【但馬の城ものがたり】 山名四天王 田結庄氏と鶴城

参考略系図

称田結庄氏
越中次郎兵衛   宮井太郎兵衛尉
桓武天皇━葛原親王・・・平 盛嗣(盛継)━━盛長━━━━━盛重━━盛行━┓

┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃          鶴城主
┃      左近将監          左近将監1642没
┗━盛親━━盛敏━国盛━━重嗣・・・是義━━━━盛延

田結庄氏の祖とされる越中次郎兵衛盛嗣については、他に記しましたのでご覧戴き、その子の盛長は一命をとりとめて城崎郡田結荘(豊岡市港地区)に住み田結庄氏を称したといいます。盛長はその後、奈佐郷宮井(豊岡市宮井)に移り住み、宮井太郎兵衛尉盛長と称し、その後、桶爪荘(奈佐谷)へ、そして二方郡大庭郷伊含浦(浜坂)へ移っています。『但馬国太田文』にも、同郷公文職、大庭郷下司職を有していたことが知られます。その後、盛長の子盛行が再び田結庄に帰り、田結庄に復したといいます(七美郡誌)。

戦国末期には、左近将監国盛は但馬守護山名時熙に仕え、山名四天王の一人に数えられる重臣となりました。子重嗣は山名持豊に従って赤松満祐の「嘉吉の乱(1441)」に際して播磨国に出陣したと伝えられますが、それを裏付ける史料はないようです。

「応仁の乱(1467)」以前の但馬で守護山名氏に従う諸将としては、垣屋(桓武平氏土屋流)・太田垣(但馬豪族日下部氏流)・八木(但馬豪族日下部氏流朝倉系)・田結庄(越中平氏系)の四天王に加えて、塩冶(えんや)・篠部・長(ちょう)、奈佐、上山・下津屋・西村・赤木・三方・三宅・藤井・橋本・家木・朝倉・宿南・田公などの諸氏が数えられています。

山名四天王・田結庄是義

田結庄氏で明確な裏付けを得るのは、戦国末期の左近将監是義(これよし)です。父・右近将監は垣屋氏の出である。子は田結庄盛延。是義は愛宕山((宝城山)豊岡市六地蔵・山本)に鶴城を築いて居城とし城崎郡を領し、太田垣輝延(朝来郡)、八木豊信(養父郡)、垣屋光成(気多郡)らと但馬を四分して勢力を広げました。神武山の亀城に対して鶴城と呼びます。山名氏の有子山(出石)城下に田結庄という町名が残っているのは田結庄氏の屋敷があったのが由来とされています。

平安時代に成立した「和名抄」に城崎郡内に新田、城崎、三江、奈佐、田結の5郷が記されており、田結郷は 気比庄(湯島、桃島、気比、田結、瀬戸、津居山、小島)、灘庄(今津、来日、上山、ひのそ)、下鶴井庄(三原、畑上、結、楽々浦、戸島、飯谷、赤石、下鶴井)、大浜庄(江野、伊賀谷、新堂、滝、森津)からなっています。下鶴井庄は円山川右岸の田結郷南端であり、山名氏の本拠地である九日市守護所や此隅山城に最も近い愛宕山に城を築いたのも納得できます。

やがて、但馬に伯耆・出雲の尼子氏[*2]が勢力を伸ばしてくると是義は尼子氏に味方しました。是義の父は垣屋氏の出なので、垣屋氏とは親戚ですが仲が悪かったのです。それは、是義が垣屋氏勢力範囲である美含郡(竹野・香住)の併合を狙っていたからだといわれています。

永禄12年(1569年)、織田信長の家臣・羽柴秀吉(豊臣秀吉)の侵攻(第一次但馬征伐)を受けます。この侵攻を受けて祐豊は領国を追われて和泉堺に逃亡しました。しかし、堺の豪商・今井宗久の仲介もあって、祐豊は信長に臣従することで一命を助けられ、元亀元年(1570年)に領地に復帰しています。その後は同じく信長と手を結んでいた尼子勝久や山中鹿介らと協力して毛利輝元と戦いました。元亀3年(1572年)には宿敵である武田高信を山中鹿介と共に討ち取っています。

その後、織田信長の天下統一の過程で但馬は、織田党(山名祐豊・田結庄)と毛利党(垣屋・八木・太田垣)に分かれました。田結庄是義は織田党色を鮮明にし、竹野轟城主垣屋豊続との対立が熾烈化しました。元亀元年(1570年)毛利党色を示していた楽々前城主 垣屋続成(つぐなり)を奇襲により殺害することになります。

しかしその後、山名祐豊は天正三年(1575)春、突如として毛利氏と和睦を結んで織田氏を裏切ってしまう。これに怒った信長は、秀吉に再度の侵攻を命じました。

野田合戦と田結庄氏の没落

織田方=田結庄氏と毛利方=垣屋氏との間で、代理戦争ともいわれる野田合戦が起きます。
天正三年(1575)六月十三日、長谷村(豊岡市長谷)で、カキツバタ見物の宴会が行われている時、楽々前城主(日高町佐田)、垣屋続成(みつなり=光重・隆充)の家来が鉄砲で鳥を撃っておりますと、その弾が酒盛りをしていた田結庄是義の幕の中に落ちました。是義は大そう怒って、その垣屋の家来を召し捕らえて殺してしまいました。このことがあって、光成は是義を征伐しようと時期を狙っていました。

その年の秋、10月15日、垣屋播磨守続成(光重・隆充)は、同族(親類)の垣屋駿河守豊続(亀城主、後の豊岡城)の応援を受けて、田結庄是義の出城である海老手城(豊岡市新堂、栃江、宮井境界標高215mの山上)を垣屋続成・長(ちょう)越前守らが略取します。是義の属将・海老手城主、栗坂主水は養寿院(豊岡市岩井、後の養源寺)に、お参りして留守でした。したがって城はわけなく落とされてしまいました。垣屋勢は勢いに乗って、養寿院を焼き払い、田結庄方の宮井城(豊岡市宮井)にも攻め寄せてきました。

危ないところで逃げ延びた栗坂主水は、すぐに鶴城に行き、是義に事の次第を話すと、是義は大いに驚き、「ただちに、海老手城を取り返せ」と、一門の将兵五百人を集めて、海老手城に向かいました。家老の上山平左衛門、その子平蔵が垣屋豊続の軍五百人に阻止されて、野田(豊岡市宮島付近)の沼田での大野戦となり戦死してしまいました。この戦いを「野田合戦」といっています。

野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけでなかったのですが、置いた小田井神社は焼き払われました。また宮井城主の篠部伊賀守は、田結庄の旗色が悪いとみて、垣屋駿河守の軍に降参してしまいました。繰り出した垣屋の別働隊の追撃もあって、田結庄軍のうち鶴城下に帰着した者はわずか十六名であったといいます。

このようにして追いつめられた田結庄是義は、「今はこれまで」と家来とともに、ひそかに菩提寺正福寺(豊岡市日撫)にて自害し、没落していったといわれています。このとき、天正三年(1575)十月十七日と書かれています。

いま、愛宕山の南側の麓に静かに建っている宝篋(ほうきょう)印塔が是義の墓と伝えられています。
また、海老手城主、栗坂主水は、お坊さんとなり、諸国を修行した後、海老手城下の村(滝・森津・新堂あたり)で余生を送り、自分の死が近づいたことが分かると、墓の穴の正座して、鐘を打ちつつ死んでいったと伝えられています。新堂の氏神さんの境内に、立派な宝篋(ほうきょう)印塔が建っています。また、海老手城落城の時に、垣屋勢に捕らえられた十六人の武士は、打ち首にされた後、城下の森津畷にさらし首にされました。後々までこの畷を「十六畷」といったそうです。

野田合戦の様子は軍記物に記されているばかりですが、1575年 (天正3年)、八木城主、八木豊信が但馬の情勢を吉川元春に報告している中で、「田結庄において、垣駿(垣屋駿河守豊続)一戦に及ばれ、勝利を得られ候間、海老手の城今に異儀無くこれをもたれ候、御気遣い有るべからず候」と記されており、その事実は裏付けられています。

この合戦によって垣屋豊続は但馬を完全に毛利党に統一し、毛利氏の対織田防御ライン(竹野~竹田城)を構成する繋ぎの城として、鶴城・海老手城の両城を確保しました。

鶴城(愛宕山城・宝城山城)


登山口(豊岡市船町)


史跡 鶴城跡 豊岡市指定文化財

鶴城は南北朝から戦国期にかけて円山川下流域に勢力をふるい、山名四天王のひとりに数えられた国人・田結庄氏の居城。伝承では、永享年間(1429~1441)の但馬守護・山名持豊(宗全)による築城であるという。天正3年(1575)10月に起こった野田合戦で轟城主・垣屋豊継らに攻められ、城主・田結庄是義は、菩提寺の(旧)正福寺で自害した。その後天正8年(1580)まで垣屋豊継の支配するところとなった。
但馬山名氏が衰えたあと、垣屋豊継は宵田城から城崎(木崎)城に入った垣屋氏と組んで「但馬一円を知行」したとされ、天正8(1580)年、但馬を征服した豊臣方の宮部善祥房がまず鶴城に入ったのは、但馬支配者の城だったからと説く向きもあります。


愛宕神社鳥居

郭の跡に愛宕神社が鎮座している。
城域は、標高107mの愛宕山上に、城域は南北660m、東西460mの大規模なもので、よってふさわしい規模と縄張りを有し、但馬でも有数の城郭。


愛宕神社・宝城寺跡

元和5(1629)年、城跡に愛宕大権現を勧請、別当寺として宝城寺が置かれ、豊岡城下の辰巳にあって歴代領主家の祈願所となった。明治以降、宝城寺は廃され、代わって愛宕神社が置かれた。
(豊岡市教育委員会)


城跡から豊岡市街・円山川上流域の日高町方面を望むを望む

縄張

鶴の後尾部にあたる主郭の背後を二段の堀切で切断して城域を確保し、北西方向には土塁を多用した曲輪を配置し、南西方向には大きい曲輪を配している。愛宕神社南側の登山道になっている尾根には小曲輪を多用し、土塁と堅堀で防御している。特徴的なのは、主郭の北側と東側斜面には戦国期特有の畝状堅堀を設けて防御を堅固なものにしていることである。

【資料:兵庫県大辞典など】

「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会
武家列伝
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「【但馬の城ものがたり】 山名四天王 田結庄氏と鶴城」への1件のフィードバック

  1. きれいなページですね。ただ、次の個所に文の(語句の)もれがあるようです。
    「野田は湿地帯のため、足中(小さなわらじ)をつけた垣屋勢に分があっただけで
    なかったのですが、置いた小田井神社は焼き払われました。」

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