降)。武士階級以外の階層や水戸藩領以外からも多くの参加があり、行軍中に政治的な宣伝も行った。

勝海舟

嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航(いわゆる黒船来航)し開国を要求されると、老中首座の阿部正弘は幕府の決断のみで鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を幕臣はもとより、諸大名、町人から任侠の徒にいたるまで広く募集した。これに勝も海防意見書を提出した。勝の意見書は阿部正弘の目にとまることとなる。そして幕府海防掛だった大久保忠寛(一翁)の知遇を得たことから念願の役入りを果たし、勝は自ら人生の運をつかむことができた。 その後、長崎の海軍伝習所に入門した。伝習所ではオランダ語がよく出来たため教監も兼ね、伝習生と教官の連絡役も果たした。長崎に赴任してから数週間で聞き取りもできるようになったと本人が語っている。そのためか、引継ぎの役割から第一期から三期まで足掛け5年間を長崎で過ごします。この時期に当時の薩摩藩主島津斉彬の知遇をも得ており、後の海舟の行動に大きな影響を与えることとなります。

万延元年(1860年)、咸臨丸で太平洋を横断しアメリカ・サンフランシスコへ渡航しました。旅程は37日で、木村摂津守が軍艦奉行並となり、勝は遣米使節の補充員として乗船しました。米海軍からは測量船フェニモア・クーパー号船長のジョン・ブルック大尉が同乗しました。通訳ジョン万次郎、木村の従者福澤諭吉も乗り込んだ。咸臨丸の航海を、勝も福澤も「日本人の手で成し遂げた壮挙」と自讃していますが、実際には日本人乗組員は船酔いのためにほとんど役に立たず、ブルックらがいなければ渡米できなかったという説があります。福澤の『福翁自伝』には木村が「艦長」、勝は「指揮官」と書かれていますが、実際にそのような役職はなく、木村は「軍艦奉行並」、勝は「教授方取り扱い」という立場でした。しかし、アメリカから日本へ帰国する際は、勝ら日本人の手だけで帰国することができました。

勝海舟は、維新後も勝は旧幕臣の代表格として外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任、伯爵を叙されました。徳川慶喜とは、幕末の混乱期には何度も意見が対立し、存在自体を疎まれていたが、その慶喜を明治政府に赦免させることに晩年の人生の全てを捧げました。その他にも旧幕臣の就労先の世話や資金援助、生活保護など、幕府崩壊による混乱や反乱を最小限に抑える努力を新政府の爵位権限と人脈を最大限に利用して維新直後から30余年にわたって続けた。幕末には寒村でしかなかった横浜に旧幕臣を約10万人送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に約8万人もの旧幕臣を送り込んで静岡の茶の生産を全国一位に押し上げ、名産としている。こうした努力から、新政府側の中心的役割を担った薩摩藩でさえも旧士族が反乱を起こし西南戦争という大規模な内戦にまで拡大したのに比べ、徳川幕府の旧家臣がこれといった反乱を起こさずに職業の転換を実現しているのは勝の功績です。

勝は日本海軍の生みの親とも言うべき人物でありながら、海軍がその真価を初めて見せた日清戦争には始終反対し続けました。連合艦隊司令長官の伊東祐亨や清国の北洋艦隊司令長官・丁汝昌は、勝の弟子とでもいうべき人物であり、丁が敗戦後に責任をとって自害した際は勝は堂々と敵将である丁の追悼文を新聞に寄稿している。勝は戦勝気運に盛りあがる人々に、安直な欧米の植民地政策追従の愚かさや、中国大陸の大きさと中国という国の有り様(ありよう)を説き、卑下したり争う相手ではなく、むしろ共闘して欧米に対抗すべきだと主張した。三国干渉などで追い詰められる日本の情勢も海舟は事前に周囲に漏らしており予見の範囲だった。李鴻章とも知り合いであり、「政府のやることなんてぇのは実に小さい話だ」と後述している。

明治元年(1868年)、官軍の東征が始まると対応可能な適任者がいなかった幕府は勝を呼び戻し、徳川家の家職である陸軍総裁として、後に軍事総裁として全権を委任され旧幕府方を代表する役割を担う。官軍が駿府城にまで迫ると幕府側についたフランスの思惑も手伝って徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城の無血開城を主張、ここに歴史的な和平交渉が始まる。

神戸海軍操練所

勝は帰国後、蕃書調所頭取・講武所砲術師範等を回っていたが、文久2年(1862年)の幕政改革で海軍に復帰し、軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任。神戸は、碇が砂に噛みやすく、水深が比較的深いので大きな船も入れる天然の良港であるから、神戸港を日本の中枢港湾(欧米との貿易拠点)にすべしとの提案を、大阪湾巡回を案内しつつ14代将軍徳川家茂にしている[11]。 勝は神戸に海軍塾を作り、薩摩や土佐の荒くれ者や脱藩者が塾生となり出入りしたが、勝は官僚らしくない闊達さで彼らを受け容れた[12]。さらに、神戸海軍操練所も設立している。 後に神戸は東洋最大の港湾へと発展していくが、それを見越していた勝は付近の住民に土地の買占めを勧めたりもしている。勝自身も土地を買っていたが、後に幕府に取り上げられてしまっている。 勝は「一大共有の海局」を掲げ、幕府の海軍ではない「日本の海軍」建設を目指すが、保守派から睨まれて軍艦奉行を罷免され、約2年の蟄居生活を送る。勝はこうした蟄居生活の際に多くの書物を読んだと言う。操練所よりも先に開設された神戸海軍塾の塾頭をつとめたのが勝の師弟、坂本龍馬です。

勝が西郷隆盛と初めて会ったのはこの時期、元治元年(1864年)9月11日、大阪においてである。神戸港開港延期を西郷はしきりに心配し、それに対する策を勝が語ったという。西郷は勝を賞賛する書状を大久保利通宛に送っている。

慶応2年(1866年)、軍艦奉行に復帰、徳川慶喜に第二次長州征伐の停戦交渉を任される。勝は単身宮島の談判に臨み長州の説得に成功したが、慶喜は停戦の勅命引き出しに成功し、勝がまとめた和議を台無しにしてしまった。勝は時間稼ぎに利用され、主君に裏切られたのである。憤慨した勝は御役御免を願い出て江戸に帰ってしまう。

参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
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アジア植民地化の危機 学校で教えてくれなかった近現代史(12)

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「強圧的な手段」である軍事力と植民地化の危機をめぐっては、近代史研究者の間で長い論争が繰り広げられてきましたが、近年のイギリス側からの実態研究では、60~70年代にイギリスの軍事費は抑制され、アジアを植民地化するだけの軍事力は保有していなかったことが指摘されています。イギリス極東艦隊は、香港を根拠地に、商業的権益を擁護するため、東南アジアの海賊の取り締まりや、中国や日本の沿岸の海上警備にあたっていましたが、65年の39隻から74年の20隻へと急速に削減されていきました。こうした点から、「東アジアにおけるイギリスの軍事力は居留地防衛以上に出るものではなく、少なくとも東アジアに関する限り植民地化を可能にする条件はなかった」とする指摘もあります。

しかし、「居留地防衛」程度の軍事力という評価は、歴史的にみて過小評価なのではないでしょうか。63年八月の薩英戦争や64年九月の四国艦隊下関砲撃事件(馬関戦争)、さらに65年11月に四国代表が、兵庫開港・条約勅許を求めて連合艦隊を兵庫沖に派遣したことなど、列強の軍事力は、まさにオールコックのいう「強圧的な手段」として、常に国内政局への政治的圧力となっていたのですが、では、植民地化の危機があったのかといえば、列強の軍事力は、あくまでも自由貿易を維持させるための軍事力であり、それ以上のものではありませんでした。逆にいえば、東アジアにおいて自由貿易が維持されている限りにおいて、列強は、現地の政権となるべく円滑な関係を維持しようとしていたのです。列強は不平等条約維持のための軍事力はなるべく協調して実施しています。それは列強の共通利益であり、日本市場の独占=植民地化への志向を読みとることは困難でしょう。

オールコックは、日本との条約はロシアの南下とロシアによる日本の植民地化を防止する外交上の機能を果たしている、と主張しています。条約は「少しも経費を要せずして艦隊や軍隊の代わりをつとめるひとつの力」であり、これがある限り日本を「我々の同意なしに征服したり併合したりすることは困難であろう」といっています。欧米列強との条約締結は、欧米が、日本や中国を主権国家として認めたということであり、条約の内容が不平等であるにせよ、近代国際法のルールでは、簡単に植民地化することができない、ということを意味するのです。

交通革命の時代

汽船と電信という技術革新を背景に、交通・情報ネットワークが一変して世界が交通革命の時代を迎えたのは1860年代末のことでした。

汽船は、1850年代にスクリューの開発、60年代には二段膨張エンジンの実用化、70年代には三連成機関の登場によって、航続距離の延長、船舶の大型化、高速化など飛躍的に高校性能を上昇させ、1870年代以降それまでの海上交通の担い手であった帆船を駆逐していきました。

1867年には、ペリーが開拓した太平洋横断行路が、太平洋郵船というアメリカの汽船会社によって実現しました。ついで1869年には、スエズ運河の開通、アメリカ横断鉄道の開通という、世界の交通網を一変させる事件が相次いで起きました。

新たな交通網の形成により、1869年にはロンドン・横浜間の移動日数は、スエズ運河経由の東回りルートで54日、太平洋経由の西回りルートで33日となりました。まさに「八十日間世界一周」が実現することになったのです。ジュール・ベルヌがこの小説を書いたのは1873年です。イギリスの旅行業者のトマス・クックは1872年に西回りでの世界一周ツアーを実施し、1871年、日本の岩倉具視使節団は東回りで欧米回覧の旅(実際は不平等条約)に出ています。

また、海底電信の敷設は、変動するヨーロッパの商況を早くしかも的確に把握することを可能にし、アジア貿易のリスクを大幅に減らしました。幕末期、セイロン以東には電信網は通じておらず、本国政府からの指令や日本からの情報は船で運ばれていました。1869年にスエズ運河が開通するまで、往復には四~五ヶ月かかっていたのです。電信線がデンマーク系の会社によりシベリア経由で長崎に延長敷設されるのは、1871年です。電信線は同年上海・香港へとつながれ、香港で、地中海・インド洋を経由して敷設された英国系会社の海底電線と接続されました。ヨーロッパと横浜や東京が電信でつながるのは73年のことです。

アジアの開港場に各国の植民地銀行が支店を開設して貿易金融を開始したため、資金力の弱い勝者にも貿易取引に参加する機会を拡大しました。不平等条約が締結された1850年代末とは比較にならないほど、経済的結びつきは拡大し、強固なものになっていきました。

そのネットワークの中心に位置したのが、香港、上海、横浜の三つの開港場でした。植民地金融、商業の拠点であり、定期海運網の基地であると同時に、通信・情報(海底電信網、外字新聞、領事館)のセンターでもありました。欧米の東アジア経営を支える貿易・流通機能の集中点としての三港体制は、定期汽船航路が拡充された1860年代に入って形成され、交通革命を迎えた1870年代に急速に整備されていいたのです。

こうして欧米によって形成された東アジアの国際的ネットワークは、欧米との経済関係のみならず、アジア相互の経済関係においても実権を握りました。しかし、1880年代にかけて、アジア相互の条約体制が整備されていくにつれ、アジア相互の直接貿易が発展し、朝貢(ちょうこう)貿易システムにかわる自由貿易状況が形成されると、貿易ネットワークは三港を中心としつつもその他の開港場相互のネットワークの拡充によって急速に多元化していきました。また、80年代における東アジア域内市場の拡大は、欧亜間貿易を独占していた欧米資本の地位を低下させていきました。その結果、アジアの海は、次第にアジア商人の手に握られるようになっていくのです。

上海・香港・横浜の三港は、いずれも在来の都市をなるべく避けて、現地との衝突を起こさない場所を選んで建設されました。たとえば、香港では、中国人には利用価値のない不毛の島と呼ばれた香港島を獲得し、港湾都市を建設して、やがてアジア最大の貿易都市へと発展させました。

日本では当初の開港場は神奈川とされていましたが、幕府はここを避けて当時の小さな漁村である横浜村を開港場に指定しました。ここに外国人の居留地を建設しても問題は少ないと考えたのです。列強は当初は異論を唱えましたが、商人たちは次々と横浜に進出したため、開港場として認め、やがて日本最大の貿易港へと発展したのです。

とはいえ、この三港は、ヨーロッパから東回りでも西回りでも終着点であったため、列強の複雑な利害関係が絡み合っていました。そのことが三港の性格の違いを生じさせたのです。

香港はイギリスのネットワークの拠点

香港は、南京条約でイギリスに割譲されたイギリスの植民地であり、イギリスの世界海運ネットワークの終結点でした。英国(頭脳)、インド(胴体)、シンガポール(肘:ひじ)、香港(手首)、上海・横浜(指)というたとえがありますが、まさに香港は、東アジアへの入口であり、アジア経営の要でした。

香港には、香港総督・全権大使・貿易監督官が設置され、イギリス海軍の極東艦隊が置かれていました。軍事的・外向的基地としての役割が重視されていたため、香港財政の構造は土地、アヘン、酒類ライセンス収入が主であり、支出の第一は人件費でした。

香港は、軍事基地およびイギリス国内法の保護を要する金融の中心でしたが、地代が高い、総督の東征が厳しい、後背地が狭い、貿易の可能性が少ない、などのデメリットから、住みにくい(上海との気候の違い、病死が多い)という欠点がありました。そのため初期には貿易商から嫌われていました。

上海はどちら回りでも終着点

香港(植民地)がアジア経営の政治的、軍事的センターであったのに対して、上海(居留地)は中国側の開港場であり、欧米の共同租界が設置され、租界の経営には列強が共同してあたりました。上海は東回り、西回りのどちらでもアジアの終着点であり、その先には長江や大運河を通じて広大な中国内陸都市が広がっていました。香港が欧亜間貿易の中継点であるのに対して、上海は内陸市場と外国貿易を結合する中国の経済ネットワークの拠点であったのと同時に、アジア域内最大の貿易・海運・布教の拠点でもありました。両者は分業関係が成立していました。

また、私見ですが、上海は長江の支流に位置しています。ロンドンもテームズ川を少し入った港でありよく似ています。

横浜は太平洋ネットワークの拠点

一方横浜は、西回りルートにおける東アジアの入口であり、その意味では、アメリカの東アジア戦略の拠点としての性格を有していました。イギリスにとって、横浜は最終点であり、香港・上海に比べればその地位は相対的に低かったというべきでしょう。アメリカは南北戦争によって一時的に後退したものの、1870年代には再び対日外交を積極化させて、英仏のアジア経営に対抗していきます。

参考文献:「近代日本と国際社会」放送大学客員教授・お茶の水女子大学大学院教授 小風 秀雅
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開国と不平等条約 学校で教えてくれなかった近現代史(11)

ペリー来航

約200年にわたり平和と安定を楽しんでいた鎖国下の日本の門を叩いたのは、アメリカでした。1853(嘉永6)年6月、4隻の巨大な軍艦(黒船)が、江戸湾の入口に近い浦賀(神奈川県)の沖合に姿を現しました。軍艦には計100門近くの大砲が積まれていました。率いるのはアメリカ海軍提督ペリーで、日本に開国と通商を求める大統領の国書を携えていました。4隻の巨大な黒船はいきなり太平洋航路から来航したのではありませんでした。

1852年11月24日、58歳のマシュー・カルブレース・ペリー(Matthew Calbraith Perry)司令長官兼遣日大使を乗せた巡洋艦「ミシシッピー」を旗艦とする東インド艦隊は、一路アジアへと向かいました。ペリーはタカ派のフィルモア大統領(ホイッグ党)から、琉球の占領もやむなしと言われていました。艦隊は大西洋を渡って、インド洋、マラッカ海峡からシンガポール、マカオ、香港を経て、上海に5月4日に到着しました。このとき、すでに大統領は民主党のピアースに変わっていて、彼の下でドッピン長官は侵略目的の武力行使を禁止しましたが、航海途上のペリーには届いていなかったのです。

上海で巡洋艦「サスケハナ」に旗艦を移したペリー艦隊は5月17日に出航し、5月26日に琉球王国(薩摩藩影響下にある)の那覇沖に停泊しました。最初はペリーの謁見を拒否しましたが、王国は仕方なく、武具の持込と兵の入城だけは拒否するとして、ペリーは武装解除した士官数名と共に入城しました。しかし、王国が用意したもてなしは、来客への慣例として行ったものに過ぎず、清からの冊封使に対するもてなしよりも下位の料理を出すことで、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していました。王国はこの後もペリーの日本への中継点として活用されました。

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言しましたが、即座に英国から抗議を受け、ロシア船も抗議の為に小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになりました。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、八丈島住民などを積極的に移住させることで、列強から領有権を承認されることになります。

ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に3隻を率いて日本へ出航しました。1853年6月3日(7月8日)に江戸湾浦賀に来航しました。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、煙突からはもうもうと煙を上げていました。その様子から、日本人は「黒船」と呼びました。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」(両船は蒸気外輪)、「サラトガ」、「プリマス」両船は帆船)の巡洋艦四隻は、臨戦態勢をとりながら、勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。無論、日本を脅す為に意図的に行ったものであり、最初の砲撃によって江戸は大混乱となりましたが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んでいたようです。このときの様子は「太平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も寝られず」(蒸気船と茶の上喜撰、4隻を4杯、茶で眠れなくなる様子を、黒船の騒ぎとかけた皮肉)という狂歌に詠まれています。

嘉永7年1月(1854年)、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。

ペリー来航

ペリーが去ったあと、老中阿部正弘は、半年後にやってくるペリーへの解答に頭を悩ませていました。最も単純なやり方は、要求を拒否し、外国船を武力で打ち払う攘夷を行うことでした。しかし、軍事力の乏しい幕府では実際に攘夷を行うことは不可能でした。

阿部正弘は幕府だけで方針を決めるよりも、すべての大名の意見を聞いて国論を統一しようと考えました。外交について外様大名はまったく発言の機会を許されていなかったので、これは画期的なことでした。しかし、大名の意見の中にも名案はありませんでしたが、これによって、国の重要な政策は、幕府の考えだけでなく多くの意見を聞いて合議で決めるべきものだとの考え方が広がり、幕府の権威はかえって低下していきました。

日米和親条約

嘉永7(1854)年1月、ペリーは琉球を経由して再び浦賀に来航しました。幕府との取り決めで、1年間の猶予を与えるはずであったところを、あえて半年で決断を迫ったもので、幕府は大いに焦りました。ペリーは香港で将軍家慶の死を知り、国政の混乱の隙を突こうと考えたのです。

1月14日(同年2月11日)に輸送艦「サザンプトン」(帆船)が現れ、1月16日(同年2月13日)までに旗艦「サスケハナ」、「ミシシッピー」、「ポーハタン」(以上、蒸気外輪フリゲート)、「マセドニアン」、「ヴァンダリア」、「レキシントン」(以上、帆船)の巡洋艦6隻が到着しました。なお、江戸湾到着後に旗艦は「ポーハタン」に移いました。2月6日に「サラトガ」、2月21日に「サプライ」(両帆船)が到着して計九隻の大艦隊が江戸湾に集結し、江戸はパニックに陥りました。一方で、やはり浦賀には見物人が多数詰め掛け、観光地のようになっていました。
約1ヶ月にわたる協議の末、幕府は返答を出し、アメリカの開国要求を受け入れた。3月3日(3月31日)、ペリーは約500名の兵員を以って武蔵国神奈川の横浜村(現神奈川県横浜市)に上陸し、全12箇条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)が締結されて日米合意は正式なものとなり、この条約の締結によって日本は下田箱館(現在の函館)を開港し、徳川家光以来200年以上続いてきた、いわゆる鎖国が解かれました。この条約は、日本が列強と結ぶことを余儀なくされた不平等条約の一つです。

なお、最初の来航の際に、ペリーは大統領から、通商の為に日本・琉球を武力征服することもやむなしと告げられており、親書を受け取らなかった場合は占領されたことも考えられます。米国は太平洋に拠点を確保できたことで、アジアへの影響力拡大を狙いましたが、後に自国で南北戦争となり、琉球や日本に対する圧力が弱まったのです。

安政五カ国条約

日米和親条約により、日本初の総領事として赴任したハリスは、当初から通商条約の締結を計画していましたが、日本側は消極的態度に終始しハリスの強硬な主張で、老中堀田正睦は孝明天皇の勅許を獲得して世論を納得させた上で通商条約を締結することを企図しますが、勅許獲得は失敗に終わり、それが原因で堀田正睦は辞職に追い込まれました。しかし、ハリスはアロー号事件で清に出兵したイギリスやフランスが日本に侵略する可能性を指摘して、それを防ぐには、あらかじめ日本と友好的なアメリカとアヘンの輸入を禁止する条項を含む通商条約を結ぶほかないと説得しました。新たに大老に就任した井伊直弼はこれを脅威に感じ、孝明天皇の勅許がないままに独断で条約締結に踏み切りました。

安政5年6月19日(1858年)、日本とアメリカの間で日米通商条約が結ばれました。この諸条約は、勅許の無いままに大老の井伊直弼によって調印されたために仮条約となされて、安政の大獄・桜田門外の変(井伊大老暗殺) といった国内政争を引き起こしました。1865年になってようやく勅許されました。

条約の内容

・神奈川(1859年7月4日)・長崎(1859年7月4日)・箱館(函館)(元から)・新潟(1860年1月1日)・兵庫(1863年1月1日)の開港。(下田の閉鎖(1860年1月4日))
・領事裁判権をアメリカに認める。
江戸(1862年1月1日)・大阪(1863年1月1日)の開市
・自由貿易。
・関税はあらかじめ両国で協議する(協定税率。関税自主権がない状態)。
・内外貨幣の同種同量による通用。
・アメリカへの片務的最恵国待遇
江戸幕府は列強の外交圧力によって順次、日米修好通商条約調印後に同様の条約をイギリス、フランス、ロシア、オランダの五ヶ国と結びました(安政五カ国条約)。

ただし、実際に開港したのは神奈川ではなく横浜、兵庫ではなく神戸でした。このことは条約を結んだ各国から批判もされましたが、明治新政府になると横浜を神奈川県、神戸を兵庫県として廃藩置県することで半ば強引に正当化しました。幕府は、神奈川は江戸時代から東海道の宿場町として栄えてきた都市であり、ここを開港場として外国人の活動の場とすることを避けて隣接する横浜村を指定しました。当時の横浜村は小さな漁村であり、ここに外国人の居留地を建設しても問題はないと考えたのです。兵庫ではなく神戸村を指定したのもしかりです。

条約港の設定

安政条約で重要なポイントは、
1.自由貿易が開始されたこと
2.締結された条約がいわゆる不平等条約(領事裁判権の容認、協定関税、片務的最恵国待遇)であったこと

の二点です。

列強という言葉は英語でグレート・パワーズといい、強力な海軍力と豊富な商船隊により、世界のどこにでも自国の力だけで進出する力を持つ国、というかなり具体的な実態を持つ言葉でした。海を制する国家が列強だったのです。当時、列強の名に値する国は、イギリス、フランス、オランダ、アメリカ、ロシアなどです。すなわち安政の五ヶ国条約の締結国です。

イギリスの初代駐日総領事(のち特命全権公使)オールコックは、
「我々の常に増大する欲求や生産能力に応じるために、我々は絶えず次々に新しい市場をさがし求める。そして、この市場は主として極東にあるように思われる。我々の第一歩は、条約によってかれらの提供する市場に近づくことである。(中略)我々は唯一の効果的な手段を携える。それは圧力である。そして、必要な貿易の便宣や一切の権利を与えるという趣旨の文書を得る。残るはわずかにあと一歩である。それは条約を実施し、実行ある条約にしなければならないということだ。」-『大君の都』オールコック

自由貿易と不平等条約

第一に、不平等条約は、異なる文明が共存するためのシステムであった、ということです。

条約とは、そこに国家間の取り決めを結び条約を履行するだけの力を持った主権を有する国家が存在するということが前提になっています。欧米とは異なるものの法制度が存在しているので、欧米人といえどもそれを守らなければならないのです。一般に誤解されている領事裁判権というのは、アジアの法律に欧米人が従わなくても良い、という制度ではありません。

しかし、アジアの国家はヨーロッパ的な意味での近代国家ではなかったため、ヨーロッパでは保障される人権や、財産権などが守れない危険性があります。そこで、自国民の人権や財産権が侵害される恐れがある場合(被害になる場合)には、ヨーロッパの法律で裁判し、法律の体系が異なることから生ずる不利益を回避しようとする制度が、領事裁判制度です。領事裁判権は、異なる法制度の間に生ずる軋轢を改称するための緩衝処置として考え出されたものでした。

第二は、条約が東アジアの植民地化への防波堤になっていた、という点です。

たとえヨーロッパ的な意味での近代国家でなくとも、近代国際法の上では、主権国家として認められた場合、その国を勝手に併合したり植民地とすることは簡単にはできません。植民地化することができるのは、そこに主権を有する国家が存在せず(無主の地)、最初にそこを併合すると主張し(先占の権)、その国がその土地を実質的に支配していると各国が認めた場合である、というルールがありました。条約を締結したということは、そこに主権国家が存在することを列強が認めたということになるので、簡単には植民地化することはできない、ということになります。  十九世紀末において、アジア・アフリカ地域において独立を保ったのは、東南アジアのタイ、アフリカのエチオピア、リベリアなどですが、東アジアは、日本、中国、韓国が独立を保持し、広大な植民地化を阻んでいました。その理由は、自由貿易と不平等条約のシステムにあったということができるでしょう。

しかし、事実の上で植民地化の危機がなかったということと、アジア側が危機を認識していた、という問題は別のことです。アジア側から見ると、条約締結の過程において示された欧米の軍事力に象徴される「西洋の衝撃」は、植民地化の危機の意識として定着し、のちにヨーロッパに対抗していくナショナリズムの原動力になっていきます。

万国公法

19世紀後半から20世紀前半にかけて近代国際法を普及させたという点で、国際法学者であるヘンリー・ホイートンの代表的な著作である国際法解説書の翻訳名。東アジア各国に本格的に国際法を紹介した最初の書物で多大な影響を与えました。

前近代の東アジア世界の国際秩序、すなわち総体として華夷秩序に取って代わって、欧米諸国は、「礼制」に変えて近代国際法に基づく条約によって国際関係を律する「条約体制」と呼ぶ国際秩序を東アジアにもたらした。しかし欧米によって強制された条約が不平等条約だったことから「不平等条約体制」と呼ぶこともあります。

近代国際法は、崇高な正義と普遍性とを理念としていますが、他方、非欧米諸国に対しては非常に過酷で、欧米の植民地政策を正当化する作用を持っていました。この国際法は適用するか否かについて「文明国」か否かを基準としていますが、この「文明国」とは欧米の自己表象であって、いうなれば欧米文明にどの程度近いのかということが「文明国」の目安となっており、この目安によって世界は3つに分類されます。

まず欧米を「文明国」、オスマントルコや中国、日本等を「半文明国」(「野蛮国」)、アフリカ諸国等を「未開国」とした。「半文明国」に分類されると、主権の存在は認められるものの、その国家主権には制限が設けられます。具体的には不平等条約を砲艦外交(軍艦や大砲といった軍事力を背景に行われる恫喝的な外交交渉)によって強制された。さらに「未開国」と認定されると、その国家主権などは一切認められず、その地域は有力な支配統治が布かれていない「無主の地」と判定されます。近代国際法は「先占の原則」(早期発見国が領有権を有する原理)を特徴の一つとして持っていたので、「未開国」は自動的に「無主の地」とされ、そこに植民地を自由に設定できるということになります。

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ペリー来航と開港 学校で教えてくれなかった近現代史(10)

日本では江戸幕府を倒した薩摩藩・長州藩などの攘夷派を中心とした明治政府も、明治2年(1869年)に政府として改めて開国を決定して、以後は不平等条約の撤廃(条約改正)が外交課題となっていくことになります。日本は開国により帝国主義時代の欧米列強と国際関係を持つこととなります。

こうして、東アジア(朝鮮・日本を含む中国の周囲の諸国)では近代の開国前後、万国公法という概念との葛藤を経験することになります。 長きに渡り鎖国政策をとってきた日本において、ペリーの来航(1853年にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊が、日本の江戸湾浦賀に来航した事件)によって、日本史上だけでなく世界史的にもきわめて重要な転機となりました。慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令によって、新政府樹立。日本では一般に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいます。

日本は開国するとすぐに欧米諸国の実情視察と西洋の政治、法律、軍事、科学などの学問を学ぶため、代表団(岩倉使節団)と学生たちを派遣すると共に欧米列強に侵略されない国づくりの指針を定め、富国強兵、近代産業の興業、思想改革(封建制・身分制の撤廃などを推し進めました。同時にウラジオストックを拠点に北樺太・北千島、中国東北部に勢力を広げてきたロシア([南下政策])を自国の安全保障上、直接の脅威になると捉え、日本本土への南部の玄関口にあたり、清国の強い影響力にあった朝鮮半島([李氏朝鮮])の自主を回復させ、日朝の強い協力関係を構築し安全を確保しようと画策しました。

アメリカ合衆国

アメリカはイギリスから植民地 13 州を割譲されて1776年に独立しました。当時珍しい民主主義国家ですが、その後もイギリス、フランス、スペイン、メキシコから植民地や領土を割譲、または買収して、自国の領土を西へと拡大しました。拡大する過程で新たに州を新設していったので、植民地と州の境はあいまいになりました。短期間で西海岸へ到達すると、太平洋の先に目を向け、1867年には、アラスカをロシアから買収し、1898年にはハワイ王国の併合し、スペインとの米西戦争に勝利してスペインの統治下にあったグアム、フィリピン、プエルトリコを植民地にし、キューバを保護国に指定しました。もっとも、キューバはすぐに独立させましたが、その後もキューバ革命までの長きに渡り影響下においていました。

アメリカは建国の成り立ちからして、他国の領土を支配するという考えに反対する人々が多いこともあり、植民地を直接経営するよりも独立した国家を間接的に支配することを好みました。例として、米西戦争の勝利によって、スペインの影響下にあった中米の国々を独立させ、政治や経済的に影響下に置きました。これは直接には植民地としていませんが、「経済植民地」とでもいえる事実上の植民地下に置き、各国に共産主義勢力が台頭するとたびたび排除するために軍を送り、傀儡政権となる軍事独裁政権を樹立させるなど、主権を無視した内政干渉を繰り返しました。この体制は、中米や中東において現在も変わっていません。また、フィリピンは第二次世界大戦後に独立させたものの、同じく政治、経済、軍事すべてにおいて完全にアメリカの支配下に置いた他、戦後に日本から獲得した南洋諸島も北マリアナ諸島を除いて独立したものの同様の状況下にあります。

なお、中米にはプエルトリコが、アメリカ自治領として存続しています。プエルトリコも北マリアナ諸島も、アメリカからの独立の勧告を無視し、実利を取ってアメリカの治下にとどまっているのです。

1914年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦では当初中立を守りましたが、次第に連合国(イギリス、フランス、イタリア、日本など)に傾き、1917年には連合国側として参戦しました。

イギリス・アメリカの接近

19世紀にはいると、イギリスとアメリカの船も、しばしば日本近海に出没するようになりました。1808(文化5)年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎港に侵入し、当時対立していたオランダの長崎商館の引き渡しを求め、オランダ人2人を捕らえるなどの乱暴をはたらきました(フェートン号事件

一方、北太平洋では、アメリカの捕鯨船の活動が盛んになり、日本の太平洋岸に接近して水や燃料を求めるようになりました。幕府は海岸防備を固めて鎖国を続ける方針を決め、1825(文政8)年、異国船打払令を出しました。1837(天保8)年、浦賀(神奈川県)に日本の漂流民を届けに来たアメリカ船モリソン号を砲撃して打ち払う事件が起きました(モリソン号事件)。

これに対して蘭学者の渡辺崋山は、西洋の強大な軍事力を知って、幕府の処置を批判しました。しかし、幕府は彼らを厳しく処罰しました(蕃社の獄)。

ロシアの接近

18世紀の末頃から、日本の周囲にも欧米諸国の船が出没するようになりました。とくにロシアは、16世紀後半からシベリアの征服を開始しましたが、その勢力は17世紀末にはカムチャッカ半島まで達しました。ロシアは、極寒のシベリアを経営するための食料など生活必需品の供給先を日本に求めようと考えました。そこで、1792(寛政4)年、最初の使節ラックスマンを日本に派遣し、日本人漂流民を送り届け幕府に通称を求めました。

鎖国下の幕府がこれを拒絶すると、ロシアは樺太(サハリン)や択捉島にある日本の拠点を襲撃したので、ロシアに対する恐怖感が高まりました。幕府は松前藩の領地である東蝦夷を直轄地にしてロシアに備え、近藤重蔵や間宮林蔵に、樺太も含む蝦夷地の大がかりな実地調査を命じました。そして間宮林蔵は樺太が島であることを発見しました。樺太と大陸を隔てる海峡は間宮海峡と名づけられました。

出典: 『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
『日本人の歴史教科書』自由社
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大航海時代の開幕 学校で教えてくれなかった近現代史(1)

社会科が唯一得意だった私でさえも、まったく明治以降はほとんど記憶がありません。
戦後、中学・高校の授業で日本近現代史は、三学期のためか、教員の恣意的なものなのかわかりませんが、ほとんど軽く扱われてしまいます。また、歴史の教科書が、年号と偉人の暗記で終わる面白くない授業だったことも原因でしょう。

ようやく、新しい歴史教科書を採択する学校があらわれてきたことは大変良いことです。歴史が面白くなったのは社会人になってからでした。なぜ歴史はそうなったのか、なぜこの歴史的遺物が造られたかを知ることが面白いからです。一方的な見方では歴史は正しいことが分かりません。戦争でも両者の言い分があります。

日本人が海外に行って自国の歴史を堂々と語れる人間がはたしてどのくらいいるでしょうか。歴史を失うことは国家滅亡を意味するといわれます。

大航海時代と世界経済

近世ヨーロッパは、その内部に新しい政治・社会の秩序を造り出すとともに、外の世界に向かっても大きく飛躍していきました。とくに16世紀は「地理上の発見」とか「大航海」の時代と呼ばれ、ヨーロッパ人がアジアと新大陸に進出した時期にあたっています。

問題は、これを契機にヨーロッパが徐々に他の文明世界を圧迫し、政治的にも経済的にも支配するようになったことで、そうした状況を個々の事情の認識ではなく、グローバルな視点から総合的に捉えることが重要な課題となっています。

とかく日本史では国内の政治・社会を中心に、そうしたヨーロッパの動きを軽視して捉えがちです。江戸時代の閉鎖的な鎖国時代を除けば、古代より東アジアと絶えず人々や文明が交流しながら発達してきたのであり、16世紀以降、その規模は地球規模に広がることになります。

大航海時代の開幕

ポルトガルは、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出しました。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功しました。

オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれました。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していました。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行みました。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われましたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っています。

ドイツ帝国の前身であるプロイセン公国は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わりました。ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていましたが第一次世界大戦敗北により喪失しました(ドイツ植民地帝国)。

イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持しましたが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失しました。

帝国を求めて

近世ヨーロッパの政治史の流れは、大きく三つに区分できます。第一期は、フランスとドイツがヨーロッパの派遣を競った時期で、イタリア戦争(1521年から1544年または1494~1559年)の時期に相当します。イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争です。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執がありましたが、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になりました。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもありますが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになります。

第一期のイタリア戦争は、イタリアの領有権を主張するフランス国王シャルル八世がイタリアに出兵したことから始まりますが、16世紀前半では、ハプスブルク家の膨大な家産を相続したドイツ皇帝カール五世(在位1519~6年)と、中世のシャルルマーニュ大帝がつくりあげたカロリング帝国の再現を目論むフランス国王フランソワ一世(在位1515~47年)が、何度も戦争を交えました。しかし、戦争は決着がつかず、ドイツの内乱に疲れたカール五世は、ドイツヲを弟のフェルディナント一世に、スペインとネーデルランドを息子のフェリペ二世に譲って、スペインの修道院に隠棲しました。ハプスブルク家の東西分裂です。フランス側でも、フランソワ一世を継承したアンリ二世は、1557年にサン=カンタンの戦いで大敗を喫し、帝国の野望を達成できませんでしました。1559年、イタリア戦争はカトー=カンブレジの和約で終結しました。

第二期は、新大陸の富を背景にスペインが派遣を握った時期。第三期は、スペインの衰退のあと、フランスとイギリスが大陸の派遣と海外植民地をセットで争い、初期的な世界戦争に突入した時期です。

ポルトガルとスペイン

覇権争いの常連だったフランスとドイツが後退したあと、地位を受け継いだのはスペインです。コロンブスの新大陸への到達以後、次々と植民地化し、大西洋貿易を独占的に支配したスペインは、フェリペ二世の時に黄金期を迎えました。

新しい通商路の成立はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。第一に、ヨーロッパ人の海外進出です。ただし、アジアではインドのムガール帝国、中国の明・清帝国、日本の織豊政権などがあって、ポルトガル人の活動は限定され、中継貿易に留まりました。アジアとヨーロッパを往復するには約二年かかり、商館と寄港地を維持するコストの高さが最大のネックとなったのです。この点では、17世紀にアジア貿易の主役を担ったオランダも同様で、東インド会社は、アジア間の中継貿易に力点を置き、しばしば本国と対立しました。

第二に、ヨーロッパの諸地域の役割変化です。アジアや新大陸の物産が北辺にあるオランダに直接運び込まれるようになると、ヨーロッパの重心がオランダに傾き、地中海のイタリアと内陸部の意味が大幅に後退せざるを得なくなりました。「地理上の発見」は、ヨーロッパの人や物の流れを変えただけでなく、伝統的な地理観それ自体に大きな変化をもたらしたのです。ヨーロッパが世界に進出するきっかけをつくったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインという「国土回復運動」を終えたばかりの新興国でした。

15世紀中葉以降、ポルトガルはインドへの通商路を求めてアフリカ大陸を南下していましたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる船隊は、アフリカ南端の喜望峰を通過し、インドの西海岸カルカッタに到着し、大量の香辛料を買い付けてリスボンに戻りました。このあと、インドのゴア、マラッカ、マカオ、平戸(長崎)に商館を作り、アジアの商業ネットワークを築き上げました。1500年インドに向かったカブラルの船隊は、途中で嵐にあってブラジルに漂着し、この地の領有を宣言しました。ポルトガルから近いブラジルでは、蘇芳(紅色染料)、タバコ、砂糖の生産が始まりました。

一方、スペイン国王の後援を受けて西方からインドをめざしたコロンブスは、1492年、アメリカに第一歩を記しました。翌年、再びこの地にやってきたコロンブスは、早くも千人ほどの移民を伴っていました。これが植民地化の始まりです。次いで、マゼランはポルトガルが支配するマラッカ海峡に西回りで到達しようと1519年に船出し、初めて世界周航を果たしました。このあと、新大陸では貴金属を求めた「征服者」が暗躍し、1520年代にはコルテスがメキシコのアステカ王国を、1530年代にはピサロがペルーのインカ帝国を滅ぼしました。ほどなくペルーのポトシで産出された銀がセヴィリア経由でイタリアのジェノヴァやネーデルランドのアントウェルベンにもたらされ、ヨーロッパ通過の基礎となっています。1580年にはポルトガルの王家断絶を利用してポルトガル国王を兼ね、まさに「太陽の沈まない王国」を実現しました。新大陸では国王直轄のもとに、採掘から輸送に至るルートが整備されました。ヨーロッパ各地にもたらされた銀は、通貨量を増大させ、価格革命をもたらしたといわれますが、16世紀ヨーロッパの経済発展を根底で支えました。

しかし、フェリペ二世の没後、スペインは衰退に向かい、スペインが持っていた権益をイギリスとオランダが分け合うようになりました。イギリスは、フランスとドイツが争いに熱中しています隙に乗じてスコットランドやアイルランドに遠征し、スペインの無敵艦隊を撃破し、新大陸にも進出しました。ヨーロッパ大陸の問題に深入りしないで、島国としての立地を生かし、海洋国家に転身したところからイギリスの未来が開けたのです。オランダは、もともと北海・バルト海と大西洋をつなぐ商取引の結節点に位置し、自由主義的な貿易立国をめざしました。オランダは王権が弱体であり、貴族や商人の勢力を背景に、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が主力となって「連邦共和国」を成立させます。

ロシア帝国

ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げました。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧しました。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げました。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国(モンゴル帝国)を侵略、植民地化しました。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めましたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化しました。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突しました(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅びましだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となりました。

1941年にはバルト三国を、武力併合しました。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然でした。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われています。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになりました。
続く→学校社会科の歴史教育(2)

出典: 『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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【但馬の城ものがたり】 明智光秀と水生(みずのお)城


豊岡市日高町上石

『但馬の城ものがたり』という書物によれば、昭和50年現在において確認されている但馬の城の数は、215だそうです。この中には徳川時代の陣屋も加えられていますが、まだ未確認の山城もまだあるだろうといわれています。日高町内では20で、但馬の中では数は少ないというものの、但馬史に関係する重要な城がいくつか含まれています。

散り椿で有名な水生山長楽寺の裏から山頂に至る間に、数カ所の平坦地があり、頂上近くや頂上に伸びる尾根に堀割があります。南北朝のころ、長左右衛門尉が居城したと伝え、戦国期には初め榊原式部大輔政忠が居し、ついで西村丹後守の居城となったようです。

水生城は、標高百六十メートルの山頂に至る間に構築された城で、東は険しく、北は切り立つ岩、西の尾根づたいには深い堀割が作られていて、まさに要害の地でした。眼下には広々とした高生平野(たこうへいや)が広がり、その昔、政治の中心地として、但馬一円の政務を執り行った国府の庁や国分寺の当たりもここから一望できます。

円山川の本流は、当時は土居の付近から水生山麓にかけて一直線に北流していた時期があったらしく、北へ流れる円山川のはるか彼方には、山名の本城出石の有子山の城を見ることができ、当時の戦争の仕方から考えて、たいへん大事な城であったことがうかがわれます。

この城は、遠く南北朝のころ造られたもので、南朝に味方した長左衛門尉がいた城として知られています。

その後約二百年あまりは、残念ながら誰の居城であったのか明らかではありません。

ところが、大永年中、丹波福知山の城主、明智日向守光成(後の光秀)が、出石の此隅山(こぬすみやま)の城が虚城(山名氏は有子山城に移っていた)であることを聞いて登尾峠(丹波・但馬境)を経て、有子城(出石城)を攻撃しようと考えました。そこで陣代として大野統康・伊藤次織・伊藤加助の三名を軍勢を添えて出石表へ差し出しました。やがて但馬に進入した彼らは、進美寺山(しんめいじざん・八鹿町側)に「掻上の城(かきあのげじろ)」を築いて居城し陣を布きました。

その頃の出石の山名氏の勢力は日に日に衰えていく有様でした。しかも中央では、織田信長が天下の実権を握り、その上家来の羽柴秀吉が近々に但馬にせめて来るという噂も高くなったので、山名氏の四天王といわれた垣屋等の武将も、さすがに気が気でありませんでした。

一方、進美山掻上の城に陣取った大野・伊藤の両勢は、軍を揃え、出石・気多の郷士たちを競い合わせ準備を整えました。そして、永禄二年(1559)八月二十四日、西村丹後守の居城水生城を攻撃してきました。この城には前後に沼(円山川から満潮時には潮が差す)があって、自然の楯となり、左側は通れないほど険しい天然の構えとなり、攻め落とせそうにもないので、ひとまず善応寺野に陣取って遠攻めの策をとりました。この時伊藤勢の中に河本新八郎正俊(気多郡伊福(鶴岡)の郷士であり、この家は今も続いている)という豪傑がいました。陣頭に出て大声で敵の大将をさそったので、城中からもこれに応え、服部助右衛門という武者が名乗りを上げて出てきました。ふたりは違いに槍を交えてしばらく争っていましたが、新八郎の方が強く、ついに服部を倒し首級(しるし)をあげました。

明けて二十五日、伊藤勢はふたたび城近く攻め寄せていきました。城中にあった兄の服部左右衛門は、弟を無念に思い、攻めてくる敵軍を後目に城中から躍り出て大音声に、「新八郎出てこい。きょうは助右衛門の兄左近右衛門が相手になってやる、ひるむか新八郎!」とののしりました。新八郎は「心得たり。」と、これに応じて出てきました。ふたりは間合いを見計らって、ともに弓に矢をつがえました。新八郎はもともと弓の名人でもあったので、ねらいを定めて「ヒョー」と放つ矢は見事に左近右衛門を射止めました。この三度の戦いの活躍に対して新八郎は明智光成から感状(感謝状)をもらいました。この感状は今も河本家に残っています。

八月二十八日には、丹波勢が攻め寄せましたが、城の正面大手門の方には大きな沼になっていてなかなかの難攻でした。城中はしーんと静まりかえり、沼を渡って攻めてきたならと待ちかまえています。攻めての大野勢の中で伊藤七之助という者は搦め手から攻めようとして竹貫から尾根づたいにわざと小勢を引き連れ迂回作戦に出ました。
ところが城内の武将「宿院・田中」という家来で、竹貫・藤井などから来ている兵士の中に、中野清助という人がいました。清助は伊藤七之助を遠矢で見事に射ました。この怪力に恐れをなした丹波勢は慌てふためき、この日の城攻めは中止にしました。

大野統康・伊藤加助は無念の歯ぎしりをし、城攻めにあせりを見せ総攻撃をはかり、竹や木を切らせ、沼に投げ入れて沼を渡ろうとしました。しかし、城内から見すましていた城兵は「すは、この時ぞ。」とばかりに、木戸を開けて討って出ました。大沼を渡ろうとしている大野・伊藤勢をここぞとばかりに射かけたので進退きわまり、たまたま沼を渡りきった者たちは山が険しくて登ることができず、逆に退こうとしても沼が深くて思うに任せず、城内からはさらに新手を繰り出し寄手をしゃにむに攻め、櫓からは鏑(かぶら)を構えて、射たてているところに「ころはよし。」と、大将西村丹後守みずから討って出たので、寄せ手は這々(ほうほう)の体で敗走してしまいました。

秀吉の第二次但馬平定

水生城の攻防戦は、毛利党の轟城主、垣屋豊続が打った一大決戦でした。秀吉の勢力が延びると共にいくつかの小競り合いが行われました。天正八年(1580)4月18日には、秀吉勢と竹野衆とが水生城で交戦し、この時竹野衆が勝ったといいます。その後、天正八年(1580)、秀吉の武将、宮部善祥房らの強襲を受けて廃城となります。

掻き揚げ城(かきあのげじろ)…掻上げ城とも書く。堀を掘ったとき、その土を盛りあげて土居を築いた堀と土居だけで成る臨時の小規模な城郭。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会

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