千石の米を食べた千石岩
竹田城は三百㍍もある山上に築かれています。こんな高いところにどうして城をつくったのでしょうか。今のように機械の力があっても並大抵のことではないのに、人の肩と手と足をただ一つの頼りとした五百年も昔では、考えることもできない大変なことだったのでしょう。
竹田の町はいうまでもなく、但馬の国中から、遠いところでは鳥取や岡山あたりからも、築城のために多くの町人や百姓が駆り出されて十三年もの間、明けても暮れても労役として使われました。あまりの苦しさにこの十三年間に、村中みんな夜逃げをするところも多く、驚いた築城奉行は、「夜逃げをする者は一家一族死罪にする。」というふれ札を立てました。このふれ札は今でも残っています。この話一つでも、城を築くために町人や百姓がどんな苦労をしたかわかるようです。
また竹田の町でも広くてよく米がとれるので、加都千石と呼ばれましたが、加都の畑に松の木が生えて田は荒れてしまうという、想像もできないような話も残っていて、築城の大変な有様が目に見えるようです。
ところで、竹田城の北側の門をつくるために、とても大きな石がいることになり、竹田河原に手頃な石が見つかったので、これを山に上に引き上げることになりました。
ろくろをはじめ、その時代にあったありとあらゆる道具を利用し、大変な数の人が毎日毎日汗を流して死にものぐるいで引き上げましたが、ようやく中腹まで運んだものの、それからは一ミリも動かなくなってしまいました。
ありとあらゆる力を振りしぼっても、全くだめでした。さすがの築城奉行も思いあまって、この石をその場にうち捨ててしまいました。そして、この石を河原から山の中ほどまで運ぶのに千石のお米を食べてしまったということです。いつしか人々はこの石を千石岩と名づけて、築城の苦しさをかたる話の種にしたよいうことです。
水源とみつばうつぎ
人間が生きていくためには、水はなくてはならない者ですが、300mもの山上に築かれた山城の竹田城に入る水は、どこからどうして求めたのでしょうか。
竹田城の西裏にある大路山の滝谷といいうところから、約2kmもの長い間を銅管を引いて城に水を送りました。ところが合戦のあった時、敵にこの水源を見つけられると、城は一日ももたないで落城してしまいます。水源を隠さなければなりません。城主は考えに考えたあげく、この滝谷に寺を建ててごまかしました。これを香華院千眼寺といいます。はじめは水源の無事を祈って千人の願いを封じこめたので千願寺と書いていましたが、いつの間にか千眼寺となりました。今でもここに寺があったあとがはっきり残っています。
もうひとつの謎が残されています。
「黄金千両 銀千両 城のまわりを七まわり また七まわり七もどり 三つ葉うつぎのその下の六三がやどの下にある。」
という不思議な歌が伝えられていますが、これはおそらく水源や銅管のあり場所を、暗号に伝えたものでしょう。のちの時代に欲の深い男が、これは城が落ちる時に、城の金や宝を隠した場所をいったものであろうというので、本気になって山の中をあちこち掘りまわって物笑いになったという話しもあります。しかし、城にとっては、黄金千両、銀千両に代えることのできない水源であり、銅管であったことは間違いありません。
雨乞いの神様三谷神社の由来
竹田城主太田垣宗寿(むねひさ)の時代のことです。
ある日突然、太田垣氏の主君である出石の山名氏から使いが竹田城にやってきました。上使をもてなすために、数々のご馳走が出され、城中の多くの女の人が給仕をしました。その中に絹巻という十七才になる美しくてかしこくやさしい娘がいました。上使は絹巻の様子を見込んで、出石の本城に連れて帰りたいと宗寿に頼みました。宗寿は絹巻を手放すことをかわいそうに思いましたが、主人に当たる出石城の使いの頼みであるので、仕方なく絹巻をいいふくめて出石に行くようにすすめました。
さて、その夜は大へんな嵐となり、夜が明けた城山の麓の三谷ヶ淵は昨夜の大雨に水かさを増し、ものすごい有様でした。そのにごり水の中に、絹巻の死体が浮かんでいるのを村の人が見つけました。かわいそうに絹巻は、永年住み慣れた竹田城を離れたくはなかったのですが、主人宗寿の命令にそむくわけにもいかず、考えにあまってこの淵に身を投げたのでした。これを聞いた人々は絹巻きを憐れんで、小さいほこらを造りその霊をとむらいました。そして、いつしかこのほこらを三谷神社と呼ぶようになったのです。
さてその後、この淵に時おり白い蛇が姿を見せるようになりました。ところがある夏のこと、近年にない大日照りで百姓たちは困り果て、この三谷ヶ淵に水を取りに集まりました。水を取ろうとすると、どうしたことか、かんかんでりの青空は急に黒雲となったかと思うと、立ってもいられないほどの大雨となり、村人たちは、これは絹巻の変身である白蛇様が、滝壺の水がなくなって自分の姿を見られると恥ずかしく思い、大雨を降らしたのだと喜ぶとともに、さらに絹巻の霊を厚くとむらったということです。
それからは、この三谷神社は雨乞いの神様として、村人から信心され、大切にされたのです。
武士の恩がえしとつくし
天正九年(1581)のことです。播磨赤松氏の律師光影が二人の家来を連れて竹田城に乗り込んできました。
城主は五代目太田垣朝延でした。軍使は朝延に、ただちに赤松氏に降参し城を明け渡すようにと迫りました。これを聞いた朝延は怒って、軍使三人を大路山滝谷ヶ原で切り捨ててしまったのです。ここで、赤松氏と太田垣氏の戦いの火蓋が切られたのです。
その後何年か経ったとき、村人たちはこの切られた三人の侍の霊を慰めるために、三体の石地蔵をつくって、手厚く祭りました。ところが妙なことに、この滝谷ヶ原付近は、昔からつくしが一本も生えない土地であったのに、このことがあったあくる春からこの地蔵堂の付近だけ、つくしがたくさん生え、村人たちを驚かせました。
これは地蔵様のお陰であるとともに、霊をとむらった武士の恩がえしであろうと、それからのち、毎年春の一日を村人たちは、つくし取りに楽しむようになりました。
庵主を救った人食い地蔵
城が落ちた時、裏山づたいに密かに逃れ出た一人の若い女がありました。
敵の目をかすめてようやく辿り着いたのは、城からさして遠くもない久留引の村でした。助けを求められた村人たちは哀れに思い、かくまうとともに、小さい庵を建てて堂守にしました。この庵主となった女は、明けても暮れても、戦死した竹田城の勇士の霊をとむらって仏に仕えていました。また、何くれと村人たちの世話をするので、立派な尼さんだと大へん大事にされました。
ある夜、賊がこの庵を襲った時のことです。庵主に斬りつけた賊の刀が、門前にまつられていた石地蔵に当たり、庵主は危ないところを逃れることができました。そしてその拍子に倒れた地蔵様の下敷きになって、賊はついに死んでしまったのです。まさに仏ばちがあったわけです。その後、村人たちはこの地蔵様を人食い地蔵と呼ぶようになりました。
どういうわけかと土地の物知りに聞くと、庵主が一生懸命に仏様に仕えたので、地蔵様が身代わりになられたことをある名高い坊さんが聞かれて、施徳地蔵といわれたのを、いつしか人食い地蔵となまっていうようになったのだとのことでした。
出典: 「郷土の城ものがたり-但馬編」兵庫県学校厚生会