【但馬の城ものがたり】 八木氏流 田公氏(たきみし)と大谷城(美方郡香美町小代区)


家紋:木 瓜(日下部氏流)
*日下部氏の代表紋として掲載。  田公氏の紋は不詳。

七美(しつみ・美方郡東部)村岡・城主。田公氏は但馬国の日下部氏族八木氏から別れた中世豪族で、その出自は、孝徳天皇の皇子表米親王の末裔が田公郷に土着して田公氏を名乗ったものといい、『和名抄』の二方郡田公郷、『但馬太田文』の二方郡田公御厨を本拠とし、田公を称するようになりました。すなわち、太田垣・八木・朝倉の諸氏と同じく日下部一族ということになります。八木系図によると、朝倉高清の長男・安高の三男・高吉の四男に田公氏を名乗った田公八郎右衛門尉高時がいます。美方町氏所収系図によると、朝倉宗高━高清の子に田公四郎高経(たかつね)が現れてきます。

山名氏が山陰諸国を制圧した南北朝期にその被官となり、戦国時代、山名誠通のころには因幡守護代となった田公遠江守高時(時高とも)、同次郎左衛門尉清高がみえ、代々、因幡国八上郡日下部城を居城にしたといい、いまも因幡に田公姓があります。

田公氏の系図については異同が多いですが、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫で、朝倉高清から出ていることは、諸系図一致しています。とはいえ、田公氏の系図ならびに居住地については疑問が非常に多いといわざるをえないのです。

田公氏は、田公氏の小代における城跡も明確ではないようですし、墓所もそれらしいものが見当たらないようです。ただ、居城である城山城(香美町小代区忠宮)は天正五年(1578)に落城したため、田公氏の歴史が分からなくなったのでしょう。また、七釜(しちかま)城主であった田公氏嫡流も元亀年中頃(1570~72)まで活躍していましたが、その後の動向は不明です。

田公氏の軌跡

田公氏の祖といわれる朝倉高清は、承久三年(1221)に没したといい、高清から数えて八代目が綱典とされていますが、居城が落城した天正五年(1577)までの間は、三百五十余年となり、系図に記される世代は二から三人の名前が脱落したものと思われます。
応仁の乱における西軍の総帥山名持豊の命令に従って、京都に集結した山名軍のなかに田公美作守・同能登守らの名が見えています。

文明十五年(1483)からの山名政豊の播磨侵攻に田公肥後守豊職が従軍し、垣屋越前守らと播磨蔭木城を守っていましたが、同十七年三月、赤松政則に急襲され垣屋一族多数が討死して城は落城しました。田公肥後守はかろうじて城を脱出して、政豊の拠る坂本城に急を報じましたが、戦いはすでに終わっていて救援することができませんでしました。

長享二年(1488)八月、六年間にわたる播磨遠征に疲れた山名政豊は、兵を収めて但馬に撤退しようとしました。田公肥後守父子と政豊の馬廻衆がこれに同調しましたが、垣屋氏以下の諸将は戦闘継続を主張し、政豊は孤立して田公父子と馬廻衆に守られて播磨を脱出しました。政豊の敗戦を問責し、嫡子俊豊擁立を望む諸将の動きに対して、田公父子は政豊を奉じて木崎城(のちの豊岡城)に拠って、最後まで山名政豊を支持しました。

やがて、守護権力は弱体化し、守護職も有名無実化していきました。それでも、政豊は幕府内である程度の力を保持していたようですが、明応八年(1499)に没し、次男致豊、三男誠豊が家督を継承しました。そして、田公氏は勢力を失っていきました。

戦国時代後期、入道して秋庭と称した田公綱典(綱豊入道秋庭)は、天正五年(1577)羽柴秀吉(指揮者は秀長)の第一回但馬侵攻にあたって、本城である城山城、および支城である村岡の城を捨てて、因幡国気多郡宮吉城の同族田公新介高家を頼って逃走しました。その後、山名豊国に従って羽柴軍と戦い、豊国が羽柴軍に降って鳥取城攻囲軍に加わると、それに従軍し、のちに豊国が七美郡を領するようになると、村岡に戻り、豊国に仕えました。以後執事となり、長男の澄典も山名氏に仕えて用人を勤めました。

大谷城

美方町(現美方郡香美町小代区)の中心になっている大谷の町が昔の大谷城の城下町でした。
久須部村から流れる川と、秋岡村から流れる湯舟川にはさまれた小高い岡の上にあったのが大谷城です。小代(おろ)城とも呼ばれました。建久年間に朝倉景雲が城を築きました。そのときの城は、映画やテレビで観るような城ではなく、大きな家が高台にあり、殿様も親方様と呼ばれ、侍も農民と同じで農業をして暮らし、いざ戦いとなるとみんなが兵士になって戦っていたのです。

正応年間に田公清高が親方になり、九代続きましたが天正五年十月、綱豊入道秋庭のときに落城しました。この城主が現在の村岡町内に出城をつくっています。大谷城は、七美(ひつみ)の古城の中心であるといえます。

禅のお坊さんとして有名な沢庵和尚は、綱豊の次男宗彰ですから美方町出身となります。
ところが、別の説によれば、出石方面では山名の家老秋庭能登守綱典という者がいました。これは三浦大介義昭の弟義行が相模国高座郡秋庭に住み、地名をとって秋庭を号したといいいます。あわただしい戦国末期の世相のなかで秋庭能登守は出石郡の小坂村大谷に引隠して帰農しています。

いずれにしろ、沢庵宗彭は但馬に生まれたことは間違いないようですが、田公氏の生まれか、平姓秋庭氏の生まれかは異論が多いところです。しかし、沢庵宗彭は平姓秋庭氏の生まれとするのが通説のようです。

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【但馬の城ものがたり】 山名四天王 田結庄氏と鶴城

参考略系図

称田結庄氏
越中次郎兵衛   宮井太郎兵衛尉
桓武天皇━葛原親王・・・平 盛嗣(盛継)━━盛長━━━━━盛重━━盛行━┓

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃          鶴城主
┃      左近将監          左近将監1642没
┗━盛親━━盛敏━国盛━━重嗣・・・是義━━━━盛延

田結庄氏の祖とされる越中次郎兵衛盛嗣については、他に記しましたのでご覧戴き、その子の盛長は一命をとりとめて城崎郡田結荘(豊岡市港地区)に住み田結庄氏を称したといいます。盛長はその後、奈佐郷宮井(豊岡市宮井)に移り住み、宮井太郎兵衛尉盛長と称し、その後、桶爪荘(奈佐谷)へ、そして二方郡大庭郷伊含浦(浜坂)へ移っています。『但馬国太田文』にも、同郷公文職、大庭郷下司職を有していたことが知られます。その後、盛長の子盛行が再び田結庄に帰り、田結庄に復したといいます(七美郡誌)。

戦国末期には、左近将監国盛は但馬守護山名時熙に仕え、山名四天王の一人に数えられる重臣となりました。子重嗣は山名持豊に従って赤松満祐の「嘉吉の乱(1441)」に際して播磨国に出陣したと伝えられますが、それを裏付ける史料はないようです。

「応仁の乱(1467)」以前の但馬で守護山名氏に従う諸将としては、垣屋(桓武平氏土屋流)・太田垣(但馬豪族日下部氏流)・八木(但馬豪族日下部氏流朝倉系)・田結庄(越中平氏系)の四天王に加えて、塩冶(えんや)・篠部・長(ちょう)、奈佐、上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南・田公などの諸氏が数えられています。

山名四天王・田結庄是義

田結庄氏で明確な裏付けを得るのは、戦国末期の左近将監是義(これよし)です。父・右近将監は垣屋氏の出である。子は田結庄盛延。是義は愛宕山((宝城山)豊岡市六地蔵・山本)に鶴城を築いて居城とし城崎郡を領し、太田垣輝延(朝来郡)、八木豊信(養父郡)、垣屋光成(気多郡)らと但馬を四分して勢力を広げました。神武山の亀城に対して鶴城と呼びます。山名氏の有子山(出石)城下に田結庄という町名が残っているのは田結庄氏の屋敷があったのが由来とされています。

平安時代に成立した「和名抄」に城崎郡内に新田、城崎、三江、奈佐、田結の5郷が記されており、田結郷は 気比庄(湯島、桃島、気比、田結、瀬戸、津居山、小島)、灘庄(今津、来日、上山、ひのそ)、下鶴井庄(三原、畑上、結、楽々浦、戸島、飯谷、赤石、下鶴井)、大浜庄(江野、伊賀谷、新堂、滝、森津)からなっています。下鶴井庄は円山川右岸の田結郷南端であり、山名氏の本拠地である九日市守護所や此隅山城に最も近い愛宕山に城を築いたのも納得できます。

やがて、但馬に伯耆・出雲の尼子氏[*2]が勢力を伸ばしてくると是義は尼子氏に味方しました。是義の父は垣屋氏の出なので、垣屋氏とは親戚ですが仲が悪かったのです。それは、是義が垣屋氏勢力範囲である美含郡(竹野・香住)の併合を狙っていたからだといわれています。

永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻(第一次但馬征伐)を受けます。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰しています。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦いました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っています。

その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれました。田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化しました。元亀元年(1570年)毛利党色を示していた楽々前城主 垣屋続成(つぐなり)を奇襲により殺害することになります。

しかしその後、山名祐豊は天正三年(1575)春、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じました。

野田合戦と田結庄氏の没落

織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦が起きます。
天正三年(1575)六月十三日、長谷村(豊岡市長谷)で、カキツバタ見物の宴会が行われている時、楽々前城主(日高町佐田)、垣屋続成(みつなり=光重・隆充)の家来が鉄砲で鳥を撃っておりますと、その弾が酒盛りをしていた田結庄是義の幕の中に落ちました。是義は大そう怒って、その垣屋の家来を召し捕らえて殺してしまいました。このことがあって、光成は是義を征伐しようと時期を狙っていました。

その年の秋、10月15日、垣屋播磨守続成(光重・隆充)は、同族(親類)の垣屋駿河守豊続(亀城主、後の豊岡城)の応援を受けて、田結庄是義の出城である海老手城(豊岡市新堂、栃江、宮井境界標高215mの山上)を垣屋続成・長(ちょう)越前守らが略取します。是義の属将・海老手城主、栗坂主水は養寿院(豊岡市岩井、後の養源寺)に、お参りして留守でした。したがって城はわけなく落とされてしまいました。垣屋勢は勢いに乗って、養寿院を焼き払い、田結庄方の宮井城(豊岡市宮井)にも攻め寄せてきました。

危ないところで逃げ延びた栗坂主水は、すぐに鶴城に行き、是義に事の次第を話すと、是義は大いに驚き、「ただちに、海老手城を取り返せ」と、一門の将兵五百人を集めて、海老手城に向かいました。家老の上山平左衛門、その子平蔵が垣屋豊続の軍五百人に阻止されて、野田(豊岡市宮島付近)の沼田での大野戦となり戦死してしまいました。この戦いを「野田合戦」といっています。

野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけでなかったのですが、置いた小田井神社は焼き払われました。また宮井城主の篠部伊賀守は、田結庄の旗色が悪いとみて、垣屋駿河守の軍に降参してしまいました。繰り出した垣屋の別働隊の追撃もあって、田結庄軍のうち鶴城下に帰着した者はわずか十六名であったといいます。

このようにして追いつめられた田結庄是義は、「今はこれまで」と家来とともに、ひそかに菩提寺正福寺(豊岡市日撫)にて自害し、没落していったといわれています。このとき、天正三年(1575)十月十七日と書かれています。

いま、愛宕山の南側の麓に静かに建っている宝篋(ほうきょう)印塔が是義の墓と伝えられています。
また、海老手城主、栗坂主水は、お坊さんとなり、諸国を修行した後、海老手城下の村(滝・森津・新堂あたり)で余生を送り、自分の死が近づいたことが分かると、墓の穴の正座して、鐘を打ちつつ死んでいったと伝えられています。新堂の氏神さんの境内に、立派な宝篋(ほうきょう)印塔が建っています。また、海老手城落城の時に、垣屋勢に捕らえられた十六人の武士は、打ち首にされた後、城下の森津畷にさらし首にされました。後々までこの畷を「十六畷」といったそうです。

野田合戦の様子は軍記物に記されているばかりですが、1575年 (天正3年)、八木城主、八木豊信が但馬の情勢を吉川元春に報告している中で、「田結庄において、垣駿(垣屋駿河守豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれをもたれ候、御気遣い有るべからず候」と記されており、その事実は裏付けられています。

この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野~竹田城)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保しました。

鶴城(愛宕山城・宝城山城)


登山口(豊岡市船町)


史跡 鶴城跡 豊岡市指定文化財

鶴城は南北朝から戦国期にかけて円山川下流域に勢力をふるい、山名四天王のひとりに数えられた国人・田結庄氏の居城。伝承では、永享年間(1429~1441)の但馬守護・山名持豊(宗全)による築城であるという。天正3年(1575)10月に起こった野田合戦で轟城主・垣屋豊継らに攻められ、城主・田結庄是義は、菩提寺の(旧)正福寺で自害した。その後天正8年(1580)まで垣屋豊継の支配するところとなった。
但馬山名氏が衰えたあと、垣屋豊継は宵田城から城崎(木崎)城に入った垣屋氏と組んで「但馬一円を知行」したとされ、天正8(1580)年、但馬を征服した豊臣方の宮部善祥房がまず鶴城に入ったのは、但馬支配者の城だったからと説く向きもあります。


愛宕神社鳥居

郭の跡に愛宕神社が鎮座している。
城域は、標高107mの愛宕山上に、城域は南北660m、東西460mの大規模なもので、よってふさわしい規模と縄張りを有し、但馬でも有数の城郭。


愛宕神社・宝城寺跡

元和5(1629)年、城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として宝城寺が置かれ、豊岡城下の辰巳にあって歴代領主家の祈願所となった。明治以降、宝城寺は廃され、代わって愛宕神社が置かれた。
(豊岡市教育委員会)


城跡から豊岡市街・円山川上流域の日高町方面を望むを望む

縄張

鶴の後尾部にあたる主郭の背後を二段の堀切で切断して城域を確保し、北西方向には土塁を多用した曲輪を配置し、南西方向には大きい曲輪を配している。愛宕神社南側の登山道になっている尾根には小曲輪を多用し、土塁と堅堀で防御している。特徴的なのは、主郭の北側と東側斜面には戦国期特有の畝状堅堀を設けて防御を堅固なものにしていることである。

【資料:兵庫県大辞典など】

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【但馬の城ものがたり】(26) 太田垣氏(2) 応仁の乱と太田垣氏

戦国時代(1467~1568)、但馬の守護大名である山名氏の中でも、親と子、主君と家来同士の間で、血なまぐさい合戦があちこちで行われています。

応仁の乱ののち山名の勢力は急速に衰え、国内にも分裂が起こり、文明十三年(1481)九月にはいったん但馬に引き上げます。また但馬のほか備後・美作・播磨・因幡の守護を兼ねておりましたが、しだいに備後・美作・播磨から撤退していきました。

応仁の乱と太田垣氏

太田垣光景が竹田城の守備を山名持豊(宗全)から命じられて以後、但馬国の播磨・丹波からの入口に位置する竹田城が太田垣氏代々の居城となりました。

応仁元年(1467)、「応仁の乱」が勃発すると、西軍の大将となった山名持豊(宗全)に従って太田垣氏も出陣しました。応仁二年三月、竹田城の太田垣土佐守・宗朝父子は京都西陣の山名の西軍に参軍し、太田垣宗朝(むねとも)の弟新兵衛(宗近?)を留守将として竹田城を守らせていましたが、その守備は手薄でした。しかも、山名方の垣屋・八木・田結庄氏らも京都に参陣し、山名の領地である但馬国は、東軍の丹波守護細川氏や播磨の赤松氏にとって、侵攻するのに好都合な状態でした。

そして、長九郎左衛門や、細川氏の重臣で丹波守護代の内藤孫四郎を大将とする足立・芦田・夜久等の丹波勢が但馬に乱入したのです。かくして、細川方は、一品・粟鹿・磯部(いずれも朝来市山東町)へ攻め入りました。この時、竹田城留守将太田垣新兵衛は、楽音寺に陣を取っていましたが、一品に攻め入った敵は葉武者と見抜いて、これにかまわず磯部へ兵を進めました。細川方の内藤軍は東河(朝来市和田山町)を進発し、かれらが民家を焼き払った煙が山の峰から尾に立ちのぼっていました。それを見た太田垣軍は夜久野の小倉の氏神賀茂宮の山に立って眺めると、内藤軍が魚鱗の陣形に布陣しているのが見えました。

その大軍に対して、小勢の太田垣新兵衛を大将とする山名方の諸将は、一瞬、攻めかかることを躊躇しました。しかし、大将太田垣新兵衛・行木山城守らは陣頭に立って、鉾先をそろえて打ってかかりました。その勇猛果敢な突撃に内藤軍が陣を乱したところを、太田垣軍はさらに襲いかかりました。

敵将内藤孫四郎・長九郎左衛門らも踏み止まって奮戦しましたが、討死してしまいました。大将が討死したことで、夜久野の細川方の軍勢は散り散りになり、東河へ攻め入っていた者らも、我先にと敗走しました。さらに、粟鹿・一品に攻め入った者達もこれを見てたまらず逃げ失せてしまいました。山名方の大勝利でした。これを世に「夜久野の合戦」と呼ばれています。

合戦に勝利を得た太田垣新兵衛は、勝報を京都西陣の山名宗全へ注進したところ、宗全は大変感激して、身に着けていた具足に御賀丸という太刀を添えて太田垣新兵衛に与えました。この太刀は宗全が足利義満より下賜された宝刀であり、新兵衛は大いに面目をほどこしたのでした。応仁の乱以後も、太田垣氏は山名氏に仕え、垣屋・八木・田結庄氏らと並んで山名四天王と呼ばれる存在となり、但馬の勢力を培っていきました。

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【但馬の歴史】(24) 日下部氏流(3) 八木氏

八木氏


三つ盛木瓜/九曜
(日下部氏朝倉氏族 右:見聞諸家紋にみえる八木氏の横木瓜紋)
武家家伝

八木氏は、開化天皇の子孫とされる但馬の表米王から数代のち、古族日下部氏から出て養父郡朝倉庄に城を築いた朝倉高清の次男安高(一説に孫)が、但馬国養父郡八木を領して八木氏を称したのが始まりとされています。すなわち、朝倉信高の兄弟である八木新大夫安高、小佐(養父市八鹿町)次郎太郎、土田(はんだ:朝来市和田山町)、三郎大夫らが新補地頭や公文に任じられ、それぞれ地名を名字として但馬各地に割拠したのです。
日下部氏の嫡流は朝倉氏であったようですが、承久の乱において朝倉信高は京方に味方して勢力を失い、朝倉氏の庶流が越前に住み、一乗谷にて守護代に成長しました。但馬では朝倉氏に代わって鎌倉方に味方した八木氏が勢力を拡大しました。以後、同地の豪族として成長し、南北朝期には但馬守護山名氏の配下となり国老四家(山名四天王)のひとつと呼ばれました。 見聞諸家紋をみると「横木瓜紋」が日下氏の注記をもって八木氏、太田垣氏の家紋として収録されています。

八木庄は朝倉庄から数キロ西に位置します。八木城は平安時代末期の康平六年(1063)頃、閉井四郎頼国が源義家から但馬国を与えられ、この地に築城したのが始まりとされています。その後、鎌倉時代初頭の建久五年(1194)に朝倉高清が源頼朝から但馬国を与えられ、八木から東へ約 4.7キロメートル離れた朝倉に城を築きました。やがて、閉井氏と朝倉氏が対立し、朝倉氏が閉井氏を滅ぼします。その後、朝倉高清は第二子の重清を八木城に入れ、八木氏を名乗らせました。以後、八木氏は十五代三百余年にわたって同地に勢力を振るいました。 家系図の壬生本系図によると、宗高の孫、高景の弟、安高が八木に移り、八木氏を名乗りました。安高の弟、信高が浅倉氏を継いでいますが定かではありません。庶家に但馬国では太田垣、養父、小和田、軽部、宿南、奈佐、田公、阿波賀等があり但馬国最大一門となります(壬生本系図)。  信高の三男八木三郎高吉の子に、宿南氏の祖、宿南三郎左衛門能直、寺木七郎高茂、田公八郎右衛門尉高時です。

八木氏は幕府との関係強化につとめ、四代高家は執権北条貞時に、つぎの泰家は北条高時、「元弘の争乱」で幕府が滅亡してのちは将軍足利尊氏に従いました。そして、泰家の子重家は、但馬国守護の山名時氏および時義の重臣として活躍したといいます。しかし、南北朝期から室町時代における八木氏の消息は皆目といっていいほど分からない、というのが実状です。

たとえば、南北朝期、八木荘の隣郷の小佐荘にいた但馬伊達氏の文書のなかにも八木氏は出てきません。ただし、系図だけはしっかりしたものを残しています。同系図は『寛政重修諸家譜』が編集されたとき、八木勘十郎宗直が提出したもので、これには『但馬太田文』に記載されている八木姓の地頭・公文たちの名がすべて載っていて、系譜上の位置も矛盾がないそうです。
八木氏に関する系図以外の史料では、わずかに宗頼・遠秀に関する事蹟がしたためられている「八木遠秀絶筆歌後序」ぐらいです。とはいえ、八木氏は養父郡八木庄に本貫を置き、南北朝初期、山名氏が但馬守護に補せられたのち、その被官となったようです。

風流の武士 八木宗頼


八木城趾/養父市今滝

八木氏の名が史上に現れるのは八木宗頼の代で、室町時代の宝徳(1449)のころから、文明十六年(1484)までの三十五年間です。宗頼は文学も親しむ武人で、毎年正月には漢詩をつくるのを例にしていたといわされています。寛正六年(1465)三月、将軍足利義政臨席の洛北大原野の花見盛会に、主君山名宗全とともに招かれたことが知らされています。また、応仁の乱後に、いわゆる五山僧との間でやりとりされた漢詩に関する史料も残っています。

文明十二年(1480)ごろ、主君山名政豊が京都から但馬へ下国したのに従い、同十三年には一時的に但馬守護代となっており、一方、大徳寺の春浦宗熈との交流があったことから、春浦について参禅していたらしい。但馬在国中の宗頼は春浦に詩を寄せ、その詩によると居所に高楼二宇を築造して、宋代の隠者林通にちなむと思われる「月色」「暗香」の字を選んで扁額にしていたことがうかがわされています。このように八木宗頼は、和歌・連歌、そして漢詩のいわゆる和漢に造詣をもった風流の士だったのです。

文明十五年(1483)十二月、山名政豊の軍勢が播磨と但馬の国境真弓峠で、赤松政則の軍を破り南下しました。翌年二月、播磨野口の合戦において、宗頼は北野神像すなわち菅原道真の像を見つけだしました。像を得た宗頼は大いに喜び、相国寺の横川景三に賛辞を求め、子孫に伝えて敬神の範にしようとしたと伝えています。

宗頼の卒去については不明ですが、文明十六年以降、その存在を記す史料が見当たらないこと、のち山名と赤松の争いが激化し、延徳から明応のころ(1489~1500)になると子の豊賀が史料に現れてくる。おそらく、その間の数年のうちに宗頼は亡くなったものと思わされています。

八木氏歴代のなかで、とくに宗頼に史料が多く見られるのは、かれの教養が高く和漢に対する造詣も深く、交流をもつ人々に風流な公家や僧侶がいたからであろう。しかし、かれの作った作品が多かったにもかかわらず、その筆跡が伝わっていないのは残念なことです。

但馬争乱と八木氏

因幡と但馬のあいだを結ぶ山陰道が通じる養父郡は、重要な要衝です。その養父郡を統治していた八木宗頼には長男遠秀を頭に四人の男子がありました。遠秀は山名持豊に仕え、「忠にして孝、武にして文、修斎治平の才」に恵まれた武士でしたが、文明元年(1469)六月、二十七歳で早世しました。そして、宗頼のあと八木氏を継いだのは豊賀でした。延徳三年(1491)八月、山名俊豊が上洛したとき、従した武士に八木氏が見られますが、豊賀であったと思わされています。

豊賀も早世したようで、その弟で三男貞直が家督を継ぎました。貞直は、兄豊賀の生存中は僧門にあったようで、その卒去により還俗して、八木氏の家督を継いだようです。明応六年(1497)に小佐郷内の田一反を妙見日光院へ寄進していることが史料に残されています。
四男が宗世で、一説によれば、この宗世が宗頼の家督を継いだともいい、惣領が名乗る受領名但馬守を称しています。しかし、その息子誠頼は八木氏の家督を継ぐことはかなわなかったらしく、八木氏の家督は誠頼の従兄弟にあたる直宗(直信?)が継いだようで、直宗が但馬守を称しています。
戦国時代の永正九年(1512)、八木豊信は垣屋・太田垣・田結庄ら但馬の有力国人衆と謀って山名致豊に離叛し、山名誠豊を擁しました。以後、八木豊信と垣屋光成・太田垣輝延・田結庄是義らが但馬を四分割するようになりました。

国道9号線但馬トンネルを出て左に、頂上が平らになった山が見えます。大谷川と大野川に挟まれたこの山に中山城の跡があります。本丸、二の丸、三の丸を堀割で区切り、石垣を積み、規模は小さいですが整った城で、堀切も十㍍に及ぶものが数カ所も残っています。

鎌倉時代には菟束(うづか)氏が、南北朝のころは上野氏の城となり、のち八木氏の支城となり天正五年(1577)秀吉の山陰攻めによって落城し、因幡の国に逃げたのですが、用瀬(もちがせ)の戦いで滅んだそうです。立派な城にしては残っている話が少ない城のひとつです。

出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
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