大航海時代の開幕 学校で教えてくれなかった近現代史(1)

社会科が唯一得意だった私でさえも、まったく明治以降はほとんど記憶がありません。
戦後、中学・高校の授業で日本近現代史は、三学期のためか、教員の恣意的なものなのかわかりませんが、ほとんど軽く扱われてしまいます。また、歴史の教科書が、年号と偉人の暗記で終わる面白くない授業だったことも原因でしょう。

ようやく、新しい歴史教科書を採択する学校があらわれてきたことは大変良いことです。歴史が面白くなったのは社会人になってからでした。なぜ歴史はそうなったのか、なぜこの歴史的遺物が造られたかを知ることが面白いからです。一方的な見方では歴史は正しいことが分かりません。戦争でも両者の言い分があります。

日本人が海外に行って自国の歴史を堂々と語れる人間がはたしてどのくらいいるでしょうか。歴史を失うことは国家滅亡を意味するといわれます。

大航海時代と世界経済

近世ヨーロッパは、その内部に新しい政治・社会の秩序を造り出すとともに、外の世界に向かっても大きく飛躍していきました。とくに16世紀は「地理上の発見」とか「大航海」の時代と呼ばれ、ヨーロッパ人がアジアと新大陸に進出した時期にあたっています。

問題は、これを契機にヨーロッパが徐々に他の文明世界を圧迫し、政治的にも経済的にも支配するようになったことで、そうした状況を個々の事情の認識ではなく、グローバルな視点から総合的に捉えることが重要な課題となっています。

とかく日本史では国内の政治・社会を中心に、そうしたヨーロッパの動きを軽視して捉えがちです。江戸時代の閉鎖的な鎖国時代を除けば、古代より東アジアと絶えず人々や文明が交流しながら発達してきたのであり、16世紀以降、その規模は地球規模に広がることになります。

大航海時代の開幕

ポルトガルは、1488年に喜望峰を発見すると、東洋における香料貿易の独占をめざしてインド洋に進出しました。1500年にはカブラルがブラジルを発見。1511年のマラッカの領有後はマカオ、長崎にまで貿易圏を広げ、一時は日本のキリスト教布教にも成功しました。

オランダも17世紀から18世紀にかけて植民地主義大国として活躍してオランダ海上帝国と呼ばれました。20世紀に入っても東インド植民地(蘭印、インドネシア)や南アメリカに植民地(スリナム)を保持していました。しかし度重なる英蘭戦争で北米の植民地を奪われ、更に南アフリカの植民地も超大国に成長した大英帝国に敗れ失うなど、列強としてのオランダの国際的地位は低迷して行みました。20世紀にはインドネシア、スリナムが独立し、ほとんどの領土が失われましたが、現在でもカリブ海にオランダ領アンティル、アルバの二つの海外領土を持っています。

ドイツ帝国の前身であるプロイセン公国は1683年に西アフリカに遠征し、ゴールド・コーストに植民(1720年に放棄)。更にギニアにグロース=フリードリヒスベルク市を建設し、奴隷貿易にも携わりました。ドイツ帝国はタンガニーカ(現タンザニア)やトーゴ、南西アフリカ(現ナミビア)等のアフリカ植民地や南洋諸島を持っていましたが第一次世界大戦敗北により喪失しました(ドイツ植民地帝国)。

イタリアはイタリア領ソマリランド・リビア、さらに短期間のみエチオピア(ソマリアとエリトリアを含むイタリア領東アフリカ)を保持しましたが、第二次世界大戦の優柔不断な国政によって戦後にすべて喪失しました。

帝国を求めて

近世ヨーロッパの政治史の流れは、大きく三つに区分できます。第一期は、フランスとドイツがヨーロッパの派遣を競った時期で、イタリア戦争(1521年から1544年または1494~1559年)の時期に相当します。イタリア戦争は、16世紀に主にハプスブルク家(神聖ローマ帝国・スペイン)とヴァロワ家(フランス)がイタリアを巡って繰り広げた戦争です。ハプスブルク家とヴァロワ家の間には以前から確執がありましたが、1519年にカール5世が神聖ローマ皇帝に即位し、またスペイン王を兼ねていたため、重大な脅威を受けることになったフランスは、戦略上イタリアを確保することが必要になりました。16世紀のイタリアはルネサンス文化の最盛期でもありますが、外国の圧迫を受けて国内が分裂し、時には戦場と化していたことになります。

第一期のイタリア戦争は、イタリアの領有権を主張するフランス国王シャルル八世がイタリアに出兵したことから始まりますが、16世紀前半では、ハプスブルク家の膨大な家産を相続したドイツ皇帝カール五世(在位1519~6年)と、中世のシャルルマーニュ大帝がつくりあげたカロリング帝国の再現を目論むフランス国王フランソワ一世(在位1515~47年)が、何度も戦争を交えました。しかし、戦争は決着がつかず、ドイツの内乱に疲れたカール五世は、ドイツヲを弟のフェルディナント一世に、スペインとネーデルランドを息子のフェリペ二世に譲って、スペインの修道院に隠棲しました。ハプスブルク家の東西分裂です。フランス側でも、フランソワ一世を継承したアンリ二世は、1557年にサン=カンタンの戦いで大敗を喫し、帝国の野望を達成できませんでしました。1559年、イタリア戦争はカトー=カンブレジの和約で終結しました。

第二期は、新大陸の富を背景にスペインが派遣を握った時期。第三期は、スペインの衰退のあと、フランスとイギリスが大陸の派遣と海外植民地をセットで争い、初期的な世界戦争に突入した時期です。

ポルトガルとスペイン

覇権争いの常連だったフランスとドイツが後退したあと、地位を受け継いだのはスペインです。コロンブスの新大陸への到達以後、次々と植民地化し、大西洋貿易を独占的に支配したスペインは、フェリペ二世の時に黄金期を迎えました。

新しい通商路の成立はヨーロッパに大きな影響を及ぼしました。第一に、ヨーロッパ人の海外進出です。ただし、アジアではインドのムガール帝国、中国の明・清帝国、日本の織豊政権などがあって、ポルトガル人の活動は限定され、中継貿易に留まりました。アジアとヨーロッパを往復するには約二年かかり、商館と寄港地を維持するコストの高さが最大のネックとなったのです。この点では、17世紀にアジア貿易の主役を担ったオランダも同様で、東インド会社は、アジア間の中継貿易に力点を置き、しばしば本国と対立しました。

第二に、ヨーロッパの諸地域の役割変化です。アジアや新大陸の物産が北辺にあるオランダに直接運び込まれるようになると、ヨーロッパの重心がオランダに傾き、地中海のイタリアと内陸部の意味が大幅に後退せざるを得なくなりました。「地理上の発見」は、ヨーロッパの人や物の流れを変えただけでなく、伝統的な地理観それ自体に大きな変化をもたらしたのです。ヨーロッパが世界に進出するきっかけをつくったのは、イベリア半島のポルトガルとスペインという「国土回復運動」を終えたばかりの新興国でした。

15世紀中葉以降、ポルトガルはインドへの通商路を求めてアフリカ大陸を南下していましたが、1498年、ヴァスコ・ダ・ガマが率いる船隊は、アフリカ南端の喜望峰を通過し、インドの西海岸カルカッタに到着し、大量の香辛料を買い付けてリスボンに戻りました。このあと、インドのゴア、マラッカ、マカオ、平戸(長崎)に商館を作り、アジアの商業ネットワークを築き上げました。1500年インドに向かったカブラルの船隊は、途中で嵐にあってブラジルに漂着し、この地の領有を宣言しました。ポルトガルから近いブラジルでは、蘇芳(紅色染料)、タバコ、砂糖の生産が始まりました。

一方、スペイン国王の後援を受けて西方からインドをめざしたコロンブスは、1492年、アメリカに第一歩を記しました。翌年、再びこの地にやってきたコロンブスは、早くも千人ほどの移民を伴っていました。これが植民地化の始まりです。次いで、マゼランはポルトガルが支配するマラッカ海峡に西回りで到達しようと1519年に船出し、初めて世界周航を果たしました。このあと、新大陸では貴金属を求めた「征服者」が暗躍し、1520年代にはコルテスがメキシコのアステカ王国を、1530年代にはピサロがペルーのインカ帝国を滅ぼしました。ほどなくペルーのポトシで産出された銀がセヴィリア経由でイタリアのジェノヴァやネーデルランドのアントウェルベンにもたらされ、ヨーロッパ通過の基礎となっています。1580年にはポルトガルの王家断絶を利用してポルトガル国王を兼ね、まさに「太陽の沈まない王国」を実現しました。新大陸では国王直轄のもとに、採掘から輸送に至るルートが整備されました。ヨーロッパ各地にもたらされた銀は、通貨量を増大させ、価格革命をもたらしたといわれますが、16世紀ヨーロッパの経済発展を根底で支えました。

しかし、フェリペ二世の没後、スペインは衰退に向かい、スペインが持っていた権益をイギリスとオランダが分け合うようになりました。イギリスは、フランスとドイツが争いに熱中しています隙に乗じてスコットランドやアイルランドに遠征し、スペインの無敵艦隊を撃破し、新大陸にも進出しました。ヨーロッパ大陸の問題に深入りしないで、島国としての立地を生かし、海洋国家に転身したところからイギリスの未来が開けたのです。オランダは、もともと北海・バルト海と大西洋をつなぐ商取引の結節点に位置し、自由主義的な貿易立国をめざしました。オランダは王権が弱体であり、貴族や商人の勢力を背景に、アムステルダムやロッテルダムなどの都市が主力となって「連邦共和国」を成立させます。

ロシア帝国

ロシア帝国は15世紀、モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立し、周囲のスラヴ人の国々を飲み込んでその領土を広げました。16世紀にロシア平原を統一してロシア帝国を成立させると、東へと開拓をすすめ、18世紀頃までにはシベリアをほぼ制圧しました。シベリアには殖民都市を多数建設し、都市同士を結ぶことで勢力を広げました。シベリア制圧を終えると進路は南へ変わり、中央アジアの多くの汗国(モンゴル帝国)を侵略、植民地化しました。さらにシベリアの南に広がる清とぶつかり、ネルチンスク条約やキャフタ条約によって国境を定めましたが、19世紀に清が弱体化すると、アヘン戦争やアロー号事件のどさくさにまぎれ、満州のアムール川以北と沿海州(外満州)を次々に併合、植民地化しました。

東方の併合が一段落すると、続いて全中央アジアを征服、バルカン半島へ進出し、オスマン帝国と幾度も衝突しました(南下政策、汎スラヴ主義)。領土拡張主義は日露戦争や第一次世界大戦によって日本、ドイツなどとぶつかり合い、その戦費の捻出によって経済は破綻、共産主義者によるロシア革命が起こってロシア帝国は滅びましだ。拡大した領土はそのままソビエト社会主義共和国連邦に引き継がれ、中央アジア、南コーカサス、非ロシア・スラヴ地域は構成共和国として連邦に加盟し、それ以外はロシア共和国領となりました。

1941年にはバルト三国を、武力併合しました。また、第二次世界大戦後に、東欧諸国を中心としてソ連の影響下に置かれた社会主義諸国も、名目上独立国とはいえ、ソ連の植民地同然でした。冷戦終結とその後の混乱でソ連が崩壊すると、バルト三国をのぞく旧ソ連構成国はCIS(独立国家共同体)を結成して独立し、ロシア連邦内にとどまったシベリア、極東ロシアでも、多くの地域が共和国を構成して自治が行われています。また、東欧諸国でも、ソ連の指導下にあった一党独裁体制が崩壊し、その勢力圏から離脱することになりました。
続く→学校社会科の歴史教育(2)

出典: 『ヨーロッパの歴史』 放送大学客員教授・大阪大学大学院教授 江川 温
引用:『日本人の歴史教科書』自由社
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